2019.06.04

不適応と淘汰

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熊沢英一郎さんが元事務次官の父親から殺害された事件について、この父親に共感するのは明らかな危険思想である。熊沢英一郎さんは何しろ元事務次官の息子なのだから、どこかしら使い所はあったはずである。東京大学で最上位の頭脳の遺伝子を引き継いでいるわけだ。九州の山奥でガリ勉ロボットとなり、東大に辛うじて合格という具合だとパラリンピックだが、事務次官まで行けるならオリンピックの金メダルである。熊沢英一郎さんが欠陥人間なのは確かだが、その欠陥に着目し烙印を押して疎外してきた社会がこういう悲劇を生み出した。hagexを殺害した低能先生みたいな凶行もあったが、この手の人が現実に刃物を突きつける確率がかなり低いのも確かである。低確率のテロリズムの可能性がある引きこもりのネット弁慶が大量にいるのだから、つまるところ、母数が多いだけの話である。引きこもりが本当に通り魔を犯す確率は低いのだが、引きこもり自体が多いので、犯罪の実行が多いという錯覚が生まれる。あるいは、この手の人間が犯罪で捕まると、ネットで荒らし回っていた生活歴が露呈するので、その書き散らされた支離滅裂な言葉が危険人物という確信を補強してしまうのだが、自ら吐き出したものであるとはいえ、裏側での暴言を録音されたのに似ていて、人間そんなものだと達観するのも可能である。われわれが直面しているのは、引きこもりの犯罪率ではなく、母数がやたらと多いことなのである。不発弾があまりにも多すぎる。山奥の母子家庭でガリ勉して東大にギリギリで合格・不登校・退学という人であれば矯正不能という判断になろうが、熊沢英一郎さんは父親が東大で最上位なのだから、どこかに社会的ポジションを与えるほうが建設的だった。われわれの社会は、就職できない理由をたくさん考え出して人間を排除して、完璧でなければ生きる資格がないという思想を広め、引きこもりを増やしてきたわけである。失格の烙印を押して引きこもりの母数を増やしてきたことが、これからの生活保護問題でも重くのしかかる。たとえばロイヤルニートとして名高い小和田雅子さんという人がいるが、引きこもりだから小和田雅子さんを排除するという考えもあろうし、どうにか皇后にして機能させようという考えもある。思想には自由があるから、小和田雅子さんは永遠に引きこもり状態が似つかわしいと主張してバッシングしても差し支えないのであるが、わたしはそれは愚見であろうと思う。世の中に適応できずに立場を失った人を叩き潰すという発想もあれば、立場が人を作るという方向性で解決する策もある。熊沢英一郎さんについては、事務次官の頭脳を引き継いでいるのだから、安易に排除するよりは、使い所を考えるべきであった。他人を不採用にする理由だけはいくらでも思いつくわれわれの社会が引きこもりを大量生産し、生活保護の負担を増大させている。
昭和を生きていた人間なら当たり前すぎる話であるし、凡庸なエントリーになってしまうが、令和になったのを機に昭和時代を回顧するのもよかろう。昭和時代は、遠距離通勤や遠距離通学が普通であり、片道二時間も常識であった。すべてはマイホームのためであり、通勤通学の距離がドーナツ化現象で伸びていったのである。最近であれば、夢のマイホームというよりは、都心のマンションが選好されるし、通勤通学の時間の短さが優先される。この文脈で最大の問題となるのは「移動時間」であるから、時間と空間の概念がごちゃまぜになってしまうが、満員電車に二時間乗るのと10分で済むのとではストレスがまったく違うのは言うまでもない。移動時間を短くするために空間の距離を短くしたいわけである。空き家問題と限界マンションの話を見比べると、マイホームの方がマシという気はするし、マンションの修繕費の高さを考えると築年数が経過したときのコストは重いが、修繕費に無知蒙昧なひとばかりではあるまいし、老朽化したマンションの面倒な事情は踏まえた上で目先の綺羅びやかさや交通の利便性を優先している人だって少なくないはずだ。昭和時代に満員電車に揺られつつ遠距離通勤や遠距離通学が幅広く行われていたのは、人口密度への耐性もあろうし、今なら反吐が出るような人混みにも慣れていたのである。とはいえ本当に平気だったのではない。苦痛ではあるが、世の中そういうものだと思っていたわけだ。最近は人口密度という単語をさほど目にしないが、昭和の頃はかなり使用頻度が高かった。多くの人は人口密度について嘆いており、それでも遠距離通勤・遠距離通学していたのである。データを調べずに書くが、この三十年くらいで、都心の地下鉄網はかなり発達しているし、逆に、神奈川県や千葉県から都心に行くときの混雑は緩和されてない気がする。都心の地下迷宮の圏内にいたほうが、混雑は避けられる。人口密度への畏怖は昭和の人間の篋底にまだ根ざしており、二度とあの時代に戻りたくないという観念が少子化の遠因でもある。かつては耐えられたものに耐えられなくなるというのは奇妙だが、(あまりこの話題はしたくないが)最近の綺麗なトイレに慣れたら、昭和時代のトイレなどおぞましすぎて寒気がする。人口密度の低さは、いわば綺麗なトイレのようなものかもしれないし、人口密度の低さを体験してしまったらもう昔には戻れない。そもそも昭和生まれのわれわれが「日本の人口は少なくていい」と思うのは認知のゆがみであろうし、若者の人口は増えたほうがいいと考えるのが合理的なのだが、氷河期世代の経済的困窮も合わせて考えると、認知のゆがみを正したら子供をたくさん作るというわけでもあるまい。本当の最貧国なら、貧乏子だくさんという現象もあるが、氷河期世代は中途半端に教育を受けているし、人間は少ない方がいいという先進国的な結論に落ち着くのである。
https://mainichi.jp/articles/20190515/k00/00m/040/310000c
作家・百田尚樹さんの著書「日本国紀」(幻冬舎)を批判する投稿をツイッターでしたことで、「幻冬舎から刊行予定だった文庫本を出せなくなった」と作家の津原泰水(やすみ)さん(54)が訴えている。既に幻冬舎から単行本で発売されている津原さんの小説が今春、同社から文庫化される予定だった。が、作業が大詰めとなった今年1月、同社の担当編集者から「(日本国紀の)販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と伝えられたと主張する。幻冬舎側は毎日新聞の取材に、「文庫化を一方的に中止した事実はない」と否定する一方、日本国紀への批判をやめるよう津原さんに働きかけたことは認めた。【大村健一/統合デジタル取材センター】


この種の問題について考察する場合、ステレオタイプ的に理解するか、細かい枝葉のところまで検証するのか、というのがあるだろう。たとえばこの切られた作家は専業作家であろうと思うが、もしかすると公務員が兼業として作家をやっているのかもしれない。そういう事実誤認で足をすくわれることもあるのだが、そもそもわたしはこの作家について興味もないし、プライベートの問題は調べようがない。それに、この作家はさして人気がないにしても、幻冬舎に依存しているわけではなく、むしろ幻冬舎以外での仕事が多いし、大半のまったく売れない小説家と比べたら、そこそこ売れているという中途半端な立ち位置だと思われるが、そこまで勘案すると逆に難しいので、ひとまず「売れない専業作家」と決めつけた上でステレオタイプに考えるのが妥当であろう。

売れない作家が百田尚樹にケチを付けたら、幻冬舎の社長がこの作家と縁を切った上で、実売部数を晒して屈辱を与えたということで、これが炎上の理由であるが、とはいえ大規模な油田火災にならないのは、やはりフリーランスの作家なのだから表現の場所はどこにでもあるし、そもそもこの作家は、幻冬舎と縁が切れるのを承知で百田尚樹を批判するべきだったからだろう。被害者気取りはどうか、というモヤモヤが多くの皆さんの中にある。自由を謳歌する代償を払う気がない人間、ということになるのだろう。ノーダメージで自由を欲しがる。戦後左翼の甘えという印象を受けるし、左翼がこの作家の味方をしているのも、そういうお仲間なのだろう。

フリーランスと言ってもいろいろあるが、多かれ少なかれ人間関係で仕事を貰っているという側面はある。この人間的なつながりを人脈と呼んで、その「絆」を恃みにするのもいいが、いわゆる非正規雇用である。コンビニのバイトなら、クビになったら別のところで働けばいいというか、良くも悪くもひとつの店にしがみつけないので、作家業はそういう非正規雇用でもないのだが、ホワイトカラーの潰しが効かない問題と似ているかもしれないし、電気工事や溶接ができる人とは違って、リストラされたら困る、ということだろう。ともかく、引っ張りだこの小説家なんてごく一部なので、この人はマシな部類だろうし、たいして幻冬舎に依存してないのだから、わざわざ小物を演じて百田尚樹という「大物作家」の被害者になるアングルはやや疑問があるが、とはいえ、御本人もお仲間もそういうステレオタイプな理解を望んでいるようだし、それが丁度いいという印象である。
https://twitter.com/lp_announce/status/1126201366118932480

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これはわたしも以前から気になっていたのだが、有村悠さんは自撮りで決して歯を見せない。精神だけでなく口腔も魔窟のごとく蝕まれていることは容易に察せられたが、恫喝されても怖いので指摘は控えていた。学生時代の鬱がどうこう言っているが、東大入学まで健康優良児だったとは思えないし、欠損家庭は歯も欠損しているという法則通りなのであろう。エリート東大生のキラキラした歯列とは対極的なのである。九州の田舎者の歯がボロボロというとシンナー疑惑も持たれるところだが、典型的な教育ママとガリ勉というか、刻苦勉励して東大合格という経歴からして、それは考えづらい。やはり母子家庭は母子家庭であり、父という頭部がもげた状態で、壊死を待つまでの断末魔として蠢いている。東大に入学すれば薔薇色になると思っていたのだろうが、人間は生まれ変わることは出来ない。歯の神経がないと言っているが、きちんと神経を抜いて消毒したとは思えないし、死んだ神経が遺棄されたままであろうから、腐乱死体のように細菌が繁殖する苗床になっていることは間違いない。重度の斜視であるし、他人の話を理解出来ない聴覚障害もあり、目も耳も口も難があるとなればいわゆる三重苦だが、ヘレン・ケラーとは真逆である。ヘレン・ケラーのような人間ばかりでもつまらないから、有村悠さんのような人間がいてもいいのだろうし、令和元年六月十一日で四十歳になるわけだが、三十九歳で死んだ太宰治の享年を超えることについても、なんというか、ただ単に頭が悪いから東大を退学処分になっただけで、太宰治のような文学者になれなかった、という人がいたほうがいいのだろうと思う。
この世の中には「そんなことは言ってない」という便利な言い回しがあるようである。確かに言ってはいないだろう。だから「言ってない」という言説そのものは正しい。どちらかというと相手の魂胆をズバリと指摘したときにこの言い回しが出てくる。こちらが極端に誇張した場合でも「そんなことは言ってない」という返しはありうるから擦り替えとして便利なのだろう。あるいは、ともかく人間の魂胆については「言ってない」ところが肝心であり、そこが世界の本質である。言ってないのは反論にはならないし、そもそも反論の必要があるわけでもない。人間はいろいろと不満を抱えており、よからぬことを企みながら生きている。ここにもいろいろな個性があり、たとえば天皇陛下のような正直者のタイプがいれば、秋篠宮や小室圭のような嘘つきタイプもいるのであり、後者の方がソーシャルスキルは高い。われわれは小室圭のたくらみについて、あれこれ憶測で語るわけだが、人間の魂胆は未遂に終わることが多々あり、たくらみは人間の脳裏を遊弋する選択肢でしかない。秋篠宮家の苦悩は、恵まれた人間ならではの軽佻浮薄なものであり、もし彼らが皇族でなかったとしても、たとえば津田大介と同じような不満は抱えるであろう。一見したところ華やかで世渡り上手だが、本人そのものの薄っぺらさが苛立ちの原因となるのである。何にせよわれわれの揣摩臆測については「そんなことは言ってない」という誹りは付きまとうが、なにしろ不満や欲求で溢れかえっている人間たちに警戒を怠るわけにはいかない。たとえば小室圭の周辺に自殺者が多いことにわれわれは警戒心を抱くわけであるが、婚約者には不幸な王子様として認識されているのだろうし、あるいは、われわれは彼らの睦言を直に聞いたわけではないから、それすらも空想になってしまうが、近親者の自殺を純然たる悲劇として捉えたり、生々しい欲望の軋轢の結末として血が流れたと理解したり、いろいろとあるわけである。同じ地球上にいても、われわれはそれぞれ異空間にいると言うこともできるし、人間それぞれ特定の時間や空間だけに居合わせて生きており、それ以外は別宇宙への想像でもあるのだが、他者の実情が認識不能であるとしても、その因果がお互いに地続きであることもある。そもそも自らの篋底に潜めている悪意でさえどこまで本気であるのかわからないが、何にせよ実行されるとなれば、他人の人生がわれわれの人生に影響を与えたりするので、あれこれ憶測するしかないのである。
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