一ヶ月くらい前のkindleセールで角川が実質七割引だったので、仏教の本を数十冊買って、ずっと読んでいるのだが、これによってかなり無常観が強まっている。マルキ・ド・サドがどれだけ瘴気漂う反社会的な情景を活写しても何とも思わないが、歴史的に聖者と認知されている高僧が、これだけニヒリズムを押し出してくると、その感化の力は凄まじく、重力の魔で四肢が動かなくなるのも時間の問題である。

まず言えるのは、仏教は説得力があるのである。たとえばキリスト教なら、死んだら天国で道重さゆみちゃんと結婚できるとか、そういう妄想に浸れるが、仏教はこの手のものを完全に否定するわけである。(親鸞のように念仏を唱えれば極楽浄土というのもあるが、仏教書をいろいろ読んでいると、どうしてもそっちの安易な方向は選べない)。天国など絶対にないと断定されるともっともな話である。妄想を否定するのだから、説得力があって当然である。今からいきなり木星が爆発する可能性がないとは言えないし、どのような可能性も完全に0とは言い難いから、普段のわれわれはどんな可能性にでも縋りうるのだが、しかし仏教書を紐解くと、0だと断定出来るようになる。

初期の仏教に関しては、輪廻転生に関するインド的迷信が背景にあるわけだが、これが中国から日本に渡ってくると、どうしても曖昧になるわけである。インド人以外のほとんどは人生は一回だと考えているし、輪廻転生への根強い迷信など持っていない。われわれは一回だけの重要な人生が惨劇に過ぎないことを嘆いているわけである。この絶望を世俗的な欲の否定によって解決しようというのが仏教であろうし、出家して仏門に入るのも、人生をことさらに軽んじているのである。一回限りの人生がどうでもいいという意思表示として出家するのであり、悪夢のように繰り返されるインド的輪廻転生から脱出しようとか日本人は考えていない。

仏教がわれわれの精神を毒するのは、宗教でありながら哲学の体裁を取っている悪質さであり、哲学書のように書かれていても、釈迦を否定するわけにはいかないし、(実際は釈迦はネパールで生まれているが)インド人特有の妄想と斥けるわけにもいかない。本来なら、釈迦の発想こそが、インド的な謬見として克服されるべきとも言えるのに、創唱宗教で創唱者を露骨に否定するわけにもいかないので、かなり困った問題である。とはいえ、仏門に入っていないわれわれとしては、釈迦をインド人の荒唐無稽さの極みと断じてもいいわけである。インド人という民族そのものが迷信の固まりであり、まずはそこが問われるべきなのである。ヒンズー教が支配してもやはり輪廻転生に固執してるのだから、これは教義というより民族的な迷信の問題であり、なんか時間が進まない状態で、延々とぐるぐる回っている歴史無き世界にいるらしい。

三島由紀夫の「豊饒の海」が失敗作となったのも、人生が無意味という仏教の説得力に屈した結果であろう。意味があるのかと考え込んだら、意味がないに決まっているわけである。これは仏教がすごいのではなく、「人生に意味はあるのか」と考えたら無いに決まっており、仏教は、そのニヒリズムのメソッドを利用しているだけなのである。
われわれがひとりの人物を理解しようとする場合、人間関係から見ていくわけである。菊地最愛という人物を理解しようとするなら、水野結衣や中元すず香との関係から見ていくことになるわけである。人間存在が他者との関係性から理解されるのは当然といえば当然であるが、このところその風潮が神経毒のように世界を蝕んでおり、関係から切り離した個人として一人の人物の輪郭を素描するのが困難となっているから、ソロで活動していると正体不明と言われかねない時代なのである。菊地最愛が高校生になったら、おそらくソロデビューするとは思うのだが、そうした場合に、人間関係という部分は楽しめなくなるわけである。BABYMETALの活動は平行して継続するであろうし、すでに多数の熱心なファンが付いているから問題はないが、今日においてソロ活動は個性喪失というリスクが大きいのである。類い希なアイドル性を持つこの少女でさえ、MOAMETALというキャラクターを経由せずに、いきなり菊地最愛として世に出るのは極めて困難だったと思われる。われわれもアイドルが誰と友誼を深めているのかチェックする癖が付いているから、ますます百合営業が猖獗を極めるという悪循環である。

世間にはこの種の愚にも付かないソーシャル性が蔓延しているのだが、さくら学院はかなり厳選された女子しか入れないから、レベルの高い人間から感化を受けるプラス材料も大きいわけである。問題なのは、ソーシャル性の総本山であるネット住人は、さくら学院の生徒とはまったく違うということである。中元すず香とか菊地最愛のような天上界の人間とは対極の連中の集まりであり、ここに降りてくる著名人らしき人間も、それに見合った山師であるから、風紀を紊乱し、愚作を生み出すために集っているようなものである。穢土に生まれて、それにふさわしい盲いた愚民と一緒になるのだから、似たもの同士として仲良くやれということかもしれないが、ソドムの雑居房とでも言うしかないのである。財務次官になれるくらいの学力があったはずの東浩紀でも、知能指数100未満だと確信できるレベルの馬鹿になっているのだから、レベルが低い方に合わせた無惨な反面教師として活用されるしかない。

人類が隠遁生活から偉大な業績を生み出すのは過去のことになるであろう。集合知のおそろしさは、大衆的な話題ではこれが有用であることである。集合知から天才的な業績など決して生まれないのだが、しかし通俗的な事柄に関しては、明らかに有効なのである。多人数で情報を多角的に検討するというのは、事柄の難易度が低い場合において、かなり役に立つ。まとめブログも、世間的な関心、つまり理解するのに特別な能力を要しない問題に関しては集合知が有利であるからこそ、繁栄したのである。人里離れた山奥で人類や宇宙について考えるということは、この時代においては、かなり困難なことである。携帯電話の普及により文化的な進歩が止まったと断じるのは誇張になるが、しかし、何かにつけて、ソーシャル的なものに結びつけないと金にならないのである。通俗的なことに関しては集合知が有効であることは間違いなく、これが廃れる見込みはまったくないのである。

SNSとしての側面を持たない限り、発信する側も運営する側もまったく金にならないから、公開するつもりがない文章をひたすら書き続ける風習は相当に廃れている。Evernoteは辛うじて、非公開を前提として筆を走らせることが出来るし、実行している人もいるであろうが、Evernoteを使う人間はたいてい自己啓発クラスタであるから、どうせろくなことは書いてないに違いない。SNSが流行ってから、下書きをしない時代になったのであるし、思いつきを、その思いついた時間と同時に流していくわけである。われわれが完全に孤独な人間として筆を執ることはないのである。スポーツ新聞の面白さと同じ次元のことを日々求めながら、SNSという暗渠が版図を広げ、これこそが正統だというのだから、絶望以外の何が可能なのだろう。
10月24日にはるかぜが新著を出したのだが、あまり売れてないようである。初版7000部はあまりにも勇猛果敢に過ぎた。フォロワー17万人と言っても、ツイッターなんてすぐやめる人が多いのであるし、生きてるアカウントは5万くらいであろう。5万人のうち7000人が買うとは思えず、また、じっくりと見れば見るほど2001年生まれの中学二年生のツイートとしては昭和過ぎるのがわかるから、金を払うほどのファンはかなり少ないと思われる。みずみずしい若木の匂いがするならともかく、老廃物の固まりなのだから、特に1400円という定価を考えるとかなりハードルは高いであろう。

はるかぜ(娘)は毒親による被害者でもあるが、しかし家庭環境の問題というのは、結局のところ本人が引き受けざるを得ない。児童相談所の案件と言えなくもないが、どこかの金持ちが面倒を見てくれるわけでもあるまいし、仕方がないのである。本人の性質を考えたら、愛嬌のある馬鹿という路線しかないのだが、はるかぜ(母親)は代筆が生き甲斐なのであろうし、文字の仕事でたくさんオファーがあればベストセラー作家で印税生活と皮算用していたのだろう。小学生の代筆をして褒められた成功経験が忘れられないのであろうし、このババアは救いようがない。愛嬌のある馬鹿として使って貰うしかないのに、それだとババアの欲が満たせないため、あくまで利口な子どもという路線から抜けられないのである。どうしてもそこで認められたいらしく、業病としか言いようがない。そもそも仮に知性に恵まれていたとしても、文字での仕事なんてたかが知れており、ましてや本人が公立中学で落ちこぼれているレベルでは、さすがに見抜かれてしまう。要するに、はるかぜ(娘)の実像とは懸け離れたイメージで売ろうとしているわけだが、ネットでリテラシーの低い人を誤魔化すくらいは出来るとしても、1400円払わせるのは無理である。

日本書紀の聖徳太子のエピソードも、かなりが作り話だと疑われているわけである。斑鳩宮に住んでいた厩戸王は皇族であるが天皇にはなってないし、血筋が途絶えているから、後から話を盛るには格好の人物なのである。文明初期だから可能であるのだし、勝者だから歴史が書けるのである。はるかぜ(娘)は現在において生存している人物であり、またタレント業であるから、本人を隠しても仕事のオファーが無くなるだけである。岡田有花の協力を得てツイッターのフォロワー数を獲得しただけで、タレントとしてのポジションを掴めなかった。実効支配さえしてしまえば、そこからは正統性が生じるのである。売れてポジションさえ掴んでしまえば、勝てば官軍となるが、ネットで足場を得ても、テレビの仕事に繋がってないからまったく無意味だったのである。ネットでチヤホヤされても、その層は本当のファンではないからお金は払わない。はるかぜ(娘)は使える範囲内の馬鹿だと思うし、鈴木奈々みたいな立ち位置は可能だと思うのだが、はるかぜ(母親)はそうは売りたくないという問題である。

誰も彼も成功するわけではあるまいし、はるかぜ親子は失敗事例として、ひとびとの記憶に残るのである。失敗例として生きなければいけない人がいて、それがはるかぜ(娘)なのである。芸能人はそれなりに虚像で商売してるのだが、美人だから誤魔化せるわけである。虚像で売れるのは美人の特権としか言いようが無く、はるかぜの容姿では無理なのだが、なんか静止画像で美人に見せようと頑張ったり、見当違いの努力を重ねており、今後とも迷走が期待される。この愚かさを教訓として語り継ぐことで、少しは人類のために活かされるのではなかろうか。
古来より人類が、肉体と精神を区別して考えていたのは、肉体は交換したいが、精神については同一性を保ちたいという欲求が背景にある。
人間が時間の中に存在していることを考えると、五年前の自分と現在の自分が完全に同一と言えるか判然としないが、ある程度の同一性は維持されているはずである。
時間が経過しても内面は同一であると考えているわけであり、それは同じ内面を反復しているからである。
何の変わり映えもしなければ、確かに同一と言い得るであろう。
何ら進歩もなく、昨日の自分と平仄を合わせていくことが必要なのである。

口癖という反復性がなかったら、われわれは他人の存在も理解しえないであろう。
口癖という形で他者の発言が予見出来るからこそ、われわれは他人を固定的な同一性を持った存在として理解しうるのである。
仮に他人の言動にまったく予想が付かなかったら、それは同一性を欠いた存在ということである。
同一性があるからこそ、他人の発言は予想可能であるし、それこそが人間存在なのである。
われわれは「自分」という人間の同一性を口癖に頼っているのである。
相も変わらず似たようなことを反復的に言い続けることで、同一人物であり続けているのである。
われわれの口癖は脊髄反射であるから、まるで発言が口に貼り付いているかのようであるが、そもそも脳と口が貼り付いているはずなのである。
この靴底のガムが剥がれないような感じが、われわれの同一性であり、この固着した性質こそが、時間が経過しても別人にならないということなのである。
この世の中は他人が幸福になった分だけ自分が不幸になるように出来ているが、そのような文脈での幸福・不幸とは別の次元で楽しさを伝えてくれるのが菊地最愛(さくら学院生徒会長)である。「みんなの笑顔の理由になりたい」というのを、おそらく人類の誰よりも実践しているのである。この土牢とも言える地球上に生活していて、人間の醜さなら散々知っている筈だが、菊地最愛は人類の楽しさの可能性を瞬間的にでも見せてくれるのである。決してこれによって借金が減ったり、腹がふくれたりするわけではないが、そういう現実的な利得とはまた別に、何かしら可能性を見せてくれる存在なのである。これほどまでに言動が排他的でなく、共感的な楽しさを世界に伝えようとしている少女は他にいないのである。

さくら学院は接触イベントはまったくないが、わたしはアイドルと握手はしたくないので、これはかなり好ましい。活動を見るだけならいくらでも見ることが出来る。ネットでも最大限に公開されているし、直接的に活動を見るのも容易である。握手という形で肉感的に悶々とする快楽を与えてくれることはないが、窮民が女の手に触れる機会を得るという貧しい切断面ではなく、それよりも遙かに無垢な楽しさに触れさせてくれるのが菊地最愛なのである。

かなり頭脳明晰でとても聡明な少女であり、MCも得意ではあるが、アイドルとしての実力も申し分ない。前半部を中元すず香が歌い、後半部を菊地最愛が歌っている映像があるが、ほとんど互角と言っていいレベルである。さすがにBABYMETALでボーカル交代というのは無いが、来年高校生になったあたりでソロデビューは充分に考えられる。



菊地最愛をいくら見ても現実の利益はないのだが、どのような境涯であれ、人間と人間が楽しさを共有しうる可能性を感じさせてくれる少女なのである。これによって世界が変貌するわけではなく、相変わらず人類が地を這う貧相な生き物であることに変わりはないのだが、重力の魔というべきニヒリズムを瞬間的にでも赦免してくれる存在であり、決して人生を薔薇色にしてくれるわけではないが、重い懲役を科せられている俘虜からすれば、絶望を深めるだけの惨劇の幕間に、威容を誇っている高い壁がほんのわずかでも解体され、病臥によって広がる褥瘡の痛みも忘れ、人間の愉しさに触れることが出来るのはとても素晴らしいことなのである。沐浴の後に再び絶望が訪れるとしても、それはわれわれ罪障深き囚人に相応しい疼痛であろうし、これだけ色欲と俗塵の泥土に塗れているからこそ、少しだけでも無垢な愉しさを教えられるのは、一欠片の拠り所にはなるであろう。
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