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嫌な体験を忘れる方法はないだろうか、という人がいる。だが、忘れたら困るのでは無かろうか。レイプされたとして、それが忘れられなくて辛いという人は、水に流すことを望んでいるのだろうか。レイプした相手に会っても、笑顔で屈託無く接したいのであろうか。罪を体現するのは人間である。この世の中は因縁で出来ているのである。因縁こそが世界の本質なのである。すべての言動は後患となりえる。この大地に産み落とされると、われわれは因縁という業病に感染し、それは死ぬまで続くのである。

会津の人間が未だに薩長を恨んでいるのも、これは人間としてのルールなのである。会津と無関係のわれわれが歴史を振り返るとしても、薩長は勝利感を持って永眠し、会津藩は死後も敗残者として苦しむと考えたりする。戊辰戦争に負けた側は靖国神社で祀られていない。白虎隊は官軍の大軍勢になぶり殺しにされ、その鈴なりのように並んだ血まみれの死体は野ざらしにされ、死んでもその魂は蔑まれたのである。

もちろん死んだら魂など無いだろうが、死んだ後の勝利感や敗北感が残存思念として残ることは、なんとなく信じている。というより、迷信とわかっていても信じたいのだ。死んだら無になるのを当然の前提としている社会もなかなか恐い物である。

安倍晋三が靖国参拝にこだわるのは、岸信介が山口県(長州)の人間だからである。そもそも靖国神社は、明治新政府が作ったものであり、たかが150年くらいの歴史なのである。靖国神社は大村益次郎(長州閥)が作ったものだから、長州のための神社という側面が強い。A級戦犯を合祀してから昭和天皇は参拝するのをやめたのに、安倍晋三が参拝にこだわるのは、いかにも天皇を「玉」としか考えない長州閥の思考なのである。

ネトウヨが靖国神社を語る際に、この長州閥の問題を顧慮している様子がない。靖国は明治新政府のイデオロギーでしかなく、昭和天皇が参拝を取りやめたのも、戦前の思想の復活にうんざりしたからだろう。明治になって用済みとなった不平士族は西郷隆盛を担いで西南戦争を行ったが、西郷隆盛も靖国神社には祀られていない。

ちなみに今上天皇は平成21年にこのような発言をしている。

http://www.kunaicho.go.jp/okotoba/01/kaiken/kaiken-h21-gokekkon50.html
時代にふさわしい新たな皇室のありようについての質問ですが,私は即位以来,昭和天皇を始め,過去の天皇の歩んできた道に度々に思いを致し,また,日本国憲法にある「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」であるという規定に心を致しつつ,国民の期待にこたえられるよう願ってきました。象徴とはどうあるべきかということはいつも私の念頭を離れず,その望ましい在り方を求めて今日に至っています。なお大日本帝国憲法下の天皇の在り方と日本国憲法下の天皇の在り方を比べれば,日本国憲法下の天皇の在り方の方が天皇の長い歴史で見た場合,伝統的な天皇の在り方に沿うものと思います。

明治憲法において天皇は軍を統帥する大元帥陛下であった。明治憲法と言えば伊藤博文であるが、言うまでもなく長州閥である。官軍に正統性を持たせるために、天皇を巻き込んだのである。日本の歴史全体に思いを馳せている天皇からすれば、長州閥が作った明治憲法とか靖国神社とか、長州への利益誘導でしかないと知っているのである。西郷隆盛も白虎隊も新撰組もすべて賊軍扱いで、靖国神社から愚弄され踏みつけられている。安倍晋三の愛国心も、長州閥らしい私利私欲が見抜かれているに違いない。昭和天皇と今上天皇が明治憲法を蛇蝎のごとく嫌っているのは明らかなのに、それを無視して安倍晋三に熱狂するネトウヨは、山口県出身者か、そうでなければ盲しいた痴れ者でしかないのである。
電通はまったく実力のないサッカー選手を花形役者のように祭り上げた。小売店に売れ残ったグッズが山のように積み重なっていたり、もしくは大量に商品が撤去されたとおぼしき空の棚を見ると、あの取って付けたような賑わいや、その豪奢な虚無が痛々しいが、この痛ましさは秋元康に籠絡されたセガと同じ構造であり、電通側にダメージはない。流行が終わってくれないと困るのが電通なのである。永遠に流行ってしまうと新しいものが売れないので、ガラクタを流行らせて早々とオワコンになるのが都合よい。本田圭佑はガラクタとして葬り去られるが、これこそが電通商法の本質である。流行らせたらすぐに陳腐化させて、また新しいものを売り出すのだ。それこそサッカーが完全に崩壊し根絶やしにされたとしても、電通は野球に乗り換えればいいだけである。先進国の中で日本だけ一業種一社制(ひとつの広告代理店はひとつの業種でひとつの企業しか担当できない)というルールがないから、焼き畑農業であちこち壊滅させて、また別の場所で促成栽培という厚顔無恥な行為ができる。サッカー文化を愛してじっくり育てる必要など無いのだ。大仰に揮毫したキャッチフレーズをいとも簡単に破り捨てるのが電通資本主義であり、糟糠の妻を長年愛するような姿勢とは対極のビジネスモデルなのである。韓流の衰退も、流行させる段階で陳腐化が予定されている電通資本主義としては想定内であろう。われわれが自由だと思っていたネットでさえ、麻生機関の支配下にあった。麻生将豊(麻生太郎の長男)を中心とするコネがあらゆる領域まで繁茂し、神経の深くまで根を張り、電通(ホットリンク)も関与していたのである。世の中は何でもかんでもオープンにはなっていない。裏側に想像力を働かせることが必要である。では想像力で真実がわかるかというと、わからない。スターシステムに猛反発し中村俊輔を外したトルシエに比べると、ザッケローニは度外れにスポンサー(電通)の要求を丸呑みしているし、ザッケローニが利益を受けていても不思議ではないが、その証拠が白日の下に晒されることはない。電通幹部がザッケローニを接待してないことは考えづらい。ザッケローニがあらゆる接待を拒み、なんら饗応を受けず、密議をかわすことなく、無私無欲であのメンバーを選んだと考えるのは困難だ。渋谷のサポーターは、コートジボワール戦で負けたのに笑顔で大騒ぎして痴漢大会やってることからして、サクラであるに決まっている。小泉タウンミーティングと裁判員制度のタウンミーティングでは、公金を使ったので、電通のサクラ問題が明らかになっている。今回の日本代表の敗北は、ネット住民が電通を問題視する大きな切っ掛けとなりうるのだが、その機会を生かそうとするものはおらず、流行らせて陳腐化という電通資本主義に屈しているようだ。サッカーに飽き飽きしている人々の姿は、まさに電通の狙い通りであり、次の疑似餌に引っ掛かるための間抜け面をさらしているだけである。麻生機関の存在は、Jimというひとりの退役軍人が明らかにしたが、Jimが開いた戦端に続く日本人はおらず、勇者が茨の道をひとりで歩いている状態である。遠くの機影や着弾音に気づきながらも、哨戒機を飛ばすことすらなく、死体のふりをして転がっているのが日本のネットユーザーであり、その表情に生気を取り戻す権利など無いのである。Jimがわれわれ日本人の代わりに矢傷を受け、一騎当千の活躍をしたところで、周りが傍観者を決め込んでいるのでは、西村の復活も時間の問題だろう。
はるかぜと言えば、本物のアイドルと並べば公開処刑される存在であった。
だが、このところのはるかぜの写真がやたらと美しいと評判である。

https://twitter.com/harukazechan/media
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最近ツイッターにアップした画像を眺めるに、美少女と言ってなんら差し支えない。
中学生だから容貌も変わるであろうし、美しく成長したという見解もある。
その一方で、最近の写真はアプリで加工しているという指摘もある。
スマホで美肌に加工するアプリが流行ってるらしい。
人間は素肌の透明感で美しさを判断しているから、このアプリでかなり印象は変わる。
肌に張りがあってつやつやだったら、とても美しく見えるようになっている。
美しい顔というのは、目鼻口というパーツよりは、肌によって綺麗に釣り支えられているかが問題だ。
美しい素肌が顔かたちを整えている様子が、綺麗だと感じさせるのである。

美肌アプリなるものを初めて使用してみた。
適当に数分で、はるかぜの地顔そのままと思われる写真を加工してみた。

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地顔のはるかぜは、目や鼻や口が素肌に溶け込んでおらず、武骨とも言えるような野性的存在感を主張しているが、美肌アプリを通すと、それぞれのパーツは白い素肌にすっかり回収されて、天の川に吸い込まれた星々のように燦めいている。

またこれとは別に胸を強調した写真も気になるところである。
明らかにパットを入れて大きく見せている。
すべての写真でパットが入ってるわけではないので、パットが入ってるのと入ってないのを見比べると明らかである。

何にせよ、本人がテレビにでも出れば、本当に美しくなったのかどうか、という問題は明らかになるだろう。
芸能人であるから露出機会はあるだろうし、動いている映像なら一目瞭然で誰でもわかるから、ここで徹底検証して決めつけることに意味はあるまい。
橋本環奈も奇跡の一枚として揶揄されていたが、テレビで動いているところを見たら、明らかに天使レベルの美少女であった。
最近のツイッターに出ているはるかぜの写真が未加工であるなら、ごく普通に人気も出るであろう。
この世に美少女がひとり増えたことになり喜ばしいのだが、果たしてどうなるだろう。
われわれが物の実在を信じていられるのは、他人もまったく同じ五感のシステムを持っているからである。五感によって体験している世界は、人類に普遍的なものである。仮に五感の仕組みがバラバラなら、各自が別の世界を体験していることになり、それはカオスと狂気であろう。人類の五感に普遍性があるからこそ、現実がひとつであると信じられるのだ。

文化や教育の差、もしくは、色覚障害のような障害の差はあるにせよ、人類の五感は同じである。砂糖が甘いのは人類共通の普遍的な経験なのである。物質そのものに味が付いているとは思えないので、砂糖が根源的に甘いわけではなく、あくまで味覚が解釈し、再生される現象の問題である。たとえば猫には砂糖に対する受容体がないから、砂糖を口に入れても甘さは感じないはずである。

われわれは人間の声が同じ風に聞こえるのを当然だと考えているが、同じ振動でも、別の生物の聴覚に別の音で聞こえているということは充分にあり得る。ひとりひとりの声の質は物理現象として固定的であっても、聴覚として経験(体験)される声は、生物種が違えばまったく別かもしれないのである。犬が人間の声を聞き分けるとしても、犬の中で再生(現象)されている声は、人間が体験する声とは別かもしれないわけである。

われわれの聴覚において、人の声と物音は、まったく別の性質を持った音として聞こえるわけである。雑踏の中であれこれ音がしていても、人の声だけは、人の声として再生(現象)される。聴覚は単に空気振動を検査しているのではなく、人の声と物音がそれぞれ個性を持ち、別々に再生される装置なのである。

五感が共通しているから、人類はすべて同じ嗜好を持っている。納豆のような一風変わったものだと好みが別れることもあるが、基本的に人間の好き嫌いは同じである。つまり快・不快が統一されているのだ。すごい美少女とすごいドブスのどちらかを選べるとしたら、ほとんどの人が美少女を選ぶだろう。好みの差はあるにしても、同じ映像を見て、同じ美的判断をしているわけである。

また嗅覚の問題について考えてみよう。高級レストランのテーブルに並んだ食事は見映えがよく、かぐわしく匂う。ナイフとフォークを手にする前から、いかにも鼻腔をくすぐるわけである。それに対して、廃棄される残飯は腐臭がしている。どちらを食べたいかと言えば、正解はひとつである。正解・不正解は決まっている。美少女とブスがいたら美少女が正解であるし、高級レストランの料理とポリバケツに捨てられた残飯を比べたら、高級料理の方が正解である。

五感は、現象世界を生み出すだけでなく、快・不快も支配しており、それがホモサピエンスの間では普遍性を持つから、美少女や、高級マンションや高級料理を巡り、奪い合いになるのも当然である。ドブスと安普請に住んで残飯を食べるとか、人間の五感ではおぞましい体験になるのだ。われわれはこの五感のルールから逃れることはできず、それが強く示唆する正解・不正解に束縛される。

人類の五感が普遍的であるからこそ、争いがあるのである。快・不快の判断が共通しているので、われわれは理想的な環境(正解)を求めて争う。人生に正解・不正解はある。ある岐路に立って、片方を選べば大企業の社長、もう片方を選べばホームレスというのであれば、ホームレスが不正解というのは決まっている。ホームレスとしてダンボールの家に住んで残飯で暮らすとなれば、五感にはとても醜悪な世界が現象してくるのである。五感は完全に現実を司っており、これに抗えるわけがない。
三島由紀夫は自伝小説である「仮面の告白」で同性愛の趣味を延々と書き綴っているが、公式に自分が同性愛者だと認めたことはない。女性と結婚して子どもを成しているので、同性愛は奇を衒ったネタだと見る人もいる。だが、若い頃の三島の状態を考えると、男色家だと断じて差し支えない。三島由紀夫は1925年生まれであり、20歳で終戦を迎えた。この当時だと、若い独身男子が戦争でずいぶん死んでいるので、わりと結婚しやすい状態だったはずだ。三島由紀夫は面長な顔で美男子というわけではないが、不細工というわけでもない。身長は実寸で163センチだが、1925年生まれの人間としては特に低いというわけでもない。その後に東大法学部を卒業し大蔵省に入った経歴を考えれば、20歳前後のかなりレベルの高い処女と見合い結婚するのは、充分に可能だったはずである。道重さゆみちゃんレベルの子と結婚することだってあり得ただろう。

三島は大蔵省を九ヶ月程度で退職し、「仮面の告白」を執筆し、時代の寵児となった。退職したのが昭和23年9月で、仮面の告白を書き始めたのがその年の11月である。退職後二ヶ月で書き始めたことからして、ある程度頭の中にはあったのだろう。大蔵省を退職した時点では、文壇のごく一部で評価されていたが、世間的にはまったくの無名作家であり、たいした作品も書いてないから、あまりにも無謀な挑戦であり、傍目から見たら人生を投げ捨てる愚行としか言いようがない。財務官僚として道重さゆみちゃんを妻にするような薔薇色の人生が可能であったのだから、そこから故意に転落し、自分はホモだと告白する小説を書き始めたのは、どう考えてもガチホモである。

三島由紀夫は肉体が貧弱であり、それが手伝って徴兵逃れも出来たが、肉体美に欠けることをやたらと気に病んでおり、知性は無意味だというニヒリズムを持っていた。三島由紀夫がボディビルを始めたのは、「金閣寺」の執筆開始と同時期であるので、筋肉を求める志向が最高傑作を生み出した側面もある。男性の肉体美に強烈な憧れを持ち、それを知性と対比させた。反知性主義とも言えるのだが、田舎に自生しているDQNのような天然の反知性主義ではなく、自らの知性の高さへの強烈な絶望である。どれだけ知性を高めても肉体美が手に入らないという絶望である。

どんなに馬鹿でもいいからイケメンに生まれたかったという素朴な感情は、この現代ではありふれている。ブサメンであれば、絶望しかない。だが、三島が生きていた当時だと、大蔵官僚になった時点で美人の幼妻をもらうことは容易だったから、その苦悩はあり得ない。ガチの男色家であったからこそ、肉体美が欠けている自分に絶望していたのであり、ハッテン場で東大とか大蔵官僚などという経歴がひとつも役に立たない現実を呪詛したのである。「金閣寺」では自暴自棄になって金閣に放火する青年の姿が描かれるのだが、大蔵官僚をやめてホモ小説を書くというのは、金閣に放火する以上の乱暴狼藉とも言える。

人間は胃袋と生殖器に促されて生きていると言ってもいいのだが、食べなければ死ぬという問題に比して、性器が不満足でも生命維持に問題はない。豪華絢爛なダイヤモンドの指輪が無くても人間は生きていけるし、避暑地に瀟洒な別荘を構えなくても、蒸し暑い内陸部で平然と生きていける。しかし、ダイヤモンドや豪華な別荘は無くてもいいが、美少女というのは、何が何でも手に入れたいものである。それがないなら、人生を破棄しても差し支えないくらいの重大問題である。

三島由紀夫が美を求めたのは道楽ではないのである。骨董や建築のようなおまけの美ではなく、性という根源的な美について世界の誰よりも絶望した人間なのである。

「金閣寺」で主人公は金閣に火を付けてから、最上階の究竟頂で死のうとする。その扉を必死で叩いたが、どうやっても開かないのである。

煙は私の背に迫っていた。
咳きながら、恵心の作と謂われる観音像や、天人奏楽の天井画を見た。
潮音洞にただよう煙は次第に充ちた。
私は更に階を上って、究竟頂の扉をあけようとした。
扉は開かない。
三階の鍵は堅固にかかっている。
私はその戸を叩いた。
叩く音は激しかったろうが、私の耳には入らない。
私は懸命にその戸を叩いた。
誰かが究竟頂の内部からあけてくれるような気がしたのである。
そのとき私が究竟頂に夢みていたのは、確かに自分の死場所であったが、煙はすでに迫っていたから、あたかも救済を求めるように、性急にその戸を叩いていたものと思われる。
戸の彼方にはわずか三間四尺七寸四方の小部屋しかないはずだった。
そして私はこのとき痛切に夢みたのだが、今はあらかた剥落してこそおれ、その小部屋には隈無く金箔が張り詰められている筈だった。
戸を叩きながら、私がどんなにその眩い小部屋に憧れていたかは、説明することができない。
ともかくそこに達すればいいのだ、と私は思っていた。
その金色の小部屋に達すればいい……。

主人公は自分が拒まれていると認識した時、韋駄天のように駆けて炎上する金閣から逃げる。そして金閣が見えないようなところまで来てから、煙草に火を付け「生きよう」とつぶやいて終わる。この生きる決意の空々しさは言うまでもない。究竟頂から拒まれた人間として生きていくのだから、暗黒の絶望を伴侶としながら生きることに他ならない。

三島がこのような作品を書けたのは、肉体の美しさという問題で、死病のような深い絶望に陥っていたからである。この世に生まれてきて、道重さゆみちゃんの素肌に触れることができずに死んでいく、その絶望である。前述したように、三島は大蔵官僚として見合い結婚して美人妻をもらうのは容易かったと思われるので、男色家であるのは間違いない。男性の肉体美に憧れつつ、その究極の美には遠いことで絶望の夜を繰り返したのである。こじらせる前に、なんとなく、それなりの恋人を見つけることができなかった人間の悲劇である。こじらせたからには、絶対的な美が手に入らない絶望と共に暗黒の思想を生きるしかないのである。
いじめを強者と弱者の関係で捉える人が多いのだが、ハイスペックとロースペックという意味なら、まったく正しくない。いじめっ子がハイスペック集団だというのはまったく実情に合っていない。ではいじめっ子がどういう意味で強者なのかと言うと、他人を完全に舐めきっているのである。その僭越な態度が、人々を畏怖させるのである。これは偏差値が低ければ低いほど強まる傾向である。他人を完全に舐めている猿人は恐いわけである。良心に訴えてもまったく通じないというオーラが、すごい特別な感じを生むわけである。

そして大人も注意するのが恐いのである。人間は舐められると縮こまってしまう生き物なのである。これに対処するのはとても難しい。こういう人種にモラルを説くのは罠にはまっているようなものである。知能指数100未満でもDQNは知能犯なのである。というより、むしろ知能が低い方が、他人を馬鹿に出来るのである。低知能には野生動物のようなオーラがあるわけである。肉体と知性が対峙した場合、知性の方が弱者となる。人間が野人にコケにされるという構図である。知能犯とは、数学が得意な人間のことではなく、まともな良心があったら絶対やらないことを平気で出来るということである。他人を完全に舐めてるという強さの前では、試験で勉強したことなど何ら役に立たないのである。

これは「いい人」がモテないという問題にも繋がる。よほどハイスペックな男性であれば、いい人は謙虚な人格だと褒められるが、そうでもない限りは、弱者のおもねりと解釈される。他人に好かれたいというのは、カースト最底辺の発想である。少女はそういう「おもねり」が嫌いである。そして人間を舐めきっている男に股を開くのである。DQNが女を抱ける仕組みである。真面目な男性というのは、(イケメンである場合を除いて)若い女が蛇蝎のごとく嫌う対象である。弱者が阿諛しているようにしか見えず、そこには束縛しか見えない。これがおばさんになると、突然DQNを嫌いだし、自分の子どもをマザコン童貞にしようとするのが女の難しさである。「いい人」はおばさんにモテるという側面がある。人間を完全に舐めているというDQNの世界観は、少女にとっては好ましく、その煌びやかで舶来品のような素肌を惜しげもなく捧げていくが、そういう若さを失い、色気も艶も無くなり苔生してくると、真面目な男性の世界観を渋々と受諾するようになる。

女という生き物はDQNと同レベルの猿人であり、人間への強い蔑みがある。少女は未来の旦那を完全に舐めきっており、不良債権を引き取らせる相手としか捉えていない。人間を完全に虚仮にするのが女の強さであり、それはDQNの強さと通底している。これは一部の人間の行動とは言い切れず、未来の旦那を馬鹿にするという発想は、この三十年くらい、かなり幅広く繁茂し、それが隅から隅まで根を張ったのが今日の状況なのである。少女がロンブー敦といともたやすく寝るのは、人間への蔑みが主な動機であり、ロンブーを愛しているというわけではないのである。コギャルの教祖と呼ばれた安室奈美恵がロンブーと出来ていたのは、人間への蔑みで意気投合したからであり、まさに猿人として野性に還るような行動だったのだ。奴婢に選挙権を与えたことの結果が、今日の社会なのである。
http://www.jiji.com/jc/c?g=soc_30&k=2014062001009
【ワシントン時事】米国務省は20日、世界各国の人身売買の実態をまとめた年次報告書を公表した。日本については、女子高生とデートできるとうたった「JKお散歩」と呼ばれる接客サービスを新たな性目的の人身売買の例として示した上で、各国の取り組みを4段階に格付けした中の、上から2番目の評価に据え置いた。
日本が2番目の評価にとどまったのは10年連続。報告書は「援助交際」も人身売買の例に挙げ、「日本に来る外国人の女性や子供の中には、到着後すぐに売春を強要される者もいる」と指摘。「日本人男性は、東南アジアやモンゴルでの児童買春ツアーの大きな需要源」とも記した。
また、政府が運営する技能実習制度で来日した人も含め、外国人労働者が強制労働の被害者になりやすい実態があると説明。「日本政府は、人身売買撲滅のための最低基準を十分に満たしていない」と認定し、包括的な人身売買禁止法の制定などを改めて勧告している。
4段階のうち最高評価だったのは米国、韓国など31カ国・地域。制裁対象となり得る最低評価はロシア、北朝鮮、イランなど23カ国だった。(2014/06/20-22:54)

日本は人権後進国だとよく言われるわけである。米国務省がそう言っている。この人権の評価では米国や韓国がトップクラスで、日本が叱られる立場である。米韓のような犯罪大国がなぜ美しい人権の国なのかと言えば、犯罪は人権侵害としてカウントされてないからである。犯罪を人権問題としてカウントするなら、日本は高評価となるし、米韓は最低評価となる。そもそも人身売買という概念だが、これは拉致監禁とは別枠であるらしい。拉致監禁ということなら、米韓が圧倒的だが、これは人権問題ではないようだ。拉致監禁とは、いきなり少女をワゴン車に連れ込むような行為である。人身売買は、ある種の合意がありながら、その合意が無効だというものである。「JKお散歩」にしても、合意がある行為だが、この種の合意の有効性を認めないという判断である。フィリピン女性が日本に来るとしても、路上で拉致されたわけではあるまい。合意や同意があるからこそ人身売買であり、同意が一欠片もなければ人身売買ではなく拉致である。つまり「売買」であることがポイントなのである。売り買いは成立しているが、その成立そのものが人権に反するということなのだ。

強姦魔は女性差別とは言われない。その一方で「なんで結婚しないのか」と35歳の女に言うことは、人権の重大問題となる。人類の流民化を促すために若さを悪魔に喜捨して35歳になったのだから、本来なら感化院に放り込まれるべき人間であり、その罪障の深さは魔女として女囚となるにふさわしく、女人五障の至りである。人権とは判断力がない人間に与えられるものらしい。禁治産者と同じであり、責任能力の無い天使ちゃんを保護しようということなのである。女という生き物が人権を主張する段階で、責任能力の低さを認めているのであり、男性に人権がないのは当然なのである。
かつてカント(1724年生まれ)が現象と物自体を対比し、物自体は不可知と定義したのは、形而上学の限界として正しい線を引いたのである。では物自体がわからないのかというと、そうでもあるまい。科学的に分析すればいいのである。人類は19世紀半ばまで細菌の存在すら知らなかった。カントは数学や物理は得意だったが、18世紀の人間なので、この当時の科学レベルだと、物自体はわからないと言うしかなかったのである。

哲学は理数系の人間が趣味としてやるのにふさわしい。専門化が進む社会で、複数のことは専門に出来ないが、片手間に有名な哲学書を読むだけで充分だろう。

ニーチェが数学を不得手にしていることは学生時代の成績から判明している。ニーチェは形而上学という豪奢な大伽藍を建設することはせず、人間の五感に現象する世界の事実性にこだわった。五感の体験はそれ自体が人間的リアリティーなのである。そして天才的な洞察力を発揮することで、偉大な作品を残したのである。哲学というよりは、フロイト心理学の先駆けであるように思える。フロイトはニーチェ思想の猿真似だと言われるのを恐れていたようだが、確かにニーチェに最も似ているのは(他のどの哲学者より)フロイトであるように思う。

その後のハイデガーは数学や物理に関心を持っていた形跡はあるが、実力のほどは不明である。少なくとも理数系の知識は「存在と時間」に反映されていない。「存在と時間」(1927年)は人間存在を世界や他者との関係の問題としてとらえた。人類が書いた最高の書物のひとつであり、文系脳で書かれた書物ではあるのだが、出版から100年近く経っても、その成果の発展が見られない。ハイデガー個人の天才的な洞察力によるものだから、跡継がいないのである。理数系の発見は応用可能であり、天才の理論を秀才が実用化していくのは普通だが、文系は天才頼みであり、凡人は応用すら出来ないという問題である。

カントは現象と物自体を対比させ、物自体は不可知としたが、これは今日なら、科学的にアプローチしうるだろう。われわれの認識とは、五感を通した体験である。そしてこの人間的な体験(経験)は、科学的な実験装置とは対極のものである。われわれの味覚は、その化学成分を検出しているのではなく、あくまでその成分に刺激され体験する器官なのである。人間の舌は成分分析の機械ではなく、アイスクリームを食べて甘いと感じる体験のためにあるのである。そもそも生物がいなかったら「甘い」という味覚の現象はないだろう。

もしくは、色が存在するのは不思議である。宇宙は勝手にビッグバンしたし、生物は勝手に生まれたわけである。しかし宇宙には色がある。生物が視覚で捉えなければ、何の意味もないものである。もちろん色とは言っても、電磁波の波長であるから、たまたま生物の視覚という感覚器官が「色」と解釈しているだけだが、それにしても宇宙はいかにも煌びやかであり神秘に満ちている。あたかも人間の3色型色覚のために光(可視光線)が準備されたかのようである。光がなければ、別の手段で周辺を把握していただろうが、それにしても、われわれの視覚にとって、ずいぶん宇宙は煌びやかに美しく見えるものである。美的観念は人間の中にあるものだろうが、まるでそれに合わせて宇宙が設計されたかのようである。

このあたりの問題も、物理や医学や生物学に専門的な知識があれば、もっと突き詰めて深く考えることが出来るはずである。文系哲学はすでに死んだ。理数系の人間が哲学をやれば、あらたな視座も生まれてくるだろう。古典的な形而上学は、科学的な実験装置がない時代に、数学者があれこれ想像で考えた学問だとも言える。それは乗り越えられるべきであり、現代のわれわれは、最新の実験装置で明らかになった成果を使いつつ、現象と物自体の関係を語るべきとも言える。文学部の人間がカントを読んでも18世紀の知識人の世界を追体験するだけで、何の意味もないが、理数系の人間がカントを読んだら、人間の五感が生み出す現象世界と、それを成り立たせる物質の仕組みについて、新たなる形而上学を構築出来るに違いない。
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ダークツーリズムとか、ずいぶん無理があると感じている人は多かったに違いない。何を言ったところでこじつけという印象しかなかった。東は原発問題を語る思想的な取っ掛かりがなかったのだと思う。それでも首だけ突っ込みたいから、ダークツーリズムという奇を衒っただけのアイデアに飛びついたのである。福島原発を思想的課題として扱うセンスが東にはなかったので、こうなった。思想的ひらめきがなかったのに、無理矢理関わったのである。哲学をやるより、あちこち手を広げて、薄く広い支持を集めるのが東浩紀の手法だから、哲学的な関心がない原発問題に取り組んだのだ。

そもそも原発が思想的課題になるはずがない。交通事故や飛行機事故と同じ文脈の話だから、思想として語る要素がない。哲学は人間性という観点から世界を紐解いていく学問である。犯罪であれば故意なので人間性の問題に繋がるが、事故だと哲学的なテーマにならない。韓国の旅客船セウォル号が沈没した事件なら、逃げた船長に注目して、責任感という問題を哲学する余地があるが、福島原発の東電の責任は哲学的課題になりそうにない。福島を通して人間について哲学するのは無理である。

社会時評を哲学にまで高めるのがそもそも難しいのだが、東は普通の哲学さえ出来ないので、限界がわからないのだろう。たとえば、あさま山荘事件とかなら、これを通して思想的に語りうることはあるだろう。福島原発は事故であるから、人間とはなんぞやという問題にならない。原発問題から文明論を語れないこともないが、文明論なら原発以外を題材にした方がいいだろう。

東浩紀は筑駒で五番以内とか秀才エピソードはたくさんあるのだが、5月9日生まれである。神童エピソードがある人はだいたい4月~6月生まれだ。同じ学年でも早生まれより一歳年上なのだから、成績がいいに決まっている。人生は前半で勝負が決まるので、これはかなり有利である。東浩紀も普通の人生ならエリートとして勝ち逃げ出来たのだが、中年になっても実力が問われるとなると、5月生まれというアドバンテージなどない。

東浩紀は、人間とはなんぞやという哲学的関心が低く、よろず評論家でしかない。若い頃は人生に悩んで哲学書を読み漁ったらしいが、これは青年期の一過性の流行病である。悩みをこじらせて長患いしているような人間こそ哲学に向いてるのに、簡単に快癒してしまったから、中年以降は漫然と生きており、日常性に埋没しているのである。「自分の思想の核を探す」というが、素顔は子煩悩なお父さんである。哲学者の多くは生涯独身である。幸せな家庭のパパが人間とはなんぞやと懊悩するのも不自然であり、ふかふかのソファーで葉巻をくゆらせながら人間に絶望してみることも出来まいし、人間の根源的な問題を問う内的必然性があるわけない。東が原発に興味を持った理由の一つは、それが平和な日常を脅かす外敵だったからである。幸福な家庭の日常を守りたいという父親として真っ当な考えが、人間存在の根本に疑問符を突きつける衝動に繋がるわけもなく、曖昧な日常を漠然と肯定することで終わる。

そもそも「存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて」のような純然たる哲学はとっくの昔に捨てているし、アニメやエロゲーについて語ることで評論を読んで貰うという売り方をしていたから、つまらないアニメを消化することに長大な時間を費やし、博覧強記とは程遠いし、碩学の人というイメージもない。今後も、社会現象にかこつけて駄文を書くというスタンスは変わらない。突然変異したマージナルな存在ではなく、平凡な日常の円環に組み込まれた存在なのである。
人間の五感が到達する範囲はとても狭い。自分の肉体が存在する座標から見える世界だけなのである。だが、この貧しさによりプライバシーが保たれている。千里眼が存在することは誰も望んでいまい。もちろん自分だけが千里眼を発揮できるのなら極めて便利だが、誰もが千里眼を使えるとなれば、すべてが筒抜けの世の中になるわけである。お互いの台所事情から痴話喧嘩まですべて知り尽くしているという状態では、個人や他者が存在するかも疑わしい。辺鄙な田舎でも公然の秘密に触れる時は声を潜める。

プライバシーとはなんぞやというと難しいのだが、「見せたくない」もしくは「見えない」もしくは「見たい」ところに人間存在の本質がある。そもそも人間は服を着る。そして裸体に性的興奮を感じるという仕組みである。もし人間の視覚が、離れたところでも自由に見られるのなら、ミニスカートは存在し得ない。肉体の頭部に付いている眼球からしか見えないというのが、(見えそうで見えないというのが)、ミニスカートの前提である。明らかに丸見えだったら意味がないわけである。水着を見ても得をした感じはしないが、下着が見えると得をした感じになるのは、下着を見せたくないという少女の羞恥が前提である。その羞恥により、下着を見ただけで性的な戦利品を獲た喜びが生じ、裸体を見たかのような興奮が得られるのである。そもそも裸体に神秘性があるのも、衣服に妨げられているからである。長年夢見た稀覯書を手に入れ、それを初めて紐解くように、異性の裸体は姿を現すことになっている。

人間のプライバシーも、暴かれるためにこそある、という言い方も出来る。五感の認識範囲が狭いから、われわれはその境界の外側に踏み出ないわけではなく、隠されているからこそ知りたいという好奇心が人間の本質であり、未知の領域があるのが人生の本質なのである。見たい人間と見せたくない人間が凌ぎを削るのが情報戦であり、これが世界の本質なのである。それはミニスカートと同じで、どちらに軍配が上がるわけでもない。個々人が羞恥という感情を持ち、多くの真相を墓場まで持って行こうとするからこそ、人間存在があるのである。ある程度開き示されているのが世界の本質でもあるから、完全にオープンになったり、完全に閉ざされても人間は存在し得ない。あなたが他人と知り合いになるとして「過去の経歴はプライバシーなのですべて秘密です」と言われても困るだろう。過去の経歴を含めて人間は存在しているのである。

人生をすべて公開した人間というのは、人類史でほとんどいないと思われる。「蒲団」を書いた田山花袋も、ハイカラな女学生に眷恋した塗炭の苦しみを作品として昇華したのであり、人生を一片残らずフルオープンにすることを試みたのではない。それに連なる「人間失格」や「仮面の告白」のような自然主義的な私小説も、羞恥との格闘であり、恥も外聞もなく何から何まで公開する試みではない。最後まで隠しておきたい事実は秘密の手文庫にしまわれて墓場まで持って行かれるのである。語りたくない生き恥こそが個人として存在する最後の核なのである。この塵芥のような矜持まで躊躇いなく公開するようであれば、自分の人生を完全に他人事として突き放したことになり、もはや自分という認識すらなくなるだろう。
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