このところわたしもはるかぜ関連は気が向いた時しか見てないので、気付くのに10日も掛かってしまったが、なんとツイッターを再開しているのである。
相変わらずナベプロには所属しているようだ。
三月で中学を卒業するわけだが、おそらくナベプロの学校に進学すると思われる。
これは正式な高校ではなく、高卒認定試験を取るための学校であると思う。
このタイミングで出てきたのは、ナベプロの学校の宣伝か何かと推察されるが、はっきりとはわからない。

はるかぜ(娘)は発達障害の疑いが濃厚であり、いわゆる悪人ではなくむしろ善良でさえあるが、わけのわからないトラブルは頻繁に起こすというタイプである。
たぶんこれからも奇行を繰り返すのであろう。
普通では絶対にナベプロに入れないレベルであるのは言うまでもないが、中川翔子と家庭環境の悪さで意気投合したので、こういう具合になったのである。
これからこの意識不明瞭なモンスターの身体や指が勝手に動いてネットで暴れ回る。
われわれに実害を及ぼすのかというと何とも言えないが、目の前で貧乏揺すりや鼻くそほじりを繰り返して奇声を上げているようなものであるから、これが神経を擾すのは言うまでもない。
衝動的で目立ちたがり屋なADHD特有の言動を個性と言い換えるために、暗渠で憂き身を窶すことに耐えられなくなって、地下から這い出てきたのである。
どっちみち寿命で死ぬのに、なぜその半ばで死ぬのがそんなに嫌なのかというのは疑問であるし、90歳とか長生きして老衰で死ぬのを賛美する理由も判然としないが、たぶん長寿は死を曖昧にするのである。高齢の老人が死んだ場合の葬式がわりと和気藹々としているのも、長寿を達成して見事に完結したという感じで捉えられているからである。死というタブーを遁れた安堵感なのである。ジミ・ヘンドリックスやカート・コバーンのように27歳で死ぬと駄目なのかというと、これはそうではあるまいし、90歳くらいまで生きるのが凡人のなし得る業績なのである。ジミ・ヘンドリックスなら27歳で変死体になっても構わないのだし、生命尊重とか通俗的な正論を言うひとはいないだろうけども、凡人が27歳で死ぬと本当に痛ましいわけである。その中身のない27年間が、あまりにも痛々しく気まずい。万引きで捕まった少年が逃げて、その途中で鉄道に引かれたとか、その轢死体の無意味さは圧倒的であるし、こいつ何のために生まれてきたんだと慄然する感情が、何者にもなれないわれわれの人生全般の不安として輪を広げ、その空洞を埋めるべく生命尊重という話になり、店主のところに直接抗議に訪れる人間もいたようだし、閉店に追い込まれたわけだ。この少年について、死んでよかったというのは、公の場では言えまいし、またネットでさえもなんか言いづらいのである。馬鹿の人生は無価値ということを実演して死んだわけだが、われわれはこの無価値さと対極とは言えまいし、むしろ、われわれの似姿であるから、この少年がまき散らした血塗れの脳漿や臓腑は人間そのもののくだらなさを露呈させたと言えるし、ジミ・ヘンドリックスになれなかった人間としては、やけに居心地が悪くもやもやする事案である。
ツイッターは140文字制限が画期的だった。
やはり頭を使うと疲れるので、身体が勝手にツイートを読んだり書いたりしてくれるのが望ましい。
140文字くらいならそれが可能なのである。
身体で読んで身体で書く、それが出来る。

つまり頭脳を経由してないツイートがたくさん投下され、それを眼球が読んでいたのである。
人間の日常の動作はだいたいこれなのである。
かなりの部分は身体が動くがままに任せている。
顔を洗ってタオルで拭くとか、そういう動作は身体に任せているのであり、頭脳は使ってない。

この身体動作だけでやれることが、ツイッターのブームの理由だったのだが、しかしツイッターは業績という点で苦しんでいる。
なにしろ過去ログが無価値すぎる。
指が勝手に動いて書いてるわけだし、140文字ではろくな内容が書けないから、無価値なのは当然である。
過去ログはかなり厖大な分量だと思われるが、まったく情報資産でないのだから恐懼に堪えない。

この文字制限は近日中に外されると予想されているが、これがどう転ぶかはわからない。
端的に言えば、赤字が続いて危機的な状況であるから、賭けに出たのであろう。
これからは頭を使ってツイートしたり、頭を使って読んだりすることも可能になる。
指と眼球の自動操縦に頼ってきたツイッターユーザーが今さら頭で考えるのもさぞかし面倒であろうから、この頭を使うという作業に耐えられるのかどうかが疑問であるが、ともかく赤字続きだから、そういう冒険をするしかないのである。

頭は動いてないが指だけ動いているという人は淘汰されていくのだが、やらおんが自分で文章を書いてみたらすごい馬鹿だったとか、そういうことも露呈されていくわけである。


女性声優でフォロワー数首位と言えば、田村ゆかりさんであった。
(水樹奈々ならそれより上に行くだろうけどツイッターをやってない)。
つい先日、南條愛乃さん(31歳)が田村ゆかりさん(39歳)のフォロワー数を抜いて首位になったのだが、そろそろ田村ゆかりさんも潮時という判断なのであろう。
田村ゆかりさんも以前からいろいろとお悩みの様子が窺えたが、南條さんに追い抜かれたということで、最後の決断をしたと思われる。
フォロワー数など参考指標でしかないが、なにしろ南條さんの場合、パフォーマンスそのものが圧倒的過ぎるので、ここに人気が集中するのは当然である。

ゆいもあが音楽日本代表としてユニフォーム販売業に専念してから10ヶ月くらい経過しているが、この大空位時代において、あたかもチンギス=ハーンがユーラシア大陸を火焰でなめつくして蹂躙するがごとく、南條愛乃さんが勢力圏の版図を広げたのである。
ラブライブのブームが終わっても生き残れるだけの魅力が南條さんにはあるので、これは完全に正統なる帝國である。
この王朝が永遠だとは言わないが、三年か五年くらいは独占的にオタを支配するであろうし、人間の寿命を物差しとして、さらに女性アイドルの寿命の短さを勘案するなら、世界史の一章を割くべき時間の長さとも言える。

南條愛乃さんは、実物は不細工なババアだが、ステージ上での見映えが素晴らしく、ポージングのセンスはリプニツカヤに匹敵する。
われわれも南條さんのDVDを視聴しない日はほとんどない。
この美しさに加えて、母親が元アニメーターで、本人が代々木アニメーション学院で、サブカル系に該博な知識があり、ラブライブ声優なのだから、単独でも圧倒的な動員力がある。
μ'sは四月の東京ドームで区切りが付くので、そこで一段落するとしても、けいおん声優とは話が違うし、今後もかなりの信者を抱えた状態になる。

田村ゆかりさんが引退するとなると、その亡霊の行く先はほとんど南條愛乃さんしかないと思うので、また信者が増えるのであろう。
アイドルが草野球をやっているところに、中元すず香というプロの二軍選手がずいぶん嫌がらせをしてくれたわけだが、そうやってあちこちで道場の看板を破って、死屍累々たる地獄絵図を作り出そうとも、南條さんだけは凛とした立ち姿で、この欺瞞だらけの世界にアイドルの理想を具現化してくれる。
ゆいもあ難民もかなり南條さんに移動しているはずであるし、ある意味、一般層に浸透したBABYMETALと、オタ層で圧倒的な支持を得ている南條愛乃さんで棲み分けが成立した状態とも言える。

ゆいもあはわれわれとは縁遠いショービジネスの人間であり、もはや関係妄想としての親しさすら許されない。異国の地で傀儡を演じるラストエンペラーであり、そもそもゆいもあとわれわれは肉親でも何でもない赤の他人なのだから、ここまで圏外に置かれると、眷恋し続けるのも筋違いに思える。本気で海外に挑戦しているのなら話は別なのだが、何しろ日本人に見せるドキュメンタリーとしての海外挑戦だから、日本の愚民をチラチラ見ながらの活動が卑しい。どれだけ華やかに見せてもベビメタは卑しい物乞いである。一回性の人生において、青春をその活動に賭けているという凛とした姿勢は見えないし、彼女たちの軌跡を書き綴る提灯記事は嘘まみれの欺瞞であり、韓国人の自画自賛に近い状態である。ベビメタは海外ではまさにKARAや少女時代なのである。ゆいもあは人類の頂点に君臨する天子だったのに、もはや聖者ではなく腐敗した半僧半俗の存在である。ゆいもあが決してこの選択を希望したわけではないし、芸能界でショービジネスの論理が優先するのは言うまでもないが、海外が拠点だとうそぶいて、馬鹿な日本人に舶来品としての日本代表シャツを売るのは、親に手足を切られて不具者にされ、道端で物乞いをやらされているインドの子どもと似たり寄ったりである。物乞いと同じことをやって、それに馴染んでしまったら終わりである。われわれ菊地最愛原理主義者は、ひとまず、この歴史的転換期において決断をしなければならない。ゆいもあという概念は死んだ。音楽日本代表のBABYMETALがあるのみである。これはアミューズというマーケティングモンスターが作り出したニセモノだが、数え切れないくらいのミーハー層が支持しているらしいので、これはこれでサッカーの本田圭佑のようにカラクリが露見するのを待つしかあるまい。貴人たる人物が天意から遠く離れてショービジネスに生きているのだから、魔道に堕ちた聖者への素直な対応でもある。中元すず香という腐った蜜柑に馴染んで脇役の奴隷暮らしに甘んじるのもいいし、ネルソン=マンデラのように不屈の精神を持ちながら、人間としての本来性から疎外された痛みに気付き、嘘の自分と訣別し尊厳を取り戻すべく立ち上がれるかはゆいもあ本人の問題である。
2016.02.10

EQと身体性

脳が意志決定して、身体がそれに従っている、というのが常識である。
とはいえ、脚が勝手にパチンコ屋の方に向かっていくこともあるだろう。
腕が勝手に動いてビールを飲んでしまうことだってあるはずだ。

そもそも脳と身体は完全に分離できないであろうから、身体が覚えているという感じもあるわけだ。
パソコンのキーボードを打つのでも、キーの位置はほとんど意識してないし、身体に委ねている。
「無意識のうちにやってしまう」というが、これもやはり身体に憶えさせているからであろう。

おそらくEQとはこのあたりの問題だと思うのである。
EQを「こころの知能指数」という人がいるが、実際は身体の制御の能力の高さに思える。
EQが高そうな人は、身体が勝手に動いて変なことをやらかすのが極めて少ない。
逆にEQが低そうな人は、なんか挙動不審だし、勝手に馬鹿なことをやらかしそう、という懸念がある。

発達障害にありがちな衝動性とは、身体が動いてしまうことなのである。
ストレスで怒り狂って物を壊すADHDがいるとして、それは意志決定による破壊というよりは、まずなにより身体が動いてしまうのであろう。

一般的には理性-欲望という対概念で語るのであろうし、たとえば清原和博は理性が足りてないからクスリを我慢できない、となるわけだ。
そういう説明でもいいのだけど、心のコントロールと身体のコントロールは同じだと思うのである。
清原和博に理性を持てというのはもっともらしい意見ではあるが、しかし、実際は、このタイプの人間は身体が勝手に動いているはず。
運動神経は超一流であるはずなのに、おとなしくしていることが出来ないのだから興味深い。
馬鹿みたいに身体が動いているとボケ老人の徘徊と大差がない。

なぜ坐禅で目を閉じないのであろうかと考えると、目を閉じた状態で落ち着いても、くつろいだ状態になってしまうからである。
目を開けて座るからこそ、澄み渡った明晰な意識を持つことが出来る。
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