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われわれが個体としての同一性を持つのは、肉体の担保性によるのだが、これだけでは足りない。物質的に同一であっても、その確認作業がなければ意味がないからだ。時間が経過し状況が変化しても、同一人物であるという自我を保つのは、記憶の反復である。記憶の反芻を頻繁に行うことで、人間は同一性を保っているのだ。時間の流れの中で、人間は再生産的に存在している。過去の記憶の反芻を繰り返し、自らの同一性を確認し、一日三食食べて肉体を維持しながら生きている。つまり毎日毎日別人になるのではなく、同一人物として再生産する。時間が経過するたびに体験は過去として過ぎ去っていくが、それは遺灰として海に投げ捨てられるのではなく、記憶の反芻によって、過去は歴史的に定着し、現在の自分に組み込まれる。すべての体験の重みは均一ではなく、自己を再生産する過程で何となく消え去るものがあれば、消えないものもある。消えない最たるものが「あの女とやった」という事実である。この事実性だけは何度も何度も再生産の中で現前し、色褪せることなく反芻が続く。15世紀にジャンヌ・ダルクがイギリスに捕まった際に、検査で処女膜が確認されたため、異端審問での死刑を逃れるかと思われた。魔女と認定される基準として、「悪魔とセックスした」という理由付けが多かったが、処女膜があるジャンヌ・ダルクに対してそれは出来なかった。しかし牢獄でイギリス兵からレイプされ続けたので(むなしい抵抗として)男装したところ、その男装が異端者の行為であるとして火刑に処された。ジャンヌ・ダルクがレイプされたという絶対的な証拠はないのだが、司教から死刑を告げられた時に「教会の牢で教会の番人だったら、こんなことにはならなかった」という不満をジャンヌが唱えた記録は残っており、おそらくされたのだろうと推察される。ジャンヌ・ダルクも、それをレイプしたイギリス兵も遠い昔に死んだので、その陵辱の苦しみに終止符が打たれたようにも思われるが、歴史書でこのエピソードに出くわすたびに痛ましさが再生産される。後にローマ法王は異端としたことを取り消し、ジャンヌ・ダルクの名誉を回復したのだが、バチカンで公式に聖女と認定され、フランスのカトリック教会で信仰の対象となるほどに、この少女の純潔を陵辱したイギリス兵の勝ち逃げ感が強まる。いろいろな事件が起こるとして、それに対するネットの反応を見ていると、それなりの傾向がある。性犯罪に関しては、「こういう刑罰を下そう」というアイデアがたくさん投稿される。どうやってリンチしようかと空想し、むなしく知恵を絞るのだ。囚人でさえ、性犯罪者は許せないと思うらしいが、根底にあるのは、勝ち逃げ感への嫉妬だ。破産した敗残者としてムショに入ってきたのではなく、勝ち逃げしてムショに来たというオーラがあるから、リンチに遭ったりする。会社の金を五億円使い込んで豪遊したという犯罪者に勝ち逃げ感はない。五億円の豪遊をして楽しんだかもしれないが、そんなものは現在では夢幻であり、現在という時間の再生産プロセスには組み込めない。現在に残らない浪費をしたわけであり、過去の時間の中で破産済みなのだ。もちろん一般的に楽しかった過去はよい記憶として再生産され、後の人生に組み込まれていくのだが、横領した金で豪遊して逮捕されたら終わりに決まっており、キャバクラ嬢と飲み明かした楽しい記憶なんて再生産プロセスから弾かれる。しかし性犯罪は永遠性があるようだ。過去の五億円の豪遊とは違い、永遠的に再生産される勝利であるらしい。性犯罪の被害者にとっても、その記憶は永遠的である。「やられた」という事実性の強さが死ぬまで付きまとうのである。男性器を女性器に挿入するくらいに撤回不能の強力な事実はない。たとえば絨毯を汚したなら、その汚した事実は覆らないにしても、新しい絨毯に交換すれば解決する。時間を巻き戻して絨毯を汚さなかったように歴史を書き換える必要はなく、新しい絨毯を購入すればいいのだ。絨毯を汚した事実は事実だが、これは新品交換で容易に原状回復出来るので、(撤回不能性としての)事実性が弱く、時間の不可逆性に阻まれない。このように、何かが壊れたから買い換えるようなことは、時間の流れの中の出来事ではあるとしても、どうでもいいことだから曖昧さの中に忘却される。絨毯を汚した過去は自己の再生産プロセスの中でいちいち反芻しないので、時間軸から外れた物理的問題だ。性犯罪の問題は、このような解決が出来ない。本人の記憶力の問題ではなく、「やった」とか「やられた」という事実の撤回不能性の強度が強すぎるので、忘れる忘れないの話ではない。いじめ被害者が後の人生で負け組になると、いじめられた記憶を毎日反芻しながら苦しんで生きると言われるが、仮に人生で成功したら克服できる。いじめられたというのも事実性が強く、「あいつはいじめられっ子だった」という事実性は撤回できないので強度があるが、「あいつはレイプされた」というのに比べれば、はるかに強度が弱いので、人生の成功で克服することが可能だ。ドーピングした金メダリストからメダルを剥奪することは出来るし、その栄誉の記憶には泥が塗られる。金メダル獲得の際に、どれだけ賞賛を受けたとしても、その全能感は抹消され、これからの人生の再生産プロセスには組み込まれない。栄光の日々を思い出しても、オリンピックの舞台で光り輝いた自分は虚偽であり、苦い記憶として再定義され、無惨な自分を再生産する後半生を過ごす。金メダルは社会的な達成であり、その事実性を社会で抹消されたら、金メダリストとしての自己を再生産できないのは当然だ。こうやって長々と筆を走らせても、ジャンヌ・ダルクの処女を陵辱したイギリス兵の勝ち逃げ感が拭えない。500年以上の時間が流れても、このエピソードは風化せず、どこまでも痛ましく再生産される。性とは美の消費なので、容姿の問題が重要だが、ジャンヌの肖像画などはまったくないため、どういう外見だったかは不明である。ジャンヌ・ダルクは貴族でも何でもない農民の娘であるが、それが天啓を受け、廃嫡されていたシャルル7世に謁見し、見神者として軍隊を率いたのだから、人々を惹き付けるカリスマ性に溢れていたことに間違いはなく、それなりの容姿レベルだったはずだ。ジャンヌ・ダルクが生きていた当時の中世社会では女子は12歳で成人とされており、十代後半のジャンヌは大人として扱われていたとも思われるが、何にせよ今日のような移民大国ではなく、生粋のフランス人で10代の少女だから、よほどのことがない限り美少女だと思われる。(もちろんフランス人少女としてあり得ないドブスとして存在感があった可能性もなくはない)。刑法で最高の罪は殺人だとされているが、殺されずともいずれ人間は死ぬので、永遠の命を奪われたわけではない。世界史的人物が天寿を全うするべきではないとも言えるし、ケネディやキング牧師が暗殺されても犯罪被害者として扱わないのと同じで、ジャンヌ・ダルクが処刑されたのも普通のことだが、陵辱の件だけは引っ掛からざるを得ないのである。後年シェイクスピアはジャンヌを売春婦として描いているが、ジャンヌの処女性を破壊したいのがイギリス人の欲望なのだろう。
有村悠さんのアフィを踏んでから、以下の書籍を購入しました。

全学連と全共闘 (平凡社新書)
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粉飾 特捜に狙われた元銀行員の告白
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こうなったら会社はたたみなさい?がんばりすぎない「倒産のススメ」
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昭和史 1926-1945: 671 (平凡社ライブラリー 671)
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スターリンは身長163センチだったが、シークレットブーツで威厳を保ちソビエトを支配した。だが、こういうのは稀であり、男性がシークレットブーツを履くのはほとんど無い。スターリンも、ソビエトだから可能だった。シークレットブーツの報道をさせないために、スターリン時代のソビエトは恐怖政治に徹したとも言える。
日本だと伊勢谷友介がシークレットブーツの愛用者であり、彼の実寸は(ドラマの共演者との身長の比較から)175センチと推定されているが、かつては183センチということになっていた。175センチでも日本人としては普通に高身長だが、白人の平均身長178センチよりは低いので、すごい特別という感じはない。ブーツで183センチにすることで、プレミア感を出せたのである。
伊勢谷が女をホテルに連れ込んだらブーツを脱いで8センチ低くなるわけで、女がどう思ったのか気になるが、173→165なら即座に女が帰るとしても、183→175なら、高身長であることに変わりがないので、さほど問題なかったのだろう。実際、伊勢谷友介は全盛期の広末涼子を含め、多数の女優と浮き名を流したので、183→175はOKのようだ。

一方、女性のハイヒールは認められている。これが誤魔化しだと言われることはない。なぜ女性のハイヒールが文化的に受け入れられているのかというと、ガチの高身長女性は敬遠されるからである。街を歩く時はヒールで見映えをよくし、性交時には小さくなってくれた方がいいのだ。女性のハイヒールは「遊びの高身長」だから素晴らしいのである。女がガチの高身長になることは、男女とも求めていないのである。ガチで高長身の女性は(モデルのようなスタイルがあれば)見映えがよいという側面もあるが、性的にストライクゾーンから外れると感じる男性が大半だろう。だから、素は低身長で、ヒールで高くして見映えをよくするのが最も望ましい。

フェミニズムの観点から見ると、男性は高身長、女性は低身長が望ましいという偏見で、男女の優劣が規定されていると糾弾することも可能だろう。だが、これは社会的に後付けされたものではない。男性の高身長が望ましいとしても、三メートルあることは求められていない。そもそも人類は二足歩行なので、三メートルとか五メートルになったら直立するだけでかなりの負担だと思われる。女性に低身長を求めるのは人類の身長を二メートル以内に抑制するための遺伝子の選択だという戯れ言でまとめることも可能だ。
実際、身長とは、身長差に敏感であることから起こる問題で、たとえば男性で160センチと180センチを比べたら倍くらい違うように感じるが、実際の比率は8:9であり、ほとんど誤差だ。そもそも顔にしても(極端なブスを除けば)ブスと美人の違いは誤差とも言える。普通なら誤差として見逃す差異でも、身長と顔に関しては認めないのだ。

有村悠さんは公称163センチで、実寸は159センチと推定されている。
全身像はこれである。

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男性だと考えると、かなり不格好であるのは言うまでもない。ごく普通の全身像なのに、障害者を晒し者にしているような感覚がぬぐえない。
しかし、街を歩いている女子高生だって、大半はこんな体型である。160未満で短足というのが基本だ。手足がすらりと長くて160センチにまとまっている日本人女性は少数派だ。有村さんは中川翔子と似たような等身とも言えるのだが、しょこたんが可愛くて、有村さんが奇形扱いされるのは本能として仕方がない。
宮台真司は男性には珍しく言語流暢性がかなり高い。まったくよどみなく喋ることが出来るのだ。宮台はよく「上祐にそっくり」と揶揄されるが、男性に珍しい言語流暢性の持ち主として共通点があるからだろう。男性で天才型というと、たとえばビートたけしのように、一度頭の中で溜めてから言葉にする人が多い。考えてから言葉にするまでワンクッションある。たけしが頭の中で閃いてから、それが言葉に変換されるまで、われわれ視聴者は待つわけである。吃音は男性に多い障害だが、ビートたけしは吃音になりやすいタイプだと言える。三島由紀夫は「金閣寺」において吃音という障害をとても効果的に扱った。金閣寺の実在の放火犯が吃音なので、小説金閣寺の主人公が吃音だというのは三島の創作ではないが、吃音という障害を、内面世界と外面世界のズレの問題として描き、世界文学の最高傑作を生み出したのである。内面世界でもがいているうちに、外面世界に辿り着けなくなってしまうというテーマ性に結びつけたのだ。三島由紀夫は「金閣寺」の最終行で主人公に「生きよう」と(故意に)そらぞらしく宣言させ、ボディビルでの肉体改造を始めた。これが30歳の時である。30歳まで三島は(戦時に徴兵検査で落とされたままの)ミイラのような肉体で生きていたのだが、ボディビルで肉体改造を行い兵隊ごっこを始め、45歳で自衛隊市ヶ谷駐屯地に乗り込み、クーデター未遂で割腹自殺を遂げるのである。同時代の文人であった石原慎太郎は三島のボディビルを「死んだ筋肉」と揶揄していたが、三島は全共闘での学生に対する講演でこれに言及し「あいつはわたしにコンプレックスがあるんでしょう」と述べて聴衆を笑わせている。その死んだ筋肉で三島由紀夫は15年間たくさんの作品を書いたが、かなり駄作が多かったと言える。三島由紀夫の評価の大半は30歳で書いた金閣寺までとなる。宮台真司は空手自慢を頻繁に行うが、彼の背丈は165センチないくらいであり、小学生の頃は運動がまったく出来なかったと告白したことがある。知力に長けていても、肉体は極めて劣悪だったのである。三島由紀夫は金閣寺を書いてからミイラのような肉体を改造したが、宮台真司は最初から空手で肉体コンプレックスの解消を目指した。知性に性的魅力がないという葛藤の問題を、後付けの死んだ筋肉で未成年の少女を抱くことで解消したのである。宮台真司がこれをやっていた頃は法律も整備されておらず、現在の厳しい法律は遡及しないから、彼は決して凶悪犯と扱われることはない。ギリギリで逃げ切った格好であり、このあたりは保身に長けていた。宇野常寛は「ゼロ年代の想像力」の帯で宮台に絶賛してもらう見返りに、宮台の転向を知識人の課題として美化して書いたが、実際は法的リスクが高まったから逃げただけのことである。宮台は男性には珍しい言語流暢性があるため、知性に対する評価は難しい。思考を言語化するまでにワンクッション置かないというのは、卓越した話術の持ち主として評価することが出来るものの、その自慢の知力の浅さという側面もあり、少女の性という短絡的なところに結びついたのは、内面世界にリビドーを備蓄するタイプではないから、と評することが出来る。性欲を溜めに溜めて昇華することが出来ず、直截的に満たすことによって解決を図った人間であり、当然ながら、性的優越感・性的劣等感で人を判断するのだが、こういう発想は通俗的には力があるので、それなりに信者もいたわけである。三島由紀夫の「金閣寺」の主人公は有為子というヒロインに思い焦がれているが、その思いを走らせ、夜道で有為子に会うものの、吃音で何も話せなかった。彼は内面世界を走って有為子の前に辿り着いただけであり、いざ本人を前にすると、吃音というズレのために外面世界には到達出来なかったのである。そして気持ち悪い人物として告げ口され叱責を受ける羽目になる。金閣寺の冒頭は戦時下の日本が舞台だが、有為子は海軍病院の特志看護婦として働いており、そこで兵士と親しくなり妊娠する。兵士は脱走し、有為子は弁当を届けていたが、これを憲兵が嗅ぎ付けることになる。追い詰められた脱走兵は有為子の背中を撃ち、自分も自決する。こうやってヒロインが死ぬのが第一章であり、第二章以降は、金閣という美の象徴を巡る葛藤の話が描かれる。最終章で主人公は金閣寺に放火し、最上階の究竟頂で死のうとする。究竟頂は内部に金箔が張り詰められ美に溢れた空間と(小説内では)規定されているが、煙が立ちこめる中、この部屋の扉をどれだけ叩いても開かない。究竟頂から拒まれていることを確信した主人公は、この部屋で死ぬことを断念し、炎上した金閣を背にして逃亡するのである。宮台真司は男性としては希有な言語流暢性があったから、劣悪な肉体に死んだ筋肉を付けて少女の前に走っても、金閣寺の主人公のような吃音には阻まれなかった。劣悪な肉体により、リアルタイムの青春から阻まれていた宮台も、我が世の春を体験できたらしく、割腹自殺を決行するなどの異常性はまったく見られず、ごく普通の勝ち組に落ち着いたようである。肉体が劣悪だから内気な青春時代を過ごしただけで、本質的には社交的な人物なのだろう。石原慎太郎の「太陽の季節」は拳闘をやっている長身の美青年が主人公である。「太陽の季節」は弟の石原裕次郎やその放蕩仲間のエピソードをネタにして書いているから、石原慎太郎本人の話というわけでもないが、石原慎太郎も肉体には恵まれており、ああいう太陽族の世界観を共有していたと言える。石原慎太郎の拳闘と宮台真司の空手の違いについては説明の必要がないと思うので筆を省くが、宮台が石原の悪口を書いているのは目にしたことがある。三島由紀夫のような不世出の大天才でも、貧相な肉体から因する青春の欠如に悩んでおり、それを古臭い文学で美化した太宰治を憎悪していた。太宰治の実家は青森県で指折りの大富豪であり、身長173~175センチくらいだから、当時としてはかなりの長身であり、顔もそれなりの美青年だ。太宰が「斜陽」を発表したあたりということなので、1947年のエピソードだと思われるが、三島由紀夫は文学仲間に誘われて太宰に会いに行き、「僕は太宰さんが嫌いなんです」と言ったことがある。この頃の三島は22歳くらいであり、文壇にデビューはしていたが、まったくの無名であり、太宰は三島を知らないはずである。「そんなこと言ったって、こうして来てるんだから、やっぱり好きなんだよな。なあ、やっぱり好きなんだ」と太宰が答えてそれきりだったそうだ。長身イケメンで大富豪の息子である太宰がご丁寧に東大文学部を中退し退廃的な文学者を気取っているのが、ガチの肉体的弱者である三島には耐えられなかったのだろう。三島は東大法学部から高等文官試験に合格し大蔵官僚になったが、早々と退職し「仮面の告白」や「金閣寺」などの傑作を残し、世界的な評価では完全に太宰を追い抜いた。しかし太宰への憎しみは生涯消えなかったようである。
なぜ40代独身おばさんが大量に生まれたかというと、この年代は玉の輿に乗るつもりで、フェミニズムを推進していたからである。バブル期のメディアにおいては、「三高」というのが盛んに取り上げられた。高学歴・高身長・高収入ということである。この場合の高学歴とは早稲田慶應が最低条件である。明治だとブランドとしての価値はなかった。不細工を容認するとしても、早稲田慶應以上の学歴で高身長男性となると、一割未満になる。顔が平均以上というところまで絞ると、男性の数パーセントになるだろう。ともかく、そういう玉の輿に乗るということで怪気炎を上げていたのである。これは三流ゴシップ誌だけの現象ではなく、朝日新聞でも「女性は三高を求める」と繰り返し特集された。法律のルールが一夫一婦制であることを考えると、上位一割のハイスペック男性としか結婚しないという風潮は理解に苦しむわけだが、三高でなければ結婚しないという主張をすることで、女性が高飛車に振る舞い、ロースペック男性の弱さを強調する目論見だった。1980年代だとインターネットがないので、マスメディアを相対化する装置がなく、メディアが旗を振れば、人々はそれに付いていくしかなかった。そして上野千鶴子というアスペルガーのブスが時の人となった。上野千鶴子は男性的傾向が強く、女の子らしさを期待される世の中で苦しんでいた。美少女なら自閉でも萌えるが、何しろ目つきが悪いドブスだから救いようがなく、魂の底からねじ曲がっているゴミなのだが、しかしそういう異形性ゆえに存在感が突き抜けており、左翼メディアから歓迎された。上野千鶴子の発言は一夫一婦制を前提とすると理解に苦しむことばかりで、頭がおかしいのではないかと思うのだが、上位一割のハイスペック男性と結婚出来なければ独身の方がマシというアジテーションだったのだろう。一夫一婦制の問題を無視しているのも、ドブスのルサンチマンとして、わざとやっていたのだろう。ドーキンスの進化論の受容のされ方と似ている。「女は優秀な遺伝子を求める」という通俗的な思想を補強してくれるから、いかにも男女同権社会にふさわしい。人類の基本が一夫一婦制であり、そもそも最近まで女には選挙権すらなかったことを考えると、ドーキンスの利己的遺伝子云々は動物にしか当て嵌まらないと思うのだが、なぜか人間的選択として受け入れられているようだ。生物が有性生殖をはじめたのは10億年くらい前と推定されており、たいていはフリーセックスだと思われるから、一夫一婦制をやっている人類は極めて例外的だ。あと千年くらい経ったら人類が一夫一婦制をやめている可能性もあるし、言論の自由があるのだから、一夫一婦制を否定してもいいが、それを明言するのがフェアであろう。ハイスペック男性が何百人も子供を作って養うのは無理なので、一夫一婦制を廃止するなら、自立した稼げる女性が未婚の母として養うのが妥当だが、たぶんろくに稼げない未婚の母の問題も出てくるし、ロースペック男性の税金で養うということになるだろう。ロースペック男性からハイスペック男性への所得移転が妥当なのかという問題を議論しなくてはならない。シングルマザーへの手厚い生活保護という形で、この所得移転はすでに実行されている。他人のこどもに声を掛けただけで捕まるのに、「子どもを社会で育てる」とか妄言を吐いて、他人の子ども(遺伝子)に税金を使いまくる現状への危惧も提示しなければならない。またこの文脈では、遺伝子は男性のものであり、女性は母胎を提供する畑に過ぎないという発想がある。この考え方は、女に平等を与え、ハーレムに参加出来ることになるので、上野千鶴子には支持されるだろうが、優生思想をそこまで広めるなら、上野千鶴子を遺伝子的に無価値なロースペック女性として考え、これくらいのクラスの女が未婚の母になっても決して税金で補助しないという措置も必要だろう。「産む機械」という大臣の発言にフェミはすごい反発したわけだから、女は母胎の提供者として平等だという発想にも甘えるわけにはいかない。フェミニズムに最近勢いがないのは、一夫一婦制を否定したことの結果として、高望みの末路の独身オバサンが大量に生まれたからである。踊らされたオバサンの大半は一夫一婦制の破壊に参加している自覚がなかった。本当に玉の輿に乗るつもりだったのだ。ハイスペック男性でなければ結婚しないと言っていたら独身おばさんが大量発生するのは火を見るより明らかだったのだが、40歳を過ぎてようやく気づいたらしい。もちろんそういうオバサンに選ばれなかったロースペック男性も独身なのだが、高望みだけは果てしない中古女を養わずに済んだと言える。この種のおばさんと結婚しても、生まれた子供が誰の子かわかったものではない。このあたりのベビーブーマーに関しては、未婚の母としてハイスペック男性の遺伝子を税金で育てるというムーブメントが広がらなかったので、すでに閉経も近いし、事なきを得たのだが、今後は未婚の母が広がり、ロースペック男性の奴隷化が行われる可能性もある。一夫一婦制が絶対的に正しいというわけでもないし、高収入の女性が未婚の母として税金を使わずハイスペック男性の遺伝子を残すなら文句は言えないが、そういう未婚の母は少数派であろうし、たいていは税金で面倒を見るのだから、シングルマザーは一夫一婦制の破壊者であり、ロースペック男性から税金を徴収し、ハイスペック男性の遺伝子を残す収奪者なのである。一夫一婦制をなくしてハーレム状態になることは、10億年の有性生殖の基本に立ち返ることであり、決して悪いとは言えないのだが、金銭的な負担を誰に求めるのかという問題は考えなくてはならない。
世の中生きていくのが辛いと言っている男でも、天使のような美少女が降ってきたらパラダイスになるに違いない。もちろんそういうことはない。セックスはとても排他的なものだからだ。「誰とでも寝る女」という言い方があるが、これはイケメンなら誰でも股を開くだけであり、本当に誰とでも寝るわけではない。

学生運動たけなわの頃、まさにこの問題が核心だと考えた人達がいたわけである。「誰とでも寝る女」を本当に実行した女が少なからずいたのだ。田原総一朗がAV男優だったという変な噂があったが、御本人がNHKの番組で語ったところによれば、学生運動最盛期に活動家の取材をした際、「人類はひとつだから、わたしは誰とでも寝る」という女子学生がいたので、「だったら俺とでも本当に寝るか」と田原が言ったところOKだと言われたので、それを実証するために、テレビカメラの前で本当にセックスしたそうである。もちろんそんなのを放送出来るわけもないので、フィルムはお蔵入りになった。そのエピソードが変な風に伝わって、AV男優云々となったそうである。

共産主義にかぶれた人間が「誰とでも寝る」というコミュニティーを作ろうとしたエピソードはあれこれあった。だが、うまくいった試しがないようである。文字通りに「誰とでも寝る」というのは、人間を破壊してしまうようである。

われわれ人類の問題としてあるのは、ブスと美人では性的価値がまったく違うことである。われわれは味覚音痴であることが多く、うまい飯とまずい飯の区別が付かない人が多い。だから虚偽表示もはびこる。今だと食品添加物が発達しているので、ジャンクフードでもそれっぽい旨味を出せる。われわれの味覚のハードルは低いので、ジャンクフードでもさして文句がないのだ。しかし美人とブスの違いは絶対的だ。ブスでは性的満足が得られない。はっきり言えばブスとやってもダメージなので、やらない方がマシなのだ。味覚に関してはジャンクフードで満足できるのに、性だけは美を求めるのである。

仮に人間が美に関して「味覚音痴」であり、美人とブスの見分けがあまり付かず、ブスでも大満足というのなら、人間の苦悩はかなり少なかったと思われる。ブス(ジャンクフード)で大満足となると、ずいぶん大味な世の中であり、決して芸術は生まれないだろう。セックスの相手を選り好みすることが苦悩の根源なのだが、ここが思い通りにならないことで文化が成り立っているという側面もあり、そう考えると、人間的苦悩は決して解決されないのである。誰でもジャンクフードで満足できるのなら、共産主義もあり得るが、選り好みこそが人間なのだ。
「紙の約束」(フィリップ・コガン)という本を読んでいたら、興味深い話が載っていたので、記しておこう。


1937年にケインズは人口減少を予測していたそうである。
講演でこんなことを言っていたそうだ。

「未来に関する社会的もしくは経済的要因については、他の何にもまして確実に分かっていることがある。これまで何十年、何百年にわたって経験してきた着実かつ急激な人口増加に代わって、われわれはごく近いうちに人口水準の停滞もしくは低下に直面するだろうということだ」


そして、これはケインズ独自の発想ではなく、当時のイギリスでは普通の考えだったという。
この頃のイギリス政府の統計部門は2000年までにイギリスの人口は減少し3400万人まで減ると予想していた。
現在のイギリスの人口は6000万人を越えているから、これは予想の大ハズレである。
移民の問題もあるだろうが、基本的には戦後のベビーブームである。
第二次世界大戦前夜において、これは予想の埒外だったようだ。

日本では少子化少子化と騒いでいるが、これも予測がハズレることはあるだろう。
今は都市部の人口が過密すぎる。
都市部の人間は人口の多さにウンザリしており、立錐の余地もない競争社会に子どもを送り出したくない。
そうかと言って、田舎は地元意識が強すぎるので移住したくない。

いずれ田舎の限界集落の老人が死に絶えて完全な無人になれば、田舎の「地元意識」が消滅してくれるので、かつて屯田兵が北海道に行ったような流れが起きる可能性もある。
地元意識の固まりの田舎は嫌だが、地方に無人の大地があるなら、新都市を建設して、そこに住みたいと思う人だっているだろう。

政治家は田舎の地元意識に訴えて票を得ているから、地元意識を鼓舞する側であり、田舎の無人化による新都市という発想は受け入れないが、黙って待っていれば田舎は無人化する。
田舎者の老人が限界集落を形成し、一票の格差と高い投票率で政治的発言力を持っている変な状況が終わってくれる。
「あの老人が寿命で死んでくれれば」という議論は公には出来ないので、そういう前提で問題が論じられることはないが、田舎が無人化すれば、次世代の若者にとって新天地となりうる。
有村悠さんは少年時代にママからゲーム機を禁止されていたのでゲーム音痴であり、ゲームの暗黙の了解が理解できていない。普通のゲーマーなら本能で呑み込めることでも気づかない。現実世界の空気が読めず、ゲームの空気も読めないのだ。前回のイベントは戦艦武蔵入手の難易度がかなり高めに設定されたので、パニックに陥ったようだ。自慢の艦隊が撃沈され続けたので絶望し、成城のクリニックに駆け込む羽目になった。しかし今回のイベントはぬるすぎて、有村さんに丁度いいレベルである。

それにしてもやばいのはレアドロップ率の高さである。レアがレアで無くなる危惧がある。まずイベントの難易度が低いのでクリア自体簡単なのだが、クリアしてしまえば厄介なボスがいなくなるので、さらに難易度が下がる。今回のイベントはE3まであるわけだが、E2巡回はかなり容易で、二軍を出してもS勝利で帰還してくる。E2巡回だけで、かなりレアが出る。他のユーザーの情報を見ても、レアが出まくっているという報告が多数だ。このイベントが1月8日まで続くのだから、誰でも長門と陸奥を持ってる状態になるだろう。

コラボイベントだから、挫折者を減らすために難易度下げたのだろうけど、いくらなんでも下げすぎだし、レアドロップ率も高すぎである。普通にやってたら1月8日までにレアが全部揃ってしまうので、イベント後にやることが何もなくなる気がする。

このイベントと同時に導入された建造システムは資源をドブに捨てるのと同じであり、阿鼻叫喚の光景が繰り広げられている。課金ページを見ると、30000円と50000円のボタンがあるのだが、これは今回の建造システムに合わせて作られたらしい。わたしは通算で4000円課金しているのだが、(課金ページなんてほとんど見ないので曖昧ながら)今までは10000円までだったと思うので、今回の建造システムは高額課金を狙っているようだ。

新建造システムの鬼畜ぶりと比べると、このドロップ率の高さは設定ミスを疑うレベルである。戦艦大和はさすがに建造限定だが、たいていのレアは今回のイベントで誰もが手にすると思われる。日本海軍をモデルにしているのだから、世界観の維持が必要であり、架空の戦艦を出すわけにもいかない。もうほとんど出尽くしたので、新しい艦への期待もない。このコンテンツの先行きも心配されるところである。

あと、今回はレアがかなり落ちるので、母港を拡張するかどうか悩まされるはずだ。わたしはドックはふたつ増設(2000円)してるのだが、このゲームの先行きを考えると、母港拡張に課金する気があまり起きない。とりあえずレア度が低い艦娘を解体している。
ネットでよく見掛ける反論のパターンとして、友人知人の例を出すというのがある。

たとえばわたしが
「イケメンの医者がブスと結婚するわけがない」
と言ったとする。
そうしたら
「わたしの友達はブスだけどイケメンの医者と結婚したよ」
というレスが返ってくる。

ハイスペックな男性がブスと結婚することもあるだろう。
そういう例外はあるに違いない。
その例外を強調して伝えたい場合に
「わたしの友達はブスだけどイケメンの医者と結婚したよ」
という反論をするわけである。

友人知人の事例というのは、たいていは創作だと思われるが、なぜか説得力があるようである。
具体例(現実)は重みがあるから、具体例を創作するのである。

わたしが
「40過ぎの独身のオバサンはもう結婚することもないし子どもも生まないんだから」
と言えば、
「わたしの友達は女子だけど45歳で結婚して出産したよ」
という反論がなされる。
野田聖子は50歳で出産したから、あり得ないとは言えない。

このように「わたしの友達は~」と例外事例を挙げるのは、なぜか有効判定されるらしいので、どんどん使うべきである。
「わたしの友達は~」というのに対して、「つまんねー作り話するな」というツッコミが入ることは少ない。
他人の話を信じることでネットは成り立っているとも言える。
他人の話をいちいち疑っていると、この匿名空間が成り立たないという問題もある。
誰もが嘘を吐いていると疑い始めると、まったく内実を欠いた虚無の空間であることが露わになってしまう。
だから他人の作り話を真に受けることになるし、経歴詐称が横行することになる。
マスメディアも嘘を吐くし、警察も誤認逮捕するのだから、われわれもネットを信用して使った方が楽しいのだ。
絶対的な真実を確認してからでないと歩けないというのでは身動き取れない。
艦これは2013年に一世を風靡したコンテンツである。昔のファミコンのノリであり、決して先進的なゲーム体験ではないのだが、無課金でも問題なく遊べるという理由でかなりヒットした。

モバゲー・グリーはユーザーを競わせるので、どうしてもギスギスしていることが多く、あまり幸福ではないゲーム体験を与えるものだった。モバマスくらいにユーザーが多いと、みんなでワイワイという雰囲気もあるが、たいていは他人の生々しい優越感に触れて嫌な思いをする。モバゲー・グリーの衰退は、アクション性がある本格的なアプリの登場に押されている部分も大きいが、艦これのような素朴なゲームのヒットを見るに、やはりモバゲー・グリーで幸福な体験を得た人が少ないのだろう。勝ち組と負け組を競わせてギスギスさせて課金に繋げるモバゲー・グリーのやり方はもう終わったのである。

艦これの問題点としては、日本海軍をモチーフとしているため、すでに大和とか武蔵とか出し尽くしており、新たな展開がし辛いことだ。普通にやってるとゲームクリアに近い状態になってしまう。史実や軍事知識に依拠しているのが人気の秘密だが、それが縛りになる側面もある。

わりと適当にやっているわたしでも、これくらいのデッキである。

kankoredeck.jpg



レベル90くらいまでは簡単に上がるし、初期からやっていればレベル99までカンストしている艦がたくさんある人も少なくない。これ以上育てる意味がなくなっているので、パズドラのプラス卵みたいな工夫が必要だろう。


その艦これの新しいイベントが始まった。「蒼き鋼のアルペジオ」とのコラボイベントで、1月8日までということだが、前回に比べるとかなりぬるい。二日くらいであっさりクリアしてしまった。ある程度戦力が揃っていれば、簡単に終わる。コラボなのに難易度高くすると、戦力不足のユーザーへの宣伝にならないので、そのあたりの配慮もあるのだろう。

イベントの途中で「蒼き鋼のアルペジオ」のキャラクターの艦船が手に入る。コラボで使わせるためか、かなり強めに設定されている。あまり育てなくても最初から主力として使える。特に潜水艦のイオナはかなり強力である。だが、イベント期間が終わったら、これらの艦隊は使えなくなるので注意が必要だ。

前回はゲージを削っても時間と共に回復するので、短期間でバケツを使いまくりながら敵を倒す必要があった。ただでさえ強いのに、休んでるとゲージが回復してしまうのだから、かなりシビアな戦いであり、脱落者も少なくなかった。わたしも戦艦武蔵は断念し、バケツ不足で離脱せざるを得なかった。

今回はゲージが時間経過で回復しないので、ゆっくり削ればいい。わたしは前回のイベントの反省を踏まえ、バケツ290用意した状態だったのだが、拍子抜けである。たぶん今回はコラボのために難易度を緩めたのだろう。

イベントマップを一回クリアすると、ボスが出て来なくなるので、難易度は下がる。レアが出やすいようなので、レアのためにイベントマップを巡回するのもありだろう。わたしはクリアしている最中に陸奥を拾ったが、陸奥はすでにいるので意味がなかった。

なお、今回のアプデで大型艦建造というシステムが出来た。大量の資源を投じてレア艦をゲットするというものだが、大々的に資源を溶かして悲鳴をあげているひとが少なくないので、よほど資源に余裕があるのでない限り、建造はやらない方がいいだろう。
婚前交渉の時代である。結婚する前にどれだけたくさんの異性と楽しんだかで人生の価値が決まる。ひとびとが結婚に期待するのは、孤独な独居老人として過ごす惨めな老後を避けるために、配偶者や子どもやマイホームを用意したいということであり、人生後半の「安定した生活」のためである。

DNA鑑定の結果を受ければ、喜多嶋舞は(大沢樹生の子どもでないのに)離婚する際に、大沢樹生に子どもを押しつけたということになる。喜多嶋舞は薄々感じていただろうが、はっきりとはわからなかっただろう。離婚時に大沢樹生が親権を持ったのも、子どもの顔が(たいして美少年ではないとしても)ジャニーズ系であり、似ても似つかないわけではなかったからだ。大沢樹生も離婚時に親権を持ったからには、ほとんど疑惑を持ってなかったはずだ。

まずデキ婚した段階で誰の子かわからないのは仕方ない。結婚する前にいろんな相手と飽きるまでセックスするというライフスタイルが1980年代のバブルの頃から主流となり始め、1990年代には婚前交渉容認が大勢を占めた。結婚前の貞操観念が緩いのは、ここ20年くらいの日本では当たり前であり、責められることではない。そもそもここまで晩婚化したのが有史以来初めてであるし、過去の性のモラルがゆるい時代でも、結婚前に(結婚する気がまったくないのに)たくさんの相手とセックスする文化がそれほどあったとは思えないが、あなた方は新時代を歓迎したのだ。

結婚前の喜多嶋舞は他のジャニーズ(もしくはジャニーズ風の顔の男)と複数寝ていたわけだが、16年前のことであり、1990年代だ。若者が茶髪にし始め、女子高生ブームをメディアが仕掛け、性の低年齢化に(不可逆的な)拍車を掛けた時代であり、結婚する気が毛頭無い相手とセックスするのが世間の常識として広まりつつあった。
1960年代にいろんな相手とフリーセックスしていたら、マルクス主義にかぶれている頭のおかしな女子大生か、かなり身持ちの悪い底辺層の女だと言えるが、1990年代なら主流派と言っていいだろう。わたしはこれを決して素晴らしいとは思わないが、1990年代にいろんな相手とやりまくっていた喜多嶋舞は多数派であると言える。

少なくともあなたがたは、晩婚化や結婚前の(結婚する気がない不特定多数との)フリーセックスを容認しているはずで、それなら喜多嶋舞のようなケースも同情的に見るべきだろう。大沢樹生にしても、フリーセックス文化を楽しんだはずだ。
宮台真司は、あれだけ低年齢層のフリーセックスを「自己決定権」として唱えておきながら、自分は箱入り娘と結婚するという詐術を行った。宮台真司は文化的切断を行い、結婚に関しては東大教授の令嬢を選んだ。
大沢樹生はフリーセックス文化の延長で結婚したのだから、「俺の子じゃない」というリスクは引き受けるべきである。
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