Archive
BABYMETALを見た人が「道重に似ている」という感想を漏らすことがよくある。そして中元すず香について調べて、だんだん実は美人ではないと気づき始めて失望するわけである。その過程で、料理に添えられたパセリだと思っていたMOAMETALとYUIMETALこそ本体のメインディッシュだと気付いた人が、そっちに転ぶのがパターンである。

さて、道重さゆみちゃんと中元すず香の容姿だが、それなりに共通点はあるわけである。

・身長が160センチかそこら
・小顔で全体の等身のバランスが美しい
・髪型の類似
・鼻筋が通っている

sayumimichisige.gif

sumetal.gif


綺麗に映っているところを抜き出すと似ているようにも見えるが、残念なことに実際の顔面偏差値はかなり違いがある。
(なお、この画像の道重さゆみちゃんは25歳時点だから、若い頃ならもっと可愛い)。

また決定的な違いは肩幅の問題で、道重さゆみちゃんは頭の先から足の先まですべてが細長いわけである。中元すず香は両肩からみぞおちまでの逆三角形の骨格がはっきりしており、これは男性美の特徴なのだが、女子としてはマイナスである。ギリシャ時代の彫像のように力が引き絞られた芸術的フォルムなのだが、あくまでこれは男性に求められているわけである。女性はやはり軟体動物のようにナヨナヨしていて、素肌の張りで脂肪の柔らかさを強調するのが望ましい。

日本人の感覚からすると、中元すず香は顔つきに関しても、女子らしい可愛さがない。ローティーンの頃だとまだ女の子らしかったのだが、17歳現在ではさっぱり女の子らしくない。海外でブレイクしたのも、欧米人からすると、中元すず香の骨格は女子として普通であろうし、女の子に見えるのだろう。

メタルというジャンルにしたのも、素顔でアイドルやれる容姿ではないというのも大きいであろう。メタルなら化粧して爛々たる光を照射すれば美人にも見える。アーティストとしても可愛らしさがないから、メタルくらいしかなかったのだろうし、それで売れたのだからかなり僥倖にめぐまれたのである。

中元すず香はたぶんテレビでは扱いづらく、日本人の感覚として可愛いわけではないから容姿も褒めづらく、温厚でおとなしい気質ではあるが、頭が悪いので、なにかしら失言もありそうである。そもそも中元すず香が道重さゆみちゃんの容姿レベルと聡明さを持っていたら、ブレイクするまでにこれほど時間掛かってないし、女子らしい華奢な体格だったら、あの声量が出るわけがない。

中元すず香はモデルのような等身ではあるし、ある種の超越的な美しさは持っているが、あまりそれを言い表す言葉がない。女の子を褒めるときに使う言葉は、すべて似つかわしくないのである。女子らしいところがないので、イケメンとか男前というしかないが、ステージ上でSU-METALを演じるにはそれが最高に映えるとしても、ステージを降りておとなしい女の子に戻った中元すず香にイケメンイケメン言うのも変だし、性格はいい子なので和田アキ子と同じ枠に入れるわけにもいかず、なんかステージ外での扱いが難しく、本来ならすぐに消える存在であろう。だが、多くの人がゆいもあに取り憑かれて離れられなくなってるので、失速する要因は見あたらない。結局のところ、どうなっても最愛ちゃんという天才的な人物を中心に歴史は編まれていくのである。
https://twitter.com/bao829
abebao.jpg


なんか変なのがまた出てきた。
九歳という設定ならバッシングされないと思ってるんだろうな。
なおかつ茂木健一郎とか安部昭恵が後ろにいる段階で、これは継続的に批判するべき対象なのだろう。

人間の知能は可視化されてないのだけど、安倍首相夫人はたぶん知能指数90くらいだと思う。
なんか人権問題に首をつっこみたがり、変な運動に顔を貸していることが多いわけである。

人間なんて生きても100歳くらいだし、あと50億年くらいすれば太陽が膨張して地球も駄目になるし、これだけの短い期間に行われる愚行など咎めたところで何の益もあるまいが、なんか九歳を表に出しておけば誰も批判しないだろうという、人権主義者の薄ら笑いがむかつくので、相手が何歳であろうと、わたしは批判はしていく。

安倍昭恵と茂木は、この九歳が詰んだら別の子どもを連れてきて楯にするのだろうし、たぶん次から次へとこの手の小学生論客が出てくるのだろう。
本当に優秀な芸能人の子は、中学生からデビューするので、小学生の間なら、同世代と比較されないし誤魔化せるわけである。
はるかぜ(娘)の気の毒な現状を見れば、安倍昭恵みたいな、子どもを楯にするババアを許せるわけがない。
はるかぜのババアと安倍昭恵は知能程度も同じくらいであろう。
馬鹿が考えることは同じなんだなと痛感させられる。
https://twitter.com/_mutoayami_/status/548998031048069120
mutoband.jpg


昨日(12月27日)は赤坂BLITZで武藤彩未(さくら学院初代生徒会長)のライブがあったわけだ。赤坂BLITZは一階のキャパが1150人くらいで、二階は150人くらいだと思う。二階は関係者席として使われていた。一階の客入りはたぶん1000人くらい。ソールドアウトしてないが、スタンディングだとこれくらいの方が余裕があって見やすかった。なんか二階席でSU-METALに似た少女を見かけたのだが、わたしは視力に自信がないので、本人かどうかわからない。ただ、武藤彩未のライブを見に来るアミューズ関係者ということだと、かなり限定されるわけで、他人の空似というよりは、さくら学院二代目生徒会長のSU-METALが見に来ていたと考えた方が自然ではある。

この武藤彩未ライブのバックバンドだが、こういう面子であった。

nishi-ken
大村真司
楠瀬タクヤ

なんか既視感があると思ったら、平野綾ちゃんのバックバンドとかぶっている。

Drums:かどしゅんたろう
Guitar:五十嵐勝人
Piano&Organ:nishi-ken
Bass:黒須克彦

言うまでもなく平野綾ちゃんと五十嵐勝人というギタリストがベッドに入っている写真がブブカに掲載されたわけである。

以前から何となく、武藤彩未(さくら学院初代生徒会長)と平野綾ちゃんは気質が似ているのではないかと思っていたわけである。もちろん違うところは多数あり、歌唱力では平野綾ちゃんも上手いが、武藤彩未はさらに上手いし、容姿では圧倒的に(10代の頃で言えば)平野綾ちゃんである。武藤彩未はすごい社交性があるし、女子と非常に仲がいいし、これだけ社交性のある人間は滅多にいない。平野綾ちゃんはぼっち体質で、女子とまったく仲良くないので男性に依存していた節がある。似てないところがたくさんあるので、どこが似ているのかと言うと何とも言えないのだが、ただ、なんかやたらと努力アピールするところは似ているし、またあまり処女性を感じないのも共通点がある。

たぶん武藤彩未がライブでギターを入れたのは最近のはずである。以前はキーボード中心のアレンジだったと思うのだが、ギターを入れたことで元の無機質なサウンドと変わってグルーヴ感が出ていたように思える。これ自体は楽曲の個性が引き出されてよかった。ハロプロみたいにグループならカラオケでいいけども、ソロでカラオケだと、賑やかさに欠けるので、それこそカラオケボックスで歌ってるような虚しさをかもしだすから、生演奏でバンドということ自体はよいと思う。平野綾ちゃん問題として危惧されるのは、武藤彩未がMCの中で「ギターを練習したい」と言ったことである。平野綾ちゃんも(上達はしなかったが)ギターをやりたがってたし、なんか既視感があるというか、少女がギタリストに食われる軌道に入ってきた気がするのである。もちろん平野綾ちゃんのスペースクラフトと、武藤彩未のアミューズでは事務所のマネジメントの能力が違いすぎるし、仮に武藤彩未にスキャンダルが出ても、わたしはダメージを受けないし、仮にブブカに載ってもわたしは武藤彩未のライブに行くが、とはいえ、アイドルとしてファンになっている人もいるだろうし、何よりも、さくら学院の生徒が真似をし始めたら不安である。アイドルとバックバンドがくっつくというのはビジネスの破綻であり、積み上げてきたすべてを崩壊させるものであるし、平野綾ちゃんという暗澹たる教訓が遺髪と共に残されているので、武藤彩未がロックとか言い出さないことを願うのみである。



http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-11968960436.html

わたしが観察している女子中学生の芸能人の中で、最悪なのがはるかぜであるのは言うまでもないが、最も優秀なのは菊地最愛ちゃん(MOAMETAL)である。最愛ちゃんの母親は芸能界に誘われたことがあったそうである。でも、親に反対されたので、やらなかったという。最愛ちゃんはアミューズにスカウトされてやることになったのだが、ツイッターやLINEは禁止されている。同級生の男子にLINEを聞かれたが、そもそもやってないから教えなかったという、アイドルらしいエピソードも披露している。またツイッターも「いつか自分で責任が取れるようになったら」と言われているそうである。このエントリーだけ読むと、やたらと自分が潔白であることを主張している感じもするし、はるかぜと似た弁解じみた印象も受ける。何かのアリバイ工作のようにも思えるのだが、しかし最愛ちゃんは実物が非常に優秀なので信頼性があるわけである。最愛ちゃんは、ラブライブスクールアイドルフェスティバルで、無課金なのに三枚目のURを引き当てたそうである。9月のライブのMCでURが二枚出たと言っていたのだが、そこからさらに出るのだからすごい。今のところ最愛ちゃんはランク100だそうだ。わたしはランク130なのだが、一万円くらい課金してURが0枚である。「地道に欲張らずちゃんとしていれば神様が見ていてくれるのかな」と書いているが、本当に見ているのだろうという説得力がある。さくら学院の子はたぶん全員がスクフェスをやっている。モーニング娘。の工藤遥はラブライブが好きで布教しようとしているのだが、まったく広まらない。最愛ちゃんが修学旅行に行ったとき、たまたま同じく修学旅行に来ていた工藤遙を見かけたらしいのだが、声をかけ損なったそうである。ハロプロからすれば、BABYMETALは敵でしかないので、ここで接点が出来なかったのは無難だったと思われる。

https://twitter.com/yukatan/status/34148475595661312
harukazeokada.jpg



ところで。わたしは岡田有花にリプを送り続けているがずっと無視されている。岡田有花が「はるかぜちゃんは大人だよ」と褒め称えて提灯記事を書いていたから、今のような状況ができあがったのである。菊地最愛ちゃんのような優秀な子はツイッターとかLINEとか禁止されているのに、子どもを子ども扱いするのが人権侵害であるという進歩的文化人の論法が不思議と存在している。ヤマカンとか岡田有花とか、京都大学の変な人にありがちな発想なのである。なぜ子どもを子ども扱いしてはいけないのか、というのがよくわからないが、90年代に女子高生の大半がいわゆるコギャルに限らずミニスカで、しかも生のパンツを晒して歩いていた時代もあったわけである。少女に処女性を期待するのは人権侵害だったのである。今でもスカートの短さは変わらないが、たいていはスパッツとかを下にはいているはずである。90年代に行くところまで行ったのでモラルの揺り戻しが起こっているのである。21世紀になってインターネットが普及したので、人間の醜さが可視化されたから、もはやここにダイブするのは、はるかぜ親子くらいなのである。ネットが醜いとか批判する馬鹿がいるが、可視化されてようやく人間の実像がわかったらしい。なぜかソドムに子どもを投げ込みたがる大人がいて、ネットがない時代はそれが子ども扱いしないリベラルだと美化されていたのである。ここ最近になってようやく純潔である自由が生じてきて、それが菊地最愛ちゃんのような品性のある少女を生んだのであり、異端者として聖茨の冠をかぶらされていたはずの道重さゆみちゃんがやたらと正統派としてリスペクトされつつ卒業したのも、世界が微妙に変化したことを綴る叙事詩であり、大空位時代を終えるべく聖者が降臨したのは、それを待ちわびている窮民がいたからであるし、神意の顕現なのであろう。朝日新聞に書いてある綺麗事とはまったく違う、酸鼻を極める人間の醜さがネットで開陳されているからこそ、その俗塵に塗れた穢土から超越したアイドルが求められているのである。大衆が新聞に意思統一されて動員される時代ではないから、少女としての在り方も複線化しているが、はるかぜ親子は時代遅れの遺物か、そうでなければマイルドヤンキーとカテゴライズされるのだろうし、どこまで屍山血河を歩んで蹌踉しても地上の楽園に辿り着けないのは明らかである。ヤマカンと岡田有花も同類として救いがたいし、はるかぜ(娘)は気の毒だが、連合赤軍のような極左冒険主義の残党としてわれわれの前に提示されているのだろうから、世界地図から消える前の悪あがきと、その禍殃であろう結末を見守るしかないのであろう。
網野善彦が歴史に新しい視点をもたらすことが出来たのは、たいていの歴史家は歴史に名を刻んだ人物に注目しており、無名人の在り方に関心がないからであろう。歴史に名を残さない人がどのように生きていたかというのは、物語として浪漫がないし、大雑把に捉えて終わってしまう。そもそも無名人というのは、どのように扱えばいいのであろうか。同じ時代に生まれたからと言って十把一絡げにされるのも嫌である。ただ、われわれの生活はかなりインフラに依存しているわけである。90年代の女子高生ブームは携帯電話の普及が原因であるし、そういう意味では「携帯電話を手にした存在」としてあの当時の女子高生は十把一絡げにしてもいいわけである。それから五年かそこら遅れてインターネットの時代になってくると、オピニオンリーダーだった宮台真司はすっかり凋落したのである。女子高生をフィールドワークして「女子高生から聞いた話」を大量に執筆するというスタイルが、ネット時代になって通用しなくなった。「女子高生がこう言っていた」と創作するスタイルは、ネット以前だったから可能だったのである。同時代だから同じライフスタイルだというわけではないが、人間存在はかなりインフラに制約されるし、新しい科学技術で何かが変われば、人間も変わるのである。ネットというインフラにしても、ツイッターのブームで長文はかなり廃れた。この手のツールによって人間も変わるのである。仮に長文で投稿可能なツールが流行れば、また別の文化的な在り方をするであろう。もちろんブログに長文を投稿するのは可能だが、書いても誰も読まないわけであり、読まれなくても書くという人しか書かないわけである。この時代に存在していると、どうしてもツイッターに依存させられやすく、使わないわけにはいかない。そういう意味では、時代について語るのは、インフラについて語った方が適切なのであろう。同時代人がみんな同じことをやっているわけではないが、ネットでさえ多様性は少ない。ネット以前だと、誰も読まない長文をブログに書き続けるようなことは無理だったから、個人は世界に対して完全に口を封じられており、同調圧力がさらに強かったことに疑いはなく、インフラに従わされるのが人間存在だと言ってもいいのである。
自民党大勝により、AO入試がさらに肥大する見込みである。160センチの男が「俺は180センチだ」と言い張るのは見たことがないが、明らかな低偏差値が頭がいいと主張する事例は多々見られるわけである。宇宙が出来てから137億年経過しているとはいえ、人類が文字を使い始めたのは5000年くらい前であるから、このいきなり付け加わった能力はまだ据わり心地が悪いようで、何ら性的魅力にならない。性的魅力に繋がらない能力が突然変異して生き残ったのはずいぶん奇妙に思えるのだが、おそらく女に結婚相手を選ぶ権利がなかったのであろう。

一般入試で一流大学に入れない人間が、「ガリ勉は丸暗記してるだけだ」と難癖を付ける風潮は、戦後のメディアでガス抜きとして行われ続けた。タテマエとして反知性主義をやっていたら、本当に手が付けられないところまで広がったのであり、今さら低偏差値は馬鹿とは言えまい。

丸暗記批判に関してだが、大学の定期試験こそが丸暗記である。なぜ一般入試で入れない人間が、大学を卒業出来るのかと言えば、大学の定期試験は出る問題が決まっていることが多いからである。解答だけ丸暗記してクリアすることが可能なのである。実は大学の一般入試くらいに丸暗記が通用しないテストは少なくて、それとは逆に、大学の定期試験くらいに丸暗記が通用するものはないわけである。丸暗記を批判している偏差値の低い人が、AOで一流大学に潜り込み、定期試験は一夜漬けの丸暗記でやり過ごして卒業していくわけである。暗記が不得意なはずなのに、大学の定期試験の解答だけは丸暗記出来るというずいぶん都合がいい頭脳の持ち主なのである。

独身男性の四割が童貞だとされる世の中だが、コミュ強に女を独占されて、奴隷根性が肉体と精神の隅から隅まで浸透してきた。女にモテないから一流大学の椅子もコミュ強に譲るのである。婦人参政権が社会の隅々まで浸透しているのであり、女子の目線で人間を判断するのが大正義であり、もはや男性目線で社会を見渡すことなど出来ないのだが、安倍政権がAOをさらに拡大すると、二流大学が学業優秀な非モテのたまり場になるという意味不明な現象も起こりうるわけである。人間が知性を感じ取れるように急激に進化するとは思えないし、しばらくはコミュ強がブランド大学にAOで入って、なりすます時代が続くのである。彼らが知性を担っても小保方のようになるのは目に見えているのだし、有力者の子弟をコネで入れたいという思惑もあるだろうし、新自由主義というよりはアッパークラスの固定化に向かっており、朝鮮王朝の両班制度みたいになっている。他人の学習時間を減らそうとするのは安倍晋三のような低脳が思いつきそうなことだが、いくら学問の無意味さが説かれ、虚無に向き合わされるとしても、物理的に勉強するのを妨碍されてるわけではないので、レジスタンスとして続けるしかないのである。
794 :ひとみん*:03/05/09 12:30 ID:71xNYkHq
いい質問なのだ。
ひとみんは生活のために仕事してた部分があるので
仕事選べなかったのね(笑
でも、しっかりサポートする親がいれば
そんなことにはならないと思う。

子役自体は、ものすごくいい思い出だし楽しかったから
こどもたちにも、芝居の楽しさを教えていきたい。
でも、やりたい役より、ギャラで仕事を選ばねばならんような
あんなみじめな思いは絶対させないょ~!!
純粋に芝居やモノづくりの面白さだけを味わってもらえるように
しっかりサポートしようと思っている。
責任持ってこどもは守る。

それに一度落とし穴に落ちてるぶん
どことどこにに落とし穴があるか知っているので
必ず回避できる自信がある。

10年前のはるかぜ(母親)の発言を読むと、人間は懲りない生き物であり、ただひたすら力の意志に基づいて生きているのだと痛感させられる。ここ最近の若者であれば、空海の書物を紐解かずとも、ごく自然に断念し死を待つ方法を身につけているのだが、やはりババアの世代だと、何が何でも生き延びるという意地汚さが猖獗を極めているのである。そして毒親の親切さという永遠の課題に向き合わされる。毒親は親切なのである。ゴルフの教え魔と同じである。下手くそだから指導者になりたがる問題である。親は子どものプロデューサーとして振る舞うことが出来て、それが子役という職業の問題なのだが、売れないことが確定してもステージママの熱情がひとつも冷めないのだから、これはまさしく毒親の典型である。自分の肉体をもって、この穢土を見渡せば、その生きづらさや耐え難さは身をもってわかるのに、プロデューサー目線になると、あたかも神になったかのような全能感を得てしまうのである。おそらくババアの主観では親切のつもりなのであろうし、あなたのためにやってあげてると主張するのであろうし、この力への意志に満ちたモンスターを眠らせることは出来ないのである。われわれの主体性や決断に容喙してくる他者があれば、自由のために徹底して戦わなければならないが、はるかぜ(娘)は反抗期もないようであり、子どもの頃からの徹底した依存はそう簡単に抜けられまいし、親切な毒親の慈愛に乗っ取られた状態で生きるしかないのである。こっちが頼んだことをやってくれる親切な人は稀であるのに、頼まないことをやってくれる親切な人はたくさんいるのだから、やはりこの世界はディストピアなのである。
1945年以前の日本は暗黒の中世だったという価値観が染みついているが、まずペリーの黒船のところから歴史観がゆがんでいる。ペリーはこの時の航海記を書いているわけだが、その中で何度も、というか100回くらい、日本は教養レベルが高いと繰り返し綴っている。ペリー本人の著作で、日本人の教養豊かな様子がみずみずしく活写されているのに、なぜか日本という遅れた国が、先進国になめられていたというイメージで捉えられている。この問題に関してはペリーの本を読むのがもっとも手っ取り早い。

日本は元々そんなに軍国主義というわけではない。明治から富国強兵とか言っていたけれども、軍国主義に傾斜したのは、1905年に日露戦争に勝った時に、辛勝であることが理解されなかったからであり、新聞が戦意高揚で部数を伸ばすことを学んだからである。賠償金を取り損ねたと政府批判を繰り返し、大衆を煽ったわけである。皮肉にも、政府の御用新聞とも言える「国民新聞」が(今日から見れば妥当な見解である)講和支持の論陣を張っていたので、焼き討ちにあったわけである。当時の朝日新聞は暴動を煽り「警官が発狂」とか見出しを付けていたのだし、この頃から大衆煽動のプロであったわけである。

日露戦争の勝利は、当時の有色人種に多大な感銘を与えたので、アジアの盟主というアイデンティティーを得るのも可能だったのだが、あくまで脱亜入欧であったし、アジアを蔑む路線にいったから、その後の八紘一宇とか大東亜共栄圏とかあまり説得力がない。

1917年のロシア革命でソビエトが誕生してしまったため、日本が1925年に治安維持法を制定したのは当然といえる。共産主義者を弾圧したのは、妄想でやっていたのではなく、隣国にソビエトがあり、極めて重大な現実的脅威があるからやっていたのである。小林多喜二の拷問死のむごたらしい写真はショッキングだが、これは1933年のことであり、共産主義者を弾圧するのは自然といえる。問題なのは、反共とは別のところでも、言論弾圧が広がったことである。明治新政府が正統性を確保するために、天皇が大元帥陛下として陸海空軍を統帥するということにしていたのだが、明治時代に山県有朋が考え出したことが、昭和天皇の時に毒々しく開花したのである。

外交的には、第一次世界大戦が終わったあたりから日本がだんだん追い込まれるようになり、「日本が馬鹿にされている」という被害者意識を募らせていったのである。一般の日本人がどれだけ心の底から怒っていたのかは不明だが、どうでもいいと公然と言うわけにもいくまいし、天皇と重ね合わせた国体の尊厳に基づいて、主戦論を唱えるしかないのである。日露戦争の時は、かなり慎重に戦略を検討していたのだが、1930年代あたりからは、やけっぱちな高揚感に包まれるようになった。東條英機はアメリカと戦争をしたかったわけではないが、ハル・ノートの要求に応じて中国から撤退するとか出来るわけがないので、開戦するしかなかったのである。軍部の中では、2.26事件の失敗を契機に皇道派が失脚しており、東條英機が首相になったのも、彼が統制派だったからなのだが、統制派だから天皇軽視というわけでもなく、天皇の尊厳は豚のように太る一方だったのである。

また一億総玉砕とか、ああいう狂った発想に関してだが、第一次世界大戦から総力戦の時代になったのも大きい。国家総動員とか言ってたのは、戦争そのものが総力戦となったからである。それに東京大空襲や、広島・長崎の原爆こそが、戦闘員と非戦闘員の区別など、アメリカもしていないことの証明である。何にせよ、1945年以前がずっと暗黒だったという理解は間違いである。本当の意味で、総力戦で玉砕するというムードに陥っていたのは、日米開戦の1941年から1945年までの四年間であろうし、特に末期の一年くらいではなかろうか。あの当時の状況で平和主義というのはあり得ないので、軍事行動を準備するのは当然だが、戦意のコントロールに失敗したのである。戦艦大和など、まったく役に立たず、最後は沖縄で特攻し3000人と共に轟沈したのも、日露戦争でバルチック艦隊を破った成功体験が招いた悲劇なのである。成功して知識が増えるのではなく、反知性主義が跋扈するのだから、人間が等しく死ぬのにも理由があるのだろう。なぜか人間は成功すると思考停止に陥るらしいのである。
われわれの感覚は、決して真理ではあるまい。宇宙の真理に触れることは出来ず、われわれは感覚という人間的真実に付き合わされているわけである。この感覚というものが厄介なのは、スイッチを切りたくても切れないことである。餓死は悲惨だと思われているが、これも空腹の辛さが用意されているからである。空腹感という余計なものがなければ、ダイエットが簡単にできるし、また餓死による自殺も簡単である。感覚のスイッチさえ切れるのであれば、人生の耐え難さは軽減するであろうし、いったい、この苦しみの多さは何なのかという問題である。どうせ死んで無になるのに、苦しみから逃れるために、多大な労苦を強いられているわけである。苦しみを減らすために苦労するというわけのわからないループである。もちろん個人個人は死んで無になるので、生きている間に掻き集めた戦利品など雲散霧消するし、どれだけ苦しもうとも、その苦役から解放されるのだが、われわれと別人ではあれど、似たような個体が飽きることなく繁殖して次々と湧いてくるのだから、この悲劇に終わりはないのである。現象世界は人間的真実でしかないし、決して宇宙の真理ではなく、そもそも三次元空間がすべてのはずがない。宇宙の外側まで考えると、人間が認識している三次元の世界は人間的真実でしかなく、この現象とか感覚の世界は忌ま忌ましい桎梏なのである。理屈を駆使して幻想だと断じるのは容易いのだが、なにしろ苦痛のスイッチが切れないので、いくらこのディストピアが迷妄だと断じても、苦しみの真実性は否定しがたい。苦痛に鞭打たれて現実に強制参加させられていて、その現実とやらが、宇宙の真理ではなく、人間的な現象世界でしかないという絶望であり、この穢土で生命が繁殖し、その生命としての体験をして死んでいくだけで、宇宙の真理に触れることすら出来ない。苦しみとは、生命維持のための警報であり、喉が渇いたら際限なく警鐘を打ち鳴らす仕組みがなければ容易く死んでしまうが、こういう渇望に左右されて生き延びてもどうせ死ぬので、あらゆる苦しみや風雪に耐えることなく、あっさり白旗を上げて死んだ方がいいという問題である。苦痛というのは「生きろ!生きろ!」とわれわれを叱咤するのだが、どうせ寿命で殺してくれるのだから、なんか懲役を終える前に死んだら困るとでも言いたげな、欺瞞に満ちた親切であると言わざるを得ない。新自由主義によって、人類や民族が共通の物語を生きているという幻想も絶たれたのであるし、個人個人が勝手に生きて勝手に死ぬ自由だけが横たわっており、ここまで断絶されたとなると、人類の歴史性に恭しく一礼する必要はあるまいし、すべての富を手にした泥棒貴族を除いて、現世に存在している意味など寸毫も認められないと断じていいのである。これに生き抜く価値があると言い張るのは奴隷商人くらいなのである。
進化論で生命のすべてが説明されたという誤解があるのだが、進化論が説明しているのはゲームのルールだけである。なんでこのゲームをやってるのか説明してないし、そもそもゲームの元となる最初の細胞が作られた経緯についてはまったく説明出来ないのである。この地球上に生命は一種類しかない。すべてDNAの遺伝情報で作られている。つまり、DNAとは別の手法で記述されて存在している生命はないのである。地球上に生命は一度しか誕生しなかったか、もしくは、その一度以外は、誕生しても痕跡すら残さずに死んだか、そういうことである。遺伝情報をもっていて繁殖していくという、ずいぶん都合のいい最初の細胞がどうやって出来たのかというのが根源的な疑問であり、いくら単細胞とはいえ、実はかなり高度であるし、これだけは自然淘汰理論ではまったく説明できない。ドーキンスが「利己的な遺伝子」という言葉を使うのも、最初の細胞についてまったく説明出来ないことの誤魔化しである。

また突然変異が伝わるというのも、なんか怪しい。たとえば一人の男が突然変異で超人的な力を身につけたとする。それが遺伝するとして、その突然変異が一回のみなら、新しい人類は、すべてがその男の子孫ということになるわけである。既存の人類が淘汰されるのかチンパンジーのように生き残るのか知らないが、ともかく変な話であり、理解しがたいのである。わたしだけが突然変異した超人として、道重さゆみちゃんとか道重さゆみちゃんとかいろんな女を好きなだけ抱けるならいいのだが、なんか実は同時多発的に突然変異が起こるような力学が働いているのが実際のところかもしれないわけである。これは今のところ誰も証明していないし、アインシュタインが理論的な裏付けを持って「重力で光は曲がる」と予言したような科学的な論証はまったくない。だが、20万年前のミトコンドリア・イヴの後からもいろいろと進化しているであろうし、実際のところ人類が文字を使い始めたのは5000年くらい前であるから、どうも釈然としないのだが、バイオテクノロジーの発達を考えれば、いずれ答えは出されるであろう。

最初の細胞を神が創造していようとも、われわれが繁殖し続けている有象無象だということに変わりはない。人間とて、出来映えの善し悪しで淘汰されているだけで、要は同じなのである。たとえば浩宮と秋篠宮の容姿の格差を考えて貰いたい。同じ両親でもあれだけ違うのである。精子というのは、対になっている染色体のどちらか片方で作られるため840万通りある。卵子も同様で840万通りあるのである。つまり両親の遺伝子を全部混ぜているのではなくて、簡単に言えば、精子と卵子を作るときに、遺伝子の半分がカットされているのである。だから兄弟で容姿レベルが全然違うことも起こりうる。たまたま、そういう偶然でいろいろ格差が出来て、選ばれたり選ばれなかったりして次から次へと繁殖が続き、それぞれの個体が主体性を持つのである。ひとつひとつの個体が中枢神経を持った主人公であるという愚にも付かない在り方をしており、その微妙なスペックの差によって選別され血にまみれたドラマが生まれていくのである。男性であれば、一日に1億個近くの精子を作り続けている。そして運悪く卵子と結びつき受胎してしまえば、また人類に、仲の悪い兄弟が一人加わるのである。あなた方の心は魂などと呼べない中枢神経という怪物であるから、妊婦が赤子をひねり出すたびに、主体性の悲劇がひとつ増えるのである。あと50億年くらいで太陽が膨張して地球は滅亡するので、病臥によって根を張った褥瘡の痛みも、積み重ねた罪障も、すべて無に消えてくれるのであろうが、そこに至るまで、われわれと似たような、しかし別人である生命体が、その生まれた時代の狂気に感染し苦しみ続けていくのである。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング