おそらくこれからロゴビジネスは破綻するようになる。
図形の組み合わせなのだから、本当のオリジナリティーがあるわけがない。
これまでは馴れ合いでデザイナー同士が独自性を認め合ってきたのであろうが、こいつら所詮は詐欺師であるから、独自性をガチで主張し始めるという馬鹿なことをやりはじめたのである。
図形の組み合わせに独自性があるという失笑するべき状態に終止符が打たれる。
われわれネットユーザーは何か大きなイベントのロゴが発表されたら、それと類似したロゴを探すことの楽しみを学習した。
図形の組み合わせなのだから似たロゴは必ず見つかるし、相手のデザイナーが「裁判で争う」と言い出せばこっちのものである。
ネットユーザーがロゴの類似性を指摘するのはノーリスクであり、そもそもロゴは図形の組み合わせなのだから、似ていることは間違いないわけだ。
誰も見たことがないような組み合わせがある方がおかしい。
これは写真家も似たようなものであり、同じ被写体を誰が撮影しても同じなのである。
撮影する人間によって写真の価値が違うという論法でカメラマンの利権があるのだが、これだって虚妄である。
デザイナーとかカメラマンとか無価値だし、図形を並べるとかシャッターのボタンを押すとか誰でも出来る。
これを芸術だと言い張るギルドの掟があったであろうに、ネットユーザーの頑張りで破綻したわけである。
デザイナーを喧嘩させることでロゴビジネスが破綻していくのだから、これほど楽しいことはない。
いわば囚人のジレンマであり、デザイナーが喧嘩するとビジネスモデルが破綻して食えなくなるのだが、オリンピックのロゴとか大きなビジネスになると、業界全体の利益など無視して自分の利益のために裁判を起こすわけである。
ネットユーザーがデザイナーを攻撃しているというよりは、内輪揉めを誘発して、それに載っかってくるデザイナーがいると大騒ぎに発展するから楽しいのである。
裁判を起こすデザイナーがいなければネットで何を言われようがまったく問題にならないのだが、業界が潰れても自分の利益が欲しい人はいるだろうから仕方あるまい。
この現し世にインターネットというものが登場してから二十年ばかりになるが、コテハンというのはかなり死語に近い。実際は使われているので、死語というのは不正確だが、だいたいは当世風でない時代遅れの人間を指すのであり、使用頻度はかなり減っている。かつてはフォーラム形式が中心だったので、ネットユーザーはそこに棲み着きながら書き込んでいたわけである。ここから常連というものが発生してくるので、それがコテハンである。コテハンという形で有名人になろうという欲望が昔は普通だったのである。これは社会的著名人という意味ではなく、匿名ハンドルだが有名という意である。フォーラムで有名というのは、地元で有名な札付きのワルとか、その程度の知名度であろうが、昔はそういう世界の広さを計測するスケールの観念が無かったので、自分が有名人であるという錯覚が得られたのである。夜に日を継いで書き込み続ける馬鹿がたくさんいたわけだ。だがそろそろわれわれはネットの規模に気付いてきた。引き揚げ船で戦地から帰還し、ひとりの復員兵として新しい日常世界の姿を認識しつつある。アングラ文化は認識の狂いによって生じたものでしかないし、ネトゲ廃人もネットを現実とは別のレイヤーと捉える認識から生まれたものなので、増減は判然としないながら時代錯誤という印象を受ける。90年代はバーチャルという言葉がよく使われていたが、古き日のサイバーパンクは実際のネット世界とは似ても似つかないものであった。ワイアードに神はいないし、ここで新たな生命が萌えいずることもない。たなびく春霞に惑わされていたひとびとが認識を補正し適切な遠近法を学習したのがSNS時代なのである。あくまで通信手段の拡張でしかなく、別の自分が誕生するわけではない。決してパーソナリティーの変更ではないのである。ツイッターでは当然ながら常連というのがいない。一日中ツイートしている人はたくさんいるだろうが、それを常連とは言わない。ツイッターでは有名なコテハンというのがほとんどいない。芸能人とか文化人とか最初から有名な人はいるし、もしくは実名・顔出しでその仲間入りをしようと試みる人はいるが、普通の一般ユーザーが有名になることは滅多にない。おそらくなにかしら押し売りだと感じるとコテハンという古めかしい言葉を持ち出したくなる。読みたくないのに目に入ってくる状態に陥ると、そいつにコテハンという名前を付ける。2ちゃんねるで名無しさんなのにコテハンを付けられるのはよくある。他人の個人ブログのコメント欄に書き続けて自分のブログとして使うコテハンもかつてはよく見かけた。受動性があるところに押し売りはあるのである。つまらない人は人類普遍の難問である。だからフォローしたり検索したり、こちらからの能動的な行動でしか見られない世界になりつつある。これによって世界は整理されたし余計な情報が入ってこなくなったのはいいことであろう。ノイズが減りすぎた状態とも言えるのだが、あの古色蒼然たる世界は弾幕のように張られる押し売りに面制圧されて痕形もなく灰燼に帰したのだから、鋳つぶされて瘴気にまみれた過去を後にして、この綺麗な新世界を受諾するのみである。古い世界に手向ける花もないが、われわれは前進しているのである。ネットで発信するのを放送に喩えるのも完全な誤謬となった。検索したりフォローしないと辿り着けないのだから放送とは真逆のものである。実名という特異点を中心にしたエゴサーチ空間とも言えるが、決してそれはコミュニティではない。個々のネットユーザーがそれぞれの検索とフォローで枝を伸ばしているだけなので、その枝葉の濃淡はあれども、幹はない。関心を同じくする他者とコミュニティを形成することはない。場が発生すればそこを住処として起き臥しするつまらない人が例外なく立ち現れるので、たとえば特定の有名人に10万人のフォロワーがいても、そのフォロワー同士が集う場というのはない。相互フォローとして細切れの線で繋がることはあるが、中央広場のような場所は設けない。関心をともにする場所は押し売りの温床でしか無く、つまらない人と雑居房で居合わせる世界は終わったのである。ネチケットという言葉が死語になったのも、もはやコテハンとして他者と触れあう機会がないからである。人と人が接するところに面積があるとつまらない人が這入り込んでくるので、面積がない数学的な点と線で結ばれなければならない。
nakamotoninki.jpg

青:南條愛乃
赤:中元すず香
橙:SU-METAL

EXILEのHIROはLDHという芸能事務所の社長であるから、所属タレントを全般的に売り出す立場である。だからEXILE周辺はどんどん増えていくわけである。それに対してベビメタのKOBAMETALは経歴不詳だが、おそらく中元すず香個人のプロデューサーとしてかなり昔から二人三脚である。あくまで中元すず香を売ることだけが目的なのである。ベビメタとさくら学院を連動させることなどあり得ないのである。

さくら学院が始まる前から重音部は決まっていたと考えるのが妥当である。KOBAMETALが謎のアミューズ社員という立場なのは、中元すず香のプロデューサーという立場を不明瞭にしたいからだと思われる。

KOBAMETAL+中元すず香に苦しめられているのがさくら学院である。ベビメタというイロモノでブレイクさせてくれたのだから、早期にやめてくれれば感謝するべきだが、このイロモノを延々とやられるとただの簒奪者であり、害虫以外の何者でもない。中元というドブスのためにゆいもあという人類最高の逸材を泥棒しただけである。KOBAMETALが経歴を明らかにしていないので想像で書くしかないが、おそらくキッズ部門には書類上で出向しただけであり、キッズ部門に実態として存在していたことはないはず。KOBAMETALはキッズ部門と無関係と考えるとたいていのことは説明が付く。

もあちゃんが「ソロアイドルになりたい」とか「声優になりたい」とか「さくら学院はラブライブ」と言っていたのは、南條愛乃(ラブライブ)を意識していたわけである。南條愛乃は31歳のおばさんであるから、狙い所がかなり的確である。彩未ちゃんの松田聖子という絵空事とはまったく違うわけであり、もあちゃんはいろいろとリサーチした上で現実的な目標を立てている。さくら学院をラブライブにした上でもあちゃんが南條愛乃になるのが本来の構想であった。さくら学院全体の相乗効果で売れていくというのは荒唐無稽ではないし、もあちゃんはラブライブを観察してそういう戦略を立てたのだ。だがこの路線は完全に切られたのであり、もあちゃんはKOBAMETALに監禁されたわけである。

この一年くらいで南條愛乃はかなり伸びているが、中元すず香は横這いであり、SU-METALとしての検索数もかなり少ない。フェスだと興味本位でわらわら人が集まってくるが、ベビメタ単独のライブだと1500人集めるのに苦労している。海外に頻繁に行っているのは、儲かっているからではなく、赤字を承知で宣伝のためにフェスに出ているのである。イロモノとしてネタにはなっても、お金を落とす忠誠心までは至っていない。

ベビメタを露出制限しているのは飢餓商法だとKOBAMETALは上層部に説明しているはずだが、中元すず香と南條愛乃の人気の格差は広がる一方であるから、ラブライブ方式の方が正しい。まったく飢餓商法の効果は出ていない。ゆいもあが個人でブレイクすると面倒なので表に出さないだけである。もあちゃんはすべての面で南條愛乃を上回っているし、基礎票もあるから、売り出して貰えればブレイクは確実である。ここまでラブライブの後塵を拝するとなると、むしろ中元を切り捨てたいが、あくまで中元を売り出すのがKOBAMETALの目的だから困ったことである。

中元というドブスのためにすべてが犠牲になるという状態が続いており、キッズ部門から見てKOBAMETALはもはや怨恨の対象でしかないだろう。イロモノでブレイクさせてくれたと喜んでいたら、そう都合のいい人間ではなかった。あくまで中元というドブスをプロデュースするために生け贄を探していただけである。中元に人気があれば状況は違うのだろうが、ともかくこのドブスの人気の無さが圧倒的であるから、ゆいもあの解放は進まないであろう。中元すず香よりもあちゃんの方が潜在的な商品価値が高いのは明らかであるし、だからこそ不自然な状況が継続する。もあちゃんなら南條愛乃の立ち位置まで行けるが、それだと中元が困るのである。悪いのはKOBAMETALであり中元は悪くないという立場を取る人もいるだろうが、わたしはそうは思わない。悪質なプロデューサーに飼われているタレントがいたら、そいつにも連座させるのが当然である。ゆいもあという人類の頂点に君臨する人物を使い潰しているのであり、いわば釈迦とキリストを使っても広まらないのが中元という粗悪品である。このままだとさくら学院はただの奴隷市場である。
待つのは誰でも嫌いであろうが、その嫌い方の度が過ぎている人がいるわけである。ADHDの特徴として、待つのが嫌いというのがよく挙げられる。普段はゴロゴロして時間を浪費しているのに、待たされるとなると、自分の貴重な時間が奪い取られているという感覚を持つらしい。レジで五分待たされると「この俺の貴重な五分が」とイライラして暴れたくなるらしい。本当に一分一秒を惜しむような多忙な生活をしているのならわかるが、結局は会計を終えて自宅に帰ればゴロゴロしてネット三昧なのである。買い物をするのであれば、レジ待ちの時間くらいは想定内であろう。たぶんスーパーまで歩く時間については「この時間は無駄だ」とイライラしないであろうに、レジ待ちとなるとイライラするわけである。おそらく時間は貴重という理由は嘘であり、本当は何もしない状態が苦手なのである。動き続けて放電するのが好きだから、ただ待つという理想的な状態が嫌いなのである。レジ待ちは人間として理想的な状態と言って差し支えない。何もしないという状態は、実は落ち着きのある人の準備運動である。何もせずに待つという精神状態になってこそ、たとえば難しい本を開くということが出来る。これまでのタスクを一度切って頭のリソースを確保する作業である。ADHDがレジ待ちを嫌がるのは、時間が貴重だからではなく、放電を停止することが嫌なのである。ADHDは頭を空っぽに出来ないのであり、生まれてから死ぬまで雑念で満杯になっている。ネットサーフィンなら雑念塗れで多動しながら出来るが、読書だと、ひとまずタスクを止めて、読書に割くリソースを確保する必要がある。「何もしない」と「ゴロゴロする」のは端から見ていると同じだが、本人からするとまったく違うのである。ゴロゴロしている間は頭の中が雑念で一杯である。待つというのはただ単に身体を止めることではなく、雑念を掃除する作業でもあるから、ADHDがイライラするのも無理はない。
2015.08.30

意志の合理性

目の前に一万円札があるとしておもむろにそれを燃やす人はいない。なぜ燃やさないのかと言えば、自分の生活にとってマイナスだからである。人生・生活、もしくはその根底を成している肉体の快楽と苦痛の問題である。何かをゴミとして捨てるというのは、それが生活に不要だからである。ただの紙くずと一万円札を同等の夾雑物と見なすのは不可能である。われわれの意志はほとんどが生活のための合理性に縛られている。悦びも痛みも感じない骸として空疎に横たわっているなら苦労はないが、われわれのこの貪婪な肉体の神経は大地に根を張り世界の人質となっている。わずか一晩で全財産使い切るようなことなら、やる人は時たまいるが、どれだけ惚け者の遊び人でも一万円札を燃やす人はいない。質素に生きている人も、苦痛減少主義者と言えるし、やはり快楽・苦痛に囚われていることに変わりはない。意志が自由だというのなら一万円札を燃やしてもいいはずだが、快楽が増えないし苦痛が増えるだけであるから、そこまでフリーダムな人はいないわけである。ここには葛藤もない。快楽と苦痛を巡る精神の劇がない。一万円札を燃やしても快楽が絶無なのだから、内面の戦いに身悶えして頭をかきむしるテーマではない。この欲望が漲ることはないので魔がさすこともない。われわれのすべては生活と人生と肉体の物差しで測っているので、一万円札を燃やすとか意味不明のことをやる人はいない。芸術家を名乗る山師が現代アートと称してやることはあり得るが、これはその奇矯な行為で話題になって一万円以上のリターンを目論んでいるのであろうし、やはりただひたすら無意味なことをやる人はいない。焼身自殺なら人生への絶望が見て取れるし、この苦界から逃れるための合理的行動であると理解できるし、教会に全財産を寄進するのなら敬虔な宗教的情熱として理解できるが、やはり一万円札を燃やす人はいない。ポトラッチとして文化的に回収されるなら燃やすこともあり得るが、そのような人間の欲求に触れる必要がある。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング