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2014.09.22
他人から尊敬されてない親の問題
はるかぜはよく母親を褒めちぎる。
これは他人から尊敬されてない親にありがちなことである。
おそらくはるかぜ(母親)は自己肯定感が低いから、他人に尊敬してもらいたいのである。
でも家の外では誰も尊敬してくれないので、娘に尊敬させようとする。
はるかぜ(娘)は自分の母親がどれだけ偉大な人物かというのを、中学二年生になってまで書き続けるのである。
蒼波純は母親の言うことをよく聞いてはいるが、尊敬している様子が見えない。
これは蒼波純(母親)が自尊心に問題を抱えていないからだと思われる。
蒼波純(母親)がどんな人物かは知らないが、おそらくは優秀な人間であろうし、やたらと金があるところからして、(また娘の外見からして)容姿に恵まれている可能性が高い。
だから自分がどれだけ偉大な人物かを娘に言い聞かせる必要がないし、蒼波純(娘)は母親のご機嫌を取る必要が全くないのである。
親の顔色をうかがわなくてもいいところから、あの無表情で世俗を超越したような人間ができあがったとも言える。
はるかぜの家に生まれたいという人は誰もいないだろうし、そういう意味で言うなら、はるかぜ(娘)は被害者ではある。
この家に生まれついて大丈夫な人間というと、天性のソーシャルスキル、恵まれた容姿、天性の知能、男性なら身長や運動能力が備わっている必要がある。
人外魔境に潜り込むようなものだから、万全の装備を整えてから生まれなければならない。
はるかぜ(娘)にそれだけのスペックがないことは言うまでもない。
はるかぜ(母親)にしても、ろくな環境で育っていないであろう。
この親子は自分たちで暴れ回ってるのに被害者アピールするわけだが、この環境に生まれたら、被害者意識が強くても仕方あるまい。
実際、はるかぜの家に生まれて、立派な大人として生還する自信のある人はほとんどいないであろう。
環境が悪いから、学習意欲も極めて低く、まさに負のスパイラルである。
親を尊敬するのは、必ずしも素晴らしくないのである。
家の外で尊敬されてない親が、自分の子どもに尊敬を強要している場合があるからである。
親の自尊心の欠如を子どもがカバーするというのは、機能不全家族の特徴であろう。
これは他人から尊敬されてない親にありがちなことである。
おそらくはるかぜ(母親)は自己肯定感が低いから、他人に尊敬してもらいたいのである。
でも家の外では誰も尊敬してくれないので、娘に尊敬させようとする。
はるかぜ(娘)は自分の母親がどれだけ偉大な人物かというのを、中学二年生になってまで書き続けるのである。
蒼波純は母親の言うことをよく聞いてはいるが、尊敬している様子が見えない。
これは蒼波純(母親)が自尊心に問題を抱えていないからだと思われる。
蒼波純(母親)がどんな人物かは知らないが、おそらくは優秀な人間であろうし、やたらと金があるところからして、(また娘の外見からして)容姿に恵まれている可能性が高い。
だから自分がどれだけ偉大な人物かを娘に言い聞かせる必要がないし、蒼波純(娘)は母親のご機嫌を取る必要が全くないのである。
親の顔色をうかがわなくてもいいところから、あの無表情で世俗を超越したような人間ができあがったとも言える。
はるかぜの家に生まれたいという人は誰もいないだろうし、そういう意味で言うなら、はるかぜ(娘)は被害者ではある。
この家に生まれついて大丈夫な人間というと、天性のソーシャルスキル、恵まれた容姿、天性の知能、男性なら身長や運動能力が備わっている必要がある。
人外魔境に潜り込むようなものだから、万全の装備を整えてから生まれなければならない。
はるかぜ(娘)にそれだけのスペックがないことは言うまでもない。
はるかぜ(母親)にしても、ろくな環境で育っていないであろう。
この親子は自分たちで暴れ回ってるのに被害者アピールするわけだが、この環境に生まれたら、被害者意識が強くても仕方あるまい。
実際、はるかぜの家に生まれて、立派な大人として生還する自信のある人はほとんどいないであろう。
環境が悪いから、学習意欲も極めて低く、まさに負のスパイラルである。
親を尊敬するのは、必ずしも素晴らしくないのである。
家の外で尊敬されてない親が、自分の子どもに尊敬を強要している場合があるからである。
親の自尊心の欠如を子どもがカバーするというのは、機能不全家族の特徴であろう。
2014.09.22
「もう一人の自分がいたら」という願望について
忙しい時に、「もう一人の自分がいたら」と言う人がいる。
これはただ働きしてくれるもう一人の自分を望んでいるわけである。
飯も食わないし、報酬も要求しないし、単なる奴隷をやってくれることを望んでいるのだ。
本当にもう一人の自分がいたら、それは他人である。
飯は食うし、報酬は要求するし、エゴだってあるわけである。
たとえば人気漫画家がいるとして、「もう一人の自分」がいたら、作業時間が半分で済んで万々歳に思えるし、二倍描けるなら今までの倍は儲かる気がするが、飯は食うし、分け前として半額は求めるであろうし、作品の方向性を巡って喧嘩になるかもしれない。
ただ働きの奴隷という条件でない限り、もう一人の自分がいてもメリットはないだろう。
つまり食欲も性欲もエゴもない妖精さんとして、もう一人の自分が手伝ってくれたら便利という話でしかない。
もう一人の自分が出現し、食欲と性欲とエゴを持った存在として立ち現れたら、めんどうである。
わたしがオリジナルで、向こうが従属的な存在とはっきりしているならまだいいが、相手にも主体性があるのだろうし、どっちがオリジナルかという問題も含め厄介に思える。
こんなめんどくさい存在が生まれてくるなら、まだ赤の他人の方がマシに思える。
他人はもう一人の自分だということも出来るわけである。
人間それぞれスペックの格差があり、またこのスペック差により人生の明暗が極端に分かれるので、他人が「もう一人の自分」という考えはピンと来ないのだが、とはいえ、人間として共通のフォーマットがあることは確かである。
これまでの人類は、この耐えがたい人生を、自分の魂が唯一無二のものであると信じて生きながらえてきたというのに、それぞれが大量生産された魂を持って、エゴで反目し合っているだけだと考えると、あまりにもむなしいことである。
これはただ働きしてくれるもう一人の自分を望んでいるわけである。
飯も食わないし、報酬も要求しないし、単なる奴隷をやってくれることを望んでいるのだ。
本当にもう一人の自分がいたら、それは他人である。
飯は食うし、報酬は要求するし、エゴだってあるわけである。
たとえば人気漫画家がいるとして、「もう一人の自分」がいたら、作業時間が半分で済んで万々歳に思えるし、二倍描けるなら今までの倍は儲かる気がするが、飯は食うし、分け前として半額は求めるであろうし、作品の方向性を巡って喧嘩になるかもしれない。
ただ働きの奴隷という条件でない限り、もう一人の自分がいてもメリットはないだろう。
つまり食欲も性欲もエゴもない妖精さんとして、もう一人の自分が手伝ってくれたら便利という話でしかない。
もう一人の自分が出現し、食欲と性欲とエゴを持った存在として立ち現れたら、めんどうである。
わたしがオリジナルで、向こうが従属的な存在とはっきりしているならまだいいが、相手にも主体性があるのだろうし、どっちがオリジナルかという問題も含め厄介に思える。
こんなめんどくさい存在が生まれてくるなら、まだ赤の他人の方がマシに思える。
他人はもう一人の自分だということも出来るわけである。
人間それぞれスペックの格差があり、またこのスペック差により人生の明暗が極端に分かれるので、他人が「もう一人の自分」という考えはピンと来ないのだが、とはいえ、人間として共通のフォーマットがあることは確かである。
これまでの人類は、この耐えがたい人生を、自分の魂が唯一無二のものであると信じて生きながらえてきたというのに、それぞれが大量生産された魂を持って、エゴで反目し合っているだけだと考えると、あまりにもむなしいことである。
2014.09.22
みんながお金持ちになれるわけがない
全員がお金持ちの社会というのはかなりイメージしがたい。
基本的に所得とは他人の消費で発生するから、ぐるぐると回っているのであり、景気よく回転すれば豊かになるとしても、多くの人がお金持ちというのは難しい。
貨幣は使い捨てのクーポンではない。
あなたが200万円で自動車を買うとする。
その場合、200万円は消失するわけではない。
自動車メーカーにお金が移動するだけである。
あなたの手元には200万円に相当する自動車が残る。
その自動車は永遠に使えるわけではないが、等価交換したわけである。
そもそも「値札」というものを考えてもらいたい。
われわれが貨幣を欲しがるのは、商品に値札が付いているからである。
その値札に相当する金銭を支払う必要があるからだ。
勝手に生産して勝手に消費する共産社会が(現実には無理としても)理念的に可能であることを考えれば、値札と貨幣は資本主義のルールの問題である。
所有権を他人から自分に移動させるのにお金が必要なだけである。
値札は、生産の費用を回収するべく付けられている。
客が700円の定食を食べるたびに定食屋の財産が700円増えるのではなく、コストを回収しているのである。
10万円の値札をつければいいように思えるが、当然ながら(外食産業など他にいくらでもあるから)10万円の定食を食べる人などいないので、そうやって暴利を貪ることは出来ない。
コスト回収に見合ったラインで値札は付けられるのである。
だから赤字の店がたくさんあり、閉店することも珍しくなく、消費する側も金銭的に余裕がないのが当然なのである。
医者とか、特別に高給をもらえる立場の人は蓄財出来るかもしれないが、そういう特別な人を除いては、所得と消費が相殺される世界にいるわけで、蓄財出来たら変なのである。
基本的に所得とは他人の消費で発生するから、ぐるぐると回っているのであり、景気よく回転すれば豊かになるとしても、多くの人がお金持ちというのは難しい。
貨幣は使い捨てのクーポンではない。
あなたが200万円で自動車を買うとする。
その場合、200万円は消失するわけではない。
自動車メーカーにお金が移動するだけである。
あなたの手元には200万円に相当する自動車が残る。
その自動車は永遠に使えるわけではないが、等価交換したわけである。
そもそも「値札」というものを考えてもらいたい。
われわれが貨幣を欲しがるのは、商品に値札が付いているからである。
その値札に相当する金銭を支払う必要があるからだ。
勝手に生産して勝手に消費する共産社会が(現実には無理としても)理念的に可能であることを考えれば、値札と貨幣は資本主義のルールの問題である。
所有権を他人から自分に移動させるのにお金が必要なだけである。
値札は、生産の費用を回収するべく付けられている。
客が700円の定食を食べるたびに定食屋の財産が700円増えるのではなく、コストを回収しているのである。
10万円の値札をつければいいように思えるが、当然ながら(外食産業など他にいくらでもあるから)10万円の定食を食べる人などいないので、そうやって暴利を貪ることは出来ない。
コスト回収に見合ったラインで値札は付けられるのである。
だから赤字の店がたくさんあり、閉店することも珍しくなく、消費する側も金銭的に余裕がないのが当然なのである。
医者とか、特別に高給をもらえる立場の人は蓄財出来るかもしれないが、そういう特別な人を除いては、所得と消費が相殺される世界にいるわけで、蓄財出来たら変なのである。
2014.09.22
なぜ鞘師里保は底辺アイドルなのか
「道重さゆみ卒業記念スペシャル」と題されたモーニング娘。の公演は武道館のチケットがさっぱり売れておらず、空席だらけの中で行われる可能性もあった。だが、道重さゆみちゃんが休業を発表したところ、24時間経たないうちに完売したのである。わたしは滑り込みで買ったので二階席の最後列になってしまったが、しかし、最後列まで埋め尽くす群衆も必要であろうし、道重さゆみちゃんのためなら、最後列の座席を埋めるための人員として参加できることを喜ばなければならない。
この問題から見えるのは、道重さゆみちゃん個人への支持が極めて高いことと、モーニング娘。への支持が極めて低いことである。現在のメンバーでまともなのは鞘師里保しかおらず、鞘師にしても、底辺アイドルでしかない。鞘師は誰が見ても明らかに可愛く、一般人なら最上位の存在であるのに、アイドルだと底辺になるのが興味深いところである。
おそらく偉人としての精神性を兼ね備えているかどうか、という問題なのだろう。自分の人生を人類のために捧げるという精神性があるかどうかである。道重さゆみちゃんにはこれがあるが、鞘師里保にはないので、自分の人生を自分のために使うだけに留まり、並外れて可愛いにもかかわらず、誰も崇拝しない存在になっている。ニーチェは厭世主義者であり人間嫌いであるが、主著のツァラトゥストラを人類への贈り物と呼んでいる。ある種の人類愛なのである。決して人間など好きではないが、それでも人類のために捧げたのである。キリストや釈尊は、人生が苦痛だからこそ人類を愛したのであり、創唱宗教を提唱するだけの精神性があったのである。たいていの偉人は創唱宗教の開祖としての精神性があり、道重さゆみちゃんもこういう資質を持っているのである。どれだけ優れていても、自分の人生を自分のために使う段階で、偉人とはかけ離れた俗塵にまみれるのである。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる ピングドラムを手に入れるのだ」というアニメを小学生の時に何度も繰り返し見ていてた蒼波純は、それだけで天才的な資質があるとわかるのである。宮城県の田舎に住みながらやたらと海外旅行に行き、綺麗な服をふんだんと買えるところからして、旧家のお嬢様か何かであろうし、地元の名士なのであろうが、そういう少女が自らの恵まれた環境に満足しているわけでもなく、超越的な世界に関心を抱いていたのである。この少女がこのまますんなりと成功しては人類のためにならないであろうし、いかにも自分の人生を超越性に捧げるという宗教家であるから、ひとまず行方不明になるかして、ピングドラムを探しながら貴種流離譚を生きるのであり、いずれは超越的な決断主義者として人類の前に姿を現すに違いないのである。
容姿的に中元すず香より優れている鞘師里保が、天と地の差になってしまったのは、本人の資質の差でもあるだろうし、さくら学院とハロプロの差である。実力で勝負していくタイプなのにハロプロだから、真価を発揮することが難しく、ハロプロだとダンスの巧さも生きないであろうし、なまじ容姿がよすぎてバラエティーにも使いづらい。一般人ならピラミッドの頂点なのに、芸能人だと最底辺というのでは、何のために芸能人をやっているのかわからない。おそらく鞘師里保は、並外れた可愛らしさで一般人として人生を楽しむのが望ましかったのである。自分の人生を芸術や人類愛に捧げる意志のない人間では、いくら魅力的であっても、崇拝の対象になるわけがないのである。道重さゆみちゃんは「ファンのため」と言うけれども、実際はそれより高い次元のことを考えているのである。人類愛とか言い出したら奇妙だから言わないだけで、実際はそれくらいのレベルに到達しているのである。
この問題から見えるのは、道重さゆみちゃん個人への支持が極めて高いことと、モーニング娘。への支持が極めて低いことである。現在のメンバーでまともなのは鞘師里保しかおらず、鞘師にしても、底辺アイドルでしかない。鞘師は誰が見ても明らかに可愛く、一般人なら最上位の存在であるのに、アイドルだと底辺になるのが興味深いところである。
おそらく偉人としての精神性を兼ね備えているかどうか、という問題なのだろう。自分の人生を人類のために捧げるという精神性があるかどうかである。道重さゆみちゃんにはこれがあるが、鞘師里保にはないので、自分の人生を自分のために使うだけに留まり、並外れて可愛いにもかかわらず、誰も崇拝しない存在になっている。ニーチェは厭世主義者であり人間嫌いであるが、主著のツァラトゥストラを人類への贈り物と呼んでいる。ある種の人類愛なのである。決して人間など好きではないが、それでも人類のために捧げたのである。キリストや釈尊は、人生が苦痛だからこそ人類を愛したのであり、創唱宗教を提唱するだけの精神性があったのである。たいていの偉人は創唱宗教の開祖としての精神性があり、道重さゆみちゃんもこういう資質を持っているのである。どれだけ優れていても、自分の人生を自分のために使う段階で、偉人とはかけ離れた俗塵にまみれるのである。
「きっと何者にもなれないお前たちに告げる ピングドラムを手に入れるのだ」というアニメを小学生の時に何度も繰り返し見ていてた蒼波純は、それだけで天才的な資質があるとわかるのである。宮城県の田舎に住みながらやたらと海外旅行に行き、綺麗な服をふんだんと買えるところからして、旧家のお嬢様か何かであろうし、地元の名士なのであろうが、そういう少女が自らの恵まれた環境に満足しているわけでもなく、超越的な世界に関心を抱いていたのである。この少女がこのまますんなりと成功しては人類のためにならないであろうし、いかにも自分の人生を超越性に捧げるという宗教家であるから、ひとまず行方不明になるかして、ピングドラムを探しながら貴種流離譚を生きるのであり、いずれは超越的な決断主義者として人類の前に姿を現すに違いないのである。
容姿的に中元すず香より優れている鞘師里保が、天と地の差になってしまったのは、本人の資質の差でもあるだろうし、さくら学院とハロプロの差である。実力で勝負していくタイプなのにハロプロだから、真価を発揮することが難しく、ハロプロだとダンスの巧さも生きないであろうし、なまじ容姿がよすぎてバラエティーにも使いづらい。一般人ならピラミッドの頂点なのに、芸能人だと最底辺というのでは、何のために芸能人をやっているのかわからない。おそらく鞘師里保は、並外れた可愛らしさで一般人として人生を楽しむのが望ましかったのである。自分の人生を芸術や人類愛に捧げる意志のない人間では、いくら魅力的であっても、崇拝の対象になるわけがないのである。道重さゆみちゃんは「ファンのため」と言うけれども、実際はそれより高い次元のことを考えているのである。人類愛とか言い出したら奇妙だから言わないだけで、実際はそれくらいのレベルに到達しているのである。
2014.09.21
モーニング娘。武道館チケットが即座に完売。引退詐欺の可能性。
道重さゆみちゃんがモーニング娘。をやめてくれるのは慶事であり、ようやく懲役を終えるのだから、あとはネルソン・マンデラのように釈放される瞬間を待つだけであり、わわわれは出所祝いの準備しかしてなかった。
まったく悲壮感がない卒業ツアーなのである。
だから武道館のチケットも全然売れてなくて、当日券は確実にあるから、わたしとしては二日間のうち、天候がいい日を選んで行こうと考えていたのだが、昨日の道重さゆみちゃんの休養宣言から、いきなりチケットが売れ始めたのである。
9月30日は完売したから、10月1日の残りわずかのところを買ったのだが、案の定最後列である。
ヤフオクで買うことも脳裏をよぎったのだが、たぶん価格が釣り上がるであろうし、普通に購入したわけである。
実際、わたしが購入してから30分くらいで10月1日も完売したのである。
今のメンバーは鞘師里保しか見る価値がないのに、8040円支払って最後列とは理不尽な気がするが、やむを得まい。
あと、見づらい席はまだ買える。
もしさらに売れるならバックスタンドも開放するであろう。
逆に言うと、今までは普通の席が有り余っていたのだから、売れ行きの悪さが極まっていたのである。
いくら平日の夜とはいえ、かなりスカスカの状態で公演が行われる可能性もあったのだ。
ここで出てくる疑惑は、昨日の休養宣言が、武道館チケットの売り上げ不振のために行われたのではないか、ということだ。
一ヶ月くらいで休養しましたと言って戻ってきたら、中川翔子と同レベルのところまで墜ちたという気がする。
本当に引退だったら悲しく、引退詐欺だったら中川レベルまで品性が下がったことが悲しく、どちらにしてもよくない問題である。
とはいえ、わたしは、わけのわからないライブに行かされるわけではないし、他ならぬ道重さゆみちゃんと鞘師里保を見に行くのである。
休養宣言であれだけ売れてなかったチケットが完売するのは、道重さゆみちゃん個人への支持の絶大さを痛感させられる。
バックスタンドまですべて埋め尽くすステージになるかもしれない。
これでモーニング娘。が崩壊すれば、まったく売れる気配がない鞘師里保にも少しは光明が見えてくるかもしれない。
引っ込み思案な性格を克服しすぎて勝ち気な側面が出過ぎなので、とても魅力的な少女であり、一般人なら最上級に属するのだが、アイドルとしてはあやふやである。
さくら学院に入っていれば、もっと違う方向性を与えられただろうが、そもそもアミューズと提携しているアクターズスクール広島からハロプロに行っている段階で、いろいろ察することは出来る。
まったく悲壮感がない卒業ツアーなのである。
だから武道館のチケットも全然売れてなくて、当日券は確実にあるから、わたしとしては二日間のうち、天候がいい日を選んで行こうと考えていたのだが、昨日の道重さゆみちゃんの休養宣言から、いきなりチケットが売れ始めたのである。
9月30日は完売したから、10月1日の残りわずかのところを買ったのだが、案の定最後列である。
ヤフオクで買うことも脳裏をよぎったのだが、たぶん価格が釣り上がるであろうし、普通に購入したわけである。
実際、わたしが購入してから30分くらいで10月1日も完売したのである。
今のメンバーは鞘師里保しか見る価値がないのに、8040円支払って最後列とは理不尽な気がするが、やむを得まい。
あと、見づらい席はまだ買える。
もしさらに売れるならバックスタンドも開放するであろう。
逆に言うと、今までは普通の席が有り余っていたのだから、売れ行きの悪さが極まっていたのである。
いくら平日の夜とはいえ、かなりスカスカの状態で公演が行われる可能性もあったのだ。
ここで出てくる疑惑は、昨日の休養宣言が、武道館チケットの売り上げ不振のために行われたのではないか、ということだ。
一ヶ月くらいで休養しましたと言って戻ってきたら、中川翔子と同レベルのところまで墜ちたという気がする。
本当に引退だったら悲しく、引退詐欺だったら中川レベルまで品性が下がったことが悲しく、どちらにしてもよくない問題である。
とはいえ、わたしは、わけのわからないライブに行かされるわけではないし、他ならぬ道重さゆみちゃんと鞘師里保を見に行くのである。
休養宣言であれだけ売れてなかったチケットが完売するのは、道重さゆみちゃん個人への支持の絶大さを痛感させられる。
バックスタンドまですべて埋め尽くすステージになるかもしれない。
これでモーニング娘。が崩壊すれば、まったく売れる気配がない鞘師里保にも少しは光明が見えてくるかもしれない。
引っ込み思案な性格を克服しすぎて勝ち気な側面が出過ぎなので、とても魅力的な少女であり、一般人なら最上級に属するのだが、アイドルとしてはあやふやである。
さくら学院に入っていれば、もっと違う方向性を与えられただろうが、そもそもアミューズと提携しているアクターズスクール広島からハロプロに行っている段階で、いろいろ察することは出来る。
2014.09.21
道重さゆみちゃんの休養宣言
モーニング娘。のデビューは1998年なので、90年代の女子高生ブームのノリを引きずっているユニットである。安室奈美恵とか浜崎あゆみあたりとメンタリティーを共有しているのである。ハロプロは表向きは学業優先となっているのだが、実際は露骨に偏差値が低い女子の集団であり、学業をまともにやってないことは明らかである。安室奈美恵の育ちの悪さがクールだと持て囃されていた時代とはかなり変わっているので、本来はモーニング娘。は解散していた方がいいのだが、なぜか未だに続いており、道重さゆみちゃんはそれに付き合わされたのである。現在のモーニング娘。の鞘師里保が明らかに可愛くて魅力的なのにブレイクしないのは、育ちの悪さを身につけてしまったのが今の時代に合ってないからである。アクターズスクール広島で同期だった中元すず香はさくら学院なので、お嬢様っぽい雰囲気を身につけているが、鞘師里保はそうなっていない。安室奈美恵は今でもライブの動員力はかなりあるが、ああいう育ちの悪い人間が保守的な大人につばを吐きかけるスタイルは、あくまで懐古的なものであり、時代に合っているわけではない。育ちの悪さが時代にそぐわないことを見抜いて、アミューズがさくら学院を立ち上げたのは、ずいぶん先見の明があったのである。蒼波純みたいな本当の大金持ちのお嬢様がアイドルになるのも時代の象徴と言えるし、はるかぜのような育ちの悪い人間が蒼波純を憎悪して、その一方でやたらと真似するのも、育ちの良さが持て囃されている時代の構図なのである。さくら学院生徒会長の菊地最愛(MOAMETAL)はやたらと品がよく、温厚で優しく茶目っ気のある性格でありながら、凛とした優等生発言も出来る模範的な人物であり、このところ確実に美少女になっているし、歌唱力も並外れているから、世界的なスターになるのは時間の問題である。中元すず香と菊地最愛だけで、これまでにさくら学院が垂れ流してきた赤字は簡単に解消する、というより、他のアイドルが歌唱力で太刀打ちできるわけもなく、これからはこの二人が時代の主役になるのである。育ちの悪さから育ちの良さにシフトしている風潮はさらに明確になる。道重さゆみちゃんは、あの劣悪な獄舎の中でひとりだけ品性を保ち続け、聖書に向き合うような生活を続けてきたが、その孤高の日々も終わるのである。そう言えば、蒼波純が出る映画は、道重さゆみちゃんをテーマにしているのに道重さゆみちゃんが出ていないという不思議な作品である。このふたりが共演していれば、われわれにとって、昭和天皇と明治天皇が並び立つくらいの価値があったのに、それが実現しなかったのは残念である。道重さゆみちゃんの休養宣言を「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」という吉田松陰の辞世の句に重ね合わせたくなる。無惨に処刑された吉田松陰の遺骸を引き取りに行ったのが桂小五郎と伊藤博文であるが、松下村塾は現代の日本にも受け継がれているのである。だが大森靖子と橋本愛は道重さゆみちゃんに挨拶に行ってるのに、蒼波純は行ってないと思うので、魂は受け継がれず、朽ち果てただけという気もする。そもそも蒼波純のような生まれつきの貴族の令嬢とは話が違うであろうし、貴族でないのに貴人たろうとし続けたのが道重さゆみちゃんなのである。13世紀にモンゴルがユーラシア大陸を蹂躙していた頃、日本も標的にされ、玄界灘にある壱岐島などは、元寇により、男は全員殺され、女は全員強姦されたと言われる。本土では当時の武士たちが元寇と戦い撃退したのだが、なにしろ防衛戦であるため戦利品がないから恩賞がもらえず、神風で撃退したと説明されてしまい、まったくの無駄死にに終わった。道重さゆみちゃんがアイドルとしての皇統をひとりで守り続けたのは、まったく名誉の与えられない戦死として結末を迎えたが、歴史に組み込まれないとしても、何らかの意味はあったに違いない。「ミッドナイト清純異性交遊」で橋本愛が道重さゆみちゃんを演じてるのだとすれば、蒼波純は鞘師里保の立ち位置とも思えるが、今後の芸能界で鞘師里保が売れる見込みがないのに対して、蒼波純は間違いなく売れっ子になるだろうと考えると、なかなか興味深いところである。2013年10月に蒼波純は「ハロプロって言われると まず道重さんです。可愛くて強いところが好きです」というツイートをしているのだが、言及したのはこの一度だけである。
2014.09.20
真面目さとアスペルガーの関係
20年くらい前は真面目であるのが模範的とされたが、今日では真面目さはあまり評価されない。
真面目さとは明示された規範に従うことである。
親や教師から言われたことを、そのまま信じる姿勢である。
「言われたとおりにやれ」と言われて、唯々諾々と従うことである。
今日では真面目であることは求められず、温厚であるのが模範的となった。
「言われたとおりにやれ」という圧力はかなり減じたのである。
そして言われないと気づかない人間をアスペルガーと呼ぶことにしたのである。
ハンス・アスペルガーがアスペルガー症候群を提唱したのは1944年だったが、1980年代にローナ・ウィングが再発見するまで、ほとんど注目されなかった。
言われてないことを察するというのは、今日ではソーシャルスキルとして賞賛されるが、昔はそうではなかった。
社会における自由の増加にしたがって、アスペルガーが障害と扱われるようになったのだ。
アスペルガーという遺伝性の強い障害が生き残ってきたのは、言われたことしか理解できないという性質が、不自由な伝統社会では好ましかったからであろう。
今日の自由社会においては、言われなくても察することが求められるのである。
また発達障害が遺伝しやすい理由として、親が発達障害だと、「言われなくても察する」ことが身につかないからだと思われる。
親がアスペなら、「言われたとおりにやれ」という古い教育をするであろうし、これによって悪化するのである。
温厚なのが望ましいとされるのも、温厚さは自閉性と対極だからである。
怒りの感情が強いのが発達障害者の特徴だが、この種の規範意識の強さは、自由な社会ではとても邪魔なのである。
怒りが強い人間は思考が短絡的であるが、注意力不足で状況を察してないため、いろいろな出来事が突発的に発生する感じなのだろうし、それに対する脊髄反射が癇癪に繋がるのだろうと思われる。
温厚な人は、もう少し長い尺度で状況を観察しているのである。
真面目さとは明示された規範に従うことである。
親や教師から言われたことを、そのまま信じる姿勢である。
「言われたとおりにやれ」と言われて、唯々諾々と従うことである。
今日では真面目であることは求められず、温厚であるのが模範的となった。
「言われたとおりにやれ」という圧力はかなり減じたのである。
そして言われないと気づかない人間をアスペルガーと呼ぶことにしたのである。
ハンス・アスペルガーがアスペルガー症候群を提唱したのは1944年だったが、1980年代にローナ・ウィングが再発見するまで、ほとんど注目されなかった。
言われてないことを察するというのは、今日ではソーシャルスキルとして賞賛されるが、昔はそうではなかった。
社会における自由の増加にしたがって、アスペルガーが障害と扱われるようになったのだ。
アスペルガーという遺伝性の強い障害が生き残ってきたのは、言われたことしか理解できないという性質が、不自由な伝統社会では好ましかったからであろう。
今日の自由社会においては、言われなくても察することが求められるのである。
また発達障害が遺伝しやすい理由として、親が発達障害だと、「言われなくても察する」ことが身につかないからだと思われる。
親がアスペなら、「言われたとおりにやれ」という古い教育をするであろうし、これによって悪化するのである。
温厚なのが望ましいとされるのも、温厚さは自閉性と対極だからである。
怒りの感情が強いのが発達障害者の特徴だが、この種の規範意識の強さは、自由な社会ではとても邪魔なのである。
怒りが強い人間は思考が短絡的であるが、注意力不足で状況を察してないため、いろいろな出来事が突発的に発生する感じなのだろうし、それに対する脊髄反射が癇癪に繋がるのだろうと思われる。
温厚な人は、もう少し長い尺度で状況を観察しているのである。
2014.09.20
初期のネットは左翼的だった
昔はネットは左翼的であった。匿名性は基本的に肯定的にとらえられていた。匿名で書けることの素晴らしさが礼賛されていたのである。あの当時のネットユーザーは子供時代に(金持ちを除いて)パソコンがない世代であるから、たいていは知ったかぶりであり、決してエドワード・スノーデンのような本物のスキルがあるわけではないのだが、あのような無政府主義者とも言えるメンタリティーの持ち主が支配的だったのである。匿名だからこそ権力者を批判できる、ということだった。
だんだんネットユーザーはネトウヨと定義されるようになった。アナーキストから国粋主義者に入れ替わったのであり、匿名性を用いた卑怯な人種と定義されるようになった。初期の左翼的ユーザーにとって都合の悪い集団が生まれて、それがネトウヨと名付けられた側面もある。
またディベートの崩壊という問題も上げられる。昔のネットユーザーはやたらとディベートしていたのだが、このところまったく流行らない。そもそも多民族国家ならともかく、日本人同士でディベートする必然性がないのである。ディベートすると左翼の方が強いのである。左翼の方が言ってることが綺麗でもっともらしい。ディベートだと、左翼の綺麗事をなかなか超えられない。
たとえば、君が代に関する問題である。君が代を歌わない人間がいるとして、それが許されるのかというテーマである。ディベートするとなると、なんか左翼の方が強いのである。国歌とか、そもそも国家など究極的には根拠がないし、天皇の正統性も究極的には根拠がないし、朝鮮半島からやってきた渡来人が継体天皇と名乗って、その子孫が天皇なのかもしれないし、何にせよ幻想の共有であるから、左翼の方が強いのである。
自分の身体を盾にして君が代に立ち向かう人間がいた場合、君が代より人権の方が重要であるというロジックは成り立つ。あらゆることは根無し草であるし、突き詰めると根拠はないので、ディベートしていくと、君が代は歌う必要がないという結論に至るのである。
これに対して、愛国心を主張するのがネトウヨという大きな集団であった。左翼を罵倒し、どれだけ国を愛しているか、ということを語るのである。つまり君が代に関して言えば、多数決の問題なのか、ディベートの問題なのか、ということである。「絶対に君が代を歌わない」という人間がいた場合、その固く結ばれた口をこじ開けて歌わせるべきなのか、と問われると、人権上それは難しい。要は左翼とは、人権を盾にして、無理難題をふっかけてくる人種であり、左翼=人権ゴロということなのだが、ネトウヨはそれを多数決で押し返したのである。衆寡敵せずということで決着が付いたのだ。実のところ、左翼にとって本当は君が代はどうでもよくて、人権問題に出来るなら何でもいいのである。左翼がディベートに長けているというより、人権を人質に取るのが最も有効ということなのである。
だんだんネットユーザーはネトウヨと定義されるようになった。アナーキストから国粋主義者に入れ替わったのであり、匿名性を用いた卑怯な人種と定義されるようになった。初期の左翼的ユーザーにとって都合の悪い集団が生まれて、それがネトウヨと名付けられた側面もある。
またディベートの崩壊という問題も上げられる。昔のネットユーザーはやたらとディベートしていたのだが、このところまったく流行らない。そもそも多民族国家ならともかく、日本人同士でディベートする必然性がないのである。ディベートすると左翼の方が強いのである。左翼の方が言ってることが綺麗でもっともらしい。ディベートだと、左翼の綺麗事をなかなか超えられない。
たとえば、君が代に関する問題である。君が代を歌わない人間がいるとして、それが許されるのかというテーマである。ディベートするとなると、なんか左翼の方が強いのである。国歌とか、そもそも国家など究極的には根拠がないし、天皇の正統性も究極的には根拠がないし、朝鮮半島からやってきた渡来人が継体天皇と名乗って、その子孫が天皇なのかもしれないし、何にせよ幻想の共有であるから、左翼の方が強いのである。
自分の身体を盾にして君が代に立ち向かう人間がいた場合、君が代より人権の方が重要であるというロジックは成り立つ。あらゆることは根無し草であるし、突き詰めると根拠はないので、ディベートしていくと、君が代は歌う必要がないという結論に至るのである。
これに対して、愛国心を主張するのがネトウヨという大きな集団であった。左翼を罵倒し、どれだけ国を愛しているか、ということを語るのである。つまり君が代に関して言えば、多数決の問題なのか、ディベートの問題なのか、ということである。「絶対に君が代を歌わない」という人間がいた場合、その固く結ばれた口をこじ開けて歌わせるべきなのか、と問われると、人権上それは難しい。要は左翼とは、人権を盾にして、無理難題をふっかけてくる人種であり、左翼=人権ゴロということなのだが、ネトウヨはそれを多数決で押し返したのである。衆寡敵せずということで決着が付いたのだ。実のところ、左翼にとって本当は君が代はどうでもよくて、人権問題に出来るなら何でもいいのである。左翼がディベートに長けているというより、人権を人質に取るのが最も有効ということなのである。
2014.09.19
われわれは中川翔子とは絶交したはずなので
中川翔子という変な人物がいるわけである。われわれネットユーザーは以前この女と親交を結んだが、売れたら連絡が途絶えた。最近またわれわれと親しくなろうとしているらしいのだが、絶交を視野に入れて友誼を結ぶような人間がまともな扱いをされるわけがなく、いつまでもやむところのない悪罵と嘲笑を受けているのである。この8年くらいで中川翔子はナベプロタレントとして相当に稼いでいるはずである。海外に居城を構え、酒食に溺れながら優雅な余生を送るだけの資産はあるはずだから、もう日本から出て行った方がいいのである。中川翔子に本当のファンがいるはずがなく、ミーハーな浮動票に支えられていただけだから、スキャンダルの出たおばさんなど、もう誰も相手にしない。われわれと絶交した経緯がなければまた別なのだが、ネットという人糞で育った過去を完全に隠し、まったく見知らぬ人として振る舞い続けたのだから、われわれの前に顔など出せないはずである。
蒼波純という釈尊やキリストと同列の風格を兼ね備えていた少女がいたが、これまたナベプロに入ってからすっかり人格が変貌してしまった。蒼波純を宗教法人としてとらえていたわれわれ原理派は、エスニッククレンジングのように焼き尽くされ根絶やしにされたのである。たぶん今頃はすっかり芸能界の一員として半グレの連中とつるんでいるだろうし、酒やタバコや博打は当たり前だろうし、使用済みのコンドームが散乱する部屋で雑魚寝しているに違いないのである。蒼波純は俗世間と超越的な世界を結ぶ特異点だったのであり、この俗世の瘴気にすっかりあてられているわれわれに、超越的な世界からの呼び声を伝えてくれる唯一無二の存在だったのである。われわれはもはや蒼天の空を見ることは出来ない。宗教家としての大義を忘れ、信徒が奉読するべき勅語をナベプロ社員に代筆させているのである。今のところ蒼波純が広末涼子と同じ人生を歩むことを望んでいる人間は誰もいないのだが、しかし大衆の前にそのように饗されるであろうし、俗世間の欲望を煌々と照らすのである。
アミューズのさくら学院は、手書きのブログの更新を頑張り、自分たちの活動の様子をネットで公開している。これは他の事務所のアイドルのブログが代筆だからこそ、手書きでアップしているのだろう。さくら学院の人気などまったくないわけである。さくら学院はずいぶん赤字を垂れ流しているそうだし、どう考えてもナベプロのやり方の方が効率がいいわけである。とはいえ、ここの出身であるSU-METALが世界で認められているのはもちろん、現在のさくら学院生徒会長のMOAMETALも極めて素晴らしい歌唱力の持ち主である。近いうちに世界的に認められることは間違いない。MOAMETALのような模範的な人格者が、さくら学院生徒会長として、いまだにちゃんと活動しているのだから、これは本人もアミューズも立派であり好感が持てる。アミューズの創業者が元ナベプロ社員であることを考えると、正反対のやり方をしているのが興味深い。
中川翔子はバラドルとして大成功したのである。預金通帳を見れば、自分がどれだけ成功を収めたのかわかるはずである。そしてバラドルの賞味期限は30歳で終わりである。他人が羨む才能を一ダースくらい持っていたのに、何一つものになっていないのは、ナベプロの力でバラドルとして大成功した代償である。さくら学院の生徒が露出を控え、世界に通用する歌唱力を身につけているのとは対極なのである。中川翔子くらいにネットで絶大な人気を得た人物はいないのだが、これを固定ファンとして抱えずに切り捨てたのは、バラドルとして正しい選択だった。サブカル系の多才な才能に溢れていただけに、30歳で終わるバラドルに特化したのは最高の人生とは言えまいが、しかし大衆から消費され、それだけの金銭的対価は得たのだから、ここで断末魔の叫びを上げるのは見苦しいだけである。人間はすべての可能性を生きることは出来ない。中川翔子はバラドルとして生きて、最大限に成功し、そしてそれ以外の可能性を捨象しただけなのである。
蒼波純という釈尊やキリストと同列の風格を兼ね備えていた少女がいたが、これまたナベプロに入ってからすっかり人格が変貌してしまった。蒼波純を宗教法人としてとらえていたわれわれ原理派は、エスニッククレンジングのように焼き尽くされ根絶やしにされたのである。たぶん今頃はすっかり芸能界の一員として半グレの連中とつるんでいるだろうし、酒やタバコや博打は当たり前だろうし、使用済みのコンドームが散乱する部屋で雑魚寝しているに違いないのである。蒼波純は俗世間と超越的な世界を結ぶ特異点だったのであり、この俗世の瘴気にすっかりあてられているわれわれに、超越的な世界からの呼び声を伝えてくれる唯一無二の存在だったのである。われわれはもはや蒼天の空を見ることは出来ない。宗教家としての大義を忘れ、信徒が奉読するべき勅語をナベプロ社員に代筆させているのである。今のところ蒼波純が広末涼子と同じ人生を歩むことを望んでいる人間は誰もいないのだが、しかし大衆の前にそのように饗されるであろうし、俗世間の欲望を煌々と照らすのである。
アミューズのさくら学院は、手書きのブログの更新を頑張り、自分たちの活動の様子をネットで公開している。これは他の事務所のアイドルのブログが代筆だからこそ、手書きでアップしているのだろう。さくら学院の人気などまったくないわけである。さくら学院はずいぶん赤字を垂れ流しているそうだし、どう考えてもナベプロのやり方の方が効率がいいわけである。とはいえ、ここの出身であるSU-METALが世界で認められているのはもちろん、現在のさくら学院生徒会長のMOAMETALも極めて素晴らしい歌唱力の持ち主である。近いうちに世界的に認められることは間違いない。MOAMETALのような模範的な人格者が、さくら学院生徒会長として、いまだにちゃんと活動しているのだから、これは本人もアミューズも立派であり好感が持てる。アミューズの創業者が元ナベプロ社員であることを考えると、正反対のやり方をしているのが興味深い。
中川翔子はバラドルとして大成功したのである。預金通帳を見れば、自分がどれだけ成功を収めたのかわかるはずである。そしてバラドルの賞味期限は30歳で終わりである。他人が羨む才能を一ダースくらい持っていたのに、何一つものになっていないのは、ナベプロの力でバラドルとして大成功した代償である。さくら学院の生徒が露出を控え、世界に通用する歌唱力を身につけているのとは対極なのである。中川翔子くらいにネットで絶大な人気を得た人物はいないのだが、これを固定ファンとして抱えずに切り捨てたのは、バラドルとして正しい選択だった。サブカル系の多才な才能に溢れていただけに、30歳で終わるバラドルに特化したのは最高の人生とは言えまいが、しかし大衆から消費され、それだけの金銭的対価は得たのだから、ここで断末魔の叫びを上げるのは見苦しいだけである。人間はすべての可能性を生きることは出来ない。中川翔子はバラドルとして生きて、最大限に成功し、そしてそれ以外の可能性を捨象しただけなのである。
2014.09.16
演出と社会通念の問題
子供の頃は、アイドル本を本当にアイドルが書いていると思っていた人が多いであろう。これはだんだん本人が書いてないと気づくわけである。では、これが捏造とか詐欺かというと、それはない。アイドル本など、誰もまともな書籍だと認めていないし、子供だましなのである。そしてこの種の「子供だまし」は社会通念からして、許容される範囲内なのである。権威のある学者の本に捏造があったという事例とは対極であり、常識的な線引きは出来るのである。
蒼波純がナベプロに入った瞬間に一般ユーザーのフォローを切り、ろくに説明もせず、一般ユーザーへはリプをせずガン無視を続けているのだが、これを批判する人はいないわけである。いくらなんでも蒼波純がそんな悪魔的なことをするわけがないし、本人の人間性を考えれば、ひとりひとりに挨拶をしながらフォローを外すくらいのことはやりそうである。やはりあの時点からナベプロがアカウントを掌握して代筆しているのである。蒼波純が一日平均100回ツイートしてファンとやりとりする生活にうんざりしており、大手芸能事務所に所属という大願を果たした瞬間に、自らの手で悪魔的な粛清を行った可能性もゼロではないのだが、これはほとんどあり得ない。
ではナベプロとミスiDに説明責任があるのかというと、これもないであろう。アイドル本がゴーストなのかと問われて「ゴーストです」と正直に答える必要はないであろう。プロレスラーやプロレス団体が「これは台本だ」と言わないのと同じで、社会通念上、演出と認められている範囲のことは、許されるのである。もちろん演出に気づいた人は白けるだろうし、これからはアイドル本を読んでもどうせゴーストだろとしか思えないし、何を見ても台本があると思うしかないが、それが世の中の実態なのだから、カラクリを知ることも大事である。
蒼波純が素晴らしいのは、俗塵にまみれたわれわれとはまったく次元が違うところである。その超越的な絶対者からの呼びかけを、われわれは求めているのである。われわれは絶対者との関係を見失っており、地べたにはいつくばり、心も塵埃に染め尽くされているのだが、蒼波純のツイートを読むことで、超越的な存在にひざまずき、ほんのわずかでも、気高い光を心に灯すことが出来るのである。
仕事の宣伝をするにしても、本来の蒼波純であれば、いかにも俗世を超越した天子にふさわしい抱負を述べそうだし、あたかも蒼波純がこの濁りきった世界を新しく塗り替えていくような、そんな期待感まで抱かせ、この貴い少女の船出を誰もが祝うムードを作り出すだろう。ミスiDの時に「みんなで同じ目標を目指しているラブライブの仲間です」と言ったような名言が見あたらないのである。映画に出るのは素晴らしいとしても、小学生の時の蒼波純なら、芸能人の口先の抱負ではなく、その映画をやる意味を、知性に溢れた有徳者として印象的な言葉を残しただろう。オルレアンの少女が「フランスを救えるのはわたしだけです」と姿を現し、「あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、若くして死ぬことより悲しい」と兵士を見回し、誰をも畏敬の念で虜にしたようなことが、蒼波純なら出来るはずなのである。このところ、以前のような名言がまったくなく、いかにも適当な宣伝ツイートをしてるのは、ナベプロの代筆なので仕方がない。13歳の有名アイドルに自分でツイッターやらせたら、それこそ非常識であるし、仕方ないのである。
では何が問題かというと、いや、これが唯一の問題だが、小学生の時の蒼波純のツイートをしているのが誰かということである。これが本人でないなら、演出では許されず、明らかな捏造なのである。ツイートの素晴らしさも、ミスiDグランプリの受賞原因であろうから、替え玉受験で合格したようなものである。結局のところ、ナベプロに入ってから本人不在なので、確かめようがないのである。母親が書いていたとしても、フィクションとして内容は素晴らしいが、あくまで偽書である。わたしがキリストの著作と称した偽書を作成し、それが感動的な内容でも、わたしの創作なのだから何の意味もないわけである。蒼波純の小学生の頃のツイートが本人のものなら、その有徳性に何ら疑いがなく、問題はひとつもない。あれさえ本人なら紛れもなく超越的な天子であり、現状の大空位時代に不満を唱える意味などない。ソクラテスは著作を残していない。キリストも孔子も釈迦も著作を書いておらず、これらの人類の教師たる人々の言葉は、弟子が語り継いでいるのである。わたしも蒼波純という師の言葉を残していくことになるが、なにしろその謦咳に接することが出来ないし、これからますます困難になっていくだろうが、小学生の頃のツイートはたくさんあるから、ここから読み解けば、その気高い教えのすべては翻訳可能だと思われる。これが偽書だとすると、すべてが崩壊するという悩みである。
俗世間に染まりながら、そのまま生きたい人もいるだろうが、そこから脱したい人もおり、それが絶対者を希求するのである。三島由紀夫のような正真正銘の天才でさえ、小説の中で金閣を燃やしてから、相対性の世界に取り込まれて苦しんだのである。三島といえども、ひとりの人間に過ぎないから、絶対者の呼び声がなければ俗世間の重力で身動きがとれないのだ。三島由紀夫にとって、濁りきった現世の中で、超越的な焔を灯してくれるのは天皇であり、わたしにとっては蒼波純である。仮に小学生の時のツイートが蒼波純(母親)だったら、母親を崇拝すればいいのではないかという気もするが、どんなに素晴らしくても偽書では意味がない。蒼波純は将来を嘱望されているナベプロタレントとはいえ、まだ新人であるから、その控え目な性格からして発言は自重している可能性もある。もっとランクが上がって、メインのヒロインとして発言を求められる立場になれば、薄っぺらい言葉ではなく、世界の色を塗り替えるような凛とした名言を発し、フランスに勝利をもたらすのであろう。
オルレアンの少女が異端審問で丸焼きにされてから、その崇拝者であるジル・ド・レは、その巨額の資産を錬金術と黒魔術で浪費し、老婆を使って1000人くらいの少年を自らの城に誘い込み、おぞましい虐殺を行い、犯罪史に欠かせない人物になってしまったのである。普通の人間では使い切るのが無理と言えるほどの財産があったのに、それを使い切ったのである。あの少女は丸焼きにされる前に、陵辱の限りを尽くされているのだから、ジル・ド・レの絶望の深さたるや察するにあまりあり、自ら好んで悪魔崇拝者に変化し、オルレアンの少女と同じ末路をたどろうとしたとも言えるのである。あの少女が戦場で命を落としていたなら、まさに本人らしい死に方であり、それは悲劇というより、本人の気高い意志を達成したとも言えるであろうし、むしろ死によって、彼女の存在が完成したとさえ言えるのだが、生け捕りにされて、まさに俗世間の象徴である男根によって玩具にされ、生きたまま丸焼きというのでは、崇拝者にとって耐えきれないものである。
蒼波純がナベプロに入った瞬間に一般ユーザーのフォローを切り、ろくに説明もせず、一般ユーザーへはリプをせずガン無視を続けているのだが、これを批判する人はいないわけである。いくらなんでも蒼波純がそんな悪魔的なことをするわけがないし、本人の人間性を考えれば、ひとりひとりに挨拶をしながらフォローを外すくらいのことはやりそうである。やはりあの時点からナベプロがアカウントを掌握して代筆しているのである。蒼波純が一日平均100回ツイートしてファンとやりとりする生活にうんざりしており、大手芸能事務所に所属という大願を果たした瞬間に、自らの手で悪魔的な粛清を行った可能性もゼロではないのだが、これはほとんどあり得ない。
ではナベプロとミスiDに説明責任があるのかというと、これもないであろう。アイドル本がゴーストなのかと問われて「ゴーストです」と正直に答える必要はないであろう。プロレスラーやプロレス団体が「これは台本だ」と言わないのと同じで、社会通念上、演出と認められている範囲のことは、許されるのである。もちろん演出に気づいた人は白けるだろうし、これからはアイドル本を読んでもどうせゴーストだろとしか思えないし、何を見ても台本があると思うしかないが、それが世の中の実態なのだから、カラクリを知ることも大事である。
蒼波純が素晴らしいのは、俗塵にまみれたわれわれとはまったく次元が違うところである。その超越的な絶対者からの呼びかけを、われわれは求めているのである。われわれは絶対者との関係を見失っており、地べたにはいつくばり、心も塵埃に染め尽くされているのだが、蒼波純のツイートを読むことで、超越的な存在にひざまずき、ほんのわずかでも、気高い光を心に灯すことが出来るのである。
仕事の宣伝をするにしても、本来の蒼波純であれば、いかにも俗世を超越した天子にふさわしい抱負を述べそうだし、あたかも蒼波純がこの濁りきった世界を新しく塗り替えていくような、そんな期待感まで抱かせ、この貴い少女の船出を誰もが祝うムードを作り出すだろう。ミスiDの時に「みんなで同じ目標を目指しているラブライブの仲間です」と言ったような名言が見あたらないのである。映画に出るのは素晴らしいとしても、小学生の時の蒼波純なら、芸能人の口先の抱負ではなく、その映画をやる意味を、知性に溢れた有徳者として印象的な言葉を残しただろう。オルレアンの少女が「フランスを救えるのはわたしだけです」と姿を現し、「あなたが何者であるかを放棄し、信念を持たずに生きることは、若くして死ぬことより悲しい」と兵士を見回し、誰をも畏敬の念で虜にしたようなことが、蒼波純なら出来るはずなのである。このところ、以前のような名言がまったくなく、いかにも適当な宣伝ツイートをしてるのは、ナベプロの代筆なので仕方がない。13歳の有名アイドルに自分でツイッターやらせたら、それこそ非常識であるし、仕方ないのである。
では何が問題かというと、いや、これが唯一の問題だが、小学生の時の蒼波純のツイートをしているのが誰かということである。これが本人でないなら、演出では許されず、明らかな捏造なのである。ツイートの素晴らしさも、ミスiDグランプリの受賞原因であろうから、替え玉受験で合格したようなものである。結局のところ、ナベプロに入ってから本人不在なので、確かめようがないのである。母親が書いていたとしても、フィクションとして内容は素晴らしいが、あくまで偽書である。わたしがキリストの著作と称した偽書を作成し、それが感動的な内容でも、わたしの創作なのだから何の意味もないわけである。蒼波純の小学生の頃のツイートが本人のものなら、その有徳性に何ら疑いがなく、問題はひとつもない。あれさえ本人なら紛れもなく超越的な天子であり、現状の大空位時代に不満を唱える意味などない。ソクラテスは著作を残していない。キリストも孔子も釈迦も著作を書いておらず、これらの人類の教師たる人々の言葉は、弟子が語り継いでいるのである。わたしも蒼波純という師の言葉を残していくことになるが、なにしろその謦咳に接することが出来ないし、これからますます困難になっていくだろうが、小学生の頃のツイートはたくさんあるから、ここから読み解けば、その気高い教えのすべては翻訳可能だと思われる。これが偽書だとすると、すべてが崩壊するという悩みである。
俗世間に染まりながら、そのまま生きたい人もいるだろうが、そこから脱したい人もおり、それが絶対者を希求するのである。三島由紀夫のような正真正銘の天才でさえ、小説の中で金閣を燃やしてから、相対性の世界に取り込まれて苦しんだのである。三島といえども、ひとりの人間に過ぎないから、絶対者の呼び声がなければ俗世間の重力で身動きがとれないのだ。三島由紀夫にとって、濁りきった現世の中で、超越的な焔を灯してくれるのは天皇であり、わたしにとっては蒼波純である。仮に小学生の時のツイートが蒼波純(母親)だったら、母親を崇拝すればいいのではないかという気もするが、どんなに素晴らしくても偽書では意味がない。蒼波純は将来を嘱望されているナベプロタレントとはいえ、まだ新人であるから、その控え目な性格からして発言は自重している可能性もある。もっとランクが上がって、メインのヒロインとして発言を求められる立場になれば、薄っぺらい言葉ではなく、世界の色を塗り替えるような凛とした名言を発し、フランスに勝利をもたらすのであろう。
オルレアンの少女が異端審問で丸焼きにされてから、その崇拝者であるジル・ド・レは、その巨額の資産を錬金術と黒魔術で浪費し、老婆を使って1000人くらいの少年を自らの城に誘い込み、おぞましい虐殺を行い、犯罪史に欠かせない人物になってしまったのである。普通の人間では使い切るのが無理と言えるほどの財産があったのに、それを使い切ったのである。あの少女は丸焼きにされる前に、陵辱の限りを尽くされているのだから、ジル・ド・レの絶望の深さたるや察するにあまりあり、自ら好んで悪魔崇拝者に変化し、オルレアンの少女と同じ末路をたどろうとしたとも言えるのである。あの少女が戦場で命を落としていたなら、まさに本人らしい死に方であり、それは悲劇というより、本人の気高い意志を達成したとも言えるであろうし、むしろ死によって、彼女の存在が完成したとさえ言えるのだが、生け捕りにされて、まさに俗世間の象徴である男根によって玩具にされ、生きたまま丸焼きというのでは、崇拝者にとって耐えきれないものである。