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動詞は同一の動作であることを前提としている。
自分が酒に酔うのと他人が酒に酔うのは同一である。
だからこそ「酔う」という動詞が使える。
悪酔いとか、もしくは船酔いと言う言葉も、誰もが同じ悪酔いや船酔いをイメージできることを前提としている。
つまり酔うという概念は伝えておらず、むしろ、酩酊して眩暈がするような体験がア・プリオリに同一であるから辛うじて伝わっているのである。

歩くとか走るという動詞は、誰しも同一の動作であり、誰しも同一の体験である。
膝が痛い状態で走るとして、これは誰でもイメージできるわけだ。
健康そのものという人間でさえも、膝が慢性的に痛い状態はイメージできるし、その膝痛は体験している、のである。

これは先入観の問題でもあり、やってみたら意外と簡単とか、意外としんどくて大変ということがある。
とはいえ、われわれはこの先入観に頼って生きているし、だいたい正しいのである。
このズレの問題については、たとえば、「本で読んだ知識は役に立たない」というような論に話を進めることも可能であるし、実体験するに越したことはないであろうが、だいたいはア・プリオリに知っているのである。

あるいは「セックス」という動詞について考えるとして、すべてのセックスは同一であると言うことも出来るし、すべては違うということも出来る。
一人の美人に飽きたから別の美人に移動ということで千人斬りしたとすれば、素朴な人生経験としては1000通りあるに決まっているし、その衣擦れの音や、襟足の匂い、褥に横たわる裸体を矯めつ眇めつ眺めやり、体位から閨房の語らいまでその微細な差異は多岐にわたるであろうが、おそらく女を替えると新鮮な体験として味わえる仕組みなのだろうし、飽きるのも仕組みであろう。
やはりセックスというひとつの言葉ですべてが括れる。
あらかじめ脳内にセットされた体験を体験しているだけである。
言葉は本質的に「あれ」とか「これ」の世界である。
本当に同一かどうかは知らないし、お互いの頭部を開いて脳の中身を照らし合わせているわけではないが、同一だと信じて、その対象を「あれ」とか「これ」とか言っている。

痛いという言葉でさえ、他人の痛みがどんなものかは本当のところわからない。
あくまで同一であるという想定で「痛み」という単語は成り立っている。
そして、これは体験の同一性でもある。

この感覚、もしくは体験の同一性を疑っても仕方があるまい。
自分の歯痛と他人の歯痛は体験として同じだと思うしかない。
「あの体験」としてぴったりと重なり合うのである。

そして、その同一性の理解に加えて、それをあからさまに言うかどうかという問題まである。
ブスが精一杯厚化粧して現れたとして、われわれが「お綺麗ですね」とお世辞を言うこともあれば、空々しいからあえて黙っていることもあるだろうし、もしくは、相手によっては本音で揶揄することもあるだろう。
お世辞を言うか言わないか、このあたりの二重性も、ブスと美人という美的感覚の共有が前提である。
頭部のパーツの並びを「顔」として認識して、ブスとか美人とか大問題にしているわけである。
この認識の共有あってこその言葉であり、それを言うか言わないかという選択である。

もしくは「気まずい」という微妙な感情も、この二重性のためにある。
われわれは表面上は和気藹々とやっているが、それが白けることが多々あり、その空気が凍る感じを気まずいと言うわけである。
なにかしら「本当のこと」が露見してしまったから気まずいのだ。
変なところを目撃する・目撃されるとか、それも気まずさである。
アスペが入っている人、もしくは鈍感な人には、こういうのをいちいち説明する。
その説明が通じるとすれば、やはり言われれば思い当たるからであろう。
わざわざ説明されても思い当たらない重症のアスペだとどうなのか、それは知らない。
あるいは、このあたりの感覚を最初から察していて何も言わない人も不思議ではあるが、ともかく鋭敏な人から鈍感な人までだいたいが「気まずさ」を理解するから、「本当のこと」はズケズケと言わないようにしようと、お互いに言い聞かせ合うのである。
われわれの会話の多くは、このあたりのルール確認にも割かれる。
楽屋裏で「あの話はタブーだ」とか言い合う。
それが人生という芝居を成り立たせているのである。
われわれはなぜか新しい情報が好きである。速報が流れてくるのを待っている。速報がなければ飢餓感を覚えるのである。だからどうしたというわけではないが、新事実にしか食いつかないのは、野次馬的であり暇人とカテゴライズすることは出来る。新事実が流れてくるまで、飢え乾き悶絶し煩悶して馬鹿をやりながら暇つぶしするのだ。すでに知られていることを知るのを「学習」と呼ぶわけだが、自分が世の中ではじめて知ったわけではないので、その驚きでは刺激が弱いらしい。いわゆる知的好奇心、つまり、すでに知られていることについて先学から教えを受けるのも楽しいのだが、この楽しさに到達するのは簡単ではないらしく、ずいぶん個人差がある。さて、人間どっちみち死んでしまうのだから、暇人で何が悪いという意見もあるだろうが、とりあえず価値判断をするなら、やはり暇人は新事実にしか関心がない阿呆である。有名人が事故で死んだとか、もしくは事件を起こして捕まったとか、そういう速報に接するとスイッチが入り、しばらくはその話題で喚き散らして発散する。それに飽きたら、また別の騒ぎが起こるまで暇つぶしをする。インターネットは「学習」がしづらい仕組みになっており、ここが厄介である。誰かが死んだり捕まったりしないと、好奇心のスイッチが入らない。そして特定のクラスタに陥り、その嵌め込み式の窓から世界を見て、その変わり映えの無さに厭いて、何かが起こるまで憤懣をためて暴れたり暴れたり、何かが起これば狂喜して暴れたり暴れたりする。ネットのせいにしても仕方がないが、やはりネットは「学習」へのレコメンドをかなり欠いているし、すでに知られていることを学ぶ姿勢は身につかない。ネットで何かを学ぶとなると、他者からの反応が乏しいから孤独である。他人の反応が見たいのであれば、速報に食いつくに決まっている。速報に振り回されて、すべての好奇心を吸い取られ、つかのまの孤独を癒やし、何年経っても代わり映えがしない木偶の坊ということになる。
物事はその人の機根に合わせて説く。
子どもにわかりやすいように言うには、親が正しいと伝えるしか無い。
親は保護者として善管注意義務があるであろうし、そこに正しさを求めるしか無いのである。
人倫を説くのには家族制度、もしくは家族制度の中心たる親がちょうどいいのである。
自分の家族と他人の家族はまったく別人であるが、世間の耳目を集める事件について「もし自分の家族だったら」と発想することが定着している。
家族という概念を守るという発想で、赤の他人に寄り添い想像力を這わせるのである。
親というのはあくまでそういう方便なのだが、方便であることを理解せずに、本当に親が正しいとしてしまうと、どこかしら歪みになる。
有村悠さんは一日に六回射精するくらいに性欲が強いが、母親が非常に潔癖だということで、未だに悩み苦しんで、性嫌悪なるものを表明し続けている。
未成年までは親に責任を求め、成人したら本人に責任を問うのが決まりであるから、有村悠さん(37歳)は「親のせいにするな」と言われるのである。
あくまで赤の他人として、他人の親に管理責任を求めるだけのことであり、子どもが自分の親に責任を求める内輪揉めは筋違いということなのだ。
とはいえ、意外と切り分けてない人が多いし、成人してからも敬意を延長している人は多々いるであろう。
それこそ70歳や80歳の老人でさえも、親の教えを尊びながら生きていたりする。
社会的に立派な人でも「親に言われたから」という理由で自らの半生を語ったりするのである。
それが恥ずかしいと言われることはないのだ。
だから親という概念は真理と方便を兼ねていて厄介なのだが、やはり真理と考える人は方便を信じ込んでいる階梯にあるだけである。
親が責任者であるというのは、あくまで他人の親に責任を求めるための方便なので、自分で自分の親を糾弾することはあまり好ましくない。
愛子さまの拒食症が深刻である。日本国民はこの長男夫妻については不満しか持っておらず、まったく同情してないから、折り合いがつかない。長男夫妻にプレッシャーを掛けて、軛を掛けるがごとく理想を押し付け、矯めつ眇めつ眺められる不自由な人生を強要し、挙句の果てに、自由に育てられた次男夫妻の方が結果を出し、長男夫妻が用済みとなる構図の理不尽さが、そのままに放置され見捨てられている。この痕跡器官が面当てとして壊死しようとしているのである。そもそも男系であれば秋篠宮の息子でも差支えないので、本来なら同等にプレッシャーがあるべきだったが、長男夫妻だけにその重責を担わせていたのであるから、あまり公平ではない。このあたりは時代の過渡期なのかもしれないが、期待に答えられなかった人間への蔑みの眼差しがあるわけだ。そして、この件について、雅子さまは人生を受け入れないというスタンスを取っている。決して納得はしないという強い感情が、適応障害を作り出している。人生に納得してもしなくても死ねば無であると思うのだが、そう考えない人が大半である。納得すると認めたことになるので、絶対に認めないというスタンスを取るのである。存在を余儀なくされてこそわれわれの人生はあるのだが、しかし秋篠宮とくらべてみると、あちらはずいぶん自由意志で存立して幸福そうに生きているから、こちら側としては受け入れ難いという感情があるのだろう。愛子さまの摂食障害も、母親の適応障害に付き合わされた恰好なのであろうが、長男夫妻を鞭打ったことを決して許さないという抵抗運動である。このような拒絶反応こそ人間そのものなので不思議ではないのだが、どこかで致し方ないという感情に落ち着いて諦めるのも人間である。幸福であろうが不幸であろうが、人生は仮初めという境地に至って、ひとまず現世を仮認定する形で最終的な魂への保留をするのである。死が無であるからこそ、人間は自己の永遠性を信じるのだが、しかし、死によって現世の状態が永続するとか、この短い人生を何億年も反芻するということはあり得ない。どのような諍いや擾乱も死によってノーゲームになるに決っている。自らにどのような烙印が押されようとも、それは現世での仮のものであるし、まさかこれが死後も永続はするまい。秋篠宮の幸福に永続性はない。とはいえ、雅子さまは寿命が尽きるまで「男子を産めなかった」という目線でずっと見られるのであろうし、その怨念を遺していくというのなら、それはそれで致し方があるまい。愛子さまの生命は今や怨霊を具現化するためにある。われわれは長男に過度な期待することに罪責感を持ってないし、反省するどころか、むしろ理想を踏みにじられた憎しみや、期待はずれへの蔑みが消えないのであるから、秋篠宮夫妻を愛でつつ、その一方で廃疾として放置されている腫れ物に対して、惻隠の情を催すことすら無いし、この問題で和解できるとは思えない。これからも日本国民と雅子さまの間で憎しみが絶えることはないから、身勝手な理想主義の結末として、双方が怨み骨髄に徹し、夢の跡が腐乱して瘴気を放ち続ける状態はさらに悪化するであろう。
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