レジ待ちはなぜストレスなのか、というと、やはり割り込まれたくないからであろう。割り込みという侮辱行為を受けないように警戒することがストレスなのである。自分の顔に泥が塗られないか畏怖している。割り込まれるとメンツが丸つぶれなのであり、これは待ち時間の問題ではない。たとえば開かずの踏切で5分10分待たされることがあるとして、これはレジ待ちと似ているがやや違う。開かずの踏切はメンツの問題ではないが、レジ待ちはメンツの問題である。最近話題になるあおり運転も、実はその前にメンツを潰す行為があるという。あおり運転の被害者にヒアリングすると、加害者の憤激に心当たりがあることが多いというのだ。相手の進路を塞いだ(もしくは意図せず塞いでしまった)、あるいは割り込んだ(もしくは意図せず割り込んでしまった)という因縁があり、それへの報復なのである。われわれ人間の歴史は3次元空間で陣地を奪い合うゲームであり、割り込むというのはそのゲームの1ターンとしての攻撃である。肉体そのものが幅や面積を持った存在であるから、ひとつの座標に一人という排他性があり、自分が求める座標に他人がいるなら諦めるか排除するかである。空間を占拠する戦いを、文明の端緒から、もしくはそれ以前から生物として行っているのだから、失笑して済む話でもない。空間が無限にあるとしても、誰もいない場所に住むことはできないから、他人と共存せざるを得ないし、奪い合いが発生する。たとえばインターネット空間に面積はないが、誰もいない場所に価値はないと言えるし、発生した場においてのトラブルは多々ある。人間が住んでいない場所にスーパーマーケットはないし、レジ待ちもありえない。終の棲家として誰もいない深山幽谷の地に住むことはできるがそれは死の準備であるし、つまりわれわれが生物として生殖するなら、やむなく他人と共存するしかなく、そこで割り込みとか、主人と奴隷の支配関係とか、そういうことになる。他人の生々しい体臭にうんざりしながら生活するしかないのである。お互いの体が臭いと言えばそれまでだが、ともかくそういうことだ。当然ながら、レジ待ちは、土地の奪い合いや支配関係とは話が違うのだが、ごっことしては同じである。金持ち喧嘩せずという心境でいれば、割り込まれたところで実害はないので看過する。人間関係においては「なめられたら終わり」というのがあるが、レジ待ちは人間関係ではないので「ここで勝っても仕方がない」という現実はあり、たまたま割り込んできた人間に負けても人生にデメリットはない。だから、負けるが勝ちという心境になれる余裕があるかどうかである。われわれはゼロサムゲームを生きているので余裕がない人が多いから、どうしても報復を考えるし、いわば憂さ晴らしとして実行する人もいるのだろう。レジ待ちで喧嘩する人はさほどいなくても、あおり運転だとそれがやりやすいのであろうし、やはり割り込みこそが人間の歴史の根本であるから気をつけねばならない。
コロナ禍はトンネルの最後の方に来ているとは思うが、近日中に脱出という具合ではないので、われわれはもう少し囚人でいなければならない。その囚人が短絡的な自尊心の回復のために立ち上がる悲喜劇が繰り返されているが、これは現状の暗雲立ち込める惨禍の一幕として似つかわしいにしても、まったく美しくないものである。島田紳助の枕を断ったら干されたとか、つまり枕は断ったのだから、被害としては未遂だと思うのだが、やはりコロナの現状だと、そのせいで自分の現在が辛いという解釈が起こりうる。わたしは件の女性タレントについては存在そのものを知らなかったのだが、テレビに出ている人の大半は、なぜその場にいるのかわかりづらいし、本当の意味での需要がないから、実需とは別の原理があるのだろう。島田紳助とか出川哲朗のせいでテレビに出られなくなったという一種の誤解が正解となりうるのである。枕を断って仕事がなくなっても、それは泡沫のような浮世稼業を拒否する潔い態度のはずである。需要がないのに枕でテレビに出てちやほやされる人がいたとしても、それは羨むべきことではない。悪魔に魂を売り渡して下駄を履かせてもらうよりは、身の丈を認めたほうが真っ当である。コロナだとその身の丈を測る現実が崩壊しており、自らが不当に疎んじられているという被害者意識が募りやすい。人間に対する需要の無さという不安が蔓延しており、わざわざ包帯を外して、その膿んだ状態を見せあう。コロナ状態であると、誰もが難民のような具合であり、自らが見捨てられたという話への共感を得やすい。普段から見捨てられている人と、コロナで見捨てられた人では次元が違うはずだが、この監獄では無機質な囚人番号でしか呼ばれない平等性があるので、既存の垣根が取り払われている。われわれは今こそ人間としての姿を維持しなければならない。現状は誰もが死地に赴くかのようだが、決して死んだわけではないし、いずれその蒼白い顔に血色を取り戻すべく人間の形をしていなければならない。瘴気が消え去り監獄から出れば、囚人服を脱いで装いを新たにし、人間を人間たらしめている遠近法が回復し、それぞれの目鼻立ちがはっきりしてくる。
2021.04.01

怠け癖と虐待

親がきちんとしていて、自然に子どもがきちんとしているというのが望ましいが、世の中そううまくはいかない。怠けて他人に押し付けるという怠惰の競争が発生することがある。怠けるというのは、本人の問題だけではなく、頑張ると仕事が増えてしまうという環境の悪さへの適応でもある。率先して頑張る人に仕事が集中するのでは、怠けたほうがいいことにもなる。一種のチキンレースである。誰が雑用をするかという集団生活の基本的なテーマは永遠の悩みである。まずは、頑張ると仕事が増えて損するというモラル崩壊を生まない環境づくりが必要である。経済社会では仕事が増えると収入が増える仕組みは可能である。他人の倍の仕事をしても給料が変わらない事態も発生しうるが、これは制度的な改善の余地がある。家庭や学校では身内で役割分担することになるから話が違う。育ちのよい人が集まる家庭や学校なら、それぞれが率先してやる環境なのだろうが、世の中そういう人ばかりではない。であるから環境が悪いと、徹底してサボって他人にやらせる方向になってしまう。たとえば有村悠さん(41歳)は、鬱で寝込んでいて持続化給付金をもらったそうである。これなどはまさに底辺へ堕落する競争で給付金を勝ち取ったわけだが、実は失っているものの方が大きいという好個の事例であろう。有村悠さんは虐待被害の妄想を抱いているが、生死が危ぶまれるような虐待の被害にあったというのではなく、それぞれが率先して物事を改善していく家庭環境ではなかったのである。さきほどから「率先して」という言い回しを繰り返しているが、これはつまり、誰かがやらなければならないような雑用があるとして、それを他人に押し付けず、自ら進んで片付けようという姿勢である。他人が捨てたゴミを拾いたくないという意地は誰にでもありうるが、たいしてしんどくないので、育ちのいい人は自分で拾って片付けてしまう。北風と太陽のような話でもあるが、劣悪な環境においては、他人が捨てたゴミを拾うと、そのままゴミ当番を押し付けられるリスクがある。「あのゴミも拾ってこい」と言われて仕事が増えてしまう。そういう陋劣さが蔓延する環境においては、お互いに怠惰を競い合い「こいつは人の言うことを聞かない」という批判的感情が募る。では言うことを聞かせるためにどうするかというと他人の奴隷化であり、虐待である。怠けるのはよくないという単純な話ではなく、仕事をしてしまうと仕事をさらに押し付けられるという人類の業病があり、だから怠けておかないとまずいというのがあり、そのお互いの堕落に不満を抱き殺伐とするのである。
小中高生の自殺が四割増しになって過去最多を記録したわけである。ちなみに小中高生の自殺は二十年くらい前から増加傾向にあり、少子化なので数が少ないように見えるだけである。コロナがなくても、昭和の頃より自殺率は増えている。なぜか世間の反応として、絶対に自殺するなというのは少なくて、「死にたくなるのはわかる」という共感が目立っている。コロナにおいて病死が増えたわけではなく、自殺者が増えただけという皮肉な問題がある。ひとびとは高齢者の大往生を願いつつ、若者は安楽死したほうがいいという変な話なのである。ここに悪意があるとは思わないし、いっそ死ねば楽になれるという現役世代のニヒリズムの反映でもある。急激に社会が暗転したというよりは、危うい綱渡りからとうとう転げ落ちたという印象を受ける。ひとびとが高齢者の大往生を望むのも、訴訟社会に毒されているからであり、たとえば老人が転倒して骨折したら、まずは誰かの管理責任を問うことを考える。やはり老人はちょっとしたことで命を落とすので、なにかのはずみというのが恐ろしい。高齢者が死ぬという自然の摂理に対して、遺族は責任を誰かになすりつける。死にかけの老人という当たり屋が屹立する世界で、特にこのコロナ禍においては、健康な若者は息を潜めて生きなければならないし、それこそ生きているのが罪深いような趣もあり、生命として疎んじられ、いっそ死んだほうがいいという社会的ニヒリズムがある。現役世代や中間層のニヒリズムはコロナ以前から強まっており、ここに来て本当に膿みだしている。普通に生きていると軽んじられ無価値な存在として扱われるのに、死んだ瞬間から弁護士が出てきてその生命の尊さを説くのである。われわれは生きていると債務者であり、死んだら債権者になる。普通に生きている中間層の価値を弁護士は説いてくれないので、極めて危険な説法である。若者の自殺に共鳴するのは本当の味方ではなく、ニヒリズムの押しつけである。生きていても仕方ないというニヒリズムは、生者である現役世代が生々しい生き証人として実感し説いているわけだが、そのような愚痴愚痴とした感情で未成年や若者の自殺を後押ししてはならない。大昔に比べればずいぶん便利な世の中になっているはずだが、いわば先進国の病というか、社会のインフラが整って快適になっているだけに、人間そのものの細かい粗が目につくというのがある。生きているだけでは失格らしいのだが、なぜか死にかけの痴呆老人は逆の扱いなので、ここはよく考えなければならない。生きていて高い値段が付く人はあまりいないが、死んだら値段が付くかもしれない。こういう当たり屋稼業の発想は克服したほうがいいが、克服することで素晴らしい人生になるわけもないので、なにか鬱々としているのである。
コロナになってから、大半の人の自尊心は低下している。そして、これは低いまま放置しておくしかない。決して自尊心を向上させようとしてはならない。それはドーピングだからである。コロナによる停滞は余暇ではなく軟禁であるからひとつも愉しくないが、それはそれで致し方ない。終身刑ではないから、社会が元に戻ったときの準備に励む方がよろしいし、短絡的に自尊心を回復しようというのは、まるで永遠にコロナが続くと錯覚しているかのようで、まったく賢くない。ずっと刑務所にいるのであれば、刑務所で出世することに腐心してもいいが、まったくそうではないので、出所後のことだけ考えればいい。さて、同性婚というのも、何かしら自尊心回復の手段になっている気配がある。あまりにもくだらない。そもそも結婚する意味がないのだから認めなくてよい。それに結婚自体が幸福だとは限らない、というより、幸福である人のほうが少ない。結婚したときはご祝儀相場というか、おめでとうおめでとうと言われるので承認願望が満たされるのかもしれないし、同性婚に対する期待もそこにあるように思われる。ゴミみたいな家庭の奴らだって、結婚したときだけは祝ってもらった。それだけである。考えれば考えるほど、なぜ結婚がおめでたいのか謎である。結婚を夢見ることもあるだろうから、その夢が叶ったことへの拍手とも言えるが、現実に結婚するとなれば理想の相手というよりはむしろ逆であろうから、やはり儀礼という側面が強い。シャンシャン総会のノリにも近いので、同性愛者がわざわざ結婚してどうするのかという疑問もある。なにか婚姻による制度的な恩恵を受けたいのかもしれないが、同性カップルを想定したわけでもあるまい。他人から承認されたいという人権活動家の要求は軽々しく認められるべきではないが、昨今の世情においては要求が強まっている。人間的活動が停滞し、元からいる暇人に加えて、新たに暇人に落魄した衆生も合わさり、不平不満が溢れかえっている。普段の活動が制限されているからこそ、世界の各所で人権活動が活発になっている。自尊心の低下は受け入れるしかないし、コロナが終わるまでは腹をくくるしかないが、心が弱ってくると創価学会が近づいてくるようなものなのだろう。試合をやってないのに野次が飛び交い、経済が動かないから補助金だけ動くというか、人権活動で優勝チームが決まったり混沌を極めている具合である。
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