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2014.11.22
明坂聡美さんはめんどくさい性格なので
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20141121-00000027-rbb-ent
まだ平野綾ちゃんが健在だった頃なので、2010年か2011年頃だと思うが、わたしと明坂さんが揉めそうになったのだが、向こうでもわたしがやばい人物だと思ったらしく、丁寧なDMが送られてきたので、わたしも矛を収めたわけである。
何かの役に決まった際に、公式発表される前にファンの人から「おめでとー」というリプがたくさん来たら、「自分から報告したいので、公式発表の前に言わないでください」というめんどくさい愚痴を言い出したのが原因だったと思う。
明坂さんはおもしろいツイートができる才能はあるのだが、女子にはかなり珍しい頑固さがあって、これがブレイクし損ねた原因でもあろう。
田村ゆかりさんのように自虐で楽しませるタイプでもないし、明坂さんは本当にめんどくさいので、才能を活かしきれなかった気がする。
女性声優の場合、おもしろさを持ってるのはプラス要素で、明坂さんにはそれがあったんだけど、それ以上に頑固さが目立つので、これが違和感を持たれる原因なのだろうと思う。
わたしはこのところの明坂さんの状況は知らないが、相変わらずこだわりが強い性格なのであろうと思う。
数年前の件でも、なぜ自分から発表することにそこまでこだわるのかがわからないわけである。
もちろん自分から発表して喜びを伝えたいという心情は理解できるが、声優さんが言える前に情報が出るのは仕方がないわけである。
先に知ったファンの人から祝福されて、なんでそこまで怒るかな、と。
予定外のことが起こった場合に気持ちを切り替える柔軟性が無いのだと思われる。
普通の声優さんなら気持ちを切り替えて「みなさんすでにご存じのようですが」と言いながら、喜びの報告をするだろう。
ブログが廃れすぎてるので、なんかツイッターをやらざるを得ない風潮もあるのだが、アクセスがあろうがなかろうが、向いてなければツイッターやらない方がいいと思う。
ツイッターがホームページになっているのが現状なので、ブログを書いて見に来て貰うのは大変なのだが、別に見て貰わなくてもいいのではなかろうか。
人が集まっているという現状に屈して、140文字制限のある愚民化ツールを使う必要もあるまい。
ツイッターを使うのであれば、有象無象の愚衆の中に飛び込むことなのだから、文句を言うべきではない。
140文字制限など無いはてなハイクが流行ってくれるといいんだけど、はてな近藤も、需要がないことばかりやる人間であり、シリコンバレーへの進出や、ユーザーの実名確認をしようとして猛反対に遭い取りやめた件とか、極めて独善的なのである。
というか、今年の二月にはてな近藤夫妻が離婚していたことを今さら知った。
http://reikon.hatenadiary.com/entry/2014/02/23/111953
140文字制限のないツイッター欲しいと思ってる人は多いと思うので、はてなハイクがアプリを出してくれればいいんだけど、こういうのはやらないわけである。
このスマホ全盛期にアプリがないネットサービスは使いたくない。
そしてどうでもいい新サービスのアプリを開発しては閑古鳥が鳴いている。
はてな近藤は世間の需要を察知する能力が低いし、それが離婚にも繋がったのだろう。
アニメ「家庭教師ヒットマンREBORN!」のクローム髑髏役や「レベルE」の江戸川美歩役などで知られる声優の明坂聡美が20日に自身のTwitterで、悪質な書き込みをするアンチに苦言を呈した。
明坂は、「別に私の死を願うのは勝手ですが、誰かを巻き込む言い方するのはやめて下さい」と訴える。どうやらアンチの書き込みの中には、明坂を貶める代わりにほかのなにかを持ち上げるといった内容のものもあるようで、「表舞台に立つ者として、叩かれるのは仕方ない」としつつも、「私以外の品位を下げないで」「叩くなら何かの名前は出さないで叩いてよ。貴方が垂れ流したそのワードを見つけて『この人のファンは悪い』『このキャラのファンは最低』なんて思いたくないから」と訴える。
そして、「とにかく悪いモヤモヤした事は心の底に閉じ込めるか、インターネッツに垂れ流すんじゃない!」とキッパリ語った。
なお明坂は2012年、一般のTwitterユーザーとのやり取りをきっかけに、Twitterを約1年間休止していた。
まだ平野綾ちゃんが健在だった頃なので、2010年か2011年頃だと思うが、わたしと明坂さんが揉めそうになったのだが、向こうでもわたしがやばい人物だと思ったらしく、丁寧なDMが送られてきたので、わたしも矛を収めたわけである。
何かの役に決まった際に、公式発表される前にファンの人から「おめでとー」というリプがたくさん来たら、「自分から報告したいので、公式発表の前に言わないでください」というめんどくさい愚痴を言い出したのが原因だったと思う。
明坂さんはおもしろいツイートができる才能はあるのだが、女子にはかなり珍しい頑固さがあって、これがブレイクし損ねた原因でもあろう。
田村ゆかりさんのように自虐で楽しませるタイプでもないし、明坂さんは本当にめんどくさいので、才能を活かしきれなかった気がする。
女性声優の場合、おもしろさを持ってるのはプラス要素で、明坂さんにはそれがあったんだけど、それ以上に頑固さが目立つので、これが違和感を持たれる原因なのだろうと思う。
わたしはこのところの明坂さんの状況は知らないが、相変わらずこだわりが強い性格なのであろうと思う。
数年前の件でも、なぜ自分から発表することにそこまでこだわるのかがわからないわけである。
もちろん自分から発表して喜びを伝えたいという心情は理解できるが、声優さんが言える前に情報が出るのは仕方がないわけである。
先に知ったファンの人から祝福されて、なんでそこまで怒るかな、と。
予定外のことが起こった場合に気持ちを切り替える柔軟性が無いのだと思われる。
普通の声優さんなら気持ちを切り替えて「みなさんすでにご存じのようですが」と言いながら、喜びの報告をするだろう。
ブログが廃れすぎてるので、なんかツイッターをやらざるを得ない風潮もあるのだが、アクセスがあろうがなかろうが、向いてなければツイッターやらない方がいいと思う。
ツイッターがホームページになっているのが現状なので、ブログを書いて見に来て貰うのは大変なのだが、別に見て貰わなくてもいいのではなかろうか。
人が集まっているという現状に屈して、140文字制限のある愚民化ツールを使う必要もあるまい。
ツイッターを使うのであれば、有象無象の愚衆の中に飛び込むことなのだから、文句を言うべきではない。
140文字制限など無いはてなハイクが流行ってくれるといいんだけど、はてな近藤も、需要がないことばかりやる人間であり、シリコンバレーへの進出や、ユーザーの実名確認をしようとして猛反対に遭い取りやめた件とか、極めて独善的なのである。
というか、今年の二月にはてな近藤夫妻が離婚していたことを今さら知った。
http://reikon.hatenadiary.com/entry/2014/02/23/111953
振り返れば、2001年5月に結婚をした私たち夫婦は、お金も何もなく、jkondoの頭にあった「はてな」のアイデアだけが未来への切符として私たちの手の中にありました。2ヶ月後にサービスを開始し、思うようにヒットせずに受託開発を始め、幸いにアンテナとダイアリーが注目を集め、東京へ移って仲間が増えて、アメリカに移住し京都へ戻り、気付けば此処にいました。息つく間のない13年間でした。
140文字制限のないツイッター欲しいと思ってる人は多いと思うので、はてなハイクがアプリを出してくれればいいんだけど、こういうのはやらないわけである。
このスマホ全盛期にアプリがないネットサービスは使いたくない。
そしてどうでもいい新サービスのアプリを開発しては閑古鳥が鳴いている。
はてな近藤は世間の需要を察知する能力が低いし、それが離婚にも繋がったのだろう。
2014.11.21
神経症。人生を楽しんではいけないという思いこみ。
神経症という流行病があったが、ほとんどこれで悩んでいる人の話を聞かなくなった。神経症とは、人生を楽しんではいけないという価値観の持ち主が感染する病なのである。本当に楽しみたくないわけではなく、禁じられているからこそエロティシズムがあるというバタイユ的な感性が根底にある。禁欲のゲージを高めるだけ高め、嶮岨な壁を築き上げ、幻想が膨れあがるほどに、その先にある快楽が大きくなるというシステムに囚われているのである。これは悪しき理想主義でしか無く、どれだけ禁欲しても、超越的な快楽の報酬がやってこないという事態になる。こうやって禁欲しすぎると神経症になるのである。人生をエンジョイするというのは、天使だと思っていた女を色情狂のヤリマンだと見なすことでもあるし、快楽を日用雑貨として捉えることであるので、天上界の美に触れるような感覚を失わせるから、超越的な絶対者からは遠くなってしまうのだが、花柳界の楽しみとか手練れの娼婦ならではの色気もあろうし、絶対者への夢を捨てて、紊乱した風紀が炯々と輝く俗世を楽しむ気になれば神経症など罹らないのである。フロイト精神分析は燎原の火のごとく神経症を流行らせ悪化させ甚大な被害をもたらしたのだが、性的抑圧が神経症の根底にあることを見抜きながら、これをうまく軟着陸させることが出来なかった。修道院に入っている少女は決して女を捨てておらず、それどころか、最高の性的対象なのであり、20歳前後の修道女(清純な処女)を抱けるとしたら、それは最高の悦楽に違いないのだが、この種の理想をゆるやかに弱体化させることが必要なのである。フロイト精神分析の実態は、どれだけ自分が被害に遭ったかを主張するものであったし、作り話を繁殖させ、人間を蝕む苗床でしかなかったのである。さて、神経症の時代は終わったのである。精神分析が猛威を振るい、フリーセックスで少年少女が蹂躙され、そういう様々な20世紀の悲劇を通過して、人生を適度にエンジョイすることが健康な精神を生み出すとわかったわけである。ではわれわれの人間的な悩みが解決したのか、というと、あまりそうではないのである。鬱という新しい病気が蔓延しているわけである。要は、エンジョイする準備は出来たが、現実にセックスする相手がいないので鬱になるわけである。もしくはセックスの相手がいても見てくれが悪いから鬱になるとか、あるいは借金で首が回らないから鬱になるとか、いろいろ事情はあるであろう。神経症的な禁欲主義から卒業し、人生を楽しもうとしても、自らのスペックの問題として、繁華街の目抜き通りを賑やかす快楽のおこぼれにあずかれない現実が待っているわけである。神経症の時代から鬱病の時代にシフトしただけなのである。人生をエンジョイしたいから鬱病になるのである。だからと言って禁欲主義に戻れば、古くさい神経症になってしまう。空閨をかこつ孤独な夜に悩みは尽きず、解決もないという話である。
2014.11.20
竹田恒泰のいとこ(渡辺徹)が衆議院選挙に出るらしい
竹田恒泰の従兄弟、つまり明治天皇の玄孫に渡辺徹という人物がいるらしい。
芸能人の渡辺徹とは同姓同名で無関係である。
こちらの渡辺徹は前回の衆議院選挙で維新の会から東京五区で立候補し、45518票で落選している。
今度は次世代の党に移り、東京一区から出馬する見込みのようである。
11月13日の竹田恒泰のブログでも触れられている。
http://ameblo.jp/takeda-tsuneyasu/entry-11951920472.html
幕末の孝明天皇は明らかに幕府寄りであり、ほとんど公武合体路線が決まっていた。
だが、この孝明天皇が不慮の死を遂げ、息子の明治天皇に切り替わる。
これによって一気に反幕となるのである。
明治天皇の実母は中山慶子というのだが、その父親の中山忠能は孝明天皇から疎まれていた。
この中山忠能(明治天皇と血の繋がった祖父)が復権し、王政復古の大号令を主導する。
孝明天皇と非常に深い信頼関係にあった久邇宮朝彦親王が失脚。
そして久邇宮朝彦親王の異母兄弟である北白川宮能久親王は彰義隊に担がれて失脚。
だがその息子は、竹田宮家の創設を許される。
ここから竹田恒泰に繋がっていくわけである。
(久邇宮も明治時代に賜ったものである)。
久邇宮朝彦親王の息子の久邇宮邦彦の娘は昭和天皇の妃(香淳皇后)となっている。
長州藩から蛇蝎のごとく嫌われていた久邇宮朝彦親王の孫娘が昭和天皇と結婚するのも興味深い。
ちなみにこの孫娘(香淳皇后)は薩摩の島津家の血を引いている。
こう考えると、竹田恒泰は明治天皇の玄孫であるだけでなく、昭和天皇の妻である香淳皇后とも遠い親戚なわけで、少しは血が繋がっている。
伏見宮邦家親王(1802-1872)まで遡るのだが、竹田恒泰から辿るとこういう具合になる。
竹田恒泰(本人)-竹田恒和(父親)-竹田宮恒徳(祖父)-竹田宮恒久(明治天皇の娘と結婚)-北白川宮能久親王-伏見宮邦家親王
そして香淳皇后に関しては、こんな感じ。
香淳皇后(本人)-久邇宮邦彦王(父親)-久邇宮朝彦親王(祖父)-伏見宮邦家親王
かなり遠い血縁だが、竹田恒泰は今上天皇と血が繋がっているわけである。
(もちろん明治天皇の玄孫だから、そこで繋がってるのは言うまでもない)。
また久邇宮家(伏見宮)を遠く辿れば、竹田恒泰は男系の皇族でもある。
もちろん遠すぎるので、皇位継承権などはあるはずもない。
だからどうしたというわけでもないが、とりあえず書いてみた。
芸能人の渡辺徹とは同姓同名で無関係である。
こちらの渡辺徹は前回の衆議院選挙で維新の会から東京五区で立候補し、45518票で落選している。
今度は次世代の党に移り、東京一区から出馬する見込みのようである。
11月13日の竹田恒泰のブログでも触れられている。
http://ameblo.jp/takeda-tsuneyasu/entry-11951920472.html
僕の父の姉の長男が、東京1区で次世代の党から支部長に指名されました。
ということは、解散があったら、立候補する可能性が高いということです。
彼の名前は、
渡辺徹。
芸能人の渡辺徹とは同姓同名です。
今日は僕の主催で、
「竹田恒泰とともに渡辺徹を囲む会」を催しました。
政治評論家の加藤清隆さんにも出席して頂き、激励して頂きました。
幕末の孝明天皇は明らかに幕府寄りであり、ほとんど公武合体路線が決まっていた。
だが、この孝明天皇が不慮の死を遂げ、息子の明治天皇に切り替わる。
これによって一気に反幕となるのである。
明治天皇の実母は中山慶子というのだが、その父親の中山忠能は孝明天皇から疎まれていた。
この中山忠能(明治天皇と血の繋がった祖父)が復権し、王政復古の大号令を主導する。
孝明天皇と非常に深い信頼関係にあった久邇宮朝彦親王が失脚。
そして久邇宮朝彦親王の異母兄弟である北白川宮能久親王は彰義隊に担がれて失脚。
だがその息子は、竹田宮家の創設を許される。
ここから竹田恒泰に繋がっていくわけである。
(久邇宮も明治時代に賜ったものである)。
久邇宮朝彦親王の息子の久邇宮邦彦の娘は昭和天皇の妃(香淳皇后)となっている。
長州藩から蛇蝎のごとく嫌われていた久邇宮朝彦親王の孫娘が昭和天皇と結婚するのも興味深い。
ちなみにこの孫娘(香淳皇后)は薩摩の島津家の血を引いている。
こう考えると、竹田恒泰は明治天皇の玄孫であるだけでなく、昭和天皇の妻である香淳皇后とも遠い親戚なわけで、少しは血が繋がっている。
伏見宮邦家親王(1802-1872)まで遡るのだが、竹田恒泰から辿るとこういう具合になる。
竹田恒泰(本人)-竹田恒和(父親)-竹田宮恒徳(祖父)-竹田宮恒久(明治天皇の娘と結婚)-北白川宮能久親王-伏見宮邦家親王
そして香淳皇后に関しては、こんな感じ。
香淳皇后(本人)-久邇宮邦彦王(父親)-久邇宮朝彦親王(祖父)-伏見宮邦家親王
かなり遠い血縁だが、竹田恒泰は今上天皇と血が繋がっているわけである。
(もちろん明治天皇の玄孫だから、そこで繋がってるのは言うまでもない)。
また久邇宮家(伏見宮)を遠く辿れば、竹田恒泰は男系の皇族でもある。
もちろん遠すぎるので、皇位継承権などはあるはずもない。
だからどうしたというわけでもないが、とりあえず書いてみた。
2014.11.19
緒方恵美(49歳)がはるかぜに共感
https://twitter.com/Megumi_Ogata/status/534250520756510720

はるかぜのアンチにもいろいろいて、九割くらいは毒親問題について疑念を抱いているのだけど、一割くらい変な人がいるわけである。
本当に2001年生まれの本人が書いていると思いこんでいて、その上で精神病が疑われるような行動を繰り返している。
家庭環境は本人と一体化したものであるから、最終的には本人に帰属するので、本人に責任はないと強調しすぎるのも問題であるが、ひとまずはるかぜ(娘)は被害者である。
アンチに攻撃されている被害者ではなく、毒親にタレントをやらされている被害者なのである。
緒方恵美は49歳なので、いかにもはるかぜに引っ掛かりそうな年代なのだが、はるかぜの同情商法に共感したらしい。
完全に本人が書いてると思いこんでいる。
はるかぜのツイートを、同年代の女子中学生のツイートとくらべたらかなり変なのだが、そこには思い至らないらしい。
感性が鈍磨するのは仕方ないにしても、単に見比べれば、49歳でもわかるはずである。
はるかぜが有名になったのは小学四年生の時だが、そこからツイートの内容がまったく変わってないことからも、母親の代筆という可能性が濃厚である。
ツイッターではフォロー関係にない人にリプをしてはいけないという暗黙のルールがあり、それが常識である。
だから、警鐘を鳴らすような非常識な行動はしづらいのだが、そろそろ「中学二年生のツイートにしては昭和過ぎると思うんですが、どうでしょう」くらいの丁寧なリプを送った方がいいのかもしれない。
今のところそういう活動をしているのは0人であろうし、変なリプを送ってるのははるかぜ本人がツイートしていると思いこんでるから、はるかぜ(母親)の思う壺であるし、最高のサポーターとなってしまっている。
何にせよ、2001年生まれの瑞々しいツイートが極めて少なく、ババアの老廃物みたいなツイートしかないので、そこはよく考えてもらいたい。

はるかぜのアンチにもいろいろいて、九割くらいは毒親問題について疑念を抱いているのだけど、一割くらい変な人がいるわけである。
本当に2001年生まれの本人が書いていると思いこんでいて、その上で精神病が疑われるような行動を繰り返している。
家庭環境は本人と一体化したものであるから、最終的には本人に帰属するので、本人に責任はないと強調しすぎるのも問題であるが、ひとまずはるかぜ(娘)は被害者である。
アンチに攻撃されている被害者ではなく、毒親にタレントをやらされている被害者なのである。
緒方恵美は49歳なので、いかにもはるかぜに引っ掛かりそうな年代なのだが、はるかぜの同情商法に共感したらしい。
完全に本人が書いてると思いこんでいる。
はるかぜのツイートを、同年代の女子中学生のツイートとくらべたらかなり変なのだが、そこには思い至らないらしい。
感性が鈍磨するのは仕方ないにしても、単に見比べれば、49歳でもわかるはずである。
はるかぜが有名になったのは小学四年生の時だが、そこからツイートの内容がまったく変わってないことからも、母親の代筆という可能性が濃厚である。
ツイッターではフォロー関係にない人にリプをしてはいけないという暗黙のルールがあり、それが常識である。
だから、警鐘を鳴らすような非常識な行動はしづらいのだが、そろそろ「中学二年生のツイートにしては昭和過ぎると思うんですが、どうでしょう」くらいの丁寧なリプを送った方がいいのかもしれない。
今のところそういう活動をしているのは0人であろうし、変なリプを送ってるのははるかぜ本人がツイートしていると思いこんでるから、はるかぜ(母親)の思う壺であるし、最高のサポーターとなってしまっている。
何にせよ、2001年生まれの瑞々しいツイートが極めて少なく、ババアの老廃物みたいなツイートしかないので、そこはよく考えてもらいたい。
2014.11.19
(寝てる時の)夢は現実と大差ない
時たま夢に道重さゆみちゃんが出てくるわけだが、それが悦楽極まりないことがある。道重さゆみちゃんの肌に触れる瞬間はまさに超越的な快楽なのである。もちろん夢であるから、すぐに場面が切り替わってしまうし、目が覚めれば、その遺髪のような快楽の余韻は残しつつも、それに浸れるのは僅かばかりであり、まるで毒が浸食していくように、神経の隅から隅まで、この肉体が置かれている穢土の世界に組み込まれていくのだが、なぜこの種の夢は楽しいのだろうかと考えると、現実も実は想像的に理解しているからである。われわれは自分の家族のことでさえたいして知らなかったりする。わたしと相手の脳をケーブルで繋いでいるわけではないから、直に相手に接しても、夢の登場人物と大差ないと言える。現実で道重さゆみちゃんに触れるのも、夢の中で触れるのも、認識の仕組みとしては同じなのである。人間の主観の性質からして、たとえ紛れもない現実であっても、それは夢や空想に似ているのである。現実に道重さゆみちゃんと素肌を触れ合わせる時があったとしても、それはわたしの主観から体験している出来事である。こう考えると、他人に立ち入るのは限界があるのである。どれだけ身体を重ね合わせても、わたしの主観と道重さゆみちゃんの主観が融合することはないのである。現実に体験したことでも、夢みたいと思うことはあるわけである。わたしの主観に対して現象世界が映じてくるだけだから、現象であるという意味において、現実で道重さゆみちゃんを抱くのも、夢で道重さゆみちゃんを抱くのも、大差ないのである。
2014.11.18
朝日新聞はマイノリティーの味方
ネットユーザーがクソだという言説が溢れているが、これは人間の実像を認めまいという頑迷さであり、それぞれが自分の言葉で、聖母からソドムに至るまでの感情を書き綴れることの有り難みをわかっていないのである。ネットが世間に普及し始めたのは1995年あたりであり、本格的に広まったのは2000年以降である。20世紀の人間は投票用紙を持っておらず、朝日新聞に代理投票されていたのである。白紙委任状を渡したわけでもないのに、朝日新聞は代弁者を気取っていたのである。人間の五感は貧しく、自分の肉体周辺しか認識出来ないので、かなりの部分を伝聞に頼っているのだが、この伝聞を朝日新聞が束ねて、完全に管理していたのである。ようやくわれわれはネットを手にして、俗塵に塗れた人間らしい言葉を目にすることが出来るようになった。これは決して美しくないが、人間の実態はこれくらいのレベルなのである。桜蔭とかフェリスの子がネットを見て、衆生の猖獗極まる愚昧さに衝撃を受けるならともかく、きゃりーぱみゅぱみゅとか、ろくでもない育ちの人間がネットに苦言を呈しているのを見ると、自分の頭で考えることが出来ず、どこかで借りてきたような思考を薄弱な頭脳で再生しているだけだと痛感させられるのである。ネットユーザーがどれだけクソであれ、きゃりーぱみゅぱみゅの周辺の大人たちよりはマシであろう。インターネットで人間の等身大の姿が吐瀉物のように嘔吐されるまでは、朝日新聞がわれわれから主体性を奪い取り代筆していたのである。いかにも美辞麗句で飾った猛毒が、世界を支配していた。朝日新聞はマイノリティーの味方である。朝日的にマイノリティーというと、たとえば上野千鶴子あたりを担ぎ上げるのである。近代社会にもまだ昔ながらの因習が残されており、近代の超克のためにマイノリティーが必要なのである。一個人の人権は何よりも重いという価値観において、あらゆる旧習を破壊するのである。それによりポストモダンという地上の楽園に行けるらしい。上野千鶴子はマイノリティーの代表として登場したのである。上野は開業医の娘であるし、京都大学に入っているから、顔面を除けばずいぶん恵まれているようにも思えるが、その見てくれの悪さや、口裂け女のような妖怪譚を想起させる異形性をもって、マイノリティーの代表として現れたわけである。上野千鶴子に関して言えば、結婚制度破壊の旗手として登場したわけである。たぶん上野千鶴子がいなくても、代わりの誰かを朝日新聞が引っ張ってきたであろうし、カウンターカルチャーのノリは間違いなく行われたはずなのだが、とはいえ、日本の場合、1970年くらいまで見合い結婚が普通にあったから、90年代の女子高生ブームはかなりドラスティックなものであったし、人類の歴史の中でも前代未聞のことが発生していたわけである。この当時の上野は宮台に同調していたし、とにかく保守的な結婚観を破壊したかったのである。女子高生を縁もゆかりもないまったくの赤の他人と考えた場合、その若い身体を端金で買えるならセクサロイドと見なすことも可能であるし、快楽原則から見て素晴らしい社会と言えるとしても、自分の娘がそれをやったらどうなのか、という常識問題が欠落していたのである。何しろ進歩的文化人は結婚する気がないのだから、そこまで想像が及ばないわけである。また80年代の校則反対運動も、実際のところ、中学生を思想運動に動員していた側面が強いわけである。朝日新聞がどこかで共産主義を夢見ているとして、個人の人権を絶対視するところから地上の楽園に繋がるロジックはよくわからないが、人権を楯にして、因習や伝統への破壊活動を行ってきたわけである。君が代を歌わないという問題にしても、歌わなければ歌わないでいいのだが、人間の盾となって阻止するのである。特高警察がなくなったので、小林多喜二のように撲殺されることもないし、安心して楯になれるのである。不思議なことにネットが普及してから、左翼は完全に衰退してしまった。やはり20世紀までのわれわれは言葉を封じられていたのである。乙武の炎上事件でも、バリアフリーは無限大に行わねばならないという進歩的文化人らしい行為が顰蹙を買っただけである。乙武もわりと空気は読めるので、あの一件までは、ゴリゴリの進歩的な意見など言わなかったのだが、奥さんではない女性と二人きりで食事というシチュエーションだったので、たぶんプライドの問題もあり、荼毘に付されていたはずの古くさい思想を持ちだしてきたのである。車椅子で行けない場所があってはならないという主張が受け入れられるはずがない。上野千鶴子がおひとり様として快適に生きられる世界にしてしまったのだから、もう手遅れではあるだろうが、進歩的文化人は人類の敵なのである。マイノリティーの寸法に合わせるために、世界がどれだけ軋み、文明の衰亡さえ危ぶまれる状態になったか気付くべきであるし、本当にこのまま上野や乙武と心中するつもりなのかどうか決断する必要がある。
2014.11.17
久間田琳加ちゃん。はるかぜと同じ2001年2月生まれ。
https://twitter.com/lespros_rinka

はるかぜは2001年2月生まれだが、同じく2001年2月生まれの久間田琳加ちゃんというモデルが自分でツイッターをやっている。代筆の可能性も無くはないが、この子はすでにニコラの専属モデルだし、元から人気者らしいので、ツイッターで知名度を上げる必要はまったくない。さすがにモデルだけあって、おしゃれの感性が若すぎて眩暈がするようなツイートばかりである。言うまでもなく雑誌の専属モデルになるくらいだから動画で見てもかなり可愛いしスタイルもよい。はるかぜのように、静止画像で誤魔化してる人間とは違うのである。同年代のモデルの子とのやり取りを見ても、はるかぜのババア臭いツイートとは中身が違いすぎて、同じ地球上に住んでいるとは思えない。これからはこのレベルの子が次から次へと出てくるのだし、同い年と比較されては、中身がババアという心証が強くなるばかりである。インターネットも、個人サイトからブログを経てSNSに辿り着いて、これが終の棲家という印象もあり、ツイッターはまだまだ延命しそうなので、はるかぜも過去の遺産だけでやっていけるつもりなのだろう。ツイッターが廃れたら、そこで退場になるはずだが、人間関係が固定化して排他的に振る舞う人間が出てきて過疎るという法則がツイッターでは働かないので、なかなか落ちてこないのである。Facebookよりツイッターの方が寿命が長い気がする。Facebookは軋轢が生じた段階でやめる動機が発生するが、ツイッターは人間関係が希薄なので、あまり放り出す理由がない。これがはるかぜ(娘)にとって幸福なことなのかどうかはよくわからない。ソーシャルスキルが低く、なおかつ勉強も出来ないのだから、IQとEQが両方とも低い状態であり、ネグレクトされているからまともな教育も行われておらず、改善される見込みもまったくないから、一人の子どもが駄目になっていく惨劇が衆人環視の元に行われているのであり、そろそろかなりの出来損ないだと誰もが気付く状況が出来つつあるから、いずれ毒親問題が大きく露呈するであろうし、はるかぜ(娘)は善良な人物であるだけに、非常識なババアに人生を乗っ取られたのは、人倫の根本に関わる問題であるし、最終的にははるかぜ親子を持ち上げた岡田有花に責任を取って貰うしかない。個々の人生は一回性であるから、人生も社会的分業であると言えるし、失敗作にも失敗作としての役割があるとも言えるし、人間性のあらゆる側面を曼荼羅として描いていくのが世界の本質だとすれば、久間田琳加ちゃんが絢爛たる煌めきを放つ一方で、暗澹たる部分を深く刻印し象嵌するのがはるかぜ親子とも言えるのだが、その役割を演じるために逢着する苦難の重さは喩えようが無く、この暗渠の輪郭を描くために、どれだけの痛みを伴うのか計り知れない。可能性に満ちあふれた2001年生まれが登場するたびに、ニセモノでしかないことがはっきりしていくのだからどれだけ静止画像を彩っても、塗りたくった分だけメッキが剥がれていくのである。

はるかぜは2001年2月生まれだが、同じく2001年2月生まれの久間田琳加ちゃんというモデルが自分でツイッターをやっている。代筆の可能性も無くはないが、この子はすでにニコラの専属モデルだし、元から人気者らしいので、ツイッターで知名度を上げる必要はまったくない。さすがにモデルだけあって、おしゃれの感性が若すぎて眩暈がするようなツイートばかりである。言うまでもなく雑誌の専属モデルになるくらいだから動画で見てもかなり可愛いしスタイルもよい。はるかぜのように、静止画像で誤魔化してる人間とは違うのである。同年代のモデルの子とのやり取りを見ても、はるかぜのババア臭いツイートとは中身が違いすぎて、同じ地球上に住んでいるとは思えない。これからはこのレベルの子が次から次へと出てくるのだし、同い年と比較されては、中身がババアという心証が強くなるばかりである。インターネットも、個人サイトからブログを経てSNSに辿り着いて、これが終の棲家という印象もあり、ツイッターはまだまだ延命しそうなので、はるかぜも過去の遺産だけでやっていけるつもりなのだろう。ツイッターが廃れたら、そこで退場になるはずだが、人間関係が固定化して排他的に振る舞う人間が出てきて過疎るという法則がツイッターでは働かないので、なかなか落ちてこないのである。Facebookよりツイッターの方が寿命が長い気がする。Facebookは軋轢が生じた段階でやめる動機が発生するが、ツイッターは人間関係が希薄なので、あまり放り出す理由がない。これがはるかぜ(娘)にとって幸福なことなのかどうかはよくわからない。ソーシャルスキルが低く、なおかつ勉強も出来ないのだから、IQとEQが両方とも低い状態であり、ネグレクトされているからまともな教育も行われておらず、改善される見込みもまったくないから、一人の子どもが駄目になっていく惨劇が衆人環視の元に行われているのであり、そろそろかなりの出来損ないだと誰もが気付く状況が出来つつあるから、いずれ毒親問題が大きく露呈するであろうし、はるかぜ(娘)は善良な人物であるだけに、非常識なババアに人生を乗っ取られたのは、人倫の根本に関わる問題であるし、最終的にははるかぜ親子を持ち上げた岡田有花に責任を取って貰うしかない。個々の人生は一回性であるから、人生も社会的分業であると言えるし、失敗作にも失敗作としての役割があるとも言えるし、人間性のあらゆる側面を曼荼羅として描いていくのが世界の本質だとすれば、久間田琳加ちゃんが絢爛たる煌めきを放つ一方で、暗澹たる部分を深く刻印し象嵌するのがはるかぜ親子とも言えるのだが、その役割を演じるために逢着する苦難の重さは喩えようが無く、この暗渠の輪郭を描くために、どれだけの痛みを伴うのか計り知れない。可能性に満ちあふれた2001年生まれが登場するたびに、ニセモノでしかないことがはっきりしていくのだからどれだけ静止画像を彩っても、塗りたくった分だけメッキが剥がれていくのである。
2014.11.17
茶髪とは何だったのか
モーニング娘。から道重さゆみちゃんがいなくなるが、来年以降もある程度の動員は維持できるであろうと思う。キャバ嬢の集まりみたいなのが時代に合ってなかったのが低迷の原因であったし、低迷期と現在のメンバーではまったく気質が違うからである。現在のメンバーは茶髪文化の影響を受けてない世代であるから、躍起になって進歩的な在り方を目指すことはないのである。1990年代は悪夢のような時代だった。最初に携帯電話が普及して次にインターネットが来るという格好であったから、本格的なネットの普及を前にして、進歩的なメディアがフリーセックスを煽ったわけである。茶髪というのも非処女の象徴として選択されたスタイルである。日本人に似合いもしない茶髪にするのはセックスアピールのつもりなのである。00年代に入ってからはネットが本格的に普及したので、進歩的なメディアの力はかなり弱まったわけである。宮台真司の娘は売春をしないであろうし、朝日新聞社員の子どもは偏差値が高い学校に行くわけである。つまり進歩的な価値観とは他人の子どもへの無責任さに他ならない。1990年代は日本の文化史を語るに際して外せないはずだが、ほとんど汚点ばかりなので、女子高生ブームなどはなかったことになっている。ともかくここのところ進歩的文化人が影響力を失っているので、フリーセックスを煽ってポストモダンへ移行するという連合赤軍のようなメンタリティーは消えつつある。他人の子供を思想的に動員するのではなく、自分の子どもをどう育てたいのかという発想に切り替わっているのである。ここのところアイドルブームが復活してきたのも、茶髪の衰退が原因である。黒髪のアイドルを応援する時代なのである。朝日新聞読者も減っているであろうから、他人の子どもをポストモダンの戦場に送り込むという流れは消えているし、われわれはアイドルを自分の子どものように応援しているのである。黒髪のイノセントな雰囲気は、朝日新聞的には中世への後退なのであろうし、ポストモダンの戦塵にまみれた茶髪こそが望ましいのであろうが、そのような思想的動員はもはや不可能なのである。育ちの悪さが売り物だったモーニング娘。も、上品な黒髪の子に切り替えているわけであり、時代は完全に変わった。
2014.11.16
視野が狭いのではなく、周辺視野が狭い
言葉とは感染症のようなものであり、言い回しが伝播していくわけである。文法に従って単語を組み合わせて話しているわけではなく、ある程度決まり切った言い方があるわけである。これまで自閉症スペクトラムに対して、「視野が狭い」という言い回しが、どれだけ使われたかわからないが、ともかく使用頻度がかなり高いはずで、この謬見によって、相当な犠牲が支払われているのである。「視野が狭い」というと、まるで、網膜剥離で視野が欠けているみたいではないか。そのような言い方で、本当に伝わると思ってるのか、ということだ。これは誣言を流布していると言って差し支えないのである。ではどういえばいいかというと「周辺視野が狭い」と言うべきなのである。網膜剥離で物理的に視野が欠損している人間には「視野が狭い」と言っていいのだが、見えてるはずのものが見えてないという自閉的人間には「周辺視野が狭い」と言うべきなのである。あなたの前にパソコンのディスプレイがあるとして、もちろん全体は視界に入っているだろう。だが、その一部しか認識してないはずである。虚構新聞というゴミサイトがブームになったことがあるが、あれも、われわれはディスプレイ全体を見てないからである。漠然と見れば、京都新聞に見えるわけである。つまり、ディスプレイ全体を見てるつもりでも、端から端まで寸分の狂いもなく、すべてを認識しているわけではない。見ているのは基本的に焦点を合わせているところであるし、その周辺は眼球に映っていても、さほど見えていない。この「周辺」の認識率は、かなり個人差があり、基本的に周辺視野がしっかりしているとソーシャルスキルが高い。逆に焦点を合わせたところ以外はほとんど見えていないようだと、アスペルガーの疑いが持たれるわけである。右側を見るとして、左側がお留守になるのでは、それは周辺視野に問題があるのである。右側を見ているなら、左側がはっきりと見えてないのは誰でもそうだが、周辺視野がしっかりしていれば、左側もそれなりに見えているはずなのである。この問題を根本的に解決するのは難しいとしても、「周辺視野が狭い」と気付くだけで、それなりの対処法はあるのである。焦点を合わせたところだけを見て、周辺はさっぱり見えていないのが自閉症スペクトラムの特徴であるが、せめて問題点に気付けば、出来るだけ視野を広く取るような工夫は可能なのである。辺鄙な田舎で山伏として山野を跋渉しているなら、周りが見えて無くても問題ないだろうが、他人がいるからには、周辺視野で視界の隅の方まで把握しておくことが必要なのである。生まれつきの能力差はあるのだが、欠陥に気付くだけで周辺視野は広がる。
2014.11.15
進化論と優生思想の混同
優れた馬を交配させても、より優れた馬ができあがるだけで、馬以外の別の生物に進化はしない。
進化論が漫然と受け入れられている理由として、優生学との混同があるように思う。
優秀な個体同士で繁殖を続けると、別の種に進化するかのように思われている。
人間が進化するとしたら、ホモサピエンスとは別の生き物になるわけである。
進化論と優生学は混同するべきではない。
かつて天地創造は6000年前に行われたと信じているキリスト教徒がたくさんいたわけである。
ニュートン(1642-1727)も聖書の内容をそのまま信じている人間であった。
彼にとって、聖書は神話ではなく人類史だったのである。
だからニュートンは、聖書と人類史の辻褄を合わせることに没頭したのである。
さすがにニュートンよりは、進化論者の方が正解に近いのであろうが、進化論者はたいした発見をしてないのである。
多細胞生物が生まれたり、オスとメスに分かれて有性生殖を始めたのも10億年くらい前で、これが現在の生命の基本となってるのは摩訶不思議であり、どう突然変異したら、多細胞生物が出来るのかさっぱり想像が付かない。
これでは奇跡とか千年王国と大差ない。
1970年代に出版されたドーキンスの「利己的な遺伝子」がやたらと賞賛されたのは、生まれつき役割など決まっていないという進歩的な知識人が利用しやすかったからである。
もしくは女が男を選ぶという図式を強調したいからである。
少なくともドーキンスの消費のされ方は、優生思想としてのものであり、進化論としては誰も興味を持ってないのである。
地球上の生物は、一種類である。
DNAを元に遺伝して繁殖していくわけである。
これと違う仕組みの生物は存在しない。
地球に生物が誕生しうるのなら、まったく違う方式の生物が存在していてもいいはずである。
生物が一度しか誕生してないのも不思議なことである。
(もしくは別の規格の生物が誕生していたとしても、設計図が遺伝するという仕組みがなければ、すぐに死んで終わりだろう)。
人間のような、つい最近言葉を使えるようになった生きものでさえ、洗濯機や冷蔵庫を作っているのだから、(聖書の神とは別の存在が)生物を設計していても不思議ではあるまい。
何にせよ、進化や天地創造の問題と、ひとつの種の中で選別して競争する優生思想はまったく違う。
ゲームの制作者が誰かということと、その作られたゲームをどのように攻略するのか、という問題は次元が違うであろう。
進化論が漫然と受け入れられている理由として、優生学との混同があるように思う。
優秀な個体同士で繁殖を続けると、別の種に進化するかのように思われている。
人間が進化するとしたら、ホモサピエンスとは別の生き物になるわけである。
進化論と優生学は混同するべきではない。
かつて天地創造は6000年前に行われたと信じているキリスト教徒がたくさんいたわけである。
ニュートン(1642-1727)も聖書の内容をそのまま信じている人間であった。
彼にとって、聖書は神話ではなく人類史だったのである。
だからニュートンは、聖書と人類史の辻褄を合わせることに没頭したのである。
さすがにニュートンよりは、進化論者の方が正解に近いのであろうが、進化論者はたいした発見をしてないのである。
多細胞生物が生まれたり、オスとメスに分かれて有性生殖を始めたのも10億年くらい前で、これが現在の生命の基本となってるのは摩訶不思議であり、どう突然変異したら、多細胞生物が出来るのかさっぱり想像が付かない。
これでは奇跡とか千年王国と大差ない。
1970年代に出版されたドーキンスの「利己的な遺伝子」がやたらと賞賛されたのは、生まれつき役割など決まっていないという進歩的な知識人が利用しやすかったからである。
もしくは女が男を選ぶという図式を強調したいからである。
少なくともドーキンスの消費のされ方は、優生思想としてのものであり、進化論としては誰も興味を持ってないのである。
地球上の生物は、一種類である。
DNAを元に遺伝して繁殖していくわけである。
これと違う仕組みの生物は存在しない。
地球に生物が誕生しうるのなら、まったく違う方式の生物が存在していてもいいはずである。
生物が一度しか誕生してないのも不思議なことである。
(もしくは別の規格の生物が誕生していたとしても、設計図が遺伝するという仕組みがなければ、すぐに死んで終わりだろう)。
人間のような、つい最近言葉を使えるようになった生きものでさえ、洗濯機や冷蔵庫を作っているのだから、(聖書の神とは別の存在が)生物を設計していても不思議ではあるまい。
何にせよ、進化や天地創造の問題と、ひとつの種の中で選別して競争する優生思想はまったく違う。
ゲームの制作者が誰かということと、その作られたゲームをどのように攻略するのか、という問題は次元が違うであろう。