自然な人の流れに抗って、ルール通りにやるのは思想犯罪者である。多くの人は、人とすれ違う時は自分の右側を空けようとしており、これは利き手の方を空けようという本能であろうが、左利きの人間だっているのだし、右利きだってその習性が強く根を張るわけではあるまい。あくまで人の流れを見た上での臨機応変である。この間も新宿駅の階段で、(普段は左側を歩く習性があるからわたしも違和感はあったのだが)進行方向の矢印がなかったので、上から降りてくる人が多いから臨機応変に手すりの右側の狭いところを登ったのである。登ったところに改札口があるのだが、朝のラッシュのときなら満員電車から一気に吐き出された雲霞の如き人の群れが改札口を通過するべく階段を埋め尽くすはずである。ラッシュでないと、改札口から降りてくる人間の方が多いこともあろう。ともかくラッシュの時間帯ではなかったので、改札口から降りてくる人の方がマジョリティとして広い方を使っていたから、わたしは狭い右側の階段を登った。そうしたら、鳩山由紀夫みたいな顔をした奴が階段の上に姿を現し、「まさかこっちに来ないだろうな」とわたしは相手の目を直視して牽制したのだが、案の定わたしの方に降りてきて、やむなくわたしが立ち止まって通してやると、すれ違いざまに「逆」と小声でつぶやいて過ぎ去っていった。その後になって、念のため、わたしはその周辺の矢印を探したのだがなかった。やはり階段の下から大量に人が迫り上がって来るのは朝のラッシュのときであろうし、それ以外だとどちらとも言えない。朝から晩まで歩き方を統一するのはナンセンスという判断だと思われる。「注意された」から逆ギレという事件がよくあるが、警察発表だと、注意した方が立派な人間だということになっている。こんなのは明らかな文飾である。何が何でも左側を歩けとか、そういう人種が他人を注意するのであり、災難である。わたしの事例で言えば、件の人物は「左側を歩く」ことだけに固執しており、ラッシュの時とそうでないときでは人の流れが違うことに気づいていない。というか、ただの嫌がらせである。ともかくそういうわけだから、注意した善人が悪人に殺されたというニュースがあっても、それは文飾であろうし、嫌がらせをしたら報復されたのが事実である。
たとえば弁護士があちこちの名誉顧問に就いて高額の報酬を得るとする。(あくまで喩え話だから名誉顧問の活動の中身がほとんどないという想定で話を進める)。これは不労所得という側面があるわけだが、弁護士であるのが大前提であるなら、誰でもなれるわけではない。不労所得という言葉の正確な定義もなかろうが、誰でもできるというのがイメージではある。地主が土地を駐車場として貸すのが典型的な不労所得であり、弁護士が名誉顧問となって多額の報酬を貰うのは、また別の種類のものであろう。「同じ」と「違う」を厳密に考えると難しいし、完全に一致した場合だけ「同じ」なのかという論理学的難題に逢着するから、1か0かという話にはしない。人倫として是非を問うわけではなく、あくまで漠然たる比較検討の問題である。弁護士が名誉顧問として名前だけ貸すのは、労働を伴わない点では不労所得だが、「弁護士でなければできない」のであれば、駐車場を貸すのとは性質が違う。あるいは、他人の財産を奪い取ることは出来るが、弁護士とか医者は属人的な能力であるし、免許を騙し取ることが原理的に出来ない。医者はそれなりに世襲の側面があるし、下駄を履かせて貰えることもあろうが、この論考でそこまで考える必要はあるまい。財産の所有権は移転出来るが能力は移転できない。能力こそが人間の本質だという思想があるのは、その移転不可能性ゆえである。その思想に従えば、自らの能力で名誉職を得ている限りは非難される筋合いはないとも言える。汗水垂らして働くのが偉いと説くのは容易いにしても、舟遊びに明け暮れる貴族と中卒の底辺労働者のどちらになりたいかというと本音は別であろうし、労働だけに価値があるという思想の正しさも、赤化青年の憧れは独裁的指導者たらんとすることであり、労働に忙殺されることではあるまい。働きたいように働くというのがユートピア思想であろうが、労働をしたいというよりは労働から解放されたいのであろうし、これはつまり有閑階級の発想である。人間は誰しも有閑階級への羨望を抱いており、その度し難い欲求が極左革命を起こし、愚にもつかない暇人の有象無象を生み出し、その挫折を経て、他人の需要に隷従し買い叩かれる資本主義への迎合が促される。
2019.02.20

個人練習

劣等生がサボる連帯感とか、それとは逆に自分はこんなに頑張っているという優等生気取りとか、その誓約への疑心暗鬼として、「あいつは劣等生の誓いを破ってコソコソ勉強してるんじゃねえか」とか「あいつの優等生アピールは嘘八百だろう」という話になるわけだが、こういう思考方式は努力が苦痛だということを前提としているので、やや廃れた印象はある。努力は苦痛というのは古い固定観念であり、認識はそれなりに組み変わっている。人間が努力を嫌うのは、世の中で何かを習得するとなると集団で練習するのが基本であり、そこで恥をかくから、というのが大きな原因である。集団で同一の訓練をするとなると、どうしても要領の良し悪しが出てきて、出来ない人間が笑われることになる。衆人環視の中で落ちこぼれるのが惨めなのである。出来損ないが晒し者になるのは体育が顕著であるが、数学や物理だって出来ないことが恥になる時はある。だから授業で恥をかかないように、それ以外で個人練習しようという発想になるわけだが、個人練習は指導者抜きでやるので、いわゆる自己流である。優れた指導者に出会うことも必要だが、それを雇うお値段も高いので、ごく普通には学習塾あたりになるだろうが、塾で授業を受ければそれで終わりというわけでもない。一人で個人練習できる資質も重要である。個人練習を「影で努力していて素晴らしい」と賛美する事もできるが、苦しいトレーニングをしているから偉いという意味で言っているのなら有象無象の俗的発想である。個人練習できる資質自体に価値がある。指導者がいなくても練習の仕方がわかっているのはセンスである。恥をかかないために事前に訓練しておくだけでも意味があるし、それより高い次元で個人練習できるなら、自分のやるべきことがわかっているのであり、なおさら素晴らしいのである。ぐうたらしているのは徳操が低い怠け者というよりは、個人練習の仕方がわからない気の毒な人なのである。恥をかかないためという初歩から、頂点を目指す境地まで幅はあれども、個人練習とはその人間の世界であり、やるべきことに気づいて実践できるだけでも価値がある。「努力してるフリ」とか「努力してないフリ」という俗的なものとはまったく違う話だ。
自閉は不可思議であるかのように思われているが、少なくとも自閉男性は馬鹿正直という気質を持っているのでわかりやすい。われわれは人間として存在しており、その次元を超越することはできないから、人間として人間理解をするしかないのだが、自閉男性であれば、だいたいこの通俗的な人間理解に収まる。それに比して自閉の女はどうもわかりづらい。裏と表があるし、その裏側の「本当の気持ち」とやらも俗的な魂胆というよりは、ファンタジー的である。この違いは、理屈っぽさの問題であると思う。自閉男性は理屈っぽいという強い傾向がある。誰しも理屈は一応理解しており、その一方で、理屈がタテマエに過ぎないことも知っている。その見極めが自閉男性にとって、人生において逢着する難所となるが、理屈というプロトコル自体はイミフではないし、人類普遍のものでもある。地球人類とまったく仕組みが違う宇宙人がいるとしたら、「母子家庭」とか「東大」とか「不登校」とかさっぱりわかるまいが、われわれはそういう概念を理解している。たとえば東大を不登校になった自閉男性が、偏差値の低いネトウヨを理屈で血祭りに上げたとして、これは人類普遍の理屈で勝ったわけである。勝ったのはいいとして、ネトウヨに勝っても「東大卒」にはなれないので「経歴詐称」するわけだ。さて、自閉女子というものにわれわれが困惑するのは、このような理屈へのこだわりを欠いていることである。あくまで自分のファンタジックな物語を生きているのである。だいたい女子という生き物は周辺視野が強く、先天的な社会性を持っているのだが、時たま自閉女子というフリークスが出てくる。自閉女子は理屈を理解しないから、これは本当に理解不能である。辻褄が合わない空想の世界をそのまま生きており、経歴詐称ですらないのである。この気質の差は、女子は婚姻でクラスチェンジできることと関係しているというか、つまり、有村悠さんが東大卒になるのは無理だが、そこらへんの未婚おばさんがたとえば東大卒の医師と結婚するのは(可能性はとても低いにせよ)あり得ないことではないから空想は無敵である。有村悠さんが東大卒になる可能性は絶無だと立証することはできるが、そこらのおばさんが東大卒男性と結婚する可能性は絶対にないとは言えないので、論理が飛躍した不思議ちゃんが出てくるのである。
これは何ら隠喩を含まない俗的な話なのだが、スマホやタブレットはひとつのアプリに占拠されてしまうことがある。典型的なのはゲームであり、特に「シムシティ ビルドイット (SIMCITY BUILDIT)」のように「ながらプレイ」でやるものはメリハリが無いので、ずっとタブレットの画面を占拠し続けることがある。廃人になるほど血道を上げるようなゲームではないが、十年一日の如く怠惰に堕する悪魔的なゲームである。シムシティをアンインストールすればいいというもっともな意見もあろうが、(架空の他者のツッコミを思い浮かべてそれに脳内反論するのは馬鹿げているが)シムシティだけの話ではないと思われるし、他のアプリでも似たようなことはあろう。さて、何が言いたいのかというと、本来であれば、他にメインのことをやりながら、箸休めのようにシムシティをやるべきなのだが、シムシティの方が主食になってしまう倒錯である。この倒錯を糺し正常化するためには「シムシティ専用端末」を用意することになる。シムシティビルドイットは安物の端末でも動作するようになっており、iPad Pro 12.9インチでプレーしても特別に壮観というわけではなく、スマホと大差ない。もちろん大きい端末のほうが操作はしやすいし、iPadの方が多少は見映えがいいが、プレイする気力を削がれるほどの差ではない。であるから、脇役化した古い端末をシムシティ専用にあてがうことになる。それによって主戦力たる端末が自由になる、というわけだが、ここからは余談、というより、語るべき主題もなく稿を起こしたので話が転々としていくのだが、わたしの場合、本来なら主力であるはずのiPad Pro 12.9インチがエレキギター演奏の専用端末になってしまっている。もちろんエレキギターを延々と演奏しているわけではないので、ギターを弾いてないときはiPadを普通に使えばよろしかろうというのもあるが、楽器演奏や楽曲製作なら断然iPadとしても、それ以外ならAndroidの方が自由度が高くていいというのがある。iPadはカスタマイズの自由度が低いので、Androidより確実に優れている音楽関係のアプリとか、そういうところに使い方が偏ってしまう。固定レイアウトの電子書籍、もしくは自炊して電子化した書籍などはiPad Pro 12.9インチはかなり優位性があるが、だが、ちゃんと電子書籍化されていて文字を拡大出来るなら小さいディスプレイの方が読みやすかったりする。それにiPad(iPhone)は出来損ないの有料アプリが悪疫のように広まっており、息をするだけで人頭税を取られる具合である。かつてのフリーソフト文化においては、乞食ユーザーが高圧的な要求をしてくるのが日常茶飯事であっただろうし、プログラムの作者はひとびとの我欲にさぞかし辟易としたであろうが、どうやらこのところプログラム作者の方が乞食になっており、出来損ないアプリは無論のこと、優秀な有料アプリがiOSのアップデートに対応せずに放置されているのが普通であるから、この匪賊の群れは無能のインチキだけの話でもない。グーグルが立派で徳操高いというわけではなく、本業が広告代理店だからであろうし、民衆の膏血を啜る手段が異なるだけであるが、iPadの得意分野ではiPadを使い、どちらでもよければAndroidの方がいい、というのがある。Androidで有料アプリだと、いわば由緒正しき血統書付きというイメージだが、iPad(iPhone)は素性の知れない雑魚アプリでも有料だし、優秀な有料アプリも放置されることがあり、地面師と似たりよったりの連中が集う魔窟である。なんにせよ、いろいろな意味で、複数の端末があったほうが使い勝手がいいのである。無論、10台あっても10人分の作業は出来ないが、端末が複数台あって余ってしまうことはあまりないのである。
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