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有村悠さんのアフィを踏んでから以下の書籍を購入しました。

会社法 第2版 (LEGAL QUEST) - 伊藤 靖史
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民法基本判例集 - 遠藤 浩
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民法3 親族法・相続法 第三版 - 我妻 榮
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有村さんは15年間ゴロゴロしてきた。来年から16年目のゴロゴロに入るが、本人は意に介してないようである。「年齢は中年だけど中身は20歳のままなんだよ」というのが自己認識らしく、34歳でも若さを失ってないと思っているらしい。もちろんこれは誤謬である。有村さんは若さを失ったし、たとえ150歳まで長生きしても、老人の期間が長くなるだけである。

ゴロゴロするというのは、たぶん今日の社会問題なのだ。昔から怠け者はいただろうが、ゴロゴロ文化がここまで広がったことはないだろう。ゴロゴロ病は、不良ではない善良な若者の間で蔓延したのである。有村さんもワルではないという意味では善良なタイプだが、いかにも人間のクズである。繁華街に繰り出し、悪友と連んで喧嘩、女、博打に明け暮れるようなことはしないが、それだけにタチが悪い。留置場のお世話になることはないし、部屋でゴロゴロしたという罪で警察に捕まることはないが、こういう怠惰が人間を蝕むのは確かである。34歳になっても「まだまだ若い」と錯覚出来るのは、脳の衰えが深刻な証拠だ。

福本伸行が支持されたのは純粋な作品の面白さもあるが、ゴロゴロ人間の問題を扱ったからだ。福本作品の登場人物はワルというわけではない。むしろ善良なのだが、箍が外れたような怠け者である。怠惰でゴロゴロしているのは、犯罪者とは違うのだが、とにかくクズなのである。

今日の日本では徴兵制度がないので、真面目系クズの根性を叩き直す仕組みがない。ヤンキーだって20歳になれば更生するのに、有村さんは34歳になっても更生しない。ヤンキーは脳の未成熟の問題なので、大人になってそれが成熟すれば落ち着くこともあるが、ゴロゴロ病は治らない。

最近DSM-4の作成委員長だったアレン・フランセスの本を読んだら、ADHDのための中枢神経刺激薬の濫用に警鐘を鳴らしていたが、しかし、それだけ中枢神経刺激薬(リタリン、コンサータなど)を求める人が多いのだろう。アスペルガーは人から嫌われるにせよある種の才能だが、注意力が足りないのは単なる馬鹿であり、何の才能でもない。だから「障害」でないレベルの人も処方箋目当てにADHDと診断されたがるし、注意力を高めるために濫用する問題がある。アレン・フランセスによれば、DSM-5でますますそれは深刻になるらしいのだが、注意力不足から脱出したいというのは多くの人の率直な気持ちだろう。

現在の日本においては18歳までにADHDの確定診断を受ければコンサータの処方が受けられる。今日ではリタリンは厳格に禁止されており、これを手に入れる抜け道はない。20年くらい前なら簡単に手に入ったようだが、今は無理である。有村悠さん(34歳)はリタリンもコンサータも飲めなかった世代である。有村さんは自らの注意欠陥を認めていないが、仮に有村さんが18歳未満なら「何が何でもADHDと診断してくれ」と医師に迫るだろう。有村さんはカフェインを常用しているが、カフェインよりコンサータの方がいいに決まってる。東大に合格する知力はあるのだから、中枢神経刺激薬でゴロゴロ病が治れば、真っ当な人間になる可能性もあっただろう。

有村さんの存在は今日の社会の象徴であると言える。有村さんは真面目系クズとしての生活を公開しているので(珍種の扱いで)批判の矢面に立つが、潜在的にこのタイプの人間はとても増えている。ゴロゴロ病はADHD未診断の側面もある。軍隊でビンタでも張られていれば、少しは目が醒めるのかもしれないが、そういう強制的な仕組みをわれわれの社会は失っているので、ボンクラな人間がますますボンクラになる。あくまで真面目系クズであり、ワルとは違うから、警察が取り締まるわけにもいかず、野放しになっている。

アリとキリギリスという寓話があるが、キリギリスは積極的に遊んでいる。ゴロゴロ病はキリギリスでもない。有村さんのパターンだと「やる気がない」とかツイートしながら寝ているだけである。有村さんはこの状態を最高に楽しんでいるとは思えない。ゴロゴロしながら、やる気が出るのを待っているらしい。鬱病は甘えなのかという議論にも繋がる。現在においては脳を検査して精神の病気を診断するようなことは出来ないので、あくまで自己申告である。鬱だと自己申告されたら、寝ることを薦めるしかない。テンションが低い時の有村さんは「鬱」であるようだ。だからテンションが上がるまでゴロゴロという結論になるらしい。

かつて人類が悩んでいたのは神経症であった。神経症とは、真面目な人間がさらに真面目になろうというプロセスで発生する。真面目さをこじらせたのが神経症なのだ。最近は真面目であることから脱却する流れがあり、これは必ずしも悪くはない。真面目な人間がさらに真面目になろうとするのは異常行為なので、それをやめること自体はよいのである。だが、バブル崩壊後、景気低迷が20年間続いていることもあってか、善良なタイプが真面目さを目指さずにゴロゴロを選ぶという問題があり、これが真面目系クズとなる。真面目さがアイデンティティーとならなくなってるので、それを放棄し、かといって悪人になるわけでもなく漫然とゴロゴロするというのが福本伸行の描いた世界であり、有村さんも、そういう時代の流れの産物なのだ。
2013.12.23

資本と時間

資本とは何かというと、この世界のすべてのものには所有権が設定されているということである。つまり、そこらへんの土地を勝手に使うとか、そこらへんから原材料を勝手に集めて使うことは出来ない。
この世界のすべては誰かのものなのである。公共物も国家のものであり、普通の利用は出来るが、私的に占有するなど出来ない。地球に対してお金を払ってるのではないので、究極的には土地も資源も無料ではあるのだが、必ず他人の所有権が付き、値段が付けられる。
つまり土地にせよ原材料にせよ生産設備にせよ、タダではないので、資本というのが重要になってくるのだ。何かを生産しようとなれば、その土台となる資本が必要になってくるのである。

私有財産の約束事は極めて重要であり、物理的強制力(警察力)を背景に成り立っている。所有権なんて勝手な約束事で何の根拠もないと主張し、他人の所有物を勝手に使ったりすれば、警察のご厄介になる。国家や警察そのものを認めないと主張して警察と戦争をしてもいいが、それは革命であり、普通なら銃殺されて終わりだ。

私有財産を否定する論理として、自分たちが奴隷で相手は貴族というイメージで革命を起こそうというパターンがある。共産主義などがそうである。自分たちを奴隷と見なすのはミスディレクションであり、所有権の本質問題から目を逸らしているのである。自分を奴隷だと仮定して、(つまり何ら所有してないと仮定して)、私有財産制度を否定するのは、明らかにおかしい。私有財産を否定するのなら自己の財産の放棄という苦渋の決断があるはずだが、「僕は奴隷なので財産がない」という幻想で誤魔化しているのである。

ロールズは「無知のベール」という概念で正義を語るべきだと唱えた。自分の立場が不明であると仮定して正義を考えようというものだ。特定の立場の代弁者として、その立場のみに有利な正義を考えるべきではなく、自分がどのような立場であるとしても正義であるようなルールを考えようというのだ。
もちろんロールズの考えを非現実的だと批判することは容易い。われわれはこの世界で明らかに「立場」を持っている。自分の立場が不明だと仮定して考えようという呼びかけは、人間の実態に反している。とはいえ、立場を問わずに正義であるようなルールを考えようというのは、非現実的であれ、思想としては真っ当である。

さて、それでは個々の所有権が固まって身動き取れないのかというと、そうではない。貨幣で交換して回転させるのである。この貨幣の交換は時間的なものである。時間の針が動くのに従って交換は進む。(決して時計の針を止めた状態で交換するのではない)。
労働時間が金になるように経済は設計されており、そこから年収が決定される。年収とはまさに一年間の収入のことであり、そういう時間の単位が大事なのである。医者でもワープアでも、一年間の相応の金額を稼ぐのである。ワープアだから医者の100倍働くとか、そういうことは出来ない。もしくは医者の年収が高いとは言っても、医者の時給の相場はあり、それなりの年収は決まっている。せっかく医者になったから他人の100倍働いて大富豪になろうというわけにもいかない。

生産は時間的なものである。農地なら、一年間にどれだけ収穫量があるかで価値が決まる。
消費する側にしても、時間あたりに必要なものを買うのである。一年間なら一年間に必要な食料を買うわけである。時計の針が進むに従って、その時間あたりの家賃とか通信費とか電気代を支払う。
時間の経過に従い金を稼ぎ、時間の経過に従い金を使うのである。

時間のルールの絶対性の背景にあるのは、生命維持と寿命の問題である。仮に寿命が無限で、生命維持にコストが掛からないということなら話は違うのだが、肉体は食料を補給しないとすぐに餓死してしまう。肉体の寿命も有限なので、何もしなければ時計の針が進んで死ぬだけである。
http://news.livedoor.com/article/detail/8351489/
ミュージシャンの西川貴教(T.M.Revolution)がTwitterユーザーに怒りをあらわにした。
15日、西川はTwitterでユーザーに「今まで我慢してきましたが冗談でも家族をバカにされるのは許せません。本当に失礼です。」と返信し、真剣なトーンで抗議している。
この呟きは、西川のアカウントに匿名のユーザーが寄せた「やーいお前の母ちゃん自分の息子が奈々さんと結婚すると勘違いwwwwwww」という投稿に対するもの。匿名アカウントは該当の投稿に「#やーいお前の母ちゃんに続く言葉で一番斬新なフレーズにしたやつの優勝」というハッシュタグを添えており、Twitter上で大喜利のような形で言葉遊びをしていたようだ。
ここで「奈々さん」と記されているのは、声優で歌手の水樹奈々のことのようだ。西川と水樹は「水樹奈々×T.M.Revolution」名義でコラボレーションを行なっており、その仲のよさから過去にはインターネット上で結婚説も浮上したほど。西川は8月4日に水樹の全国ツアーにゲスト出演した際、このエピソードに触れ、自身の母親が「結婚説」に驚いていたことを明かしている。
匿名ユーザーのツイートは、この「結婚説」を茶化したもののようだが、西川も家族を皮肉る言葉には堪忍袋の緒が切れてしまったようだ。ツイートは反響を呼び、16日現在で2,000以上リツイートされている。



この西川貴教の記事を見て思ったのだが、何となく有村悠さんの受容のされ方にも似ている。西川貴教はわりと癇癪持ちだが、温厚なキャラクターだとされている。有村さんも怒りっぽい性格であり、漫画家の岡田コウなどは有村さんに嫉妬された際に本気で恐れていたが、有村さんをよく知る人は決して彼を危険人物とは思っていない。

ネットでキチガイという場合、統合失調症を指していることは極めて少ない。たいていはアスペルガーの要素を感じ取った場合にキチガイとレッテル貼りする。理屈で追い込まれそうになったら、キチガイと騒いで逃げ回るのだ。これはそれなりに適正な対応とされている。たとえばアスペルガーである真性引き篭もりは、野球選手のエラーした動画だけを集めて「こいつは下手」というエントリーで人気を集めた。彼は洞察力が的確であるがゆえに、リアルでは苦難の人生を歩んできたようである。
ネットで統合失調症の人のサイトとかあるのだが、これが叩かれることはあまりない。統合失調症の人は書いてることが支離滅裂で、まったく的確ではない。だからイラッとしないのだろう。やはり的確に急所を突かれると、人間は狼狽するし憎悪するのだ。

この世の中は、あまり的確な指摘はしないのがルールだ。正義をもって的確に追い詰めるのは本当に嫌われる。他人を悪意で馬鹿にするのは構わないのだが、正義感で的確な指摘をするのはやばいようである。

有村さんがあれだけ暴れていてもキチガイと言われないのは、正義感がないからである。どんなに大立ち回りを演じようとも、正義で他人を追い詰めていく狂気に欠けており、そのあたりは穏健である。このために有村さんは正常と言われることが多いのだろう。癇癪持ちにしては、ある種の温厚な人物という側面があるのも、怒りが正義感と連動してないからだ。西川貴教にしても、癇癪を起こしやすいわりには、あまり大事にならない。これも正義感がない性格ゆえである。

正常(normal)と正義(justice)の違いである。アスペルガーは正常から離れた障害者であるが、正義の観念は強く、その認識は鋭いものがある。バランスを欠いているだけであり、洞察は的確である。
有村さんはアスペ要素がないADHDであり、注意欠陥と多動性があるだけだ。本来は温厚で善良な人物ではあるが、多動性の抑えが効かず暴発することがままあり、注意力も足りないのでボンクラになっているタイプである。最近の子どもだと、コンサータなどで治療を受けるはずだが、有村さんにはその機会がなかったので、これからもボンクラだろう。

正義を突きつけて他人を失脚させるのは、ワイドショー的に楽しまれることもあるのだが、自分でその対象になりたいという人はいない。マスコミは匿名性ゆえにゆるされている。たとえばキャスターが著名人でも、あくまで仕事と解釈される。仕事で機械的にやってるだけだから、匿名と同じなのだ。
一個人が、正義の動機を持って他人を吊し上げていたら、これはかなり反発があるはずである。正義は刃物と同じように扱われているのである。正義を振り回して捕まることはないが、相応の嫌悪感を受けることになる。
有村悠さんのアフィを踏んでから以下の書籍を購入しました。

ワープする宇宙 5次元時空の謎を解く
リサ・ランドール, ムコウヤマ シンジ, シオバラ ミチオ, 向山 信治, 塩原 通緒
Kindle版
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¥ 950



猪瀬直樹は失脚したわけだが、たまたま徳洲会の件で検察が詳細な情報を握ったため、それがマスコミにリークされただけである。
検察のリークで詳細な情報が知れ渡っている状態で、猪瀬直樹は嘘を吐いたから失笑され、彼の自信に満ちた態度が崩れ落ちるのが滑稽だったし、マスコミも大喜びで揚げ足取りをしたのである。
普通なら言い逃れが出来たかもしれない。
何にせよ、彼がハッタリで都知事にまで登りつめたことは事実である。

この後、東国原英夫が都知事になる可能性はそれほど高くないが、低いとも言えない。
猪瀬直樹にせよ、東国原英夫にせよ、自己肯定感の強さで生きてきたわけである。
ハッタリは対人スキルとしてかなり有効であり、行動力のある人間が自信満々に振る舞っていれば、意外と人は付いてくる。
山本太郎にしても同じことで、自信満々な行動力に人は弱いのである。

有村悠さんにしても、やってるのが絵でさえなければ、ハッタリはかなり有効だったはずだ。
自信満々で行動すれば、意外と他人には通用するのだが、絵だけはまずい。
御本人が自信満々でも、実際に絵を見れば「こいつ下手だろ」という判断が働く。
画力に関しては純粋な実力勝負である。
有村さんも、絵というジャンルでなければ、東国原や山本太郎くらいにはなれただろうに残念である。

有村悠さんはまったく人見知りをしないという特徴がある。
その場で微妙な空気が流れても気づかない。
これは欠点だが、同時に才能でもある。
有村さんがお笑い芸人を目指していれば、狩野英孝くらいのポジションにはなれた。
お笑い芸人なら女子大生千人くらい抱けたのに、庵野秀明や小室哲哉のようなサブカル路線を目指したので、今日のような結果が生まれた。

冷静に自己認識をしていたら、人間生きていけないという問題もある。
東国原に生まれたら、自分を過信してパワーアップしていくしかない。
並の人間なら鬱で自殺するようなスペックに生まれても、ハッタリであそこまでパワーアップしたのだから、行動力のすごさである。
行動力さえあれば、ハッタリでどうにかなるのだ。

猪瀬直樹は他人に対する批判精神に富んでおり、舌鋒鋭かった。
それがゆえに、自己批判精神の欠如が笑われたのだが、これこそ彼が都知事になれた秘密でもある。
自己認識の甘さでパワーアップするという詐欺は公然と認められている。
これこそが人間存在の実態だとも言える。
猪瀬直樹をナポレオンになぞらえることだって出来るだろう。
背丈は低いながらも、ハッタリでパワーアップを続けた共通点がある。
最後は失脚したが、そこまでは勝ち続けたとも言える。

ではハッタリの逆は何かというとニヒリストである。
ニヒリストよりはハッタリ野郎の方が好かれる。
ニヒリストはこの世の中に根拠がないと気づいてしまった人間なので憎まれる。
ニヒリストはハッタリ野郎より正確な認識をしているが、その正しさは世界から命を奪うので疎まれるのだ。

われわれは東国原のようなハッタリ野郎を嫌悪しているが、何となく容認しているのも確かだ。
ハッタリは生命力がある。
この生命力が共感される。
東国原を憎悪し何が何でも排除するという人間は見たことがない。
われわれは東国原を憎むことは出来ないのである。

書けば書くほど、有村悠さんと東国原の類似性が浮かび上がってくる。
有村悠さんは空気が読めないので嫌われているが、決して憎まれているわけではない。
東国原の受容のされ方と酷似している。
有村さんは虚業を目指すべきだった。
自信過剰だけでパワーアップ出来る領域ならかなり活躍出来た。
高城剛や村上隆を目指すべきだったとも言えるが、あれは裏表を使い分ける才能がないと無理である。
馬鹿正直な有村さんだと、東大中退の芸人として政治家を目指すのが最適な人生だった。

有村さんは後輩に告白して「いい加減自分を特別な人間だと思うのはやめてください」と言われて鬱病になったのだが、有村さんや東国原はハッタリでパワーアップしていくべきなのである。
あの後輩は東国原を見ても、「いい加減自分を特別な人間だと思うのはやめてください」と言うだろうし、それは正論ではあるが、その正論に従って東国原が自己認識したら単なる性欲の強いハゲという現実に直面させられ、有村さんと同じ鬱病になり自殺したくなるだろう。
有村さんだけが人格障害といわれ、東国原が許されるのは、自信過剰でのパワーアップが成功したかどうかという問題でしかない。
有村さんは自信過剰でパワーアップしていくタイプなのに、あの後輩から残酷なダメ出しをされて、人生が終わってしまったのだ。

もちろんイラストレーターを目指した有村さんが悪いのである。
画力は自信過剰ではどうにもならないので、選んだ道が悪かった。
自信過剰で勘違いしてパワーアップしていくのは、世の中で結構認められたやり方であり、世界史の偉人でもそういう人が結構いるが、イラストレーターの世界では認められない。
グルーシェンカは世の中の矛盾に疑問を持たない人間である。与えられた世界をそのまま受け取っているだけである。だから二冊目の本を出すにあたり、自分でもその凡庸さに悩んでいた。一冊目の「想像と力」は語学力を駆使しラテン語の文献の引用を多用することで誤魔化したが、それを繰り返すわけにもいかない。二冊目を出して、凡庸さが露呈され、天才少女という設定が虚偽だと見抜かれるのを恐れていた。だが、カチェリーナに共同執筆してもらうようになってから、かなり草稿の内容はよくなっていた。グルーシェンカは自分から疑問は持たないが、カチェリーナに疑問を提示されると答えられるのだ。カチェリーナは世界や人間に強烈な疑問を抱いているタイプなので、上手い具合に相性が合うのだった。

ここのところは、ナスターシャという親戚の少女を観察することにしていた。
ナスターシャはアスペルガー症候群であり、親から虐待されていたので、カチェリーナの城に置いているのだが、そのためグルーシェンカとカチェリーナは城にいることが多かった。
そうやってグルーシェンカはカチェリーナと一緒に作業していたのだが、iPhoneで友人から「ネットで炎上している」と知らされた。
「なんかわたしがナスターシャのブログで批判されているらしいです」
グルーシェンカはとても寒々とした思いがした。
ナスターシャは屁理屈だけは天才的なので、何を書かれているか考えると恐怖であった。
「すでに1000を越えるはてブが付いてるが大丈夫か」
先に確認したカチェリーナが心配そうな顔をしていた。
グルーシェンカは目を背けたかったが、見ないわけにはいかない。やむを得ず、ナスターシャのやっている真性引き篭もりというブログを開いた。ナスターシャはリアルではアスペルガー症候群として誰からも嫌われているが、ネットでは天才的な理屈の力でアルファブロガーとして君臨しているのである。
エントリーを読むと、まずグルーシェンカは超人的な呑み込みの速さを持っているだけで、あまり知能は高くないと書かれていた。他人なら何年もかかることを瞬時にマスターできるので天才少女として扱われているが、あまり知能が高くないので、どこかで壁にぶつかると書いてある。スタンフォード大学に飛び級で入ったが、難問はサッパリ解けず、模範解答だけ憶えて要領よく卒業したという真実が書かれていた。そして「想像と力」に関しても、恵まれた環境に生まれ、語学に長けているのをひけらかしているだけだと見抜かれていた。いかに中身のない本であるか、というのが理路整然と理屈で説明されていた。そしてグルーシェンカは京都大学経済学部准教授の地位を確保しているが、超人的な呑み込みの早さで大学生レベルの経済学はすぐに出来るとしても、知能が低いので、決して偉大な経済学者にはならないと書かれていた。
「京都大学の話は断ったので、これは事実に反してます」
グルーシェンカはナスターシャの部屋に行くために立ちあがった。
それを察したようでカチェリーナが手首をつかんだ。
「ナスターシャにだって言論の自由があるのだから、暴力で制圧してはいけない」
「だって京都大学の話は嘘なんです」
「その一点だけで名誉毀損だと騒ぐのは図星を付かれた人間の典型的な行動だ。削除など求めれば炎上が拡大するからやめとけ」
カチェリーナにそう言われて、グルーシェンカは座り込むしかなかった。
確かに削除依頼などで騒げば、火に油を注ぐ格好になりかねない。零細ならともかく、真性引き篭もりのようなアルファブロガーを黙らせることは出来なかった。
「しかし、このナスターシャの文章、なかなか理屈は通ってるじゃないか」
「このキチガイみたいな長文に共感されているのでしょうか。何度も何度も知能が低いと書かれて、それを見るのが楽しいですか」
「おまえは知能が低いわけではないだろう」
「わたしは呑み込みの速さが超人的で、何でもすぐにマスター出来ますが、本当に難しい問題とか出されるとお手上げなのです」
「だったら真性引き篭もりの内容は事実なんだな」
「カチェリーナ様もわたしの知能が低いと思っていたわけですね。わたしよりカチェリーナ様の方が知力が高いのは確かで、それは前から認めてますし、カチェリーナ様の知性は尊敬してますが、なぜナスターシャのようなアスペルガーから糞味噌に言われないといけないのでしょう」
「アスペルガーというレッテル貼りで誤魔化すのか」
「ナスターシャは確定診断されています」
「相手がアスペルガーという理由で退けるのか。文章の内容の真偽こそが重要だ」
そんなことは言われなくてもわかっていた。
こうやって真性引き篭もりのキチガイのような長文で知能が低いと何百回も書かれると、このブログが原因で自殺に追い込まれた人達の心境がよくわかった。
欠点や弱点を徹底して暴露することで、人間のアイデンティティーを崩壊させるのである。
「わたしからひとが離れていくのが容易く想像できます。いくらわたしが並外れた社交性を持っているとは言え、現在の人脈があるのは、天才少女という設定があるからです」
真性引き篭もりは嘘を書くわけではないので、信用されていた。
他人の弱点を執拗に攻撃して自殺に追い込む手法は嫌悪されていたが、理屈の正しさは崇拝されているのだ。
こうやってグルーシェンカを、知能が低い、知能が低い、知能が低い、と徹底的に糾弾するのも、それなりに理屈は通っており、この記事を読んだ人間は真性引き篭もりの判断に従うのだ。
「この真性引き篭もりはかなり面白いよな。こうやって他人を攻撃すればいいというお手本を示してくれる」
「カチェリーナ様も賛同するわけですね」
「わたしは理屈を支持するだけだ。理屈ほど正しいものはこの世にない」
「ナスターシャやカチェリーナ様はEQが低いから、そう思うのです。EQが低くて人間性に欠けているから、理屈しか見えないのです」
「理屈が見えないのも問題だと思うが」
「この世界で大事なのはEQです。IQがいくら高くても意味がありません。ナスターシャやカチェリーナ様に友達がいないのも、EQが低いからです」
「理屈で勝っても人間性で負けているということか」
「ナスターシャの人生って、そういうことです。屁理屈で勝つたびに敗北していく」
「しかし真性引き篭もりというブログはネットでかなり人気があるらしい」
「屁理屈で他人を追い詰めるのは普通は忌み嫌われますが、ネットだと遠い世界の他人事として楽しまれるんでしょう」
「おまえはIQが低くてEQが高い立派な人間ということだな。知能が低くても、EQに長けていてよかったじゃないか」
四肢の力を失いグルーシェンカは床に倒れていたが、カチェリーナがそれを睥睨した。ウクライナ最高の美少女と誰もが認める凛とした立ち姿で、失脚したグルーシェンカを睥睨しているのだった。カチェリーナの冷めた目線の裏には、まだ世界が認めていない天才的知性が眠っており、それはグルーシェンカを断罪していた。天才少女という虚偽の物語は断頭台に打ち捨てられ、あわれな素顔が刑場に晒されているのだ。
「もう誰もかれもわたしを見放すでしょう。こうやって人が去っていく瞬間は来るだろうと思ってましたが、それが今日なのですね」
「虚偽のイメージを信じていた人間は去るだろう。わたしのような本当の友達だけが残るだろう」
カチェリーナはグルーシェンカに手を差し伸べた。
「わたしを見捨てないと言うのですか」
「ナスターシャから理屈で挑戦を受けたのだから、少しは理屈で返してみたらどうだ。EQが低いから友達がいないとか、弱点を突き返すのでは、苦し紛れでしかない」
「人間存在はドラマ性を持っているのです。いちいち理屈で説明したら、ドラマが成り立ちません。映画の途中で映画の登場人物が、これは映画だからと理屈を言い始めたら、ドラマとして破綻します」
「その視点は面白いと思うが、もっと続けてみろ」
「人間はドラマです。ドラマは想像力によって演じられます。人間と人間は想像で理解し合っています。だから説明を求めるのは嫌悪されます。それぞれが内面という秘密を持ち、墓場まで持っていくのです。想像では足りないと言って説明を求めるのは、人間というドラマの否定です。映画の監督にたいして、この場面の意味は何かと理屈で説明を求め、正解を引き出そうとするのは、筋違いなのです」
「世の中のことをいちいち説明してくれないのは、それなりに理由があるわけだな」
「説明をしないのが正当というわけではないです。わたしたちは根無し草であり、何の根拠もない存在なので、説明を求められると困るんです。根無し草同士がロールプレイしてるんですから、理屈が入ったらおしまいです。民衆が王様に、なんでおまえが王様なのと問い詰めたら、究極的には答えられないでしょう。説明しないのは、権力者の都合でもあります。王権神授説とか一方的に唱えて、反論を許さないわけです。反論されたら、答えられないからです」
「理屈の方が正義ということもあるわけだな」
「理屈は正義です。真性引き篭もりが持て囃されているのも、理屈が正義であるからです。自分がターゲットになったらたまったものではありませんが、だからこそネットで遠くから楽しむんです。理屈は革命みたいなものですよ。王様に対して、なんでおまえが王なのかと問い詰めるのが革命です。そうやって理屈で糾弾し革命を起こすことが必要な場合もあるでしょう。でも普段はみんな嫌がります」
「なかなか興味深いが、他にも事例を挙げてくれ」
「たとえば儒教の影響を受けている文化圏では、年上を敬うという風習があります。日本なんかは儒教の影響下にありますから、運動部では先輩の命令は絶対です。後輩は先輩に口答えしてはいけないし、なんで先輩が偉いのか質問してはいけないのです。説明を求めるというのは反抗であり革命なのです」
「理不尽な上下関係があっても、理屈で説明を求めてはいけないのだな」
「上下関係に根拠なんてないんで、説明を求めたらいけません。理屈で問いただすと、この世の中なんて何の根拠もないんです。だから説明を求めるのはタブーなんです」
「革命家が弾圧されるのは、あいつら空気を読まずに理由を聞くからなんだろうな」
「理由や説明無しに想像力で理解するのが世界のゲームの本質です。理屈を言うのは政府転覆の行為なのです」

そうやって話していると、ナスターシャが自殺を試みたという知らせが届いた。
グルーシェンカはナスターシャの死亡を願い、カチェリーナと共に駆けつけたが、案の定死んでいなかった。
150センチに満たない小さな身体を横たえ、左手首から血を流し気を失っているだけで、命に別状はないと思われた。
「残念ながら生きているようですね」
「グルーシェンカに殴られるのを恐れたんだろうな。こいつ自殺未遂するくらいなら、グルーシェンカのこと叩かなければよかったのに」
「こういうタイプの人間は、正義に火が付いたら止まらないんです」
「真性引き篭もりはこれからも続くのだろうか」
「こうやって時々鬱になるようですが、ほとぼりが冷めると激昂して更新を再開するようです」
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よく「腰が低い」という褒め言葉がある。
だが、これで褒められるのは、ハイスペックな人間だけだ。
ハイスペックであるにも関わらず腰が低いから尊敬されるのであり、ロースペックで腰が低いのは蔑まれるだけである。
つまり「腰が低い」という美徳を実践出来るのは、ハイスペックな人間の余裕であり、そうでない人間は威張っておいた方がいいのである。

具体的に言えば、長身男性が低姿勢に振る舞うと「腰が低い」と言われるのである。
長身なのに腰が低いから褒められるのだ。
低身長が腰を低くしてどうするのか、という話である。

ロースペックなら必ず威張らないといけないわけではなく、温厚な性格なら威張る必要はない。
たとえば爆笑問題の田中をイメージするとわかりやすいだろう。
極端な低身長で女にもモテないが、温厚な性格で好かれている。

今回辞任した猪瀬直樹は学歴もたいしたことなく身長が低い。
とうてい温厚な性格ではなく、気性が激しいわけである。
有村悠さんと同じだ。
低学歴低身長で怒りっぽい性格だから、こういう人間は威張るしかない。
これは合理的なのである。
爆笑問題田中のように温厚なタイプならいいのだが、そうでないなら、偉そうにするのが最適解だ。
猪瀬直樹や有村悠さんのような低学歴低身長が「腰を低く」したら、ナメられるだけである。
実際、猪瀬直樹が都知事にまで登りつめたのも、ひたすら偉そうに振る舞うことが戦略的に成功したからだ。

徳州会問題でつまづいたのは、偉そうに振る舞う生存戦略が失敗したからだ。
とはいえ、腰が低ければ生き残れたわけでもあるまい。
初期に過ちを認めていれば、もう少し延命できただろうが、基本的には狙い撃ちで追い落とされたのである。

マスコミが自力で取材していると誤解している人が多いようだが、決してそんなことはない。
行政には記者クラブ室というのがあり、大手マスコミだけが参加できる。
そこで行政からいろいろ教えて貰い、それを記事にするのである。
誰かが逮捕される時にマスコミがカメラを並べて大挙するのは、逮捕するという情報を、事前に警察の記者クラブで教えて貰っているからである。
記者クラブ依存だから、どのチャンネルを付けても、同じ内容ということになる。
行政からのリークに従ってカメラを持ち運んでいるだけだから、各社ともそろい踏みになるのだ。
猪瀬直樹に関しても、いろいろ情報が出てくるのは、徳州会にメスが入ったことで、行政がいろいろ情報を握ったからであり、それをマスコミにリークしているからである。

ネットが普及すれば一般人がマスコミになれると思っていた人もいるようだが、行政が一般人に情報を教えるわけがないので、それは無理なのだ。
J-CASTは朝日新聞記者が不祥事で退職してやっているわけだが、朝日新聞を退社すればろくに取材も出来ないのが露呈した。
「こちらが取材を申し入れたがあいつは回答を拒否した」と偉そうに書くだけである。
2ちゃんねるでは禁止ソースというのがあり、個人サイトなどは(ニュース速報+でスレを立てる際に)ソースにしないことになっている。
J-CASTはたまたま禁止ソースにならなかったので、2ちゃんねるのスレのソースとして貼られるから、それで生き延びただけである。
ともかく、朝日新聞記者でも退職すれば記者クラブに入れないので、「取材」など出来ないのだ。

有村悠さんは、親戚一同すべて高卒以下であり、大卒がひとりもいないそうである。
無教養低学歴の家系なのだ。
そして公称163センチだが、実寸は160センチ未満という噂がもっぱらだ。
とうてい温厚な性格ではなく、気性が激しいから、偉そうにするしかないのである。
これはこれで仕方ないのだ。
カチェリーナとグルーシェンカはナスターシャの扱いについて議論していた。
カチェリーナとしてはナスターシャがおとなしくしている分には何の問題もなかった。
この城はどうせ使ってない。
もしくは使ったとしても、部屋が700ある巨大な城だから、ナスターシャがひとりいたところで問題はない。
「問題はおとなしくしていてくれるかどうかなのだ。あの部屋に籠もってプログラムだけしているなら放置しておくが、何かやらかす可能性もないとは言えない」
「ナスターシャがやってる真性引き篭もりというブログのせいで自殺した人が何人もいるそうです。脛に傷のある人間を追い込むのが天才的なのです。理屈にはかなり長けてますから、あいつに反論するのは容易ではなく、真性引き篭もりにターゲットにされた段階で死を意味するようです」
そうやってナスターシャがいかにゴミクズかと語り合っているうちに、カチェリーナは気になることがあった。
「ナスターシャが他人から嫌われているということを、おまえは繰り返し言っているわけだが、そもそも嫌うとはなんだろうか」
「実親から虐待され、学校ではいじめられて不登校。ネットをやれば、真性引き篭もりみたいな悪意の固まりのブログを開設する。誰からも嫌われているというのに異議はないでしょう」
「多くの人がナスターシャを嫌っているというのは事実だろうが、それを援軍のようにして、ナスターシャを批難するのはいかがなものか」
「おまえはみんなから嫌われているみたいな物言いが嫌なわけですね」
「わたしは倫理的なことを言っているわけではない。倫理的な結論を出してお開きという思考停止は望んでいない。倫理を越えた次元の話をしなければ、天才にはなれない。嫌うのがよくないという倫理の話ではなく、好き嫌いのメカニズムを説明せよと言ってるわけだ」
それからカチェリーナはグルーシェンカの発言を待った。
グルーシェンカは簡単に結論を出して終わらせる傾向があるので、カチェリーナはそれを矯正しようと思っているのだ。
「人を嫌うというのは、かなり正当性のある論理なんです。単に嫌いだという理由はすごい大義名分があるんです」
「その視点は面白いじゃないか。思考を止めないでもっと広げてみろ」
「嫌いという感情はすごい説得力があるのです。嫌いだから他人を攻撃するというのは、かなり認められている。キチガイであるどころか、すごい真っ当だと思われてるんです。だから人を嫌うのも合理的なんです」
「人を嫌うのが不当な行為だという批難はあまりないよな。むしろ生理的嫌悪感くらいに幅を利かせているものはない」
「わたしが興味深いと思っているのは、他人を嫌う理由を説明するのがほとんどないことなんです。AがBを嫌っているとします。そしたら、Aは無言でBを攻撃するのです。嫌いな理由については黙して語らず、理由については完全沈黙したまま、嫌がらせや暴力を行うのです」
「それも面白いな。もっと話してみろ」
「いじめられている側が説明を求めるのもないんです。嫌いな理由が不明のまま、いじめだけが進行するのです」
「なぜなのだろう」
「理由が不明とはいえ、察しが付くからでしょうね。とはいえ、いじめられている側が説明を求めるというのは対抗手段としてあり得ます」
「人間って、理由を言いたがらない生き物だよな」
「説明を求めるのって、ある種の喧嘩ですからね。真っ当な理由があるなら言ってみろよ、ということであり、相手に挑戦しているわけです。この挑戦的な態度がいじめを悪化させるおそれもあるので、弱者は説明を要求せず、おとなしくするしかない」
「ナスターシャは本当に弱者なのだろうか。身体小さいし、運動も出来そうにないが、プログラムは相当に出来るんだし、勉強も出来るわけだろ。理屈はかなりすごいわけだ。人間が理解できなくても機械いじりは得意なようだし、エンジニアの適性もあるはず。金を稼げる要素はかなりありそうだ」
「ナスターシャみたいなのをナードというのです」
「ナードだと悪いのか」
「女の子はナード男性を嫌います。ナード男性と婚前交渉なんかしません。そのくせして結婚するとなると、所得が高いナード男性と結婚するのだから呆れます。ナスターシャは女の子なので、ナードの典型というわけでもないですが、嫌われるタイプなのは間違いないです」
「なんでナードは嫌われるのか」
「進化の過渡期だと思います。人間が文字を使い始めたのは5000年前なので、45億年の地球の歴史からすれば、つい最近です。まだまだ本能的には、猿として強い男性がモテます。いずれマッチョとナードは別の種に枝分かれするでしょう」

それからカチェリーナはひとりで廊下に出た。
そしてナスターシャのところに向かった。
例の巨大な部屋の中央でプログラムをしているようだった。
「あの真性引き篭もりというブログ、いつまで続けるんだよ。おまえに追い詰められて自殺した人もいるらしいじゃないか」
何となく話を切り出したつもりだったが、ナスターシャはいきなりマグカップで目の前のディスプレイを叩き壊した。コーヒーの飛沫が飛び散り、液体にまみれてひしゃげたディスプレイが床に落ちた。
カチェリーナはナスターシャが睨み付けてくると予想したのだが、ナスターシャはひたすらパニックになっているようだった。カチェリーナは虚弱体質で身体の線も細く、背丈も160センチに満たないくらいだが、さすがに150センチ未満のナスターシャは取り押さえることが出来た。
ナスターシャには専属の世話係が二人付いているが、遠巻きに見守っていた。
世話係はカチェリーナの指示を待っているようだったが、カチェリーナは軽く首を振って、自分だけで対処することにした。
「僕は死んだって構わないんだ。俗塵にまみれて生命体として活動することが苦痛なのだから、この呪われた宿痾のような僕の心臓の脈拍を停止させてくれるなら、はじめて他人に感謝し地獄から解き放たれた悦楽で快哉を叫び、僕はノアの箱船である柩に飛び込むだろう」
「ここから追い出すとか一言も言ってないだろ。おまえプログラムはすごい出来るみたいだし、あの悪意の固まりのブログは閉鎖してもいいんじゃないか」
「口を塞がれることなく、最後まで意見を言えるのがブログだ。僕が理屈を語り尽くすと、誰も勝てないから、暴力的手段で制圧に来るが、僕が弾圧に対抗出来るのがあのブログだ。ブロガーになることで、僕は発言機会を得るんだ」
「真性引き篭もりというブログは、人を自殺に追い込んでるらしいじゃないか」
「醜聞を暴かれて自殺するなんて裏が真っ黒な人間であると自己証明したようなものだ」
どうやらナスターシャは世の中に対して強烈な敵愾心を持っているようだった。
真性引き篭もりを閉鎖させるのはかなり困難に思われたので、カチェリーナはその案を引っ込めることにした。

カチェリーナは、それから自室に戻った。
そしてグルーシェンカに今の出来事を説明した。
「ナスターシャがいくら弱者だからと言って、その内面のエネルギーの強さをなめてはいけません。アスペルガーは普通の人間よりエネルギーがあります。死に物狂いでこだわります。柔軟性がとても低いですから、アスペルガーのこだわりは修正できません」
「真性引き篭もりを閉鎖させるのは絶対に無理なんだな」
「強制的に閉鎖させることなら出来ます。わたしがやってもいいです」
「そうやって強要するんではなく、本人の自主的な意志として」
「あの子は空気が読めず想像力もないのだから、得意な理屈を言いたいのでしょう。理屈で世の中が変わると思ってるから、理屈で他人を糾弾するのが存在証明なんでしょう」
「そういうエネルギーでニュートンは万有引力の法則を発見したんだよな」
「ナスターシャが生み出したのは真性引き篭もりだけです」
平素は格別のお引き立てを賜り誠にありがとうございます。
Amazonアソシエイト・プログラムでは長期的なサービス品質向上を念頭に、Amazonアソシエイト・プログラム運営規約第15条に従い、2014年1月1日より一部商品カテゴリにおいてアソシエイト紹介料率を改訂いたします。

改訂となるカテゴリおよび新紹介料率は下記の通りです:

フィギュア商品 : 0.5%(紹介料上限 1,000円)
Amazon インスタントビデオ :10%
服&ファッション小物:固定8%(紹介料上限なし)- 2014年3月末日まで継続
いずれも2014年1月1日以降に生じた出荷、もしくはダウンロード分より上記紹介料の対象となります。


アマゾンの紹介料率がまた下がった。
今回はフィギュアが対象。

アマゾンの紹介料率は(売れた個数に応じて)3.5~8パーセントであり、大手ほど儲かるようになっている。
痛いニュースとか売り上げの8パーセント貰えていたのだから、死ぬほど儲かっていたはずだ。
だんだんこの8パーセントの対象にならない商品が増えており、フィギュアは今年の6月に2パーセント固定となり、今回さらに0.5パーセント固定に下降した。
書籍はすでに3パーセント固定、Blu-rayやCDなど円盤関連は2パーセント固定であり、主力商品は軒並み低い料率に固定されたので、8パーセント貰える大手も、かなり収益は下がっていると思われる。

アマゾンの場合、完全に一人勝ちしているので、もはやアフィリエイトをやる意味はない。
だが、アマゾンのアフィがなくなれば、(サイト運営者は)他の会社のアフィを貼るしかないし、そういう小さい穴からアマゾンの独占状態が決壊しても困るので、雀の涙程度のアフィ収益はくれるのだろう。
むしろ数年前まで、アマゾンはアフィの紹介料払いすぎだなと呆れていたので、正常な金額になったと言える。

最近ようやく日本でも始まったインスタントビデオは10パーセントだから力入れてるのかもしれないが、タブレットはKindle Fireのみ対応。
他では見られないし、抜け道もない模様。
わたしはレンタルビデオの延滞料に神経使うのが嫌なので、少し高くてもこういう(延滞の心配がない)ビデオ配信は有り難いと思うのだが、わたしのNexus 7(2013)では見られないので仕方がない。
あと、最近Google Playのプリペイドカードが日本でも発売されたので、Nexus 7で見たいなら、そっちで買えばいいだけの話である。
iPadにしてもiTunes Storeで買えばいい。
https://twitter.com/hazuma/status/412268338769694721
震災後、ぼくは一種の麻痺状態にあった。仕事に自信がなくなったし、若手がやりたいのであればなんでもいいという冷笑状態にもあった。しかしフクイチ本出版で心に区切りができた。批判を怖れずに信念を表明しようと思う。いまの若手ゼロ年代は堕落している。ゼロ年代思想は本流を取り戻すべき。


東浩紀が宇野常寛と袂を分かったのは、宇野が勝手に自意識をこじらせた側面が大きく、東の意図ではない。宇野がかなりの運動音痴であることは本人も認めており、挙動不審な動作や喋り方も含め、典型的なオタクなのだが、(顔はマズイにしても)長身でスタイルも悪くない。宇野の自意識だと、自分は(他のオタクとは違って)イケてると思っているようだ。かつての教養主義は旧制高校のエリートが童貞をこじらせた文化であり、婚前交渉の禁止が徹底されていた時代において精神愛を求める欲求が、哲学書を読んで人生を考える流行を生んだのだが、この2013年という時代は真逆であり、教養主義における人格形成など誰も考えておらず、岩波文庫など誰も読まないし、どれだけ婚前交渉出来るかが人生の目的である。結婚前の女を(結婚するつもりなど毛頭無い女を)どれだけたくさん抱けるかが人生の最重要事項となっている。惑星開発委員会の頃から、宇野はどうやったら女とやれるかという視点の話が多く、(そして女とやれないオタクを馬鹿にする話が多く)、そういう反教養主義のスタンスは、ある意味時代に合っていたのだが、ともかく宇野は東から離反した。立命館大学出身の宇野だと、思想的権威として君臨するのは偏差値的に難しく、また宇野は個々の作品の論評は鋭いが、哲学的な適性も能力もないので、難解な議論になれば置いてきぼりだったと思われるし、居心地の悪さもあっただろう。宇野は長身であることを除いては完全にナード系なのだが、女に走っていたはずがAKB信者になってるし、旧制高校の若者とは別の次元の悩みがあるようだ。本来的には思想書に齧り付いているタイプの人間なのだろうが、教養主義も衰退しているし、立命館では知識人として厳しいので、アイデンティティの拠り所がないようだ。

そうやって宇野が病んで離反してから、東浩紀は津田大介とつるむようになったのだが、これは文学部衰退と教養主義が絶滅した時代風潮の中で、新しい市場開拓の意図があったと思われる。東浩紀なりのリベラルアーツの再編だったのだ。津田大介は注意力が高いので対人的な聡明さはあるのだが、決して知力が高いわけではないので、この路線は哲学オタクの切り捨てだった。ハイデガーやカントを普通に読めるレベルの人だと、津田大介というだけで眉を八の字にせざるを得ないだろうが、東浩紀はそれも折り込み済みで哲学オタクを切り捨て、転向したのだ。

昨日あたりのツイートを見ていると、東浩紀は浅田彰をゲンロンカフェに呼びたがっているようである。宇野周辺への批判もしていくようだし、見捨てたはずの思想分野への回帰ということのようだ。浅田彰は経済学が出来ないのに京大経済学部助教授になった(1989年)人間であり、常識ではあり得ないポストを得たのだが、これは教養人である浅田彰が過大評価されたからである。思想書である「構造と力」が異例のベストセラーになったので、その著者である浅田を持ち上げて、教養主義の再興を図ったのだ。京大で数学の森教授と言えば、現在ではフィールズ賞の森重文だが、浅田がブームだった当時は、森毅である。森毅の方はフィールズ賞もらうどころか、まともに数学出来るのか怪しいレベルの人間だが、いろいろ多彩な教養人で文化人であった。浅田が(経済学出来もしないのに)京大経済学部助教授になれたのは森毅が推したからという話もある。浅田彰はずっと京大に居座るのかと思ったら、2008年に京大准教授をやめたようである。京都造形芸術大学大学院院長に転身したようだ。すっかり過去の人なので、近況はよくわからないが、バイセクシャルを公言していたから、おそらくは独身だろう。浅田彰は語学の才に長けており、ドイツ語やフランス語の本を原書で軽々と読みこなすという理由で過大評価されたのだが、教養人は教養人にしか過ぎず、経済学をやらせてみれば単なる無能というのを露呈したわけだ。大学生の半数以上が推薦入学・AO入試の御時世だから、浅田のような偏差値エリートが憧れの対象になる時代でもあるまい。そもそも経済学者として失敗したことでカリスマ性など一滴も残ってないはずだが、東浩紀としては浅田彰くらいしか引き出しがないのだろう。
有村悠さんのアフィを踏んでから、以下の書籍を購入しました。

太陽の季節 (新潮文庫) - 石原 慎太郎
¥ 540 - 数量: 1
文庫 - 新品
販売: Amazon.com Int'l Sales, Inc.

憲法 第五版 - 芦部 信喜
¥ 3,255 - 数量: 1
単行本 - 新品
販売: Amazon.com Int'l Sales, Inc.


あなたがたが日常的な人間関係で行っているのは最弱決定戦である。誰が一番弱いかを競っている。決して最強を競ってはいないし、あなたがたの「強さ」はかなり嘘くさいのだ。強さという自意識の大量生産の必要があり、強さの粗製濫造のために最弱決定戦が必要なのだ。

たとえば有村悠さんを最弱決定戦のリングに上げたら、すごい楽しめるはずである。公称163センチで重度の斜視だから、すぐにパンチを食らって倒れてしまうはずだが、最弱決定戦では負ければ負けるほどリングに上がることになる。休まる暇もなくリングに担ぎ出され、延々とボコボコにされてる有村さんの姿を見るのは、最高のエンターテイメントだと思われる。
有村さんが最弱になるとは限らず、王者の座が近づいていた頃に加野瀬とマッチングされるかもしれない。加野瀬は50年間に渡り人の嫌味を言い続けているうちに初老になり、まだ余命があるとはいえ実質的に人生を終えたが、有村さんと加野瀬を戦わせたらどっちが弱いのかという決戦は、とても愉快なはずである。

こうやって書いているとわたしが不謹慎だということにされるが、そう思った人は、即座に最弱決定戦をやめてもらいたい。わたしは文章で書いているだけであり、最弱決定戦を現実で開催しているあなたの方が悪質なのである。最弱決定戦はあなたがたの「強さ」の秘密である。最弱というスケープゴートを作ることで、強さが大量生産され、あなた方のようなお山の大将が出来上がるというトリックなのだ。

弱い人間に勝つのがどれだけ楽しいかというのは、あまり公然と語られることがないが、これこそが人間の本質だという事実が公けにならなければならない。あなた方は、サディズム的なエクスタシーと「最強」というのをすり替えるのが得意だ。あなた方は最強を求めているように偽っているが、それが嘘の最たるものなのである。あなたがたは決して最強など求めていない。あくまで大量生産された強さに甘んじているのだ。たとえばあなたという小役人は市民に偉そうに振る舞うことで、強さを感じているわけだが、こういう大量生産された強さが、あなたの強さの実態であり、それを最強だと偽っている。

あまり早々と倫理を持ち出して、話の腰を折ってはいけない。「弱い人間に勝っても意味がない」とか空々しいタテマエで幕引きをしてはならない。弱い人間に勝つことで強さを感じ、「最強」だと錯覚するのが、あなたがたのやり方なのだが、まずはその事実を明確にすることである。
われわれ人道主義者は、弱い人間に勝つことの楽しさを語ろうではないか。酒を酌み交わしながら、有村さんと加野瀬のどちらが弱いのかを語り尽くす。それはとても楽しい。そして自分が強くなったように感じる。その酒宴の盛り上がりが最高潮に達したら、
「こうやって人々は強さを感じているのです。これが強さの実態なんですよ」
と、わたしは宣告するのだ。
あなたがたの強者の論理に冷水を浴びせ、大量生産された強さの実態を暴露することが必要である。

あなたがたは強さの大量生産が必要と主張するかもしれない。誰だってどこかで威張り散らしたい。威張り散らせる相手のいない人生なんて、生きるに値しない。出来るだけ多くの人間が「強さ」を感じて生きていくのがよいのだ、という見解を述べるかもしれない。最強の人間しか強さを感じられないのであれば、人間は生きていけないし、だから強さを大量生産するために、弱者(スケープゴート)が必要だというのもひとつの理屈だ。
だがわたしは、「強さ」を「最強」と言いくるめる欺瞞を告発する。下から数えた方が早いポジションなのに、最弱決定戦への参加で「強さ」を感じ、「最強」と錯誤するのがあなた方のやり方だが、そういう誤魔化しは終わりにして貰いたい。
たとえば有村さんが加野瀬に勝ったとしたら、
「俺は強い」
と意気揚々としているだろう。
有村さんは通俗的な物語に流されやすいから、初老の加野瀬に勝った「強さ」を「最強」と誤認して恥じないだろう。偉業でも成し遂げたかのように英雄譚を語り、舶来品の葉巻をくわえて有村さんはふんぞり返るだろうが、わたしが看過できるはずはなく、教誨師として説諭するだろう。
「あなたは初老の加野瀬を倒したことで強さを感じたらしいが、最強とは程遠いわけだし、とても品質の悪い出来損ないの強さを身につけただけなのだ」
果たして有村さんはわたしの言うことを理解できるかというと、かなり疑問である。大量生産された「強さ」と、すべての強者を倒した「最強」は違うのだと説明しても、概念的思考に弱い高卒の有村さんでは理解できる筈もなく、強いんだから最強だと言い張るだろう。
「そんなに強いなら他の強者と戦ってみたらどうです」
と促しても、めんどくさいと言ってゴロゴロしているだけだ。
これがあなたがた強者の実態なのである。
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