暇つぶしという言葉をわれわれはよく使うが、あまり考察されていない。
暇というのもよくわからず、そんなに暇なのかという問題である。
おそらくネットやゲームもない時代だと、暇で仕方がないというのがよくあったはず。
今日だとネットとゲームに行ってしまうので「暇で仕方がない」という認識は乏しいが、だらだらと時間を潰しているのは同じであろう。

人生で時間ほど重要なものはないのになぜ暇というのがあるのか。
おそらく集中力が高まらない時間帯を暇と呼ぶのである。
時間を溜めておくことは出来ないので、集中力が追いつかなくても時間がどんどん垂れ流されていく。

注意力と集中力は異なるが、だいたい似通っている。
ADHDだと時たま集中力が高まるが、要するにムラがあるので、注意力がない人間はたいてい集中力もない。

いろいろ考えると、インプットとアウトプットの違いに帰着する。
ADHDはアウトプットの人間なのである。
ただひたすら放電し続ける。
ネットがある現代だと、延々と投稿したりする。
これに夢中になっている状態はあくまで放電であるから本当の集中力とは言い難い。

ADHDはインプットが非常に嫌いであり、落ち着いて読書をするなんてもってのほかである。
黙って座るところから読書は始まる。
読書をしている時はアウトプットが出来ないのでADHDにはストレスが溜まる。

「こんなことをやっている暇があったら」という決まり文句があるが、ADHDはどっちみちアウトプットしか出来ない。
ネットとゲームを取り上げれば、多少はマシになるかもしれないが、どっちみちインプットが苦手なことに変わりはない。
インプットに時間を使えというのは簡単だが、なにしろ黙って座っていることが出来ないので、なにかしら衝動的な言動に走るしかない。

黙って座っているのを自主的にやってこそ入力待ちの状態になるので、怒鳴りつけたり縛り付けたりしても意味がないが、ADHDにはそういう措置しかない。
騒いだり暴れたり、衝動的に垂れ流すのがすべてであるし、自主的に落ち着いた状態など一度も体験せずに死んでいく。
中元=室伏と言うしかない。
中元すず香の骨格を見た場合、室伏広治しか思い浮かばない。
室伏の妹でも中元ほど立派な骨格ではないから、やはり室伏広治である。
われわれ菊地最愛原理主義者としては、中元が世界的なスターとなってベビメタから離れてくれれば最高であるし、ともかく縁が切れることだけを切望している。
だが、中元が完全なフィジカルエリートになってしまったので、もはや女子として売り出すのは厳しく、そこに男性的な美しさは見いだせるにせよ、本人のキャラクターがまったくそうではないため、このまま露出制限してSU-METALをやり続けるしかなさそうである。
ゆいもあ奴隷問題が永続する可能性が高く、ゆいもあが過労死すれば、別の奴隷が連れてこられる。

武藤彩未ちゃんがゆいもあに擦り寄っているという話があるが、これは逆であり、もあちゃんが彩未ちゃんに擦り寄っているのである。
彩未ちゃんが溺れているので、なにか逆に見えるだけである。
そもそも彩未ちゃんは水野由結ちゃんと身内同然の関係なので、擦り寄る理由がない。
これまでもあちゃんは中元に唯一フレンドリーな人間としてお世話係を担当してきたが、寝たきりの姑の世話をしている嫁のような状態であるし、そろそろ疲れてきたのである。
このあたりの言動が造反と見なされ、この三ヶ月間は完全にゆいもあが制限されているのである。
自分で作曲してないからにはプロデューサーが主体なのは当然であり、個々人の好き勝手は許されるものではなく、粛清や蟄居処分が行われている。
中元が単体でブレイクするまで脇役でサイドダンサーという苦境が続く。

隣の二人はいらないという意見はよく目にするが、ちょっと映像を見て閉じる程度だと、中元の外見でも大丈夫らしい。
よくよく見ると男子そのものなので、ゆいもあに流れてしまうのだが、スタイルだけはいいので、初見では美人だと錯覚すると思われる。
素の状態が知られると評価が逆転するので、三人揃って露出制限なのかもしれないが、ここまで来るとKOBAMETALはももクロ川上を超えた独裁者である。
国立競技場の問題で暴動が起きない。怒っても無駄という考えが浸透しているし、怒りは自我を強めるだけであるから、能う限りこれを弱めて常識人たらんとしている。われわれはひたすら温厚であろうとしているので、穢土に横たわる窮民として無聊を託っているのに公家の真似事をして何もかも他人任せである。この十年か二十年くらい、正義感で怒り狂う人間をアスペルガー症候群として断罪してきた。峻険なる山を登攀しようとする者を思いこみの激しい人物として叩き潰した。怒りとはターゲットをロックオンすることである。正義をひとつに絞り込むことである。この融通の利かない物事への接し方が徹底して葬り去られたので、どっちでもいいという常識人をたくさん生んだ。自らの考えを決め込まない方が、変化を続ける現実に柔軟に対応できるからだ。その副作用として、このような何千億円もの無駄遣いが行われようとしている。常識人と書いて傍観者と読む。怒りと訣別し自我をゆるめた静謐の世界において、戦慄するべき蛮行がなんら騒擾さえ起こらずに決行される。たとえば下村博文に対して暴言を吐くことが必要であるとしても、これもネットで迂闊なことを言うと警察に逮捕されるリスクがあるから他人任せである。下村に愛人が100人いることは書いても大丈夫だが、何かしら脅すような文言が含まれていたら当局の取り締まりを受ける。自分自身の中に生まれてくる正義感を否定している世相であるから、傍観者でいようという感情が先に立つ。特高警察や治安維持法もないのにこの状態というのは、いろいろと考えさせられる。余塵収まらない乱世なら、一旗揚げようと決起するのだろうが、軍記物語が完結した虚無の宿世にそれはない。厭世主義を極め無常観を育んでいるわれわれの手には掲げるべき錦旗がない。国立競技場問題はゼネコンにとって死活問題であるのと比べると、一般の国民は死活問題ではない。消費税がまんべんなく取られて、あれこれいろんなことに税金が使われるのだから他人事である。底辺でも藤原道長より便利な生活をしているであろうから、暗澹たる最下層に横臥しているにも関わらず天人の奏楽に浴している気になり、この無明のディストピアを作り出した主犯を捜し出そうという動機を欠いている。安倍晋三の愚妻が元電通社員なので、このようにおかしなことが立て続けに起こっている。安倍晋三が電通と気脈を通じているのは確実なのだが、わたしがそれを書いても誰も信じない。真相を目撃するまで信じないというのだが、真相を知る人間は真相を書けないので、可能性が高いことは決めつけなければならない。わたしは安倍晋三と電通が話しているのを目撃したわけではないが、見なくてもわかる問題である。安倍晋三と電通が話し合っている場面に立ち会う人間が真相を暴露するはずはないのだから、われわれ第三者は想像で凝視し、見ていない光景を見るしかないのである。見て無くても決めつける必要があり、目撃したと断じる決断主義が求められる。
かつては精神と肉体を区別していたわけである。
肉体を交換したいというのはわれわれの根強い願望であるから、その願望に従って切り分けていた。
だが、精神と肉体の区別などあり得ない。
五感についていうなら、これはすべて肉体の機能であり、肉体と精神を切り離したら五感もすべて無くなると考えなければならない。
心の目という安易なものは誤謬である。
肉体を切り離しても視覚は残るという都合のいいことはない。
おそらく、肉体と精神を峻別する場合は、何かしら透明人間のような状態をイメージしているのである。
普段のわれわれにとって肉体は拷問器具であり、肉体の制約の中で悶絶するのが人生なのだが、これを逆転させて肉体を自由にしたいという願望が精神という概念を夢想させる。
肉体には快楽と苦痛がセットされていて、苦痛の方が大きいのであるが、精神体になれば肉体の便利な部分だけ使って自由自在になれるという妄想。
実質的には超能力者になりたいということなのである。
心の目を説く人間が、実は万能の肉体を求めているという問題である。
肉体が消えると(感覚器官が消えるにも関わらず)認識の範囲が広がるという絵空事。
70億人が超能力者だったらどうするのかという懸念はないらしい。
制限された肉体でお互いに向き合っているからこそ自分が存在し得る問題。
この自分というものをどうやって消すかが課題なのだが、これを温存しようという発想だと心の目という迷妄が生まれる。
肉体が消えて精神だけ残るなら、苦痛が消えるのと同時に快楽や世界認識も消えるはずなのだが、そこに至れないと、死後に霊魂が残るという妄執を抱く。
肉体感覚のすべてが消え去るのが死である。
もはや近代社会は完成しており、そこから先は横這いで歴史の終わりというのは、ごく普通に言われていたわけである。
これらも生活は便利になり続けるが、人類としてはほとんどやり尽くした感がある。
相対主義が猖獗を極めることは誰もが予想していた。
先進国全般において階級が固定されていく。
身分制度とはまた別の資本主義の階層化だから人権問題になりづらく、もし変更するとなれば、家庭環境のシャッフルとか非現実的な案しかないので、ほぼ経済力を背景とした家庭環境の固定化で決着したと言える。
所得の再分配はあるとしても、親を変更するのはあり得ない。

あまり予想されていなかったのは草食化であり、カウンターカルチャーの消滅である。
自分は子孫を残さない方がいいという発想が蔓延している。
結婚することが性的な報酬とならなくなった。
端的に言えば、成人してから頑張っても手遅れであり、未成年の頃から恋愛対象として魅力がなければならない。
おばさんと結婚するなら美人でもブスでも大差がないという認識が浸透している。
自由恋愛によって社会が盛り上がると言うよりは、結婚が人生の目標ではなくなり、生まれつきの容姿格差へのあきらめが版図を広げ、それがある種の悪魔祓いのように人間の欲望を鎮めて、すっかり憑き物が落ちた様子が草食化なのである。

こうなってくると、苦痛を伴う努力はしなくなるし、なにがなんでも成功しようという欲望もなくなる。
あるとすれば、何ら利益を求めない努力であり、努力を苦痛と感じない人の世界である。
努力が苦痛でない人は普通にいるし、勉強するのが好きという理由だけで、特にメリットはなくても勉強する人はいる。
未来は無欲な人間に託されている。
おそらくは努力という言葉自体がなくなり、成功報酬が無くても全力を出せるかどうかの問題になる。
われわれは20世紀の共産主義の失敗を知っているので、無欲な世界を理想郷として想見することなど出来ないが、第三次世界大戦でこのディストピアが焼き尽くされて世界がひっくり返るまで、年代記を記す意味がないほど平坦な社会が続き、端から欲がないひとたちで埋め尽くされる。
この世に生まれたらその環境に身を寄せるだけで終わりというのが自由主義社会の結末である。
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