ヒラリーがなぜ嫌われているのかというと、本音を言わないタイプだからであろう。
これは詐欺とは違う。
偽善者と詐欺師は違うのである。
共通していることは多々あるが、共通してないこともある。
詐欺は嘘をつくことだが、偽善は本音を言わないことであり、併発しやすい病ではあるが、区別はした方がいいであろう。

ヒラリーは弁護士として磨き上げたテクニックなのだろうが、
官僚答弁というか公式見解を述べることに終始するし、
本音を言わない、というより、本音がないのであろう。
本音とはなんぞやと言っても、これはわれわれも自分の中でいろいろ葛藤しているのだし、
明確にひとつに決まったものではないが、
タテマエ論から踏み込んで、腹を割って話すということであろう。
いろいろな自分の考えや気持ちも含め、状況をあるがままに話すことである。

偽善と対極なのは馬鹿正直である。
何十年か前までは馬鹿正直が美徳とされていたが、
他人のプライバシーに土足で踏み込むような、配慮が足りない地域共同体だから美徳だったとも言えるし、
馬鹿正直が素晴らしいわけではあるまい。
とはいえ、それなりに正直ではあって欲しいものである。
これはバランス感覚の問題と言うしか無いが、
ヒラリーに関しては、公式見解しか言わないのが徹底しているし、
いろいろと腹を割って話して距離を縮めるタイプでもない。
公式見解しかなく、中身が空洞という印象を与えるし、実際にそうであろう。

偽善者などこの世から消えればいい、というわけでもあるまい。
時として、公式見解を繰り返すしかないこともある。
公式見解が悪であり、何でもかんでもズケズケと本当のことを言え、というわけはない。
とはいえ、ヒラリーは度が過ぎているし、法廷戦術に慣れすぎたのか、芝居がかった綺麗事しかない。

弁護士は双方代理が禁じられている。
原告の弁護士と被告の弁護士が話し合いで和解することはあるにせよ、
ひとりの弁護士が、原告と被告を仲裁するのは禁止である。
あくまでどちらかの立場に立ち、片方の立場に徹するのである。
もちろん大統領だって、自国の公式見解を述べるのが中心になるし、そういう白々しい官僚答弁を述べることに関して、ヒラリーは極めて優秀ではあるだろうが、ここまで偽善者オーラが強いと、人の上に立つべき器とは思えない。
どれだけ長広舌を振るっても語るべきものが見えず、分厚い契約書を読まされてるような気にしかなれないのでは、国家が危殆に瀕したときの精神的なリーダーシップも不安視される。
昭和天皇は右翼を止めるべきだったと素朴に考える人もいるだろう。「おまえら迷惑だからやめろ」と言うべきだった、かもしれない。だが、明治憲法は立憲君主制だから、天皇が右翼に活動停止を求めるのが難しい。あと、時代背景からして共産主義者を最優先で取り締まらないといけないし、特高警察に両方取り締まれというのも難しい。

なにより、右翼のおそろしさは天皇から頼まれてないことである。親切の押し売りは、贈与の一撃である。断ったら面子を潰すことになる。天皇が右翼に「おまえら迷惑」と言ったら、右翼の面子を潰すことになる。右翼は天皇に頼まれてないからこそ、いわばストーカーと同じ人種であるし、「おまえら迷惑」と言っても逆恨みしか無い。

孝明天皇がたまたま死んだことで、長州藩が覇権を握ったのが明治維新である。孝明天皇は天然痘で死んでいるのだが、ほとんど恢復したのに死んだという不自然さもあり、長州藩が孝明天皇を殺したという想像は誰だってするだろう。

たまたま孝明天皇が死んだら、孝明天皇から蛇蝎のごとく嫌われていた長州藩が官軍となったのである。孝明天皇に好かれていた会津藩がどれだけ酷い目にあったかは、説明を割愛してよかろう。その顰みに倣い、昭和天皇がたまたま死ぬことだってあり得るわけだ。

ともかく、孝明天皇が長州藩に「おまえら迷惑」と言って排除したら、たまたま死んでしまった実例があるわけだ。憂国の人たちは、天皇に拒まれたくらいで引っ込むことはない。明治天皇は近代化を成し遂げた偉大な人物で、孝明天皇は異人を畏怖する頑迷固陋な人間として描かれるが、そういうバイアスを後から国民に植え付けるのは容易い。右翼は天皇の部下ではないのである。無教養のクズの集まりながらも、何が正義であるかを知っているらしく、誰から頼まれてもないのに、その正義を具現化してくれるのであるから、その尊厳の高みたるや、天皇陛下の御稜威を超えるのである。依頼されたことをやるのはサラリーマンとか、奴隷とか、そういう雇われ人種である。頼まれてないことをやる人は、サラリーマンと対極の、独立不羈の自由意志を持ち、思想集団の食客として居候しながらも貴族的な精神を持つ大芸術家であり、天下国家を論じ、天空から啓示される天意に従い、直情径行する権利があり、誰にも意志を売り渡さない不遜な帝王である。
感覚は脳が作っていると言うが、膝を壊したら膝が痛いわけである。
これが身体性である。
脳の機能で判断しているはずなのに、膝が壊れたら痛いのは膝なのである。
われわれは身体性に馴染みすぎているので、あまりこれを疑問には思わない。
膝が壊れてるなら膝が痛いのは当然であろうと、そう思っている。

養老孟司がとてつもなく平凡であるのは、東大医学部の解剖学の教授であるにも関わらず、解剖学に関心がないらしく、脳について語ってしまったことだ。
それも脳医学を余芸として嗜んでいるレベルではなく、おそらく解剖学の探求は放棄したのであろう。
もちろんわれわれ素人と違って、知識は圧倒的であろうし、さすがに東大教授だから襤褸は出さないにせよ、トップレベルの中では最底辺であろう。

脳がすべて決めているのは確かであろうが、やはり膝痛は膝が痛いので、むしろ人体を解剖学的に見たほうが、脳の不思議に近づけるはずである。

「痛み」だけでも不思議なのに、膝が痛いとか、肩が痛いとか、肘が痛いとか、そういう身体の部位に紐付けられて痛んでいるのである。
神経が繋がっているから故障の情報が脳に伝わるのは当然としても、膝が故障したという情報で膝が痛くなるのがどうも不思議である。
神経が繋がっているだけであり、位置情報は把握してないという考え方もあるだろうが、われわれの普段の身体動作からして、脳は身体のパーツの位置を把握しているはずである。
たとえばわれわれが楽器演奏したり、もしくはスマホを操作してるのも、指の位置を脳が把握しているからである。目で指の位置を確認しなくても、われわれは自分の指の位置を知っている。

わたしのような医学の素人が、人体の構造について仔細に語ることは出来ないし、こういう粗笨なエントリーしか書けないのだが、該博な知識があるはずの養老孟司が、なぜ人体の不思議に魅入られないのか、この凡人性たるや恐るべしである。
人体の構造については、解剖学者として東大教授になるレベルだから、全部わかったつもりなのだろうし、よくわからない脳に興味を持って、文化人路線に行ったのである。
自分の道が見えなかった盲人であろうし、東大医学部教授とは言っても、茂木健一郎と大差あるまい。
https://twitter.com/yuuraku/status/779149372919472128

mahokichigai.png



キチガイという言葉は昔からあるわけだが、リアルの人間関係で頻繁に使われていたわけではないから、おそらくネットスラングと言ったほうが適切であろう。
それも、ネット初期のディベート文化が廃れた後の、ブロック時代のスラングである。
議論して勝敗を決めたり、理非を糺すのがあまりにも不毛であるとわかったので、このところわれわれはブロックで済ませることにしている。
キチガイと叫んで扉を閉ざすヒステリックな行為が共感性を呼ぶのがおもしろい。
Facebookのような実名SNSはあるにしても、やはり全体として匿名空間ではあるので、誰が誰だかわからない有耶無耶な世界であるし、白黒つける必要がないのである。
本当にキチガイかどうか長々と議論して決着をつける必要など無いから、そういうネットスラングでお手軽に納得できればいいわけだ。
自分が正義であるという短絡的な確信は、本来なら他人の正義と激しく衝突するはずなのだが、ネットだと誰が誰だかわからないので、お天気のような無難な話として着地するのである。
要するに酔っぱらいの愚痴であり、その中身に仔細まで踏み込まないわけである。
このキチガイという単語の共感性の強さからして、先制攻撃で相手をキチガイ呼ばわりしないとまずいから、ますます使用頻度が上がる。

この冒頭に掲げた、愚にもつかない意見がこうやってたくさんRTされるのは、おそらくキチガイというのを仮想敵として共有しており、魔女狩りだが異端審問だか知らないが、ともかく先手必勝が求められている時代なのである。
このツイートにしても、失笑せざるを得ないほどに平凡すぎる意見だが、この鋭さの一欠片もない一般性こそが共感を呼ぶのだろう。
「身の回りのキチガイ」という妙な括り方が跋扈し、それがひとびとの不満を生ぬるく包み込んでいるのである。
おそらく今のところ、これはネットの愚痴にとどまっており、リアル世界に侵食してないとは思うのだが、こういう匿名の気安さに馴染みすぎると、リアルで会うような相手をキチガイ呼ばわりしてトラブルに発展する懸念もなくはない。
なんかめんどうなことを人に頼んできて、お人好しかどうかをテストする人間がいる。
素朴な事例で言えば、「ノートを貸して」とか頼むわけである。
断ったら「あいつは嫌な奴だ」とか言いふらされるわけである。
ある程度おとなになってくると、変なことを言いふらす人間を見たら、こいつ俺の悪口もどこかで言ってるなと警戒心を持つが、なかなか子どもだとそういう勘が働かない。
他人が言いふらす話に身を乗り出して聴いてしまうわけである。
当然ながら個人差があり、それなりに落ち着きのある子どもだと、「こいつ俺の悪口を他でいう可能性があるな」と察して、変な噂話を吹き込まれても興味を示さないものだが、そうでない子どももたくさんいる。

あるいは、おばさんだと、ずいぶん幼児化するから、おとなになっても子どもみたいな言いふらしをやることもあるわけだ。
大人の男なら、「こいつ俺の悪口も他で言ってるんじゃねえか」という警戒心は最低限あるはずだが、おばさんは歯止めが利かない。

もちろん悪評が自業自得なら仕方があるまい。
たとえば覚醒剤をやっていて、「あいつ覚醒剤やってるぜ」と言いふらされるなら自業自得でしかあるまい。

問題なのは、「嫌な奴」という人間概念である。
覚醒剤をやってもないのに「あいつは覚醒剤をやってる」というのも困るが、「嫌な奴」というのも、別の意味で難題である。

「いい人」という人間概念は、ほぼ脅迫と言ってよく、いい人かどうかをテストされて断ったら、「あいつは嫌な奴だ」と言いふらされるのだが、こういう人間に屈するのはあまりにも愚かである。
「いい人」というイメージを破壊されないためには、最初から自分で破壊しておくのも手である。
「いい人」と思われるとコストが大きいので、最初からそう思われないようにしておくわけである。
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