上坂すみれさんに殺害予告をして捕まった20歳。
ファンだったと供述しているそうである。
供述というのは警察の作文ではあるが、ここで警察に都合のいい創作を入れる必要はあるまいから、ファンなのは事実であろう。
上坂すみれさんは、演者としての能力は最底辺であるが、奇抜な面白さはあり、どこまで本人が考えてるのか知らないが、サブカル的に変わったことをやるセンスはあるので、なんとなく「面白い人」を惹き付けてしまうのであろう。
本当に面白い人と、括弧つきの面白い人(つまらない人)の違いは明白であり、まったく次元が異なるはずなのだが、はしゃいで奇抜な言動をすることに快楽を見出す共通性で、運命を感じたりするのであろう。

おそらく昔から、芸能事務所におかしなファンレターを送り続ける「面白い人」はたくさんいたと思われるが、それは事務所の人間が黙って焼却していたであろう。
今日だと上坂すみれさんみたいな芸風が難しくなっている。
上坂すみれさんと、今回逮捕された男は、おそらく庵野秀明と有村悠さんくらいの格差があるはずなのだが、変わり者という共通点だけをもってして、赤い糸でつながっていると思い込んでいるわけだ。

やや気になるのは7月22日に文春が大物女性声優の熱愛報道をすると予告していることであり、なぜか上坂すみれさんだと思われている。
上坂すみれさんは大物のカテゴリーではないが、たとえば水樹奈々なら、他社に抜かれる前に出す必要がある。
つまりスクープとして一刻もはやく報じるだけの価値がないレベルの「大物」だから、上坂すみれさんは丁度当てはまりそうである。
文春が予告した時に、たまたま上坂すみれさんが体調不良で倒れたので、関係があると思われたのである。
6月13日からツイッターも止まっているし、なにかありそうだ。
どうせ数日内にわかることであるから、この真偽を長々と論じても意味があるまいが、ともかくそういうことだ。

上坂すみれさんは、自らの芸風に葛藤を生じさせていてもおかしくない。
演者としての能力は致命的に低いので、エキセントリックなキャラクター性とサブカル設定でやっていくしかないのだが、やはり「面白い人」が共鳴してくるわけであり、これは煩悶も深いはずである。
上坂すみれさんのアンチというのは、本当のアンチではなく、仲良くなりたいという発想が根底にある怨みという印象を受けるし、つまり好意を含んでいるから不気味さもあるはずだ。
変わった人から好かれては怨恨を持たれるという構造があると思われるので、上坂すみれさんが、自らの風変わりな才能を摘み取って、当たり障りのない人間になればいいのだろうが、そうなると、上坂すみれとしての存在も消えてしまうという難題である。
どこかで池上彰が、「1960年代に学生運動が世界的に広がって、それが衰退した理由がわからない」と書いていて、あまりうまく説明した事例も見たことがないらしい。
これについては、わたしは海外の事例までつまびらかに調べたわけではないが、ごく普通に、反面教師の説得力で回答できると思う。
1970年くらいから、学生運動とか本気でやっていた活動家がどうなるかというのが、反面教師として示されてきたわけである。
連合赤軍とか中核派の内ゲバとかいろいろと悲惨な末路が現実的な事例として鈴なりのように生じてきた。
おそらくそれだけで学生運動の衰退は説明できるであろう。
40歳とか50歳とかになっても活動家をやっている惨めな人を目の当たりにすれば、一気に目が覚めるはず。
わざわざそういう醜い反面教師を見なくても想像がつくと言うだろうが、興奮状態になった人間が盲目的に暴走することは多々ある。
活動家のおっさんが惨めな反面教師となって登場するまでは、想像力が働かなかったのである。
おそらく若気の至りで思想にかぶれている頃は、自分が世界史的な政治指導者になるつもりであろうから、いわば選民思想によって、現実的な想像力が壊死するのである。
なにかしら救世主になるという妄想にかぶれたら、どうにもならない。
それを治すには、惨めな事例を見せるしか無く、だからこそ、人類はいつも教訓を必要としている。
反面教師を見なくてもわかるはずなのだが、やはり現実的な想像力が死んでしまうこともあるのだ。
100万分の1の確率で成功する事案があるとして、現実的に考えれば近似値的にそれは0だとなるが、選民思想の目線だと、むしろ確率が極めて低いからこそ、選ばれた自分には似付かわしいということになるし、人類史で一度しか起こらないようなことならキリストのような特異点、もしくは一度も起こらないようなことなら無から有を生み出すビックバンである。
こういう底無しの阿呆を「我に返る」という状態にするためには、反面教師たる失敗事例、学生運動という文脈では選ばれたはずの政治指導者の成れの果てということだが、それを見せることに尽きる。

果たしてこれが最高の正答かどうかわからないが、やはり思想運動に深入りしたオッサンを現実に見れば、それの真似をしようとは思わないであろうし、学生運動が衰退した大きな要素のひとつであるはずだ。
2017.07.14

マメな人

マメな人は好かれやすい。
もしくは人間関係の中心になることが多いようだ。
津田やロンブーのような魑魅魍魎だってマメではあるので、徳操が高い貴人というわけではなく、マメだからマメなのであろう。
マメな性格だと好感を持たれるなら、なぜ多くの人はマメにならずに、いろいろと怠るのかということだが、マメな人間にはあざとさがあり、あまり目が笑ってなかったり、時としてサイコパスと揶揄されるようなところもあるから、大雑把な方が裏表がない正直な人間とも言えるからであろう。

ロンブーや津田大介や川越シェフのようなジャンルの好感度がこの世にはあるのだろうし、それが似付かわしい人間は、マメなやり取りをするだけである。
マメな人間が好印象を持たれるのは、距離感の適切さなのであろう。
岩崎友宏から高級腕時計など送られたら、その贈り物の重さは言うまでもないし、完全にロックオンされたという恐怖体験でもある。
朝から晩まで冨田真由さんに執着するのをマメとは言わない。
マメな人間は、そのあたりの距離の感覚がしっかりしている。

社交的でない人がマメになろうとすると、不得意なフィールドで戦うことになってしまう。
虚弱体質だからといって、体力をつけるために運動部に入るとしたらちょっとおかしいであろう。
コミュ障の鞘師里保ちゃんが社交的な人間になろうとしていろんな人と積極的に会話するようにしたら、飯窪とか道重にハメられて病んで引退してしまったが、無理はしないことも大事だと思われる。
すべての人間関係はマウンティングであるとも言えるから、津田大介や川越シェフのような幇間とまともに組み合うのも愚かである。
この手のマメな人たちは決して敬虔な篤志家のように慈愛を分け与えるわけではないし、最後は裏切るつもりだからこそ、手のひらは永久機関のように回り続けるし、あたかもフラグを立てるかのように、わざとらしく媚びたりするのである。
たとえば100メートル9秒で走れるとする。これが人間であれば人類最速と褒めそやされるであろう。だが犬や猫で100メートル9秒だと遅すぎるに違いない。同じ生物種であれば、だいたい似たり寄ったりのスペックであり、すべて同じと言ってもいいくらいなのだが、動物だって優劣を競い合う。優劣は性欲という意味では実在感があり、セックスが出来るならどんな相手でもいいということはなく、優れた相手との結合が究極の快楽となる。特に人間であれば、社会的なものも含め、その差異に基づいた市場価値が付いて、首から値札をぶら下げながら個体としての個性を持たされるのである。憧れの人の肢体に触れようという本能は、見栄や虚飾としては切り捨てられない熱病であり、それこそが人間存在である。光風霽月たる白皙の美青年ならどんな女でも日常性の延長で手に入るのであろうが、たいていの人にとって眷恋の対象は嶮岨な山道、もしくは原理的に扉が開かない掟の門のように立ちはだかる。

自らを呪詛しつつ、この不可能性をオンリーワンな独自基準で乗り越えようとするのがサブカルチャーである。普通であれば、足が速い遅いとか、背が高い低いとか、顔の美醜であるとか、知能の高い低いとか、そういう世俗の基準で生きているのだが、この世俗的な基準だと劣ってしまう人が、サブカルチャーに流れ着いてくる。

宮﨑駿とか庵野秀明は一歩間違えればただの障がい者だが、だからこそサブカルのスターなのである。サブカルチャーにはこういう世俗的な価値を逆転したスターがいる一方で、はるかぜ親子や有村悠さんのようなサブカル人間を作り出してしまう。冒頭で述べたように100メートル9秒だとすごいとされるのは、人類の中での個体差の優劣であるから、根拠があると言えばあるし、根拠が無いと言えば無い。あくまで比較した場合に出現する凄さであり、100メートル9秒それ自体が凄いとは言えないからだ。このあたりは意外と曖昧である、もしくはただの肉体性能の設定に過ぎないのだから、その空隙を縫うようにして虚ろな自己愛が生々しく繁殖するのであろうし、愚にもつかない空想が遊弋し内面世界が瘴気を放つのである。束の間の午睡の間でさえ、まどろみながら薔薇色の人生を生きることがあるのだから、この獄舎のような肉体の設定から解き放たれれば何にでもなれるとも言える。そのファンタジーを現実世界にまで垂れ流すのがサブカル人間である。さすがに160センチの人間が「俺は180センチ」と主張するのは出来ないが、どう考えても知能の低い人間が「俺は本当は頭がいい」と主張するのはよくあることだ。「本当は100メートル9秒で走れる」と言い張って走らない、というのは文字通りだと無理があるが、こういう「本当はできる」という欺瞞を抱えている人ならたくさんいる。これが重病であるほどサブカルチャーへの親和性が高くなる。

はるかぜババアは大卒らしいが、もちろんこれは詐称であろう。有村悠さんも大卒らしいが、もちろんこれも詐称である。有村さんが東大に合格したのは事実だが、空手部に体験入部したら全身複雑骨折で不具者になったようなものだし、これで空手部を名乗られても困るわけだ。とはいえ、そもそも大学というのも設定である。小保方晴子だってAO大卒だしコネ理研だし、そしてサブカルである。わざわざ慶應AOを選択したTehu君もサブカルである。何かしら現実の自分を空想的に改変しようという邪心こそが業病であることに贅言を費やす必要はあるまい。ラスプーチンは血友病を治せるという設定でロシアの皇帝一家に取り入ったが、人間は肉体に縛られているからこそ超越を願い、百鬼夜行というべきおどろおどろしさが現実を蝕みつつ徘徊するのである。
小泉進次郎は何歳なのかとふと気になって調べたら、4月で36歳になっていたそうだ。
2009年に議員になってから、これまで当選三回である。

だいたい人間は35歳で頭が鈍くなるが、ここから賢明さの格差が生じてくる。
哲学者や思想家だと、だいたい40歳にならないと主著は書けない。
頭が鈍くなってようやく、思索の結果が実ってくる。
もしくは実業の世界でも、若手起業家が成功させた後に、50歳くらいのベテラン経営者に実務を任せることはよく見られる。
頭そのものは35歳を境にして馬鹿になるとしても、賢明さで補うのは可能なのだ。
加齢で誰もが賢明になるわけではないし、これは学習機能の問題であるから、経験や思索の積み重ねを叡智に高めている人がそんなにいないのも確かである。

小泉進次郎は津田大介(43歳)と同タイプであり、やたらと注意力がしっかりしているEQ優位型であるが、津田はこのところ、加齢による頭の悪さをソーシャルスキルで糊塗できなくなってるし、誰もが認める馬鹿である。
津田大介とか、ロンブー淳とか元木大介とか、この手の人間は、周囲をよく観察して早々といろんなことに気づいているが、その手回しの良さが積み重なって賢者になるわけではないようだ。
人類の叡智とは無縁の人間である。

小泉進次郎は、あれこれと察しがいいが、おそらく学習機能は付いていない。
そろそろ若手議員という枠から外れるし、年齢的に頭が悪くなる一方だから、これまで持て囃された利発さを失う過程を見せてもらうことになるだろう。
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