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他人を攻撃するのに理由を言うとしたら、おかしな人間である。
理由は説明しないのが常識。
理由を述べて他人を非難したりすれば、その相手から逆恨みされるだけでなく、周囲からも「余計なこと言わなけりゃいいのに」と思われるのだ。
誰かが追及されているのを見た時に、いかにもその言い分が正しくても、「正義面しやがって」とか、追及している側に生理的な嫌悪感を持つことはあるだろう。
こうやって不正義を黙過しているうちに、だんだんと腐敗が蔓延するのが人類の業病なのだ。
ともかくこういう具合であるから、他人を攻撃する時に理由は言わないということになる。
理由など言わずとも察しが付く。
わかりきってるから言わないのだ。
他人から嫌がらせをされるとして、理由がまったく不明ということは稀である。
この世界では、無言で力を振るえということなのだ。
言葉という刃物を振り回すことは許されない。
はっきり言えば、いじめを見るのは楽しいのだが、正義で追い詰めるのは見ていて楽しくない。
いじめは一方的だから楽しいが、他人を問い詰めたりするのはギスギスした揉め事だから楽しめない。
常識人は社交性最優先だから、ギスギス感をとても嫌がる。
誰か一人がスケープゴートになって終わりならいいが、ギスギス感が全体に伝わるのは嫌悪する。
だから道義的におかしなところがあっても見逃すことにしており、これが腐敗の原因となるのだが、常識人が常識人として不正義を看過しているからこうなるのだろう。
アスペルガーには特異な観察眼があるとされるが、やはり常識人は不正義を発見しても見なかったことにして終わりなのである。
アスペが超能力者なのではない。
常識人は「俺は見なかった」ということにしてしまうのだ。
アスペのような執念深さがないのが常識人であり、社交性として長所ではあるのだが、馴染んで馴れて受け入れるのが彼らの生き方であるから、社会を組み替える気はないのである。
さすがに腐敗が巨大化したら、普段は見逃す主義の常識人でさえも、メスを入れなければならないという心境になり、それを行う正義に拍手喝采を送ることも有るが、普段はギスギス感を避けるために不正義を見逃して和気藹々とやっている。
多様性というのはポリコレ用語であり、優劣を付けたくない場合に使われる。だが、現実には優劣があるので、タテマエと現実の軋轢が生じてくる。すべての文明はそれぞれに個性があり優劣は付けられないというのは綺麗事であり、実際は文明は存亡を繰り返し、世界地図は頻繁に塗り替えられる。アーミッシュのように数が少なければ、隔離して保護することもできよう。どちらが優れているかを決める必要はあるまい。だがイスラムはいずれキリスト教の人口を追い抜くので、アーミッシュのように扱うわけにはいかない。文明の格差を棚上げにするのは「保護」という認識であるから、人権枠というか障害者福祉みたいなもので、このような保護として尊厳を守ってもらうべきか、それは疑問がある。キリスト教の慈悲にタダ乗りすることで本当に嬉しいのか、と首を捻るしかない。多様性というポリコレ的な言葉はずいぶん上から目線であり、やはり無意識に優劣を嗅ぎ取っているからこそ、それを打ち消すために多様性という単語が口の端に上るわけだ。ここでの優劣とは近代科学の水準という意味である。イスラムは科学文明としてレベルが低い。近代科学が大正義というわけでもあるまいし、近代科学は幻想であり、宗教こそが真実であるのかもしれない。問題なのは、近代科学の後進国から先進国へという人口の流れである。イスラム教徒でありながら近代科学の恩恵だけは受けようというのである。イスラム圏はたくさんあるのだから、そこでアーミッシュのように、物質文明から遠ざかった生き方をすればいい。イスラム難民の難しさは、先進国にやってくる動機が曖昧、というより、食い扶持の問題であろうが、精神文明から物質文明への移動に際して、科学へのリスペクトもなさそうだし、近代化への志も窺えない。人口が多すぎるので、イスラムをアーミッシュのように扱うことは出来ないし、またイスラムが言論の自由を認めているのかどうか疑問であり、近代社会もしくは近代科学への見解が問われるべきであろう。イスラム圏に住んでいる分には、文明に優劣を付ける必要がなく、遠くの異世界の案件であるから、いわば深山幽谷の地に棲まう仙人のように見做して、それこそ多様性という言葉で曖昧にしておけばよろしいが、やはり近代社会で混在するからには、多様性という魔法の言葉は濫用するべきではないし、文明の優劣・格差が問われる。日本人だって中世までは人文系の教養を中国から一生懸命学んだし、欧米の科学文明に憧れて近代化もしたのである。このような学ぶ姿勢もイスラムには欠如しているし、むしろ日本のような島国の劣等民族のほうが、異国の文化を取り込みながら頑張っていると言える。
昔はスマホなどないから、「家が近所」というのが友達の大きな条件であった。
学校でそこそこ気が合う人間がいても、家が遠いと友達にはなりづらい。
気が合っても、家が近所でないと一緒に行動しづらいからだ。
固定電話が一家に一台あるだけだから、あまり頻繁に電話するのも気が引ける。
もしくは昔であれば、近所の人間のプライバシーはだいたい知っていた。
そのような地域共同体はかなり崩壊しているであろうし、個人が通信端末を持って遠隔地の他人と交流できるのだから、人間関係の地理的な縛りは緩んでいるはずである。

とはいえ、地理的な縛りが完全になくなったわけではあるまい。
インターネットを駆使して、遠距離の人間と友達になるのも可能ではあるが、たとえば自分が東京にいるとして、沖縄や北海道の友達と遊ぶのもなかなか難しそうである。

そもそも「帰属している組織」においての友達作りが人間関係の重大問題なのである。
帰属、あるいは所属でもいいが、その「仲間」と仲良くやることが求められており「友達を作れ」とはそういうことなのである。
北海道から沖縄まで全国津々浦々の人と毎日チャットで話してますと言っても、それは意味がない友達である。
友達を作るノルマとしては、ノーカウントとなる。
帰属・所属している組織において「友達」がいるかどうかが問題であるから、遠いところに無所属の友達がいても意味がない。
われわれは特定少数の村社会でうまくやることを求められている。
要するに派閥や会派を作れということであり、狭い盤面で駒を動かしながら立ち回り、陣地を押さえていく力が必要とされている。
普段から接している人間と、SNSでさらに親睦を深めるのはそういうことである。
病識がない精神分裂病は異常者として隔離される。これをどういう理屈なのか、病識があればあるほど正常であるという奇妙な発想につなげる人がいるようだ。健康であれば病識などないのだから、自らの不健康を厭い、自覚症状を高らかに謳ってみせるのは反省の演技でしかなく、カルマの積み重ねである。痴れ者が微かな意識で正常さを辛うじて保っているのであれば、不具者と見なして差し支えないはずだが、理性の欠片がまだ残っているという変なプライドがあるらしい。人格障害はだいたいがこの手合いであり、箍が外れた精神状態を自覚しているというアピールを繰り返す。サッカーでPKを貰うためのシミュレーションのようなもの、いや、シミュレーションがバレるようにダイブしてイエローカードを貰いたいのかもしれないが、喩え話だから細かいことはともかく、この現実をゲームと見做してわざと倒れてみせるような芝居がかったことをするわけだ。本当に気が触れているのではなく故意である、という理非を違えた免罪符らしい。現実と空想の区別は付いているが、軸足は空想に置かれている。第三者が嗅ぎ分けるとすれば、現実というナマモノが傷んで腐乱していく瘴気が漂う。妄想ではない、つまり現実世界とのズレについて病識があるから大丈夫と思ってるらしく、ファンタジーの垂れ流しは平気でやる。自己愛という悪魔が棲みつき、深く友誼を結んでいる。自傷行為はだいたいが自己言及であり、みずからの血塗れの躰を他人事のように見ることで、その病める精神を延々と反芻する。壊れている自分を冷静に眺める正常な自分というのが病識であり、その意識を強めることで、自己存在の泥土を綺麗に浚ったつもりらしい。戦乱の颶風を吹かせ、狂奔のごとく暴れる輪廻を繰り返し、梁を上げるような火柱とともに灼熱が燎原の火のごとく広がり、森羅万象を飴細工のように枉げていくとしても、それを花鳥風月のように眺めている冷静な自分がいるらしい。
頭に思い浮かんだことを全部書くのは自由だが、とても読みづらいので、脱線した箇所は推敲で削らなければならない。
脱線しそうなところで脱線しないのであるから、文章表現というのは、普段の思考そのままではない。
とあるタレントについて語っていて、そのタレントの活動を紹介するとして、たとえばマクドナルドのCMに出ていたとして、ああそう言えば、とマクドナルドの原田社長の話に転じていくとすれば、それは脱線である。
調べてみると原田社長はベネッセを2016年6月に退任しているようで、ここからさらに脱線することも可能であろうが、文章でそこまで筆を走らせてしまったら、そこはすべて削除するか、もしくは筆を改めて新しい原稿を起こすことになる。
脱線していたら読めないということはあるまいが、そのタレントについての記事であるのに、途中から原田社長について長々と語っていたら、やはり変ではあるだろう。
雑駁たる文章が許されないというわけではないし、もしくは、万遍なく総花的に書き綴ることだってあるだろうが、テーマを決めているなら、そこに絞って書かなければならない。
これは読む側のワーキングメモリーへの配慮である。
とあるタレントについての記事を探し求めている読者からすると、たまたまマクドナルドのCMに出ているだけで、原田社長の話が長々と入っていたら、主題であるタレントさんの話に戻るまで、セーブポイントというか、脱線する直前の状態を頭に保持しておかなければならず、この負荷はとても面倒である。
書き手の配慮として、脱線部分は推敲するときに泣く泣く省くのである。
論旨についても、右顧左眄してはならない。
たとえばA案とB案に一長一短あるとしても、どちらかを支持する論陣を張ったほうが読みやすい。
ああいう見方もあればこういう見方もあると色んな確度から眺めて、全体をなぞって概説するような煮え切らない文章を書くことが求められるケースもあるが、そう依頼されているのでなければ、どちらかに立場を固定して決めつけて書いたほうが読みやすい。
相手の考えにも一理あるとか譲歩すると蛇足になりがちなので、そうやって予防線を張らないと危険だとか、意図的に不明瞭にしたいのでなければ、かなり断定的に書いたほうがいいのである。
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