このところ東浩紀と津田大介の断末魔を望見しつつ思うのは、つまるところ、文化人活動と言論活動の違いである。言論活動は妨害されても止める必要はないし続行可能である。男根を切り落とされても史記は書けるし、ましてや今の日本で言論弾圧などささやかなものである。言論活動と文化人活動は似て非なるものであり、文化人活動については、ちょっとした揉め事になるとスポンサーが降りてしまうので成り立たない。抗議活動で言論を殺すことはできないが、文化人は死ぬ。文化人の講演活動などは、聴衆からの強い支持に基づいておらず、興味本位で有名人を見物するだけである。パチンコ屋の営業と大差がない。では聴衆からの強い支持となると、真っ先に宗教団体が思い浮かぶが、おそらく言論の自由の問題としては別腹であろうし、文脈が違う、もしくは対比させて扱うべきであろう。現在の話の文脈では、宗教活動と言論活動は対比的なものである。そもそも言論活動という場合に、それで生活する必要があるのかという問題があるし、対価がなくていいなら何でもできそうである。つまり東浩紀や津田大介が直面しているのは、文化人として生計を立てていくのが可能かという命題である。一銭にもならなくていいなら、日本に言論の自由はある。当然ながら儲からないとなると意欲を削がれるのが人間であるし、妻子を養う云々もあろうし、文化人活動はやりたいが、無報酬の言論の自由などに関心はないわけである。今後、東浩紀や津田大介が文化人活動を行うとなると抗議が来るかもしれないし、スポンサーが逃げることはありうる。収入源が絶たれるのを言論の封殺というのはいかがなものか、という話である。リスクが0であることを保証しないと言論活動をしない、ということかもしれないが、それならやらない方がいい。
このところ風俗スカウトが逮捕されたという報道をわりと見る。つらつらと思うに、女子は小さい頃は男子よりも利口である。これがどうして逆転するかと言うと様々な理由はあるが、風俗スカウトみたいな文脈でいうと、女子が遊びを憶えるとどうしても贅沢品の購入に関心が向くし、それを買うために風俗という話になる。男子が遊びを憶えることについては、やはり容姿に恵まれた男子はタダで遊べるし、ブサイクな男子は遊びに縁がないということになる。何にせよ、鍵となるのは「買い物中毒」である。買い物中毒は女子が陥りやすい病であり、セックスそのものに最大の関心がある男子との差である。そして遊びに縁がないブサイク男子がおっさんになってくると中途半端に金があったりして、それが風俗女子に回るのである。買い物中毒については著しい性差があると思うのだが、その原因はよくわからない。体を売って稼ぐ選択肢があるから買い物中毒に陥りやすい、、、というような分析を連ねるのも可能だが、ごく素朴に女子の業病と考えたほうがいいだろう。頭のネジが外れている風俗嬢も子供の頃は利口だったのかもしれないし、浪費の愉しさを知るまでは、本能的な社会性で行動のバランスも取れているのである。やはり女子の社会性は生まれつきの平凡さでしかないし、遊びを憶えるまではそれが特技であるとしても、いわば凡人の堕落というべきか、金銭感覚が崩壊した凡人は人間の実直さを失うので、ただ愚かさを露呈するだけの存在になってしまう。
2019.06.26

空き家問題

「空き家問題」(祥伝社新書)という本を読んだのだが、あまりにもくだらない。地域の復権という奇妙な提言がなされているが、むしろ人間と人間のつながりを完全に切り捨てて孤独に生きる権利こそが大事である。更地にすると固定資産税が跳ね上がるとか、そういう基本的な解説もなされているから読むのが無駄というわけでもないが、類書でも同様のことは書かれているので読む必要はない書物である。ともかく孤独は大事であり、まったく解消する必要はない。そして移動の自由こそが新しい権利として高らかに謳われねばならない。土地にしがみつく権利は陋習として排除されねばならない。金銭的補償や代替地の提供は必要だが、「何がなんでもここに住む」という輩を強制排除してこそ人間は自由になれる。居住地に個性はいらないし、交換可能でなければならない。住んでいる場所の名前さえ知らないほうがいい。隣人の名前を知りたくないのだから、居住地の名前を知らなくてもいいであろう。というより、世の中の趨勢は明らかに土地の匿名化に進んでおり、空き家というのは、「自分の土地」への執着が賞味期限を過ぎて膿んだ瘡痕である。人々が新築マンションに群がる理由として、一軒家のセキュリティが低いというのはまったく正しくないし、実際は、一軒家が持っている顔が嫌なのである。玄関を無防備にさらけ出して接道している醜態が疎まれている。ひとびとが求めているのはセキュリティの強化ではなく、一軒一軒の玄関に顔がない匿名状態である。都心の小綺麗なマンションならどこでもいいのであり、その利便性の高さだけが重要であり、場所へのこだわりはない。われわれが求めているのは大都市の交通機関であり、現在の電車の速度の制約からして都心から遠いと不便な現状があるだけである。個性的な邸宅を求める人間だっているだろうが、「特定の土地にしがみつく」ことだけは忌避されなければならない。居住地の無個性化という大目標を達成する妨げになるなら、その個性的な邸宅を排除するのみである。
2019.06.04

不適応と淘汰

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熊沢英一郎さんが元事務次官の父親から殺害された事件について、この父親に共感するのは明らかな危険思想である。熊沢英一郎さんは何しろ元事務次官の息子なのだから、どこかしら使い所はあったはずである。東京大学で最上位の頭脳の遺伝子を引き継いでいるわけだ。九州の山奥でガリ勉ロボットとなり、東大に辛うじて合格という具合だとパラリンピックだが、事務次官まで行けるならオリンピックの金メダルである。熊沢英一郎さんが欠陥人間なのは確かだが、その欠陥に着目し烙印を押して疎外してきた社会がこういう悲劇を生み出した。hagexを殺害した低能先生みたいな凶行もあったが、この手の人が現実に刃物を突きつける確率がかなり低いのも確かである。低確率のテロリズムの可能性がある引きこもりのネット弁慶が大量にいるのだから、つまるところ、母数が多いだけの話である。引きこもりが本当に通り魔を犯す確率は低いのだが、引きこもり自体が多いので、犯罪の実行が多いという錯覚が生まれる。あるいは、この手の人間が犯罪で捕まると、ネットで荒らし回っていた生活歴が露呈するので、その書き散らされた支離滅裂な言葉が危険人物という確信を補強してしまうのだが、自ら吐き出したものであるとはいえ、裏側での暴言を録音されたのに似ていて、人間そんなものだと達観するのも可能である。われわれが直面しているのは、引きこもりの犯罪率ではなく、母数がやたらと多いことなのである。不発弾があまりにも多すぎる。山奥の母子家庭でガリ勉して東大にギリギリで合格・不登校・退学という人であれば矯正不能という判断になろうが、熊沢英一郎さんは父親が東大で最上位なのだから、どこかに社会的ポジションを与えるほうが建設的だった。われわれの社会は、就職できない理由をたくさん考え出して人間を排除して、完璧でなければ生きる資格がないという思想を広め、引きこもりを増やしてきたわけである。失格の烙印を押して引きこもりの母数を増やしてきたことが、これからの生活保護問題でも重くのしかかる。たとえばロイヤルニートとして名高い小和田雅子さんという人がいるが、引きこもりだから小和田雅子さんを排除するという考えもあろうし、どうにか皇后にして機能させようという考えもある。思想には自由があるから、小和田雅子さんは永遠に引きこもり状態が似つかわしいと主張してバッシングしても差し支えないのであるが、わたしはそれは愚見であろうと思う。世の中に適応できずに立場を失った人を叩き潰すという発想もあれば、立場が人を作るという方向性で解決する策もある。熊沢英一郎さんについては、事務次官の頭脳を引き継いでいるのだから、安易に排除するよりは、使い所を考えるべきであった。他人を不採用にする理由だけはいくらでも思いつくわれわれの社会が引きこもりを大量生産し、生活保護の負担を増大させている。
昭和を生きていた人間なら当たり前すぎる話であるし、凡庸なエントリーになってしまうが、令和になったのを機に昭和時代を回顧するのもよかろう。昭和時代は、遠距離通勤や遠距離通学が普通であり、片道二時間も常識であった。すべてはマイホームのためであり、通勤通学の距離がドーナツ化現象で伸びていったのである。最近であれば、夢のマイホームというよりは、都心のマンションが選好されるし、通勤通学の時間の短さが優先される。この文脈で最大の問題となるのは「移動時間」であるから、時間と空間の概念がごちゃまぜになってしまうが、満員電車に二時間乗るのと10分で済むのとではストレスがまったく違うのは言うまでもない。移動時間を短くするために空間の距離を短くしたいわけである。空き家問題と限界マンションの話を見比べると、マイホームの方がマシという気はするし、マンションの修繕費の高さを考えると築年数が経過したときのコストは重いが、修繕費に無知蒙昧なひとばかりではあるまいし、老朽化したマンションの面倒な事情は踏まえた上で目先の綺羅びやかさや交通の利便性を優先している人だって少なくないはずだ。昭和時代に満員電車に揺られつつ遠距離通勤や遠距離通学が幅広く行われていたのは、人口密度への耐性もあろうし、今なら反吐が出るような人混みにも慣れていたのである。とはいえ本当に平気だったのではない。苦痛ではあるが、世の中そういうものだと思っていたわけだ。最近は人口密度という単語をさほど目にしないが、昭和の頃はかなり使用頻度が高かった。多くの人は人口密度について嘆いており、それでも遠距離通勤・遠距離通学していたのである。データを調べずに書くが、この三十年くらいで、都心の地下鉄網はかなり発達しているし、逆に、神奈川県や千葉県から都心に行くときの混雑は緩和されてない気がする。都心の地下迷宮の圏内にいたほうが、混雑は避けられる。人口密度への畏怖は昭和の人間の篋底にまだ根ざしており、二度とあの時代に戻りたくないという観念が少子化の遠因でもある。かつては耐えられたものに耐えられなくなるというのは奇妙だが、(あまりこの話題はしたくないが)最近の綺麗なトイレに慣れたら、昭和時代のトイレなどおぞましすぎて寒気がする。人口密度の低さは、いわば綺麗なトイレのようなものかもしれないし、人口密度の低さを体験してしまったらもう昔には戻れない。そもそも昭和生まれのわれわれが「日本の人口は少なくていい」と思うのは認知のゆがみであろうし、若者の人口は増えたほうがいいと考えるのが合理的なのだが、氷河期世代の経済的困窮も合わせて考えると、認知のゆがみを正したら子供をたくさん作るというわけでもあるまい。本当の最貧国なら、貧乏子だくさんという現象もあるが、氷河期世代は中途半端に教育を受けているし、人間は少ない方がいいという先進国的な結論に落ち着くのである。
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