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なんで生きてるのかわからない、という疑問がつきまとうわけである。これは人類が文明を開いてから、ずっと思い悩んでいたことである。永遠に生きてるならともかく、どうせ死ぬので、なぜ苦しい人生を生きているのか皆目見当が付かないわけである。死んだ後に天国に行くというファンタジーもあるのだが、ごく普通に考えて、死んだら完全無欠な無になるであろうし、破壊するために作り続けるというループが無意味すぎる。

とはいえ、「これが意味です」と絶対的に与えられていても、これはすごい困るのである。絶対的な神が現れて、聖像を彫りなさいと言われたら、それが絶対的な目的であるのだし、ただひたすら聖像を彫るしかないのである。これは人間の主体性の死である。何も説明されず、箍が外れたような放置プレイをされているからこそ、何かしら意義らしきものを探すしかないのである。この説明の欠落ゆえに、人生の無意味さに逢着するのも致し方あるまい。絶対神に「これが意味」と言われたら、われわれはもはや手足でしかなくなるし、自由意志などそこには存在しない。

生きる意味というのは明確には決まっておらず、このディストピアの中で、使えそうなものを手当たり次第掻き集めて、それで分業的に世界を構成し、妄想めいた価値観を衝突させながら、それなりの運命性を得ていくものなのである。この宇宙や自然に向き合えば、偉大なる設計者の存在を感じずにはいられまいし、それを篝火としながら、真実を求め、その存在証明に成功するかどうかは人それぞれだが、どちらにせよ最終的な答えはわからず何となく死んでいくのである。銀食器に煌めくような色合いで盛りつけられた奢侈な御馳走を前に、道重さゆみちゃんと優雅な午餐を楽しもうが、大衆酒場で蜷局を巻いて、食品添加物でクズ肉をつなげたサイコロステーキを安酒で流し込もうが、個人の魂は完全にデリートされる。道重さゆみちゃんの膣内で射精する彼氏も、死んだら無になり、その喜びや幸福も無に帰するのだと考えると、意外と世の中平等という気がしてくるのである。この彼氏が「生きる意味はあった」と言うのは自由だが、それは道重さゆみちゃんという最高の女性とセックスできた喜びの表現でしかあるまいし、本当に哲学的に人類の生存する理由を見いだしたわけではあるまい。意味という単語の差し示す範囲が広いから、混乱があるのである。生きててよかったというのと、宇宙の真理に到達したというのを混同してはならない。ああ、もちろん宇宙の真理はブラックボックスになっているので、決してわからないし、だから、道重さゆみちゃんとセックスしている彼氏の幸福の実感に「意味」という言葉を当てはめるのも通俗的には適切であろうし、この宇宙の9割以上を包んでいる暗黒物質の謎を解き明かす必要はない。何にせよ、どれだけ人生で幸福を集めても、死んだら一欠片の思念も残らないほどに焼き尽くされるので、短い人生で体験する塗炭の苦しみなど、ちょっとした驟雨のようなものである。金閣寺の主人公が最後に金閣と心中しようとして最上階の究竟頂の扉を叩く。そこは金箔に包まれた超越的な煌めきを持つ部屋である。だが、どんなに叩いても扉は開かない。主人公は心中を諦めて、脱兎のごとく駆け出し、一息ついて煙草を取り出し、紫煙をくゆらしながら「生きよう」と思うのである。なにが「生きよう」なのかさっぱりわからないが、この空疎な決意と共に蹌踉していくのが、大概の人間に与えられた状況なのである。この不可知性とニヒリズムの極地こそが、まさに根拠のない意味をわれわれに作らせるのである。これこそが自由なのである。
なぜ岡田斗司夫があれだけたくさんの女とやれるのかと考えてみたのだが、女に対して真剣でないというのが最大の理由だと思うのである。美青年ならいいが、そうではない男性から真剣に愛を告白されるとか、女からすれば恐いはずである。真剣に愛すれば愛するほど気持ち悪がられるという問題である。道重さゆみちゃんの横浜アリーナでの卒業ライブの最後のMCで「さゆみのファンは変な人が多いんですよ」と言われ、それ以降完全に消息を絶ったわけである。やはり道重さゆみちゃんを人類史最高の女性と考える姿勢こそが、裏目に出ているのである。人を愛する真剣さなど、ストーカーと紙一重であるし、この真剣さこそが、最も克服するべき感情なのである。考えたら岡田斗司夫と似たような立ち位置の田中康夫も柔らかいフェミニストであるし、遊びとして女を愛玩しているという姿勢が女を惹きつけているのである。岡田斗司夫も田中康夫も、決して女を真剣に愛さないので、この手軽な感じが好まれるし、見てくれが悪くても気持ち悪いと言われないのである。われわれはこれに学ばなければならない。道重さゆみちゃんを崇拝すれば崇拝するほど気持ち悪いとか変な人と言われて距離が遠くなるのだから、まんこが付いたポケモンくらいに考えておくことが必要である。そもそも女性を崇拝するのはフェミニズムへの反逆行為であるし、われわれが道重さゆみちゃんの聡明さを褒め称えるのは、他の女が馬鹿であると言いたいのであるし、根底に脈打っているのは処女崇拝であるから、われわれのパターナリズムに反しないところが好ましいのであろうし、どこかしら支配欲があるのである。それに比べたら、岡田斗司夫や田中康夫は、女が自由に股を開く権利を認めているのであり、理想にそぐわないという理由で女を難詰することなどないであろうし、後腐れのない性行為が出来るのだから、女から見てかなり居心地がいいはずなのである。道重さゆみちゃんを崇拝するのは、2.26事件の青年将校のような身勝手さだったのである。思い詰めた磯部浅一から崇拝されても気持ち悪いだけであり、世界恐慌の重力で鬱屈した大戦前夜の世界で、絶え間なく降り積もる雪を血で染めたのは、他者への愛ではなく、自らが救われたかったのである。皇道派と統制派の対立の中で動揺する重臣たちの前に、昭和天皇が自ら青年将校を討伐するつもりで軍服で姿を現したのは、あまりにも身勝手な愛への怒りに他ならない。道重さゆみちゃんが隣にいたらこの穢土が地上の楽園に変貌するであろうという厚かましい願望が正体であり、窮民が聖者の奇跡を渇望しているだけであるから、溺れてもがくよりは、素直に溺死体として浮かんだ方が、妥当な立ち位置に帰れるのであろう。岡田斗司夫は女を真剣に愛してないのだから、これは人間として普通の接し方をしているのである。人生観の是非はともかく、そこが問題の焦点なのである。
ひとは自分の主体性が絶対だと思っているが、おまえら人類70億人はどう考えても量産された存在である。
自分だけが選ばれた存在であるという錯覚を排するなら、同じような量産的人間と闘争しているのが世界である。
たぶん他者が敵であるのが肝要なのである。
他者が敵であるからこそ、一人遊びに陥ることなく続いていくのである。
人間なんて量産的であり、誤差のような違いしかないのだが、これを同一、もしくはいくらでも譲歩可能な仲間と見なすと世界は成り立たない。
共産主義は、人間が量産的存在だから簡単に仲間になれるという安直な思想であろう。
ひとが誰かと共闘するとしても、仮想敵がいるのである。
共産主義者だって、実のところ資本主義に対する「共闘」なのである。
共闘なら誰だってやっているし、それこそが世界の本質なのである。
世界は人為的に作られたものだが、自分で○○と決めたから○○であるというトートロジーではない。
このようなトートロジーを回避するのが他者なのである。
天皇が天皇であるという問題に関して、これが一人遊びだったら空想と同じなので、その設定を変更してもいいわけである。
天皇だから天皇であるというトートロジーは、他者性や世界性や歴史性が入った上での「現実」なのである。
わたしが決めたならわたしひとりの思いつきで撤回できてしまうが、他者性というフィールドで決まったトートロジーは撤回できず、天皇だから天皇というのは、空想ではなく、撤回不能の現実となるのである。
わたしが「天皇制をやめよう」と言ったら誰もが賛成してくれるなら、それは一人遊びのトートロジーとなるが、そう簡単に他者の考えを変えられないからこそ、夜に見ている辻褄の合わない夢のような混沌には陥らず、動かし難い現実が成立する。
人間の頭の中は、自分の肉体の欲望や配慮で一杯なわけであるが、精神と肉体は別であり、人間は精神体だけで存在できるという宗教的な考えがあるわけである。
肉体の桎梏から解き放たれれば、精神体として永遠の存在になれるらしい。
性欲や食欲については言うまでもないので筆を省くが、肉体がなければ不安も必要がないと思われる。
不安とは、自らの人生の安定感についての心配であり、精神体なら、そんなものを顧慮する必要はないわけである。
精神世界には、仕事をクビになるとか、借金苦はないらしく、要するに、自分を不安にさせる脅威がないらしい。
精神体になっても攻撃されうるなら、それを心配し不安になる感情は必要であろうが、肉体が無くなることで無敵になるなら、不安の感情など必要がないように思われる。
精神体を維持するのに、なんら食料や金の心配をする必要がないらしい。
どうやら精神体の維持コストは0らしく、それで永遠らしいのである。
この問題が重要なのは、仮に精神体になっても、食い物や金の心配をしないといけないのなら、肉体に囚われているのと同じであり、肉体から離脱するという宗教的な発想がすべて無意味になるということである。
ひとびとが宗教にすがるのは、肉体がもたらす苦痛や不安から逃れるためである。
肉体が無くなっても、あちこち痛んだり、精神を維持するために金の心配をするのでは、肉体から離脱する意味がない。
宗教家は魂の永遠性を気軽に言うが、精神の維持に食い物や金が必要ないと、なぜ言い切れるのであろう。
また肉体が無くなるのに天国で美人とセックス出来るとかわけがわからない。
人間が妥協したがらないのは、他人への見栄とか面子もあるだろうが、それ以上に、自分が変わってしまうことである。
われわれの自我は欲望の形式である。
いずれ達成したときに歓喜するために待機しているのである。
これが厄介で、たいていは宿願が果たされることなく、そのまま死んでいくのである。
ではなぜわれわれは悲願を抱え続けるのであろうかというと、喜びをMAXにしたいからであろう。
なんか自分が狙ってないポジションが転がり込んできても、あまりうれしくないような気がするのである。
ひょんなことから歌手として認められるのと、ずっとそれを夢見てきて、とうとう夢を果たすというのでは違うはずである。
人生で妥協するというのは、悲願を手放すことである。
悲願を果たした時に歓喜の絶頂に達することを放棄することである。
かなり時間が経過して、すっかり昔の夢など忘れた頃、ひょんなことから夢が叶うとか、そういうのはあまり望んでないのである。
これは思いこみの部分も大きいであろうし、もしくは夢が達成した瞬間の歓喜にこだわりすぎた発想とも言える。
映画ならそういうドラマは必要であろうし、苦難の末に達成する物語性が求められるが、現実の場合、歌手になりたくもない人がたまたま歌手としてスターになれたらそれでも一応は嬉しいのではなかろうか。
もちろん歌手ということで言えば、苦労人がようやく大きなステージに立って夢を果たしたという物語性に観客も感動するであろうし、そのドラマ性も芸能界の仕組みのひとつなのだが、歌手というのは喩えとして言っているわけである。
他のどのような夢であれ、なんか妥協したり和解したりすると、そこでドラマ性が壊れてしまうという話であり、そのドラマ性がそんなに重要かという話である。
もしくは人生に妥協したり和解した段階でドラマが腰砕けになり、別の人間になってしまうという不安は虚妄なのか、という問題である。
モーニング娘。は道重さゆみちゃんが卒業した直後の握手会がガラガラと話題になっていたが、その後はわりと回復しており、動員はさほど問題がないように思える。
増えたわけでもないだろうが、普通にチケットも捌けているようだし、無難なところではなかろうか。

その中で、なぜかここ数日鞘師里保が病んでいたようである。
イメチェンするかどうかで悩んでいると書いてあるが、それが本当の理由というわけでもあるまい。
生理なのかもしれないが、妙に情緒不安定になっていたようだ。

とりあえず、この三日間はこういうエントリーをしていたのである。

http://ameblo.jp/morningmusume-9ki/theme3-10059757602.html
2015-01-14 23:14:57
テーマ:鞘師里保

たくさんのコメントありがとうございます!!

余計悩んじゃったので、
ちゃんと決心がつかないうちは
そのままで行こうと思います!笑

意思の弱いのに、
変にイメチェンするのは
たくさん意見頂いたのに失礼だ( ̄ー ̄)

今、テンションおかしいです笑
自覚してます笑
それでは!!



http://ameblo.jp/morningmusume-9ki/entry-11977675404.html
2015-01-15 23:01:04
テーマ:鞘師里保

実は、イメチェンの話した時に
たっくさんコメントくださっていて

こんなにもたくさん、
私の相談にのってくれるひとがいるんだって嬉しくなって
1人で泣いてました、鞘師里保です笑

ブログのコメントは
いつも読ませて頂いてますが、

本当に!
最近、誰も私の事見てくれてなかったら
どうしようって思ったりすることもあって、、笑

本当に本当にありがとうございますm(__)m
元気でました(*^^*)!



http://ameblo.jp/morningmusume-9ki/entry-11978055743.html
2015-01-16 23:00:27
テーマ:鞘師里保

夢でも見ているのかという気持ちです。
これは現実なのかなって!

怒られてもおかしくないくらい
甘えたようなブログを書いちゃったなって
昨日、後から見返して思ったので
覚悟してたんですけど、

いざ見た時にコメントが優しさで溢れかえっていて、また目から汗が、、笑

本当にありがとうございますm(__)m
もちろん、コメントしなくたって
見てくださってる方がいるのは
知っています(*^^*)!!

なに弱気になってるんだよ!ってね笑
でも大丈夫です!これまで以上に頑張れます!!

なんか自信が湧いてきたというか、
レベルアップして強くなった感じがするというか、
また変な事を言い出しましたが、
今はそんな気持ちです!
取り乱してしまってすみません。。笑
ご迷惑おかけしました。m(__)m



どうなのであろうか。大丈夫ではないのに大丈夫だと言い張っている状態なのか、それとも本当に突然回復するような奇跡が起こったのかという問題である。この重苦しい人生の曇天が一気に晴れ渡ることはない。死ぬまで長患いするのが、われわれの生命の本質であり、どうせ無に帰るのに、この泥の河を流されながら、なぜもがいて限界まで生きようとするのか至って不明なのだが、答えを教えられることはない。「夢でも見ているのかという気持ちです。これは現実なのかなって!」というのは、いわゆる空きれいの状態なのであろう。この類の苦しみが癒えることはなく、道重さゆみちゃんとセックスできるとか、そういう事でもない限り、この倦怠感と無常観がぬぐい去られることなど無い。そう言えば、道重さゆみちゃんは鞘師里保をずっと性的な目線で見ていたわけだが、今でも鞘師のブログは確実にチェックしているはずである。やはり弱ってる女は狙いやすいし、性的衝動に突き動かされて鞘師の部屋に赴き、「やらせろ」と扉を叩いただろう。根暗な鞘師が扉を開いたとは思えないが、とはいえ、「夢でも見ているのかという気持ちです。これは現実なのかなって!」という言葉が気になる。黒煙が立ち上り墨で塗りつぶされたような空を見上げて美しいと言ってしまう気が触れた状態なのか、それともこの世でただひとり超越的な世界へとわれわれを誘ってくれる道重さゆみちゃんと寝たのかという問題である。ファンのコメントで癒されたと書いてあるが、そんなので癒されるのならアイドルはみな健全に生きているはずだし、むしろ悪化するだけであろう。モーニング娘。は上下関係があるので、入った年度によって人間関係が分かれるのだが、第十期(石田、飯窪、佐藤、工藤)は道重さゆみちゃんに言及するが、第九期(鞘師、鈴木、生田、譜久村)は言及しない方針らしいので、道重さゆみちゃんと鞘師が寝たのかどうかは判然としない。だが、今回の件に関してははっきりさせて欲しいものである。横浜アリーナでの卒業ライブでは鞘師の唇を奪い「道重さゆみ、とうとうやりました!」というところがクライマックスだったのだが、なんか今回の流れを見るに、今度こそ本当にとうとうやったという気もするのである。
聖徳太子と弘法大師というと、なんか似たようなタイプの偉人と思われているが、実際はまったく違う。
聖徳太子はほぼ架空の人物と言って差し支えない。

「日本書紀」(宮澤豊穂訳)にはこういう風に書かれているわけだが、かなりの部分が作り話であろうと思われる。
厩戸皇子そのものは実在しているはずだが、天皇の息子を作り話で神格化したと考えるのが妥当である。

四月十日に、厩戸豊聡耳皇子を皇太子とされた。そして、摂政として国政をすべて委任された。皇太子は、用明天皇の第二子である。母の皇后は、穴穂部間人皇女(欽明天皇の皇女)と申し上げる。皇后は、皇子をお生みになろうとする日に、ゆっくり宮中を巡行して、諸官司を視察された。馬官に来られたまさにその時、厩の戸口でお苦しみなく、たちまちのうちにお生みになった。皇太子は、生まれてすぐに言葉を話され、優れた智恵がおありであった。成人なさると、一度に十人の訴えを聞いても、間違いなく聞き分けることがおできになり、行く先々のことまで見通された。また、仏教を高麗の僧恵慈に習い、儒教の教典を博士覚哿に学ばれ、すべて習得された。父の天皇(用明天皇)は皇太子を愛されて、宮殿の南の上殿に住まわせられた。それでその御名を称して、上宮厩戸豊聡耳太子と申し上げた。


これに対して弘法大師(空海)は実在の人物であるし、紛れもなく天才である。書道の腕前に関しては、当時の中国でも名前が知れ渡るほどで、かなり評価が高かったことは間違いない。また空海は自分が書いた文章をたくさん残しているが、これがまさに天才としか言いようがない。ここが空海を語る難しさであり、書いてあることがあまりにも高尚すぎて、解説が出来ないのである。そこそこの国語力があれば、漢文の読み下しを読むだけで、その凄さはわかるはずだが、書いてる内容が異次元過ぎるし、空海の漢籍の素養はかなりのものであるので、正確に読みこなすとなると難しく、またわかりやすい現代語訳だと、空海の文章の美しさが削がれてしまうので、なかなか伝えるのが困難である。空海だけ読めば理解できるものではなく、仏教全体の理解が必要となるため、空海が書いた書物に解説を加えるのは、かなり困難なのである。自力でその思想の美しさの断片を楽しめる人にしか伝わらない問題である。もちろん宗教であるから、聖書の内容が史実に反するように、空海の思想だって、本当の宇宙の真理の反映とは言えまいが、ジャック・ラカンのような嘘でたらめではなく、極めて仏教的な真実そのものであり、本物の天才であるのは疑いがないのである。

空海はそこそこ裕福な武家に生まれ、当初は、その当時日本にひとつしかない大学に入る。だが中退してしまう。その親不孝を空海は気に病むが、しかし、俗世間での名利を求めるよりもっと大きなことをするのが本当の孝行であると語るのである。大学中退後の生活はあまりわかっていないが、やがて31歳の時に、唐に渡ることになる。最澄も同じ時に唐に行っているのだが、違う船であり、また特別待遇で短期留学が前提の最澄と、無名の空海では扱いが違うので、この段階では接点がないと思われる。空海は本来なら20年くらい唐にいるはずだったのだが、師が死んだので三年で帰ってきてしまう。これはルール違反であり、かなり問題になったはずだが、なんかいろいろあって嵯峨天皇に気に入られ、それなりの地位を占めることになる。書道家の弘法大師としての印象が強いが、これはあくまで余芸だと考えるべきであるし、あくまで宗教家として書き残したことが本質である。また弘法大師というと人格者としてのイメージがあるかもしれないが、同時代の最澄の方が人格者と呼ぶにふさわしいであろう。空海は常人を超越した領域で生きていたのである。

空海の思想は、この宇宙を大日如来の現象として捉える。すべてが曼荼羅なのである。だから、美や叡智だけで構成されているわけではない。道重さゆみちゃんは釈迦院に属するだろうが、最外院というのもあり、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という迷いの世界が配置されており、仮にダンテの「神曲」のような物語にするなら、はるかぜ親子を愚かな人間の代表として、曼荼羅の最外院に置くべきであろう。道重さゆみちゃんだけを信仰するのではなく、はるかぜ親子の見苦しさも含めて宇宙全体として捉えるのが空海の思想なのである。これは人間観としても優れていると言えるであろう。現世にははるかぜみたいなゴミがたくさんいて、そこから脱出すると、天国には道重さゆみちゃんがたくさんいるという救済思想よりは、道重さゆみちゃんとはるかぜ親子が同じ地球上に生きていて、それこそが曼荼羅たる人類や宇宙の在り方なのであり、大日如来の現れなのだという方が、(救われるかどうかは別として)人間存在の適切なとらえ方なのである。全知全能の神が宇宙を作っているのではない。道重さゆみちゃんのように超越的に煌めく存在から、はるかぜ親子のように見てくれが悪い迷える衆生まで、すべてが大日如来の一部なのである。それぞれの個人が「人間」のひとつの側面を現して存在しているというのは、かなり的確な人間観であろうが、夢も希望もないので、空海は流行らないのである。
はるかぜと中川翔子は、生まれつきのスペックは天と地の差であるのに、なぜか似ているのである。決意表明しかしないタイプなのである。立派な決意だけは表明し、そこから何もしないのである。はるかぜ(娘)は発達障害が疑われるので福祉のサポートを頼った方がいいと思うのだが、中川翔子は父親譲りの美貌や才能や知能に恵まれていたわけである。中川翔子くらいのスペックがあっても、今や鈴木奈々と大差ない凡人になってしまったのだから、家庭環境の恐ろしさ極まれりである。これは物事に取り組む姿勢の問題であり、なかなか難しいのであろうが、もっともらしい決意表明さえしておけば、人をだませてしまうのである。意識の高ささえ見せれば、ひとまず乗り切れる。面接さえ乗り越えれば入学できるというAO時代の象徴なのであろうが、中川翔子は素質がかなり優れているので、化けの皮が剥がれるまでに時間が掛かった。はるかぜは気の毒ながら誤魔化しきれない。ある意味、はるかぜ(娘)は逆の意味で偉人である。黒いキリストである。はるかぜ(娘)が、ババアが代筆するツイッター以外の、実物の人間として、もっともらしく振る舞うスキルがあれば誤魔化せたが、本人が気の毒なことにポンコツな中身を隠しきれないレベルなので、われわれ人類に教訓を与えているのである。考えてみればお仲間のTehuも中川翔子と似たようなタイプなのである。Tehuは合格最低点とはいえ、最難関の灘に入っているので馬鹿ということはあり得ないのだが、決意表明だけした方が効率がいいということに気付いているのである。電通にも事実上内定しているのであるし、いずれ広告代理店が斜陽になるとしても、何十年かは大企業としての体をなしているであろうし、それなりに成功したのである。Tehuとか中川翔子みたいに、元々の能力が高い人間が、なぜ上っ面だけで乗り切ろうとするのか、わたしにはまったく理解できないのだが、なにしろ手軽であるし、決意表明をしてしまうと、それで満足してしまうところがあるのだろう。誰よりも自分自身を騙してしまうのである。人間は意志で出来ているという見方がある。意志が人間を作るという。しかし、決意表明だけなら誰でも出来るのであるし、実現できないことを言ってもいいのであるし、この「意志」がどこまで重要なものか、という問題があるだろう。Tehuとか中川を見てると、中元すず香のほうがまだマシな人間に思える。われわれは超能力者ではないので、他人の内面とか覗くわけにはいかないから、なんか中元は何も頑張ってないように見えるし、中川は如何にも頑張ってそうに見えるのだが、これも面接力の類の問題であろうし、実は中川は発言だけは意欲的だが、本当は意欲も何もない人間ではないかという疑惑が持たれるわけである。意欲が重視される社会であるし、BABYMETALにクールジャパンの予算が一銭も使われてないのは、中元すず香にやる気が見えないからだろうが、中元にやる気がなくても、それで評価を下げなければいけないのか、という問題である。もしくは、自分がどれだけ情熱があるかを演説出来なければ、どのような高いレベルの活動をしても認められないのかという話である。そもそも自分は努力しているとかアピールするのは、天才のやることではあるまいし、本来的に自分の才能が見えている人間であれば、無言のうちに決意はなされているし、天意を受けた者として生きているのだから、「こんなに頑張ってる」といちいち言うわけがないのである。意欲とは天才に対する無駄な抵抗であるし、神に選ばれてないニセモノであるのを隠す行為にも思える。自分はこんなに数学が好きで頑張ってるとアピールする数学者がいたら、たぶん天才ではないのだろう。
安室奈美恵はこの日本社会にとって公害のようなものだったと思うのだが、これはさすがにタブーなのでそういう指摘をするひとはいない。実際、本人は何も考えてなかっただろうし、決して安室奈美恵がコギャルブームを仕掛けたわけではないし、あの当時、大晦日に紅白の裏の日テレで女子高生が野球拳をやる番組が放送されたりしていたのも、団塊世代が安室奈美恵を持ち上げて風紀の紊乱を煽り、乱痴気騒ぎを楽しんだということであろう。決して彼女がフリーセックスを説いて回ったわけではないし、たまたまそういう役割になったのである。安室奈美恵について語るのに困るのは、ある種の沖縄差別に触れてしまうことである。正直なところ、わたしは安室奈美恵に恐怖を抱いている。このIQ90くらいの浅黒い女から、人間の知性の浅薄さを見抜かれている気がするのである。ペリーの航海記によれば黒船で来た頃の琉球はずいぶん日本人からの移民が多かったそうだし、完全に(中国ではなく)日本そのものであると書かれているし、実際のところ沖縄出身者の多くは本土からの移民だと思うのだが、しかし安室奈美恵は本土からの移民ではなさそうな外見なので、その南国の野性的な異人としての容貌も威圧感があり、いろいろ扱いづらい存在だった。まったく思想がないからこそ理屈が通用せず、近代社会のロジックを帰滅させたのである。それが彼女の強さだったのであろうし、反知性主義のシンボルとして、文明を灰燼に帰するほどの強力さを持っていた。近代を超えるポストモダンを招来する少女としてやたらと持ち上げられたのだが、実際のところ教育を受けてないだけというのが実情であろう。ひとびとが安室奈美恵に本当に惹かれていたというよりは、ある種の差別感情による引け目があり持ち上げていた側面もあるはずだ。

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安室奈美恵と中元すず香の違いは難しいところである。すでにBABYMETALはさいたまスーパーアリーナをソールドアウトに出来る状態なのに、なぜ中元は時代の寵児になれないのであろうか。中元も、かなり目付きが鋭いわけであるし、安室と同じくらいの馬鹿である。男から見て、まったく女子としての魅力がないことも共通している。だが、安室が人類に対して送り込まれた刺客であるのに対して、中元は単なる馬鹿だから、畏怖を感じる対象ではないし、また中元は顔つきがチンピラというだけで、アイドルの中では最も性格のいい子である。これは時代性の問題であるのか、安室の異人としての容姿によるのか、それは何とも言えないが、中元は反知性主義というよりは、馬鹿だとこうなってしまうという悪いお手本であるし、もあちゃんとゆいちゃんが非常に優秀であるだけに気の毒な気がしてならない。というか、こうやって書いていて、やはり安室について書くのはかなり難しいと思うのである。21世紀は人権の情報戦の時代であるし、これからますますデリケートになっていく。
われわれがスマホの未来を予見できなかったのは、スマホは外出先で使うと思い込んでいたからである。外出先でネットが出来る道具だと考えていたのだ。もしくは所詮は携帯電話であるから、メールをする程度であろうと考えていたわけである。実際はスマホの時代になったら、メールすら廃れたのである。マイクロソフトがパソコンのOSで未来永劫大儲けすると誰しも思っていたのだが、その予想はあまり正しくなかったわけである。すでにパソコンがなくてもいいくらいの状態になってる。まさかパソコンの優先順位が下がるとは、誰も思わなかった。機能としてはパソコンの方が上であるから、これが最上位に君臨するのは当然であると思われた。パソコンは椅子に座って机に向かうことを前提としている。机と椅子は、限られた空間を仕切って作業させるのには適しているが、決して快適とは言えない。われわれは本当は机に向かってパソコンなどやりたくなかったのである。スマホやタブレットは自由な姿勢での操作を実現する。無論、机と椅子という組み合わせは省スペースの目的も持っており、立派な邸宅にでも住んでなければ、この狭苦しさに甘んじるしかないのだが、これも誰かが新しい使い方を発明するかもしれないのである。今のところはベッドに寝転がってスマホというのが一般的だが、これがなかなか肩痛の大きな原因である。わたしは、巨大なうつぶせ枕で一時期解決したかのように思えたのだが、これも長期的に使ってると普段は感知されないダメージが蓄積されているらしく、膏肓の間に入り込んだ病原菌のようなもので、この疼痛は生涯癒えないであろうし、重篤さが増すばかりである。うつぶせは負担が大きいので、ソファーに座りながら、仰向けで少し足を上げつつタブレットで読書すると、かなり長時間でも疲れが少ないのだが、これもなかなかしっくりくるものがない。要はリクライニングソファーの改良版を作ってくればいいのだが、なんかこれが存在しないのである。山野を跋渉しロシアの冬将軍も厭わず世界の辺境まで探し続ければ存在するのかもしれないが、リクライニングソファーはそこそこ高額だからハズレを引くのはダメージが大きく、また住宅事情の問題もあるであろう。欲しけりゃ自分で作れとか言うんじゃねえぞ。この世界は分業で出来ている。山小屋が欲しいと思ったら、俺が自分で建てないといけないのかよ。チェーンソーで木を切り倒して加工するところから始めろと言うのかよ。ともかくうつぶせはどうやっても肩や首へのダメージが大きいので、リクライニングソファーを改良したものが必要である。だいたいわれわれの肉体は囚人服みたいなものである。死装束ならまだいいが、この血腥く生暖かい肉体で苦しみが尽きるまで嬲られて生きろと言うのなら、少しは待遇改善しろよ。わたしが大日如来について懸想している間に、誰かが座りやすいソファーくらい作っておくと少しは功徳を積めるはずだ。ディスプレイのサイズが大きければ大きいほど素晴らしいという馬鹿がいるが、人間の視野はそんなに広くない。眼球に映っていても、本当にはっきり見えているのは一部分である。七インチのタブレットくらいが、丁度人間がはっきり見える範囲なのである。パソコンなら巨大なディスプレイが使えるというのは、まったく優位性ではない。おまえらはアスペで視野が狭いくせしやがって、やたらと大きなディスプレイを使いたがるし、普段は途轍もなく巨大なカメラを担いで一般の鉄道客に迷惑掛けてるのだから、自閉の恐さは言語に絶する。了見が狭い奴ほど巨大なディスプレイにご満悦であり、実際は何も見えてないのが興味深い。
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