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カチェリーナはナスターシャとの話し合いを諦め、グルーシェンカの家に戻っていた。なにしろナスターシャはアスペルガー症候群であるし、理屈に強いから手に負えないのである。
そしてナスターシャが黙っているはずはなかった。真性引き篭もりを通じて、カチェリーナに反撃してきたのである。真性引き篭もりの最新エントリーでは、Lunatic Prophetというブログの軍事知識の底の浅さが馬鹿にされていた。このLunatic Prophetはカチェリーナが匿名で運営しているブログである。カチェリーナは艦隊これくしょんというゲームについてエントリーを書いたのだが、真性引き篭もりはこれをあげつらい、その知識の浅さを嘲笑したのだ。
カチェリーナはグルーシェンカを自室に呼んで相談することにした。
「わたしが匿名でやっていたブログがナスターシャに発見されたようだ。知識が浅いとして、すごい馬鹿にされている」
「あいつはカチェリーナ様の名前を出して嘲笑してるんですか」
「いや、今のところはそうではないが、わたしのブログだと嗅ぎ付けたんだろうな。あいつはハッキングの技術はかなりありそうだ」
「ナスターシャはカチェリーナ様の城に住んでるんですから、調べるのは容易かったんでしょう。すぐに城から追い出すべきだと思います」
それからグルーシェンカは真性引き篭もりの記事を読み始めた。Lunatic Prophetのことは話してなかったから、カチェリーナは顔から火が出る思いだったが、隠しておくわけにもいかなかった。
「いかにもwikipediaで生半可な軍事知識を身につけたというエントリーですね。これは馬鹿にされても仕方ないです。ナスターシャは機械系の知識がありますから、指摘はかなり的確です。あいつは親から虐待されてはいますが、両親とも高学歴で教育熱心です。情緒がゴミでも知識だけはあるんですよ」
カチェリーナもそれは認めざるを得なかった。艦隊これくしょんがブームになっているから、それに乗っかろうとしたのだ。カチェリーナは無教養な親からネグレクトされ、15年間ゴロゴロしていたから、ネットで囓った表面的な知識しかない。
「このLunatic Prophetというブログは、wikipediaの貼り合わせです。軍事の知識や世界史の知識の乏しさが明らかであり、文化資本が足りない育ちの悪い人間が書いたのが丸わかりです」
「わたしのように家庭環境がゴミだと何をやっても駄目ということか」
「そうです。投じられた文化資本を拡大再生産するのが、優れた人間なのです。文化資本は知性の元手です。この元手を運用して、秀才や天才になるんです。文化資本が乏しい環境だと、この元手がないから、才があっても使い物にならない。でもカチェリーナ様は頑張り始めましたから、すぐに追いつけます。まだ15歳ですから、うちで文化資本を身につければいいのです」
カチェリーナとしても、グルーシェンカの家に来てからはかなり手応えを感じていた。生来の偏頭痛はまったく改善しておらず、いつも脳から全身に疼痛が走っているが、最近はまったく問題としていない。具合が悪いのが普通だと思っており、休まないことにしているのだ。今までは、やらない理由を考えるのが得意であり、少しでも具合が悪ければ薬を飲んでゴロゴロしていたが、この素晴らしい家庭環境で怠けるのはとても恥ずかしいことだった。いきなり中学三年生から始めたが、勉強は難なく出来た。不満があるとすれば、最初からこの家に生まれたかったということだけである。
「カチェリーナ様はわたしより知能が高いですから、根気よく何年かやれば本物の教養を身につけることが出来ます。wikipediaは所詮は要約だけ書いてあるサイトなんで、豆知識の羅列です。文化資本に恵まれていないゴミに向いていると言えます。知的なバックグラウンドが無い階層にはこれで充分でしょう」
「せっかく憧れのお嬢様学校に入れて貰い、リザヴェータやグルーシェンカのような教養ある令嬢と暮らしているのに、わたしは見苦しい育ちの悪さを晒してしまったのだ」
「そんなのは簡単に変わります。うちで文化資本をたくさんインプットすれば、いずれ素晴らしい結果をアウトプット出来るようになります」
「わたしはそれで救済されるかもしれないが、これだけ恵まれた家庭環境に引き取ってもらえる事例はほとんどないだろう。文化資本が乏しい育ちの人間は救われないというのか。いっそのこと、わたしの資産を使ってwikipediaを越える内容のサイトを作りたいと思う」
「ああ、それは面白いと思います。wikipediaを潰す必要はなくて、これは豆知識サイトとしてあっていいんですが、もっと本格的な文献に接することの出来るサイトがあれば、人類の文化の発展に寄与することが出来るでしょう」
「実はわたしは古本が苦手なんで、資料がネットにあったらいいと思っている。絶版されていて古本で買うしかない本も結構あるが、手に取る気にならない」
「女性はきれい好きですから、古本嫌う人多いです。女性からも喜ばれるでしょう」
「わたしだけが読むなら、業者にスキャンして貰えばいいが、やはり人類に幅広く提供したいと思う」
そうやって二人でいろいろ話していると構想が盛り上がってきた。カチェリーナの資産で著作権の問題をクリアし、絶版されている有用な文献を幅広く提供するのだ。どのような家庭に生まれようとも、ネットにアクセスできるなら、無料の素晴らしい文献に接することが出来る。世界的大富豪であるカチェリーナの資産を使えば、これは現実的だった。そして、これから花開く教養文化に思いを馳せると、wikipediaの知識に甘んじていた自分が恥ずかしくなった。土台となる教養がないのに、ネットで調べた豆知識だけ並べても意味はないのだった。カチェリーナはLunatic Prophetを削除した。
カチェリーナはこれまで真性引き篭もりという人殺しブログを黙認してきた。アスペルガー症候群を理由に親から虐待されているから気の毒だし、やむなく城に置いて自由にさせていた。それに自閉性のあるカチェリーナとしては、屁理屈だらけの真性引き篭もりに好感を持っていた分もあった。理屈で勝つと対人関係で負けてしまうという理不尽さはカチェリーナも感じていたからだ。
だが最近のナスターシャは真性引き篭もりで唯物論を展開するようになった。カチェリーナとしても、さすがにこれは文句を言わざるを得なかった。カチェリーナはカトリック教会に巨額の寄付を行っている。本気で聖書を信じているわけではなく、むしろ信じてない方だが、天国があったらいいと願っている。
カチェリーナは城に戻って、ナスターシャの部屋に踏み込んだ。五つの部屋の壁を壊して繋いであるから、かなり広いスペースである。黒系統の色で統一された無機質な空間であり、ナスターシャの趣味である機械類が山積みにされている。社会の中で無用とされたものが流れ込んだ毒々しい暗渠という風情である。その中央でナスターシャは座禅を組んでいた。元々骨と皮のような少女だが、最近は白骨死体という印象を持たせる。スラヴ系としてはかなり小柄で、美しさのない少女である。
「おまえ、最近真性引き篭もりで唯物論を唱えているな。釈尊を越えたとか、弥勒菩薩だとか、意味不明のことを言っていたが」
カチェリーナが問い掛けても、ナスターシャは冷然としていた。どうやら悟りを開いたということらしい。城から出て行け、と言うべきかカチェリーナは悩んだ。賃貸借契約を結んでいるわけではなく、単に居候させているだけだから、ナスターシャが法的に居座ることは不可能であり、退去させるのは簡単だ。だが、カチェリーナは理屈を重んじている人間である。ナスターシャが理屈で勝っているのなら、それを認めるのがフェアであった。虐待されている家に強制送還するのは、汚いやり方に思えた。
「ええと、だな。わたしはおまえを追い出そうとは思っていない。理屈が正しい分には追い出さない。だが、唯物論は理屈で証明できない。聖書も天国も証明はできないが、証明不能である点において、唯物論とキリスト教は対等だと思える。証明できない唯物論を強硬に主張するなら、出ていって貰う」
ナスターシャは無言だったが、だんだん目が据わり、それから眉尻がつり上がってきた。鵺のような笑みを浮かべたが、それは怒りであるようだった。あのお得意であるらしい激昂が始まるのだ。ナスターシャは少し姿勢を直した。部屋は静まりかえっており、黒い袈裟の衣擦れの音が妙に響いた。ナスターシャは両方の掌を腹の前に掲げ、親指と人差し指を付けた。どうやら釈尊が悟りを開いた時の転法輪印のポーズのようである。
「唯物論は証明可能だ。無は無であるのは自明の理であって、僕が証明するまでもないんだよ。無は無である。僕は色即是空空即是色を越えたんだ。空ではなく、本物の無なんだ。時間も空間もなく、完全な虚無。死んだらそういう状態になるに決まっている。これによって、僕は釈尊を越えたのである。釈尊は涅槃を信じている段階で、思想の甘さがあった。釈尊は死後の心配ばかりしていた。死んでから地獄に堕ちたり、餓鬼となって飢え苦しむのを恐れていた。僕は恐れやしない。死んだら無なのだから、僕は完全消滅し、幸福や不幸を感じ取ることも出来ない。無が無であるのは当然なんだよ。明らかな無を見て、何かあるとか思う方が馬鹿だろ」
ナスターシャは普段は無口だが、喋り始めるとかなり長いらしく、一気にまくし立てたのである。
一昔前のカチェリーナなら、ここで言葉に詰まってしまうところだが、最近はグルーシェンカからソーシャルスキルのトレーニングを受けている。ごく普通に落ち着き払った。落ち着いてる方が優位であるのが対人の基本らしい。そして冷めた目線を意識しつつ反論を始めた。
「おまえの唯物論は19世紀のマルクスとフォイエルバッハの受け売りだろう。近代科学が花開いたことで、唯物論を考え出したんだ。だが、20世紀以降の量子力学では、三次元というのが疑われている。三次元空間は人間の認識の問題であり、実際の宇宙は四次元・五次元という余剰次元に展開されうるという発想が今の物理学のトレンドだ」
「四次元とか五次元とか証明出来るのかよ」
「22世紀には証明される」
「おいおい。僕は21世紀に生きてるんだぜ。おまえだけ22世紀かよ」
「三次元は近代科学と人間の限界なんだ。22世紀になれば19世紀の唯物論など消え去る」
「笑止千万だ。100年後に唯物論が否定されるとか、アホがあるか。おまえはノストラダムスかよ。ドブスは黙ってろ」
「単なる予言ではなく、もう物理学はそういう方向に進んでいる。おまえが信じているマルクスとフォイエルバッハは19世紀の近代科学のレベルなんだ」
「人間が四次元とか五次元になるのかよ」
「ならない。人間は三次元だ。つまり人間には認識不能の次元がある、と22世紀に証明される」
「話にならんわ。100年後に証明とか。僕は21世紀に生きてるんだぜ。だいたいこういう理屈は他者への説得力が問題だ。おまえみたいなドブスが四次元五次元言っても相手にされねーよ。さて、ここから追い込ませてもらう。よしんば四次元があろうとも、死後の魂の証明なんぞにならんわ。死んだら無になる。これは揺るがない。四次元に都合よく天国があって、そこで魂が永遠とか、お花畑もいいところだろうが。次元がいくつあろうが、死は死であり、無なんだよ。そしてこれこそが救済思想なんだ。釈尊は修行によって自らを救うことを目指したから、他者の救済は含まれない。この問題を修正し信者を増やすために大乗仏教が生まれ、通俗的な衆生救済を目指した。誰でも仏になれるという安易な発想だ。僕は激昂しながらこれを引き裂かなければならない。大乗仏教の安直さを否定するために、僕は涅槃を否定する。死後の安らぎなんていらねーよ。死んだら無になるんだから、それだけさ。この僕の思想により、本当の衆生救済が達成される。人生は無意味、死後は無。この思想の徹底で、不幸なんぞ意味が無くなる。不幸でもダメージないよ。どうせ死んだら全部おじゃんになるのだから、幸福とか無意味。ノーゲームと同じなんだよ。試合が成立してないから、どれだけ点差付けられても問題なし」
このナスターシャの意見には、カチェリーナも反論が難しかった。唯物論は近代科学の産物であり、22世紀になればパラダイムが変わると予想はされるが、それが魂の永遠性と関係があるという説得力のある見解は出せない。宇宙が多次元であるとしても、魂の永遠性がないなら、反論の論拠として意味がなかった。カチェリーナは言葉が見つからないので黙り込んだ。
「もう終わりかよ。絶望したなら自殺してもいいんだぜ。どうせ死んだら無だからな。人生がどんな中身だろうが、結局は無になるんで、詰んだら死ねばいいんだよ。チーン」
ナスターシャは目を眇めて爛爛と輝かせた。理屈で勝ったことに喜びを感じているらしい。
カチェリーナは背を向けて部屋を後にするしかなかったのである。
2014.02.03

涅槃と唯物論

ナスターシャは涅槃の先に虚無を見ており、釈尊と唯物論を止揚したような世界観を持つ具眼者だったが、人と接するたびに隅に追いやられ、暗渠へ身を落とすしかないはぐれ者だった。アスペルガー症候群として親から虐待されていたが、まさに虐げられやすい傾向をひととおり揃えた人間だった。こんなナスターシャでも、ワイアード空間ではhankakueisuuという匿名ハンドルで真性引き篭もりという巨大ブログを運営し、多くの人を恐怖に陥れているのだ。ナスターシャは肉体的な感覚を欠いており、骨だけで生きている少女だから、無と対話し続けている。彼女の前では、色は即座に空に変質し、その先の虚無に出会う。菩提樹の下で釈尊が瞑想していたように、ナスターシャはワイアード空間で無に出会う。真性引き篭もりは釈尊を越えた存在なのだ。ナスターシャは自閉的で視野が狭く、この現世での息苦しさを抱えていたが、それがゆえにあらゆる色を解体する天才である。釈尊は唯物論に耐えられず、涅槃を空想したが、ナスターシャは虚無に通じることが出来た。他人の急所を見抜くことに長けているから、さらりと脇差しを抜いて一点を突くだけで、相手は半死半生に陥り、死に至ることも少なくない。真性引き篭もりという暴力装置で人を殺しては座禅を組み、色が空に変化する瞬間に立ち会い、色即是空空即是色と唱えるのだった。言葉だけで人を殺せるという体験を繰り返すうちに、ナスターシャという冴えない少女は暗黒の自信を付けていった。世界的大富豪であるカチェリーナの城に居候している状態だから、生命は脅かされていない。五つの部屋の壁を取り壊して巨大なフロアを作り、機械類を並べていたが、ここは彼女にとっての天竺であり、その無機質な空間ではワイアードの英傑を気取れたのである。

とはいえ、そのようなナスターシャでも、色への欲に駆られてはいた。色への欲を満たす必要などないと彼女の理性は知悉していたが、どれだけ見抜いても渇きはやってくる。涅槃の先の虚無まで見抜いたのに、色という花見酒に酔いしれたい欲求はあった。自我も宇宙もやがて無に飲み込まれるというのに、無益な享楽への欲は途切れなかった。冴えない外見を持って生まれたナスターシャにとって、性とは難攻不落の要塞だった。その威容に圧せられ、誰からも愛されず、苦難の人生を歩んできた。骨だけで生きており、肉は欠けていたが、その白骨の指は彼女の理性を無視して、色に手を伸ばしたがるのだ。

ナスターシャは試しに女を抱いてみようと思った。ワイアード空間ではhankakueisuuという具眼者になり、釈尊を止揚してしまったが、一人の少女の顔に立ち返ると、相変わらずの飢餓状態は拭えない。この強迫的な欲望を満たすことで、あり得ない快楽が得られることに間違いはなく、無を透徹するところまで見たにも関わらず、色の甘い香りへと天翔けたい貪婪は消えなかった。午餐を終えると、ナスターシャは部屋を出た。城から出ると、148センチの痩せぎすの身体に鞭打って都市部へ向かった。強大なる欲望がぬめりと鎌首をもたげているから、その高揚感に突き動かされ、疲労は克服することが出来た。ナスターシャは繁華街にたどり着くと、目抜き通りを外れて、裏道に入った。そして今にも倒壊しそうな大衆酒場に入った。腐った床を踏みしめながら中を見渡すと、何人かの客が孤独に酔いつぶているだけだった。親父が耄碌しているようで、小柄で15歳のナスターシャでも追い出されなかった。ナスターシャはカウンターに座ると、安酒を注文し、胃に流し込んだ。酔いが回り、ナスターシャは社会の現状について長広舌を振るい始めた。いつも真性引き篭もりでキチガイのような長文を書いている癖で、話し始めると長いのだ。リアルの酒場では誰からも相手にされず、白髪の店主が嶮岨な顔つきで見やるだけだった。うんざりした様子の店主はナスターシャの前に水の入ったグラスを置き、「これくらいにしときな」と言うと背中を向けた。ナスターシャも酒を飲むのが目的ではないから、その水を飲み干すと勘定を払って店を後にした。そしてふらつきながら路地裏に行った。まだ明るいが街娼がちらほらいる。ウクライナの夜間は治安が悪いので、ナスターシャは日の明るいうちに行くことにしたのだ。目に留まった立ちんぼにナスターシャは声を掛けた。娼婦は子どものイタズラだと思ったらしくつれない態度だったが、ナスターシャの真剣な様子に根負けし、ナスターシャの差し出した紙幣を受け取った。

ナスターシャが釈尊を止揚するような具眼者となったのは、色への欲求との戦いの果てだった。色に触れなければ死んでも死にきれないという妄執でナスターシャは煩悶していたのである。ホテルに入ると、裸になって娼婦と身体を合わせた。ナスターシャの骨と、娼婦の肉体が触れ合ったのだ。快楽ではあったが、とてもまずい食事で腹を満たしている感覚だった。欲しいのは究極の色であり、このような吐き気のする快楽ではなかった。だがひとまずオスカー・ワイルドのようなデカダンになることにした。だらしない娼婦の肉体を貪ることで、ソドムの色を味合うのだ。行為が終わり無言で着替えながら、部屋の鏡に映る二人を見ると、何とも見苦しかった。品のない肉感に満ちた娼婦と、骨と皮だけのナスターシャが映っている。そこには美の欠片もなかった。だが天国に通じることは出来なかったが、確実にソドムの一員になったのである。まだ酔いが残っていたので、ナスターシャは娼婦にチップをやり、一緒に飲み直すことにした。決してその女を気に入ったわけではなく、むしろ気に入らなかったので誘ったのだ。現世のきらびやかな色の下で、堕落した醜い二人が歩くというのが、自らを蝕んでいる色欲を破壊し解放してくれるように思えた。

しかし繁華街の目抜き通りを歩いていると、突然ナスターシャの酔いが醒めた。ナスターシャは極端に視野が狭いため、通りすがる人の顔などわからないのが通常だが、道の向こうから歩いてくる二人の少女は、あまりにも華やかであり、目を奪われざるをえなかった。グルーシェンカとカチェリーナが歩いてきたのだ。ナスターシャはグルーシェンカが死んだと思い込んでいたのだが、生きていたのだ。グルーシェンカはとても楽しそうであり、その澄んだ表情には何ら無理がなかった。真性引き篭もりで追い込んで殺したはずの人間が、なぜこうやって幸せそうにしているのか、ナスターシャは混乱した。グルーシェンカとカチェリーナは、とても仲睦まじい様子である。現在という瞬間の色が咲き誇っていた。アスペルガー症候群のナスターシャでも、いまわの際のグルーシェンカをカチェリーナが救ったことは想像できた。ああやって真性引き篭もりで論陣を張り、グルーシェンカの友達を全滅させたのに、カチェリーナだけは見捨てなかったのだ。

ナスターシャは娼婦を置き去りにして、その場から逃げ出すしかなかった。先ほどまでのデカダン気取りはすっかり消えていた。グルーシェンカとカチェリーナが自分に気づいたかどうかは判然としないが、グルーシェンカの視野の広さからして、間違いなく気づいただろう。そう考えると、絶望と羞恥にとらわれ、ふらふらと倒れ込むしかなかった。グルーシェンカはカチェリーナと性的関係があるに違いなかった。ネットで居場所がなくなったグルーシェンカは、美の化身と言われるカチェリーナとよろしくやっている。ナスターシャは、世界最高の美少女と言われるカチェリーナの長い手足を想った。あの金色に輝く長い髪や、白い肢体をグルーシェンカは貪っているに違いなかった。空が華やいだ極彩色で満たされた瞬間であり、この絶望は決定的であった。色が空に変貌する時もあれば、空が色に変貌する時もあるのだ。アルファブロガーとしてネットに君臨しているhankakueisuuという存在の虚しさに打ちのめされた。
「かつてヴィクトル・ユーゴーは言った。人間は死刑囚になるために生まれてくるのである」
ナスターシャは路上で呻いた。ただ死ぬために生まれてきたという根源的な苦悩が生じてきたのである。繁殖の無限性から、華やかな少女は際限なく生まれてくる。個体は次々と病んで老いて死んで無に逢着するのに、煩悩による不義の子が生まれ続ける。
「釈尊は死後の心配ばかりしていたが、死んで無になれば、苦悩する自分もなくなる。僕はあっさりと解放されるんだ」
ナスターシャは道行く人々を眺めながら、それが老いて骨になる未来を見た。ラブホテルに入っていく美男美女は、その瞬間は色に満ちていた。その色も、ほどなくして空になる。生命の集団的な繁殖力の強さの下から、個体の圧倒的な虚無がまざまざとした輪郭で浮かび上がってくるのである。それが人間の苦悩の根源なのだ。
カチェリーナは真性引き篭もりの影響力を軽く考えていた。ネットでは偉そうにしているが、中身はナスターシャという身長148センチの冴えない少女だ。カチェリーナはナスターシャを城に住まわせているが、アスペルガー症候群を理由に実親から虐待されているらしいので、気の毒に思っただけである。社会で爪弾きにされている鼻つまみ者を保護しただけであり、これが桁外れの影響力を持っているとは思いもしなかった。真性引き篭もりが火を焚くだけで、ネットの隅々まで災禍をもたらし、人間の名誉や尊厳など跡形もなくなるのだ。

真性引き篭もりのターゲットになったグルーシェンカはかなり酷いことになっているようだった。ネット空間でグルーシェンカは惨殺され挽肉にされていた。少し前までは、類い希なソーシャルスキルで栄華を極めており、15歳ですでにスタンフォード大学を卒業しているのは才媛の証に他ならないと思われ、誰からもリスペクトされていた。しかし、呑み込みの速さが超人的なだけで全然知能は高くないと真性引き篭もりで立証されたので、グルーシェンカのカリスマ性は完全に崩壊したのだ。幼少期から天才と謳われた人間はいずれ人々を失望させる結末を迎えるが、グルーシェンカにとって、それはあまりにも早すぎた。

カチェリーナは自分の城を離れ、グルーシェンカの家に戻っていたが、ひとまず黙って静観していた。大衆は関心を共有する生き物であり、現在のホットな話題に殺到するが、別の新しい事件でも起きれば、そっちに移動する。嵐が過ぎ去れば、空が青く澄み渡ることもある。だがその一方、ほとぼりが冷めれば解決する問題でもあるまいと危惧していた。真性引き篭もりは人間の弱点を徹底して抉り、再起不能にしてしまう。今回の問題が忘れ去られても、華やかな舞台からグルーシェンカが退場することに変わりはないのだ。

そんなことを考えつつ、カチェリーナが読書をしていると、グルーシェンカがやってきた。
「わたしの人生は終わりました。自殺することにしました」
「残されたわたしはどうなる」
「リザヴェータ姉さんがいるじゃないですか。あの人は本物の天才画家です。わたしのようなニセモノと違います」
「リザヴェータは素晴らしい人格者であり、わたしも心から尊敬しているが、二歳年上だから、友達というよりはお姉さんだ。同年代の友達はグルーシェンカしかいない」
「でもわたしは死んだんです。決断を尊重してください」
そう言うグルーシェンカには死相が現れていた。実質的に死んだ人間が、最後の後始末をするために機械的に動いているのだ。その死体のようなグルーシェンカを見ていると、カチェリーナは何も言えなかった。グルーシェンカはFacebookで友達がひとりもいなくなったらしい。成功者だけで群れているから、失脚した段階で石を投げられる場なのである。もはやグルーシェンカの魂は地の底で踏みにじられ、あとは肉体が荼毘に付されるのを待っていた。
「そうか。あまりにも早すぎる別れだった」
これからカチェリーナはたったひとりの世界に戻っていくのだ。自閉傾向があるため、学校で友達が一人も出来ないから、グルーシェンカがいなくなったことで、孤独の深淵に帰るのである。

カチェリーナはひとりの部屋で、世界の変貌を経験した。グルーシェンカがいなくなったので、世界は変わってしまったのだ。もはやここは最高の家庭環境ではない。劣悪な家庭環境に生まれ15年間ゴロゴロしていたカチェリーナだが、最近は偏頭痛を言い訳にせずに頑張っていた。しかしグルーシェンカが死んだことで、もはや偏頭痛に耐える理由がなくなった。読みさしの本は机の上に放置されていた。もはやそれを手にすることはないだろう。かつてのように疼痛が脊髄から視神経まで貫き、人生の耐え難さを間断なく教えるのだった。

カチェリーナはそれに耐えきれず、グルーシェンカの部屋に向かった。一緒に死のうと思ったのだ。ベッドに横たわるグルーシェンカには生命の欠片もなく、この現世でのあらゆる拠り所を失った肉体だった。Facebookで友達がひとりもいなくなったことが、それだけのダメージだったのである。カチェリーナは今は亡きグルーシェンカの身体に寄り添った。グルーシェンカの服を脱がし、その青白い肉塊を見た。あれだけ行動力があり、溢れるばかりの生命を持っていたグルーシェンカだが、真性引き篭もりに弱点を暴かれ、Facebookの友達が全員いなくなっただけで、こうなってしまった。カチェリーナも全裸になり、悼むようにグルーシェンカの身体に寄り添い、舌を這わせた。生涯でたったひとりだけ出来た友達の死を弔ったのである。しかしこうやって肌を合わせているうちに不思議な現象が起こった。もはや生命体とは思えなかったグルーシェンカの素肌が血色を取り戻しはじめた。無力に横たわっていたグルーシェンカの四肢が動きを取り戻し、カチェリーナに絡みついた。枯れていた薔薇に息吹が戻ったのである。カチェリーナもそれに答え、激しい生命の営みを行ったのである。

情事が終わって一息ついてから、グルーシェンカは自らが生きているのを不思議に思った。決して死に損なったわけではあるまい。自殺したわけではなかった。行動力で生きていたグルーシェンカは、この世界の網の目からこぼれ落ちたのであり、その孤独による自然死だった。
「すっかりよくなったみたいだな」
カチェリーナがグルーシェンカに寄り添い、頭を擦りつけてきた。
「真性引き篭もりに急所を突かれ、Facebookで友達がいなくなりました。本当に死んだんです。でも世界最高の美少女とのセックスはどんなに深い絶望も癒すみたいです」
「だったらよかったじゃないか」
「ああ、でも葛藤はあるのです。カチェリーナ様のような天使レベルの美少女を抱けるのに、わたし自身はそれに相応しくない凡人に失墜したのです」
こうやって暖かいベッドの中でカチェリーナに抱かれているのは、天国でもそうあり得ない僥倖だと思えたが、すっかり失墜した自分が慈悲にすがっている状態を恥じたのである。
「おまえには天才的なソーシャルスキルがあるじゃないか」
「今回の件で全て失いました」
「もう一度人間関係を作り直せばいい」
「あの空虚な人間関係を作り直すのですか。真性引き篭もりに煽られたらすぐに縁を切る連中ですよ」
「最初からそんなことはわかっていただろう。誰よりも世の中が見えているおまえが気づかなかったはずがあるまい」
「人間は確率が低いことを捨象しながら生きてるのです。車を運転する時、死亡事故を起こす心配はしない。しかし本当に交通事故を起こしたら、その後は別の話です」
「だから人間不信に陥ったわけか」
「一回しかない人生で致命的な失敗をしたのです」
「それほど致命的ではあるまい。Facebookで立場がなくなっただけだろ」
カチェリーナはグラスを取りだしてコニャックを注いだ。グルーシェンカもお相伴にあずかることにした。
「真性引き篭もりは相手が自殺するまで攻撃を続けます。今後もわたしは真性引き篭もりに蹂躙され続けるでしょう。カチェリーナ様はナスターシャを大事にしてるようですし、決して追い出さないんでしょうね」
「わたしはナスターシャに部屋を提供しているだけだ。おまえにはセックスを提供している。これを同じにされたら困る」
「ああ、もちろん天国でしか体験できないことをさせてもらってるんですから、それは感謝してます」
「どんな底辺の人間でも、何かしら奇跡が起こって人生が好転することを夢見てる。しかし、おまえはすべての可能性が遮断されたという誤謬に陥っている。だから絶望が死を招いたんだ」
「誤謬じゃないと思います」
自分が芸術家ならグルーシェンカもこんなに苦しんではいない。ゴッホなら耳を切り落とすことで、それも創作の材料に出来るだろう。だがグルーシェンカは栄達を重ねるしかないのだ。必要なのは挫折のない成功だけであり、失敗は許されないのだ。
「どうやら認知の歪みに陥っているようだな。まあいい。悩みを即座に解決するなんてことは出来ないんだ。もしくは解決しなくていいんだ。未解決性こそが人生なのだから」
ナスターシャは目が醒めると半身を起こしながら周囲を見回した。自分の部屋でソファーに寝かされていたようだ。宮殿の壁を壊して五つの部屋を繋げた広大なスペースである。彼女の趣味である機械類が無機質に並んでいる。色が付いたものがあまり好きではなく、黒の筐体だけを選んで購入し、黒くないものは黒く塗らせていた。明るい照明も好きではないから、ところどころに青白い光が灯っているだけだ。死体が寝転がるに相応しい暗渠のような空間だったが、彼女は生きていた。リストカットした左手首には包帯が巻かれており、疼痛はあるが、左指を動してみて、神経は切れてないと判断した。
今回の自殺未遂は、ナスターシャが10年に渡り運営している真性引き篭もりという暴力装置を使い、親戚のグルーシェンカを追い落とした後で鬱に襲われたものだが、これはよくあることだった。激昂し長文のエントリーを書くことの高揚感がすごいので、冷めた時の脱力感も圧倒的だった。
グルーシェンカはかつて虐待されているナスターシャを連れて、あちこちの高名な医師に診せて回ったのだが、ナスターシャのアスペルガー症候群が重症過ぎて、まったく改善が見られなかった。グルーシェンカは手に負えないということで、ナスターシャを投げ出した。だからナスターシャはグルーシェンカを恨んでいた。
グルーシェンカは呑み込みの速さが超人的であり、書物を一度読んだだけで暗誦できるという特技を持っている。それはそれですごいことであり、そのすごさは認めておいたが、能力の天井は決して高くないという事実を指摘したのだ。呑み込みの速さの超人性は認めておいたから、反論の余地がないわけである。真性引き篭もりは相手に決して逃げ道を与えないのでずいぶん恨まれており、自殺した人間が何人もいるのだが、ナスターシャはアスペルガー症候群の確定診断を受けており、他人の死には鈍感であった。さすがに訃報に接すると一時的に落ち込み自殺未遂するが、他の不正義を見つければ、また激昂して意気揚々とエントリーを出すのである。

やがて城主であるカチェリーナがナスターシャの部屋に入ってきた。ウクライナ最高の美少女と言われているが、おそらくウクライナという限定はいらなかった。15歳という年齢だけでは説明出来ないほどの透き通る白い肌を持っている。よくよく見ると背丈はあまり高くなく160センチあるかどうかなのだが、手足が長く、等身のバランスがとても綺麗なので、長身と錯覚させる。自閉が入っており、場違いな世界に紛れ込んだという雰囲気が感じられるが、容姿の美しさや知性の高さゆえに、その凛々しい立ち姿にはカリスマ的なオーラがあった。
このカチェリーナの厚意で、ナスターシャは城の部屋を与えられ贅沢な暮らしをしていたが、決して感謝する気はなかった。カチェリーナの巨額の資産は、親があくどいことをやって築いただけであり、まったく尊敬に値しないからだ。
普段のナスターシャは148センチの矮躯と平凡な外見を恥じていたが、カチェリーナの美は突出しすぎていて、優劣を付ける意味がないと思われたから、引け目は感じていなかった。
カチェリーナはナスターシャを責める様子もなく黙って立っていたが、ナスターシャは沈黙に耐えきれず叫んだ。
「さあ、早く僕を追い出せばいいだろうが。実家に帰れば虐待されるだろうが、アスペルガーは虐待に慣れてんだよ。そろそろ僕は虐待されたいと思っていたところだ」
「いや、別にこの城にいるのは構わない」
「どうせ真性引き篭もりの閉鎖を要求するんだろうが、あれば僕の存在証明だ。絶対に僕は譲るわけにはいかない。実家の地下室で泥水を飲まされても10年間続けてきた」
「真性引き篭もりのエントリー自体は、とても理屈が通っており、嘘はないと思う。理屈に長けていることは、なかなか感心した。問題なのは、これを10年間続けていて何が得られたかということだ。決して偉大な思想を築き上げたとは言えないだろう」
「おまえハイデガーがどれだけ読まれてるか考えてみろ。誰も読んでねーよ。ハイデガーより僕の真性引き篭もりの方が読まれてるんだよ」
「世の中は腐敗しているので、あちこちに不正義や矛盾がある。そこに依存して、その糾弾で生涯を終えるのを活動家という。たとえば日本の学生運動が盛り上がったのは、東京大学医学部のインターン制度を巡って、東大医学部の学生が抗議運動を行ったからだ。このインターン制度はすごい理不尽なので学生の側に正義があった。馬鹿が騒擾を起こしているだけなのに、知識層による革命に思われた」
「正義ならいいじゃねーか。この僕に文句付けてんじゃねーぞ」
「学生運動崩れで、中年や老人になっても運動してる人間がいる。彼らの発言は一面において正しい。世の中には不正義があるので、そこに食い付いて抗議活動していれば正義は確保される。だが活動家が社会について語ると、とても貧しい考えしかないのがわかる。不正義の糾弾に依存しているだけで人生を送ってきたから、すごい頭が悪いんだ」
「不正義を追及して何が悪い」
「追及するのはいいが、不正義に依存して自らの正義を主張してるので、思想の全体性がない。真性引き篭もりも同じなんだ。他人の弱点や欠点や矛盾だけに注目し、部分だけは正義だが、全体が見えていない」
「僕に言いたいことはそれだけかよ、おい」
「真性引き篭もりはどんなに理屈が通っていても、不正義だけ攻撃している点で、すごい視野が狭いんだ。カール・マルクスと変わらない。マルクスは資本主義の問題点を長々と書き、その不正義を糾弾した。その不正義の糾弾で、あたかも共産主義が大正義であるかのような、ミスリードを行った。資本主義が不正義だとしても、マルクス主義が大正義にはならないはずなのに、馬鹿を騙すテクニックとして有効だったんだ」
「僕は揚げ足取りに専念しているだけで、代案なんか提示してないぞ。真性引き篭もりは読者をどこにも誘導していない。共産主義にも新興宗教にも勧誘してない。ミスリードと言われてたまるか」
「それはそうだな」
「僕はこれから何十年も揚げ足を取り続けていく。何が悪いんだよ」
「局地戦に限定し、そこだけ勝利して、満足するわけだ。視野の狭さに甘んじている」
「ああ。満足だよ」
「ハイデガーより読まれているのが自慢らしいが、ハイデガーより劣っているのは構わないのか」
「僕はそれでいいんだから難癖付けるな。ゴミ野郎」
カチェリーナは反論できないようで、黙って去っていった。
ナスターシャの理屈が勝利したのだ。
今回は、揚げ足取りが楽しいという主張をすることで、理屈に勝ったのである。本当に楽しいのかと言うと何とも言えないが、その理屈が勝利に近いと考えたので、その論法を用いたのだ。ナスターシャの本領を発揮し、カチェリーナを完全に封殺したのである。
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