ヴェブレン(1857-1929)の「有閑階級の理論」は読まなくても内容が分かる本であり、退屈であると言っていいのだが、幸運を信じる心というくだりが面白かったので引用しておこう。

ヴェブレン「有閑階級の理論」高哲男訳
ギャンブル好きな性向が、もっぱら略奪的なタイプの人間性に属する特徴と分類されるべきものであることに、疑問の余地はない。ギャンブルを行う習慣に含まれている主要な要素は、幸運を信じる心である。そして少なくともその要素についてみるならば、この信念が略奪文化に先立つ人間の進化段階にまでさかのぼることは明らかである。幸運を信じる心が、ギャンブル好きな性向の主要な要素として、スポーツ好きな気質のなかに存在しているような形に発展したのは、略奪文化の下でのことであったと言えよう。
(中略)
古代の人間にとっては、周囲の環境のなかのきわめて顕著で明らかに重要な対象や事実は、すべて準人格的な個性をもっている。それは意志力、あるいはむしろ性向をもつと考えられており、したがって、複雑な原因のなかに入りこみ、不可解な仕方で結果に影響を及ぼすのである。幸運とチャンス、すなわち幸運な必然性に関するスポーツマンの感覚は、漠然とした、あるいは未完成なアニミズムなのである。それは、しばしばきわめてあいまいな仕方で対象や状況に適用されるが、しかし通常は、技能とチャンスをきそうあらゆるゲームの装置や服装の付属品を構成する対象に含まれている独自な性向の展開を和らげたり、逸らしたりねじ曲げたり、さもなければ混乱させたりする可能性を意味するもの、と定義されている。多少とも効き目があると見なされているお守りや魔除けを身につける習慣をもたないスポーツマンは、ごく少数に限られる。


幸運を信じる心、という概念も面白いし、これをアニミズムに結びつけているのも卓抜だと思われる。
ヴェブレンは、スポーツ選手がお守りのたぐいを所持するのをアニミズムだと指摘しているが、これはこじつけではなく、かなり本質的な指摘である。

スポーツを本気で見ると、どうしても祈るような気持ちになるのであり、これはパチンコ台の前で大当たりを待っているのと、そう変わりはあるまい。
スポーツは実力次第であるし、実力そのままであるはずだが、スポーツの一試合だけ切り取ってみれば、番狂わせはずいぶんあるものである。

入学試験にお守りを持っていくのも、やはり一発勝負だからであろう。
試される機会は限られているし、運不運が出てしまう。
人生の重大事では、節目節目で、どうしても幸運を祈るしかないのである。

アニミズム的な習慣は、どんな場合でも因果的継起の理解を曇らせるように働く。だが、より初期の、ずっと思慮を欠き、それほど明確ではなかったアニミズム的な性向についての感覚は、より高度な形態の擬人観よりもはるかに広く個人が知力を働かせるプロセスに影響すると期待してよいだろう。


ヴェブレンは初期のアニミズムを因果関係の否定と規定する。
それは高度に知性的なものに発展していくという。

ヴェブレンは人生の一回性ということは述べてないので、そこはわたしが補助線として引いただけだが、やはり人生が一回である限り、幸運を信じる心というのは避けられない。
因果関係というのがあるとしても、一回だけだと、運不運はあるので、事前に確実な予想をすることはできない。

背景にあるのは、やはり人生が重大ということであろう。
たとえばサイコロを振るだけであれば、まったく何もないわけであり、出た目の結果で快楽と苦痛に分かれるからこそ意味があるのである。

気候についても、それぞれの土地において決まった傾向はあるが、バラツキもあるので、一回だけの人生では雨乞いするしかないこともあろう。

「目先のことに囚われるのはよくない」という言い回しがあるが、これは長期戦を視野に置いた話であろう。
試行回数が多いことなら、物事に一喜一憂しないことが望ましい。
しかし、アスリートにとっての五輪とか、ひとつの舞台が重大過ぎることもあり、その一回のために幸運を祈るしかないこともある。







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