ヒュームが使いそうな喩えだが、たとえば玄関のドアに鍵をかけたとする。そうしたらその物理的な事実は揺るがないのである。夢の中だと鍵を掛けたのに人が入ってくるような悪夢があるが、現実でそれはない。鍵をかけたら鍵をかけたのであり、それは覆らない。鍵開けの名人みたいなのに解錠されてしまうとしても、それは因果律の狂いではない。鍵をかけたのは間違いのない事実で、しかし、それをプロの手口で解錠されてしまったというだけである。

夢と現実に共通しているのは、一応の前後関係はあることだ。前後関係そのものは人間の体験にとって不可欠である。ただ夢ではずいぶん前後関係が気まぐれである。因果律という言葉を原因と結果の厳格な結び付きと定義するなら、夢には因果律がない。

重要なのは何かと言うと、過去は設定なのである。過去そのものは消え去ってるから、過去、あるいは現在完了の設定があるだけである。現実だとこの設定が物理的に揺るがないが、夢では設定が大雑把である。いきなりサッカー選手になってもいいわけだ。

夢の中では因果律が無視されて鍵が簡単に開いていくし、われわれも疑問には思っていない。「これは夢だ」と気づくこともあるが、気づかないのが大半である。考えてみればこれは至極当然のことであり、生まれついた状況に没入するのが体験の基本である。中世に生まれついて貴族だと言われたら貴族だし、奴隷だと言われたら奴隷である。異端審問で魔女を丸焼きにしたのは夢の中の出来事ではない。

われわれは森羅万象を知らない。自分の肉体の周辺しか知らないし、最近ならインターネットもあるが、頭の中に入る情報量は有限である。われわれはこの地球上で発生している出来事の殆どを知らないのである。自分の状況だけは辛うじて知っていて、原因と結果の因果律に縛られているのだが、所詮はそれだけなのである。つまり、現実というのも所詮は森羅万象に盲目的で、個人的な設定を生きているだけなので、夢で因果律が支離滅裂でも、大雑把な前後関係があればいいらしい。現実の因果律を踏まえずに気まぐれに生きて破滅する人がいるのも、人間の体験そのものに規矩とした因果律は必要ないのだろう。因果応報を踏まえないと大変なことになるだけであり、つまり結果が破滅でもいいなら、踏まえないことは充分に可能である。







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