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この世の中には、あれだけ昭和臭いツイートを見ても、2001年生まれのはるかぜ(娘)が書いてると思いこんでいる人がいるわけである。はるかぜファンとはそういう人種である。母親の代筆だとは決して疑ってない。あくまで昭和文化に造詣が深い少女だと思っているのである。またはるかぜに熱心なファンはいないわけである。代筆に気づかない鈍感な人が、気まぐれに応援しているだけである。

はるかぜはアンチから攻撃されているという設定になっているが、実際は、はるかぜ(母親)がはるかぜ(娘)を虐待しているのである。この虐待行為を覆い隠すために、アンチに攻撃されていると大騒ぎをしているだけなのである。はるかぜ(娘)は公立中学で落ちこぼれている状態であるし、本人を見ても、明らかに喋りが拙いのである。代筆をして「大人顔負け」と褒められた快楽をはるかぜ(母親)が忘れられないので、必死にツイッターにしがみつき、娘の教育は放棄しているのである。世間を見返したいと思っている人間が人の親になることの危険性である。

われわれは家族という物語を通して、命が大事だと信じているのである。誰かを殺したら、その家族が悲しむという問題である。赤の他人の家族が悲しもうと知ったことではないというところまでは行き着けない。われわれは家族というものに極めて強い信仰を抱いており、それが人間存在の根幹でもあるから、信じるしかないのである。家族というものが、人間の防波堤なのである。家族という単位がなければ、誰もが赤の他人で天涯孤独ということになり、赤の他人の人権などどうでもいいという結論になってしまう。

はるかぜ(娘)を救えるのは、はるかぜの父親しかいないと思うのだが、この父親もよくわからず、漠然と毒親関係を容認しているようである。この家族からはるかぜ(娘)を引き離すとしても、行き先は児童養護施設しかないわけである。家族の一員として存在するのが、われわれ人間存在の基本だから、そこからあぶれた子どもに厚い待遇が出来るわけがない。家族という単位をなくしたら、誰もが赤の他人同士ということになるから、これはこれでまずいのである。だから、家族に面倒を見てもらうのが大原則である。

はるかぜ(母親)は娘の容姿をどうにかしようと必死なのだが、これこそが間違いなのである。芸能界で活躍するなら頭の良さの方が大事である。容姿が可愛いのにぱっとせずに消え去っていくアイドルなんてたくさんいる。はるかぜ(娘)は学力が低く、ソーシャルスキルも低いので、使いどころがないのである。仮に頭の回転が速くてトークスキルがあったら、ブスでもポジションはあるのである。蒼波純がやたらとチヤホヤされているのは、天才的な頭脳の持ち主だからである。無表情で俗世を見渡しながら、頭の中では高級なことを考えているから、狂信的に崇拝する信者がたくさんいるのである。そもそも蒼波純が馬鹿だったら単なる白痴であるし、エロ漫画なら首輪につながれて死んだ目で転がってるレベルである。われわれが蒼波純を現人神として崇拝しているのは、あの投げやりな感じが、偉人や天才に多く見られる気質であり、それに値するだけの知性の持ち主だからである。大富豪の息子に生まれながら人生がどうでもよく、巨額の遺産さえ放棄して放浪したヴィトゲンシュタインと似たような気質の少女が、たまたま偶然にも美少女であるだけであり、これは蛇足でしかない。もしくは道重さゆみちゃんの頭の中身がはるかぜ(娘)と同レベルだったら、芸能界にポジションがあるわけがない。はるかぜ(母親)は代筆が生き甲斐になっているから、娘に教育を付けないのであろうが、そうやって馬鹿な状態で放置している結果が、どこからもオファーがない現状なのである。
20世紀後半は性差を認めない時代であった。男女差とは社会的に作られたものであり、生まれつきの差はないとされていた。「男らしい」とか「女らしい」という発想は差別であり偏見であるとして糾弾されたのである。本気で性差が後天的だと信じていた人はいないであろうが、フェミニズムが猛威を振るっていたため、「性差はない」と強弁されていたのである。このところ欧米でもフェミニズムの猛威は弱まっているらしく、ようやく性差に触れることが出来るようになった。

上野千鶴子は開業医の娘で京都大学に進学しているので恵まれた環境ではあるのだが、人間ではなく虫のような顔をしているので、「女の子らしさ」に強烈な反発を抱いたのである。これは上野千鶴子独自の発想というよりは、先進国全般に共通した流れではあったのだが、ともかく「女の子」の絶滅に向かって戦端を開いた。フェミニストとは要は人権団体であり言論弾圧装置であるが、上野は凶相を浮かべ爛々と目を光らせながら、憲兵として走り回ったのである。一般人から見れば、単なる変なババアに過ぎないが、文化人にとっては猛毒を持った蛇であり、その牙に噛みつかれたら致命傷である。

日本社会において、この問題はイケメン最強ということで決着がついた。独身男性の半数くらいが童貞とも言われるし、またイケメンのハーレムに参加した女も年を食えば初老の色情狂でしかないし、自立した女性というよりは、誰からも相手にされない肉塊である。酸鼻を極めた敗北者としての男女がわかりあえるはずもなく、お互いへの強烈な嫌悪感を抱き続け、罪障の深さの極みか、もしくはすべてが物質で罪も罰もないのか知らないが、薄汚れた落人として蕭条たる風景のひとつとなり、この世界から退場していく。結局のところ女は自分より上だと感じる男が好きなのであり、自分の身の丈に合った対等の男性は鼻で笑うのが現実である。女が自分で相手を選ぶと、かなり上のイケメンを狙ってしまうので、セフレで終わるという問題である。左翼的な社会的実験はすべてが失敗として終わるという法則が、ここでも貫かれたのである。

男子と女子の差は自閉というキーワードでだいたい語れるのだが、なにしろ自閉という言葉を使うだけで、自閉症の患者団体が暴れるというめんどくさい事情もあった。最近になって自閉症スペクトラムの考えが広まり、自閉とは自閉症患者だけに見られるものではなく、濃淡の違いがありつつも、かなり多くの人に見られる症状であることが理解されるようになった。

このエントリーはサイモン・バロン=コーエンの「共感する女脳、システム化する男脳」を参考文献として用いているが、この本で「システム化」として書かれていることを、わたしは近代科学や近代文明の問題として勝手に捉え直しているから、まったく忠実な要約ではないし、研究データを参照したに留まる。文明の初期から数学は発達しているので、知能と近代科学を結びつけるのは、歴史的にあまり正しいとは言えないのだが、知能を近代社会と結びつけると、この種の問題がクリアになるというのがわたしの判断である。おそらく知能テストとは、ニュートンが最高のスコアを取れるようなテストなのであり、ニュートンが出来ないような日常的なスキルは評価されないのである。

このところ日本では、女の子らしさが再発見されている。kawaiiという言葉も、女子の可愛らしさのルネッサンスなのである。遠い昔に貴族が嗜んだ文化が復活しているのである。たいてい女子の方がソーシャルスキルが高いので、そういう人間観の変化が大きいと思われる。知能とは近代科学への適性の問題であり、知能が高いとは、近代的な合理性や、科学者向きの頭脳の持ち主ということである。もはや科学への夢や希望は持たれていないし、それよりは女子の可愛らしさの方が好ましいのである。

知能の性差に関しては、身長の性差とはまったく違うわけである。たとえば日本人で160センチ未満の男性というと、かなりの少数派に属するが、女性の半分以上は160センチ未満である。「身長175センチです」と言われたら、男子だと決めつけるわけである。身長175センチの日本人女性は存在するが、かなり稀であるため、175センチなら男子だろうと思いこむわけである。男性の身長と女性の身長がかなり明確に分かれているのに対して、知能はかなりばらつきがある。頭の悪い男子は本当に頭が悪いし、数学が得意な女子は普通に存在する。

遠近感は男子の方が優位なのだが、これはやはり遠近感は空間的に計算する必要があるから、男子の方が優れているのだろう。逆に周辺視野では女子の方が明らかに優れているのである。女子は男子より周囲を把握しているので、必然的に観察力が強いのである。観察の結果を分析するとなるとまた別の話だが、ともかく女子は周囲をよく見ている。男子より細かいところに気づくわけである。もちろんガサツな女子もいるから、個人差も大きいが、平均でくらべれば、明らかに女子の方が周辺への神経が行き届いている。

言語流暢性で女子の方が優れているのは議論の余地がない。女子は訓練しなくても、女子アナのようにスラスラと喋れる子が普通である。男子だと、スラスラとよどみなく話せるのは少数派になる。言葉の扱いに関してはほとんど男女差はなく、むしろ女子の方が語彙が豊富に思える。文学なら女性作家が世界的な文学作品を著すのは全然珍しくない。(おそらく語学のヒアリングでも女子の方が得意であるような気がする)。

女子は自閉性が低くて、内面世界と外面世界がシームレスに繋がっているのである。この方がソーシャルスキルが高いに決まっている。かつて、このような女子の特性は、あまり高く評価されなかった。数唱検査(言われた数字を復唱する)で女子が優れているのははっきりしているので、具体的にそのまま頭に入れるという点では女子の方が聡明さがあるはずである。女子の方が外界への認識がオープンであり、しっかり把握しているのである。女子は視空間認識も明らかに男子より優れている。最初に絵を見せて、その後に少しだけ違いのある絵を見せると、女子の方がその違いに気づくのである。そのわりに女子は地図を読むのも書くのも苦手である。これは三次元の立体空間を二次元の平面図として表現するのに数学的能力を使うためだと思われる。

ラットでもメスは方向音痴なのだが、テストステロン(男性ホルモン)を注射すると、オスと同等の方向感覚を身につけて、迷路でもすんなりと通り抜けることが出来るようになる。アンドロゲン不感症という病気があり、男性ではあるのだが、男性ホルモンを受容出来ないので、(もちろん子宮はないのだが)性器は女性の形になる。この病気の人は、男性的な科学的思考能力が弱い。あまり豊富なデータはないらしいのだが、性転換手術で女性から男性になるためにアンドロゲン(テストステロン)を投与すると空間認識能力が高まるようなので、普通の人間の女性にテストステロンを注射すれば、数学や物理が得意になる可能性が高いと思うのだが、さすがに実行する女性はいないであろう。

男子がスポーツ観戦するときは、いろいろなデータを見るのがとても好きである。数字や指標をチェックするのがスポーツ観戦の楽しみのひとつなのである。やむを得ずデータを見るのではなく、いろいろ調べながら見ることが大好きなのである。女子は無頓着である。活躍しているスポーツマンを憧れの目線で見ているだけであり、データには関心を持たない。

このところ、息子より娘の方が欲しいという風潮が高まっているように思える。女子だとノーベル物理学賞は取れないだろうし、天才数学者になることもないが、もはやわれわれは科学者には何の憧れも抱いていないし、単なるアスペルガーだと考えている。一昔前だと、近代科学の発達に未来を託していたし、息子が博士になるのを期待していたのだが、もはやそういう時代ではない。近代科学がどうでもいいとなると、女子の可愛さの価値が高まってくるのである。機械を分解して調べるようなことは、男子なら得意であることが多いが、女子は機械への苦手意識を持っているのが普通であり、女子は科学的思考に不向きであると断じてよいが、それ以外のスキルは男子より優秀だったりする。また、男子の方が科学に適性があると言っても、数学が出来ない男子の方が多数派であろうし、優秀な科学者になるのは一握りであるから、馬鹿が生まれてくるリスクが高いし、仮にニュートンみたいな頭脳の息子が生まれてきても、何を考えてるのかわからないから気持ち悪いはずである。女子で可愛くないとすれば、かなり稀である。ほとんどの女子は何らかの可愛さがあると考えると、近代科学への希望が潰えた社会では、女子の可愛さを愛でる方向に行くのは自然であろうかと思われる。少なくとも20世紀後半の「自立した女性」の末路を見たわけであるし、フェミニズムも衰退したから、われわれも宗旨替えする自由を得たし、生物学的な性差に根ざした女子の可愛らしさが普通に肯定されるようになったのである。
チェ・ゲバラは五人兄弟の中でひとりだけ異質であったらしく、聖者たるべく教育されたわけではない。他の四人の兄弟は普通のラテン系の人間であるのに、なぜかチェ・ゲバラだけが物質的な幸福を蔑み、人類救済にすべてを捧げるようなパーソナリティーを持ったのである。これは大いなる謎としか言いようがない。ゲバラはかなりの音痴であり、音楽を理解出来ないレベルだったとも言われる。音楽を楽しめないという障害が、ラテン・アメリカ人らしからぬ気質を生み出したと想像することも可能だが、いずれにせよ、決定的な理由はないのである。ただひたすら俗世間に関心が無く、人類救済だけに興味があったのである。

ゲバラのわけのわからなさは、カストロの盟友としてキューバ革命に成功し、カストロと仲違いしたわけでもないのに、キューバ革命から6年後に再び、革命運動に身を投じていることである。ゲバラはアルゼンチン人であるから、キューバでの居心地が最高というわけでもなかっただろうが、余生を享楽できる立場であったのも確かだ。身長2メートルのカストロならともかく、170センチくらいで喘息持ちのゲバラのこの戦士としての情熱は凄まじい。最終的には39歳の時にボリビアのジャングルでゲリラ活動をしていて捕縛され、銃殺によって生涯を閉じたのである。自分の人生の幸福に関心がないという姿勢は生涯貫かれたのである。

自分の人生への無関心というのは、偉大な人間の多くに見られる性質である。なぜか自分のことより、人類救済に関心があったりするのである。モラルを超越した次元で自分の人生に無関心なのだから、人格者という言葉では片付けられない。ゲバラにしても40近くなってもキューバでの地位を捨てて革命運動をやって、飢え乾きながら戦塵にまみれ、銃殺されるところまで突き進んだのだから、親切なおじさんということでは説明できない。利他性というよりは、理想主義の極みなのである。他人のため、ではなく、理想世界への憧れの強さであり、そのためにはどのような苦難も厭わないのである。

道重さゆみちゃんはモーニング娘。をやめたら還俗して、普通にいろんな相手と恋愛したりする人生を過ごすのだろうと思っていたのだが、卒業後は休業と発表している。つまり今度の武道館でも、最終の横浜アリーナでも、今後については未定という説明がされるだけで、方向性については不明なまま卒業して休業となるのである。たぶん道重さゆみちゃんは理想的なアイドルを、自分のためではなく、そして必ずしもファンのためではなく、ゲバラには遠く及ばないにせよ、少女らしい理想主義者として追い求めたのであり、だからこそ、ファンからも共感されたのである。ファンのためだと口癖のように言うとしても、ファンに媚びたから支持されたのではなく、何よりも道重さゆみちゃん本人が、理想主義者として、アイドルという存在に強い憧れを持っていることが好ましかったのである。ゲバラくらいのガチなら、これから修道院に入るべきだが、誰もそこまで求めていないだろうし、ボリビアで銃殺刑に処されることも求めていない。鞘師里保は死ぬほど可愛いけれど、道重さゆみちゃんのような理想主義者ではないし、ここで断絶する、というより、誰も真似できないのである。道重さゆみちゃんは、理想主義への感受性が人一倍あり、偉大な人間の系譜に連なる資格の持ち主だったのだ。「自分のため」とか「他人のため」という概念は、個人個人がエゴを持って存在し、境界線が引かれていることを前提としており、これこそが通俗性の根源なのだが、そのような俗塵にまみれた俗世間の発想を超越し、道重さゆみちゃんはただひたすらアイドルという超越的な存在に崇高な憧れを持ち、その憧れのためなら、自らを殉教者として捧げるのも厭わなかった。自他として分断された通俗世界を超えて理想世界を目指したのだから、人類愛としか言いようがないのである。
漫然とツイッターをやってるとブログが書けなくなるという現象がある。時間というのは撤回不能性が特徴であり、すべてのなされたことは撤回は出来ないのだが、自分しか知らなければ撤回出来るわけである。費やした時間は取り戻せないので、時間を無駄にしたということは撤回出来ないが、公開前であれば、書いた内容を削除して葬り去ることは出来るわけである。頭の中でいろいろ考えながら、浮かんだ考えを取捨選択していくのが思考なのであるから、頭に浮かんだ端から公開ツイートしてしまうのは、その廃材の重みで身動きできないことになるのである。人間が物事を深く考えようとするならツイ消しが基本なのである。頭に浮かべては削除していく作業である。伸ばした枝をバッサリと切るようなことが必要なのである。公開ツイートしてからツイ消しして発言を二転三転させると、それは人間の思考プロセスに則っているのだが、他者との関係性において明らかに顰蹙を買う行為である。「思考」と「思考の表明」を明確に意識することはあまりないが、これは決定的な違いがあるのである。思考を表明したからには、それは他者と共有する時間性の中で、思考を刻み込んだということなのである。その時点における動かぬ最終結果として発表したということなのである。時間は途切れることなく流れていくが、自分の中で時間が無駄になる問題と、世界とリンクさせたために撤回出来ない問題は分けて考えなければならない。ツイッターという、下書きをしないで公開ツイートする仕様は、思索とは対極のものなのである。われわれは発言の統一性を期待されて世界に存在しているのである。誰がどういう考えを持っているかというのは、事前に把握されている。聞いてみるまでは答えがわからないというのでは、世界は存在し得ないのである。自分の知り合いに何かを問うとして、どういう答えが返ってくるかは、だいたい予想が付くわけである。その予想が的中するわけではないが、ある程度予想可能になっているのが世界のルールなのである。一人の人間には一つの思考というのが役割として期待されている。こういうルールに従うことで存在しているのだから、すでに表明してしまった考えに縛られるのは当然なのである。下書きとは「思考」と「思考の表明」を切り分けることであり、それによって長時間の思索が可能になるのである。一度書いてから、少し寝かせてもう一度読んでみることで、検討することが出来るのである。ツイッターは早指し将棋のようなものであるから、たまに余興としてやるならいいとしても、それが常態化したら、長考することは出来なくなる。下書きの重要性を考えると、それを排除しているツイッターは愚民化ツールと言って差し支えないのである。ツイッターが俳句や短歌のような文化的発展を見せないのも、下書きをしないで思考時間0でツイートしていることと関係があるだろう。
体型論や骨相学は廃れたが、間違ってるから廃れたというより、骨格である程度人間のタイプが想像出来るのは経験的に知っており、それなりに正しいのだが、当て嵌まらないことも多いので厳密性を欠くからである。
たとえば肩幅が広い人間を見ると、知性に欠けた人物という先入観を持つわけである。
これはたぶん経験的に正しいのである。
いかにも腕力を誇示した体型であるが、スポーツが出来るかというと、出来ないことが多いと思う。
肩幅が広くてガッチリした人間が俊敏な動きで快足を飛ばしたりすると、ずいぶん意外な気がするものである。
また頭部が岩石のように大きい傾向もあるように思う。
ガッチリとした広い肩幅に眉目秀麗な美青年の小顔が載っているのは、あまりイメージがわかない。
身長も低いように思える。
全体的にロースペックでありながら、なぜかふてぶてしく、その闘士のような骨格が誇示するパワーで強さを維持しているのである。
あまりにも似たようなタイプが多すぎるので、種族と考えて差し支えあるまい。
ドワーフというキャラクターは、このタイプの人間から生まれた気がする。
われわれは、ガッチリした体型の人間が知性的だったりすると、意外な印象を受けて感心したりする。

肩幅が広いと(実際より)強そうに見えるから、それに応じたパーソナリティーが出来るという考えも成り立つであろうし、また腕力に自信があるからインテリにならないという説明も可能ではある。
インテリは肉体弱者特有の理論武装であり、知的能力とは無関係と評することも可能だ。
しかし、肩幅より身長の方が重要であると思うし、身長が高いと馬鹿という傾向はないはずである。

三島由紀夫がボディビルを開始したのと、「金閣寺」を執筆開始したのはだいたい同時期である。
ボディビルの開始は昭和30年9月16日である。
週刊誌で早稲田大学ボディビル部が紹介されているのを見て興味を持ち、早大の玉利齋コーチから指導を受け始めた。
「金閣寺」の連載開始は昭和31年1月からである。
創作ノートに書かれている「人間最後のcomplexの解放が必ず犯罪に終るといふ悲劇」という言葉が興味深い。

肉体と知性を対比させるのは「仮面の告白」からすでに主題となっているが、なぜそこまでこだわるのか、今ひとつ理解しがたいものである。
「太陽と鉄」というエッセイでは、こんな風に述べたりしている。

近代社会における肉体と精神の乖離は、
むしろ普遍的な現象であって、
それについて不平をこぼすことは、
誰にも納得のゆく主題であるのに、
「肉体の思考」だの「肉体の饒舌」だのという
感覚的なたわごとには誰もついては行けず、
私がそのような言葉で自分の混迷をごまかしていると感じるかもしれない。


三島由紀夫の筋肉に関する記述はとてもわかりづらいが、ナードとマッチョの問題と考えれば、人類普遍の問題とも言える。
とても平易なテーマのはずだが、いざ語るとなるととてもわかりづらいのである。

「仮面の告白」で主人公が同性愛的感情を抱く近江という人物は、このように描写されている。

骨格こそ秀でたれ、彼の背丈は私たちの間でいちばん高い学生よりも余程低かった。
ただ海軍士官の軍服めいた私の学校のいかつい制服は、
少年の成長しきらぬ体では、ややもすれば着こなしかねるのを、
近江一人は自分の制服に充実した重量感と一種の肉感を湛えていた。


背は高くないが、骨格が秀でていて、重量感があると記述されているのが興味深い。
そもそも近江という登場人物にモデルがいるのかわからないし、いたとしても、実際の人物そのままに描く必要はあるまい。
三島由紀夫がマッチョな人物の理想像を描写した際に、背が高くないが骨格が秀でているとしたのは、やはり肩幅と知性の反比例という先入観をなぞっているのである。
蒼波純はわれわれ人類の教師たるべき存在なのだが、どうもナベプロに入ってからのツイートが変なのである。傍証として挙げられるのは、ナベプロに入ってから一度もふぁぼをしていない。ナベプロに入る前は1000回以上ふぁぼをしているから、一日三回以上のペースだし、ずいぶんツイッターをやっている。ミスiDでグランプリになってから事務所が決まるまでの半年くらいは、16時に学校から帰ってきて、それから22時に寝るまで、一日平均50回以上はツイートしていたのであるから、はるかぜを超えるペースである。この蒼波純の事例を考えると、ミスiDでグランプリを取るよりは、大手事務所のオーディションに挑戦した方が手っ取り早いという気もする。大手に入った瞬間にツイッターやめるのも印象悪すぎだから、ダラダラと続けないといけないし、その意味でも負担が大きい。

ところで、最初にこのエントリーを書いた時は、グランプリの金子りえが、元ハロプロ研修生の金子りえと同一人物だという前提で書いたのだが、なんか違うらしい。
仮に同一人物なら確実に整形しているのであるし、それも含めてマーシュ彩より低い評価にしておいたのだが、いじってない状態でこの顔なら美人と言わざるを得ないので、記述の根幹が崩壊するのである。

疑問なのは、この金子りえという子が、このレベルの外見でまったくの無名ということである。
また不自然なのが、モデル志望としてミスiDに応募していることである。

>Q.将来の夢はなんですか?
>A.雑誌の専属モデル

この外見なら、雑誌の専属モデルは簡単になれる。
「モデル志望」というのが明らかに変なのである。
講談社系の雑誌の専属モデルになる予定の子を、こっちに回してもらったと考えるのが妥当ではなかろうか。
この外見で「モデルになりたいです」と言ってたら、誰でも不自然さに気づくのに、なんでこういうことをするのだろう。

金子りえ
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マーシュ彩
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蒼波純のナベプロ所属以前のツイートを旧約聖書と呼び、所属後のツイートを新約聖書と呼ぶことにするが、われわれが蒼波純から教えを受けるにしても、新約の方は参考にしない方がいいだろうと言える。旧約で1000回以上ふぁぼしてるのに、新約で0回というのでは、ナベプロ所属以降、アカウントの権限はナベプロが握っており、本人がほとんど触っていないという疑念を強めるしかない。毎晩のおやすみジャンケンに関しても、旧約ではいろいろツイートした最後の締めとして行っていたのである。新約のように、何もツイートせずにおやすみジャンケンだけするというのでは、母親が代理でツイートしていると思わざるを得ないし、むしろ本人がやっていたら変だと思う。ソクラテスもキリストも釈尊も孔子も、自分で書物は書いてないし、謦咳に接した弟子たちが記録として残したわけである。そういう意味では蒼波純がツイートする必要はなく、周辺の人たちが弟子として役割を果たしてくれればいいのだが、新約の内容を見る限り、やむを得ず嫌々ながら代筆しているのだから、ソクラテスに対するプラトンのような存在であるとは言い難い。蒼波純が天才的な資質を開花させるべく、今は沈黙しているだけならいいのだが、われわれは中川翔子がイラストを描かなくなった事例を見ているのである。中川翔子の絵に独創性はないが、模写の達人であるので、オタク向けの絵師としてはかなり適性があった。いろいろと本物の才能があったのに、バラドルとして忙殺されている間に、今やすっかり凡人になっている。蒼波純という天才肌の少女が、単なる不思議ちゃんとしてわれわれの前に姿を現しても、(中川翔子という実例を見れば)何ら不思議ではないのである。

マーシュ彩は、どうしてもミスiDグランプリになりたいと主張していたら、なれたに違いないのだが、本人にあまり気力がないし、大手事務所に入ったらなおさらミスiDとしての活動を懈怠するのは明らかであるから、選ばれなかったのは、本人にとっても、ミスiD側にとっても幸福な選択であった。ネットからの支持というのは、売れないアイドルにとっては有り難いものであろうが、大手芸能事務所に入った段階で、いきなりお荷物になるのである。売れないミュージシャンにとっては手売りで買ってくれるファンは涙が出るほど有り難い存在であるが、大衆に支持されるスターになったら面倒なだけである。

蒼波純はアイドルの中で最も知力は高いと思うのだが、そうは言っても13歳がツイッターをやるのは教育上好ましくないので、現状のBOT化した状態は妥当ではあるが、仮にテレビでブレイクせず、一日100ツイートする状態に戻ると、中川翔子のように顰蹙を買う可能性もある。やはり擦り寄ったり離れたりを繰り返すのは印象がよくないのである。そう考えると、マーシュ彩がミスiDグランプリを熱望しなかったのは賢明だった。ミスiD経由で大手事務所に入るメリットは全然なくて、むしろネットで支持されてグランプリを得るという物語性が、後々面倒になり後患を残すだけであるから、大衆から支持されるレベルの人は、最初から大手のオーディションを受けた方がいいことがはっきりしてきたと言えるし、それに満たないアイドルを選ぶという方向性を打ち出したのはよいのであろう。大衆から支持されないのに魅力がある子がいるものだろうか、という疑問もあるが、大手事務所に脱出されてしまうよりは、地下アイドル的なムーブメントを起こす方がおもしろみがあるのだろうし、(ミスiD受賞者と講談社の契約関係は不明だが)、大手芸能事務所に脱出された段階で、ミスiD(講談社)のビジネスチャンスが消えるのである。グランプリ受賞者が大手事務所に入って消えるのがパターン化すると、講談社が赤字を垂れ流すためにミスiDをやってることになる。講談社が利益を上げる方法を考えると、ミスiDとしてのイベントを頻繁にやるしかないが、玉城ティナや蒼波純をそう簡単に呼べるわけがない。手売りレベルを超えないアイドルを集めてミスiDそのものをユニット化する方が、利益があると思われる。ミスiDがそこまで浸透しているのかという問題があるし、大衆に支持されないレベルのアイドルがどれだけファンを呼べるのかという問題もあり、黒字になるとも限らないのだが、マーシュ彩を回避したのは、そういう意志の表れなのだろう。
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人間の意見というのは、価値判断である。この岡田有花の発言は価値判断を示しているわけである。要は「あんたらが思っている以上に子どもは大人なんだ」という思想的主張である。子どもを子ども扱いするのが保守層だとすれば、それを哄笑するのが進歩的文化人である。岡田有花がはるかぜを持ち上げていたのは、進歩的な考えを表明するのに便利な道具だったからである。終戦後の日本共産党は過激な極左冒険主義で暴れ回り、1952年の吹田事件では笹川良一の家に火焔瓶を投げ込むなど、腰抜けの左翼では到底ありえない次元まで暴力性が高まり、破壊活動防止法が制定される一因となった。1955年に日本共産党は極左冒険主義を放棄したため、これ以降の学生運動に日本共産党本部はあまり関わっておらず、プロレタリア革命を求める色彩は弱くなり、それがその後の大学紛争の、人権に甘えているような暴れ方を生み出したとも言える。全学連にせよ、全共闘にせよ、西側と東側の代理戦争という側面はほとんどない。全学連はまだ安保闘争というイデオロギー的な側面があるが、全共闘など、何のために暴れているのか意味不明であり、不自由な社会だから抗議しているというより、自由が浸透して学級崩壊が起きたという認識の方が適切である。暴れていた学生たちが就職して行くに従い、コミンテルンの理想を胸に抱いている思想犯は消えたであろうし、連合赤軍など過激な勢力があだ花として、断末魔のような血まみれの事件を起こし、このような運動は沈静化したのである。しかし左翼は全く消えておらず、進歩的文化人という形で、公然と穏健な形で人間精神を蝕む活動が継続された。進歩的文化人という仮面の裏側は真っ赤なのだが、朝日新聞という強力な根城があるため、他人の精神に病巣を埋め込み、本人の自覚がないまま細胞として活動させる悪質な行為が横行したのである。喋りで使えないはるかぜにコメント仕事をくれるのが朝日新聞である。はるかぜは「フィルタリング反対論者」だから朝日新聞と相性がいいのである。朝日新聞社員は自分の娘は偏差値の高い女子校に入れたがるが、他人にはかなり無責任である。マセてる小学生とかが大好きなのである。この他人の娘への無責任さは宮台真司そっくりだが、女子高生ブームの頃、朝日は宮台をやたらと重用していたわけである。90年代の女子高生ブーム自体が、コギャルという育ちの悪い連中を賛美することであった。進歩的文化人にとっては、ああいうのが好ましい、というか、保守的な大人に向かって突撃してくれる馬鹿として応援したのだ。たぶん宮台真司も朝日新聞社員も、自分の娘にはいろいろ制限を加えているだろう。コギャルとかはるかぜは鉄砲玉の扱いである。大人が後ろで手を引いて子どもにアジ演説させるのは左翼の常套手段である。はるかぜもすでに中学二年生であるから、マセている子どもというキャラは困難になっているし、これからは精神年齢の低さを露呈し続けると思われる。
ここ最近はアイドル声優というものが浸透してきたので、二次元オタと三次元オタは曖昧になっているが、元々はくっきりと分かれていたわけである。アニメオタクとアイドルオタクを兼任している人はとても少なかった。明らかに人種が違うのである。この問題に関して言えば、アニメオタクの方が明らかに性欲が強い。アニメといえば、二次創作が広まっており、あの暑苦しいコミケが思い浮かぶわけだが、要はオナニーするための本である。それを買うためにあれだけのオタクが集まっているのである。オナニーのためにどれだけいいオカズを手に入れるかというのが、アニメオタクの行動原理なのである。

アイドルオタクはそのイメージに反して、おそらく性欲は弱いはずである。そもそもアイドルに使う金があったら、デリヘルで女子大生を呼んだ方がいい。デリヘルの子なら少なくともAKBよりは可愛いのであり、それにも関わらず、やれないアイドルを優先してるのだから、性欲が強いはずがないのである。ではアイドルを性の対象として見てないのかというと、そうでもないだろうが、おそらくイメージの消費が目的なのであり、崇拝の対象として求めているのである。

ゲーテが永遠に女性的なるものと言うような美少女がわれわれの前に実在して恋人になってくれればいいのだが、それが出来る人間と出来ない人間がいるわけである。本当の恋人なら、セックスの相手と崇拝の対象を兼任してくれるのだが、出来ない人は出来ないし、それにロンブー敦のような人間でも、そのレベルの相手を手にしているかどうかはわからない。崇拝できてセックスも出来るという究極の女性を恋人にしている男だって当然いるだろうが、いない人が多数派であり、この多数派の男は、崇拝の感情と性欲の解消を金でやるしかないのである。

すさまじい性欲があるなら、デリヘルを呼ぶ方が効率がいいであろうし、また二次元の方が抜きやすいというのもあるだろう。朝から晩まで勃起が止まらないという性欲を抱えている人間は決してアイドルのファンにはならないのである。この現代においては、セックスがすっかり通俗化しており、女性崇拝と性欲が分離していると言ってよく、それがゆえに「ファウスト」とか「神曲」のような文学作品も書かれないのだが、女体が肉塊に見えてしまった瞬間から、性欲がどうでもよくなり、偶像崇拝の対象の方が欲しいと思うこともあるのである。デリヘル嬢を呼ぶのと、道重さゆみちゃんを応援するのに同じ費用が掛かるとして、後者の方が望ましいという人もいるわけである。ある種の去勢された人間ということも出来るのだが、セックスが脱聖化されたことで、社会的に去勢が行われているとも言える。
長身でガタイのいい人間にありがちなのだが、トラブルを起こすのが趣味になっている人間がいるわけである。
トラブルを起こして腕力でねじ伏せて解決する勝利感が癖になっている。
相手が嫌な思いをしているのだから、本当の解決とは言い難いのだが、しかし若い女から見た場合にマッチョ的な魅力はあるし、やれる可能性があるのだから、メリットは大きい。

問題となるのは後半生である。
中年以降になると、腕力でブイブイ言わせるとかあり得ない。
しかしトラブルを起こして腕力を見せつける快楽が染みついているからどうにもならない。
中年になったから品行方正に生まれ変わるというのも難しく、トラブルを起こせば誰も相手にしなくなるだけなのに、いつまでもやり続けるのである。

未成年なら加害者は少年法に守られているし、腕力で劣る人間はビクビクしながら過ごすわけである。
被害にあったら泣き寝入りと決まっているので、ひたすら恐れるしかない。
いっそ法律がなければ、武器の使用で対等になることもあり得ようが、法律があり加害者が少年法で守られるので、未成年だとガタイのいい人間が明らかに有利であるし、20歳を超えても、若いつもりの間は、そういう感覚が続くのである。

だが、やはり中年になれば、トラブルになれば警察に電話するだけのことであり、「チクリやがった」と批判されることもない。
20代前半くらいだと、トラブルで110番とか少し恥ずかしいが、大人としての自我を持てば当然の行為となる。
中年になると、もはや清原の腕力など誰も恐れないし、相手にしないか、もしくは110番なのである。

腕力でねじ伏せるというのは、円満解決の対極であるから、これに慣れていると、トラブルの解決能力はとても低いのである。
若いうちは、相手に嫌な思いをさせれば勝利なのだが、大人になるとそうはいかなくなる。

人生の後半生では、円満に解決するか、そうでなければ大人特有の権力でねじ伏せなければならない。
前半生と後半生では権力の意味が違うのであり、腕力から社会的権力に移行するのである。
腕力に自信のある人間が若い頃にトラブルメーカーとして味を占めると、後半生で苦労するのである。
三島由紀夫の「金閣寺」において南泉斬猫という禅の公案が繰り返し提示されるわけである。この公案への専門的な解釈は別として、「金閣寺」では、美しい猫を巡る争いとして提示されている。南泉はその美しい猫を斬ってしまうが、趙州は草履を頭に乗せるのである。この趙州の態度は、美にひたすら耐えることである(と三島は解釈する)。つまり、喩えようもなく美しい猫がいるとして、それが手に入らないなら切り捨ててしまうか、その美しさにひたすら耐えるか、というのが南泉斬猫という公案の本質なのである。「金閣寺」はこの二択を軸にして進行するのである。美しい猫を切り捨てても意味がないと柏木という人物に何度も言わせながらも、主人公は金閣に放火するのである。

かつてニーチェは「一人の人間の性欲の程度と性質は、その精神の最高の頂にまで及ぶ」と述べた。「金閣寺」も、これと同じ価値観に従って書かれているわけである。われわれは人生の余興として美少女を求めているのではなく、それは人間精神の最高の頂に通じるものなのである。

昔からアイドルというのはいるが、たぶん誰もが、いつかは結婚したいという妄想を膨らませながら応援していたのである。あり得ないとわかりつつも本気で疑似恋愛していたのである。これは「金閣寺」の文脈で解釈可能なことである。だが、最近は、アイドルと結婚したいとか、そういう願望なしに応援する風潮が明らかに広まっているのである。昨今の世情においては、セックスに本当に意味があるのだろうか、という疑問も生じているわけである。いわゆる草食系ということだが、セックスが自由になったことで、その性質は明らかに陳腐化しているのである。

三島由紀夫は自決の一週間前の対談で、バタイユを引き合いに出しつつ、セックスとエロティシズムの違いを説き、必要なのはエロティシズムであり、単なるセックスに意味はないと強調している。

バタイユの「エロティシズム」ではこんな風に書かれているわけである。
人間の精神は、きわめて驚くべき禁止命令にさらされている。
人間が人間自身を絶えず恐れているから、そうなるのだ。
人間は人間の性の衝動に脅えているのである。
聖女は、恐怖に駆られて好色漢から遠ざかる。
好色漢の恥ずべき情念と聖女自身の情念が同一であることを聖女は知らずにいる。
人間の精神の可能性は聖女から好色漢まで広がっているが、その一貫性を探究することはできる。

修道院に美少女がいるとして、それは究極の性的対象なのである。修道女はセックスに無関心で女を捨てているというのではなく、むしろ、聖性を帯びた最高の処女を存在させたいという願望が修道院を作ったとも言える。

現状の時代のあり方だと、性行為によって相手の魂すべてと結ばれて絶対的な聖性に到達するという発想はなかなか難しく、犬や猫の交尾と大差がないとも思えてくるわけである。一昔前なら、やれないアイドルに金を使う発想などあり得るわけがなく、風俗に行った方がよほどいいに決まっているのだが、なんか風俗に行って肉塊に触れるのもめんどうという時代でもある。

「金閣寺」は当然ながら、エロティシズムの文脈で書かれているわけである。禁止されることによって聖性が最高度まで高まった処女とやりたいという、人類の普遍的な夢でもある。これがこの現代ではなし崩しにされており、世界からすっかり聖女が消え去っているから、むしろやれないアイドルでも応援した方が、まだしも聖性に近づきやすいという気がするのである。これは「金閣寺」のような絶望的な希求ではなく、妥協であるのは言うまでもないのだが、「一人の人間の性欲の程度と性質は、その精神の最高の頂にまで及ぶ」というニーチェのテーゼからわれわれは脱落してしまったのであり、決断主義者として金閣を燃やしたのでもなく、何となく陳腐化された世界に住まわされているのである。

このところのアイドルブームは、人間のセックスが犬や猫の交尾と大差がなくなったことの結果なのである。「金閣寺」の根底に流れているのは、人間として存在していて、最高の美少女を抱けないというのは、自らの魂が聖性の悦楽に触れ得ないまま終わるという絶望であり、それが人間の根源的な苦悩なのである。それを描ききったからこそ、文学の最高傑作たり得ているのだが、三島が予言したように、エロティシズムがなくなりセックス(犬の交尾と同じレベルの行為)しかなくなっているのなら、金閣から拒まれているという絶望も自ずから曖昧になるのである。
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