人間はどう考えてもボウフラみたいに沸いてくる量産型なのだが、なぜかそれぞれオンリーワンな存在だ、という人がいる。肉体という牢獄に幽閉され、森羅万象から隔てられた孤独な存在なのだから、その立ち並ぶ墓標のひとつとして、ひとりひとりの墓碑銘はあるから、それを何らかの唯一無二の固有性と誤認しているらしい。

人間はシングルタスクしか出来ない。目の前にテレビを二つ並べて違う映画を見るのは不可能ではないが、そうやって映画を楽しめるか疑問である。本を二冊同時に読むのも、ほとんど無理である。右耳と左耳で違うラジオを聴くくらいは可能であろうが、ふたつのことを同時にやるのは、基本的に出来ない。

医者と弁護士の資格を両方持っている人は実在するわけである。だが、右手で患者を診察し、左手で法律の書面を書くのは無理である。この人がさらに画家の才能があるとして、画家も兼ねるとしても、人生で与えられた時間を医者、弁護士、画家で三分割するしかない。肉体がひとつであるというのは、ある時間において一つのタスクしか出来ないということなのである。医者と弁護士の資格を両方取っても、同時にそれをやることは出来ない。

精神と肉体の二元論で考える場合も、ひとつの精神とひとつの肉体という対称性で考えるのが普通であり、肉体が10個あれば便利だという発想はあまりないようである。脳が根本的にシングルタスクであることを考えると、肉体が10個あっても持て余すという問題がある。さきほどの例で言うなら、肉体が三つあっても、それで医者と弁護士と画家を同時にこなせるかというと、脳の仕組みとしてかなり困難だろうと思われる。

個人はシングルタスクしか出来ないので、分業が必然的となる。あらゆることが潜在的に出来るような万能の天才であっても、ひとつの時間においてひとつのことしか出来ない。70億の肉体を動かすには70億の脳が必要である。このシングルタスクの宿命が、われわれを歯車のひとつにしてしまうのである。

ひとりひとりの個人はシングルタスクを行う歯車でしかなく、本当は無個性であることは隠蔽されている。人間性という共有物から、それぞれ個人が人間性の一形態として発露しているだけなのだが、胃袋と生殖器が別々なので、利害の不一致は絶対的である。食料は農業の発達でどうにかなるとしても、性の問題だけはどうにもならない。美はとても稀少であり、たいていの人は稀覯書を紐解くことを夢見るだけに終わる。誰の家にでもエアコンやパソコンはあるが、誰の家にも道重さゆみちゃんがいるというわけにはいかない。個々人に性欲があることで、何かしら唯一無二の固有性があると錯覚しながら、われわれは苦難の人生を送り生涯を閉じるのだが、性欲の未達成こそが自我であるというのは、人類の苦しみは永遠に続くということなのである。
子どもに芸能活動させるのは毒親と決まっているのだが、蒼波純だけは異次元であり、偏差値の高い女子高にいるような、かなり恵まれたタイプに思える。

蒼波純は「ドイツに家を建てたい」というのが設定らしいので調べてみたら、本当にドイツに行ったことがあるそうである。

https://twitter.com/junaonami/status/365823845367681028
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単なる設定としてドイツと言っているのではなく、家族とドイツ旅行に行って「ドイツに住みたい」と思ったのである。
思いつきでドイツ-ポーランド旅行をするような御家庭らしいので、育ちがよさそうなのは見せかけではないようだ。

http://theinterviews.jp/junaonami/5220835
ドイツの建物がすてきでした、
教会の鐘が時間になると町中に鳴り響きました

前に行ったドレスデンではワルプルギスってバス停があって
まどか☆マギカにはまっていたので盛り上がりました

ドイツの食べ物も全部おいしかったし、住みたいなと思いました
2013-10-23 19:37:12


蒼波純はドイツ語の勉強を単なる趣味でやっているらしい。「テストに出ないことを勉強するのは損」という通俗的な発想がないようだ。母親に手を引かれて訪れたドレスデンに想いを馳せながら、ゴスロリ衣裳を身にまとい、白亜の洋館でドイツ語の書物を紐解いているのである。はるかぜが本を一万冊読んだという作り話とはまったく次元が違うのだ。

本当の意味で教養豊かな家庭だと思われるし、情操教育にお金を使っているからナチュラルな知的好奇心があり、まさに深窓の令嬢というべき少女が生まれたのである。娘にネットをやらせないという教育方針も、ツイッター漬けのはるかぜを見れば、どちらが望ましいかは明らかである。

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かなり勉強もしているようで、先日の期末テストでは学年二位だったのだが、加藤智大の家庭のような切迫性は見受けられない。
蒼波純は家庭環境が恵まれているので、身の丈にあった学習をしているだけである。

家庭環境が悪くても、たまたま本人の地頭や容姿が恵まれていればよい。中川翔子がその典型であろう。中川翔子の家庭環境というと、父親の女遊びで家庭崩壊と説明されているが、中川勝彦が1962年7月生まれで、中川翔子が1985年5月生まれであるから、父親が22歳の時に生まれている。隠し子扱いだから、父親の女遊びで家庭崩壊という設定はおそらく嘘であり、最初から母子家庭だったと推察するのが妥当だろう。それでも中川翔子は、著しい短足ながらも、顔と地頭には恵まれていたので、何とかなったのである。お金をかけて立派な教育をしなくても、たまたま中川翔子は先天的にレベルが高かったのである。

はるかぜ親子は「こどものおもちゃ」が好きらしいのだが、倉田紗南になぞらえるべきは、はるかぜではなく中川翔子であろう。倉田紗南のような人生を歩むには、生まれつきの地頭のよさが必須である。はるかぜは動画で見ると、うわずった甲高い声でしどろもどろの喋りしか出来ないから、これはかなりまずいレベルである。ツイッターは母親ではなく自分が書いていると主張しているが、手練れの娼婦みたいなツイートをしていても、動画で見ると未成熟で発達が懸念される子どもでしかないから痛々しく、母親が考えた設定を子どもが消化できずに嘔吐している悲劇なのである。打てば響くような反応のよさや、目から鼻へ抜けるような聡明さがあるなら、誰も文句は言うまい。毒親に自分の人生を奪い取られた子どもという懸念を払拭するためには、動画で流暢なトークを見せて、動画とツイッターのギャップを解消するのが必須である。
他業種で有名になった人が声優になった事例はほとんどない。
デビュー時点で無名であるのが声優の大原則である。
元々の知名度が高い人間が声優に転じた事例としては宍戸留美や日高のり子がいるので、絶対にあり得ないわけではないが、事例はかなり少ないので、無名であるのが大原則だと思われる。
平野綾ちゃんのSpringsは誰も知らないレベルであるし、その前に14歳で「キディ・グレイド」のリュミエールという役をやっているのが大きい。
キディ・グレイドの当時はやたらと上手い声優の人がいると思って印象に残っていたのだが、それが中学時代の平野綾ちゃんだと知って驚いたのはずいぶん後である。

花澤香菜と悠木碧は子役をやっていたが、子役時代の知名度が極めて低いので、無名人枠である。
知名度のある子役と知名度のない子役は全然違う。

宮崎駿作品や、ディズニーアニメの吹き替えを有名人がやることはあるが、それらは単発である。
声優業に転じたわけではない。
萩原聖人がアカギやカイジの役をやっているが、声優に転じたのではないし、知名度が高い人が継続的に声優をやるのはレアケースである。

岩男潤子はセイントフォーの追加メンバーであり、芸能人をやっていたことはあるが、セイントフォーの名前は知っていても、ほとんどの人はメンバーのことは知らない。
ましてや追加されたメンバーだから、かなり無名に近かったと思われる。

AKBの仲谷明香、秦佐和子、佐藤亜美菜は声優になると言ってAKBをやめた。
この三人は一般的な認知度が極めて低いが、このうち仲谷明香と秦佐和子は端役をすでにやっているようである。

はるかぜは子役としてたいして活躍してないのに、ツイッターのおかげで知名度だけはある状態である。
世間の誰でも知っているというレベルではないし、知らない人の方が多いとしても、ネットのヘビーユーザーなら誰でも知っているという認知度が逆にネックである。
需要がないにも関わらず、有名人という病気になってしまったのである。
有名になるほど声優への道が遠のくのに、名前だけアピールしているのが不思議である。

そもそも無名人だとしても、はるかぜは声優のオーディションであっさり落とされるに決まっている。
はるかぜは声優どうこう以前に、動画で見るとまともに喋れていない。
ツイッターで見せる能弁さや、静止画像で見せる可愛さを、動画でも実現するのが先であろう。
なぜ日本で何で革命が起こらなかったかと考えると、まず天皇を殺すメリットがない。ごく普通に考えて、天皇制を廃止したならば、天皇制の復活を目指す尊皇派が決起すると思われる。華族だけが天皇の味方ならいいのだが、誰でも尊皇派のサムライになれる。家柄が百姓でも、サムライとして決起するのが可能なのである。

幕末の孝明天皇(公武合体派)が暗殺された疑惑は、たいていの幕末史に書かれており、実際に暗殺された可能性は充分にあり得るが、これは王を断頭台に送るのとは違う。公式にはあくまで病没であり、公然と殺害したわけではない。そもそも暗殺だとしても、都合の悪い孝明天皇を秘密裏に葬り去り、明治天皇(睦仁親王)を担ぐわけだから、天皇制の崩壊などまったく目指していないのである。

こうやって下級武士が明治天皇を担いだというのが、誰でもサムライになれる(天皇の側近になれる)という物語を生んだ。2.26事件はまさにそれが醜悪な形で発露したものである。そもそも下級武士が明治天皇を担いで明治維新を起こしたという物語は必ずしも正確とは言えない。あくまで中山忠能という公家を味方に付けたから可能だったのである。中山忠能の娘の中山慶子は孝明天皇の側室として明治天皇を産んでおり、五歳まで明治天皇は中山邸で育っている。(その後も中山慶子は明治天皇の世話をしている)。要は中山忠能は明治天皇(睦仁親王)の実の祖父である。後の大正天皇も産まれてから七歳まで中山邸で育っているから、中山親子と明治天皇の結びつきは強い。王政復古の大号令の晩に開かれた小御所会議で倒幕の方針が完全に固まったわけだが、この会議の冒頭で開会を宣言したのは中山忠能である。

大室寅之祐という人物が(薩長が本物の明治天皇を殺して)明治天皇になったというデマを信じている人を見掛けるが、仮にそうであるとしたら、最大の山場である小御所会議に中山忠能が中心人物として参加し、開会宣言をするとかあり得ない。明治天皇(睦仁親王)の実祖父の中山忠能を味方に引き込んでいるのだから、殺してすり替える理由がひとつもない。中山忠能は孝明天皇存命時の禁門の変で長州側を支持しているし、この繋がりがあってこその明治維新である。

明治からの日本人は誰でもサムライというのは、要は徴兵制の発想ではあるが、ソビエトが全盛期の頃にマルクス主義者が革命を起こして皇居を焼き討ちにして昭和天皇を殺害したとしても、あの当時なら他に男系皇族がいろいろいるから、そっちを天皇にすればいいだけであり、そうなった場合、軍部がどちらにつくであろうか、と考えると、軍部そのものにマルクス主義が浸透しない限り、かなり革命は困難であると思われる。

たとえば(現実にはあり得ないが)明治維新の時に薩長が天皇制を廃止したら、江戸幕府だって、徹底抗戦したであろうし、ごく普通に薩長が滅ぼされていたと思われる。水戸藩出身の徳川慶喜は尊皇の人であるし、天皇を薩長に確保された段階で江戸城を明け渡すしかなかった。
喩え話だが、道重さゆみちゃんのような天上界の天使とやってみたいという男がいるとする。これは単純な性欲である。さらに高じると、道重さゆみちゃんとやれないのは、存在として耐え難いという思いが生じてくる。これは自我の欲求なのである。この場合に問題なのは、諦めれば楽になるという問題ではなく、むしろ諦めることへの畏怖である。何とはなしにこれが断念され、超越的な美を希求することもなくなり、つまらない和解条件に署名し、俗塵にまみれた日常に回収されていくことが畏怖の本質なのである。絶対的な美に一度でいいから触れてみたいという自我の欲求をよくよく考えると、単なる強迫観念であり、叶わなくても何ら困らないはずである。死んだ後に残念思念として「道重さゆみちゃんとやってみたかった」と何億年も絶望し悶絶するとか、そういうことなら深刻であるが、おそらくは唯物論的に捉えるのが正しいであろうし、死んだらこの桎梏から解放され無に還されるのだから、なんら問題がないはずだ。とはいえ完全な無をイメージ出来ないのが人間の難しいところである。われわれは自らの性癖を変えたくないのである。性癖が変わらないのは、変えたくないというのが、極めて大きな理由である。下着泥棒の累犯者を矯正するとする。理屈としては矯正は可能であるはずで、あれは単なる布だと説明するのは可能であろう。だが、性癖とは自分自身なのである。性癖という病気は治したくないのである。たまたま女子高生のパンチラが見えても何も思わなくなるという状態にはしたくないのだ。性癖の矯正は、せっかく水路付けされた快楽の回路を放棄するということなのだ。下着がとても性的に美しく見える回路が脳内に深く根を張っているのだから、これを放棄することには耐えられまい。ケーキが死ぬほど好きな知人がいるとして、その人にケーキを食べるのをやめさせるのは、現実的に可能であろう。いくらケーキが好きと言っても、それは自我の根源とは結びついてないし、ケーキを断念したからといって、味覚のレセプターが鈍磨し死に絶え、ケーキの甘さがわからない人間に変貌するわけではない。性の快楽構造はケーキが甘いという単純さと違うから、自らの脳に配線された快楽の経路を無効化するのは、その快楽が叶った時の喜びを放棄することになる。美が人間を蝕むのは、これが原因なのである。キリストを求め続けた人のところにキリストが降臨するのと、信仰を失い俗塵にまみれた人間の前にキリストが降臨するのでは、その奇跡に遭遇する悦楽がまったく違う。欲しいと思うものを断念し、すっかり忘れた頃にそれが手に入ったとしても、祭りが終わった後に賞味期限切れの景品を得たようなものであり、キリストの前に拝謁をたまらい謦咳に接したとしても、すっかり興味を失ったアイドルに出会ったような白茶けた喜びしかないのである。だからこそ、われわれは、それを得た時の喜びを最大化するために信仰を続け、教会のステンドグラスに描かれたイコンに聖性を見出し、それが超越的な世界と照応していると信じるのだが、開かない仕組みになっている扉の先にこそ美があるのが問題である。
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