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さて、最近は「中傷された」と申し立てる著名人がたくさんいるわけである。活動がままならず、それでいて野次だけは飛んでくる苦界であるから、経済的な不安も合わせて心労は察するに余りあるが、悪疫に侵食された地球上では有名であれ無名であれ誰もが困難に陥りうる。防疫という観点から、ウィルスが国境を超えてブレンドされることは避けねばならない。池江瑠璃子に抗議しても仕方がないというのは正論極まりないが、ここに一抹の党派性を見て取ることもできる。共産党の宇都宮けんじが署名運動を始めたから、いわば推進派のマドンナである池江瑠璃子が、反対運動の悪質性を訴える立ち位置になったのである。オリンピックが大企業のスポンサーマネーで成り立っていることを考えると、党派性が背景にあるのは当然である。自民党と大企業の結びつきについては言うまでもない。党派的だから党派的なのだ。大企業も本当はオリンピックのスポンサーを降りたいのであろうが、今更降りられないのである。そもそも大企業も本当は広告など出したくないのだし、口止め料のバラマキである。これからコカ・コーラやトヨタ自動車に鉾先を向けるしかないが、その役割にふさわしいのはやはり日本共産党である。開催の可否について、池江瑠璃子が埒外であるのは論を俟たないが、スポンサーからの需要が極めて高い象徴的な存在であることに間違いはない。その商品価値が無に帰することが不安なのか、あるいは悲劇のヒロインとしての立ち位置だけでも確保しようということなのか、トリックスターとして舞台に上がってきたのである。狂言とまでは言うまいし、中傷被害も実際にあるだろうが、あえてそれを声高に言い立てるような苦境に追い込まれているのである。つまるところポジショントークである。われわれはアスリートに同情している場合ではない。スポーツ大会だから駄目というのではなく、世界中から人を集めるイベントが悪なのであり、これを食い止めるために万策を尽くさなければならない。まずは国境を封鎖し、その上で最低限の経済を維持していくしかないのである。このような原理原則の確認が揺らいでいるから、なぜか劇場は許されて映画館が封鎖されるという奇妙な状態になっている。映画館であれば、出演者がその場にいるわけではないので安全だと思われるが、ライブ感がないからこそ規制しやすいのであろう。空港での検疫が甘いのもオリンピック関係者の入国を見据えてのことである。オリンピックのために物事の理非が歪んでいる。大企業と自民党の結びつきが腐敗の背景にあるとすれば、ここで日本共産党が出てくるのは必然的であり、党派性は避けられないが、ではどの党を支持するべきかと言えば日本共産党となる。東京五輪のスポンサーをするというのは、論壇同友会の機関誌を買うのとなんら径庭がない。最終的にはコカ・コーラとトヨタ自動車に決断してもらう必要があるし、ここまでの罪過の重さも問わねばならない。


わたしはNBAに興味はないのだが、なんとなくYouTubeで八村塁のダイジェスト映像は見ていて、数日前は一試合で五回のダンクを決めるという大活躍だった。なぜこれが日本のメディアで取り上げられないのか、と不思議に思っていたら、八村塁の弟さんが、差別云々の投稿で話題になった。そして八村塁は体調不良になった。ダンクを5回も決めて疲れたのかもしれないが、人権問題で心労が溜まったのかもしれない。人間は誰しも天賦人権を持っており平等の価値があるが、しかしNBAの試合で一日5回のダンクができる人間が平等性を訴えるのは意味がわからない。というより、弟さんが訴えたのでやむなく同調したのであろう。スーパースターの弟さんというのも大変な立場である。兄弟間格差で鬱になったと決めつけるのも失敬な話ではあるが、人の内面など知る由もないからこそ、あえてわたしは通俗的にそう解した。一試合で五回のダンクができる人と、そうでない人という格差があり、それを埋めるには天賦人権に訴えるしかなかった。ひとびとはコロナ禍において蟄居生活を強いられており、活動そのものに制約があるので被害者意識が強まっている。多くの人が腐りながら生きている。ひとびとの思考が後ろ向きになるのも悪疫のせいであるから、早く元の世界に戻りたいものである。元の世界が素晴らしかったわけではないが、スマホをいじっているよりはダンクを決めたほうがいい。元の世界に戻ればダンクを決められるという話ではなく、むしろまったくそうではないのだが、格差が明白になるのは、それはそれで仕方がないことである。
われわれは普段からいろんな人間をなんとなく見捨てているが、自らの手でトドメを刺すのは嫌なのである。コロナ禍において、飲食店への過剰なバラマキが批判されているが、これは決して政治家の暴走ではなく、われわれ大衆に良心の疚しさがあり、政治家は特に飲食が好きだから便乗しているだけである。なぜ疚しいのか知らないし、普段から飲食店の閉店は見慣れているはずだが、その侘しさに胸が痛むのも確かである。飲食店は寝たきり老人と同じなのである。どっちみち老人は死ぬし、飲食店は潰れる。だが、どうせ死ぬからさっさと死ねとか、どうせ潰れるからさっさと潰れろというのも差し障りがあり、延命策を考えてしまうのだが、そのような人間的な弱さをコロナウィルスは突いてくる。われわれはそろそろ安楽死の問題を考えなければならないし、どっちみち助からない人間を見捨てなければならない。85歳以上でコロナに感染したら一切の治療はしないくらいの措置は取らなければならない。ましてや普段から潰れ続けている飲食店を無理して助ける愚行は唾棄せねばならない。死の間際の人間を助けてしまうのは人間の弱さであり人間らしさであるが、もはやそれをやっている場合ではない。繰り返すが、政治家は便乗しているだけである。飲食へのバラマキは政治家のエゴではなく、われわれ大衆が持つ一抹の良心の疚しさの反映である。今までのバラマキについては、溺れる人をひとまず助ける心理としてやむを得なかったのかもしれないし、われわれ偽善者の自己満足のための募金として肯定してもよいが、いつもいつも募金したり、溺れているひとを助けるために飛び込み続けるとなると、さすがにわれわれの薄っぺらい慈悲の限界である。飲食店を苦境の象徴として扱うのは他の業種に冷酷という現実問題もある。われわれが誰かを助けれなければその人が死んでしまうという状況に直面したら、やはり助けてしまうし、それこそ助けないでいられるとしたら、かなり肚が据わっている。人命救助で表彰状が出たりするが、救助しないで平気であるほうが難しい。人助けは弱さである。普段は不親切極まりないひとでも、やはりトドメは刺したくないのである。われわれと飲食店の差し迫った関係は、これ以上続くのであれば、それこそボダがタゲっているのと何ら径庭がない。ボダがリストカットするのも、人命救助の心理を踏まえているのだし、われわれが表彰状をもらってしまう弱さに負けることを見抜いているのであるが、このような偽善的名誉のために社会状況の悪化が酸鼻を極めているので、そろそろ人命救助をしない不名誉に甘んじる決断主義が必要であり、人格障害的な関係性を根絶やしにしなければならない。
オリンピックのせいで空前絶後の大災害となりそうだが、これでトヨタ自動車が批判されてないのが不思議である。おそらく、日本人は相手の立場に配慮する風潮があり、「向こうだって仕事なんだ」と考えて諦める文化である。トヨタ自動車が本当にCMを出したいとは思えないし、要するにメディアへの口止め料として払っているわけだ。だからわれわれは「トヨタ自動車だって本当はオリンピック中止を願っているだろう。やむなく仕事でやってるのだ」とか思うわけである。つまり、ひとびとはお互いに仕事で他人を傷つけているので、その刀傷についてはノーカウントにしようという妙な協定、もしくは同情があるらしい。「トヨタだって本当はオリンピックなどやりたくない」と察しているのなら、トヨタに抗議して五輪中止に追い詰めてあげるのが親切という気もするのだが、ここはよくわからない。お互いに「俺も仕事なんだ」「相手だって仕事なんだ」と正当化する癖が桎梏のようにこびりついていて、その同情の壁を壊して先に進むことはできないのかもしれない。また、無名人のわれわれが書いても効果が薄いので、著名人がオリンピックに反対すればいいのだが、著名人は要するにCM出演が究極の目標というか、芸能人にせよ文化人にせよ、スポンサーにぶら下がって、そこから収入を得たいわけである。もちろん大企業にスポンサーになってもらわずとも、直接的にファンから集金することも可能であり、むしろそのほうが本質であるはずだが、それだけではやっていけないとか、ファンにチケットやグッズを買ってもらうだけでやっていける人でも、さらに稼ぐためには大企業のCMに出たいかもしれないし、どこもかしこもスポンサー依存で蝕まれている。われわれ一般人の大半にはスポンサーなどいないし、これから生きていてもトヨタ自動車のCMに出ることは間違ってもないと確信できるのだが、それでもなかなか団結などできないし、たとえばわたしがトヨタ自動車に抗議の電話をしてその音声をアップしたとしても、前述した論法により、「あのひとたちだって仕事なんだ」というお決まりの論法でこちらが悪者になりそうだ。そもそも本当に広告を出したくて出している会社がどれだけあるのか疑問であるし、やはりマスコミ対策の側面が大きいと思うが、今回の災厄を機会にこの膿を出せるのかというと出せないであろうし、ただ単に膿んだところを切開もせず唸って苦しんでいるだけあり、ここからさらに化膿するのだから驚く。われわれ一般人が決起するか、もしくは絶対にCMに出ない(電通も敵に回す)ような著名人が旗を振るかという状況だが、おそらくわれわれ一般人が決起して攘夷を行わねばならないのだろう。電通やトヨタ自動車を日本の敵として糾弾し、バッハ会長という夷狄の入国は阻止する。
レジ待ちはなぜストレスなのか、というと、やはり割り込まれたくないからであろう。割り込みという侮辱行為を受けないように警戒することがストレスなのである。自分の顔に泥が塗られないか畏怖している。割り込まれるとメンツが丸つぶれなのであり、これは待ち時間の問題ではない。たとえば開かずの踏切で5分10分待たされることがあるとして、これはレジ待ちと似ているがやや違う。開かずの踏切はメンツの問題ではないが、レジ待ちはメンツの問題である。最近話題になるあおり運転も、実はその前にメンツを潰す行為があるという。あおり運転の被害者にヒアリングすると、加害者の憤激に心当たりがあることが多いというのだ。相手の進路を塞いだ(もしくは意図せず塞いでしまった)、あるいは割り込んだ(もしくは意図せず割り込んでしまった)という因縁があり、それへの報復なのである。われわれ人間の歴史は3次元空間で陣地を奪い合うゲームであり、割り込むというのはそのゲームの1ターンとしての攻撃である。肉体そのものが幅や面積を持った存在であるから、ひとつの座標に一人という排他性があり、自分が求める座標に他人がいるなら諦めるか排除するかである。空間を占拠する戦いを、文明の端緒から、もしくはそれ以前から生物として行っているのだから、失笑して済む話でもない。空間が無限にあるとしても、誰もいない場所に住むことはできないから、他人と共存せざるを得ないし、奪い合いが発生する。たとえばインターネット空間に面積はないが、誰もいない場所に価値はないと言えるし、発生した場においてのトラブルは多々ある。人間が住んでいない場所にスーパーマーケットはないし、レジ待ちもありえない。終の棲家として誰もいない深山幽谷の地に住むことはできるがそれは死の準備であるし、つまりわれわれが生物として生殖するなら、やむなく他人と共存するしかなく、そこで割り込みとか、主人と奴隷の支配関係とか、そういうことになる。他人の生々しい体臭にうんざりしながら生活するしかないのである。お互いの体が臭いと言えばそれまでだが、ともかくそういうことだ。当然ながら、レジ待ちは、土地の奪い合いや支配関係とは話が違うのだが、ごっことしては同じである。金持ち喧嘩せずという心境でいれば、割り込まれたところで実害はないので看過する。人間関係においては「なめられたら終わり」というのがあるが、レジ待ちは人間関係ではないので「ここで勝っても仕方がない」という現実はあり、たまたま割り込んできた人間に負けても人生にデメリットはない。だから、負けるが勝ちという心境になれる余裕があるかどうかである。われわれはゼロサムゲームを生きているので余裕がない人が多いから、どうしても報復を考えるし、いわば憂さ晴らしとして実行する人もいるのだろう。レジ待ちで喧嘩する人はさほどいなくても、あおり運転だとそれがやりやすいのであろうし、やはり割り込みこそが人間の歴史の根本であるから気をつけねばならない。
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