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どうも最近ブログが書きづらくて仕方がない。
どういう読まれ方をされるかの問題です。
いろいろトラウマがあるので、そこで不満が生じてしまった。

kaianiさんという人の間でちょっとしたことがあって、それは本当に小さなことだったんだけど、これまでの10年くらいのトラウマがよみがえってきて、かなり書きづらくなってしまった。
御本人からは「野次馬根性を出していろいろすみません」という謝罪をいただいたけれど、僕のトラウマの蓄積量が多すぎるんで、小さなトリガーでも駄目なんですよ。

たとえば、僕がラスベガスで豪遊してきたという話を書いたら、それをネタとして理解してくれるのだろうか、という不安があるわけです。
これはネタですよ、と注釈をつけなければならないのだろうか、という懸念が生じるわけです。
うかうかしてると「ukdataはラスベガスで豪遊と嘘を吐いた人物」と扱われかねない。

このブログでは出来るだけ真実を書いていくつもりですが、ネタの部分はネタとして理解してください。
俺がラスベガスで豪遊してきたと書いてたら、その部分はネタだとわかるでしょ?
そこに注釈つけたらつまんないよね。
それにしても道重さゆみは最高だった。
この部分は本当です。
http://togetter.com/li/263447
トゥギャったんです。

以前から要望の多かったブロック機能に対応しました~。

トゥギャッター内でブロックすれば、
ブロックされたひとはあなたのつぶやきをまとめられなくなります。


あんまり反応はよくないです。

togeblockhannou.jpg


これは僕としてはあんまり感心出来ない機能です。
確かに過度な粘着の問題はあるでしょう。
とはいえ、敵対している人間(ブロックされている相手)のツイートをまとめられないというのは、いかにも日本的な和の精神ですね。
敵対する相手と論争すると泥仕合にしかならないから、最初から回避。

まあtogetterも最近はアドセンス貼ってるし、かなり儲かってるはず。
もはや彼らはチャレンジャーではない。
理念無きビジネスですね。
現状ステマは違法ではない。
だから、企業が大手ブロガーと交流持っても全然違法ではないです。
とはいえ、いずれ違法にはなります。
法律は遡及しないから、将来の法律で現在の行いを取り締まれるわけではないが、とはいえステマの違法化は確実だと思うので、ブロガーと企業の関係を批判するわれわれに正義はあるはず。

今回のはたいしたネタじゃないし、AMNの社長が自分のブログで公表してるんだけど。

セルジオ越後さんとソニーさんのツイートミーティングなる企画でソーシャルビューイングに参加することになりました。 #bravia_football @tokuriki
セルジオさんとソニーさんは去年から「ハッシュタグプロジェクト」という名称で、サッカーの日本代表戦をツイッターをしながら観戦するといういわゆるソーシャルビューイングにチャレンジされつづけているのですが、今回はツイートミーティングというタイトルで明日24日のアイスランド戦から、来週29日のワールドカップ予選のウズベキスタン戦まで、ツイッター上でサポーターの方々とコミュニケーションを取られる企画をされるんだそうです。
で、そんな企画に私がなぜかこんな形で呼んで頂けることになりました。

AMNと言えば、超大手ブロガーの総元締め的な存在ですからね。
企業はこことは仲良くしておきたいでしょうね。

何にせよ、現行法ではなんら問題ありませんが、いずれ企業と大手ブロガーの関係が法的な問題として扱われる日も来る。
そこまで粘る体力が僕らにあればいいんだけど。
このブログではネットで起こった事件とか取り上げるわけです。
で、まあ逮捕される人もいたりする。
グングニルコバヤシさんみたいな人です。

何年か経つと、そういう人の代理人とかから削除しろというメールが来たりするんだよね。
前科がプライバシーであるのはその通りですが、公益性もあると思います。
しかし僕としても、そういうので争うのが面倒なので削除してしまうけどね。。。

たとえば最近だとこんな依頼が来てましたね。
とあるネット犯罪なんだけど。
まあ面倒なので削除で対応しました。


>下記に指定したURLには個人名等が記載されており、名誉毀損ならびにプライバシー侵害に抵触すると考えられます。
>既に事件から時間が経過していること、当人の刑期が満了していること、
>そして過去の判例からも削除することが適切であると考えられます。

><最高裁昭和56年4月14日判決>
>ある者が刑事事件の被疑者とされ、被告人として有罪判決を受け、服役したという
>事実は、その者の名誉あるいは信用に直接かかわる事項であるから、その者は、
>みだりにその前科等にかかわる事実を公表されないことにつき、法的保護に値する
>利益を有するものというべきである

>ご対応の程、宜しくお願い申し上げます。
>早急の対応を期待しております。
最近僕に「ファンです」とか言ってくる人がいるんですが、全然嬉しくないんです。
過去の経験からして、結構な割合でアンチに変わるからです。
好き嫌いの感情が激しいというか、ファンになる人は同時にアンチにもなりやすいです。
野次馬根性の強い人だと、ファンでありつつも、アンチと同じ目線でwatchしたりするからね。。。

ネットでの評価は引っ込めることが出来ます。
紙媒体ならこれは違うんですよ。
僕が漫画家だとして、途中まで売れていたとする。
そしてつまらなくなって、「あいつつまんねーよ。もう買わない」と多くの人から言われるとする。
その場合でも、売れていた間の売り上げとか印税はそのままです。
「金返せ」と言われても、本当に持って行かれることはないわけです。
ネットでの評価は、これと違うんで、引っ込められてしまうんですよ。
一度貰った評価を奪い去られてしまう。

もちろん、ファンになったら永遠の忠誠を誓うべきなんてことはないし、むしろ評価が変わるのが自然な心理でしょう。
だから評価変えるのもいいんだけど、評価されていた間のことが0になってしまうからね。
実際、AMNに入っているような超大手ブロガーって、やたらとアクセスがあるわりには熱狂的な「ファン」がいないです。
ファンになる人がいなければアンチに変身する人もいない。
ファンがいるのは不安材料でしかないという悲しい事実。
世界が終わりそうにないのが2012年の世界だと思うんです。
日本は一年くらい前にとても大きな地震に見舞われて原発事故まで体験しました。
でも、「終わり」の感覚からはほど遠い。
様々な問題はありながらも、今の時間性と地続きで世界が続いていくという風景が見える。
これだと東京に関東大震災級の地震が来ても、「終わり」は見えない気がする。
終末とはほど遠い世界で、よくも悪くも終わらない日々が続くんです。

三島由紀夫は「金閣寺」において終末思想を描きました。
主人公は戦争中は(破滅が目前という理由から)金閣を愛するが、戦争が終わって(永遠に続きそうな)金閣を憎むんです。
だから主人公自ら火を付けるというロジックが展開されます。
五島なんとかがノストラダムスのブームを流行らせたのは1970年代以降なので、当然ながら三島由紀夫の金閣寺(1956年)はそのあたりの影響は受けてません。
終末思想は普遍的であって、年代的に言えば、第二次世界大戦から影響を受けて書かれた作品です。
世界大戦の隠喩というより、物語そのものが世界大戦との向き合い方の問題です。

ノストラダムスから派生している終末思想は、どちらかというと、破滅によって真理とか真実が明かされるという発想が多い気がします。
恐怖の大魔王が嘘だらけの世界を破壊してくれるという救世主願望ですね。
「金閣寺」はそういう発想が薄くて、僕らを縛っている現実っていうものを破壊したいという発想であり、ごく普通の破壊願望です。
破壊の先に何もないのが、「金閣寺」の世界観です。

「新世紀エヴァンゲリオン」という傑作が20世紀末に生まれたのは、ノストラダムスを多少は意識していると思われます。
1999年を目の前にしていた時代だからこそ、エヴァは作られたんですよ。
終末を手前にした、人類の総決算なんです。
2012年という、終わりそうにない世界だと、新創世記は綴れない。
この曖昧な時代に、何を総決算するんだよ。

大思想とか大文学とか、エヴァ級のアニメとか、ああいうのは、総決算が必要な時代性が生み出すのです。
ハイデガーがいう「死に向かった存在」と似た話というか、終末に向かっているという感覚から世界を捉えていくと、大思想が生まれる。
1999年を乗り越えてしまってから、僕らに与えられた文化は決して豊かとは言えない。
世紀末を生き延びてしまったんで、「死」に直面しているという感覚はないし、それに応じたものしか生まれないんだよ。
残念なことに、はちま騒動は収束気味。

なんども書いてるんだけど、嫌儲板の人って、広告がすごい嫌いなんですよ。
だから全然知識がないんで、すごい初歩的なことを新発見みたいに言ってたりする。
車輪の最発明はしなくていいんですよ。
うちのブログが三年前に書いてたようなことで今さら騒いでいたり。

僕もスレに書き込もうかと思いつつも、スパイとか言われると面倒なのでやってない。
どうすりゃいいんだろうね。
DECCIはたぶん雑魚だから、無視するべきだと思ってたんだけど、それ書き込んでも「DECCIさん乙」と言われておしまいだしな。。。
はちまの父親がやってるKNDが本丸なんだけど、DECCIの方が情報が多いんで、雑魚に話が逸れてしまった。
無関係のところを掘り続ける坑夫に得られるものはないですよ。

もちろん視野が狭い人の方が業績を上げることはあるわけです。
歴史上の天才って視野狭窄の人が多い。
嫌儲板の人たちの視野の狭さが、場合よっては大きな獲物を得る可能性だってある。
僕が調べるだけ無駄だと言い続けてるDECCIに関しても、実は巨悪だったりするかもしれんし。
とはいえ、現状、ちょっと詰んでる状態で、既知の話題で騒いでいる程度。

はちまとしては本名とか晒されたのがダメージだったというだけ。
これにしても数年前の時点で年収2500万円あるなら、全然ダメージじゃないでしょ。
今なら年収1億円あっても不思議じゃないし。
僕がかつてzenhiteiと名乗っていた頃、集まってくる人のほとんどはzenhiteiの書いた文章ではなく、zenhiteiという人物に関心のある人でした。
普通に読むだけの人と、直接コンタクトを取りたがる人の違いという意味です。
コンタクト取りたがる人は、ろくに記事も読まずに、騒ぎたいだけだったんです。

個人サイト最大手の「2ちゃんねる研究」を閉鎖せざるを得なくなったのは、(僕が書く文章を読まないのに)zenhiteiに関心のある人からの雑音が凄すぎて耐えきれなくなったからです。
あの当時はアフィなかったからね。
厳密に言うとアマゾンアソシエイトが始まった頃で一部の人は貼っていたが、貼ってない人が大半でした。
僕としても、金銭にはそれほど興味が無かったので貼ってませんでした。

結局、あの当時閉鎖に追い込まれた根幹問題は、(zenhiteiの書いた文章に関心がなく)zenhiteiという人物に関心のある野次馬を粛清しきれなかったからでした。
10年前だと、アフィ無いから自己顕示欲しかないんだよね。
だから他人からの評価は無視できなかった。
実は僕は途中で、野次馬連中の粛清を行ったんだけど、心の甘さから許してしまいました。
切った連中を再度受け入れたんです。
これは人生最大の悔恨のひとつ。
あそこで許さなければよかった。
結局遺恨は残った。
そして野次馬タイプの人はどこまでも野次馬だし、ファンと言いつつもアンチと変わらずはしゃぎ回るんです。

もはや10年前とは違うし、今さら「中の人」に関心を持つ人などほとんどいない。
とはいえ、まだまだ時々いるんです。
ukdataの書くエントリーはろくに読んでないのにukdataに関心があるという人がいるんですよ。
10年前の反省からして、僕はこういうのを許さないです。
10年前粛清を徹底していれば、サバイブ出来たからね。
ukdataという零細ブロガーに価値はないんで、ここが閉鎖に追い込まれてもダメージはないんだけど、一応はサバイブしたいんですよ。
だから僕の生存戦略として、ファンと名乗る野次馬は断固拒否という姿勢は貫いていきます。
10年前にやるべきことだったから、今さら手遅れではあるんだけどね。
人は成功した人の話しか聞かない。
失敗した話の方がためになるんだけど、笑い者にしたいという連中が頑張ってしまう。
成功した話は、実はためにならないんだけど、有り難がって崇拝する人間がいる。
声優になりたいという高校生がいた場合、成功した声優の話よりは、声優になれなかった人の話を聞かせた方がためになるだろ?

まあいいや。
本題に入ります。

僕は2007年あたりから、ブログ論壇的なものが衰退しているのは感じてました。
そしてライフハック(ハウツー)的なサイトに人気が出ているのも感じていた。
そのあたりの流れは、誰が見ても明らかだったよね。

直接的な原因として、たとえば「はてな匿名ダイアリー」の人気が出すぎて、個人のダイアリーにアクセスが流れないという構造的問題がありました。
はてな運営は、個人のダイアリーにアクセスを流す工夫をするべきでした。
2ちゃんに書けば千人くらいに読んで貰えるわけですが、はてな匿名ダイアリーの人気もそれと同じです。
書けば誰でも千人に読んで貰えるという世界。
書き手の力量が問われない悪平等です。
はてな運営は、はてな匿名ダイアリーが2ちゃんねる化しているのを止めなかったので、会社の方も衰退して欲しいものです。

そのような状況の中で、僕は、ライフハックは一時的な流行だという希望的観測をしてました。
しばらくすればブームは収まると考えてました。
しかし実際はライフハック全盛が続いてます。
ネット論壇的なものが不要とされる状態は今後も続くでしょう。
みなさんが必要としているのは「一個人の意見」ではなく「みんなの意見」なのだから、個人として論陣を張る類の人に対する興味は薄れている。
この部分は、僕もネット歴が長いのでかなり変化は感じます。
昔はオピニオンリーダー的な存在が尊重されていたのに、今だと、覇権?ですか、そういう勝ち組の意見だけを気にしてる人が多いように思えます。

ライフハック(ハウツー)的なものが流行っていることに気付きながら、それに力を入れなかったのは僕のミス。
もちろんタイミングが合えばいいというものではないけどね。
ライフハックな趣向でやっていてアクセスが少ないブログなんて山ほどあるから。
何にせよ、流行り廃りには敏感であるべきで、そしてその流行の持続時間の予想もシビアに行うべきでしょう。
僕は、論壇系のブログがどこかで盛り返すのではないかと頭の片隅で期待していて、予想を外してしまいました。
そして現在に至る。
この話題は本来なら僕が一番大好きなアニメである「コードギアス」のルルーシュと枢木スザクの関係性として語りたいのですが、世間の人はコードギアスなど知らないでしょう。ルルーシュとスザクを対立させて物語を展開させていく巧さを解説しても元の作品が知られてないのでは意味がない。なので、三島由紀夫の「金閣寺」を題材に語ることにします。金閣寺ならコードギアスの10000倍は有名です。なので、登場人物に思想を仮託して対立させるという手法を、金閣寺を通して語りたい。

主人公溝口は大学生活で孤立しつつ、不具者の柏木という青年に声を掛けます。主人公と柏木の関係について話すと極めて長くなるので、かなり割愛します。
柏木が出てくる必然性は明白であり、金閣寺に放火するかどうか、という葛藤を演じる相手です。主人公一人で自分語りして自己解決するやり方だってあり得なくはない。とはいえ、「もう一つの考え」を別の人物に体現させた方が物語は進めやすい。実際、柏木との対話で物語を進行させている部分は緊迫感がある。柏木を使わずに主人公の自分語りで進行させているパートはだるいんです。

さて、では主人公は金閣寺を巡り、柏木とどのように対立するのでしょうか。三島由紀夫はこのテーマに南泉斬猫という公案を用います。ここで南泉斬猫について説明する必要はないと思います。そもそも難解な公案であり、僕にもわかりません。使われる部分は簡単で、とても美しい猫が出てくるんです。金閣寺のヒロインである有為子ちゃんみたいな存在と思って貰えればいいでしょう。ともかくこの極めて美しい猫への対応。その猫を切り捨てた高僧と、それを知って靴を頭の上に載せた高僧。
柏木は靴を頭の上に載せる立場を最終的には取ります。要は美しさに対しては耐えるしかないんです。どんなに猫が可愛くても、有為子ちゃんが可愛くても、その美しさの痛みには耐えるしかない。頭の上に靴を載せるような、そういう心境で耐えるしかないのだ、と柏木は説くのです。
柏木は主人公と対立する立場ですから、当然主人公は猫を殺すという発想を持ちます。要は二択を用意して、二人の登場人物に体現させているわけです。どっちが正しいというわけでもないと思うんです。「金閣寺」だって、燃やさないラストはあり得ると思いますよ。実在の事件を題材にしてるから燃やさないわけにはいかないけど、フィクションの可能性としては二通りのエンディングがあり得た。ちなみに三島由紀夫があのような悲劇的で滑稽な死に方をしたのは、自身の最高傑作の結末に引き摺られてしまったという印象があります。

解決の可能性として第三の道もあり得るでしょう。しかし、二択で絞ってしまう視野狭窄こそが金閣寺の面白さなんです。ここで無難な解決方法を出したら話が成立しない。普通の人なら、適当に妥協して誤魔化しながら生きていくところを、先鋭的な二択にするから世界文学として成立するんです。ちなみに普通の人なら、猫とか有為子ちゃんの美しさの絶対性を否定するところから折り合いを付けるだろうなあ。「猫を殺しても猫の美しさは死なない」と柏木は解説するんだけど、これも思考の罠であって、他に綺麗な猫とか綺麗な女の子はいるでしょ。そういうもんだよ。とはいえ、有為子ちゃんに徹底してこだわって生きるのが物語的には面白いのです。この後の三島由紀夫が天皇制という絶対に代わりのきかない存在に傾倒するのも、こういう発想の延長です。
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