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わりと最近、九州大学の学生(19歳)が51歳の父親と46歳の母親を殺害し(地方裁判所で)懲役24年の判決を受けた。地裁の判決で終わりではないだろうし、最高裁でどうなるか知らないが、ともかく典型的な教育虐待であった。この父親は九州大学の受験に失敗していたが、九州大学中退だと嘘を付きながら生きてきたそうである。そして教育虐待の結果として、息子は九州大学に合格したのだが、(つまり親の望み通りになったのだが)、それでも父親からのパワハラが解消されなかったようである。子どもが九州大学に合格することで積年の劣等感が晴れたわけではないのであろう。九州大学中退と称していた父親としても、子どもの九州大学合格を素直には褒められないだろうし、またしても自分が他人に追い抜かれたという劣等感があったかもしれない。新しい劣等感でパワハラ継続ということはありうる。さて、この世の中は自己を過大評価している人で溢れている。自分過大評価が人間の基本である。どれだけ過大評価であるかは濃淡があるだろうし、あるいは距離の近さもある。たいして親しくなければ、「この人は見栄っ張りだな」と思ってそれで終わりである。逆に、とても近い関係だと厄介である。特に家族という密室では厄介である。身内からすれば笑い事ではない。刺すか刺されるかくらいの差し迫った恐怖である。それにしても、こういうのは親だけの問題ではなく、子どもも親を自慢したがるのである。ここが根深い問題である。子どもが親を自慢するのは不道徳であるとわたしは言いたいが、世間の大半の人は微笑ましく思っている。やはり、子どもが親を自慢するのは禁止しなければならない。極めて悪い行為である。自分の親を自慢するという行為が、家族を嘘臭くさせており、われわれの世の中を蝕んでいる。実際は子どもがいなくても、たとえば青葉真司容疑者のような自己愛の暴発はあるのだが、とはいえ、一般的に、赤の他人であれば、こういう誇大妄想の相手をしなくていいのも確かではある。親の自己愛が子どもに向けられるのを防ぐためには、親を自慢するのは恥という新しいモラルが必要である。親が偉大な人間でなければならないなら、自己愛の肥大化もたやすく起こってしまう。偉大でなくてもいい、という発想が必要である。
杉本彩という人とか、わたしはおかしいと思っているわけだ。犬猫だけ特別というのは杉本彩に限らないが、たまたま愛護界隈で名前がよく出てくるから引き合いに出している。命にランク付けをするのは良くないし、「家族」という概念から命を語るのは極めて危険である。家族の命は重い、家族でない命は軽い、そういう発想は邪悪である。犬猫は家族というのはレトリックというか、つまりヒューマニズムの延長であろうが、やはり、その圏内と圏外の格差があるわけだ。擬人化されやすい犬猫だけ特別で、それ以外の動物は圏外というのでは困る。おそらく、人間の命と動物の命は価値が違うという問題があり、犬猫だけ人間の側に仲間入りさせようというのが「犬猫は家族」という論法なのだが、これは他の動物を軽視しているのである。家庭で生物を飼育したら家族なのかというと、たとえば、われわれは子どもの頃は喜んで昆虫を飼育する。昆虫は家族なのか、というと杉本彩的な価値観ではもちろん違うであろう。なぜ犬猫にはヒューマニズムをお裾分けして、昆虫は対象外なのか。昆虫は擬人化が難しいし、子どもも昆虫の命を大事にしてはいない。生きている昆虫を標本にしたりとか、要するに好奇心である。昆虫は狩りの対象であり、子どもにとっての戦利品なのである。犬猫は戦利品ではないのだろうし、愛玩動物ということになろうが、なぜ犬猫だけ愛玩するのか、という根本的な問題はある。というより、犬猫は狩猟をする動物であり、明らかに「狩る側」である。「狩られる側」の動物ではない。このあたりも、犬猫は人間的であり、だからこそ家族という理由かもしれない。そもそも家族扱いされることのメリットはなんぞやというと、たぶん仇討ち感情の共有による集団安全保障であろうし、恫喝である。これは空想的な報復感情であるから、いちいち取り合うには足らないかもしれないが、ときたまSNSでのリンチなどで具現化してしまうこともある。そろそろ犬猫だけを特別扱いする連中と戦うべき時期なのかもしれない。
このところ、街には犬が溢れている。コロナの間に購入して、ここぞとばかりに連れ出しているのだろう。犬というのは飼い主にはイエスマンなのだろうが、逆に言うと、飼い主以外にはイエスマンではない。イエスマンとはそういうことだ。犬を飼う人が多くなると、「自分には忠実」という部分が共有されて、それを崇拝する愚劣さが輪を広げる恐れがある。イエスマンは特定の相手へのイエスマンであり、第三者から見ればただの下劣な俗物である。飼い主に忠実であっても、端から見れば凶暴な生き物、それが犬である。イエスマンと言っても、お手とかおすわりができるだけで、知的障害者以下の知能であるが、人間と違って口答えもしないから究極のイエスマンと言えるし、擬人化して台詞を勝手につけて、ぬいぐるみとして遊びやすい。たとえば赤の他人の子どもが騒いでいるのであれば、「自分も小さい頃にうるさかったから仕方ない」という納得の仕方はあるが、赤の他人の犬がうるさいのは、納得のしようがない。われわれは犬を引き連れた大名行列に迷惑しており、そろそろ彼らの傍若無人な無軌道に報復する必要があるのかもしれない。擬人化がとても行き届いているので、飼い主が脳内で書き溜めた台詞は愛好家の間で正当化されてしまうが、犬は犬だし所詮はファンタジー、ぬいぐるみとおしゃべりする気味の悪さであり、オタクの頭の中に美少女がいるのと大差ない、犬は決して人語を解さないという現実を理解してもらう必要がある。
「自閉症は津軽弁を話さない」(松本敏治著)という本を読んでいたら、こんな興味深い記述があった。

私が主催している発達障害青年・成人の会「ガジュマル」にきているある方がこんなことを言っていました。
人が道で転んだのをみかけたとき、普通の人は「まあ、あんな転び方をして痛そう」と思い、そばに駆け寄って「大丈夫ですか」と尋ねますよね。「大丈夫です」と言われても、何度か確認をします。しかし、このASDの方は人が転んだのをみて「私だったらあのくらいなら大丈夫」と判断をするそうです。このことを、この方は「自分目線」と呼んでいました。しかも、「大丈夫だとわかっているのにわざわざ噓くさいやりとりがうざい。自分だったら、そんなやりとりはしたくない。ほら、自分がされたくないことは他人にしないでって言うじゃないですか」と言うのです。

この事例はつまり、誰かが転んだが、怪我をしたわけでもなさそうな場合の話である。この著者によれば、たいしたことがないとわかり切っていても、駆け寄って「大丈夫ですか」と確認するのが当たり前だという。
自閉症スペクトラム障害者だと、「大丈夫だとわかっているのにわざわざ噓くさいやりとりがうざい」というのである。
ふむふむ。
どうだろうか。
なんとなく男女の差はありそうな気はする。
少なくとも女性なら、(転んだ人が怪我をしてないと確信していても)大げさに心配の演技をしてみせる。
男性なら「どうせ大丈夫だろう」と考えてスルーするのはありえる、と思う。
果たして、自閉症スペクトラム云々の話かどうか、そこは疑問である。とはいえ、おそらく心配の演技をしてみせるのが健常者っぽいのであろう。「どうせ大丈夫だろう」とスルーすると、思いやりがないと言われそうである。
思いやりにも種類があって、本当に心配する思いやりもあれば、儀礼的な思いやりもあるのである。
あくまで儀礼の問題としては、オーバーアクションで心配してみせるのが必要なのだろう。心配そうに演技をするべき場面で演技をしなかったらアスペルガーと言われてしまう。
人間の裏表への心理的抵抗の問題とも言える。儀礼的にいい人ぶることへの唾棄の感情の問題。ある意味、自閉のほうが純粋というか、裏表の使い分けという社会的な機能を認めていないのである。他人が表面的な思いやりを示したときに「裏では人間のクズのくせして」みたいなことを考えるわけだ。
自殺しようとしている人を助けたとして、その救出活動自体は快楽だが、では、その助けられた人の今後の人生まで考えると、気が重い、もしくは助けても無意味ということがある。もちろん、飛び降り自殺寸前の人を食い止めたとして、その後の人生まで面倒を見る必要はないだろうから、助けてはいけないこともないし、見過ごしたらそれはそれでまずいだろうが、食い止めてどうなるという話もある。あるいは、自殺自殺と言いながらなかなか死なない人もいるし、いわゆる境界性人格障害というか、命がけのお芝居に付き合わされるので、最初から関わらない方がいい、というのもあるだろう。助ければ終幕というのではなく、むしろ苦痛の幕開けなのだから、そこを考えて、巻き込まれないように気をつけるということである。つまり、われわれが無慈悲なのは、心の底から無慈悲であるだけでなく、助けても仕方ない、一時的に助けてもそこでは終わらない、という実情がある。あるいは、犬猫の保護活動が大変という変な話を聞くが、おそらく保護が終わったあとが大変なだけで、保護自体は明らかに快楽である。病気の野良猫がいるとして、これを助けるのは明らかに快楽である。問題なのは、病気が治って普通の猫になったとして、そこから終生飼育する大変さである。保護が快楽だから次から次へと保護しているとケージが満杯になってしまう。金銭的にも苦しくなる。覚醒剤依存症みたいなものである。世間の多くの人が野良猫を助けないのは、助けたくないのではなく、一時の快楽に身を委ねて助けたとして、その後に飼うのが大変だからである。どこが快楽でどこが苦痛なのか、そこは踏まえなければならない。病気の野良猫を一時的に助けて、病気が治ったら元の場所に戻す、という方法もなくはないが、猫を拾って捨てているだけ、という懸念はあるだろう。衰弱した子猫を拾って、元気になるまで育てて、一人前になったらまた野に放す、というのは、端から見れば捨てているだけである。
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