https://mainichi.jp/articles/20190515/k00/00m/040/310000c
作家・百田尚樹さんの著書「日本国紀」(幻冬舎)を批判する投稿をツイッターでしたことで、「幻冬舎から刊行予定だった文庫本を出せなくなった」と作家の津原泰水(やすみ)さん(54)が訴えている。既に幻冬舎から単行本で発売されている津原さんの小説が今春、同社から文庫化される予定だった。が、作業が大詰めとなった今年1月、同社の担当編集者から「(日本国紀の)販売のモチベーションを下げている者の著作に営業部は協力できない」と伝えられたと主張する。幻冬舎側は毎日新聞の取材に、「文庫化を一方的に中止した事実はない」と否定する一方、日本国紀への批判をやめるよう津原さんに働きかけたことは認めた。【大村健一/統合デジタル取材センター】


この種の問題について考察する場合、ステレオタイプ的に理解するか、細かい枝葉のところまで検証するのか、というのがあるだろう。たとえばこの切られた作家は専業作家であろうと思うが、もしかすると公務員が兼業として作家をやっているのかもしれない。そういう事実誤認で足をすくわれることもあるのだが、そもそもわたしはこの作家について興味もないし、プライベートの問題は調べようがない。それに、この作家はさして人気がないにしても、幻冬舎に依存しているわけではなく、むしろ幻冬舎以外での仕事が多いし、大半のまったく売れない小説家と比べたら、そこそこ売れているという中途半端な立ち位置だと思われるが、そこまで勘案すると逆に難しいので、ひとまず「売れない専業作家」と決めつけた上でステレオタイプに考えるのが妥当であろう。

売れない作家が百田尚樹にケチを付けたら、幻冬舎の社長がこの作家と縁を切った上で、実売部数を晒して屈辱を与えたということで、これが炎上の理由であるが、とはいえ大規模な油田火災にならないのは、やはりフリーランスの作家なのだから表現の場所はどこにでもあるし、そもそもこの作家は、幻冬舎と縁が切れるのを承知で百田尚樹を批判するべきだったからだろう。被害者気取りはどうか、というモヤモヤが多くの皆さんの中にある。自由を謳歌する代償を払う気がない人間、ということになるのだろう。ノーダメージで自由を欲しがる。戦後左翼の甘えという印象を受けるし、左翼がこの作家の味方をしているのも、そういうお仲間なのだろう。

フリーランスと言ってもいろいろあるが、多かれ少なかれ人間関係で仕事を貰っているという側面はある。この人間的なつながりを人脈と呼んで、その「絆」を恃みにするのもいいが、いわゆる非正規雇用である。コンビニのバイトなら、クビになったら別のところで働けばいいというか、良くも悪くもひとつの店にしがみつけないので、作家業はそういう非正規雇用でもないのだが、ホワイトカラーの潰しが効かない問題と似ているかもしれないし、電気工事や溶接ができる人とは違って、リストラされたら困る、ということだろう。ともかく、引っ張りだこの小説家なんてごく一部なので、この人はマシな部類だろうし、たいして幻冬舎に依存してないのだから、わざわざ小物を演じて百田尚樹という「大物作家」の被害者になるアングルはやや疑問があるが、とはいえ、御本人もお仲間もそういうステレオタイプな理解を望んでいるようだし、それが丁度いいという印象である。
https://twitter.com/lp_announce/status/1126201366118932480

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これはわたしも以前から気になっていたのだが、有村悠さんは自撮りで決して歯を見せない。精神だけでなく口腔も魔窟のごとく蝕まれていることは容易に察せられたが、恫喝されても怖いので指摘は控えていた。学生時代の鬱がどうこう言っているが、東大入学まで健康優良児だったとは思えないし、欠損家庭は歯も欠損しているという法則通りなのであろう。エリート東大生のキラキラした歯列とは対極的なのである。九州の田舎者の歯がボロボロというとシンナー疑惑も持たれるところだが、典型的な教育ママとガリ勉というか、刻苦勉励して東大合格という経歴からして、それは考えづらい。やはり母子家庭は母子家庭であり、父という頭部がもげた状態で、壊死を待つまでの断末魔として蠢いている。東大に入学すれば薔薇色になると思っていたのだろうが、人間は生まれ変わることは出来ない。歯の神経がないと言っているが、きちんと神経を抜いて消毒したとは思えないし、死んだ神経が遺棄されたままであろうから、腐乱死体のように細菌が繁殖する苗床になっていることは間違いない。重度の斜視であるし、他人の話を理解出来ない聴覚障害もあり、目も耳も口も難があるとなればいわゆる三重苦だが、ヘレン・ケラーとは真逆である。ヘレン・ケラーのような人間ばかりでもつまらないから、有村悠さんのような人間がいてもいいのだろうし、令和元年六月十一日で四十歳になるわけだが、三十九歳で死んだ太宰治の享年を超えることについても、なんというか、ただ単に頭が悪いから東大を退学処分になっただけで、太宰治のような文学者になれなかった、という人がいたほうがいいのだろうと思う。
この世の中には「そんなことは言ってない」という便利な言い回しがあるようである。確かに言ってはいないだろう。だから「言ってない」という言説そのものは正しい。どちらかというと相手の魂胆をズバリと指摘したときにこの言い回しが出てくる。こちらが極端に誇張した場合でも「そんなことは言ってない」という返しはありうるから擦り替えとして便利なのだろう。あるいは、ともかく人間の魂胆については「言ってない」ところが肝心であり、そこが世界の本質である。言ってないのは反論にはならないし、そもそも反論の必要があるわけでもない。人間はいろいろと不満を抱えており、よからぬことを企みながら生きている。ここにもいろいろな個性があり、たとえば天皇陛下のような正直者のタイプがいれば、秋篠宮や小室圭のような嘘つきタイプもいるのであり、後者の方がソーシャルスキルは高い。われわれは小室圭のたくらみについて、あれこれ憶測で語るわけだが、人間の魂胆は未遂に終わることが多々あり、たくらみは人間の脳裏を遊弋する選択肢でしかない。秋篠宮家の苦悩は、恵まれた人間ならではの軽佻浮薄なものであり、もし彼らが皇族でなかったとしても、たとえば津田大介と同じような不満は抱えるであろう。一見したところ華やかで世渡り上手だが、本人そのものの薄っぺらさが苛立ちの原因となるのである。何にせよわれわれの揣摩臆測については「そんなことは言ってない」という誹りは付きまとうが、なにしろ不満や欲求で溢れかえっている人間たちに警戒を怠るわけにはいかない。たとえば小室圭の周辺に自殺者が多いことにわれわれは警戒心を抱くわけであるが、婚約者には不幸な王子様として認識されているのだろうし、あるいは、われわれは彼らの睦言を直に聞いたわけではないから、それすらも空想になってしまうが、近親者の自殺を純然たる悲劇として捉えたり、生々しい欲望の軋轢の結末として血が流れたと理解したり、いろいろとあるわけである。同じ地球上にいても、われわれはそれぞれ異空間にいると言うこともできるし、人間それぞれ特定の時間や空間だけに居合わせて生きており、それ以外は別宇宙への想像でもあるのだが、他者の実情が認識不能であるとしても、その因果がお互いに地続きであることもある。そもそも自らの篋底に潜めている悪意でさえどこまで本気であるのかわからないが、何にせよ実行されるとなれば、他人の人生がわれわれの人生に影響を与えたりするので、あれこれ憶測するしかないのである。
人手不足だと言われるが、消費者が自ら選ぶ時代に対応できてないのだろうと思われる。消費者の求めに従って機械的に対応するのが「単純労働者」として括られて低賃金だからこそ、人手不足ということになる。消費者が自らの判断で選ぶとなると店員は機械的で低賃金だが、押し売りは商品知識が必要で賃金が高いという妙な話である。この無駄な商品知識を取り除かなければならない。変な話ではあるが、商品知識のない店員のほうが(押し売りしてこないから)消費者には望ましいのである。

では、望まれてない職業がなぜあるのかというと、まず旧態然とした法律に守られているからだし、利益構造が成功報酬型だからである。あちこちで疎まれて三振だらけでも、時たまホームランを打てばいいわけである。消費者からすると被弾と言ったほうがいいのかもしれないが、ともかく成功報酬型の職業というのは、昔なら必要悪とも言えたが、ネット時代ではかなり迷惑な存在である。

与沢翼が自分の賃貸物件の入居者をネットで募集して「これは自分の直接契約なので、仲介手数料が発生しないから安い」という趣旨のことをツイートして、実際に成約していた。反復継続して売買するとなると免許が必要とされるが、オーナー本人が賃貸する場合は現行法でも認められている。これを傍目で見て、果たして不動産屋は必要なのかと思ったわけである。「与沢翼」というのが事例としてあまりにも悪いし、間に不動産屋が入らずに与沢翼と契約するのも怖いから不動産屋は必要という話の流れになってしまいそうだが、あえて言うなら、与沢翼とも取引出来る未来というか、ネットで物件を探して条件が折り合ったら司法書士(のような類の専門家)が正式な契約書を締結するのが望ましい姿だと思うのである。不動産屋の営業は公害であるし、成約したときだけ仲介手数料が発生するので、大半の「無駄な営業」の費用を成約に至った客が支払うわけである。支払い方が偏っているため、仲介手数料が妙に高い、ということにもなる。

同じような衰退すべき産業は銀行である。これはすでにわかりきっていて、大手都市銀行は揃って採用を減らすようである。

https://www.jiji.com/jc/article?k=2019040101299&g=eco
三菱UFJ銀行は1日、2020年4月の新卒採用人数を前年から約45%減の530人とする計画を明らかにした。三井住友銀行、みずほフィナンシャルグループ(FG)もそれぞれ1割、2割程度減らす。長引く超低金利で収益環境が悪化する中、ITを活用した業務の自動化が進んでいることも踏まえ採用を絞る。


人工知能の発達も踏まえてのことであろうが、銀行の営業が必要ないということもあろう。銀行員は社会的信用の象徴のようなものだし、信用という観点から言うと、朝から晩まで電話セールスしている不動産屋とは天と地の差があるはずだが、相手から売り込まれることを求めていない時代に置いては重なって見える。ネット以前だって、銀行の営業に乗っかって破滅した人がたくさんいるわけだが、ネットという選択肢がある現在では営業は本当に必要ない。営業と言っても、業者が取引先を回るのはまた違うであろうが、消費者にとっては本当に不要な存在となっている。

商品知識と言っても、結局のところ悪知恵の類であるし、相談そのものを生業としている人(成功報酬ではなく有料相談で見識を与えてくれる人)が意外といないのは、特定商品の押し売りが精一杯で、本当に深い知識のある人は稀だからである。大手都市銀行が採用を減らすのは、銀行員の中途半端な優秀さが社会的に不要なのであろうし、電話セールスをする人種が減る瑞兆だと思われる。こういう虚業が衰退して現場に人手が回ってくれれば望ましい。消費者の要望に沿って機械的に対応する労働者の賃金の安さという問題についてはなんとも言えないが、需要があるのだから変化もあるだろう。
部屋を模様替えするとして、業者に頼まずDIYでやればお金が掛からないかというとそうではない。多少の出費は必要であるし、業者に頼んだほうが安いということもあるから、余暇に創意工夫を愉しむ贅沢な趣味である。貧困家庭だとその出費を抑えるために破れた障子にテープを貼り付けて終わりであろうが、これをDIYとは言わない。文化的な行為は、他人に頼んでもお金がかかるし、自分でやってもお金が掛かる。「育ちが良い」というのは、たまたま家が金持ちであるだけだし、褒め称える筋合いのものではなかろうが、やはり文化資本をたくさん投下された金持ちは出来映えが違う。お金を使うことで人間は世界を広げていく。お金を払わないと、無料に似つかわしい粗末な世界になるだけである。たとえば底辺層が読書嫌いになるのは、本を買うお金を惜しんでいるのが一因である。図書館で借りる方法もあるが、やはり蔵書を増やしていく方が愛書家というアイデンティティを持ちやすいし、読みたい本が図書館で簡単に手に入るかという問題もある。あるいは、読書なら図書館という救済措置があり得るが、たいていのことは「お金を払わないと体験できない」のである。底辺層は文化的体験から疎外されており、それを遠くから見て羨ましいと思ったり、どうせ手に入らないなら毛嫌いするか、あるいは、空想に興じることで慰めを得ることになる。実体験しなくても、漠然としたことは想像できるから空想で足りると述べることも可能だが、世の中の裏側を想像で推理することは重要であるにしても、空想まみれの生活が望ましいわけはあるまい。やはりお金を使って世界に触れることはとても大事である。お金を使うのは文化的行為である。育ちの悪さにもいろいろあるが、いわゆる虞犯少年とは別に、空想という無料の趣味に没頭した結果として、とてつもなく劣悪な出来損ないが出来上がることがある。部屋を模様替えするお金すらないとなると、空想の豪邸に住むしかなく、それは貧困層にとって娯楽の王様と言ってもいいのだが、こうやって肥大した内面を生々しく提示されるとなると、その幼稚で粗忽な発想に愕然とするわけである。DIYは模様替えの材料をお店で買うわけであるし、文明社会の素材を組み合わせているから、費用が掛かり、なおかつ失敗もあるが、いいアイデアが閃いて丁度いい具合に嵌ったとか、創意工夫の鍛錬となる。書架に名著をずらりと並べたところで碩学になるわけではないが、そのような文化資本の投下をしないと現実は始まらない。道具だけ一通り揃えて満足して放置ということもあるのだが、まずは道具がないと始められないのであるし、そのために必要なのがお金である。
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