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一ヶ月くらい前のkindleセールで角川が実質七割引だったので、仏教の本を数十冊買って、ずっと読んでいるのだが、これによってかなり無常観が強まっている。マルキ・ド・サドがどれだけ瘴気漂う反社会的な情景を活写しても何とも思わないが、歴史的に聖者と認知されている高僧が、これだけニヒリズムを押し出してくると、その感化の力は凄まじく、重力の魔で四肢が動かなくなるのも時間の問題である。

まず言えるのは、仏教は説得力があるのである。たとえばキリスト教なら、死んだら天国で道重さゆみちゃんと結婚できるとか、そういう妄想に浸れるが、仏教はこの手のものを完全に否定するわけである。(親鸞のように念仏を唱えれば極楽浄土というのもあるが、仏教書をいろいろ読んでいると、どうしてもそっちの安易な方向は選べない)。天国など絶対にないと断定されるともっともな話である。妄想を否定するのだから、説得力があって当然である。今からいきなり木星が爆発する可能性がないとは言えないし、どのような可能性も完全に0とは言い難いから、普段のわれわれはどんな可能性にでも縋りうるのだが、しかし仏教書を紐解くと、0だと断定出来るようになる。

初期の仏教に関しては、輪廻転生に関するインド的迷信が背景にあるわけだが、これが中国から日本に渡ってくると、どうしても曖昧になるわけである。インド人以外のほとんどは人生は一回だと考えているし、輪廻転生への根強い迷信など持っていない。われわれは一回だけの重要な人生が惨劇に過ぎないことを嘆いているわけである。この絶望を世俗的な欲の否定によって解決しようというのが仏教であろうし、出家して仏門に入るのも、人生をことさらに軽んじているのである。一回限りの人生がどうでもいいという意思表示として出家するのであり、悪夢のように繰り返されるインド的輪廻転生から脱出しようとか日本人は考えていない。

仏教がわれわれの精神を毒するのは、宗教でありながら哲学の体裁を取っている悪質さであり、哲学書のように書かれていても、釈迦を否定するわけにはいかないし、(実際は釈迦はネパールで生まれているが)インド人特有の妄想と斥けるわけにもいかない。本来なら、釈迦の発想こそが、インド的な謬見として克服されるべきとも言えるのに、創唱宗教で創唱者を露骨に否定するわけにもいかないので、かなり困った問題である。とはいえ、仏門に入っていないわれわれとしては、釈迦をインド人の荒唐無稽さの極みと断じてもいいわけである。インド人という民族そのものが迷信の固まりであり、まずはそこが問われるべきなのである。ヒンズー教が支配してもやはり輪廻転生に固執してるのだから、これは教義というより民族的な迷信の問題であり、なんか時間が進まない状態で、延々とぐるぐる回っている歴史無き世界にいるらしい。

三島由紀夫の「豊饒の海」が失敗作となったのも、人生が無意味という仏教の説得力に屈した結果であろう。意味があるのかと考え込んだら、意味がないに決まっているわけである。これは仏教がすごいのではなく、「人生に意味はあるのか」と考えたら無いに決まっており、仏教は、そのニヒリズムのメソッドを利用しているだけなのである。
われわれがひとりの人物を理解しようとする場合、人間関係から見ていくわけである。菊地最愛という人物を理解しようとするなら、水野結衣や中元すず香との関係から見ていくことになるわけである。人間存在が他者との関係性から理解されるのは当然といえば当然であるが、このところその風潮が神経毒のように世界を蝕んでおり、関係から切り離した個人として一人の人物の輪郭を素描するのが困難となっているから、ソロで活動していると正体不明と言われかねない時代なのである。菊地最愛が高校生になったら、おそらくソロデビューするとは思うのだが、そうした場合に、人間関係という部分は楽しめなくなるわけである。BABYMETALの活動は平行して継続するであろうし、すでに多数の熱心なファンが付いているから問題はないが、今日においてソロ活動は個性喪失というリスクが大きいのである。類い希なアイドル性を持つこの少女でさえ、MOAMETALというキャラクターを経由せずに、いきなり菊地最愛として世に出るのは極めて困難だったと思われる。われわれもアイドルが誰と友誼を深めているのかチェックする癖が付いているから、ますます百合営業が猖獗を極めるという悪循環である。

世間にはこの種の愚にも付かないソーシャル性が蔓延しているのだが、さくら学院はかなり厳選された女子しか入れないから、レベルの高い人間から感化を受けるプラス材料も大きいわけである。問題なのは、ソーシャル性の総本山であるネット住人は、さくら学院の生徒とはまったく違うということである。中元すず香とか菊地最愛のような天上界の人間とは対極の連中の集まりであり、ここに降りてくる著名人らしき人間も、それに見合った山師であるから、風紀を紊乱し、愚作を生み出すために集っているようなものである。穢土に生まれて、それにふさわしい盲いた愚民と一緒になるのだから、似たもの同士として仲良くやれということかもしれないが、ソドムの雑居房とでも言うしかないのである。財務次官になれるくらいの学力があったはずの東浩紀でも、知能指数100未満だと確信できるレベルの馬鹿になっているのだから、レベルが低い方に合わせた無惨な反面教師として活用されるしかない。

人類が隠遁生活から偉大な業績を生み出すのは過去のことになるであろう。集合知のおそろしさは、大衆的な話題ではこれが有用であることである。集合知から天才的な業績など決して生まれないのだが、しかし通俗的な事柄に関しては、明らかに有効なのである。多人数で情報を多角的に検討するというのは、事柄の難易度が低い場合において、かなり役に立つ。まとめブログも、世間的な関心、つまり理解するのに特別な能力を要しない問題に関しては集合知が有利であるからこそ、繁栄したのである。人里離れた山奥で人類や宇宙について考えるということは、この時代においては、かなり困難なことである。携帯電話の普及により文化的な進歩が止まったと断じるのは誇張になるが、しかし、何かにつけて、ソーシャル的なものに結びつけないと金にならないのである。通俗的なことに関しては集合知が有効であることは間違いなく、これが廃れる見込みはまったくないのである。

SNSとしての側面を持たない限り、発信する側も運営する側もまったく金にならないから、公開するつもりがない文章をひたすら書き続ける風習は相当に廃れている。Evernoteは辛うじて、非公開を前提として筆を走らせることが出来るし、実行している人もいるであろうが、Evernoteを使う人間はたいてい自己啓発クラスタであるから、どうせろくなことは書いてないに違いない。SNSが流行ってから、下書きをしない時代になったのであるし、思いつきを、その思いついた時間と同時に流していくわけである。われわれが完全に孤独な人間として筆を執ることはないのである。スポーツ新聞の面白さと同じ次元のことを日々求めながら、SNSという暗渠が版図を広げ、これこそが正統だというのだから、絶望以外の何が可能なのだろう。
10月24日にはるかぜが新著を出したのだが、あまり売れてないようである。初版7000部はあまりにも勇猛果敢に過ぎた。フォロワー17万人と言っても、ツイッターなんてすぐやめる人が多いのであるし、生きてるアカウントは5万くらいであろう。5万人のうち7000人が買うとは思えず、また、じっくりと見れば見るほど2001年生まれの中学二年生のツイートとしては昭和過ぎるのがわかるから、金を払うほどのファンはかなり少ないと思われる。みずみずしい若木の匂いがするならともかく、老廃物の固まりなのだから、特に1400円という定価を考えるとかなりハードルは高いであろう。

はるかぜ(娘)は毒親による被害者でもあるが、しかし家庭環境の問題というのは、結局のところ本人が引き受けざるを得ない。児童相談所の案件と言えなくもないが、どこかの金持ちが面倒を見てくれるわけでもあるまいし、仕方がないのである。本人の性質を考えたら、愛嬌のある馬鹿という路線しかないのだが、はるかぜ(母親)は代筆が生き甲斐なのであろうし、文字の仕事でたくさんオファーがあればベストセラー作家で印税生活と皮算用していたのだろう。小学生の代筆をして褒められた成功経験が忘れられないのであろうし、このババアは救いようがない。愛嬌のある馬鹿として使って貰うしかないのに、それだとババアの欲が満たせないため、あくまで利口な子どもという路線から抜けられないのである。どうしてもそこで認められたいらしく、業病としか言いようがない。そもそも仮に知性に恵まれていたとしても、文字での仕事なんてたかが知れており、ましてや本人が公立中学で落ちこぼれているレベルでは、さすがに見抜かれてしまう。要するに、はるかぜ(娘)の実像とは懸け離れたイメージで売ろうとしているわけだが、ネットでリテラシーの低い人を誤魔化すくらいは出来るとしても、1400円払わせるのは無理である。

日本書紀の聖徳太子のエピソードも、かなりが作り話だと疑われているわけである。斑鳩宮に住んでいた厩戸王は皇族であるが天皇にはなってないし、血筋が途絶えているから、後から話を盛るには格好の人物なのである。文明初期だから可能であるのだし、勝者だから歴史が書けるのである。はるかぜ(娘)は現在において生存している人物であり、またタレント業であるから、本人を隠しても仕事のオファーが無くなるだけである。岡田有花の協力を得てツイッターのフォロワー数を獲得しただけで、タレントとしてのポジションを掴めなかった。実効支配さえしてしまえば、そこからは正統性が生じるのである。売れてポジションさえ掴んでしまえば、勝てば官軍となるが、ネットで足場を得ても、テレビの仕事に繋がってないからまったく無意味だったのである。ネットでチヤホヤされても、その層は本当のファンではないからお金は払わない。はるかぜ(娘)は使える範囲内の馬鹿だと思うし、鈴木奈々みたいな立ち位置は可能だと思うのだが、はるかぜ(母親)はそうは売りたくないという問題である。

誰も彼も成功するわけではあるまいし、はるかぜ親子は失敗事例として、ひとびとの記憶に残るのである。失敗例として生きなければいけない人がいて、それがはるかぜ(娘)なのである。芸能人はそれなりに虚像で商売してるのだが、美人だから誤魔化せるわけである。虚像で売れるのは美人の特権としか言いようが無く、はるかぜの容姿では無理なのだが、なんか静止画像で美人に見せようと頑張ったり、見当違いの努力を重ねており、今後とも迷走が期待される。この愚かさを教訓として語り継ぐことで、少しは人類のために活かされるのではなかろうか。
古来より人類が、肉体と精神を区別して考えていたのは、肉体は交換したいが、精神については同一性を保ちたいという欲求が背景にある。
人間が時間の中に存在していることを考えると、五年前の自分と現在の自分が完全に同一と言えるか判然としないが、ある程度の同一性は維持されているはずである。
時間が経過しても内面は同一であると考えているわけであり、それは同じ内面を反復しているからである。
何の変わり映えもしなければ、確かに同一と言い得るであろう。
何ら進歩もなく、昨日の自分と平仄を合わせていくことが必要なのである。

口癖という反復性がなかったら、われわれは他人の存在も理解しえないであろう。
口癖という形で他者の発言が予見出来るからこそ、われわれは他人を固定的な同一性を持った存在として理解しうるのである。
仮に他人の言動にまったく予想が付かなかったら、それは同一性を欠いた存在ということである。
同一性があるからこそ、他人の発言は予想可能であるし、それこそが人間存在なのである。
われわれは「自分」という人間の同一性を口癖に頼っているのである。
相も変わらず似たようなことを反復的に言い続けることで、同一人物であり続けているのである。
われわれの口癖は脊髄反射であるから、まるで発言が口に貼り付いているかのようであるが、そもそも脳と口が貼り付いているはずなのである。
この靴底のガムが剥がれないような感じが、われわれの同一性であり、この固着した性質こそが、時間が経過しても別人にならないということなのである。
この世の中は他人が幸福になった分だけ自分が不幸になるように出来ているが、そのような文脈での幸福・不幸とは別の次元で楽しさを伝えてくれるのが菊地最愛(さくら学院生徒会長)である。「みんなの笑顔の理由になりたい」というのを、おそらく人類の誰よりも実践しているのである。この土牢とも言える地球上に生活していて、人間の醜さなら散々知っている筈だが、菊地最愛は人類の楽しさの可能性を瞬間的にでも見せてくれるのである。決してこれによって借金が減ったり、腹がふくれたりするわけではないが、そういう現実的な利得とはまた別に、何かしら可能性を見せてくれる存在なのである。これほどまでに言動が排他的でなく、共感的な楽しさを世界に伝えようとしている少女は他にいないのである。

さくら学院は接触イベントはまったくないが、わたしはアイドルと握手はしたくないので、これはかなり好ましい。活動を見るだけならいくらでも見ることが出来る。ネットでも最大限に公開されているし、直接的に活動を見るのも容易である。握手という形で肉感的に悶々とする快楽を与えてくれることはないが、窮民が女の手に触れる機会を得るという貧しい切断面ではなく、それよりも遙かに無垢な楽しさに触れさせてくれるのが菊地最愛なのである。

かなり頭脳明晰でとても聡明な少女であり、MCも得意ではあるが、アイドルとしての実力も申し分ない。前半部を中元すず香が歌い、後半部を菊地最愛が歌っている映像があるが、ほとんど互角と言っていいレベルである。さすがにBABYMETALでボーカル交代というのは無いが、来年高校生になったあたりでソロデビューは充分に考えられる。



菊地最愛をいくら見ても現実の利益はないのだが、どのような境涯であれ、人間と人間が楽しさを共有しうる可能性を感じさせてくれる少女なのである。これによって世界が変貌するわけではなく、相変わらず人類が地を這う貧相な生き物であることに変わりはないのだが、重力の魔というべきニヒリズムを瞬間的にでも赦免してくれる存在であり、決して人生を薔薇色にしてくれるわけではないが、重い懲役を科せられている俘虜からすれば、絶望を深めるだけの惨劇の幕間に、威容を誇っている高い壁がほんのわずかでも解体され、病臥によって広がる褥瘡の痛みも忘れ、人間の愉しさに触れることが出来るのはとても素晴らしいことなのである。沐浴の後に再び絶望が訪れるとしても、それはわれわれ罪障深き囚人に相応しい疼痛であろうし、これだけ色欲と俗塵の泥土に塗れているからこそ、少しだけでも無垢な愉しさを教えられるのは、一欠片の拠り所にはなるであろう。
中川翔子の猫騒動の時に、はるかぜが「助け船」を出したわけである。筆禍として早めに取り下げるという初期消火をせずに、断固として正当化して油田火災にまで広げたのははるかぜ(母親)の方であろう。最初から二重遭難を狙って中川救出に赴いたのである。それによって中川翔子は顰蹙を買い続けている。そして自分から顰蹙を買ったはずなのに、迫害されている被害者という認識をしている。バラエティーでのタレント活動を中心に活動してきたのだから、そろそろ賞味期限というだけであり、猫騒動の前からライブの動員は落ちていたし、それ以外にも凋落の徴候はあっただろう。もう少し余裕のある頃の中川翔子なら、さすがにはるかぜの呈示したスタイルには乗っからなかった。

はるかぜは日常的に顰蹙を買う行為を行っているわけである。そしてそれを咎められると、アンチから攻撃されたという筋違いのことを主張するわけである。さすがにそろそろババア代筆の問題も多くの人が察しているはずであるし、かつてはるかぜ人気を押し上げた岡田有花もさすがに気付いているだろう。なお、岡田有花はわたしが何度リプしても完全なスルーを決め込んでいる。そろそろ激しい怒りがわたしを乗っ取り、まるで全身に毒が回ったかのような混乱状態に陥るのは時間の問題かもしれない。

はるかぜが発達障害かどうかは医師の診断に任せるべき、というか、ちゃんと診てもらったほうがいいが、本人にたいして悪意がないのに顰蹙を買い続けるというのは発達障害にありがちなことである。悪意がないから自分は間違ってないという自己認識なのだが、やたらと杜撰で無神経な言動を繰り返している。端から見ていたら明らかに非常識であっても、「悪意がないから正しい」という偏った認識をしているのである。これは下品という一言でも言い表せるし、本人に気品の一欠片も感じないから、それだけ家庭環境が荒廃しているのか、それとも発達障害なのか、どちらにせよ、品性のある言動がまったく出来ないのである。落ちこぼれて育ちが悪いという理由で感化院に入れるわけにもいくまいから、この母子関係を終の棲家とするしかないのである。

はるかぜ親子のあり得ないロジックに中川翔子は乗っかったのだから、未だに顰蹙を買うのは仕方がないのである。はるかぜ娘は猫アレルギーなので、猫好きはババアの方なのだが、猫が好きで何が悪いという中川の感情的な考えをババアに肯定してもらったので、そっちの方に転んでしまったのである。本気で中川を憎んでいる人間はあまりいないにしても、スキャンダルの問題や、年齢の自覚がないことが冷笑されており、生まれつきの容姿や才能や知能は天と地の差であるはるかぜと共鳴したのは、自らの言動を改めないという姿勢なのである。はるかぜ親子みたいな低知能ではないのだから、言動をあらためることで信頼を回復することは可能であるはずだが、攻撃されているから自分は正義という論法に嵌ってしまったのである。どこかしら中川翔子の中で、炎上でもいいから注目を集めたいという願望もあっただろう。順風満帆ならもっと守りに入るはずで、30歳を手前にしてある種のノイローゼであろうと思われるから、勝算が無くても戦端を開きたい意識もあるはずだ。猖獗を極めているのはネットユーザーではなく中川という気もするが、この点でもはるかぜに共鳴してしまったのだろう。30歳近くなれば、若い子に取って代わられるのは当然で自分もかつてはそうやってポジションを得たであろうに、時代の変化を認めたくないらしく、落人のような不平士族が西南戦争を始めたかのようであるが、はるかぜ親子は元から最底辺だから無傷とも言えるし、かつて栄華を誇った中川翔子の方が深い傷を負うのであろう。
長いことわたしが感じていた違和感はよくよく考えれば単純なことで、本人のおもしろさというのがかつては前面に出されて人気を得ていたわけである。これが現在では完全に封印されている。そしてこの封印は永遠に続くのである。本人のおもしろさというのはアイドルなら最もアピールする部分であり、かつてはここが強調されていたのである。無口無表情でも頭の中ではおもしろいことを考えているというのが人気を得ていたわけである。ツイッターは代筆の可能性が0だとは言えないので、絶賛は控えるが、たぶん小学生の時は本人が書いていると思うし、小学生であの内容が書けるのはかなり知力は高いはずである。

これがトップコート(ナベプロ)に所属してから完全に封印されているのは、大手だからというのではなく、アイドル路線が実は完全に捨てられているのである。アイドルなら自分自身のおもしろさを最大限にアピールするけれど、女優ならそこはアピールしないわけである。女優として、あまりメリットがないのに加えて、むしろマイナスになりかねない。だから、ここは封印するのが無難なわけである。

大手芸能事務所に所属している中学生アイドルが自分でツイッターをやっている事例はほとんどないので、大手に入った段階でツイッターをやらないのは当然なのだが、だが、これは公式サイトに切り替えてもいいわけで、たとえばコメント欄のないブログでもいいわけである。たぶんツイッターをやめないのは、大手だからあまりツイートはしない、という誤解をさせておきたいからである。公式サイトを作ってしまうと、すでに女優に絞り込まれていて、アイドル路線が消えていることが明白になってしまう。なぜいまだに公式サイトがなく、ツイッターが拠点なのかという理由はこれで説明が付く。

アイドル路線をやめたと言っても、「アイドルはやめました。わたしは女優です」と宣言して、わざわざ二度と草木も生えないくらいに根絶やしにする必要はないので、この路線の切り替えは曖昧な状態にされている。なんか今でもアイドルであるかのような、そういうイメージだけは残しているのである。

これは仕方のないことであるが、完全に路線変更されている、ということはわれわれも強く意識する必要がある。大手(ナベプロ)に入ったというのが問題の本質ではなく、アイドル路線が絶たれているというのが肝心なポイントであり、女優であるのだから、本人がおもしろいという、過去のセールスポイントはもう出さないということなのである。ナベプロに入ろうが、アイドル路線であれば、本人のおもしろさは最大限にアピールするはずなので、大手に入ったという理由ではないのである。ナベプロでアイドル路線ということであれば、ファンとは関わらないながらも、公式サイトで本人の活動がいろいろ報告されるはずである。それをしないのは、アイドルではなくなった、と説明するしかない。

路線変更に不満を唱える権利がわれわれにあるはずはない。漠然としたアイドルイメージが残されているので、どうしても錯覚してしまうのだが、ここは完全に切られていると認識する必要があるし、切断されたのを理解し、不満を言うべきではないのである。蒼波純がアイドルのように見えるとすれば、すでに機能しない痕跡器官のようなイメージを見ているだけであり、実際は完全に淘汰されているのである。

そして女優を選んだのは、わりと正しい選択だと思われる。ああいう無口無表情キャラは、アニメや漫画ならテンプレと言っていいが、現実にはあまりいないのである。アニメや漫画なら、蒼波純みたいなキャラはいくらでも思い当たるのに、現実でああいうのが実在するかというと、かなり稀少であろうし、おそらく他の芸能人とまったくキャラがかぶってないはずである。そういう意味ではかなり特異なキャラクターであるし、それを活かせる作品に恵まれれば、女優として成功する確率は高いであろうと思われる。これは確実に成功するという話ではなく、素材としてかなりよいのに、作品に恵まれず消えていく女優はたくさんいるはずなので、そういう意味では、アイドルの方が間違いなく最低限売れるので確実性が高いのだが、とはいえアイドルとして頂点に立てるタイプではないから、外れるリスクはあっても当たった場合が大きい女優を選択したのであろうと思う。おそらくどんな役を演じても、蒼波純本人の方がおもしろい気がするので、アイドル路線が切られたのは残念であるが、これに抗議しても意味はなく、女優として、本人そのものは見せないという当然のことが行われているだけなのであるし、今後も本人は出てこないのである。
グーグルで検索すると必ずNAVERまとめが一ページ目に来ると言ってよく、これに不満を持っている人間を見かけるのだが、ネットユーザーに合わせてNAVERまとめは存在しているのである。ネットユーザーというより、無銭読者という言葉の方が的確であろうと思うが、死んでも金を払わないという集団がネットを占拠しているわけである。その無銭読者に適応した結果が現在のインターネットなのである。死んでも金を払わないという人間に丁度いい具合に作られたのがNAVERまとめなのである。

わたしのこのブログにしても、誰からも褒められないように心がけているわけである。無銭読者から褒められて支持率が上がり、そこから支持を下げられて倒閣というパターンを、わたし自身で体験しているし、他人の事例でも見てきたから、そのような数多の悲劇を考えると、やはり無銭読者にふさわしいやり方というのがあるのである。このブログが意外と長続きしているとすれば、さすがにこの内容だと誰も「この人は立派だ」とは言わないので、ここから下がる要素がないからである。無銭読者がネットを占拠している限り、支持率が低くなるように心がけるしかない。

人間が飽きるのは自然なことであり、それによって時代が切り替わっていくと言える。わたしだってすぐに飽きるわけである。何かに夢中になって、しばらくしてつまらなくなるのが普通である。わたしの中で長期間高評価を維持しているのは、三島由紀夫と道重さゆみちゃんくらいである。すぐに飽きて捨て去るという人間らしい気質が、古い時代を捨て去り、時間を更新し、新しい時代を作り、世界を塗り替えていく。飽きるという仕組みがなければ、これまた厄介であろうから、飽きることで、網膜に焼き付いていたはずの景色さえ消し去られ、次の時間に踏み出すのは仕方がないのだが、時代を彩った人たちが、飽きられて世界地図から消えるのである。褒めるというのは商品として開封するという行為であり、開封したからには消費されるゴングが鳴ったということであり、あとは寿命を待つだけである。死んでも金を払わないという無銭読者しかいないのだから、こいつらに食い尽くされないように防衛しなければならないし、褒められないことが大事である。死んでも金は払わないという無銭読者から褒められてハードルを上げられるというのは、不平不満を吐き出す準備と言って差し支えなく、褒められて喜んだ段階で他者の評価に平伏したのだから、そこからは蹂躙される一方なのである。評価を得られることで金銭が発生するなら、それを求めて、質の高いコンテンツが供給されるであろうし、飽きられてもまた別のコンテンツが出てくるはずだが、何の対価も無いとしたら、こうやって消費される役割を誰がやるのだろう。

NAVERでまとめを作る人間は、褒められたくてやってるわけもなく、ネットユーザーという客層の悪さを見透かした上で、粗末なまとめを作っているのである。あんまり役に立たないが、スパムとしてグーグルが消すわけでもない微妙なまとめが、どの単語を検索しても必ず出てくるほど大量にあるわけである。無銭読者にはNAVERまとめがふさわしく、まさに身の丈に合っているので、そういう自覚を持つべきなのである。おまえらが褒めてハードルを上げた上で、しばらくしたら飽きてがっかりしたとか、失望したとか寝言を吐くから、おもしろいサイトがすぐにおかしくなり容態が悪化して死するわけである。おまえらが最悪の客層として、金を払わずあちこち消費して叩き潰すわけだから、自ら評価を最低に下げておく生存戦略しかあり得ないので、誰も褒めないタイプのサイトが上位を占拠しているのである。ヤフー知恵袋とか、丁度おまえらの知恵袋としてぴったりなのである。
われわれは「嫌われる」という言葉をあまり厳密に使ってない。他人に向けて「おまえは嫌われている」と攻撃する言葉だから、あれこれ多用されるのだし、きちんと定義するというよりは、とりあえず放ってみる言葉である。だから定義はされてないのだが、やはり、本当に嫌われている場合と、馬鹿にされている場合では違うのである。中川翔子さんなどは嫌われてはおらず、馬鹿にされているのである。端的に言うと、若さを失ったのに年齢の自覚がない女をからかっているわけである。本気で憎悪している人はかなり稀であろうし、たいていの人は、馬鹿にしているわけである。「嫌われる」という言葉は濫用されているのでわかりづらいが、ここは区別する必要があるだろう。よくよく考えてみれば、本当に嫌われてるチンピラみたいなのを相手に「おまえは嫌われている」とか本当のことが言えるはずもなく、どちらかといえば、馬鹿にされている人に向かって、嫌われているという虚偽のレッテルを貼る攻撃なのである。そして中川さんは馬鹿なのだから、それに応じた扱いを受けているのである。

中川翔子は人生の成功者である。バラドルとして30歳近くまで第一線でやったのだから、かなり成功したのである。もう稼がなくてもいいだけの金はあるはずである。年齢的に限界が来ても、まだまだ現役のつもりという様子がまずいのである。もしくは30過ぎてもやれることがないのが問題である。

せっかく多芸多才であるのに、自己啓発的な発言が好きだから、ほとんど何も身についてないのである。あれだけ得意だったイラストも、もうかなり下手になってるから、なんか意識だけ高くて、実力が付かないどころか低下するのだから不思議な人である。自己啓発的な発言で満足してしまう人なのであろう。才能がないならともかく、才能があったのに掛け声だけの人である。

オタク知識の知ったかぶりがよく馬鹿にされるわけだが、基本的にすべてが知ったかぶりで、本当のことが身についてない人なのである。知能も才能も容姿も恵まれていただけに、「ふり」だけで生きてるのが逆にすごいわけである。出来るふりをする能力が高すぎて、せっかくの才能さえまったく磨いてないのが、ひとびとを唖然とさせるのだ。

正直なところ、わたしも中川さんがなんでこんなに馬鹿なのか原因が掴めない。生まれつきの知能指数は確実に高いはずである。イラストがうまかったのも間違いないわけである。歌唱力も優れているわけである。凡人とは違うだけに、何も成長してない様子には首を捻るばかりである。努力しても身につかない障害というのはあまり聞いたことがないから、おそらく努力はまったくしてないし、努力も「ふり」だったわけである。知能も才能も容姿も恵まれて、なんでここまで「出来るふり」だけなのかというのが不可思議である。意識の高さをアピールしていたが、これも「ふり」で実際に物事に取り組む姿勢はかなりいい加減なのだろう。本物の実力を身につけることが可能な素質があったのに、ニセモノで誤魔化そうとするのがすごい。サッカーの才能があるのに、サッカーの練習をせずに、サッカーが出来るふりをし続けるとか、そんな人はあまりいないと思うが、中川さんはそのタイプなのであろう。
昨日似たようなエントリーをしたが、再度しておきたい。講談社ミスiDで審査委員の大森靖子がごり押しし不自然な選考が行われた件だが、わたしは金子と黒宮を許すことにする。おそらく道重さゆみちゃんなら許すであろうと思うから、そうするだけである。

ミスiDで受賞するメリットがほとんどないのだから、何か大きな不正を働いたとは言い難く、道重さゆみちゃんなら情状酌量の余地を与えるであろうし、また道重さゆみちゃんのような聡明な人物なら、売れないアイドルを推すゲームだと理解するであろうし、アイドルを推すという精神の本質からして、一人一票の多数決など覆してもいいと考えるはずである。不人気メンバーを熱心に推す一人のファンがいるとして、たとえば100人分のグッズを買うなら、それは100票であるはずだ。一人で100人分応援することは可能なのである。アイドルを推すということに関して、これはズルとは言えないし、むしろこの熱心さこそが本質だと言える。

もちろんわたしは金子を応援しないし、金子に否定的な見解を示した四人の審査員も決して応援しないであろう。だが、アイドルを推すという根本に立ち返ると、大森靖子一人で100人分動いてもいいわけだし、それはこの賞の性質からして、正当化されるだろうと思われる。四人が応援しないことより、一人が熱烈に応援することが評価されることがあってもよいはずである。マイナスの評価の数で考えるより、推しているファンの熱意の方が重要であるとも言える。大森靖子が金子をごり押ししてグランプリにさせたのだから、他人の力を頼ることなく、大森靖子だけが金子を全力で推せばいいのであり、ミスiD受賞の特典が極めて乏しく、アイドルを推すゲームであると考えると、一人で100票入れるような行為は許容されるはずである。

大森靖子がごり押しし、金子にグランプリを取らせ、それから先は何もしないということなら、何の熱意もないごり押しであり、それはアイドルファンとしての行動ではなく、アイドルオーディションで傲慢な審査員として振る舞っただけとなるであろう。
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