最近は障害者も長生きするらしい。根本的に障害を治せるならいいが、治せないのに延命だけはできる。ダウン症を治せるなら素晴らしいが、ダウン症の人を長生きさせるのが医学だとすれば、その半端な進歩で頭痛が止まらない。おそらく新型コロナみたいなウィルスは昔からあったはずで、老人や病人が流行性の肺炎で死んでいただけだろう。医学の進歩が延命思想と手を携えて、健康な現役世代も道連れとなり、ひとびとは三年間ゾンビであることを強いられた。大災厄に晒されたわけだが、いずれにせよ、われわれは三年間の仮死状態で年を食ったのである。文字通りにせよ隠喩にせよ、ゼロゼロ融資の返済が迫っている。このところ路上に車が溢れているが、景気が良いとも思えず、荒っぽい走りを目にするたびに、自暴自棄な世情を痛感する。コロナ期間は、高齢者のために右往左往していたが、今となっては、現役世代が高齢者になる見通しも立たない苦界である。ヨボヨボの老人とかボロボロの飲食店を助けただけで、何がやりたかったのかわからない。90歳になってもまだ延命するような風潮はコロナ以前からあったわけだが、長寿により死が曖昧になったがゆえに、少し早めの死と向き合えていない。高齢者の票をあてにしている政治家はもちろん、「田舎の両親に会いたい」とか遺産目当ての胡散臭い親孝行が自らの墓穴を掘ったのかもしれないが、老人の延命措置の結果として、あちこち壊死して片輪だらけの社会になった。これによって得たものはまったくないのである。戦火を交え、たくさんの血が流れた敗戦であれば、被害は甚大であれど、既得権のリセットという恩恵があるが、この三年間の自粛生活は、他者との距離感に神経過敏になっただけで、生きるか死ぬかの危機に瀕したわけではない。むしろ若くて健康体であると無症状感染でウィルス兵器という罪悪感さえあり、その弱みを突くかのようにマイノリティーの多士済々が跋扈し、健康でない人のほうが偉いというか、理非が曲がる以外の何事でもなかった。漠然と延命する愚行をまざまざと見せつけられたので、これから半死半生のまま泥水を啜るよりは、いっそ死んだほうがマシという自暴自棄な発想が現役世代に蔓延しても不思議ではない。
山川穂高は以前から今一つ好きではなかった。陽気な人物であり、いい人というオーラはあるのだが、むしろ、そこに空々しい違和感があった。わたしは沖縄の人と関わって嫌な思いをしたことがあるので、おそらく似たような虚無を山川穂高に感じたのだと思う。沖縄が大好きで移住する人たちも、失敗して戻ってくることが多いようだ。フレンドリーに見えて、根っこの部分では断絶がある。琉球処分で日本に組み込まれたのは1879年である。国民国家という統一的な概念も近代的なものだし、この頃の田舎はどれも独特な風土や因習があろうし、日本の田舎と沖縄でたいして違いがあったとは思わないが、太平洋戦争に負けてから1972年まで占領されて返還されなかったのが大きく、どうも日本語がネイティブに浸透してないというか、文化的断絶は間違いなくある。人間知性の最高峰は数学だとしても、やはり読み書きが基礎として大事である。本土復帰してから50年経っており、段階的に解消されるのかもしれないが、読み書きは親から教わるので、文化資本が蓄積されて日本語が血肉化するまでには時間がかかるかもしれない。世界的に見て、暑い地域は発展しないという強い傾向があり、寒さによる淘汰がないと、貧困でもなんとなく生きているみたいな状態になりやすい。ともかく沖縄人は「いい人」なのだが、やはり傍若無人なところが確実にある。表面的に接しているうちは愉快であるが、近寄ってしまうと鼻が曲がるほどの俗臭がある。親しくならなければいい人だが、頭のネジが何本か外れているのは間違いないので、現実に関わったら大変である。
精神的な病気は、治ったら困るというのがあるわけだ。病気になれば休めるとか、そういう発想である。うつ病に関しても、そういう側面はある。誰かが鬱になったら、自殺の心配をしないといけない。そこには、自殺したら誰かが責任を問われるというコンプライアンスが内在している。コンプライアンスの時代だからこそ、うつ病になるのである。コンプライアンスもクソもない世の中だったら、鬱になっている暇はないし、ならないのである。昨今においては、人生の苦痛がうつ病に昇格すると、それによって特権階級となる。やはりメンタルヘルスには流行り廃りがあり、かつてあれだけ隆盛を極めた強迫神経症(強迫性障害)も時代遅れである。強迫神経症よりはうつ病になっておいたほうがいい、というのがある。怠けたり休んだりするのに使いやすい方便はなにか、それがうつ病なのである。人生が辛い・苦痛でしかたがない、というのは万古からの人類の悩みである。生きていて苦しいというのが人生であるが、その苦しみを〇〇病として発病するのはなんぞや、ということだ。うつ病だから苦しいのではなく、人生そのものが苦痛なのであるが、苦痛だから苦痛という当たり前のことが等閑に附されている。うつ病とは他人の自殺に責任を持つ、そういうコンプライアンス文脈のパワーワードなのである。ともかく人生は苦しい。その苦悩の安直な表現方法が精神疾患なのであるが、なにかしら疾病利得が背景にある。うつ病になると得するからうつ病になるわけだ。
よく「間違った練習法」とか「間違った勉強法」という言い回しを目にする。これは、たいていは指導者の自画自賛なのである。自分の正しい指導方法なら成功するというセールスである。だから「間違った練習法では上達しない」と言われても、惑わされてはいけない。よほどおかしな練習法でなければ、練習が無駄ということはない。勉強にしても、あまりおかしな勉強法でなければ、まったくの無駄ということはない。もちろん、練習法や勉強法に優劣はあるのかもしれないが、わたしが言いたいのは、「これでは絶対上達しません」と断言して、自分の指導方法を自画自賛する輩の胡散臭さである。練習法がおかしい、というからには、誰に聞いても「それはおかしい」と言われるレベルが必要であろう。わたしはエレキギターが下手なのだが、なぜ下手なのかというと、高校生の頃に変な練習をしていたからだと思う。当時はクリップ式チューナーがないから、チューニングが面倒で怠っていた。ちなみにクリップ式チューナーが初めて発売されたのは2004年だそうだ。当初は安くなかったようだが、最近ならちゃんとしたものでも1500円で買えるし、さらに安いのもある。さすがに最近だとクリップ式チューナーを使ってないことはないと思うが、昔だとチューニングを合わせるのが面倒だから合わせてないということがあり得た。こういうのはさすがにまずい。チューニングが狂ったギターで演奏したら弾けるようにならない。これについては100人中100人が賛同するであろう。その一方で、なにか特殊なところで「この練習方法は絶対にダメです」と言ったりするのは、指導者の自己宣伝であろう。そして不安になっている人は引っ掛かってしまうのである。
https://news.yahoo.co.jp/articles/61987dc311bca8d4b9ce3a8128bc47ba608472da
日テレNEWS
29日、埼玉県熊谷市で、胴体に矢のようなものが刺さった猫が見つかりました。
警察によりますと、29日、埼玉県熊谷市の住宅で、70代の女性から「野良猫の体に矢が刺さっている」と通報がありました。通報した女性によりますと、猫は胴体に10センチほどの矢のようなものが刺さっていましたが、保護しようとしたところ、そのまま逃げたということです。
猫が見つかった家の住人「なんか体についてるよって。それでよく見たら矢が刺さってた」
女性はこの猫に定期的に庭でエサをあげていたということですが、29日、庭にきた際に矢のようなものが刺さっていたということです。
警察は、猫の捜索を続けるとともに、動物愛護法違反の疑いで詳しく調べています。

野良猫への餌やりに怒る人はとても少ない。もし餌やりおばさんを刑務所に入れることができるなら、野良猫を矢で射る必要もなかっただろうが、お仲間がたくさんいるようで擁護されてしまう。実行犯はおそらく悪臭・騒音に悩んでいる近所の住人だろうから、逮捕されるかもしれないが、本当に囚人服が似合うのは誰か、という話である。ところで、わたしが気になっているのは、猫を飼っている女性の茶髪・金髪率の高さである。どうも偏差値が低そうなのである。知能指数100未満の世界である。知能が低い人は社会性で頑張ろうとするので、図々しさ、抜け目のなさ、倫理観の欠落、他者への威嚇、虐げられているという被害妄想、それが野良猫へのシンパシーにつながるのかもしれない。猫は人間を差別しないので、差別感情がない桃源郷だ。餌やりだけで懐いてくれる。餌がすべてという頭の悪い世界だ。だからこそ、餌やりが侵害されたときの生々しい現実への怒りがあるのだろうが、知能指数100を越えている人は野良猫に餌やりをしないし、知恵遅れに知恵遅れと言ったら悪いのか、という話である。
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