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だいたい世界のどこでも似たり寄ったりだと思うから、かなり本能的な判断であろうが、われわれは人間を同じ属性でまとめて集団を作らせて、マウント大会をさせるようである。
学校のクラスなどはその典型だが、おそらくそれだけにとどまるまい。
ママ友同士の人間関係にパパが介入することはないであろう。
これは自治の尊重なのである。
われわれが本当に自治を好んでいるかというとかなり怪しいし、マウントされる側としてはウンザリであろうが、しかし外部の視線を入れるべきではないという発想も根強い。
女同士の人間関係を傍目から見ていておかしいと思っても、それに口を挟む男はまずいない。
われわれはなぜか自治へのこだわりがあるのである。
自治が好きなわけではないし、このところ地域共同体が崩壊したのも、近所付き合いというマウント大会にウンザリしたからであろう。
「子どもの喧嘩に大人が口を出すな」という意見はそれなりに適切であろうし、恣意的に口を挟むなら公平性を欠くであろう。
では大人がずっと見ていて、できるだけ公平な判断をすればいいのか、というと、これも難しい問題である。
たぶん古今東西から、そんなことはしてないであろう。
大人は見てない、あるいは見て見ぬふりをして、子どもだけの世界が作られていくのである。
この自治感覚の問題はさほど明示的に意識されているとは思えないが、それだけ根深いのである。

マウント大会は、全人類が入り乱れて戦うバトルロワイヤルではなく、何かしら同じ属性の人間でまとめられ、密室的な閉鎖空間で行われるのである。
マウント大会の中で友達もできるのだし、「友達を作れ」というのだが、これはなんというか、マウント大会で敗北してハブられた人間への蔑みという側面も含んでいる。
同じ属性の人間との間で生まれる友情が偽りだとは言わないが、「友達を作れ」というのは、おそらく勝者を礼賛しているだけであり、敗者をなじっているわけだ。
たとえばご近所さんと仲良くなることもあるが、村八分にされることだってある。
だいたい仲の良いご近所さんとやらは、マウント強者の連合だったりする。
だから近所付き合いを煩わしいと思って、関わらないことにしたのであるし、マウント大会からの離脱というのは社会の進歩としてあり得るかもしれないのである。
人間が本能的にやりたいことは決してなくならないが、マウント大会についてはウンザリしている人も多いはずなので、時代とともに変化しうる。
どこかで池上彰が、「1960年代に学生運動が世界的に広がって、それが衰退した理由がわからない」と書いていて、あまりうまく説明した事例も見たことがないらしい。
これについては、わたしは海外の事例までつまびらかに調べたわけではないが、ごく普通に、反面教師の説得力で回答できると思う。
1970年くらいから、学生運動とか本気でやっていた活動家がどうなるかというのが、反面教師として示されてきたわけである。
連合赤軍とか中核派の内ゲバとかいろいろと悲惨な末路が現実的な事例として鈴なりのように生じてきた。
おそらくそれだけで学生運動の衰退は説明できるであろう。
40歳とか50歳とかになっても活動家をやっている惨めな人を目の当たりにすれば、一気に目が覚めるはず。
わざわざそういう醜い反面教師を見なくても想像がつくと言うだろうが、興奮状態になった人間が盲目的に暴走することは多々ある。
活動家のおっさんが惨めな反面教師となって登場するまでは、想像力が働かなかったのである。
おそらく若気の至りで思想にかぶれている頃は、自分が世界史的な政治指導者になるつもりであろうから、いわば選民思想によって、現実的な想像力が壊死するのである。
なにかしら救世主になるという妄想にかぶれたら、どうにもならない。
それを治すには、惨めな事例を見せるしか無く、だからこそ、人類はいつも教訓を必要としている。
反面教師を見なくてもわかるはずなのだが、やはり現実的な想像力が死んでしまうこともあるのだ。
100万分の1の確率で成功する事案があるとして、現実的に考えれば近似値的にそれは0だとなるが、選民思想の目線だと、むしろ確率が極めて低いからこそ、選ばれた自分には似付かわしいということになるし、人類史で一度しか起こらないようなことならキリストのような特異点、もしくは一度も起こらないようなことなら無から有を生み出すビックバンである。
こういう底無しの阿呆を「我に返る」という状態にするためには、反面教師たる失敗事例、学生運動という文脈では選ばれたはずの政治指導者の成れの果てということだが、それを見せることに尽きる。

果たしてこれが最高の正答かどうかわからないが、やはり思想運動に深入りしたオッサンを現実に見れば、それの真似をしようとは思わないであろうし、学生運動が衰退した大きな要素のひとつであるはずだ。
2017.07.14

マメな人

マメな人は好かれやすい。
もしくは人間関係の中心になることが多いようだ。
津田やロンブーのような魑魅魍魎だってマメではあるので、徳操が高い貴人というわけではなく、マメだからマメなのであろう。
マメな性格だと好感を持たれるなら、なぜ多くの人はマメにならずに、いろいろと怠るのかということだが、マメな人間にはあざとさがあり、あまり目が笑ってなかったり、時としてサイコパスと揶揄されるようなところもあるから、大雑把な方が裏表がない正直な人間とも言えるからであろう。

ロンブーや津田大介や川越シェフのようなジャンルの好感度がこの世にはあるのだろうし、それが似付かわしい人間は、マメなやり取りをするだけである。
マメな人間が好印象を持たれるのは、距離感の適切さなのであろう。
岩崎友宏から高級腕時計など送られたら、その贈り物の重さは言うまでもないし、完全にロックオンされたという恐怖体験でもある。
朝から晩まで冨田真由さんに執着するのをマメとは言わない。
マメな人間は、そのあたりの距離の感覚がしっかりしている。

社交的でない人がマメになろうとすると、不得意なフィールドで戦うことになってしまう。
虚弱体質だからといって、体力をつけるために運動部に入るとしたらちょっとおかしいであろう。
コミュ障の鞘師里保ちゃんが社交的な人間になろうとしていろんな人と積極的に会話するようにしたら、飯窪とか道重にハメられて病んで引退してしまったが、無理はしないことも大事だと思われる。
すべての人間関係はマウンティングであるとも言えるから、津田大介や川越シェフのような幇間とまともに組み合うのも愚かである。
この手のマメな人たちは決して敬虔な篤志家のように慈愛を分け与えるわけではないし、最後は裏切るつもりだからこそ、手のひらは永久機関のように回り続けるし、あたかもフラグを立てるかのように、わざとらしく媚びたりするのである。
たとえば100メートル9秒で走れるとする。これが人間であれば人類最速と褒めそやされるであろう。だが犬や猫で100メートル9秒だと遅すぎるに違いない。同じ生物種であれば、だいたい似たり寄ったりのスペックであり、すべて同じと言ってもいいくらいなのだが、動物だって優劣を競い合う。優劣は性欲という意味では実在感があり、セックスが出来るならどんな相手でもいいということはなく、優れた相手との結合が究極の快楽となる。特に人間であれば、社会的なものも含め、その差異に基づいた市場価値が付いて、首から値札をぶら下げながら個体としての個性を持たされるのである。憧れの人の肢体に触れようという本能は、見栄や虚飾としては切り捨てられない熱病であり、それこそが人間存在である。光風霽月たる白皙の美青年ならどんな女でも日常性の延長で手に入るのであろうが、たいていの人にとって眷恋の対象は嶮岨な山道、もしくは原理的に扉が開かない掟の門のように立ちはだかる。

自らを呪詛しつつ、この不可能性をオンリーワンな独自基準で乗り越えようとするのがサブカルチャーである。普通であれば、足が速い遅いとか、背が高い低いとか、顔の美醜であるとか、知能の高い低いとか、そういう世俗の基準で生きているのだが、この世俗的な基準だと劣ってしまう人が、サブカルチャーに流れ着いてくる。

宮﨑駿とか庵野秀明は一歩間違えればただの障がい者だが、だからこそサブカルのスターなのである。サブカルチャーにはこういう世俗的な価値を逆転したスターがいる一方で、はるかぜ親子や有村悠さんのようなサブカル人間を作り出してしまう。冒頭で述べたように100メートル9秒だとすごいとされるのは、人類の中での個体差の優劣であるから、根拠があると言えばあるし、根拠が無いと言えば無い。あくまで比較した場合に出現する凄さであり、100メートル9秒それ自体が凄いとは言えないからだ。このあたりは意外と曖昧である、もしくはただの肉体性能の設定に過ぎないのだから、その空隙を縫うようにして虚ろな自己愛が生々しく繁殖するのであろうし、愚にもつかない空想が遊弋し内面世界が瘴気を放つのである。束の間の午睡の間でさえ、まどろみながら薔薇色の人生を生きることがあるのだから、この獄舎のような肉体の設定から解き放たれれば何にでもなれるとも言える。そのファンタジーを現実世界にまで垂れ流すのがサブカル人間である。さすがに160センチの人間が「俺は180センチ」と主張するのは出来ないが、どう考えても知能の低い人間が「俺は本当は頭がいい」と主張するのはよくあることだ。「本当は100メートル9秒で走れる」と言い張って走らない、というのは文字通りだと無理があるが、こういう「本当はできる」という欺瞞を抱えている人ならたくさんいる。これが重病であるほどサブカルチャーへの親和性が高くなる。

はるかぜババアは大卒らしいが、もちろんこれは詐称であろう。有村悠さんも大卒らしいが、もちろんこれも詐称である。有村さんが東大に合格したのは事実だが、空手部に体験入部したら全身複雑骨折で不具者になったようなものだし、これで空手部を名乗られても困るわけだ。とはいえ、そもそも大学というのも設定である。小保方晴子だってAO大卒だしコネ理研だし、そしてサブカルである。わざわざ慶應AOを選択したTehu君もサブカルである。何かしら現実の自分を空想的に改変しようという邪心こそが業病であることに贅言を費やす必要はあるまい。ラスプーチンは血友病を治せるという設定でロシアの皇帝一家に取り入ったが、人間は肉体に縛られているからこそ超越を願い、百鬼夜行というべきおどろおどろしさが現実を蝕みつつ徘徊するのである。
2017.07.05

合意の重要性

たとえばレイプされて自殺する人がいるわけだが、おそらくこの重大性が人間社会を作り出している。
合意なき性行為のダメージが軽いとすれば、レイプというのはそれこそ合意なく、もっと軽々しく行われるであろう。
人間社会では、どうしても合意が必要なのである。

この合意に至らない場合に、何らかの形で強行突破しようと考えるのであろうし、それがストーカーという形で現れるのである。
なぜ岩崎友宏が冨田真由さんをロックオンしたかと言えば、過去にいろんな人からブロックされているし、誰からも拒まれることはわかりきっているからである。
いわば人間最後の悪あがきである。
滅多刺しという凶行は、誰とも合意が成立しないことへの象徴的な復讐なのであろう。
そして合意の不成立という難題を血腥い惨劇として示したのである。

われわれ人間は合意を重んじているから、他人の意志を差し置くような行為に正当性は認めていない。
果たして、われわれが普段から、あらゆることで他人と合意しているのかというと疑わしいのだが、合意の重要性という認識はある。

社会契約うんたらという妄想も、合意がない社会はまずいという観念があるからであろう。
まったく合意したおぼえがない社会に住んでいるのは、とても都合が悪いのである。

セックスの合意と、社会的合意を同一に捉えるわけにもいかないであろうし、たとえば性奴隷にするのと、農奴に労働させるのでは、その蹂躙のレベルが違うであろうが、とはいえ、それなりに似通った感覚である。
おそらくこのあたりの理屈を突き詰めたり厳密に分類したりするとややこしくなるので、あえて大雑把にしておくが、われわれは自由な人間として合意することを望んでいるのである。
男女が合意して結婚する場合でさえ妥協の産物であろうし、人生の節目節目で渋々と承諾して生きているのが実態であるから、あれこれ強いられてこそ人間という言い方も可能だが、合意がなければ苦痛であるところが肝心なのである。
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