気性が激しい女子がいる。不真面目な男子とは違って、病的な真面目さを感じる。スポーツで女子を指導すると宗教っぽくなるのは「こうやってみてはどうか」と妥当なことを言っても頑なに拒絶されるからである。教祖と信者という宗教的関係でなければ従わない。チャラチャラした男子部員とはまったく話が違うのだ。絶対に言うことを聞くものか!という意固地さが女子にはある。合理的な指導者は退場するしかないし、宗教的な指導者しか残らない。洗脳するしかないのである。男が「この人の言うことなら聞く」というのは義理堅さだが、女がそれだと、なにかしら狐憑きのような激しさである。男の忠誠心は盲目的ではなく、どこかしら政治的立ち回りというか、派閥のバランスまで目配りした行動だが、女はただ一直線で盲目である。だから女を指導するとしたら「手なづける」しかないのである。女は劣った生き物であるからこそ、強いオスだけに従うという動物的本能があり、(弱いオスには絶対に従わないという反逆精神があり)それでこうなるのかもしれない。ごく普通の意見交換すら成り立たないこともある。では、どうすれば、女がひざまずく教祖になれるのか、それもわからない。女がホストに貢ぐのも、たぶんホストを「強いオス」だと認識しているのだと思う。ホストはどう考えても劣った人間だが、まあ野性的というか、「強いオス」に見えてしまうのだろう。とりあえず、この手の我が強い女を従わせるには「強いオス」だとハッタリをきかせればいい。関東連合に加入するとか。
このところパワーワードという言葉が流行っているが、着眼点のいい言葉だと思う。われわれを刺しに来る強い表現についてのモヤモヤをひとびとが感じていて、パワーワードという言葉で輪郭がクッキリしたのである。「人権」「差別」などが典型だが、それ以外の事例でいうと、守秘義務というのもパワーワードだとわたしは思っている。都合の悪いことを言わないインチキ臭さが、あたかも正義のように変換されてしまう。プラス点だけ列挙してマイナス点は言わない詐欺師で世の中は満ち溢れているが、マイナス点を言わない大義名分として「守秘義務」がよく使われる。職業的に義務付けられていることもあるだろうが、たいていは個々人の民事契約でしかない。法律上の守秘義務という文脈では、かつて西山事件というのがあった。毎日新聞の西山記者が外務省の女性事務官と肉体関係を持った上で情報を聞き出した。女性事務官は情報漏洩の罪、西山記者は教唆の罪を問われた。この事例からすると、「情報を教えろ」というのは教唆の罪となるリスクがあり、守秘義務という言葉がパワーワードとなるのだろう。外交上の機密情報と民事契約の内容は次元が異なるはずで、詐欺師同士が「これは秘密だぞ」と仲間内で約束している内容など知ったことではないが、そのあたりの混同を解きほぐすのも難しい。詐欺師がもっともらしく守秘義務といえば、なんか正義のようになってしまう。都合の良いことは言う、都合の悪いことは言わない、それも人間として、当たり前といえば当たり前であるから、何でもかんでも開示せよ、ということではないが、インチキ臭いのも確かであり、決して立派なことではない。都合が悪いことは言わないというのは仕方ないにしても、後ろめたさの裏返しなのか、守秘義務というパワーワードで刺しに来るのはやめていただきたい。
狛江市の強盗殺人をはじめとして、ルフィ事件の実行犯について取材した本である。実行犯の周囲に「昔はどんな人だったか」と聴いて回った本である。この手の取材はバカバカしいのも確かであるし、小さい頃のエピソードと後年の犯罪を結びつけて心理分析するのが正しいとも思えない。とはいえ、この本をざっと読んでみると、実行犯たちにかなり単純な共通点があるのは確かである。まず、当たり前すぎることとして、借金がある。消費者金融に借金があったり、あるいはそこまでの厄介な借金がなくても、普段から金遣いが荒い。金銭感覚がまったくないのである。当たり前の当たり前であり、金銭的に困窮してない人が闇バイトに応募するわけがない。「借金があるから闇バイトに応募」というのは身も蓋もない現実だが、列挙されたエピソードを眺めつつ再確認した次第である。また、実行犯のほとんどは低学歴なのだが、だいたいは付き合っている異性がいて、同棲して孕ませて子どもまでいたりする。一言で言えばヤンキーということだが、男と女というよりは、オスとメスである。彼らは社会的な劣等感や挫折感はあっても、異性への引け目がない。オスとメスとして動物的にくっついて恋人や子どもは作るような生命力がある。つまり、実行犯たちは非モテではない。非モテという人種は、異性に高望みしてこじらせたりしてるわけだ。モテるモテないというのは、異性への理想の高さも関係しているし、闇バイトの実行犯は非モテの発想とは真逆で、とにかく手近で済ませる。それだけなのである。理想の異性が現れるまで待っているなんてことはない。こういう生命力が、プラスの方向に行けばいいのだろうし、女を孕ませて子どもが出来たら仕事を頑張るという更生の仕方もあるだろう。ヤンキーだったら闇バイトをやるという単純な等式ではあるまい。金遣いの荒さが治らないヤンキーが闇バイトに応募する、というつまらない結論になりそうである。このグループは、狛江市の事件ばかり注目されるが、時計店襲撃事件では頭部を殴られた男性が脳挫傷でずっと意識不明の重体であるらしい。かつてのサラ金の頃だと、自殺させて生命保険金で返させていたが、最近は闇バイトで強盗をやって返済するのだろうか。ともかく借金は抱えているわけで、そういうヤンキーに「闇バイトはやめましょう」と言って意味があるのかわからない。闇バイトを踏みとどまっても借金は消えない。そもそも古今東西、カネに困った人間が犯罪というのは普通だし、少し前までなら暴力団組員になっていただろう。金目当ての犯罪という当たり前の行為の元締めが変化しているだけとも言える。
ボクサーのリーチの長さについて調べていて思ったのだが、われわれは身長にはとても敏感だが、腕の長さには極めて鈍感である。辰吉丈一郎はリーチが長く、確かに見てみると長いとは思うのだが、本当に長いかどうかは自信がない。辰吉は身長164センチでリーチが178センチなのだが、腕の長さの見分けについては自信がないので「実は嘘でした」と言われると、ああそうなのかと思うわけだ。ちなみにリーチというのは肩幅を含むから、腕の長さで語るのは間違いだし、そこがリーチを見極める難しさだが、この文章の趣旨は、ボクシングのリーチの問題ではなく、腕の長さに鈍感という話である。辰吉の身長が164センチというのは、そうだと思うし、実は170センチと言われたら、絶対に嘘だとわかるわけだ。160センチと言われても嘘だとわかる。これも不思議である。たとえば、目の前に机があるとして、横幅について問われたら、誤差がかなり出そうである。横幅150センチが正解であるとして、おそらく正確に答えられる人は少ないと思うし、140センチと答えたり、160センチと答えたりするかもしれない。他人の身長は正確にわかるが、目の前の机の横幅はわからない。これが人間なのである。なぜか身長だけは正確に測れるのである。自分の身長を物差しにしているというのもあるが、映像で見ても身長はわかる。目の前の机の幅よりは、映像に映っている人間の身長のほうが正確に答えられる。あるいは、足の長さなら見極められるし、頭部のサイズについても、敏感だからわかる。腕の長さとなると、なぜか自信がないのである。足の長さと頭部の大きさはスタイルにとって重大だが、腕の長い短いはどっちでもいいので、ボクシングのときくらいしか出てこない。だからボクシングの選手を見ても、腕の長さの判断には、あまり自信がない。もちろん大雑把に長いか短いかはわかるのだが、身長のように細かくは見極められないのである。
どれだけ厚顔無恥に振る舞う人間にも限界はある。恥のない人間はこの世に一人も誕生したことがない。動物には恥がないので、ここは本当に謎である。もしかすると原始人には恥がないのかもしれない。「社会」が恥の根源であり、それ以前の原始状態であれば、恥がないかもしれない。猿には恥がないと思われるので、どこかに区切りはあるはずだが、(細かく言えば猿から人間に進化したわけでは無いが)、進化的にどこから恥の感情が生まれたのであろうか。猿にも群れはあり、強者と弱者、あるいは戦いに負ける屈辱などはありそうである。負けて悔しいという感情は一応あるはずだ。それでもやはり猿に羞恥心はないと思うので、負ける悔しさとは何かが違うのであろう。われわれの社会の基本として、「本当のことを言ってはいけない」というのがあるが、これがひとつの根幹であると思う。猿には言葉という刃物がないので、「本当のこと」が言えないし、羞恥心が育たない。おそらく、言葉という刃物への警戒心が恥なのである。公然の秘密なるものがあり、それを言葉にするだけで侮辱なのである。猿に秘密があるのかというと、言葉がないので、秘密もなさそうである。言葉は他人を罵倒するために誕生したという仮説を唱えても面白そうである。名前をつける機能が言葉であるというありがちな意見よりは面白いように思える。なぜ言葉は刃物なのか、それも難しいし、ブスにブス、チビにチビというのがなぜ刃物たりえるのか、これも難題である。優劣の感覚はもちろん猿にもあるだろうし、(ブスと美人という美醜がわかるかは別として)、大きい猿と小さい猿の優劣はわかっているはずだが、そういう体格差をチビという言葉で表現するのが侮辱になるのである。おそらく、わざわざ言わないときは、体格差が存在してないものとして振る舞っているのである。チビという言葉を口に出すとなると、体格差を如実に優越感/劣等感としてマウントすることになるわけだ。いわゆる差別用語が差別の根源であるというのはあながち間違いではない。いつもいつもわれわれは言葉で他人をマウントしているので、言葉こそが差別の根源というのもひとつの理解である。
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