知性というのは、なぜか人間の根源的なコンプレックスである。容姿がまずいのと、頭が悪いのとでは前者の方が明らかに苦痛であり、知性など夾雑物に過ぎないはずだが、これは快楽主義的に生きていける場合の話である。重苦しい現実において、頭のよし悪しは燻り出されるし、概して育ちが悪いと頭が悪いので、ここが鈍痛のように長患いする怨恨の根源ともなりうる。育ちの悪い人間は知性をコケにしようとたゆまぬ努力を続けるが、これは美男美女への嫉妬とはまた別であり、快楽主義が消し去られていく現実の重みである。たとえば腐るほどに1万円札が積み上がっていて快楽主義を謳歌出来るのなら、それこそ知性など本当に必要がないのであるが、やはり楽園を追放された衆生が集まるギスギスした俗世間においては知性が重要となる。育ちが悪いほど快楽主義になるが、金がないので、快楽に溺れるとなれば破滅的な人生になってしまう。快楽主義の挫折が現実だとするなら、知性の軛を遁れて桃源郷をひらひら飛び回ることはありえず、この有象無象が張り付いている大地に繋がれるのみである。美男美女に嫉妬するとすれば、つまり美男美女として恋愛を享楽することに憧れているわけだが、知性への嫉妬の根底に学問への情熱などあるまい。決して知性がほしいというわけではなく、むしろ文字など読みたくないのであろうが、文明社会の力学に取り込まれているからには知性を避けられず、そこで葛藤が生み出される。ややくどく言うと、「セックスがしたい」のと「勉強がしたい」のとではまったく異なるわけであり、育ちが悪ければ勉強など決してしたくないのだが、文明社会がそれを許さないのである。このような育ちの悪い輩への配慮として、知性など無意味という論が展開されることがあるが、これはつまりユートピア思想である。いつまでも遊んでいられることはなく、苦痛だらけの現実では知性がなくてはならない。ともかく、こういう現実の重力からして、勉強嫌いなのに知性が欲しいという奇妙な願望が生まれる。あるいは、社会性でなんとか世渡りするとしても、最後には知性という見栄が欲しくなったりする。
よく年末が忙しいというが、これは締切間際に思いつくタイプの人間が結構いるからである。これは多動性の問題でもあるから個人差はあるが、人間は切羽詰まるとアイデアが浮かんでくる。その閃きが優れている人もたまにはいるのだが、優れた閃きでも人間のクズがたまたま天才という話であるから褒められたものではないし、ましてや、莫迦なのに思いつきだけは百人前というのがいるから困るわけである。あるいは、年末になってようやく重い腰を上げるのは一種の常識なのかもしれない。三井住友海上の保険の代理店の奴が事前連絡もせずにいきなり年末にやってきて12月末までに書かないといけないクソみたいな書類に記入させられたのだが、それはもっと前に持ってきて然るべきものであった。これなどは莫迦というよりは、社会的な図々しさなのであろう。わたしはすでに加入しているわけだから前触れもなく飛び込み営業のような格好で来るのは理解しがたいが、たぶん他人の都合を乱して不興を買うのを厭わないのがそいつのやり方なのだろうし、塵芥のような有象無象に数撃てば当たるという営業のメンタリティなのだろうと思われる。当然ながら、12月だから普段より早めにと気を遣う徳操高き人もいるであろう。延々と放置していて年の瀬ギリギリにやってくるのは発達障害者か、もしくは図太いコミュ強か、ともかくろくなのがいない。誰もが駆け込み乗車をしたら将棋倒しで死亡者が出るに決まっているし、あらかじめ乗車している人が多いのであるが、しかし、駆け込み乗車の慌ただしさこそが人間なのかもしれないし、秩序が逸脱を作り出し、逸脱が秩序を作り出すというか、そもそも急いでないのに駆け込み乗車をしてしまうこともあるし、発車間際の風物詩として欠かせない気もする。死は平等であるが、死生観がひとによって異なるような具合である。重力のように抗えないはずの死や時間に対する考え方がひとによって異なる機微は、それぞれの顔立ちが違うように必要なのであろう。遅刻魔がいてこそ、時間というものの輪郭が浮かび上がるとも言える。とはいえ、迷惑行為であることに疑いはなく、11月にやればいいものを12月28日に言い出す面倒な輩とか、年明けで充分と思われることをなぜか切羽詰ったように12月28日に勇み足で実行して他人を煩わせるなど、切迫した慌ただしさで本性が照らし出されるのである。
東浩紀のゲンロンカフェがゴタゴタしているらしく愚痴ツイートを繰り返している。御本人が仔細まで述べてないから、言葉を濁している部分は想像で補うしかないが、社員に「裏切られた」らしい。横領ではないそうだが、何かしら経理面で杜撰なことがあったと思われる。そこそこ人望のある社員だったが、裏の顔があったらしい、とかわたしもよくわからんが、ともかく、このところ東浩紀は尻拭いのため経理のお勉強に忙殺されているそうだ。ゲンロンは閉鎖しないそうだが、ひとまず規模の縮小というか、今まで社員が九人だったのが四人に減るそうだ。東浩紀は筑駒で二番だか五番だかの成績だったのが御自慢であり、秀才ではあるのだろうが、ソーカル事件(ジャック・ラカンの高等数学の知識が出鱈目だと理数系の大学教授に晒し上げられた事件)の影響で、フランス現代思想の知識がむだになってしまった。東浩紀は天才でも何でもないから、その学識に疑義が呈されたとなればただの無知である。財務官僚になろうと思えばなれていたのだろうが、いまさら経理のお勉強をしているようでは、そこらの阿呆と大差ない。思想のお勉強が無駄になるというのはマルクス主義の学者もそうだったのだろうが、むしろマルクス主義なら思想そのものは面白そうだし、フランス現代思想は同じデタラメでもレベルが低い。「ぼくひとり儲かっても人文知の復興はないからって発想で、ゲンロンではあえてそういことやってなかったんですよね。でももうぼくも自分の利益だけを考える年齢かもしれないですねー」という発言もしているが、東浩紀のようなセミプロはネットの害悪のひとつである。たとえば初音ミクでも、最初はアマチュアの文化だったのが、だんだん食えない音楽家の発表の場となった。いや、アマチュアよりセミプロの方が優れているのだろうし、そもそも他人の表現活動を禁じる権利などないのだが、職業的なセミプロよりは純然たるアマチュアの方が面白いという側面もある。発表するのは自由だから、それを阻止するという話ではないが、セミプロは技術はあっても所詮はプロの二軍だし、それに似つかわしいつまらなさがある。たとえばアマチュア枠の有村悠さんの方が、ロックスターとしてわれわれを楽しませているし、これぞ高卒レベルという日本史の知識をツイートしているのも、いずれ、いずれ、いずれは大川周明のような碩学になるための苦難とも言える。東大で西洋史学を専攻したら退学処分になった経緯を考えるに、日本史に挑戦しても結果は同じだろうが、しかし、しかし、アマチュアならではの面白さというのもあるわけである。
他人の意思を尊重しなければならないという正しい意見はともかく、われわれは他人の意思を左右することを目指している。他人の意思を支配下に置きたいのである。たとえば他人を善導することが、独善的であるにせよ、われわれの目的なのである。そもそも意思とはなんぞやといってもよくわからないが、何かしら選択肢の問題であろうし、その他人の選択に介入したいのである。「悪い影響」という言い回しがあるが、われわれは何者かに感化されて存在している。いろんな意味で、良くも悪くも影響関係なのである。自由/不自由について言うなら、好んで影響を受けるのが自由で、好んでないのに影響を受けるのが不自由という通俗的な分類は出来るが、ここで正しい意見は述べない。人間は模倣する存在であり、知らず知らず他人を真似てしまう。毒親とロールモデルは、快楽と苦痛が同文脈であるとするなら同列に並ぶ。洗脳という言葉があるが、これは「悪い影響」という価値判断を含んでおり、他人に影響を与えるという人間の基本原理について、気に食わないものだけを揶揄しているのである。ビートルズを真似すると不良になるとかいろいろ言うのも、影響への畏怖やその阻止なのである。教育論というのは、要するに他人の意思に好影響を与えたい独善主義者が唱えるわけである。誰かの意思を巡ってスカウト合戦のような争奪戦が起こるのはわれわれの日常の光景である。われわれはいつも選挙運動をやっている。命令者たらんという欲求を持つ人間が賢明とは限らないし、下手くそに限って教え魔ということもある。劣悪な人間が世間を善導するべく選挙に立候補するのは致し方あるまい。物理的な暴力で他人の肉体を支配するのは、「よい影響」「悪い影響」を超えることもあるが、物理的な暴力を使いつつ時には優しくしたりして他人を飼うドメスティック・バイオレンスな行為については、相手の意思を無視しているように見えながら、実は相手の意思に重大な関心があるわけである。劣悪な先輩がただ後輩を支配するために理不尽な命令を繰り返すのは、後輩そのものには関心がなく、自らの政治的立場を守るためであろうから純然たる権力欲求とも言える。とはいえ、そういう暴力的な絶対支配もやはり思想的に染め上げる必要があるだろう。さて、このエントリーは正しい意見を書くことが目的ではないので、もっともらしい結論はつけないが、他人の意思を巡る力学について類聚的に書き綴ってみた。
Apple Pencilについて思うところを縷々と書き綴る。新型iPadに合わせて新製品(第二世代)が発売されたようで、あれこれ改善もされたようだが、アップルが新製品を出すたびに買うわけにはいかないので、あくまで旧製品について書いている。そもそも製品レビューではないし、Apple Pencilそのものについての雑考である。さて、このところフリクションボールという凶器が蔓延しているが、消えるボールペンという紛らわしさ、たとえば重要文書の改竄の恐れだけでなく、あれは推敲を否定しているから使うべきではない。原稿用紙の余白に言葉を補った経験のある世代にとって、ただ書き損じを直すだけのフリクションボールは笑止千万である。ちゃんと推敲して文章そのものを直せ、ということである。朱筆を入れる替わりに元の文字を消して書き直すことが、文明の進歩とは思えない。Apple Pencilだと書き直しが当たり前であるから、「改竄」について懸念する必要はないし、そもそも大幅な推敲ができる点でフリクションボールとは話が違う。アプリにもよるが、たとえばOneNoteでも、Apple Pencilで書いた文字を移動させたり、もしくはすでに文字が書かれている箇所に空白を挿入して、そこに書き足すこともできる。文章の一部を削除して空白が生じたら、その空白も詰めることができる。つまり余白が伸縮自在で、加筆修正できるのだ。推敲したいならテキスト入力でやればいいという話もあるだろうし、Apple Pencilで手書きするとなると、つまり画像データのようなものだから容量も大きいので、何百ページもある長文なら素のテキストのほうが適しているのは言うまでもないが、手書きに回帰しておかないと文字を忘れる一方であるし、ともかく推敲を加えた綺麗な手書きノートを作りたいなら、Apple Pencilである。デジタルで手書きするマイナス点として、他人に画面を触らせたくない、もしくは相手にそのような気を遣わせることである。Apple Pencilの使い方の模範映像などを見ると、美男美女が和気藹々とiPadの画面を囲んでなぞったりしているが、やはりタブレットやスマホの画面を他人に触られたくないという心理は誰にでもある。所詮は雑菌まみれであるが、自らの手の雑菌と他人の手の雑菌は違うというのが人間の衛生観念である。この衛生観念は虚妄とも言えるし、電車の吊り革に触れないのは強迫性障害(つまり観念の歪み)とされるわけだが、自ら馴染んでいる雑菌と他人の雑菌の違いと言えばいいのか、言語に絶する不潔な人間もいるであろうし、虚妄のように思えて虚妄ではないこともあろう。やはり他人の前にiPadを出して、そこに書き込みながら説明したりするのは、相手も遠慮するであろうし、向こうがiPadを取り出したとしても、やはりそれにベタベタ触るのはまずい。そこらの紙に殴り書きしているなら、気軽に触れるし、話のやり取りをするには安っぽい紙のほうがいいということになる。プライバシーとして自分のスマホやタブレットを他人に見せたくない感情については言うまでもない。さて、Apple Pencil的なものの今後を考えると、PDFの不自由さはいつになったら克服されるのか、ということである。PDFに自分の手書きで注釈をつけたりできるのがApple Pencilの面白さのひとつだが、やはりPDFそのものが不自由なので、意外と使い所がない。パソコンでPDFを抽出して並び替えたりする手間のほうがとても億劫である。そもそもPDFを編集するとなれば、それなりに高価なソフトが必要、もしくはたまたまパソコンにソフトがバンドルされているか、ということになる。電子上の「紙」の代表格がPDFである限り、タブレットに手書きというのは、その可能性の一部しか開き示せないのである。現状では普通の紙に油性ボールペンで書くのが望ましいという結論にもなってしまうが、手書きして推敲するのが人間知性の基本であり、フリクションボールは書き損じを訂正するだけだから反知性主義者のツールである。
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