2023.11.24

ホストとADHD

ホストくらいに理解できないものはない。しかし、一時的なはやりではなく、廃れることなく世の中に跋扈しているのも確かなので、決してレアケースではなく、何かしら人間的によくある病気なのである。たとえば男性のパチンコ中毒に似ているのかもしれない。ギャンブルを続ければ損するに決まっているのに、理屈に合わない射幸心がある。おそらく自慢話的なものでブーストされているのであろう。また、なんであれ夢中になればそれでよいというADHD的なメンタリティでもある。ホストにしても、夢中になれればなんでもいいのかもしれないし、つまり、なぜ夢中になるのかという端から見た目線では理解できず、むしろ虚無に突き進むのがADHDなのである。実益がないからこそ、童心そのものというか、一種のイノセントな感覚があるのかもしれない。ギャンブルとホストに共通するのは、損をしていることであり、それにもかかわらず、もしくはそれだからこそ夢中なのである。常識的には、人間というのは、得をするのが好きであり、損をするのが嫌いなのだが、ギャンブルとホストはここが倒錯している。では、どうすれば脱却できるのか。ギャンブル依存の克服方法として、お金を投じるたびにメモするというのがある。使ったお金と当たったお金をすべてメモする。そうすれば、トータルで必ず負けていることがわかる。ホストについても、金銭感覚の崩壊であろうから、お金の出し入れをメモしたほうがよいかもしれない。損得の判断が転倒したときに人間はどうするのか、もしくは転落する美学ということかもしれないし、堕落の自己陶酔もあるから、一筋縄ではいかない。
年齢不詳の河野太郎は何歳なのだろうと調べたら、1963年1月10日生まれということだから、2024年には61歳である。アンチエイジングの時代であり、新しいものに適応できる新世代の政治家ということで、ふわふわした人気があったが、マイナ保険証の件で正体がバレたようで、そろそろ終わりつつある。そもそも人気者というよりは、人気者という自己愛が強い人物なので、いかにも取り巻きがたくさんいるかのような振る舞いに、わたしは眉を顰めていたのだが、すでに墜落したのか、このところ視界に入らない状態である。昔であれば、60歳なら60歳らしく、旧時代の化石というか、若者とは断絶した地層をなしていたはずだが、アンチエイジングが跋扈している昨今だと、河野太郎は奇を衒っているというより、いまどきの典型的な60歳と言える。アンチエイジングを頑張って、中身も若者のまま、これは河野太郎だけでなく、これからの中高年の加齢に伴う課題である。熟練労働者が消えて、分業的なサービス業が増えているから、人生の先輩に教えてもらう必要もないし、インターネットで検索すればいいから、加齢していることの優位性がない。第3次産業だと熟練しづらい仕事が多いかもしれないし、年の功というものがない。アンチエイジングでなだらかに加齢しているのは河野太郎だけでなく、われわれ全体に突きつけられている問題でもある。60年掛けて思いついたのがマイナ保険証、というのが人間の現実である。
2023.11.13

空き巣の下見

ピンポーンピンポーンとうるさいからなんだと思ったら、変な営業だった。屋根が壊れているから直してあげたいとか。では屋根修繕のインチキ業者なのかというと、必ずしもそうではなく、一軒一軒回りながら様子を見ているように思えた。すぐに帰っていったが、ああやって下見しているのだろう。もしかすると、空き巣とリフォーム詐欺を兼任しているのかもしれない。不思議なことに、こういう下見行為は捕まらないようである。わたしはその男が帰ってから、その男を付け回して問い詰めることを空想して憤ってみたが、それだけである。空想で怒っただけで現実には何もしなかった。こうやって胡散臭い営業でピンポーンピンポーンやるのは、「この家はいつも留守だ」とか「高齢者しかいない」とか探りを入れているのだろうし、空き巣や詐欺の下見だろうと多くの人が思いながらも、やはり正真正銘の犯罪者を眼前にするとたじろぐのである。一部の人は通報しているはずだが、それはピンポーン男が立ち去った後のことだから、なんにもならない。激しく問い詰めながら警察に通報すれば効果があるのかもしれないが、正真正銘の犯罪者を相手にして、自宅を知られた上での揉め事はやりたくない。不審者という言葉があるが、われわれが誰かを不審者不審者と煽ったりするのは、変わり者を軽侮しているだけで、実際は安全だと思っている。こうやって一軒一軒ピンポーンピンポーンと巡回して、それぞれの家に探りを入れる大胆な下見こそ、本当にどうにかしないといけないものであるが、たぶん不審者とは別枠なので困った話である。やはり他人をジロジロ見て嫌がらせをする人間心理が不審者という言葉として結実しているから、空き巣の下見みたいな本当の犯罪者には対抗できない。ピンポンを鳴らさずに人の家を見ていたら不審者として警察に通報されそうだが、堂々とやってくる空き巣の下見はお手上げである。
キチガイに刃物という言葉があるが、刃物があるから人間はキチガイになる。軍人勅諭というものがあるが、天皇を崇拝しているから軍人勅諭を作ったわけではなく、明治初期の頃は誰も天皇など崇拝してないから崇拝させようとしたわけである。江戸時代までは兵農分離だったのが、明治になって農民を兵隊にしようとして、その徴兵制のスローガンのための軍人勅諭である。そして天皇崇拝は日本国民に浸透し、80年くらいで日本列島は焦土になった。動物愛護法という毒薬もわれわれの体内を回り始めているが、人間はいつもこうやって内面からなにかに噛みつかれて、道徳教育されている。吸血鬼に噛まれて吸血鬼になるのと似ていて、いつのまにか他人を噛んだりもする。私人逮捕という言葉が流行っているが、私人逮捕する輩は稀であるとしても、法律を武器にした抗議活動はたくさんあるわけだ。動物愛護であれば、役所にしつこく電話したり、警察に繰り返し訪問して被害届を受理させたり、行政への働きかけがしぶとい。警察に通報する人こそが権力を成り立たせているから、下っ端の窓口担当者が迷惑とはいえ、願ったり叶ったりなのだろう。早朝に玄関を叩く警察とか、抗議活動に奔走する特殊市民がわれわれの内面を作り出している。自分で自分の内面を決めるなどなく、その時代の法や国家権力とか、その法を武器にする民間勢力によって、見えない檻に入れられて蹂躙されるのである。あとから見れば、醜悪な地層としてまがまがしい色合いを放つのだが、われわれは限られた生命を持ち、ひとつの時代を生きているので、離脱する自由はないし、同時代人とお互いに監視したり監視されたり、いつも他人を内面化しながら生きるのである。動物愛護法という刃物は、これからたくさんのキチガイを作り出すし、これによって繁殖した動物が人間に襲いかかることになる。愛護団体は「犬と猫だけ特別扱いか」と揶揄されるので、意地になって、他の動物も守ろうとするらしい。これにより日本列島が野生動物で埋め尽くされ、人間の死体が転がるのである。
遺族がメディアに登場して厳罰化を求めることが繰り返される。この手の問題の根幹にあるのは刑罰が「軽い」ことである。われわれはこの不思議さを不思議に思い、首をひねりながら生きているわけだ。いじめる側がスクールカースト上位で、いじめられている側が転校させられるのと同じかもしれない。加害者は強者であり、被害者は弱者である。悪い人間は主役だから抹消されない。消えるのは被害者の方である。子どもの学校のいじめっ子と、大人の刑務所の囚人が重なるかといえば、完全な等号で結べはしないだろうが、濃淡はあれど、悪人は強者という側面が世の中にある。われわれが悪人に慄いているのは、子ども時代の原体験なのかもしれない。悪人を殺処分したくてもそれはできないのだが、時たま、社会的なヒステリーとして、それが行われるのである。いじめられっ子が殴られるのは日常であるが、いじめっ子を殴るのはタブーであるから、王様をギロチンにかけるような非日常である。普段の刑罰は、「ほどほど」に抑えられているので軽いわけだが、やはり「ほどほど」という刑罰観への不満があり、どちらが正しいのか知らないが、悪人を殺処分する狂乱が生まれるのである。普段だと、善人は弱々しく簡単に譲歩する気質なのに対して、悪人は鉄壁なので、それが強さなのだが、その鉄の壁を貫こうとするのである。考えてみると、弱々しい善人であれば、刑務所に行くくらいなら死刑にしてくれと思うだろう。「刑務所生活が嫌なので安楽死でお願いします」くらいのことは言いそうである。なぜ犯罪者があれほどまでに死刑を怖がるのか、とても不思議ではある。悪人は強いので、死んだほうが楽という発想がないのかもしれない。死刑とはそういう悪人の不死身さに対する鉄槌なのである。
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