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われわれは後半生になるともっと勉強しておけばよかったと悔いたりするが、前半生にガリ勉しすぎて有村悠さんのようになっても困る。健全な人間になるためには青春を謳歌しなければならない。有村悠さんのようなガリ勉は、老人のような少年時代を過ごし、老人のような青年期を過ごし、そして子どものような初老の男性になっていく。これも人間性のひとつであり、誰もが周辺世界に適応してスイスイと泳いでいるわけではない。有村悠さんは東大受験のために九州の山奥で地獄のようなガリ勉をした過去があり、いわば西方浄土を想見した修験者だったから、生まれついてのドクズではないので、挫折したビルドゥングスロマンの典型とも言えるし、インチキな人間であるにもかかわらず、青春の葛藤で自壊した様子が何かしら生々しい抜け殻として文学性を持っている。東大合格後も歴史年表片手にガリ勉していればよかったのだろうが、青春という悪魔に取り憑かれて背伸びして煩悶し不登校になった経緯が、あまりにもバカバカしいことながら、その愚かしさこそ若さとして人間普遍のものに思える。東大アニメ研究会でカラオケをした時に高嶺の花の美人東大生と廊下で二人きりになって告白して面罵されたのが不登校の直接の引き金であり、これを失笑するのはたやすいにしても、まさに持たざる人間ならではの通過儀礼である。その試練を乗り越えてないのだから通過儀礼ではないのかもしれないが、通過儀礼を乗り越えられないのが人間らしさである。学問と青春は二者択一ではないはずだが、いつ使うかわからない学問と、目の前に顕現している色香はまったく違うのであろう。青春という病気に取り憑かれた若者が、いわば極左冒険主義者のように短絡的な蹶起にたどり着くこともままある。だんだん若さを失うと、きらびやかなものへの憧れもなくなり、瘴気漂う俗界にも鼻が馴染んでしまうが、若い頃は百花繚乱たる華やかさを夢見て、その輪に入るための武器を短絡的に求めるものである。若さの特権というが、その特権性と照応するように理想主義が差し迫ってくる。教父から課せられた天命のようにして理想世界を求め、かくあるべしという観念に押し潰されるのである。若さがなくなると、憑き物が落ちるように観念世界が滅亡し、記号性や象徴性を失った俗世間の実態がそのまま見えてくる。東大文学部西洋史学科を退学処分になっている有村悠さんは、ここ数年、高卒レベルの日本史の薀蓄を切り貼りしているが、疾風怒濤というべき青年期が終わり、わずかに気が長くなったのかもしれないし、こうやって遅きに失して学ぶのも人間らしさである。純然たる思想犯罪者たるには肉体の若さが必要であり、眼の前の現実とは別の光景を錯視するような感受性が必要だが、それが枯れて鈍磨するのは何らかの救いであるかもしれない。
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金の無心、もしくはタダ飯や無料セックスを乞い求める輩の何が悪いのかと言ったら、菊池桃子にストーカーしているタクシー運転手のように相手先まで出向いて迷惑行為をやりかねないからであり、そう考えると、今回の有村悠さんの乞食は、恵んでくれる人がいたから「DM」とリプしただけであり、いわばイケメンに女が群がってるというか、羨望するべき事案と言える。決して徳操の高い托鉢僧のような人間ではないので、自発的に喜捨してくれる相手がいなくなったら人様の玄関を蹴り破って座り込むくらいはやるだろうが、それを言うなら金持ちだって転落すれば銀行強盗をするかもしれないし、差し迫って人倫が問われる状況でないなら、潜在的な危険性は等閑視される。
水野由結ちゃんは昨年12月の中元すず香生誕祭をバックレてから消息不明のまま脱退となったので、本人のコンディションについてわれわれは知る由もない。センセーショナルなデビューを飾ったルーキーが監督のエゴで酷使され再起不能になったというのが表面上の印象、つまり、あくまで身体や精神の崩壊であり、中元すず香との不仲が原因ではないということになっている。実際は人間関係が最大の理由で、故障などたいしたことないという可能性も十分にあるのだが、これは実際に本人が出てくるまではわかるまい。水野由結ちゃんはまさに存在そのものが美であり、美しいから美しいという当たり前の理法で天衣無縫に咲き乱れていたのだが、YouTubeを経由してBABYMETALが海外で話題になり、英国では五千人を集めた単独ライブも行い、日本に凱旋し華々しい栄光を手にするかと思いきや、BABYMETALのプロデューサー(中元すず香のプロデューサー)は、海外の都市をバス移動でドサ回りという考えがたいことをやったのである。日本なら狭いビジネスホテルでもずいぶん小綺麗で清潔感があるが、海外で小汚いライブハウスめぐりをするのは、さぞかし大変だったに違いない。なおかつメタルバンドに傾斜したことで水野由結ちゃんがいるのかいないのかわからなくなった。可憐Girl's後継ユニットということでBABYMETALに勧誘されて、メタルバンドの脇役になってしまったのが水野由結ちゃんであるが、中元すず香は可憐Girl'sのオリジナルメンバーとはいえ、絶対可憐たる要素が寸毫たりとも認められない。中元のために可憐Girl'sというギミックを取り外したことで、水野由結ちゃんの絶対可憐さは断ち切られ改竄され、すべては灰燼に帰した。ところで、可憐Girl'sの第一人者と言えば、どう考えても南條愛乃さんである。美それ自体である水野由結ちゃんと、まったく美人ではないが美意識で魅せる南條愛乃さんではまったく違うように思えるが、しかし、実際に南條愛乃さんが可憐Girl'sをやってみた映像を見れば(ちなみにわたしは現地でも見ているが)、なぜか重なり合うのである。可憐Girl'sはイロモノであるから、このギミックを演じきれるかどうかで、本物かどうかが試される。高級な服を着ているから高級であるというのは俗人の考えであり、可憐Girl'sの衣装だからこそ本質が見える。これを最も素晴らしい形でやったのは南條愛乃さんであるし、そして、これからというときにメタルバンドに変更されてしまったのが水野由結ちゃんである。母親がバレーボールの選手で体幹の強さが特徴の水野由結ちゃんは可愛らしい見た目に似つかわしくないダンスができるのだが、そういう外的なスペックだけが水野由結ちゃんの魅力ではあるまい。やはり絶対可憐なる者への憧れ、そして、そういう可愛らしさを持ち合わせていることをまったく嫌味なく自慢げにしているのが水野由結ちゃんだったのである。悩みなく明るい世界を無邪気に生きていた水野由結ちゃんは、重苦しい暁闇を前に自らの属性を柩に入れなければならないのだろうし、人間は同一人物として生きながらも、通過儀礼が来るたびに自己の断片を失わなければならないのだが、水野由結ちゃんやドナルド・トランプのような世界史的人物には幸福などまったく必要がないし、傷が癒えようが癒えまいが、疼痛が絶えない戦傷もひとつの運命愛として果断なく超越的なものに向かうのである。憂い顔を覚えてしまった水野由結ちゃんは、もう昔には戻れないが、それすらも絶対可憐というテーマに昇華されるのである。
KDDIの代理店から迷惑を蒙って業腹な経験のあるひとは少なくあるまい。そもそもKDDIの代理店の走りと言えば光通信である。光通信はDDI(第二電電)の代理店としてかなり荒っぽい営業をやって、悪い意味での一時代を築いたわけである。そのDDI(第二電電)は現在はKDDIとなっているが、代理店の荒っぽさは変化がない。光通信創業者の重田康光は半グレの典型であり、悪人ではあるが暴力団と接点がない。1992年に暴対法が施行され、大企業は裏社会と縁を切るということになった。光通信の創業は1988年で、DDIの代理店になったのもこの年からである。光通信が東証一部に上場したのは1999年であるが、90年代に光通信が躍進したのは、重田康光が暴力団と無関係の半グレだったからである。光通信が傘下の代理店に圧力を掛ける際には高額訴訟を乱発するのが手口であったし、光通信本体に暴力団は出てこない。光通信のビジネスモデルは携帯電話のインセンティブを悪辣な方法で吸い上げるという単純なものであり、「寝かせ」など誰でも思いつくようなものだから、DDI(第二電電)が被害者ヅラするのは如何なものかと思う。飼い犬に手を噛まれただけである。光通信の周辺には暴力団員も登場するが、これはITバブルの文脈で出資した企業に暴力団関係者が食い込んだという構図である。重田康光や光通信本体に暴力団は食い込んでいない。そして携帯電話販売の本業の部分では、暴力団と無縁と言っていいのである。暴対法以降の世相において、重田康光という悪人は暴力団と無関係であるメリットをかなり理解していた。どれだけ悪かろうが、暴力団でなければいいのである。光通信に関わって儲かった人はほとんどいないとされるが、重田康光本人は個人資産を確保して今でも億万長者である。このような問題をKDDIはまったく反省していない。いまだに新聞勧誘の拡張団みたいな半グレがKDDIの代理店をやっているのは、光通信の遺伝子ということだろう。
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京都大学


個人差はあるが、人間は愚痴を言うわけである。愚痴というのは本音/嘘という対立軸では捉えられない。愚痴はあくまで「現実への不満」であり、現実が嫌になったときの憂いである。たとえば現実的に分相応な結婚をしていても「こんな相手と結婚しなければよかった」と言ったりするわけである。そういう愚痴にマジレスされて困惑することもあるだろうし、あるいは、愚痴がエスカレートして本当に離婚することもあるだろう。つまり、人間は最高の理想を実現しながら生きているわけではないので、いわばレトリックとして「京都大学に行きたかった」という表現が生じるのである。理数系だと京都大学は優秀だけれども、文系で超エリートコースを志願している人は東大に行くわけで、エリート東大生を忌避する意味では京大の方が有村さんにフィットするかもしれないが、こうやって考えること自体が無意味である。有村悠さんが「京都大学がよかった」とうそぶいたとして、(もう39歳なので進路相談するはずもないが)、「有村さんだと京都大学の方が向いてますね」と薦めるのは意味がなかろう。東大にギリギリ合格するためにガリ勉丸暗記詰め込み教育をしたのだから、京大だと種目が違うかもしれない。ともかく愚痴とは心の乱れであり、時としてそれが言霊として重みを持ち、あまり現実的ではない隘路を感情的に突き進むこともある。愚痴を言っている御本人が愚痴だと弁えているなら、自らの発言に引っ張られることはなかろうが、たとえば他人に焚き付けられて、それに乗っかってしまうこともあろう。本来なら本音/嘘という区分から外れているのだが、勢いで愚痴が本音となることもある。そもそも本音というのも謎であるし「こんな人生は嫌だ」という愚痴は本音と言えば本音だし、理想ではない世界を生きているわれわれが篋底に秘めている根源的願望とも言える。ともかく愚痴はレトリックと言うか強調表現であり、現実的な決意表明などではないのである。時として引っ込みがつかなくなることもあろうし、あるいは他人としても、愚痴を愚痴として踏まえて聴いてあげるのもしんどいので、愚痴は言わないほうがいいのだが、愚痴っぽい性格は治らないので致し方ない。
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