長いことわたしが感じていた違和感はよくよく考えれば単純なことで、本人のおもしろさというのがかつては前面に出されて人気を得ていたわけである。これが現在では完全に封印されている。そしてこの封印は永遠に続くのである。本人のおもしろさというのはアイドルなら最もアピールする部分であり、かつてはここが強調されていたのである。無口無表情でも頭の中ではおもしろいことを考えているというのが人気を得ていたわけである。ツイッターは代筆の可能性が0だとは言えないので、絶賛は控えるが、たぶん小学生の時は本人が書いていると思うし、小学生であの内容が書けるのはかなり知力は高いはずである。

これがトップコート(ナベプロ)に所属してから完全に封印されているのは、大手だからというのではなく、アイドル路線が実は完全に捨てられているのである。アイドルなら自分自身のおもしろさを最大限にアピールするけれど、女優ならそこはアピールしないわけである。女優として、あまりメリットがないのに加えて、むしろマイナスになりかねない。だから、ここは封印するのが無難なわけである。

大手芸能事務所に所属している中学生アイドルが自分でツイッターをやっている事例はほとんどないので、大手に入った段階でツイッターをやらないのは当然なのだが、だが、これは公式サイトに切り替えてもいいわけで、たとえばコメント欄のないブログでもいいわけである。たぶんツイッターをやめないのは、大手だからあまりツイートはしない、という誤解をさせておきたいからである。公式サイトを作ってしまうと、すでに女優に絞り込まれていて、アイドル路線が消えていることが明白になってしまう。なぜいまだに公式サイトがなく、ツイッターが拠点なのかという理由はこれで説明が付く。

アイドル路線をやめたと言っても、「アイドルはやめました。わたしは女優です」と宣言して、わざわざ二度と草木も生えないくらいに根絶やしにする必要はないので、この路線の切り替えは曖昧な状態にされている。なんか今でもアイドルであるかのような、そういうイメージだけは残しているのである。

これは仕方のないことであるが、完全に路線変更されている、ということはわれわれも強く意識する必要がある。大手(ナベプロ)に入ったというのが問題の本質ではなく、アイドル路線が絶たれているというのが肝心なポイントであり、女優であるのだから、本人がおもしろいという、過去のセールスポイントはもう出さないということなのである。ナベプロに入ろうが、アイドル路線であれば、本人のおもしろさは最大限にアピールするはずなので、大手に入ったという理由ではないのである。ナベプロでアイドル路線ということであれば、ファンとは関わらないながらも、公式サイトで本人の活動がいろいろ報告されるはずである。それをしないのは、アイドルではなくなった、と説明するしかない。

路線変更に不満を唱える権利がわれわれにあるはずはない。漠然としたアイドルイメージが残されているので、どうしても錯覚してしまうのだが、ここは完全に切られていると認識する必要があるし、切断されたのを理解し、不満を言うべきではないのである。蒼波純がアイドルのように見えるとすれば、すでに機能しない痕跡器官のようなイメージを見ているだけであり、実際は完全に淘汰されているのである。

そして女優を選んだのは、わりと正しい選択だと思われる。ああいう無口無表情キャラは、アニメや漫画ならテンプレと言っていいが、現実にはあまりいないのである。アニメや漫画なら、蒼波純みたいなキャラはいくらでも思い当たるのに、現実でああいうのが実在するかというと、かなり稀少であろうし、おそらく他の芸能人とまったくキャラがかぶってないはずである。そういう意味ではかなり特異なキャラクターであるし、それを活かせる作品に恵まれれば、女優として成功する確率は高いであろうと思われる。これは確実に成功するという話ではなく、素材としてかなりよいのに、作品に恵まれず消えていく女優はたくさんいるはずなので、そういう意味では、アイドルの方が間違いなく最低限売れるので確実性が高いのだが、とはいえアイドルとして頂点に立てるタイプではないから、外れるリスクはあっても当たった場合が大きい女優を選択したのであろうと思う。おそらくどんな役を演じても、蒼波純本人の方がおもしろい気がするので、アイドル路線が切られたのは残念であるが、これに抗議しても意味はなく、女優として、本人そのものは見せないという当然のことが行われているだけなのであるし、今後も本人は出てこないのである。
グーグルで検索すると必ずNAVERまとめが一ページ目に来ると言ってよく、これに不満を持っている人間を見かけるのだが、ネットユーザーに合わせてNAVERまとめは存在しているのである。ネットユーザーというより、無銭読者という言葉の方が的確であろうと思うが、死んでも金を払わないという集団がネットを占拠しているわけである。その無銭読者に適応した結果が現在のインターネットなのである。死んでも金を払わないという人間に丁度いい具合に作られたのがNAVERまとめなのである。

わたしのこのブログにしても、誰からも褒められないように心がけているわけである。無銭読者から褒められて支持率が上がり、そこから支持を下げられて倒閣というパターンを、わたし自身で体験しているし、他人の事例でも見てきたから、そのような数多の悲劇を考えると、やはり無銭読者にふさわしいやり方というのがあるのである。このブログが意外と長続きしているとすれば、さすがにこの内容だと誰も「この人は立派だ」とは言わないので、ここから下がる要素がないからである。無銭読者がネットを占拠している限り、支持率が低くなるように心がけるしかない。

人間が飽きるのは自然なことであり、それによって時代が切り替わっていくと言える。わたしだってすぐに飽きるわけである。何かに夢中になって、しばらくしてつまらなくなるのが普通である。わたしの中で長期間高評価を維持しているのは、三島由紀夫と道重さゆみちゃんくらいである。すぐに飽きて捨て去るという人間らしい気質が、古い時代を捨て去り、時間を更新し、新しい時代を作り、世界を塗り替えていく。飽きるという仕組みがなければ、これまた厄介であろうから、飽きることで、網膜に焼き付いていたはずの景色さえ消し去られ、次の時間に踏み出すのは仕方がないのだが、時代を彩った人たちが、飽きられて世界地図から消えるのである。褒めるというのは商品として開封するという行為であり、開封したからには消費されるゴングが鳴ったということであり、あとは寿命を待つだけである。死んでも金を払わないという無銭読者しかいないのだから、こいつらに食い尽くされないように防衛しなければならないし、褒められないことが大事である。死んでも金は払わないという無銭読者から褒められてハードルを上げられるというのは、不平不満を吐き出す準備と言って差し支えなく、褒められて喜んだ段階で他者の評価に平伏したのだから、そこからは蹂躙される一方なのである。評価を得られることで金銭が発生するなら、それを求めて、質の高いコンテンツが供給されるであろうし、飽きられてもまた別のコンテンツが出てくるはずだが、何の対価も無いとしたら、こうやって消費される役割を誰がやるのだろう。

NAVERでまとめを作る人間は、褒められたくてやってるわけもなく、ネットユーザーという客層の悪さを見透かした上で、粗末なまとめを作っているのである。あんまり役に立たないが、スパムとしてグーグルが消すわけでもない微妙なまとめが、どの単語を検索しても必ず出てくるほど大量にあるわけである。無銭読者にはNAVERまとめがふさわしく、まさに身の丈に合っているので、そういう自覚を持つべきなのである。おまえらが褒めてハードルを上げた上で、しばらくしたら飽きてがっかりしたとか、失望したとか寝言を吐くから、おもしろいサイトがすぐにおかしくなり容態が悪化して死するわけである。おまえらが最悪の客層として、金を払わずあちこち消費して叩き潰すわけだから、自ら評価を最低に下げておく生存戦略しかあり得ないので、誰も褒めないタイプのサイトが上位を占拠しているのである。ヤフー知恵袋とか、丁度おまえらの知恵袋としてぴったりなのである。
われわれは「嫌われる」という言葉をあまり厳密に使ってない。他人に向けて「おまえは嫌われている」と攻撃する言葉だから、あれこれ多用されるのだし、きちんと定義するというよりは、とりあえず放ってみる言葉である。だから定義はされてないのだが、やはり、本当に嫌われている場合と、馬鹿にされている場合では違うのである。中川翔子さんなどは嫌われてはおらず、馬鹿にされているのである。端的に言うと、若さを失ったのに年齢の自覚がない女をからかっているわけである。本気で憎悪している人はかなり稀であろうし、たいていの人は、馬鹿にしているわけである。「嫌われる」という言葉は濫用されているのでわかりづらいが、ここは区別する必要があるだろう。よくよく考えてみれば、本当に嫌われてるチンピラみたいなのを相手に「おまえは嫌われている」とか本当のことが言えるはずもなく、どちらかといえば、馬鹿にされている人に向かって、嫌われているという虚偽のレッテルを貼る攻撃なのである。そして中川さんは馬鹿なのだから、それに応じた扱いを受けているのである。

中川翔子は人生の成功者である。バラドルとして30歳近くまで第一線でやったのだから、かなり成功したのである。もう稼がなくてもいいだけの金はあるはずである。年齢的に限界が来ても、まだまだ現役のつもりという様子がまずいのである。もしくは30過ぎてもやれることがないのが問題である。

せっかく多芸多才であるのに、自己啓発的な発言が好きだから、ほとんど何も身についてないのである。あれだけ得意だったイラストも、もうかなり下手になってるから、なんか意識だけ高くて、実力が付かないどころか低下するのだから不思議な人である。自己啓発的な発言で満足してしまう人なのであろう。才能がないならともかく、才能があったのに掛け声だけの人である。

オタク知識の知ったかぶりがよく馬鹿にされるわけだが、基本的にすべてが知ったかぶりで、本当のことが身についてない人なのである。知能も才能も容姿も恵まれていただけに、「ふり」だけで生きてるのが逆にすごいわけである。出来るふりをする能力が高すぎて、せっかくの才能さえまったく磨いてないのが、ひとびとを唖然とさせるのだ。

正直なところ、わたしも中川さんがなんでこんなに馬鹿なのか原因が掴めない。生まれつきの知能指数は確実に高いはずである。イラストがうまかったのも間違いないわけである。歌唱力も優れているわけである。凡人とは違うだけに、何も成長してない様子には首を捻るばかりである。努力しても身につかない障害というのはあまり聞いたことがないから、おそらく努力はまったくしてないし、努力も「ふり」だったわけである。知能も才能も容姿も恵まれて、なんでここまで「出来るふり」だけなのかというのが不可思議である。意識の高さをアピールしていたが、これも「ふり」で実際に物事に取り組む姿勢はかなりいい加減なのだろう。本物の実力を身につけることが可能な素質があったのに、ニセモノで誤魔化そうとするのがすごい。サッカーの才能があるのに、サッカーの練習をせずに、サッカーが出来るふりをし続けるとか、そんな人はあまりいないと思うが、中川さんはそのタイプなのであろう。
昨日似たようなエントリーをしたが、再度しておきたい。講談社ミスiDで審査委員の大森靖子がごり押しし不自然な選考が行われた件だが、わたしは金子と黒宮を許すことにする。おそらく道重さゆみちゃんなら許すであろうと思うから、そうするだけである。

ミスiDで受賞するメリットがほとんどないのだから、何か大きな不正を働いたとは言い難く、道重さゆみちゃんなら情状酌量の余地を与えるであろうし、また道重さゆみちゃんのような聡明な人物なら、売れないアイドルを推すゲームだと理解するであろうし、アイドルを推すという精神の本質からして、一人一票の多数決など覆してもいいと考えるはずである。不人気メンバーを熱心に推す一人のファンがいるとして、たとえば100人分のグッズを買うなら、それは100票であるはずだ。一人で100人分応援することは可能なのである。アイドルを推すということに関して、これはズルとは言えないし、むしろこの熱心さこそが本質だと言える。

もちろんわたしは金子を応援しないし、金子に否定的な見解を示した四人の審査員も決して応援しないであろう。だが、アイドルを推すという根本に立ち返ると、大森靖子一人で100人分動いてもいいわけだし、それはこの賞の性質からして、正当化されるだろうと思われる。四人が応援しないことより、一人が熱烈に応援することが評価されることがあってもよいはずである。マイナスの評価の数で考えるより、推しているファンの熱意の方が重要であるとも言える。大森靖子が金子をごり押ししてグランプリにさせたのだから、他人の力を頼ることなく、大森靖子だけが金子を全力で推せばいいのであり、ミスiD受賞の特典が極めて乏しく、アイドルを推すゲームであると考えると、一人で100票入れるような行為は許容されるはずである。

大森靖子がごり押しし、金子にグランプリを取らせ、それから先は何もしないということなら、何の熱意もないごり押しであり、それはアイドルファンとしての行動ではなく、アイドルオーディションで傲慢な審査員として振る舞っただけとなるであろう。
やまもといちろうは100億円の資産があるという設定で活動しているのだが、このようなRTをしていた。

https://twitter.com/kirik/status/524124866371657728
jikoshinkoku.jpg


われわれの世界では、経歴の自己申告に頼っているわけである。他人の自己申告に疑問を呈するのはなかなか難しい。隣に住んでいる人がグーグルの社員だと自称していたら、ああそうですかと言うしかない。疑ってみるとしても、徹底的な追及などしない。

とはいえ、自己申告で押し通せるのは赤の他人だけである。飲み屋で東大医学部卒の医者だと詐称している客がいるとして、第三者として疑わしいと思っても、その証明を求めるわけにはいかないが、さすがに企業が採用するときは本当に東大卒か確認するであろうし、病院が医師を採用する場合に、本当に医者なのかどうかはチェックするのが当然である。本人がそれを拒めば採用しないというだけである。つまり、経歴のチェックというのは、赤の他人が行うことは出来ず、あくまで採用する時だけに条件を付けられる、とも言える。採用/不採用という問題の時には経歴チェックがあるのだから、社会的に経歴チェックはあるのである。

問題なのは、フリーランスで活動している人である。採用/不採用のプロセスがないのだから、経歴チェックを受けてないのである。どのような経歴を自己申告しても、第三者はその証明を求めることは出来ない。

自己申告した経歴を赤の他人に証明する法的義務はないし、たとえば誰かが東大卒だと詐称しても、採用/不採用という場面でなければ、卒業証書の呈示を求めるわけにもいかないから、疑わしくても放置しておくしかないのである。とはいえ、法的な義務がなくても、立派な経歴を自己申告してフリーランスで活動している人間は、その経歴の信頼性を確保するのが普通だと言えよう。もしくはわれわれとしても、本人が自分で証明しない限り、立派な自己申告には半信半疑の姿勢を取るべきなのである。

自分の人生をフルオープンにして生きている人は歴史上ひとりもいないと言ってよく、誰でも言いたくないことはあるのである。というか、そのような恥の概念こそが個人を形成しているのである。恥じたり見栄を張ったりする感情こそが、自分と他人の間に境界線を張り、われわれの存在を成り立たせている。なんでもオープンにするとしたら、自分の人生を完全な他人事と見なしているということである。特別にやましいところがない人にしても、やはり個人的な事情は秘密にしておきたいのである。このあたりの恥の感情が尊重される結果として、自己申告をチェックできないという問題が発生するのである。採用/不採用という場面ではさすがに経歴チェックがあるので、社会的に最低限の経歴の確認は行われているのだが、それ以外の場面では、他人の自己申告に手出しは出来ない。とはいえ立派な経歴が自己申告されていたら「この人は本当に東大卒なのだろうか」と疑う自由くらいは、当然確保されてしかるべきであろう。自己申告する自由と、それを疑う自由が並列しており、この決着が付かない曖昧性が、自己という秘密の存在を成り立たせてるのである。この曖昧さこそが人間であり、また歴史性であるとも言えるのである。自らの主体性によって世界を理解しているというのは、要は自分の五感の範囲しか把握してないということである。森羅万象を千里眼で見渡しているのとは対極であり、自分の五感の範囲外にあるものは想像や伝聞で理解するしかない。それぞれがプライバシーを隠しつつ、なんとなく探り合ったりしている関係性で、世界は成立しているのである。であるから、他人の自己申告は話半分で聞くべきなのである。こちらから「証明しろ」と言うことは出来ないのだから、あまり真に受けないことが大事である。
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