赤の他人は赤の他人である。
これは誰もが認めるであろう。
だが、「赤の他人の家族」となると、いきなり自分の身内と混同する人間がいるわけだ。

まったく無関係の人間が「俺には娘がいる」と自分語りを始めてシャドーボクシングを始めるのである。
これで頭のおかしな人間と言われることはないし、自分の家族と他人の家族の混同は、むしろ常識なのである。
おそらく蟻が巣を作る社会性と同じであり、本能なのであろう。

理屈としては、「俺には娘がいる」とシャドーボクシングされてもわけがわからないが、だが、何もされてないうちから威嚇するのも、これまた正常なのである。
何かをされてから怒っては遅いので、なにもないうちから怒るわけだ。
理由があって怒り狂うと「我慢ができない人間」と蔑まれ、怒りのコントロールが必要だと矯正施設に放り込まれるが、理由がなければいいのである。

朝日新聞の植村隆が逃げ切れたのも、娘の悪口が書かれたという件が大きい。
「俺には娘がいる」ということで、娘を守ろうとする父親たちが援軍として現れたのである。
悪口を書かれるのと直接危害を加えられるのとは話が違うが、女子ということでそういう扱いになるのであろう。
これが息子だったらこういう展開にはなってない。

誤解している人が多そうだが、植村隆の娘は「高校生平和大使」というよくわからない活動をしていた。
興信所で調べられたわけでもないし、ごく普通に実名で活動していただけである。
もちろん著名人とは別枠であろうし、実名を名乗っている一般人という立ち位置である。
時たま何らかの活動をしていて、それが新聞で紹介される高校生がいるが、あれと同じである。
著名人ではないから「晒し」という側面もあるが、実名を名乗っていたのも事実であり、完全な晒しとはまた違う。
ちなみに「反日捏造工作員の父親に育てられた超反日サラブレッド」というツイートをした人間は裁判で170万円の賠償を命じられた。

これについて述べるなら、裁判で170万円という判決が出たのだから、この訴えについては、そういう結論なのだろう。
これが娘ではなく息子だったら170万円だったのかという疑問もあるが、ともかく170万円だ。

朝日新聞の捏造記事についてはまた別の話であり、その全体を見ていく必要がある。
名誉毀損の裁判というのは要するに勝てる争点で原告が訴えたというだけであり、言論としての勝敗が決したわけではない。
喩えるなら、サッカーの試合が90分あるとして、その中のワンプレーが誤審だという主張をするのが、名誉毀損の裁判である。
大量失点でボロ負けした方が、ワンプレーの誤審を主張して、それが法廷で認められた、ということである。
日本が受けた被害は170万円では済まない。
法廷で試合全体を総括する必要はあるまいが、ワンプレーだけに絞って勝訴を勝ち取る最近の風潮には懸念を覚える。
そもそも訴えられようが言論が封じられるわけではないので、裁判は裁判として、それとはまた別に言論を展開する自由もあるが、やはり弁護士から「傷口を広げないために黙っていてくれ」と言われるであろうし、たいていは言論における反論を放棄するようである。
現在はるかぜがやっている舞台で、仄聞するには、どうも原作の許諾をきちんと得ていないという疑義が生じており、まだ事態が明確にはなってないので詳細は差し控えるが、二年ほど前も、オーケストラで「進撃の巨人」をやると告知して、はるかぜが司会になったが、許可が取れないから直前で曲目が差し替えられる出来事もあった。いわゆる類友の法則であるが、あの親子が友誼を結ぶとなると、どうしても事実や現実への検疫が大雑把な人たちと気脈が通じるようになるらしい。今回の件の真相は判然としないにしても、きちんと許諾を取った上で舞台を行うしっかりとした姿勢がないのであろう。

われわれはダメージ計算をしながら生きているはずである。これは予見可能であるから、行動とリスクは考えることができる。六弦の親指ミュートが難しくてエレキギターが弾けないならミュートは怠ってもいいだろうし、ミスピックしてもたいしたことはない。演奏をやめるよりはとりあえず弾いてみた方がいい。だが、たとえば何かの作業をするとして、ミスをしたら大事故になるならやらないであろう。まさにケースバイケースであり、それぞれのダメージ計算を事前に行う賢明さの問題である。予測されるダメージに合わせてやったりやらなかったりする現実的判断である。

あるいは、そのようなダメージの予見を超越した、確実な失敗というのもある。いわば破産の前夜祭、残りの財産を使い果たすべく派手な夜会服を身に纏い、最後の晩餐の饗宴に耽り、酩酊で歪んだ世界を眺めながら、おぼつかない千鳥足でダンスを踊るファンタジーな愚か者である。はるかぜ(娘)はあと一年半で高校(通信制)を卒業するわけである。卒業できないかもしれないが、どちらにせよ年齢的に子ども枠ではなくなる。予見性の麻痺と言えるメンタリティが、まぐれ当たりを生み出すこともあろうし、軽業師のように地雷を回避し、破滅に邂逅することなく天寿を全うする人だっているのだが、18歳からはるかぜがスーパースターとして活躍することはなさそうだし、これはただ先延ばしするだけのモラトリアム問題である。はるかぜ親子の話だけではあるまい。現実逃避のために予見性を麻痺させるのは、知力がある人でもやってしまうことがあるし、精神的な弱さ、あるいは気位の高さ、自尊心の傷痕、そのように病める心が、人生の耐え難さをファンタジーで誤魔化そうとするのである。
艦これなど作業ゲーの典型であろうし、わたしは過去に(枠を拡張するために)数千円は課金したが、とっくの昔にやめてしまった。
おそらく飽きる人のほうが大半であろう。
有村悠さんなどは極端なゲーム音痴であるから、イベントのたびに毎回毎回本気で怒り狂っているわけである。
東大受験のためにゲームを禁止されていたのに結果は高卒という哀しさもあるし、また野生本能に満ちた高卒とも違うから、そこも哀しい。

お化け屋敷を本当に怖がる人もいれば、こういう演出なんだと冷めてしまう人もいるであろうが、だいたい慣れてくるとパターンはわかりきってしまう。
有村悠さんはド田舎で丸暗記・ガリ勉・詰め込み教育を極めた人であるから、学習能力が全くないし、幽霊のカラクリが見えないようである。
艦これを簡単にクリアできる人はそんなに楽しんではいないであろうし、開発者側が設定しているパラメータを踏まえつつハリボテと戦って、それを容易く打ち破っているのである。
とはいえ、以前のようにディスプレイを破壊したりという無茶苦茶な暴れ方をしなくなったのは、攻略サイトを見るようになったからである。
丸暗記・ガリ勉・詰め込み教育で培った能力でなんとか進めているのであろう。

有村悠さんの作家的想像力という見地から言えば、おそらく幽霊が幽霊に見えたままのほうがいいであろうと思われる。
ゲームなんて開発側が数値と確率を決めているのだから、その難易度の匙加減を推し量って攻略していくだけだが、そうなるとただの作業になる。
これまで100万円以上の課金をしているとはいえ、艦これ同人誌を累計二万部売っている有村悠さんとしては、飽きてしまうのも望ましくない。
有村悠さんは、高卒にしては意外と文筆の力はしっかりしており、長文は理路整然としているので「人間失格」程度なら書けそうだが、太宰治と同等の文学的な才があるわけではないであろうから、艦これクラスタが終の棲家であろう。
アニメやゲームのキャラクターにしても、やはり記号から生成されてくる生々しさを体感出来なければ楽しめないし、幽霊の正体を見透さないほうがいいというのもある。
お化け屋敷で半狂乱になるような場違いもそれはそれとして作家性であるし、これを矯正すればいいというものではあるまい。
叶姉妹の今回の件に関しては、以前からコミケを訪れたりしているようなので、真偽で言えば、叶姉妹が真なのであろうし、とらのあなのプロモーションだという観測は正しくないのであろう。

叶姉妹がネットのアニメアイコンから絶賛されているのとは対照的に、著名人からの言及がとても少ないことが印象深い。
争点を限定して名誉毀損の訴訟で勝つのは容易いが、あれこれ他のことで粗探しされる副作用もないとはいえない。
真実の人という立ち位置は取らないほうが無難である。

弁護士は代理人に過ぎないので厄介である。
相手の弁護士と言論を戦わせることは出来ないわけだ。

弁護士は真実発見義務という倫理規定があるが、法的にそれが課せられているわけではない。
よほど悪質であれば懲戒処分もありえるが、滅多にないことである。

たまたま今回のケースでは、弁護士の主張が真実と一致しているので問題とはならないが、そういう真実発見義務がなされているとは限らず、そもそも民事訴訟には原告も被告もいるので、双方に弁護士がいるとしたら、一勝一敗のはずである。
敗訴するのも弁護士なのだから、弁護士の主張が正義というわけではない。
原告だから正義というわけでもない。
それに、依頼人のために偏った主張をするのが悪いとも言い切れない。
真実発見のために依頼人の不利な情報を出すわけにもいかないだろう。

今回出てきた法律事務所は佐村河内の代理人もしているのである。
弁護士に積極的な真実発見義務はないとされるが、消極的な義務なら弁護士会の規定としてあるはずなので、そこは留意して欲しいものである。
2017.08.13

人間の皮

人間の皮をかぶっていると言うが、そもそも皮しかないのであるし、この皮が筋繊維を殖やし臓器を形成し、精神なるものまでも創り出すのである。その人間の皮が、他の人間の皮を求めているだけである。皮が裂けて内臓でも見えようなものなら嘔吐するのであるから、どうやら皮にしか用がないらしいし、すべては人間の皮に従属している。このところ久しく凡人という言葉が死語になっており、蔑む意図で使われることは滅多にない。才無きことを恥じて懊悩する立場の人間はごく少数であるし、ネットの氾濫により、才なきことを咎め立てされない有象無象が幅を利かせているとも言えるが、凡人という言葉より、キチガイという言葉の使用頻度のほうが明らかに高くなっている。われわれが他者に攻撃的な言葉を投げかける場合には同調者を期待している。キチガイ呼ばわりは、関東大震災のときの「朝鮮人が来たぞ」と同じように連帯感を生む効果があるが、あいつは凡人だと言ったところで、それは正常さの証でしかないから、明らかな無効打であるどころか、むしろバランスの取れた人間だと礼賛していることになる。われわれの認識は森羅万象すべてを映し出す鏡ではない。人間の皮としての体験、それだけである。若い女の素肌は美しいとか、おばさんだからアウトだとか、人間の皮に似付かわしいことばかり考えているのである。洗濯機が洗濯するのと同じである。洗濯機には洗濯物しか見えない。そういう箱庭世界にいる。だから、まるで未来予知者のように、生まれつき社会の仕組みを知っている凡人が現れてくるのである。後からようやく気づく鈍感な人間からすれば、最初から気づいている人間は不可思議であるが、人間の皮として体験可能なことは、社会的動物として自明なのである。
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