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黒柳徹子は発達障害者がうまく受け入れられた事例であるが、腹黒くないイノセントな人物という立ち位置を得たのであろう。発達障害者の生存戦略として「悪気がない」ひょうきん者という生き方があるが、黒柳徹子はそのパターンである。これは昭和時代であれば普通のことであり、変わり者がそれを治すよりは、目立ちたがり屋の人気者を目指したわけである。面白い人気者になろうとしてつまらないことを繰り返す失敗例も多々あろうが、バカが許される時代でもあったのである。また「悪気がない」ことへの肯定的な評価は神経症の時代という背景もあった。いろいろと魂胆があるような計算高い世渡り上手は好かれなかったのである。人間の魂胆というのは、あるといえばあるし、無いといえば無いものである。魂胆というのはたいてい実現しない。実行の初期段階で頓挫することを未遂と呼ぶなら、その未遂にすら至らないのが大半である。どれだけ邪悪なことを考えていたとしても、考えただけであれば現実世界に血痕を残していないはずだが、神経症的な価値判断としては、頭の中で悪事を企んだだけで汚らわしいとなる。今の世の中だと内面より現実の言動が重視される。そもそも自分自身でさえ、自らの魂胆についてどれだけ本気なのか判然としないのである。内面を神経症的に思想調査するよりは、言動をきちんとした方が適切なのである。コンプライアンス社会では、目立ちたがり屋への風当たりが強いし、天然キャラは好まれない。阿呆が勝手に事故死することさえ赦されない。スポンサーがうんたらで誰かが管理責任を問われるのだし、ロックスターという存在そのものが危殆に瀕している。悪気がないという理由で変人が愛されるというパターンはなくなったのである。黒柳徹子については、すでに社会的立場を築いているし、大金持ちだからこれ以上の金銭は必要ないであろうし、つまり金持ちは銀行強盗をしないというか、大企業の正社員と同じ意味で信用はあるが、もし黒柳徹子に社会的立場がないとすれば、いきなり変なことを思いつきそうで怖いし、素っ頓狂な奇声を出す危険なババアとして敬遠されることになろう。頭のネジが抜けている人間が、笑われる側から笑わせる側へクラスチェンジしようという試みは、以前なら愉しんで見てくれるギャラリーもいたが、もはや挙動不審者の芸を楽しむ時代ではない。今日の価値観に照らすとそもそも悪気がないというのは、狡猾ではないという程度の意であり、軽率の誹りは免れない。浮世離れしていて損得勘定がないような天然気質は、かつては善良さと見做されたが、社会全体のコンプライアンスの向上の中で、だんだん悪人のカテゴリーに入ってくるようになった。
トランスジェンダーはジェンダーフリーのような思想的怪物とは対極であろうと思われるから、保守系政治家もいわば難病として真面目に取り組んでいたのだが、このところゲイやバイも同じ船に乗ろうとしている。男女の意識がはっきりしているトランスジェンダーに対して、ゲイやレズやバイ、もしくはそれをサポートする人間は、ジェンダーフリーである。思想的動機でゲイやレズになるわけではないにしても、ノンケに男色趣味を教えるような危険性はあり、つまり吸血鬼のような問題というか、ノンケとセックスしたいという下心はあるだろうし、彼らはジェンダーフリーで乱交する末世を望む立場である。トランスジェンダーについて書かれたものでさえ、本人の性自認に基づく自己決定であればよいという危険思想が説かれていることがある。トランスジェンダーを砕氷船としてジェンダーフリーという地上の楽園を目指しているのだ。彼らは多様性を訴えるわりにはLGBTと一括りにするのは大好きらしい。LとGとBとTはそれぞれ違うはずだが、左翼には都合が悪いのである。最近はSOGI(Sexual Orientation & Gender Identity)という用語も使われるようだが、これはジェンダーフリーに偏ったものであり、性的指向と性自認は自由だというのである。すでに北欧などでは自己申告だけで性別を変更できるようになっており、性自認という主観を客観的に医師が診断するかどうかだが、性別など自己申告に過ぎないとなるなら極めて憂慮される。LGBTの自殺率が高いという件についてだが、ネットで希死念慮を吐き出している異性愛者はたいていがクズであるし、LGBTはそれとどう違うのか、ということである。LGBTがネットで暴れているかというとそうではないし、希死念慮を持つのと、それをナイアガラ瀑布のように垂れ流すのは別なのであろう。希死念慮の垂れ流しは加藤智大や岩崎友宏や有村悠さんの特技である。あの一橋法科大学院のゲイなどは煩悩を垂れ流して生きているクズに思えるし、こういう自殺志願者にまともに取り合うとなると、悩んでいるから正義という人格障害者を召喚することにしかならない。LGBT団体が希死念慮を楯にしているのは、文部科学省が主戦場であり、児童生徒の自殺で学校長の責任が問われるようなケースを想定しているのだろうが、成人ともなれば一橋のゲイのように失笑されておしまいである。それに学校現場での自殺は、教室が密室であることが問題であろうし、密室ではどんなことでも起こりうる。教室が治外法権であることが根本的な課題であり、教師への啓発にしても、教師が馬鹿にしている生徒はいじめられやすいし、教師そのものが病根である。塾や予備校だといじめが格段に少ないのは明らかなので、感化院の刑務官たる学校教師の立ち位置を見直さなければならない。ともかく希死念慮と、それをアピールするのとでは違うし、自殺志願者のような言動まで行くと人格障害なので、あまりこれを錦の御旗にしない方がいいと思われる。希死念慮をLGBTの専売特許として都合よく使えるつもりなら甘いだろう。だいたい一橋のゲイにしても告白してから暴露されるまでの二ヶ月間に、ノンケへの求愛を続けていたと想像されるのに、ここはかなり作為的に筆が省かれている。いかにも人格障害者らしい虚言的な世界観である。では人格障害とはなんぞやといえば、自己愛やエゴイズムが膨れ上がった人間であり、ストーカー予備軍とも言える。人格障害とは人格が破綻した結果を記述している説明概念でしかないから、これを解き明かすのはまた別の問題である。たとえば有村悠さんは発達障害で視野と注意力が欠損しているから、外面世界との接触が悪く、膨れ上がった自己愛が人格障害という破綻に繋がった。ともかくトランスジェンダーは病院で医者が診断するべきであり、御本人が単独で自己決定するのはおかしいし、ここにLとGとBが便乗してくるとなれば、病院に共産党の細胞が紛れ込んで院内感染、もしくは学生運動家が大学自治会を占拠した感じというか、浅間山荘事件のような印象である。トランスジェンダーに医学的なサポートがなされることに反対する人はほとんどいないであろうし、あくまでLGBTという思想犯が危惧されているのである。
2018.08.01

費用と負債

勘定科目は資産、負債、純資産、収益、費用に分かれるわけである。どれに当てはまるのかは自ら判断する必要はなく、あらかじめ決まっている。むしろ自己流でやってはいけないのである。だから経理が出来るが理解していないという病状が発生しうる。専門家でもないわたしがこんなエントリーを書くのは荒唐無稽なのだが、専門家は有職故実に通じた官僚のように体制に馴染みすぎているというか、自明性がとても強いはずなので、あえてわれわれ門外漢が極左冒険主義者のように根底から問い直さなければならない。たとえば負債は差し引き残高を求めるが、費用は累計額である。仕入は費用だが、買掛金は負債である。やはり仕入は総額が重要であり、買掛金なら(増えたり減ったりして)その残高が重要である。仕入はほとんど左側に書かれて積み上がる。買掛金であれば、増加すれば右側に記され、減少すれば左側に記され、その差し引き残高が重要である。仕入の他に費用の典型と言えば給料、水道光熱費などになるが、これは支払った総額が問題となる。負債の典型は借入金だが、借りたり返したりを繰り返し、その残高こそが重要なのであろう。あるいは、仕入については、仕入高と売上高を対比させて利益を計算できるが、売掛金と買掛金は相殺できないという問題もある。売掛金(資産)と買掛金(負債)が貸借対照表で左右に分かれるのは、資産と負債は相殺できないので、そのまま表示するしかないからであろう。大雑把に言えば、商売の黒字赤字を損益計算書に記して、債権債務を貸借対照表に記しているのだが、これを一緒に集計して、別々の紙に記載するからわかりづらい。もちろん無関係のものをごちゃまぜにしているのではなく、財布の中身とビジネス的な取引は別々だが連動している。黒字赤字が一年単位であるのに対して、債権債務は通算の話であるし、その違いもあろう。実際は営業外収益/営業外費用や特別利益/特別損失も損益計算書に書かれるので、損益計算書は商売の黒字赤字という理解は正確ではないが、ともかく黒字赤字と債権債務は違う。黒字赤字と債権債務は深い関係にあるが、いろいろとズレがあるので、それを整理しているわけだ。通俗的に資産というと現金化できる手持ちの財産のことを言うのだが、貸借対照表の資産というのはかなりの部分が債権であるし、即座に現金化できないだけでなく、回収できるという確実性もないわけである。
周囲をよく見なければならないが、ジロジロと眺めるのはよくないし、目が泳いでもよくない。むしろ視線を落とすのが気品ある立ち振る舞いである。辞書的な定義はともかく、わたしなりに分類するなら、目を伏せるのは自分の世界に入る自閉性であり、視線を落とすのは敢えて目線を外部に這わせない慎み深さである。視線を落とすと人間は落ち着くようになっているし、意外と周りも見えている。視線の品位は生得的なものであるから後天的に身につけるのは容易くないが、不可能というわけでもない。目を伏せて自分の世界に入っている自閉的人間と、慎みとして視線を落としている社会的人間では、端から見ていて明らかに違うので区別は付く。これは自閉世界への愛着の問題でもあるし、空想癖が治らないのと同じく心理的な抵抗はあると思われるから、御本人が治療を望んでいないという難題に逢着するが、治したくないのは致し方あるまい。視線というリソースをどうやって割り当てるかの話であり、大部分を自閉世界に割り当てて社会的メクラになっても、その泥濘に溺れる快楽もあろう。自閉を特技として活かしている人は少ないので、治したほうが無難ではあるが、御本人の内面の桃源郷を破壊するのも何である。というか、こうやって書いているわたしもコンビニのレジに並びながら視線を落とす練習をしていたら、遠くのレジから呼ばれているのに気づかないというマヌケなことがあった。視線を落としても、それなりに周辺視野は作動しているのでたいていは問題ないが、このケースで言えば、遠くのレジから呼ばれる可能性は充分にあるのだし、むしろ全体を注意深く見渡すべきであった。
被害者や敗北者にこそ権利ありという観点からすると、何かしら被害を受けたらその時点から債権者なのである。たくさん被害を受けると億万長者とさえ言えるのだが、もちろんそんなことはなく踏み倒されて終わりである。だから通常であれば当たり屋になる競争にはならないのだが、時たま被害者として名乗りを上げる争いの戦端が開かれることもある。杉田水脈のLGBTの話はくだらないだろうからそもそも読んでないわけだが、これを扱った新聞記事で「ナチスと同じ」と書いてあったりすると辟易する。「ナチスと同じ」というのは慣用句というか、白髪三千丈のようなレトリックとして理解するべきかもしれないが、どれだけ差別されたかを競い合う弱者の論理なのである。非モテで結婚できないのは「ナチスと同じ」なのかというと違うであろうし、結婚できる人の結婚を妨害するとナチス的だとされる。LGBTカップルは人権問題となるが、結婚できない非モテは人権問題ではない。相手がいるならヒューマンライツとして語られるが、相手がいないならこの世の中から唾棄されて終わりなのである。つまるところ自由恋愛主義の一元論である。自由恋愛主義は自然淘汰を重んじるものであろうし、杉田水脈の意見は(読んでないが)自然淘汰の話のようにも見えるから、優生思想と自然淘汰という対立軸ではなく、むしろ両者に通底する冷たさである。障害者を殺すのがナチス的だとすれば、障害者を限りなく厚遇するのが人権主義であろうし、何かしら話が噛み合わないのは強者の論理たる自由恋愛主義が人権思想と一致しないからであろう。自由恋愛主義という理由だと税金を使えないから、LGBTはこれを人権問題に擦り替えているのである。非モテに税金を投じずにLGBTに税金を投じるのは自由恋愛主義でしかないが、自由恋愛主義は人権であると奴らが強弁するなら、なにかしら優生思想と自然淘汰で非モテを挟み撃ちにしてくるというか、要するに人権問題にしないと税金に食いつけないから議論が混乱しているのだろう。
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