人間は17歳くらいで自我に目覚めるわけである。理由はいろいろあるだろうし、本能的な部分も大きいだろうが、17歳くらいで骨格の成長も止まるし、容姿も固定されるので、はかない希望が潰えるのだと思われる。さすがに17歳過ぎれば、これから見違えるような美人になるとかイケメンになるとか、そういう願望は持てない。将来的にどういう容姿になるかは子どもの段階でほとんど予測が出来るが、時たま著しい劣化や、著しい容姿の向上も見られるため、17歳くらいで確定するまでは奇蹟を信じることが出来る。だが17歳を過ぎたら、さすがに容姿に関して奇蹟は期待できない。このあたりから庵野秀明の後継者になるとかクリエイター願望、つまり内面に底知れぬ可能性があるという妄想が浮かんでくるのかもしれないが、等身大の自分を蛇蝎のごとく嫌い、ひたすら未来に奇蹟を求め、暗澹たる現実から目を逸らし、自意識を豚のように膨れあがらせる先にあるのは破滅でしかない。はるかぜは今のところ美人という設定になっているが、これは中学三年生だから辛うじて奇蹟に縋ることが出来るのであるし、さすがに、ここから急激に美人になることはないから、数年先が思いやられる。容姿を売りにするのはどう考えても無理なのに、はるかぜ(母親)は容姿を売りにしたがっているし、美人でなければならないというこだわりが、いずれ大きな問題に繋がるであろう。足が長くて美人とか、そんなボディ・イメージを本人に持たせたら、17歳で現実が見えてきた時のはるかぜの絶望の深さたるや、表現する言葉すら見当たらない。小学生の頃は大人顔負けで一万冊の本を読んでいる天才子役という設定だったが、学力不振を極めているのが現状であろうし、知力で見栄が張れなくなったら、今度は美人だということにしたのである。現実の本人とは懸け離れた設定を与え、やがて現実に直面させられるという繰り返しである。最終的に自分の人生として責任を引き受けるのははるかぜ(娘)の方であるし、はるかぜ(母親)は贔屓のチームが惨敗した時の絶望や憤慨に打ち震える程度であろう。応援は努力とは違うし、興奮状態で喜怒哀楽に身を委ねるだけだから夢中になれる。美人という設定だけはやめた方が未来のダメージの軽減のためにいいと思うが、何かしら特別な存在であるという見栄を張りたいのであろうし、簡単にやめさせることはできまい。だいたいはるかぜ(娘)が本当に美人だったら、ああやってツイッターに苦心惨憺した画像をアップし続ける必要はあるまい。ITmediaの岡田有花に提灯記事を書いて貰った初期の頃の勢いが忘れられないのだろうが、あれは小学四年生だったから大人顔負けというのも可能だったけど、中学三年生でもツイートのレベルが変わらないことから、誰でも岡田有花の記事が誤りだったことは知っている。本人がやたらと勉強を嫌っているのも、大人顔負けの賢い子どもというイメージの破綻と何かしら関連性があるだろうし、どっちみち勉強が出来ないとしても、挫折感がトラウマになっていると思われる。美人という設定だけは本当にやめた方がいいし、このまま続けていたら、本人が自分の容貌で深い苦悩に陥るのは明らかである。
本条友奈埜という名前になったらしい。御家庭の事情にしては名字だけでなく名前も変更されているし、御家庭の事情なら、本名が変わっても野津をそのまま芸名として使えばいいと思われるので、何かしらイメチェンということなのかもしれない。ゆなのちゃんは中三の後半あたりになってから、ようやく存在感が出てきたのだが、やはりゆいもあ人気が凄すぎて脇役という印象ではあるし、さくら学院のイメージを消したいのか、そのあたりは判然としない。目標を女優に絞っているであろうから、アイドルというイメージをリセットしたいのかもしれない。本人が勝手に改名するわけはないから、アミューズ側の判断もあるのだろう。ゆなのちゃんに関して何となく気になっているのは、やや注意欠陥の傾向が窺えることである。栗原類がADDだと告白していたが、さすがにあれほど酷くはないし、ゆなのちゃんは障害と言うほどではないレベルだが、たぶん平均的な女子よりは周辺世界に無関心であろうし、あまり注意が行き届いてない。毒舌キャラなのも、注意力が足りないことと関係している気がする。魅力のある素材でありながら今ひとつパッとしないのも、空気が読めないところがマイナスの印象を持たせているのであろう。とはいえ、ゆいもあのコンビがあるところに転入生として入ってきた格好であるから、遠慮していたという側面もあるはず。外様として消極的になっていただけ、というのが実際のところかもしれない。あまり空気が読めないように見えるのが本来的な気質なのか、打ち解けなくて遠慮していただけなのか、というのは判然としない。どちらにせよ、あまり波に乗れなかったのでリセットした方がいいという判断であろうし、特に女優というジャンルを目指すなら、アイドルというイメージがない方がいいであろう。中元すず香と紐付けられて監禁されたゆいもあよりはマシであろうし、さくら学院という場所は、旅の途次として居合わせるくらいが丁度いいのであろう。さくら学院に深くコミットすると中元に巻き込まれるので、さほど名前を売れなかったのは、それなりに好都合であるとも思える。完全に未来が閉ざされたゆいもあとは違って、ゆなのちゃんには長雨が続いた後に晴れ渡る山紫水明の世界があるに違いない。
ADHDにありがちなこととして、ギャンブル中毒がある。
これは不思議といえば不思議である。
教室で椅子に座っていられずに歩き回る人間が、パチンコ台の前にはずっと座っているのである。

やはりすぐに結果が欲しいというのがADHDなのである。
待つのがとにかく嫌いなのである。
デジタルが回転して揃うのを待つのは、ADHDが嫌いな待つとは違う。
決して手持ち無沙汰ではないし、手に汗握っているのであるし、快楽という報酬が目の前にある高揚感である。

ネット中毒もADHDにありがちだが、やはりすぐに結果が出るから愉しいのだろう。
反応があるまで一ヶ月かかるというのなら中毒にはなるまい。

こういう思いつきの人はエネルギーが強いわけだが、要は粗暴なだけで、本当に能力があるわけではない。
掲示板にひたすら連投する人や、延々とエゴサーチをする行為は、ただひたすら自分を「現在」という時間に消費しているのである。
人よりたくさんマウスをクリックしたりキーボードを叩いていても、それがすべてその瞬間に向けられており、何ら勉強にならない。
何かに取り憑かれたように動いていても、それがすべて現在のために消費され、なにもあとに残らないなら意味があるまい。
衝動性とは、要は、目の前の時間にすべてを投じることである。
世界に対してすぐに結果を求め続けると、後に何も残らないという単純な話である。
5月27日に行われるモーニング娘。武道館のチケットそのものは売れているのだが、ヤフオクなどでやたらと余っており、後方の席だと2000円くらいが相場になっている。ガラガラということはないにしても、転売屋が売り損ねた分が空席として散見される状態になると予想される。先行販売の定価7500円でクソ席を掴まされたわたしとしてはたまったものではないが、どっちみち現在のメンバーでは前の方で見ても意味はない。今回に関しては転売屋の敗北ということでいいとしても、このような教訓を経ると、転売目的での購入はなくなるであろうし、ごく普通に売れ残るようになるであろう。消去法的に鞘師里保しかセンターはいないのだが、アクターズスクール広島で一緒だった中元すず香に完全に心を折られたという感があるし、もはや意欲も気力もない抜け殻で、その空洞を虚無で埋めるかのように脂肪が増殖しているのだから救いがたい。このまま膨張を続けるのであれば、鞘師の体重がズッキを上回るのも時間の問題である。中元すず香と関わってよかったという人を今までに一人も見たことがないし、関わった人ほとんどが不幸になっていると言って差し支えない。最期の希望である菊地最愛ちゃんも、中元すず香を上げ底するために封印されてしまったし、あの金色燦爛たる煌めきはもう見られないのである。もあちゃんがわれわれに降り注ぐ光であるとするなら、中元は放射能である。正統と異端が反転し、天空と暗渠がすり替えられ、悪魔崇拝者が徘徊し生け贄を探しているのが、この酸鼻を極める現状である。もあちゃんは中元が外出するための土足でしかない。死の灰が間断なく降り積もり楽園から追放されるのである。鞘師里保も道重さゆみちゃんの人気に乗っかっている状態ではあったが、さすがに中元のように、ゆいもあを喋らせずに従わせるようなことはしていない。またハロプロだと個々のメンバーの人気が可視化されているので、道重さゆみちゃんの人気が圧倒的なのは明らかであった。中元はゆいもあに人気で負けているという問題もうまく誤魔化してもらっており、浜田麻里の劣化版が意気揚々とアイドル文化を蹂躙しているという印象しか受けない。魔女が無辜の民を処刑し、その生気で版図を広げている。道重さゆみちゃんが実質的に引退し、菊地最愛ちゃんが幽閉された現状では、アイドル文化は死んだと言えるであろう。自らはアイドルではないのに、ゆいもあを脇侍に従えて、あらゆるアイドルの実力の無さを暴き立てる悪趣味な活動は、今後もしばらく継続されるのであろうし、実のところメタルよりは、アイドル潰しの方が目的という気がする。旧習に晏如としている連中への破壊活動として声援を受け喝采を浴びている。中元すず香によって砕かれた道場の看板が数え切れないほど横たわっており、果たして看板を破る方が悪いのか破られる方が悪いのかというのは、本人が全くアイドルではないだけに興味深いところであるが、どちらにせよ恐懼に堪えざる世情であり、這々の体で潰走しつつある少女たちを見て何かしら心痛を憶えるのみである。
石ころがたまたまそういう軌道で転がっていくというのではなく、意志したから、そういう軌道なのだというのが人間存在である。
根源的に考えて意志というのは無いのかもしれないし、今からコンビニにジュースを買いに行くとして、それは肉体が喉の渇きで促しているのであろうし、行く行かないの判断は、ほとんどが肉体が決めているとしても、あくまで最終決断は精神によってなされている、と考えることになっている。
喉が渇いたからジュースを買いに行くのは、これは人間としての意志の問題なのである。
夜中にお腹が空いたからラーメンを食べるかそのまま我慢するかも人間の主体的な意志の問題なのである。

われわれ人間の人生は多々の強制イベントに直面させられており、言動は強いられているものである。
その強制イベントも、他者との意志との力学なのである。
召集令状が来て戦地に赴くとすれば、そうやって徴兵する権力者の意志なのである。

われわれは強制的に、もしくは半強制的に存在させられているので、まったくの白紙に対して意志しているのではなく、何かしらの状況において強制的な、もしくは半強制的な決断をさせられているのである。
不本意ということ自体が人間らしいと言える。
機械が何らかの作業をするとして、それを不本意に感じることはないわけである。

不本意ということがないとしたら、果たして個人が存在しているのか、とても疑わしい。
望んだことが何の抵抗もなく超伝導のようにすらすらと実現していくのであれば、そこに自分という主体は存在しづらいのである。
何かしら不本意であるからこそ、人間は存在しており、本来は別の在り方をしたかったという願望こそが自分なのである。
本当の自分というのは無いのだが、いろいろと不本意なことをやらされていると、どこかに本当の理想的な自分があるに違いないと考えるしかない。
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