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たとえば交通法規の理解について、運転免許の筆記試験に合格できればよいと言えるし、なぜそういう法規になっているのか分析する必要はない。
ルールを知っていれば足りるのである。
比喩を展開させていくと話が逸れるし、車の運転と人生のハンドリングでは話が違うであろうから、この喩え話に沿って長々と述べることはしないが、ルールを知っていることと、なぜそういうルールなのか考察することは、物事への理解の次元としてまた別である。

個人差はあるにしても、女子は小さい頃は男子より利発である。
女子はあらかじめ社会のルールが身についた状態で生まれてくる。
これは不思議な事ではあるまいし、われわれの経験の仕組みそのものが脳内で作られるから、最初からわかっていて不思議ではない。
いわゆる直観の問題である。
外国語が翻訳可能なのは、たとえば動詞(動物のアクション)が決まりきっているからであろう。
アクションが同じだから、だいたい動詞は同じである。
もちろん他の品詞も同じことである。
認識の仕組みが同じだから、対象を表現する名詞も、その印象を叙述する形容詞も、だいたい同じなのである。

直観とは物事を自明性で捉えることである。
よく観察していれば、当たり前のことだらけであるし、それが直観である。
決して超能力ではなく、周囲をよく見て馴染んでいくだけである。

社会性ということについて、個人差はあるが、男子は試行錯誤が必要である。
説明されてようやく気づいていく。
女子は説明される前から直観で把握しているから、いろいろと見落としている男子が馬鹿に思えて仕方ないであろうし、世の中の仕組みについて、なぜそうなっているのかと思い悩む動機は乏しい。

津田大介やロンブー淳のように、女子のような直観の強さを持った男子もいるのだが、彼らは世渡り上手である一方で、やはり後半生はずいぶん馬鹿である。
説明されなくても社会のことがよくわかっているので、いろいろと考えて分析してようやく理解するという男子らしいプロセスは省かれている。

言うまでもないが、男子だから分析力があるわけではない。
直感力と分析力の両方が欠けていることもある。
自閉傾向のある男子は、直観の弱さを説明や分析力で補うべきなのだが、盲人が右往左往しているだけということもある。
たとえば4分の曲があるとする。
これを0秒でイメージできるかというと、可能ではある。
そもそも4分掛けて曲を聴き終わった瞬間の状態を考えてみてもらいたい。
その終了時点で、4分は過去である。
短期記憶でつなげている状態でしかないし、0秒で4分を経験したつもりになっているだけだ。
曲が始まって3分の時点でも、そこまでの経過は記憶でしかないし、決して3分という時間が維持されているわけではなく、それまでの3分は永遠に滅している。
脳内で地続きの現在という連続性を作り出しているだけで、本当は時間の流れなどない。
人間はいつでも0秒の地点に存在しており、記憶で時間の流れを経験しているだけなのである。

われわれは人間という現象を生きているので、この現象世界において時間というのは他者との通貨であり、いつもその経過を逐一確認しなければならない。
だから、時間を直線的に引いて確認しているのだが、やはり過去は記憶の中にしかないし、いつでも0秒の地点から回想で繋げているだけである。
記憶を繋いで「流れ」を認識しているから、われわれは時間について思い違いをしている。

たとえば80歳で死ぬとして、80年生きたつもりになっているかもしれないが、その死の床で臨終を迎えようとする老人は、あくまで80年を回想しているだけである。
過去も未来もない0秒のところに人間はいるのだし、あらゆる経験は、時間の経過というイメージを伴うとしても、やはりイメージの展開でしかないから、本質的には0秒である。
今村雅弘復興相の件について、元の映像まで見て検討する気はないし、その価値もないだろうから、たまたま事例として引き合いに出すが、このように声を荒げるのは、最近では攻撃とみなされる。
一昔前だと、声を荒げるのはそんなにおかしな行為というわけではなく、父親が怒鳴り声を上げるのはデフォだったであろうが、ここ最近はそういうのもなくなっている。

では怒りを表明するにはどうすればいいのかというと、無言で眉を顰めるのである。
怒声とどこが違うのかというと、眉を顰めるというのは、常識人から非常識に向けられる眼差しなのである。
自分が常識で相手が非常識という図式である。
現在はこれがデフォなのである。
黙っていられるならそれだけで常識人と判定される。
露骨に眉を顰めるのに差し障りがあれば、その一歩手前の無表情(無反応)でもいいし、それによって、馬鹿が浮いているのを示す対応が常識人なのである。
ここ最近は誰もが常識人になろうとしているから、声を荒らげることはないのである。

そんなに常識人になりたいのかという問題もあろうし、魔女狩りと言うのも可能だが、やはり粗暴な出来損ないがネットを埋め尽くしており、SNSでようやくブロック出来たのだから、自分は常識人だとアピールするしか無いのである。
この今村雅弘復興相についてはよく知らんが、授業中に奇声を上げる児童と同列にされて然るべきであろう。
1947年生まれだから団塊世代だし、彼らにとって粗暴性は造反有理というべきルールであっただろうが、われわれにとって父親ではないのだから、このタイプの粗暴な爺さんには蔑みしか無い。
ただ黙って眉を顰めるしか無いし、殴りかかってきたら警察に電話するだけである。
もはや変わり者は存在を許されないのだが、これは人類として真っ当な方向に向かっており、われわれはトラブルメーカーにうんざりしている。インターネットの普及により、才能がない変わり者が雲霞の如く立ち現れたので、われわれはその瘴気漂う雑居房から這々の体で逃げ出し、慣れないスーツを着るようにして、常識人として身繕いしようとしているのである。ごく稀に才能がある変わり者もいるのだし、かつては、常識人と、そういう異才の持ち主が比較され、常識人はつまらんと言われていたが、ただの出来損ないでしか無い変わり者が大半であることが可視化されたので、これは人類として克服しなければならないということになった。

変わり者の特徴は夢中になることである。徳操が高い人間はたいてい夢中にならない。夢中になるのは暇人と呼ばれやすい下賤な人種である。たいていの人は自分の中に何も持ってないから、どうしても夢中になる対象は他者とかゲームのような享楽になってしまう。夢中になるという状態は、飽きるまでやるということであり、飽きたらやめるということである。何かに飛びついて障子や襖を破くようにして荒らし回っては飽き飽きして、その鮮度が落ちた廃墟を投げ捨て、また飛んだり跳ねたりしながら別の何かを探す繰り返しである。

少し力を抜いているくらいの人のほうがごく普通に努力しているし、あまり表情筋を動かさず、可笑しくもないことを平静にやっているから、これこそが霊山浄土の境地であり、努力も苦痛ではないはず。夢中になるとは要するにアディクションであり、取り憑かれて何かをやるとなると、たいていは短絡的なところに堕していく。自分では何もやることがない、という問題は、まず何より熱中したがる悪癖をアディクションとして断罪しなければならないし、何もやらなくても差支えないという結論に到達しなければならない。
今だと、携帯電話が普及しているし監視カメラもあるから、トラブルになったら警察を呼ぶというのが常識である。
携帯が普及する前の世の中だと、路上でのトラブルは喧嘩で解決することになっており、殴り合いをしなければならなかった。
では、路上で殴り合っている人がそんなにいたかというと、ほとんどいなかったし、周囲を威嚇しながら粋がって歩いている人間ならたくさんいたという程度である。
つまり、喧嘩自慢というのは怪談と同じであり、端的に言えば作り話である。
とはいえ、われわれはずいぶん本気で路上の喧嘩を畏怖したり、もしくは自慢話を創作していたのである。
怪談を本気で怖がっている人も昔はいたであろうし、喧嘩の武勇伝も作り話ではあるが、プロレスを本気で見ていた時代であるし、このあたりの虚実は不分明であり、完全に割り切ってないものであった。
今から見ると総じて荒唐無稽に思えるのだが、その時代としては事実性を持っていた。
喧嘩という幽霊に関しては、いわゆるツッパリとして威嚇する人間はたくさんいたので、実際に殴り合う人間はほとんどいないにしても、現実的な畏怖として具現化していたのである。
虚言癖と言っていいのかもしれないが、しかし、集団で都市伝説を信じて話を大きくしているのであるから、伝言ゲームの問題であろう。
話が伝わるうちに尾ひれがついてどんどん大きくなっていくのである。
若者が草食化したと言うが、これは神経症的な抑圧の衰退が大きいにしても、やはり携帯電話やGPSや監視カメラの普及によって路上が照らし出され安全になった、というか、元から殴り合いなどしてないのだから、暗闇の中に幽霊を見出すようなことは荒唐無稽になったのである。
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