Category
コロナウィルスは世界的な悪疫ではあるが、エボラ出血熱が流行っているわけではないから、意外とたいしたことはない。インフルエンザより死亡者は多いであろうから、軽々と扱うわけには行かないが、ともかくエボラ出血熱ではない。検査が絞られ、疫学的調査が中心となっているから、いわば魔女狩りのようになっており、不安が増幅している。自分が感染するのが怖いのではなく、他人にうつしたら厄介なのである。これによって、本来なら黙殺するべき他人の愚痴愚痴した感情が、われわれの内部に侵入してくる。不景気による倒産ならいくらでもあるし、普段から黙殺しているのだが、このような世情では他人にいちいち同情しなければならず、この同情がわれわれを蝕んでいる。そもそも気の毒な人というのはルサンチマンの徒であるし、他人を恨んでいる卑しい連中であるから、共感を寄せる筋合いのない相手なのだが、不幸の手紙のようなウィルスが跋扈しているので、われわれは半端な慈善家として迂闊な同情を垂れ流している。世界人口が77億人いて、そのうち100万人は死ぬであろうし、ノーガードならさらに増えるが、人類の絶滅が懸念されるような病気ではない。エボラ出血熱は今のところ血液や体液での感染が大半であり、流行しても年間の死者は世界で一万人くらいであるが、コロナウィルスはやたらと感染力が強いので、われわれはお互いに相手の苦悩を背負っている。そして経済苦の愚痴が跋扈し、物乞いが溢れている。あと数年すればなんの変哲もない病気になるはずであり、ある意味、われわれは古来からの疫病を物珍しく体験させてもらっている。他人に同情しなければ刺されるかもしれないが、それもやむなしと腹を括らなければならない。
実需と懸け離れた地価に支えられていた土地バブル時代は崩落が容易く想像できたが、イベントや観光のようなサービス業の拡大が疫病によって頓挫するのは、まさに青天の霹靂と申し上げるしかない。世界的な疫病の懸念はずっと囁かれていたわけであるし、南海トラフ地震のようにいずれは起こりうるものであったが、観光やイベントは実需の裏付けがあり、決して土地バブルのような愚かしいものではなかった。なんにせよ、天変地異でご破算になるのは人類の歴史において繰り返されてきたことであり、こうなったら軍服に着替えるしかないのである。観光やイベントが図らずもバブルとなってしまった惨禍を前にして、非常事態の軍政を敷かねばなるまいが、つい最近まで浮かれ気分だった人間にそのような大役は担えないようである。景気低迷を大前提として、儲からない話ができる胆力が求められている。人災ではなく天災であるから、法的に責任を取るというよりは、この歴史的な惨劇において、倫理的な責め苦に甘んじるだけの器量がなくてはならない。誰かを見捨てざるを得ない状況があるとして、たいていの人間は遠巻きに模様眺めをしてしまうが、ここであえて切り捨てなければならないのである。あらゆる怨嗟を甘んじて受けつつも、折れない人間が必要である。われわれは経済社会の敗北者を自業自得と断じて見捨てることには慣れているし、誰かを蹴落とすことは日常茶飯事だが、天変地異で泣き叫ぶ無辜の民を見捨てることには慣れていない。火葬もままならないほど遺体袋が積み上げられるのであり、世界大戦であるから、この地球上を観光気分で歩くことなどできない。死と隣り合わせであるのは、そんなに悪いことではなく、人生は観光旅行ではないという生々しい実存に向き合わされるのであり、仮初めの通俗性から脱し、平穏無事ではないからこそ気づくことはたくさんある。
われわれは訴訟社会に馴染んでおり、賠償という言葉がすぐに出てくる。何かに付けて、自らが受けた損傷についての補償を要求するのである。疫病となるとこの訴訟社会における補償理論も難しく、そもそも訴えるべき相手がいないということになるが、われわれはもはやそのような粗野で無骨な時代とは縁遠く、自粛要請で商売上がったりになれば、国家からの補償を求める輩が出てくる。不可抗力の自然災害を人為的なものと錯覚する誤謬、あるいは、訴訟社会に慣れきった甘えが根底にあり、これを児戯として一笑に付すことが出来ないのが、訴訟社会の病である。現在のわれわれは、その訴訟社会において生殺しにされ、自信を失っている。実際には訴訟沙汰になるとは思えないし、補償などないのだが、飲食店を強制的に閉鎖させた場合の補償問題とか、逆に飲食店が営業を続けた場合には、その飲食店こそが疫病を増幅させる装置として加害者となることもあろうし、疫病という巨大な暴力を前にしたちっぽけな人間存在が露わにされている。この半世紀くらいで人間の命の価値はとても重くなったが、その重さが陰鬱さを生んでいる。生存本能だけでなく、命を軽んじるのも野性的な感覚であるが、その原始的な殺伐さは訴訟リスクを生み出すので、牙はすべて抜かれており、裁判所の判決によって高められる命の値段に付き合わされている。人間の命が簡単に失われていた昭和時代が懐かしくなるほど、それぞれの命の重さが息苦しいのである。観光業は、大自然の恩恵に浴していることが多いのであるし、大自然からもたらされるリスクは織り込み済みであってほしいものだが、現生人類が地球を完全に制圧した現代において、大自然が人間をたやすく死に至らしめる力学には馴染みがない。先進国が観光業への依存を強めるのは、人間の勝利ゆえであるが、われわれは現時点において疫病の暴力の前に無抵抗になっており、この安定性が低いビジネスへの依存に厭いている。それでも観光依存は変わらないであろうし、これにしても、先進国で高等教育を充実させた結果として肉体労働が忌避され、肥大しているサービス業の受け皿なのだが、平凡な知性の人間に高等教育を与えてもあまり効果がなく、一部の人しか教育を受けてない社会のほうが人間の知性が高い、という側面もある。社会が進歩したことで人間はひ弱になるしかないのであり、あれこれ気疲れするだけなのが昨今である。
このところ東浩紀と津田大介の断末魔を望見しつつ思うのは、つまるところ、文化人活動と言論活動の違いである。言論活動は妨害されても止める必要はないし続行可能である。男根を切り落とされても史記は書けるし、ましてや今の日本で言論弾圧などささやかなものである。言論活動と文化人活動は似て非なるものであり、文化人活動については、ちょっとした揉め事になるとスポンサーが降りてしまうので成り立たない。抗議活動で言論を殺すことはできないが、文化人は死ぬ。文化人の講演活動などは、聴衆からの強い支持に基づいておらず、興味本位で有名人を見物するだけである。パチンコ屋の営業と大差がない。では聴衆からの強い支持となると、真っ先に宗教団体が思い浮かぶが、おそらく言論の自由の問題としては別腹であろうし、文脈が違う、もしくは対比させて扱うべきであろう。現在の話の文脈では、宗教活動と言論活動は対比的なものである。そもそも言論活動という場合に、それで生活する必要があるのかという問題があるし、対価がなくていいなら何でもできそうである。つまり東浩紀や津田大介が直面しているのは、文化人として生計を立てていくのが可能かという命題である。一銭にもならなくていいなら、日本に言論の自由はある。当然ながら儲からないとなると意欲を削がれるのが人間であるし、妻子を養う云々もあろうし、文化人活動はやりたいが、無報酬の言論の自由などに関心はないわけである。今後、東浩紀や津田大介が文化人活動を行うとなると抗議が来るかもしれないし、スポンサーが逃げることはありうる。収入源が絶たれるのを言論の封殺というのはいかがなものか、という話である。リスクが0であることを保証しないと言論活動をしない、ということかもしれないが、それならやらない方がいい。
このところ風俗スカウトが逮捕されたという報道をわりと見る。つらつらと思うに、女子は小さい頃は男子よりも利口である。これがどうして逆転するかと言うと様々な理由はあるが、風俗スカウトみたいな文脈でいうと、女子が遊びを憶えるとどうしても贅沢品の購入に関心が向くし、それを買うために風俗という話になる。男子が遊びを憶えることについては、やはり容姿に恵まれた男子はタダで遊べるし、ブサイクな男子は遊びに縁がないということになる。何にせよ、鍵となるのは「買い物中毒」である。買い物中毒は女子が陥りやすい病であり、セックスそのものに最大の関心がある男子との差である。そして遊びに縁がないブサイク男子がおっさんになってくると中途半端に金があったりして、それが風俗女子に回るのである。買い物中毒については著しい性差があると思うのだが、その原因はよくわからない。体を売って稼ぐ選択肢があるから買い物中毒に陥りやすい、、、というような分析を連ねるのも可能だが、ごく素朴に女子の業病と考えたほうがいいだろう。頭のネジが外れている風俗嬢も子供の頃は利口だったのかもしれないし、浪費の愉しさを知るまでは、本能的な社会性で行動のバランスも取れているのである。やはり女子の社会性は生まれつきの平凡さでしかないし、遊びを憶えるまではそれが特技であるとしても、いわば凡人の堕落というべきか、金銭感覚が崩壊した凡人は人間の実直さを失うので、ただ愚かさを露呈するだけの存在になってしまう。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング