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本当に心神喪失している人は病気そのものが苦痛であるはずなので概して活動量が少ないし、ネットで大暴れしている輩のほとんどは有村悠さんのような快楽主義的人格障害者であるが、どうやら、本当に心神喪失の人から怪文書が直に届けられたようである。
この文面からは何も読み取れないが、いわゆる世界没落体験をしたのであろうし、その原因が有村悠さんということらしい。
われわれは寝ているときの夢で「コーラを飲むと癌が治る」とか「池田大作から攻撃されている」とか、そういう荒唐無稽な観念に取り憑かれるのだが、目が覚めているときにもその憑き物が落ちず、なおかつ直接的に訪問してくる人がいるのであれば、これは警察に相談するべき案件であろう。
普段からキチガイを演じている有村悠さんが警察に頼るのは恥ずかしい気もするが、どうせ生き恥だらけなのだし、どっちみち数え切れないからひとつやふたつ増えても差し支えあるまい。
親を尊敬するとか、教師を尊敬するとか、先輩を尊敬するとか、そういうのを定型的な訓示として述べて終わりにするのは、物事の深層まで洞察してないのだし、人間理解が足りないと言える。
温厚な親とか温厚な先輩なら、「尊敬します」と言っておけばそれまでだし、いわば儀礼で済むのである。
これが気性の激しい人間となると、そうはいかない。

つまり尊敬と一言で言っても、温厚な人と気性の激しい人では話が違う。
気性の激しい人間であれば絶対服従を求めるから、儀礼では済まない。
奴隷としての実践活動で尊敬を示す必要がある。

「尊敬に値する」とか「尊敬に値しない」というのは分別としてあまり適切ではない。
表面的な儀礼で済むか済まないかが大事なのである。
儀礼で済むのであれば、相手が誰であれ一定の敬意を払って然るべきだろう。

温厚さ、気性の激しさはある程度は先天的なものだが、本人の人生への態度でもある。はるかぜババアのような気性の激しい人間は生まれつきであるだろうが、それに加えて育ちの悪さとして、娘に絶対服従を求めるのである。あちこちで干戈を交えては、その累が娘に及ぶ仕組みなのである。娘を使って炎上を繰り返すことができるのは、やはり気性の激しさが突き抜けているのであり、これは自らの人生への憎しみであり、その深淵には底がない。

有村悠さんはディスプレイ破壊おじさんとして知られており気性も激しいのだが、どこかしらユーモラスな側面もある。高卒なのに朝から晩まで東大の話をしている最底辺の人間だが、はるかぜババアほどに突き抜けてないのは、やはり東大に合格した体験があるからであろう。虚無へ還るべく人生や世界という事実性の全てを焼き尽くし根絶やしにするとなると、東大合格という事実が消えてしまうのでまずいわけである。金持ち東大生から「おまえは高卒」とか「わたしは特別な人間だが、あなたは特別な人間ではありません」となじられて退学した怨みがあるとはいえ、人間最後のプライドが満たされているのである。有村さんが本質的にファッションメンヘラであり、通り魔のような気質を持ちながらも実行しないのは、どれだけ潰走を繰り返しても、やはり東大合格が金字塔として煌めいているのであろうし、もしこれがなかったら、箍の外れたルサンチマンの虜として、森羅万象のすべてを消去するために怪物化していただろう。

平凡で温厚な人はたくさんいる、というより、世の中の半分くらいの人はそうであるから、尊敬する美徳が安易に説かれるのであろう。
前述したように、相手が温厚な人間だと儀式で済むが、気性の激しい人間だとそうはいかない。

気性の激しさはプライドの問題とかなり深く関わっているので、まずはそこに着目する必要がある。
温厚な人間と気性の激しい人間を厳密に区別できるわけでもないが、それでも明確な違いはある。
社会的に成功しているにも関わらず、あたかも殺し合いのような勢いで他人に向かってくる激しさを持つ人間もいるし、いろいろとバリエーションはあるだろうが、こういう気質まで考えた上で「尊敬する」という行為を考えねばならない。
なぜかわれわれは自分の家族と他人の家族の区別がつかない。
いや、別人であることは知っているが、あたかも同一のように見做して共感しているのである。

社会には経済というものがあり、家族は連帯保証人のようなものだから、身内と他人というのは区別できるけれども、家計という縛りがないとしたら、どこまで家族関係の根拠があるのかわかりづらい。
経済という要素がなければ、という仮定はナンセンスかもしれないが、仮に経済という要素がなく、誰もが最高の環境で生まれてくるとするなら、親が誰かはさして問題ではない。
やはり経済的な問題として連帯している関係だと言うしかないのである。

ベビーカーが迷惑という変な話が出るのも、イエ制度から核家族に転じているので、個人主義的な発想に基づいて家族を守るという観念が強くなっており、子連れの親が警察官のように見えるからだろう。
事件報道があるたびに、ネット上で「これが自分の家族だったら相手を殺す」とか書いてる善男善女がたくさんいるわけだが、そのような家族愛の意識が、現実のベビーカーなどを見ると、自らが犯罪者だと疑われないように警戒する形で跳ね返ってくる。
家族に何かあったら「相手を殺す」と仇討ちを予告しているのが最近の親であり、そういう殺伐とした善男善女と現実に接するとなると厄介なのである。
仇討ちの予告は犯罪に該当しないようだから、これは自由なのであろうし野放しにされるが、其の結果として殺伐感が生まれる。

自分の家族は本当に自分の家族なのかというと、前述したように、人間は経済的存在なので、富貴の生まれとか貧賎な生まれという格差が出るわけだが、これは要するに縄張りの問題であるし、事実といえば事実だし、無根拠と言えば無根拠である。
「これが自分の土地だ」という所有権に事実性があるのなら、「これが自分の家族」というのも事実なのであろう。
人間同士での取り決めでしかないが、その事実性が人間存在である。
経済的に運命共同体であるというのは、たまたまどこかで接点があるという程度ではなく人生そのものであるし、だから最寄り駅の駅員さんを「自分の駅員」だと言うことはなくても、自分の家族は自分の家族なのである。
ではなぜ自分の家族と他人の家族を混同して共感しているのかというと、「身内」というイデオロギー性なのであろうし、それが軍事境界線なのであろう。
有村悠さんがいつもの金欠に入り始めたらしい。印刷代の前借りをしているようである。同人誌でそこそこ利益はあるはずだが、赤字を承知で地方のイベントに遠征したり、川崎から近場の秋葉原でさえワシントンホテルに泊まったり、艦これに100万円を超える課金をしたり、数多の無軌道な奢侈が彼を行き詰まらせたと思われる。

このような不行跡を断ち切るために、強制的に貯金させるという対処療法はあるとしても、その強制力のために後見開始の審判まで行くのは容易ではない。

金銭感覚の話だけではなく、世界認識の在り方が問われている。有村悠さんの金遣いの荒さは、あたかも手足のない人間が電動車椅子であちこちに突撃していくような生き方である。バリアフリーでどこまでも辿り着けるという全能感ではなく、自らの手足で世界を認識し、事理弁識能力を獲得しなければならない。

空間的に別の場所は不可知とも言えるし、未来も不可知ではあるのだが、空間には地図があり、時間についてもだいたい妥当な経験則があり、予想は可能である。世界は決してバリアフリーではないので、空間認識と時間認識をきちんとした上で人生を操舵しなければならない。

われわれの地理認識はかなり拙いものである。さすがに最寄り駅への道や生活圏の土地勘はあるけれども、そこから少し外れたら地図を参照してやり繰りしている。自宅から5キロくらいの近場でも、たまたまほとんど行かない場所があったりするし、そこでは迷う。フランスに行ったことがなくても場所を知ったつもりになっているし、其の程度のかなり端折られたものなのである。決して細密画のような空間認識はしていない。

時間についてもかなり拙いはずであり、そもそも時間は現在しかないので、過去の記憶と未来の想像を直線的に繋いで見当識を生成しているに過ぎない。過去も未来も判然としないものである。それでもやはり、生活に必要であれば、たいていの人はスケジュール通りに回転している世界に合わせて、時間と空間の平仄を合わせ、適切に存在していくのである。時間と空間は幻想のようであるが、人間にとっては絶対的な真実である。時間と空間は絶対的なバリアである。この真実から目を背けてバリアフリーな言動をしていると、人生の破綻が待っている。人生が破綻したらどうしたという話もあるし、どれだけ立身栄達を遂げて勲章をぶら下げようと誰しも荼毘に付されて無に還るのだが、この文脈ではそこまで思考を虚無に這わせる必要はあるまい。人生には計画性が必要である。

東京大学に合格したことがある有村悠さんが、このような障がい者同然の人生を送っているのは憂うべきことである。嘘がバレても平気で活動を続けている連中をネットで散見するわけだが、有村悠さんの破滅的な散財は、そういう後からバレる嘘に似ていて、実は破滅というのではなく、箍が外れた図太い神経に根差した故意であるようにも思える。疫学的に見れば、だいたい母子家庭育ちはこんなものという気もするし、外に女を作って出ていった父親はかなり浪費癖があったようだし、ママンは料理をしない人である。世界認識の弱さと育ちの悪さが相俟って病膏肓に入るという印象だが、いずれこのあたりは自伝小説で綴られるのであろう。
岡目八目という言葉がある。

たとえば昼飯のためにラーメン屋に行ったとする。
すごい行列が出来ていて、その後に用事があるとしたら、ラーメンを断念して、カレーでも何でもいいと思うのが普通だが、本人のこだわりとして、後の用事に差し障りがあってもラーメン屋の行列に並ぶということだってある。
端から見ていたら、ラーメンに固執する合理性がわからないし、カレーでもいいと思うわけである。

この喩えでは、ラーメンとカレーにヒエラルキーがないという前提で話しているわけだ。
これが岡目八目なのである。

「カレーでいいだろ」という岡目八目な意見が誤謬である可能性もある。
好き嫌いがあるからこそ人間なのだと言えるし、ラーメンにこだわるべき合理性があるかもしれないのだ。
第三者が見ると、当人の好き嫌いを無視して「どちらでもいい」とか、「こっちの方が正解だろ」と決めつけてしまうのだが、その合理性に適応できないのが人間でもある。

どうもRoseliaを見ていて懸念されるのは、ギターの姉ちゃんだけ、この歴史的なユニットに価値を感じてなさそうなことである。
ギターの姉ちゃんは、元がトップコート所属のセブーンティーンモデルだが、おそらく身長150センチないと思うので、それが原因で解雇されているはずなのである。
調査したわけではないので想像でしかないが、ごく普通に見てモデルをやる身長ではなかろうと思うだけである。

オジー・オズボーンとセブンティーンモデルのどちらが凄いのかと言ったら、オジー・オズボーンに決まっているのだが、これは好き嫌いの問題でもあるから、本人のこだわりも重要である。
われわれが端から見て岡目八目でとやかく言っても仕方がないのであろう。
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