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コロナにおいてあちこちが苦しんでいるのに、なぜ飲食だけ助けようという強い流れがあるのかというと、おそらくスケベ親父が多いのだろう。パトロン気取りなのかもしれないし、それでいて自腹で支援するお金がないから、税金で払わせようとする。最近はそうでもないが、昭和のイメージだと飲食をやるのは社会の底辺である。未だに昭和の亡霊のような個人飲食店が存在しており、事業規模はともかく、事業者の数では多数派である。古めかしい個人飲食店はたいてい家庭環境が悪い。この家庭環境の悪さはガチでもあるし、しかし未だにやっているのは、それなりの狂言でもある。最近では貧乏人でもユニクロやニトリで小綺麗な生活をしている。貧乏だと小汚いのは昭和の話である。ボロボロの飲食店を構え続けるのも、立ち退かずに格安の家賃で借り続けようという弱者の戦略だろう。とはいえ、やはり彼らは元々が底辺なので擬態ではあれど、まったくの虚偽ではない。そういう育ちの悪い気の毒な召使いに接客してもらうわけだ。協力金も最初はこの手のボロボロ個人飲食店にバラマキされた。この疚しさもしくはスケベな感情が協力金バブルとなり、いずれ大増税となって襲いかかってくるのだから、恐懼の念に耐えない。少なくともわたしは御主人様になる気はないから、パトロン気取りのべらんめえ親父には呆れている。助けたければ自腹で助けてやれと思うし、バーの女給の生い立ちに同情しながら飲む酒がそんなに美味いか、という話である。千円札を握りしめてスナックのママに齧りついているスケベ親父は親分気取りであっても出せる金などないから、飲食への同情というキャンペーンを張るわけである。飲食店の悲鳴という記事タイトルにはうんざりである。これをいい機会に昭和の遺物を叩き潰さなければならない。家庭環境の悪い人に接待してもらう慈悲深い御主人様になるのは御免こうむる。さて、飲食を好む理由として、他人にプライベートの時間を割いてもらう手段だからというのがある。共通の趣味でもあればそれをやればいいが、なにもない相手と場を伴にしたいとなると、会食が手っ取り早い。本当に必要な打ち合わせなら飲み食いするわけがないので、このよくわからない飲み食いを伴う漠たる打ち合わせが果たして必要なのかというと判然としないし、なければないで済むというのはコロナになってから痛感した人も多いであろう。政治的な連中に自分の時間が奪い取られる損失はとてつもなく大きい。どこにでも派閥はあるものだが、あまりにも昭和的でバカバカしい。飲食につきものの奢り奢られるという関係も、客が御主人様で店員が召使いという構造と関係している。接待でぐるぐる回る政治空間である。こういう昭和的なものは完全に潰して、新しい時代に向かわなければならない。
部屋を模様替えするとして、業者に頼まずDIYでやればお金が掛からないかというとそうではない。多少の出費は必要であるし、業者に頼んだほうが安いということもあるから、余暇に創意工夫を愉しむ贅沢な趣味である。貧困家庭だとその出費を抑えるために破れた障子にテープを貼り付けて終わりであろうが、これをDIYとは言わない。文化的な行為は、他人に頼んでもお金がかかるし、自分でやってもお金が掛かる。「育ちが良い」というのは、たまたま家が金持ちであるだけだし、褒め称える筋合いのものではなかろうが、やはり文化資本をたくさん投下された金持ちは出来映えが違う。お金を使うことで人間は世界を広げていく。お金を払わないと、無料に似つかわしい粗末な世界になるだけである。たとえば底辺層が読書嫌いになるのは、本を買うお金を惜しんでいるのが一因である。図書館で借りる方法もあるが、やはり蔵書を増やしていく方が愛書家というアイデンティティを持ちやすいし、読みたい本が図書館で簡単に手に入るかという問題もある。あるいは、読書なら図書館という救済措置があり得るが、たいていのことは「お金を払わないと体験できない」のである。底辺層は文化的体験から疎外されており、それを遠くから見て羨ましいと思ったり、どうせ手に入らないなら毛嫌いするか、あるいは、空想に興じることで慰めを得ることになる。実体験しなくても、漠然としたことは想像できるから空想で足りると述べることも可能だが、世の中の裏側を想像で推理することは重要であるにしても、空想まみれの生活が望ましいわけはあるまい。やはりお金を使って世界に触れることはとても大事である。お金を使うのは文化的行為である。育ちの悪さにもいろいろあるが、いわゆる虞犯少年とは別に、空想という無料の趣味に没頭した結果として、とてつもなく劣悪な出来損ないが出来上がることがある。部屋を模様替えするお金すらないとなると、空想の豪邸に住むしかなく、それは貧困層にとって娯楽の王様と言ってもいいのだが、こうやって肥大した内面を生々しく提示されるとなると、その幼稚で粗忽な発想に愕然とするわけである。DIYは模様替えの材料をお店で買うわけであるし、文明社会の素材を組み合わせているから、費用が掛かり、なおかつ失敗もあるが、いいアイデアが閃いて丁度いい具合に嵌ったとか、創意工夫の鍛錬となる。書架に名著をずらりと並べたところで碩学になるわけではないが、そのような文化資本の投下をしないと現実は始まらない。道具だけ一通り揃えて満足して放置ということもあるのだが、まずは道具がないと始められないのであるし、そのために必要なのがお金である。
たとえば弁護士があちこちの名誉顧問に就いて高額の報酬を得るとする。(あくまで喩え話だから名誉顧問の活動の中身がほとんどないという想定で話を進める)。これは不労所得という側面があるわけだが、弁護士であるのが大前提であるなら、誰でもなれるわけではない。不労所得という言葉の正確な定義もなかろうが、誰でもできるというのがイメージではある。地主が土地を駐車場として貸すのが典型的な不労所得であり、弁護士が名誉顧問となって多額の報酬を貰うのは、また別の種類のものであろう。「同じ」と「違う」を厳密に考えると難しいし、完全に一致した場合だけ「同じ」なのかという論理学的難題に逢着するから、1か0かという話にはしない。人倫として是非を問うわけではなく、あくまで漠然たる比較検討の問題である。弁護士が名誉顧問として名前だけ貸すのは、労働を伴わない点では不労所得だが、「弁護士でなければできない」のであれば、駐車場を貸すのとは性質が違う。あるいは、他人の財産を奪い取ることは出来るが、弁護士とか医者は属人的な能力であるし、免許を騙し取ることが原理的に出来ない。医者はそれなりに世襲の側面があるし、下駄を履かせて貰えることもあろうが、この論考でそこまで考える必要はあるまい。財産の所有権は移転出来るが能力は移転できない。能力こそが人間の本質だという思想があるのは、その移転不可能性ゆえである。その思想に従えば、自らの能力で名誉職を得ている限りは非難される筋合いはないとも言える。汗水垂らして働くのが偉いと説くのは容易いにしても、舟遊びに明け暮れる貴族と中卒の底辺労働者のどちらになりたいかというと本音は別であろうし、労働だけに価値があるという思想の正しさも、赤化青年の憧れは独裁的指導者たらんとすることであり、労働に忙殺されることではあるまい。働きたいように働くというのがユートピア思想であろうが、労働をしたいというよりは労働から解放されたいのであろうし、これはつまり有閑階級の発想である。人間は誰しも有閑階級への羨望を抱いており、その度し難い欲求が極左革命を起こし、愚にもつかない暇人の有象無象を生み出し、その挫折を経て、他人の需要に隷従し買い叩かれる資本主義への迎合が促される。
自閉は不可思議であるかのように思われているが、少なくとも自閉男性は馬鹿正直という気質を持っているのでわかりやすい。われわれは人間として存在しており、その次元を超越することはできないから、人間として人間理解をするしかないのだが、自閉男性であれば、だいたいこの通俗的な人間理解に収まる。それに比して自閉の女はどうもわかりづらい。裏と表があるし、その裏側の「本当の気持ち」とやらも俗的な魂胆というよりは、ファンタジー的である。この違いは、理屈っぽさの問題であると思う。自閉男性は理屈っぽいという強い傾向がある。誰しも理屈は一応理解しており、その一方で、理屈がタテマエに過ぎないことも知っている。その見極めが自閉男性にとって、人生において逢着する難所となるが、理屈というプロトコル自体はイミフではないし、人類普遍のものでもある。地球人類とまったく仕組みが違う宇宙人がいるとしたら、「母子家庭」とか「東大」とか「不登校」とかさっぱりわかるまいが、われわれはそういう概念を理解している。たとえば東大を不登校になった自閉男性が、偏差値の低いネトウヨを理屈で血祭りに上げたとして、これは人類普遍の理屈で勝ったわけである。勝ったのはいいとして、ネトウヨに勝っても「東大卒」にはなれないので「経歴詐称」するわけだ。さて、自閉女子というものにわれわれが困惑するのは、このような理屈へのこだわりを欠いていることである。あくまで自分のファンタジックな物語を生きているのである。だいたい女子という生き物は周辺視野が強く、先天的な社会性を持っているのだが、時たま自閉女子というフリークスが出てくる。自閉女子は理屈を理解しないから、これは本当に理解不能である。辻褄が合わない空想の世界をそのまま生きており、経歴詐称ですらないのである。この気質の差は、女子は婚姻でクラスチェンジできることと関係しているというか、つまり、有村悠さんが東大卒になるのは無理だが、そこらへんの未婚おばさんがたとえば東大卒の医師と結婚するのは(可能性はとても低いにせよ)あり得ないことではないから空想は無敵である。有村悠さんが東大卒になる可能性は絶無だと立証することはできるが、そこらのおばさんが東大卒男性と結婚する可能性は絶対にないとは言えないので、論理が飛躍した不思議ちゃんが出てくるのである。
強烈に響いてくる偏頭痛を半減できる薬があるなら誰もが飲むであろうし、快癒するわけでなくても軽減できる有効な医療があれば、この痼疾の治療のために欠かさず通院するはずである。その一方で人間は努力できない生き物である。たぶん出来損ないであることは頭痛ではなく、半端に改善してしまうとむしろ頭痛の種になる。学力は中途半端にあると痛いのかもしれないし、偏差値32まで行くと無我の境地である。地頭が偏差値32くらいなのにガリ勉丸暗記詰め込み教育で東大にギリギリ合格した有村悠さんの悲惨な逸話の数々を思い浮かべると、中途半端に勉強してしまうと苦痛が増えると言わざるを得ない。偏頭痛が軽くなるなら、これは他者との優劣の問題ではないが、学力となると他者との優劣の問題を含むし、偏差値32なら居直れるが、なまじ勉強してしまうと、他者との優劣に悩まされることもあろう。これが顔面偏差値なら32から45に上がったら嬉しいだろうが、学力偏差値は中途半端に上がると苦痛である。有象無象を睥睨するほどの頭脳がないのであれば、偏差値32の方が幸福である。地頭が偏差値32の有村悠さんは勉強すればするほど薄っぺらい人間性が露呈される、というより、中途半端な知識のみっともなさという人類の課題に直面するわけである。であるから、「努力しない人」とか「勉強しない人」は合理主義者である。頭が悪い母子家庭育ちが無理してガリ勉して東大に入っても発狂して人事不省で不登校というのがオチであろうし、癌は治療しないほうがいいというか、中途半端な勉強は本当に痛みがある。中途半端に勉強すると痛みが半減するのではなく、むしろ増大する。登攀するほどに地獄は深まる。頂点を極めれば、そのさきに眺望が広がるのだろうが、有村悠さんがどれだけ勉強してもその境地には至れないのであるし、明けても暮れても断崖絶壁しか見えない。偏差値32のまま生きていれば、エリート東大生との優劣に煩悶して不登校になることもないし、勉強しないのはひとつの正しい選択である。何らかの分野で中途半端な実力を持ってしまうと、その世界の優れた人間に劣等感を持つだけの不健全な人間になる。実力が絶無である方が、「なんかあの人はすごいらしい」という程度で他人を素直にリスペクト出来る。有村悠さんも、母子家庭育ちがエリート東大生と席を並べるとか莫迦なことをやったのは自業自得であろうが、しかし、努力すればするほど壁にぶつかってしまうというのは人間の根源的な苦難であり、そして現実問題として、有村悠さんがエリート東大生と対峙したらどうにもならないし、その苦難を乗り越える英雄譚が成り立ち得ない絶対的な絶望がそこにある。勉強すればするほどエリート東大生との格差が開くのであれば、勉強しない方がいいのである。俊足ランナーを鈍足が追いかけても差が開くだけだから、努力放棄が正解でもある。当然ながら、一番にならないと気が済まない業病を抱えた人ほどこの罠に陥る。凡人としての適性があれば、それなりに努力して明治大学あたりで満足するすべもあろう。なぜ有村悠さんはエリート東大生と同じ土俵に上がってしまったのかという問題だが、これはカフカの「掟の門」のような話というか、何か知らんが明治大学では駄目らしく、東京大学という扉をこじあけたいのだろうし、絶対に開かない扉を開けようとする人間的絶望である。
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