Category
大学教育無償化の件だが、幼少期ならまだしも、文盲の十八歳に高等教育をくれてやるのは、骨端線が閉じている大人の身長を改造手術で高くするような無理筋であり、いわゆる有識者の根城である大学そのものを延命させたいのであろうし、底辺DQNとして社会の風紀を紊乱する匪賊と、ポストに飢えている学匪の利害が一致したのであろう。まず根本問題として低学歴は必要であり、低賃金労働という人手は社会に欠かせない。低賃金で普通のことをしっかりやってくれる人材は必要なのである。注意力や言動の安定性が肝要だから、高等教育より感化院を整備しなくてはならない。需要があるのに低賃金なのは稀少性がないからであるし、安いからこそ求められるのでは人生にも限界があり、高等教育に手を伸ばそうとするのだろうが、やはり高等教育の普及で知性が百花繚乱と咲き誇るはずもなく、学がない半端者を増やすだけである。専門家なのに意外と詳しくない人は世の中にたくさんいる。専門家も専門的な単純作業に忙殺されており、たとえば薬剤師の仕事の多くはアマゾンの倉庫作業と大差あるまいし、実のところ無知でも差し支えないわけだ。あるいは医者であれば患者を診ているだけマシかもしれないが、これも専門的な単純作業になりがちであろう。専門家を量産すれば余った人が暇を持て余して勉強するかというと、やはり余るのはレベルの低い人であろうし、あまりよいことはない。俗事について弁護士や司法書士の先生に知見を求めても、こちらが付け焼き刃で調べたことと大差ないこともあるし、自分の陥った問題はいろいろ調べるから患者の方が医者より詳しいこともよくある。うちの近所には評判のいい歯科医が一軒しかなく、そこは患者が鈴なりで満杯だから、やむなく乱杭歯のように立ち並ぶ低レベルな歯科医の何処かに窮民として辿り着くのだが、莫迦のオールスターというか、なぜ揃いも揃ってこんなに腕が悪く見立てが悪いのか不可思議である。これだけ専門家がいるのに賢明さというか見識というか、学がある人がとても少ないのである。教養人がメディアの走狗たる文化人に堕したことで、知識の虚しさは露呈され壊死したが、やはり戦前の教養ある人物は極めてレベルが高いし、滅びたとはいえ彼らの遺灰は価値が違うのである。たくさんの人を高学歴にするとレベルが下がってしまうので、少数精鋭の方が望ましい。話を戻すが、普通のことをしっかりとやれる人材は必要なので、低賃金で諦めてもらうか、もしくは格差を減らすべく最低賃金で工夫することになるだろう。同一労働同一賃金の発想はよいし、大企業の正社員の能力が非正規と大差ないとしたら、その格差は埋めなければならない。ともかく単純労働者は増やす必要があるので、根絶やしにしようとするのは阿呆と言うしかなく、エリートの粗製乱造くらいに可笑しなことはないので、悪貨を増やすなというか、法科大学院の轍を踏んではならない。頭の悪い人間が専門家になれば害悪であるし、貧困の連鎖は個人の不幸だが、高学歴の連鎖は人間知性を蝕む後難となるから、普通のことをしっかり出来たほうが遥かに素晴らしいという認識を持たなければならない。それに、婚活おばさんでもなければ、専門家と単純労働者に優劣を付けても仕方あるまいし、本当に着目すべきは同じ専門家でもかなり腕前の差があることなのである。結婚が人生最大の目的で、その手段として正社員や専門家を目指すというのでは腕前に関心がなく、天命を知ることから遠いのも致し方あるまい。だいたいわれわれが本当に結婚したがっているかかなり疑問であり、為政者や役人や記者クラブによって結婚願望が捏造されている側面もある。独身でなければ物事を極められないというのは古来からの真実でもあるし、独身貴族という言葉は伊達ではない。論旨がぼやけてきたのでひとまず筆を置くが、半端な専門家はいなくていいし、単純労働者の方が必要なのである。
とりあえず書いてみることで思考を整理するのは稚拙なやり方である。例えば詰将棋であれば、頭の中で考えるべきであり、実際に駒を動かして考えるのはおかしい。とはいえ実際の対局でなければ、駒を動かしてみて考えることだってあり得るだろう。つまり、駒を動かさないで先まで読んでいくのが理想なのであるが、とりあえず駒を動かしてみてから考えるしかないこともある。これは良し悪しであり、やはり駒を動かさないでもわかるほうがいいのは間違いないから、やや低次元のアプローチとして、とりあえず駒を動かすという思考法があるのである。詰将棋の話は喩えであるが、現実の人間の行動について駒を動かしてから考えるのはどうかというのが主題である。言うまでもなく、とりあえず行動してみるのは短絡的であるから、先まで手が読めているのが理想なのだが、それだと埒が明かないこともある。あるいは書くだけ書いてみて、ようやく思考が走るということもある。文字で書かなくても概念的に思索できている方が理想なのだが、書いてみてようやく整理できることもある。書くだけ書くというのはあまりいい方法ではないし、場当たり的な思考と言えるから、本来ならやりたくないのだが、それで得られることもある。場当たり的に行動するのと場当たり的に書いてみるのは、もちろん後者の方がダメージは少ないのだが、いわば愚直というか頭の悪いやり方なので、何でもかんでも書くのが習慣として身についているのはよろしくない。駒を動かしてみないと手筋がまったく見えないことがあるので、人生においてやむを得ず駒を動かす、つまり行動してから考えるのは時としてありだろうが、思いつきの行動を繰り返すのはよろしくないのである。
われわれのように五体満足な人間と違って乙武は手足がないからひとりで大便をするのも困難であろう。とはいえ、われわれがトイレや下水道やトイレットペーパーを作ったのかというと、あくまで社会として作ったのであり、たまたまそれらの生産に携わっているとしても、社会に数多とあるインフラのひとつを整備するのに関わっただけである。鉄道や飛行機や発電所やタワーマンションまでは作っていまい。さて、ともかくそれらは文明の手足であり、乙武の車椅子と何処が違うのかということである。たまたま駅があって鉄道が走っているわけではない。五体満足だと社会的インフラが身体に馴染むだけであり、乙武のような人、いや、乙武くらいになると無敵の特権階級かもしれないが、ごく普通に障害がある人だと、文明の利器を手足同然に用いるのが困難なのである。やや話は変わるが、わたしは最近タッチパネル対応のノートパソコンを購入した。ヒューレット・パッカードのSpectre x 360の安めのモデルである。画面の解像度は1920*1080である。ここまで述べてきたように、道具は手足である。ノートパソコンにタッチパネルの機能が付くと、やはり手足が増える。とはいえ、ノートパソコンにタッチパネルというのは、あまり使い所がない。もちろん微かな利点はある。ノートパソコンを持って外出するとして、マウスがないとすれば、タッチパネルはタッチパッドより明らかに操作しやすい。だが、マウスがある環境であれば、やはりマウスの方が素早いのでタッチパネル機能は使わない。kindleは未だに紙本をスキャンしただけの固定レイアウトのものがあり、画面が小さいと読みづらいし目が潰れるのだが、タッチパネル対応だと、数秒で縦画面にして見られるので眼精疲労もなく、固定レイアウトの電子書籍を読むならタッチパネル対応の方が優れていると言える。とはいえその用途ならiPadのでかいやつか、もしくは10インチのAndroidでも実用に耐える。そもそも外部ディスプレイというのがあり、4Kディスプレイでも27インチが五万円から十万円程度である。高解像度のノートパソコンがあまり存在しないのは、これが大きな理由であろう。タッチパネル対応の高解像度のノートパソコンは20万円くらいするので、たぶん10万円未満のノートパソコンと外付け液晶ディスプレイの組み合わせのほうがコスパがよいだけでなく、動画やゲームなら大画面の方が圧倒的であろう。道具は手足ということについては、とにかくマウスが侮れない。タッチパネル機能はマウスに勝てない。だがマウスは机に向かうことを前提にしており、机から離れた場所で使うにはスマホやタブレットの方が優っていた。さて、そのスマホと車椅子は何処が違うのかというと、人権問題という思想文脈はともあれ、文明という手足への全面的な依存という点において径庭はあるまい。われわれは手付かずの自然に生きているわけではない。誰もが文明という車椅子に乗っている。時としてスマホで電話しながら運転する阿呆が出てくるが、あれは乙武の車椅子と同じ傍若無人さであろう。車椅子にもマナーが必要であるし、障害者すべてが乙武のようなメンタリティの持ち主ではあるまいから、車椅子の側が譲るべき時だってあるし、思慮分別のある障害者もいるだろう。タッチパネルに触れるだけで操作できるバリアフリー感についても、やはり身体とシームレスであるから自由自在であるわけだが、その文明の根底についてたまには思索してみるべきである。
手順を深く読んでいくのと、状況を観察して素直に気づくのとでは違うが、ここで語るのは後者の方である。昔からよくある喩えで言うと、朝に夫が出勤するとして、その間際にあれこれ言う妻がいるわけである。あくまで例え話だから最近は共働きが多いとかそこまでは考えない。ともかく、これから満員電車で出勤する夫としては「後にしてくれ」ということがある。これは人生のあちこちで体験することで「余計なことを思いつかないでほしい」と苛立つことはあるだろう。逆に絶妙のタイミングで示唆してくれる人もあるし、それは気が利くということだろう。たとえば慌ただしい出勤直前でもズボンのチャックを閉め忘れていると妻に指摘されたら感謝するだろうし、あるいはネクタイを締め忘れていてネクタイを手渡してくれるなら感謝であろうが、ほんの少しネクタイが曲がっているといって甲斐甲斐しく身繕いの押しつけをするなら独善的なお節介である。おそらく発達障害者は思いつきがズレており、なおかつ思いつきをバネ仕掛けのようにして生きているから始末が悪い。専業主婦のような暇人だと定型発達者でもエネルギーが有り余って発達障害者と同レベルになることがある。定型発達者でさえ閑居すると不善をなすのである。内面世界という苗床で愚にもつかない雑念を繁茂させつつ閃いたことと、外面世界をよく見て気づいたことでは違う。ズボンのチャックを閉めるとかネクタイを締めるとか、とりあえず社会慣習に沿った正解はある。究極的な真理ではないし、仔細まで一字一句取り決めた書面が合綴された契約があるわけでもなく、むしろ十年もすれば世相の風景が似ても似つかないほど様変わりすることもあるが、とりあえずナマモノとしてわれわれは存在しており、一億年先のことまで顧慮してないから、受胎してから壊死するまでの短い生命において妥当な正解は用意されている。時たま才気のある発達障害者もいるのだろうし、絶妙の閃きをすることもあろうが、大半はただの自閉だから、本人の中で盛り上がっているだけである。普段は怠惰で放肆な生活をほしいままにしている人間が、発情したから射精しておきたいという短絡的な思いつきを押し付けるとしたら、視野の反りが合わない苛立ちが頂点に達し、正常人は発達障害者に対してエスニッククレンジングを行うのである。
負けず嫌いとか人格障害の文脈の話だが、反則負けを狙う業病になっている人がいる。負けるとしても反則負けなら格好がつくし、無効試合みたいなものである。だからたとえば有村悠さんのような頭の悪い人はいつも反則負けを狙っている。怪しい歴史知識を凶器のように振り回しては反則負けで意気揚々と退場していくわけだ。反則負けは勝ちに等しいということらしい。有村悠さんは東大文学部西洋史学科中退なのだが、東大を退学処分になっているわけで、さすがに歴史学において完全敗北だと思いきや、あくまで不登校による中退だからガチで負けたわけではないらしい。美人東大生に告白して面罵されて不登校という経緯からして、田舎のガリ勉が東大で詰んだということだろうが、決して東大文学部西洋史学科で勉強したわけではないので不戦敗なのだ。ガチで戦うと負けるのがわかってるから反則負けを繰り返している。たまたま有村悠さんというわかりやすい事例で話しているが、世の中にはこうなってしまった人が少なからずいるのである。対処する方法はないので敬遠するしかない。反則負けを狙う人間と争って勝ったとしても、反則勝ちとか不戦勝にしかならないので不毛である。それこそ東大を優秀な成績で卒業した人でさえ、有村悠さんに反則勝ちしたに過ぎない。不戦勝は本当の白星だろうかという疑義をうまく利用している。狡猾に戦わずして勝った卑劣漢もいれば、東大できちんと勉強して有村悠さんに不戦勝した人もいるわけで、不戦勝は多種多様である。有村悠さんが土俵に上がればエリート東大生に捻り潰されるだけなのだが、早々と不登校になっているから、まだ本気を出してないと言い続けてるし、反則負けのヒールとして偉そうにしているわけだ。勝敗は明らかというのは容易いが、東大卒だと他の人類全てに勝ったのかというとそうではあるまい。いちいち勝ち負けを決めるのが不毛だということになるのだが、有村悠さんはここをうまく利用しており、エリート東大生に反則負けしただけだと主張しているのである。もし東大文学部西洋史学科を卒業している人が有村悠さんの怪しい歴史知識を論破しようとしたとしても、有村悠さんはミスターサタンのように不戦敗か反則負けを狙ってくるだろうし、しばらくすれば不可解な勝利宣言をするわけである。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング