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人体=宇宙というイミフな意見を言う人がいるが、三次元空間の性質からして、そういうレトリックも可能になのであろう。

われわれは三次元空間を認識したつもりになっているが、実際の映像は二次元、もしくは二次元ですらない。
われわれの視空間認知機能が、この世界を三次元空間だと想定して、頭の中で立体的に再構成しているだけである。
つまり、人体が三次元空間を仮想的に体験しているだけなのである。
人体、もしくは地球上の生命体が見当識を持つからこそ、その肉体を物差しとして空間が生成されるのである。

宇宙の片隅にいる塵芥であるわれわれを広大な宇宙になぞらえるのは奇妙だが、人体がどうこうというより、どのようなものも、同時に二箇所に存在することは出来ない。

たとえば東京と大阪に同時に存在することは出来ない。
東京と大阪にまたがるような巨人を思い浮かべることは出来るが、人間の神経の速さは秒速100メートルくらいだし、それだと巨人の中で情報が伝わるのが遅すぎて、とても東京と大阪が同時には思えまい。
では、巨人の神経が光速(秒速30万キロメートル)であれば、東京-大阪の500キロなら、600分の1秒で伝わるから、人体より素早いし、これならいいかもしれない。
とはいえ、距離の差を問題にしない巨人という仮想だと、結局は宇宙と同じサイズの超巨人まで考えるしかないし、こうなってくると、超巨人の身体の端から端まで神経が伝わるのに、光速で何十億年も掛かることもあるわけだ。

頭の先から足の先まで幅があるのに、われわれの意識は身体に遍く行き渡っており、頭と足という空間的に別の場所をほとんど同時に統一的にとらえているのである。
本当は同時ではなくても、脳で補正された意識は同時である。
触覚や重さの感覚も含めて、そういう身体感覚だけが三次元空間の根拠なので、それを宇宙と呼んでみるのも可能だというだけのことである。
ニーチェが言うには、というより、ニーチェが言わなくても誰かが言うであろうことだが、人間は計算可能な存在でなければならず、そのために、刑罰で記憶を刻みつける必要がある。
刑罰(苦痛)の記憶がわれわれを存在させている。
そして他人を罰するのは快楽であり、自ら鞭を振り回さずとも、官憲が他人を罰するのを眺めるだけで快楽が得られる。
刑罰がなぜ罪を贖うことになるのかと言えば、罰するのが快楽だからである、とニーチェは言う。
残酷さは悦びなのである。
他人が鞭打たれて苦悶するのは楽しい。
だから刑罰の記憶は、刑罰を見る側の楽しさの記憶でもある。
稀代の悪党を刎ねて梟首台に載せるような事例だけでなく、無辜の女性を異端審問で火炙りにするのも楽しい。
ヨーロッパ人が死刑を批判するのは、過去に楽しみすぎたので疚しいのであろうと思われる。

敷衍して言うなら、このような具合での刑罰という娯楽の肯定、火炙りなどの不穏なものでなくとも、ごく普通に刑務所があるからには、われわれは囚人なのである。
われわれは誰かが逮捕されると「他人事」として快哉を上げて、その三面記事のドラマを娯楽として楽しむから、管理されている自覚がない。
なぜたいていの人が刑務所と無縁なのか考えてもらいたい。
誰かが生け贄になる事例を備忘録に書き留めながら、投獄されないように計算しているからである。
自らの意志を実行に移した際に、あの畏怖をもって聳え立つ刑務所の檻に繋がれるかどうかは計算できる。
われわれは刑務所に入らないための計算問題に支配されている。
市民社会という開放病練は檻の中よりは自由だが、踏み外せば鉄格子に囲まれる。
檻の中も外側も同一の教条で貫かれ、あちこちに同じ聖典を携えた教誨師がいる。
あれこれと制約がある息苦しさを、いわば言葉の発明により、美しい詩文で書き綴り、心境の変化として反映させて、人間的な煩悶を高潔な禁欲主義に昇華することはできる。
そのような美化を虚無への意志とか生の否定とニーチェなら言うのかもしれないが、いずれにせよ人間は不自由であり、その不自由への解釈の問題なのである。
有限と無限という対概念で考えるのが人間の癖のようなものだが、実際はこの世には有限しかないはずである。
すべては有限である。
それでも宇宙の涯ての向こうがどうなっているかという疑問が生じてくるし、無限の時間とか、そういう概念も考えたりする。
無限というのは、有限性では答えられない謎について、曖昧な名付けをしたものである。
世界のだいたいのことは三次元空間という有限性で説明できる。
この世界に無限など無いし、三次元空間の有限性がこの世界の本質であり、この有限性において人間は生きているから、有限性で用が足りているのだが、宇宙の涯てまで考えるとあれこれ綻びが生じるので、その疑問について無限という名前を付けているだけである。
三次元空間とは、つまり、空間と時間の長さが計測できる世界であるが、この計測可能性を取り払って、無限という言葉を使いたがることがあるらしい。
三次元空間が絶対に正しいとは限らないし、すべては現在であり過去は記憶にしか無いのは明白であるし、またこの空間もゲーム画面の中の世界と同じく位置情報にすぎないと考えることも可能だが、これは思考のほつれのようなものであり、無限という概念はかなり大雑把である。
到底、有限と無限が対等に並び立つことはないのであるし、有限でなければ無限という単純な話ではない。
2017.06.08

大人と親

かつて親は「大人の言うことを聞きなさい」と子どもに言っていた。
つまり、大人というのは、親から委任された存在であり、大人に逆らうなら、親の命令に逆らうのと同じだったのである。
最近では、そこらのおっさんを不審人物だと見做すことになっているが、これは親がそういう判断をしているからであろう。
ごく普通に近所の顔見知りが減ったという事情もあるが、「大人は怪しい」と子どもに教えているのだ。
これは適切であるだろうが、ともかく、誰の言うことを聞くか聞かないかは親が決めている。

かつて医者はすごい偉い存在であり威張り散らしていた。
これも親が「医者にだけは逆らってはいけない」と教えていたからである。
そういう教えがなくなったから、医者に不満があれば逆らう患者がたくさん出てきた。

学校教師も同じ話であり、昔の親は「先生の言うことを聞きなさい」と子どもに言っていたはずである。
最近は言わなくなったから、それに見合った関係になっている。

核家族化された社会であるし、もう親は「大人の言うことを聞け」と子どもには言わない。
ケースバイケースであろうし、これは家庭の価値観の問題だが、全体的に「大人の言うことを聞け」と言うことが減少している。

良し悪しについて、長々と述べるのは無益であろう。
だいたいの大人は親から委任されなくなったということなのである。
「医者に逆らってはいけない」と親から言われてない患者だらけになったのであり、これは時代の変化に伴い、上の世代まで浸透していると言える。

われわれが親から教育されているというのは、一種の誤解なのである。
実際は親から「教師の言うことを聞け」と言われて教師に隷従するとか、そういうことなのである。
親が「うちの子は悪くない」と居直るのはDQNの特徴だが、親がどれだけ他人に委任するかどうかで子どものパーソナリティーも決まる。
親が「うちの子が悪い」と卑屈に頭を下げるのも困った話だし、DQNのたくましさを考えると、このあたりはバランス感覚である。
2017.06.06

快楽と暴力

かつて有村悠さんが「俺には怒りの感情しかない」と言ったことがあるが、これはADHDにありがちな罠である。
テンションが上がるまで怠けているのがADHDだが、こういう怠け者が立ち上がる撥条になりやすいのが怒りという感情である。
怒りは快楽と真逆ではあるが、瞬間的に沸き立つ衝動性は通底している。

ADHDはリソースの配分が苦手であり、喩えるならマラソンで全力疾走するようなものである。
全力しか出せないから、すぐに力尽きてリタイアする。
定型発達者にはリミッターが装備されていて、適度に力を抜きながら長距離を走れるが、ADHDにはそれがない。
このような短距離走者としての気質があると、スイッチが切れている時間が長くなるし、スイッチが入るとなれば、どうしても快楽と暴力である。
それ以外のことは気長にやらないといけないから向いてないのだ。

ADHDがいろんなことを先延ばしにするのは、全力を出せなければ何もしないという判断なのであろう。
テンションが上がるまで待っているのである。
定型発達者はやる気(高揚感)がなくても活動できる。
そもそも普通の人は全力を出してないし、いろいろと加減しながら生きているから、高揚感が最高度に到達するまで怠けて過ごすことはない。

有村悠さんのケースで言えば、締切直前に過集中で艦これ同人誌を仕上げることで、これまで累計2万部を売っているようだから、たまたま気分の高まりが金銭的な成果(快楽)に結びついており、以前のような凶暴性は見られなくなっているが、相変わらずトラブルメーカーではあるようなので、この小康状態がいつまで続くかはわからない。
こういうドストエフスキー的な人物が小さな成功を収めつつあるのは、何らかのフラグのような気がしてならない。
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