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なぜかわれわれは自分の家族と他人の家族の区別がつかない。
いや、別人であることは知っているが、あたかも同一のように見做して共感しているのである。

社会には経済というものがあり、家族は連帯保証人のようなものだから、身内と他人というのは区別できるけれども、家計という縛りがないとしたら、どこまで家族関係の根拠があるのかわかりづらい。
経済という要素がなければ、という仮定はナンセンスかもしれないが、仮に経済という要素がなく、誰もが最高の環境で生まれてくるとするなら、親が誰かはさして問題ではない。
やはり経済的な問題として連帯している関係だと言うしかないのである。

ベビーカーが迷惑という変な話が出るのも、イエ制度から核家族に転じているので、個人主義的な発想に基づいて家族を守るという観念が強くなっており、子連れの親が警察官のように見えるからだろう。
事件報道があるたびに、ネット上で「これが自分の家族だったら相手を殺す」とか書いてる善男善女がたくさんいるわけだが、そのような家族愛の意識が、現実のベビーカーなどを見ると、自らが犯罪者だと疑われないように警戒する形で跳ね返ってくる。
家族に何かあったら「相手を殺す」と仇討ちを予告しているのが最近の親であり、そういう殺伐とした善男善女と現実に接するとなると厄介なのである。
仇討ちの予告は犯罪に該当しないようだから、これは自由なのであろうし野放しにされるが、其の結果として殺伐感が生まれる。

自分の家族は本当に自分の家族なのかというと、前述したように、人間は経済的存在なので、富貴の生まれとか貧賎な生まれという格差が出るわけだが、これは要するに縄張りの問題であるし、事実といえば事実だし、無根拠と言えば無根拠である。
「これが自分の土地だ」という所有権に事実性があるのなら、「これが自分の家族」というのも事実なのであろう。
人間同士での取り決めでしかないが、その事実性が人間存在である。
経済的に運命共同体であるというのは、たまたまどこかで接点があるという程度ではなく人生そのものであるし、だから最寄り駅の駅員さんを「自分の駅員」だと言うことはなくても、自分の家族は自分の家族なのである。
ではなぜ自分の家族と他人の家族を混同して共感しているのかというと、「身内」というイデオロギー性なのであろうし、それが軍事境界線なのであろう。
おそらくわれわれは、尊敬されたいという感情はたいして持ってないのである。
他人から侮辱されたら激しい怒りを抱くが、尊敬されたいという感情はそんなに強くない。
何が言いたいかというと、実は尊敬されたいのではなく、侮辱されたくないから、そのために、尊敬されておくと手っ取り早いというだけなのである。

侮辱されてから怒っても遅いので、われわれは先制攻撃として他人を威嚇したり、偉そうにしたり、あるいは一目置かれるような人間になろうとしている。
尊敬されたいという気持ちもあるだろうけど、侮辱への激しい怒りに比べたら、ささやかなものである。

こうやって考えると、人間の実態がなぜこうなのか、だいたい理解できる。
「侮辱されたくない」と「尊敬されたい」を明確に区別するとしたら、侮辱されたくないのが人間の根源的な欲求であり、尊敬されたいというのは付録である。

侮辱には実害があり、誰かから馬鹿にされると、同調者が次々と現れる。
端的にはいじめというものである。
リンチで死んだり後遺症を負うことだってないとは言えない。
だから、ありもしない幻想を恐れているのではないし、明白な実害を避けたい感情である。

尊敬と侮辱は対概念であるという前提で筆を進めてきたが、これも判然としないし、実はあまり関係がないかもしれないのである。
侮辱への恐怖が巨大な問題であり、尊敬という概念が付け足しのように出てきているだけである。

「怖がられる」のが尊敬されるのとほとんど同じであるのも、そういうことだろう。
侮辱されない状態として同一だからである。
怖がられるなら満足なのである。
キモオタに対して「あいつは怖い」と煽ったりする場合もあるが、山口組や稲川会の組員に対してそんなことは決してやらない。
本気で怖がるのは尊敬である。
ヤクザを怖がるのと天皇を崇拝するのはまったく違うように見えて、畏怖という点では同じである。
なぜ同じなのかというと、ここまで述べてきたように、われわれは侮辱を非常に恐れており、尊敬はさして望んでないからである。
侮辱されない保証があるなら、尊敬されなくてもまったく困らない。
就寝時の夢の中で、たとえば東京から徒歩でニューヨークに出かけても「これは理屈に合わないから夢だ」とは思わない。
実際は時たま「あ、これは夢だな」と半覚醒状態で理性が働き、夢と空想の半々のような状態に陥ることもあるが、たいていは夢の中の仮初めの法則をまったく疑ってない。

たとえば現実世界で地下鉄に乗っているとする。
半蔵門線に乗っているとか、日比谷線に乗っているとか、そういう自覚はあるわけだ。
なぜそのような見当識を持てるかというと、連続的な記憶があるからである。
生きているのは瞬間瞬間であり、未来も過去もなく寸断されているのだが、物事の経緯を記憶で繋いでるから、今どこで何をやっているかという見当識が発生するのである。
これが夢となると、その連続性が無くなるのだが、しかし、仮初めの見当識はあり、東京にいるとかニューヨークにいるとか、そういう「自覚」があるのだから面白いところである。

われわれは空間の一箇所にしか存在してないから、実は三次元を体験してないし、たとえば視覚であれば二次元を三次元に置き換えているだけである。
東京からニューヨークまでは一万キロだが、一万キロでも一キロでも別の場所である。
別の場所は別の場所であり、隣町とニューヨークは同等であるとさえ言える。
だが夢と現実の違いとして、一キロ歩けば隣町に行くがニューヨークには行かないという事実があるわけだ。

徘徊している痴呆老人は見当識がないと言われるが、記憶を繋げて現実を維持する能力がないのである。
さきほどの地下鉄の事例で言えば、あなたが痴呆老人でないなら、半蔵門線に乗ったとか日比谷線に乗ったという自覚を維持しているわけであり、たとえば銀座に買い物に行く途中であるとか、乗っている目的も知っているわけである。
その根底にあるのは時間と空間であり、それが現実なのである。
夢で擬似的な現実が生成されるのは、主観としては東京とニューヨークが隣り合っていても差し支えがないということだろうが、正真正銘の現実はそれを認めていない。
2017.08.13

人間の皮

人間の皮をかぶっていると言うが、そもそも皮しかないのであるし、この皮が筋繊維を殖やし臓器を形成し、精神なるものまでも創り出すのである。その人間の皮が、他の人間の皮を求めているだけである。皮が裂けて内臓でも見えようなものなら嘔吐するのであるから、どうやら皮にしか用がないらしいし、すべては人間の皮に従属している。このところ久しく凡人という言葉が死語になっており、蔑む意図で使われることは滅多にない。才無きことを恥じて懊悩する立場の人間はごく少数であるし、ネットの氾濫により、才なきことを咎め立てされない有象無象が幅を利かせているとも言えるが、凡人という言葉より、キチガイという言葉の使用頻度のほうが明らかに高くなっている。われわれが他者に攻撃的な言葉を投げかける場合には同調者を期待している。キチガイ呼ばわりは、関東大震災のときの「朝鮮人が来たぞ」と同じように連帯感を生む効果があるが、あいつは凡人だと言ったところで、それは正常さの証でしかないから、明らかな無効打であるどころか、むしろバランスの取れた人間だと礼賛していることになる。われわれの認識は森羅万象すべてを映し出す鏡ではない。人間の皮としての体験、それだけである。若い女の素肌は美しいとか、おばさんだからアウトだとか、人間の皮に似付かわしいことばかり考えているのである。洗濯機が洗濯するのと同じである。洗濯機には洗濯物しか見えない。そういう箱庭世界にいる。だから、まるで未来予知者のように、生まれつき社会の仕組みを知っている凡人が現れてくるのである。後からようやく気づく鈍感な人間からすれば、最初から気づいている人間は不可思議であるが、人間の皮として体験可能なことは、社会的動物として自明なのである。
ヴェブレン(1857-1929)の「有閑階級の理論」は読まなくても内容が分かる本であり、退屈であると言っていいのだが、幸運を信じる心というくだりが面白かったので引用しておこう。

ヴェブレン「有閑階級の理論」高哲男訳
ギャンブル好きな性向が、もっぱら略奪的なタイプの人間性に属する特徴と分類されるべきものであることに、疑問の余地はない。ギャンブルを行う習慣に含まれている主要な要素は、幸運を信じる心である。そして少なくともその要素についてみるならば、この信念が略奪文化に先立つ人間の進化段階にまでさかのぼることは明らかである。幸運を信じる心が、ギャンブル好きな性向の主要な要素として、スポーツ好きな気質のなかに存在しているような形に発展したのは、略奪文化の下でのことであったと言えよう。
(中略)
古代の人間にとっては、周囲の環境のなかのきわめて顕著で明らかに重要な対象や事実は、すべて準人格的な個性をもっている。それは意志力、あるいはむしろ性向をもつと考えられており、したがって、複雑な原因のなかに入りこみ、不可解な仕方で結果に影響を及ぼすのである。幸運とチャンス、すなわち幸運な必然性に関するスポーツマンの感覚は、漠然とした、あるいは未完成なアニミズムなのである。それは、しばしばきわめてあいまいな仕方で対象や状況に適用されるが、しかし通常は、技能とチャンスをきそうあらゆるゲームの装置や服装の付属品を構成する対象に含まれている独自な性向の展開を和らげたり、逸らしたりねじ曲げたり、さもなければ混乱させたりする可能性を意味するもの、と定義されている。多少とも効き目があると見なされているお守りや魔除けを身につける習慣をもたないスポーツマンは、ごく少数に限られる。


幸運を信じる心、という概念も面白いし、これをアニミズムに結びつけているのも卓抜だと思われる。
ヴェブレンは、スポーツ選手がお守りのたぐいを所持するのをアニミズムだと指摘しているが、これはこじつけではなく、かなり本質的な指摘である。

スポーツを本気で見ると、どうしても祈るような気持ちになるのであり、これはパチンコ台の前で大当たりを待っているのと、そう変わりはあるまい。
スポーツは実力次第であるし、実力そのままであるはずだが、スポーツの一試合だけ切り取ってみれば、番狂わせはずいぶんあるものである。

入学試験にお守りを持っていくのも、やはり一発勝負だからであろう。
試される機会は限られているし、運不運が出てしまう。
人生の重大事では、節目節目で、どうしても幸運を祈るしかないのである。

アニミズム的な習慣は、どんな場合でも因果的継起の理解を曇らせるように働く。だが、より初期の、ずっと思慮を欠き、それほど明確ではなかったアニミズム的な性向についての感覚は、より高度な形態の擬人観よりもはるかに広く個人が知力を働かせるプロセスに影響すると期待してよいだろう。


ヴェブレンは初期のアニミズムを因果関係の否定と規定する。
それは高度に知性的なものに発展していくという。

ヴェブレンは人生の一回性ということは述べてないので、そこはわたしが補助線として引いただけだが、やはり人生が一回である限り、幸運を信じる心というのは避けられない。
因果関係というのがあるとしても、一回だけだと、運不運はあるので、事前に確実な予想をすることはできない。

背景にあるのは、やはり人生が重大ということであろう。
たとえばサイコロを振るだけであれば、まったく何もないわけであり、出た目の結果で快楽と苦痛に分かれるからこそ意味があるのである。

気候についても、それぞれの土地において決まった傾向はあるが、バラツキもあるので、一回だけの人生では雨乞いするしかないこともあろう。

「目先のことに囚われるのはよくない」という言い回しがあるが、これは長期戦を視野に置いた話であろう。
試行回数が多いことなら、物事に一喜一憂しないことが望ましい。
しかし、アスリートにとっての五輪とか、ひとつの舞台が重大過ぎることもあり、その一回のために幸運を祈るしかないこともある。
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