愛情の押し売りは人間の根源的な願望だが、迷惑であるのは明らかなので普通はやらない。お金持ちがお金をくれるとか、美人がセックスさせてくれるとか、そういう押し売りはまずあり得ない。「愛」というのは物乞いである。おそろしい高望みである。愛情の押し売りが成功してしまうなら、社会が成り立たない。だから、愛するのが無効になるように社会は作られている。愛というのは頂点への渇望であり、最頂点の人間と並び立ちたいというという熱情だ。「何でもやる」という人に雑用を頼んだらどうなるのだろうか、となると、拒絶されるに違いない。たとえば右翼団体は典型的なストーカー体質である。昭和天皇が右翼団体に「活動をやめてくれ」とかトイレ掃除だけしてくれとか言っても絶対にやらないし、おそらく「陛下が洗脳されている」とか騒いで、重臣を殺すだけである。愛に身を焦がす人間は雑用に甘んじる生き物ではない。トイレ掃除だけでいいから役に立ちたい、という発想は絶対にしない。天皇と並び立つことが目的であるから、右翼団体にトイレ掃除を命じても憤激するのみである。だからストーカーを有効活用することは出来ないわけだ。自己愛の怪物というべき集団が雪景色を血化粧で染めるのも、普段は平均人に甘んじている人間のおぞましい内面を晒すべき歴史的出来事として、何らかの意味はあるだろうが、このような箍の外れた愛情が溢れても困るのであるし、繰り返してはならないグロテスクな標本として陳列されるだけである。金銭の等価交換原理だけが人間に身の丈を教える。時給1000円で雑用をやれと言われたら、仕事がない人間は喜んでやるわけである。そこには愛という傲慢さがない。愛は無償なのではなく、等価交換原理を無視しているだけである。金持ちがお金をくれるとか、美人がやらせてくれるなら無償といえるが、そうでない限り、愛とは身の程知らずでしかない。頂点を目指すのは人間的な欲求であり、そういう美食家としての傲慢さが無いなら機械の部品でしかないが、とはいえ、塵芥のような有象無象が頂点しか受け付けないという自己愛をこじらせても難儀なので、この社会を機能させるべく、金銭という物差しで人間を矯めていくのである。
お友達のお友達というのは厄介であり、「人気者」を奪い合って反目し合うことがある。誰とでもオープンな性格の人ならいいが、そうではなく、特定の親友を作ろうとするタイプだと、どちらが本当の親友なのか揉めたりするのである。つまり、親友というのは美化されがちだが、実のところ、他者が入り込めないマンツーマンであることが多く、二者択一を迫られるから、親友のお友達との闘争が厄介であり、むしろ害悪とさえ言える。これは恋愛感情とは違って、どうしてもこの人と結ばれたいという熱情などないので、決して恋敵ではないのだが、政治的動物として、政敵が生まれてしまうのだ。

このインターネットでさえ、分断工作というのがあるし、お友達のお友達は厄介な存在である。中途半端に誰かと仲良くなると、嫉妬なのか権力欲なのか、その人のお友達が出てきて、仲違いさせるためにあれこれ吹き込んだり煽ったりするわけだ。そしてそういう展開になると、親しさの格差の勝負として、わたしが敗北するのである。だから、わたしは誰とも親しくしないようにしている。何のメリットもないのに誰かと親しくなって、そいつのお友達から横槍が入るのが莫迦莫迦しいからである。

道重さゆみと鞘師里保も、中途半端に親しい関係であった。鞘師は道重の前では遠慮しており、天衣無縫な佐藤優樹のようにベタベタと接していくことはなかった。この結合の弱さからして、剥がされるリスクのある人間関係だったのである。道重も鞘師も、オープンな性格ではないので、親しさの紛糾が生じやすいと言える。

道重さゆみという売れないアイドルがなぜ売れたかというと、ベテランの中で一人だけ残り、モーニング娘。からヤンキー的なイメージを払拭し、清純派に切り替えるリーダーとなったからである。万年補欠のベテランがリーダーシップを発揮し、誰もが逸材と認めるルーキーと共に、チームを立て直す物語であった。そして道重と鞘師のカップリングを軸に据えて、いわゆる百合営業が機能したからである。欲にまみれた俗世間を超越した深山幽谷の仙境のように見えたのである。この山水画が現在ではただの絵空事でしかなかったと見なされている。

どうも道重さゆみの認識として、鞘師のおかげで自分が売れたとは思ってないのである。むしろ、自分が鞘師を売ってやっているという傲慢ささえ窺えた。そういう心の隙間に潜り込んだのが飯窪春菜という悪魔である。飯窪春菜の商品価値は0と言って差し支えないが、コミュニケーション能力が高く、道重にはかなり食い込んでいる。鞘師が鬱で倒れたときも飯窪は「笑った、笑った」とか謎のブログを更新していたから、裏事情は推して測るべしである。

道重と鞘師の仲が悪かったということはないだろうが、いろいろと遠慮のある関係であったのは間違いがなく、ふたりとも内向性があるから、分断工作を仕掛けやすかった。道重と鞘師がふたりともあっさりした性格でビジネスと割り切っていればよかったが、内向的な類友として中途半端な絆があり、そうかと言って肝胆相照らすほどの関係ではなかったから分断された。道重が鞘師とプライベートで食事に行ったのは2015年秋の一度きりだが、道重と飯窪は、道重引退後も会ったりしている。表向きには道重と鞘師のカップリングで見せているのに、裏ではそうではないという齟齬があった。

もはや、道重の話になっても、誰も鞘師とは関連付けない。道重や鞘師のプライベートを千里眼で観察するわけにはいかないので、ここは想像に委ねられているのだが、ハロヲタの多くは、もはや道重と鞘師のカップリングはビジネスだったと察しており、すっかり興が醒めている。

道重さゆみの勘違いはハロプロの上下関係システムから起こったことでもある。広島時代の鞘師は年上の中元すず香を実力でねじ伏せてきた。「歌は中元でダンスは鞘師」と言われるが、ふたりとも似たり寄ったりの音痴であるから、歌に価値はあるまい。中元すず香はリップサービス乞食であるし、ゆいもあを連れて鉢坊主のように海外を回っている。子どもの特権であるから、はるかぜ親子と同じだ。誰も本気で褒めてないから、外部からのガチの評価で言えば中元は鞘師より格下である。そして道重も鞘師より圧倒的に格下である。ハロプロでは道重はレジェンドであるが、そこから外に出たら、鞘師のほうが遥かに評価が高い。ハロプロの中での序列と、外部からの評価を区別できてないのが道重さゆみである。

そもそも鞘師は道重とのカップリングなど必要としていない。年上の中元すず香を捻り潰していたくらいの実力者であるから、組む相手は誰でもいいのである。℃-ute解散を踏まえると鈴木愛理が妥当だと思うが、愛理である必要はなく、誰でもいいわけだ。鞘師が「引退」した時は、マツコ・デラックスが鬼の形相で悲憤慷慨してみせたが、鞘師は逸材だとマツコが強調したのは、特別な才能を持った天才が、凡庸な有象無象の反感で失墜していく生々しい惨劇に耐えられなかったからであろう。道重神格化で、道重は飯窪春菜からずいぶんヨイショされたのであろうし、だいぶ気分がよかったのだ。その有頂天な女王様が、鞘師についていろいろ吹き込まれて、すっかり疎遠になり、身の程知らずになった。ハロプロ圏外ではまったく通用しないババアであるし、そのハロプロでも鞘師との関連付けを失って欺瞞を抱えた過去の人なのだから、相当にきついと思われる。これから道重が何かを話せば話すほど、鞘師とのカップリング時代が嘘くさくなるのだし、この売れていた時期が偽史として破棄されるのだから、売れなかった頃と同じ立ち位置になるのだ。若くても売れなかったのに、馬齢だけは重ねて、老境に差し掛かっているわけだ。鞘師と出会う前の道重さゆみに戻っただけである。

鞘師は大河ドラマ女優の松岡茉優さんがヲタ代表でもあるし、ハロプロ圏外からの支持はとても強い。中元みたいに海外で赤字ツアーをやらずとも、すでに確固とした支持基盤がある。そもそもまだ高校3年生だから復活するとなれば、多方面から支持されるのは間違いない。道重さゆみという「人気者」を奪い合っている間に、御本人が勘違いしすぎて、2015年は戦塵に塗れた乱世となったのだが、これはマツコが鞘師を支持したことで決着したので、なぜ道重さゆみというクルクルパーが今さら復帰を試みているのか謎である。ともかく真相は知らんが、ハロヲタの大半が道重鞘師のカップリングは嘘だったと察しているので、道重さゆみを支持する人がとても少ないわけである。
悪事を犯しても無罪というと、病識がない精神病の人というイメージである。
異常者だからお咎めなしということだ。
だが、その一方で、正常者だから無罪ということもある。
これは法廷で無罪になるのではなく、そもそも裁判にならないし、警察も来ない。
他人を迫害するのは正常な行為であり、これは容認されている。
正常者だからこそ無罪なのである。
迫害される異常者、もしくは異端者は復讐としてテロルを夢見るかもしれないし、ごく稀に実行されるから、そういう反社会的な人間を排除する正常行動とも言えるが、ともかくそういうことである。

迫害という正常行動をどう扱うかの話だが、これは社会的に認められていると言うしかないのである。
正常だから構わないと結論付けるしかない。
迫害は集団でやるから、罪が分散するのもあろうし、民族浄化のようなものでなければ、異常者のテロリストのような大惨事を巻き起こすこともない。
迫害とは、雑に言えば「追い出す」という行為であるから、これが何の罪に該当するのかよくわからない。
もちろん追い出す過程で、いろいろな刑法に触れているとは思うのだが、そのあたりは看過されている。
たとえば小突き回す行為があったとして、それに暴行罪を問うのは可能であろうが、ともかくテロリストの行うことに比べたら微罪であるし、それよりひどくても、だいたいは私刑として認められている。
天下りする役人だって正常者であるし、彼らが利権の確保のために嫌がらせをするとしても正常行動である。
他人に嫌がらせをするから異常者というわけではない。
われわれは津田大介のような野生の生き物に勝つことは出来ないが、普段は世渡り上手で器用なだけに、ここ最近の狂疾というべき発狂にはいろいろと考えさせられる。コミュ強として金も女も手にした男が、たかが知性が足りないというだけで錯乱しているのだ。津田大介も43歳であるから、ロンブー淳とかダウンタウン松本のように、後半生でこの病気に罹ったらしい。人生の景品はすべて手に入ったはずなのに、手段にしか過ぎない、というより、手段にすらならない知性を欲しがるのである。アメリカ大統領戦も、票を数え直すために億単位の手数料を寄付で集めたとか妙な話になっているが、ポリコレにとってヒラリー敗北は極めて都合が悪いのである。これから津田大介はファッションとしてポリコレは使えない。なぜ差別はよくないのか、たとえば、なぜわれわれは戦前のナチズムに負い目を感じているのか、という問題を根本から説明しなければならないのである。ポリコレは馬鹿でも使える武器として機能してたのに、これからはいちいち説明しないといけないので、いわば裸城になった状態。100年前のことに法的責任は問えまいから、人権問題は人権団体の脅迫で立ち現れてくるのだが、ポリコレの旗色が悪くなったので、人権団体の正義にも説明が必要になった。津田大介の頭のレベルで、人権問題、つまり、なぜ法的に時効である問題を延々と遡るのかというのは、なかなか説明できまい。現在で言えば、われわれは在日朝鮮人から被害に遭っているのに、これはわれわれが生まれてくる前に彼らを差別したらしいので、何かしら民族的な責任があるらしい。ポリコレは地球市民であるはずなのに、民族というアイデンティティを最大の根拠にしているのが謎である。これからは、ポリコレを使うたびに説明が必要になるので、ポリコレおじさんたる津田大介は詰んだのである。いずれ、どれだけたくさん美人を抱いたとか、コミュ強らしい反撃をわれわれにしてくると思われる。
われわれは同じ現象世界を生きており、言葉は現象世界を記述するツールと言えるから、言葉は現実の人間や社会を書き写せるし、「悲しい」とか「楽しい」とか感情さえ指し示せる。
とはいえ、どこまで厳密に悲しいのか楽しいのか言い表せないのも確かである。
同じ現象世界の住人として同じ言葉は共有出来ても、限界というのがある。

われわれがこうやって書いている文章でも、ひとつの文だけだと言葉足らずでニュアンスが曖昧なことがある。
だから、誤読されないように、念を押すように書いていくのであり、同じようなことを表現を変えて何度も書くのはそういう理由である。

その一方で、故意に曖昧な発言に終始することもある。
竹下登首相は言語明瞭意味不明とよく言われたが、あれは故意であろう。
首相としてそれだと問題だろうが、一般人であれば、言葉を濁すことは多々ある。
あまりはっきり言うと差し障りがあるから、ぼかした表現にするわけだ。

もしくは、書き手の側で、「どっちでもいい」ということがある。
複数のニュアンスで取られる可能性があるが、どちらでも差し支えないことがある。
それは念押ししないで放置しておくわけである。
もしくは、知識不足による曖昧な記述。
あるいは、神様の仕組みであるとか、テーマが深遠すぎて明確な記述が出来ないこともあろうし、そういう時には、念を押すのを省くのである。
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