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養老孟司は東大医学部卒で東大教授なわけだが、やはり馬鹿なのである。そもそも解剖学の教授なのに脳研究をしていると世間に錯覚されているのが変だし、また脳について語るのもセンスがない。なぜ脳なのかがわからないし、いくら東大教授でも脳の研究者ではないから、ある意味素人である。せっかく解剖学をやっているのだから、むしろ人体の不思議を考察した方が面白いはずである。東大医学部卒で東大教授になった人間に対して、何者にもなれなかったと評するのも変だが、やはりこいつは正真正銘の学者にはなれなかったのである。大学教授にはなったが、今ひとつその分野で活躍出来なかった人が文化人に流れてくる典型であるし、唯脳論の陳腐さは凄まじい。解剖学者が人間について考えるなら、むしろ脳は外して考察した方がいいと思う。脳に注目が集まっているからこそ、それ以外の人体のパーツに着目した方が、本当は面白かったであろう。だいたい脳こそが世界であるというのは当たり前の話で、もちろんそれは現代医学の最も興味深いテーマなのだが、解剖学者がこれを語っても意味がない。最終的に脳が決定するとしても、だからこそ、身体からのフィードバックの問題が重要である。われわれの肉体は物理的な拘束具のようなものであり、これを遮断して脳だけ動かすということは出来ない。身体から脳を分離して、脳だけ好きなように動かせるなら苦労はないわけで、肉体にがっちりと捕縛された上で脳が動いているからこそ、苦しみが絶えないのである。脳の時代だからこそ、その脳に対して物理的な強制力を発動してくる身体の問題が重要なのである。解剖学者のくせして唯脳論とか言ってしまう段階で養老孟司はセンスがない馬鹿なのであるし、東大教授として文化人コースでいくら稼いでも、こいつの財布が膨らむだけであり、医学への業績なんてまったくない。東大教授だからこそゴミクズなのである。解剖学から人体を読み解いてくれる人を東大教授にしていた方が、人類の叡智に貢献できただろう。研究者として挫折したからこそ文化人墜ちしてくる典型的な事例なのであるし、オールドメディアの時代にはこの手の人間が持て囃されたのだが、社会がネットにシフトしていくほど、こういう愚にも付かない代弁者的な文化人は不要になる。
http://mobile.gungho.jp/maintenance/pad/pua59k0000002ud5.html
「クリスタル・ディフェンダーズ」コラボにおける「曲芸士」のリーダースキルについて、ユーザーの皆様よりたくさんのご意見を頂戴し誠にありがとうございます。
今回のコラボにおける「曲芸士」のリーダースキル実装について、当社の見解を以下にご説明いたします。
パズル&ドラゴンズは先日、ユーザー様のお蔭で3周年を迎えることができました。
当社では、長くプレイしていただいているユーザー様含め、全てのユーザーの皆様に、常に新鮮な気持ちでゲームをお楽しみいただけるよう、新たな要素や遊び方を提供し続けていく必要があると考えております。
今回、その一環として本リーダースキルの実装を決定いたしました。
「曲芸士」のリーダースキルについては、現在のパズドラにおいて、強力な効果を持つものの一つではございますが、リーダースキルの発動や、ステータス・その他要因をチーム編成やモンスター育成、パズル等でカバーする必要があるなど、安定的に使用していくための難度は高く、様々な工夫が必要となってまいります。
また、今後のアップデートや新ダンジョン、新キャラクター等の実装を経て、パズドラでさらに幅広い遊び方ができるようになっていくことも考慮し、ゲームバランスに深刻な影響はないと判断しておりますため、本リーダースキル内容を下方修正することは予定しておりません。
なお、スキルなどの仕様につきましては、他のコラボキャラクターと同様に、他社様よりご意見をいただくこともございますが、総合的なゲームバランスを考慮し当社にて実装内容を決定しておりますこともあわせてご報告させていただきます。
ユーザーの皆様に長くお楽しみいただけるよう、一同、尽力してまいりますので、これからもパズル&ドラゴンズをよろしくお願いいたします。


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パズドラの曲芸士というキャラが強すぎてバランス崩壊という騒ぎになっているわけである。
スクエニとのコラボガチャで出る期間限定キャラなのだが、スクエニがこのパラメータ設定を強要したわけではあるまいし、なぜこんな無惨なやらかしが起こったのかは不明である。
抜け穴を作ってしまったミスではなく、露骨に強すぎるので、スクエニがひそかに罠を仕掛けたのでもないから、理解に苦しむのみである。
スクエニが要求したとしても、ガンホーがそれを呑む理由はないのだが、何かしら複雑な人間関係があるのかもしれない。
この曲芸士の設定を通したスクエニ社員は、パズドラ潰しとして大いなる戦果をあげたと言えるのだろう。
なぜガンホーがここまで強すぎるキャラを認めたのか、責任問題に発展する可能性もある。
ともかく、下方修正はしないと公式に明言されたため、このやたらと強すぎるキャラクターが跋扈していくことになるのである。

熱心なユーザーの間では、今までの育成が台無しにされたという阿鼻叫喚の地獄となっている。
パズドラは他人との対戦で勝ち負けを競うゲームではないので、曲芸士が強すぎて破綻というわけでもない。
このニュースがあまり大きな扱いにならないのも、無課金の間では、この曲芸士がどれだけ強くても、今まで通りマイペースでやればいいと考えているのだろう。
ライトユーザーにとっては、自分が最強でなくても構わないのである。
だが、熱心に極めている人間、つまり多額の課金をしているユーザーほど、すべてが灰燼に帰したという絶望に向き合わされている。
これからは「曲芸士を使えばいい」というだけなので、あらゆる最強議論が成り立たなくなるとも言える。
無課金ユーザーへの配慮あってこそ長続きしてきたゲームではあるが、わざわざ課金ユーザーを潰すこともあるまいし、なんかいろいろと不可思議である。
このところの父親と言えば、親切なおじさんである。何しろ、義務もないのに子どもを扶養して愛してくれるのだから親切なおじさんとしか言いようがない。これに対して、一昔前の父親は、不親切の極みのような存在だったわけである。これがまた不思議である。働かずに酒浸りでギャンブル中毒という場合もあるだろうが、基本的には、労働して子どもを扶養していたわけである。それにもかかわらず、<父>とは不親切を極めたキャラクターであり、摩訶不思議な存在とも言えるのである。つい最近まで結婚しない自由とか子どもを作らない自由はなかったのだし、爺さん婆さんや隣近所から監視され世間体のために生きていたのであり、その世間の掟の強さが「親切なおじさん」というポジションを不可能にしていたのであろうし、妻子に向かって苦々しく「俺が飯を食わせてやっている」と仇敵を見るような目付きをすることもあったのだろう。扶養というのは無償の親切な行いであるのに、それでも、本当は嫌なんだという顔をするのが珍しくなかったはずで、子どもが労働力として計算されていた時代の名残なのかもしれないし、老後の世話を家制度で保証させていたためかもしれないが、この嫌々ながら妻子の面倒を見る感じが、おそらくは権力性の基盤なのである。苦虫を噛みつぶしたように「面倒をみてやっている」と言う父親の顔は徴税官にそっくりであり、税金の取り立てそのものなのである。面倒を見たのだから、それに応じた「税金」を払えというのが暴君的な父親の姿勢なのである。ただで面倒を見ているのではない、ということである。こうやって父親が借金取りだか税金の取り立てだか知らないが、(何を子どもから取り立てるのか不明だが)ともかく強面であったから、その<父>の象徴性がひとびとの心に深く根を張ったのであり、赤の他人である権力者が父親面して人間を支配することが出来たのである。この「ただで面倒を見ているのではない」という父親の凶相が、権力に弱い子どもを育んだ。21世紀において、子どもを扶養するのは(何の見返りもない)無償の親切な行いであると明確になりつつあるから、国家権力に与える影響がどうなるか興味深い。今の世相で「ただで面倒を見るつもりはない」と言い張る暴君的な父親がいるとしたら、どこか時代を間違えているのである。妻や子どもを養うのは何のメリットもなく、ただで面倒を見ているのが実態なのだから、「ただで面倒は見ていない」と徴税官のような顔をするのは意味不明だが、誰かを睥睨し威張り散らしたいという欲求もあるのだろうし、畏怖する窮民から見上げられ、不機嫌な顔をして怒り狂いながら暮らしたいという曲がった欲望もある。暴言を吐いたり暴力を振るうのが楽しいのか疑問だが、権力欲というものは普通の愉しさとはまた別なのである。とはいえ、全体としては、父親が子どもに奴隷根性を植え付ける社会原理は廃れていくと思われるから、権力者が父親のような顔をすることで他人を支配するやり方は通用しなくなるし、自分の父親とは似ても似つかない赤の他人であるオッサンが暴君として立ち現れたら、ひとびとがどうやって対峙していくか興味深いのである。その手のオッサンに逆らうと、自分の父親の面子を潰しているような申し訳なさが生じるからこそ、これまでの人類史を通じて、われわれはずっと支配されていたのだが、暴君が自分の父親にまったく似ておらず、重なる要素が寸毫も認められないとしたらどうであろう。リアルの父親が親切なおじさんになってしまえば、権力者が(赤の他人であるくせして)父親の似姿をして立ち現れるのも不自然になるはずである。
アイドリングが売れない理由は数え切れないほどあるが、ひとつだけ挙げるなら、バカリズムが機能していないからである。なぜバカリズムがアイドリングの相手役に選ばれているかと言えば、さすがにあの見てくれの悪さだとアイドルが相手にしないというだけである。つまり不細工だから安心だと思われているだけで、ずいぶん人を馬鹿にしたキャスティングなのである。アイドルが相手にしないレベルの男として選ばれたのだ。魅力がないというのが最大の理由なのだから、そこに人間的な信頼感は皆無である。

それに対して、森ハヤシ先生とさくら学院は本当の信頼関係があるのである。極めて深い絆で結ばれており、また森先生はさくら学院のファン(父兄)からも絶大な信頼を得ている。森先生はそこそこハンサムだが、たぶん身長165~169くらいだと思うので、イケメン枠ではないし、容姿も平均程度で丁度いい具合である。不細工すぎたりイケメン過ぎると、さくら学院の先生役には似つかわしくない。早稲田大学卒であり、小島よしおと一緒に芸人として活動していたこともあり、話術やユーモアにも長けている。既婚者で娘がいるというのも信頼感を生み出している。森先生の先日の誕生日に、水野由結と菊地最愛が自発的な動機に基づくプレゼントをしたのだが、たぶんバカリズムとアイドリングの関係だと難しいであろう。番組の企画としてのプレゼントならあるかもしれないが、プライベートで貰うことはないはずだ。現役アイドルとして最高の存在であろうYUIMETALとMOAMETALからプライベートで誕生日プレゼントを貰い、それがベビメタやさくら学院のファンから好ましく思われるのは、森先生の人徳ならではである。メンバーチェンジで人気が落ちるのがアイドルグループの常であり、三月末でゆいもあが抜けるのは大きな不安材料ではあるが、森先生がいる限り、さくら学院の同一性は保持されるであろうと思う。

反抗期の多感な少女たちが集う場であるのに、大人と子どもが対峙する殺伐とした空気にならないのは、さくら学院が偏差値の高い、育ちがいい空間だからあり得ることである。読書をしていると何の脈絡もなく「偏差値秀才は人間性が劣っている」という記述があったりするが、あれは政治的な正しさとして言っているだけで、そういう記述をする学者でも、自分の子どもを低偏差値の学校に入れたいとは思うまい。さくら学院と森先生の関係が極めて親密であり、その深い紐帯で結ばれている様子がファンから支持されているのは、育ちのよさがさくら学院の目指しているところであり、森先生が丁度いい具合にフィットするのである。

わたしは超能力者ではないから、本当の裏側を透視出来るわけではないのだし、ゆいもあと森先生が品性下劣な乱交パーティーを開いている可能性だって無いとは言えない。だが、あくまでごく普通に想像する範囲では、さくら学院はアイドルグループの中で最大の信頼感があるのである。上品か下品かというのは、親が金持ちかというのと非常に強い相関があり、貧乏人が努力しても本当の気品を身につけることなど出来ないから、家庭環境の不平等に配慮して、貧乏な方が人間性豊かという嘘をついたりするのだが、実際は偏差値が高い方が品性があり、それがさくら学院なのである。

このところモーニング娘。もOGの不祥事が多すぎるからなのか、ご家庭が裕福だと思われる子が入ってくることがデフォになりつつある。今の13人のメンバーの中で実家が貧乏なのは小田さくらくらいだと思われる。12期などは、羽賀は不明だが、牧野と野中と尾形は明らかに裕福なお嬢様である。人間は歴史に学ぶものであり、わかりきったことでも失敗してみせないと説得力がないのだが、モーニング娘。のOGくらいに、家庭環境の悪さによるトラブルメーカーが不治の病である事例として動かし難い証拠となる人たちはいないわけである。家庭環境でひとを選別するのが望ましいわけではないが、モーニング娘。OGという同時代人を引き合いに出されると、貧乏人がトラブルを起こすのはわかりきっており、やはり育ちのいい方が無難であると意見が一致するのである。

メタルという文化はイギリスの底辺労働者のオジー・オズボーンがバンドメンバーを募集しブラック・サバスを結成したところから始まるのだが、オジーは窃盗で刑務所に入ったことがあるし、初期のメタルはだいたいそんな連中ばかりであるから、抑圧された階層から文化が生み出されることもなくはないが、どちらにせよ貧乏人はトラブルメーカーである。底辺層の文化であるメタルをさくら学院の生徒がやって世界的に評価を受けたというのがなかなか興味深いが、メタラーの悪魔崇拝のゴシックな色合いには、無垢なお姫様こそが生け贄としてふさわしいのである。AKBが同じことをやっても、普段から不景気な面をした連中では悪魔に捧げる価値もなかろうし、背景が暗澹たる地獄絵図だからこそ、ゆいもあの顕現が求められるのであり、毛唐のメタラーが狂喜したのも当然なのである。
NAVERまとめのドメインの強さたるや、グーグルがいかに低劣な検索エンジンであるかを証明しているのである。
ページランクが本当に機能しているのなら、NAVERの中でも人気ページと不人気ページがあるはずで、人気ページに限って上位に出るならいいが、現実問題として、NAVERまとめは何でもかんでも上位に来るわけである。
(もしかするとすべてが不人気ページで、それにも関わらず物量で強いのかもしれないが)。
知恵袋の類も同じで、何でもかんでも上位表示である。
(これまたすべてが不人気ページで、それにも関わらず物量で強いのかもしれないが)。

もはや個人としてドメインを持つのは露骨に不利である。
このあたりはトレンドの問題であるし、曖昧な記憶で言うなら、五年くらい前までは検索するたびにネタフルを筆頭とするAMNグループのブログがあったと思うのだが、最近はほとんど見かけない。
個人、もしくは特定少数で量産するブログは下位に回される。
AMNは大手ブログが徒党を組んで面制圧しているウザさが極まりなく、自己啓発っぽいエントリーが多いのも、その瘴気の悪臭たるや喩えようもなかったのである。

数年後にはNAVERまとめが見る影もなくなっている可能性もあるが、今のところ、何万人何十万人の有象無象に編集させるページこそが勝利するようになっている。
AMNのような特定少数よりは、NAVERまとめのような有象無象のページの方がマシかもしれないし、実際のところ、NAVERまとめの品質改善が出来るなら、有象無象で作り出すページの方が望ましいとも言える。

有象無象という言葉を使っているが、ではAMNは有象無象よりレベルが高いのかというと、それも違うであろう。
ネタフルがNAVERまとめより良質だったということはあるまい。
AMNの事例を考えると、特定少数の大手ブログ連合が上位を占拠するのは、われわれが見うる悪夢の中で最もおぞましいものである。
彼らはあまりにも排他的なギルドを作ろうとしていたのだ。
NAVERであれば誰でも書けるから、NAVERでブログを書くという方法もあり得るわけである。
NAVERまとめがこの世界から消えるのが望ましいが、それは無理なので、いっそあそこで記事を書いてしまうというのも選択肢のひとつだ。
自力で長々と説明文を書いている人はほとんどいないし、他人が書いた記事のパッチワークであるのが大半だが、切り貼りではなく自分で長文を書くのも、裏技や抜け道ではなく、ごく普通に自由である。

NAVERまとめと似たようなサイトが氾濫するとしても、誰でも書けるなら、そこで自分が記事を書けばいいだけとも言える。
AMNという排他的なチームが検索上位を占拠していた暗黒時代に比べたらかなりマシなのである。
NAVERまとめは、実はかなりオープンで民主的な仕組みということも出来る。
NAVERまとめがクソ過ぎると思うなら、まさにそのNAVERまとめという舞台で、自分で良質な記事を書けばいいし、少額の収益も得られる。
NAVERなんかで書きたくないと思うのは自由だが、NAVER側はまったく拒んでいない。
AMNという悪辣な事例を思い返すに、個人のドメインが強すぎると、大手ブログが初期独占による専横を極める危険性が高く、これに比べたらNAVERまとめの方が、誰でも書きたければ書けるし、不満があれば自分がお手本を書いてみせるという選択肢は用意されてるし、アフィ収益ももらえるので、これが上位に固定されているのはさほど絶望的ではない。
われわれはいつでも審判しているのである。
エピソードを聞いて、それに審判を下すというのがわれわれの日常生活である。
たぶんそれがわれわれの生活の基本なのである。
何かしら量刑を思案して、それなりの落としどころを考えるわけである。
罰を与えるという感情なくしては、社会は成り立たない。
もしくは罰がないなら人間は成り立たない。
失敗しても罰がないとしたら、ゲームが成り立たない。
罪への罰にせよ、失敗への罰にせよ、それがないと、何のためにゲームをやってるのかわからないし、「うまくいった」ということさえない。
サッカーというゲームが無く、ただ単にボールを蹴るだけで楽しいかというと、かなり疑問である。
練習試合でさえ、うまくいけば嬉しいし、うまくいかなければ悔しいという感情はそれなりにあるわけである。

罰ではなく報酬を与えることもあるだろうが、報酬にしても、その適切な金額を考えるわけである。
報酬は何でも100万円というわけではあるまい。
この価値判断もよくよく考えると不思議な問題である。
それこそ一日中価値判断をしながら生きているわけであり、エピソードを体験したり、もしくは他人のエピソードを聞くたびに、裁判員として何らかの判断を下しているのである。
報酬と罰の調整で成り立っているのが社会である。

根本的にわれわれは肉体の心配をし続ける人生なのである。
食欲・性欲をはじめとして、病気にならないかとか、いろいろ不安になりつつ、一日中肉体に配慮している。
われわれが肉体を持っているのは、責め苦を味わうということが大半で、拷問器具と言って差し支えあるまい。
これがあるから、損害を与えられれば憤怒するのが当然であり、罰について考えざるを得ない。
肉体の苦痛というのが共通の物差しとなっており、動物と違って他人のエピソードを言葉で知りうるから、これにより法が生まれる。
あれこれニュースを耳にするたびに、その苦痛の量を推し量り、どれだけの刑罰に値するか考えているのである。

犬や猫がどうなのかというと何とも言えないが、何しろ人間以外は他人のエピソードが聞けないのだから、あまり道徳観念は発達しないであろう。
動物には言葉がないので、自分の経験しかないわけである。
動物でも単純な報復はするが、あまり人生を通しての差引勘定はしないと思われる。
そもそも動物だと人生設計という概念がないであろう。
その日暮らしである。
「人生をメチャクチャにされた」というのは動物にはない発想である。
おそらく人間だけが損害という概念があり、不毛たる債権者として、賠償請求をする生き物なのである。
被害者として、この不良債権が回収できるのは稀であり、宅間守に殺されたら池田小に賠償金を払って貰うとか、そういう責任の押しつけくらいしかないのだが、とはいえ、賠償請求を断念しないのが人間なのである。
世の中には公然の秘密というのがたくさんあるわけである。
卑近な例で言えば、誰かがハゲたとして、あんまり「あなたハゲましたね」とは言わない。
みんなが知っているけど、あえて触れないということがある。
インターネットはこのような公然の秘密への配慮を欠いており、ハゲを見つけたら、そいつがどれだけハゲであるか、露骨に言うわけである。
現実社会なら触れないことに、徹底して触れる。
良くも悪くも、それがインターネットなのである。
ハゲというのは喩えであるし、当人に落ち度がないこともあれば、何かしら後ろ暗いスキャンダルの類であることもあるだろう。
われわれがネットで実名を特定されるのを嫌がるのは、どこかハゲているところはないかとあら探しされ、それが発見されたら、永遠に言われることである。
あえてハゲに触れないというエチケットがないどころか、むしろそこに集中砲火を浴びせるのである。

これは2ちゃんねるだけの問題ではない。
そもそもグーグルのサジェスト機能を考えて貰いたい。
有名人の名前で検索すると、たいていは、過去の汚点がサジェストされてくるのである。
現実なら公然の秘密として誰もが口をつぐむ問題が、真っ先に提示されてくるのである。
これは何とも言えない問題である。
過去の汚点に関して、忘れられる権利を主張するのもあるが、当人の落ち度が強い場合はかなり疑問である。
名誉というのは、真偽の問題だけでなく、公然の秘密も孕んでおり、都合の悪いことを消去して胸を張るということもあり得るわけである。
それに知っていても言わないというのが公然の秘密であるから、完全消去というのは間違った対応だと思われる。

このようなハゲにハゲという空間で実名を名乗るとしたら、文化人になりたい欲求を持つ人間だけである。
文化人とはなんぞやというと難しいが、匿名ではなく顔を出すがゆえに、現実と接点があるということなのであろうし、リアルに力があるという幻想をもたらすし、大げさに言えば特異点であり、いろんな意味で著名人という立ち位置である。
これで稼げる人もいるのだから、まったく無駄な冒険というわけでもないのだろう。
日本人の多くはNFLをくわしく知らないし、アメフトのルールを理解している日本人はかなり稀であるが、われわれはNFLのスター選手が来日したら、凄い人として扱う。アメフトのルールを知らず興味が一欠片もないのに、スターだからという理由でチヤホヤするわけである。社会的に認知されているものは「追認」するのが常識である。これがザンビアの片田舎で流行ってるマイナースポーツだったら話は違うが、アメリカで最も人気のあるアメフトのスターなら、知らなくてもすごいと感じる。自分自身がすごいと思わなくても、そんなにアメリカで評価されてるのはすごいですね、と思うわけだし、そう思うのが妥当であろう。有名なベストセラーの著者に会ったら、われわれはその本を読んでいなくても、「凄いですね」と言うだろう。社会的に認められているものは、とりあえず認めないといけない。

われわれの世界の理解は、かなりの部分がこのよくわかってない追認によって成り立っているのである。一度に一冊の本しか読めない貧弱なわれわれの脳みそであるから、情報摂取にも限度がある。かなり碩学の人でも知らないことはある。もしくは専門家の人ほど、その専門を極めるために自分の時間のすべてを投じているのだから、他のことをやる余裕はない。知ったかぶりという言葉があるが、知らないことに謙虚になるとしても、NFLのスターが来たら「すごいですね」と言うしかないのである。知らないのに知ってますというのもよくないが、「自分はNFLに興味がないからおまえはただの一般人と同じだ」と言うわけにもいくまい。

村上隆が日本人から蛇蝎のごとく嫌われているのは、やらおんと似たオーラを感じるからであろう。集合知で築き上げたオタクカルチャーを切り貼りでまとめて金儲け。それこそ強調表現ではなく、まさしくやらおんと同じレベルなのである。オタクカルチャーは集合知で築き上げたものであり、村上隆が発明したわけではないというのを、われわれは海外に発信するべきだし、それこそわれわれ日本人の村上隆への嫌悪感を海外の人に追認して貰わなければならない。海外の人がオタクカルチャーをリスペクトするつもりで村上隆を評価しているとしたら、とんだ筋違いであるし、あくまで集合知で作り上げた文化であることを理解して貰いたいし、そう理解して貰えたら、村上隆個人への評価は世界から完全に消え去るのである。

村上隆が厄介なのは、一応は東京芸術大学で日本画をやっているし、まったくの無能ではないことである。わたしは芸術を評価できる鑑識眼はないが、村上隆はかなり高いレベルの画力の持ち主である。だが画家として認められるのは極めてハードルが高いのであろう。こういうひとが、アートと称して誰も感動しない作品を作ってしまう問題がある。海外で評価されるのも、やはり絵そのものが上手いから誤魔化されてしまうのだろう。村上隆はごく普通にイラストレーターとして食えるだけの画才はあるので、アートでなければ生活できないということはないはずだが、芸術家への未練を持った人間がアートと称して迷惑を掛けるのはどうにかして欲しい。日本人のオタクが見たら誰も感動しない空疎な作品で商売してるのであり、決して日本人は認めていないというのを海外に伝えるべきなのである。そもそも画才のある人が、誇りを持って漫画やアニメの絵を描いてるのがオタクカルチャーであるから、村上隆はいろんな意味で似つかわしくないのである。
道重さゆみちゃんが大日如来であるのは、一神教という文脈の話ではないし、天照大神のような皇祖神というわけでもない。そももそ世界のすべてが大日如来であり、そこらに遊弋する塵芥さえも大日如来ではあるのだが、その本質を開き示すのが道重さゆみちゃんなのである。雲の上から神祇としてわれわれ衆生を眺めていたのではなく、人格を持った人間存在として、俗世間の中でその身を憂い、いわばわれわれと似たような悩みの中で蹌踉し、そこから宇宙の本質に気付く貴種流離譚だったのであり、この穢土で量産され続ける人間という業の深い生き物の中で、ひとつの到達点を見いだしたのである。たいていの人間は自分の中にある仏性に気付かず、俗塵に塗れて生涯を終えるというのに、道重さゆみちゃんは25歳にして悟りを開き、高野山にて弥勒の下生を待つのだから、35歳にして菩提樹の下で悟りを開いた釈迦より早く仏性に気付いたのである。あらゆるものは観測されて現象してこそ存在するのであり、物質など0と1のデータでしかない。観測する生命体がいなければ、天体が見せる星辰の瞬きの煌めきも無いのである。花鳥風月をみやびやかに見せるのはわれわれの心の機能に他ならない。現象が展開されるわれわれの内面世界こそが真実である。死は無であるから、それは重すぎる、もしくは、認識する自分がいなくなるので、一欠片の重みもない。主体は自らの死を記述出来ない。その記述不能な死に向かって人間存在は立ち現れる。荼毘に付されてからどれだけ追善供養されても意味を持たず、次から次へと死んで、また新たな生命が際限なく産み落とされる。森羅万象のすべてに仏性が宿る。悉有仏性説が正しくないなら何も正しくない。とはいえ植物は世界を認識しえない。愛でられるために色づいて花弁を開く姿は、人間が存在を証明しようとする欲求と相似であろうが、いわばわれわれの内臓が動いているのと同じであると言えるし、この世界を現象として認識している人間の主体性こそが仏性の中核なのである。法身は実相である。犬や猫にも現象世界はあるであろうが、悟りを開くだけの思考はあるまい。法然のように念仏さえ唱えれば極楽浄土に行けるという顕教は、悟りから遠いところにある。算数で0点を取った実績がある道重さゆみちゃんは、何の特技もなく、雄弁術を除けばたいていの能力は平均以下なのだから、日南響子のように生きるのが似つかわしいはずなのだが、なぜかあらゆることに心を砕くのを厭わない気質であり、宇宙や人間について考えることに倦むことなく、この苦界の中にある仏性に辿り着いた。類い希な美少女が、法名のない一人の私度僧として、あたかも山野を跋渉するかのように娑婆世界を孤独に生きたのであり、その真実に向き合おうとする姿勢たるや、犬や猫と変わらない日南響子と同じ人間とは思えないのだが、しかし、まさに同じ人間であり、同じ仏性を持っているのであり、悟りを開く思考力の有無だけなのである。大日如来の曼荼羅にはあらゆるものがアンソロジーとして編まれている。快楽と褥を共にして惰眠を貪ろうとも、仏性が目覚めようとする呼び声に気付こうが、最期に待っているのは死であり無であるのだが、開き示し観測されない限り存在していないという生命の本質の中で、ただひたすら真実を目指したのである。阿弥陀如来のようにあらかじめ悟った状態で、森羅万象をあまねく照らすべく降臨したのではなく、道重さゆみちゃんは宇宙の片隅でひとりの衆生として生きた上で、悟りを開いてみせた。盲いた俗物が這い回る大地において、本質に近い人間ほど異端にならなければならない歴史の繰り返しであり、正統たる資格を持つ貴人が、流罪にされ法難を蒙り、あらゆる塗炭の苦しみを嚥下したのである。
愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち (角川選書)
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金持ちの子どもがおっとりしているのは、経験的に知られている。
ADHDが疑われる人間は、どうしても貧困層が多いわけである。
ADHDは決して脳の物理的損傷ではないし、また脳を検査しているわけではないので、脳障害説は仮説といえば仮説なのである。

貧困家庭にトラブルメーカーが多いというのは誰も異論がないと思うのだが、専門家の本でこの問題が呈示されていたので引用しておく。

「愛着崩壊 子どもを愛せない大人たち」(角川選書) 岡田 尊司
自閉症スペクトラムが、社会的に上位の階層に多いのとは対照的に、ADHDは貧困層で有病率が高く、また、その上昇率も高い傾向にある。
先述のアメリカの調査データで、年収が貧困ライン以下の階層では、ADHDの有病率が、二〇〇三年から二〇〇七年の四年間に、九・三パーセントから一一・六パーセントに二五パーセントも増加しているのに対して、年収が貧困ラインの二倍以上ある階層では、七・三パーセントから八・六パーセントと、有病率が低いだけでなくその増加率も小さい。


ADHDはまったく役に立たない気質だが、アスペルガーはプログラマー適性があることが多く、シリコンバレーで働いている人間の一割はアスペルガーと言われるくらいである。
ADHDは特技でないから所得が低く、アスペは職種によっては特技になるので、所得の差が生じるのであろう。

またこの書籍では、発達障害は生まれつきの脳障害だから治らないという問題についても疑問が呈されている。

似たようなケースで、「発達障害」と診断されたものの、もっと短期間で、まったく状態が様変わりすることも珍しくない。
広汎性発達障害が疑われて、対人コミュニケーションがほとんど困難と思われていた人が、豊かな言葉で内面を語ったり、人並み以上の対人スキルを見せたりする。
中には、知能指数が、二〇以上も上がってしまう子もいる。
近年、発達障害がものすごい勢いで増加していると言われている。
約五~六パーセントの子どもがADHDだとも言われる。
生物学的基盤をもつ神経システムの問題が、なぜこれほど短期間に急増しているのだろうか。
それは、本当に「発達障害」と呼んで、片付けられる問題なのだろうか。


かつて(狭義の)自閉症は母親に原因があるとされていたのだが、実際は生まれつきの障害であった。
この問題があるため、発達障害の原因は母親であると言えない背景がある。

虐待も発達障害も、どちらもその後急増し、大きな社会的問題となっていくのだが、愛着障害という診断は、やはり特別に悲惨な境遇の子どもに用いられるのが一般的で、発達障害という診断が、圧倒的に頻繁に使われるようになる。
その背景にあったのは、自閉症の原因をめぐる専門家の間のトラウマである。
かつて自閉症は、養育的な要因によって起こると考えられたため、親たちは自分の育て方のせいだと自責の念にかられ、苦しむことになった。
ところが、その後の研究で、遺伝的な要因が強いということがわかり、養育要因説は濡れ衣だと判明したのである。
そうした経緯があって、この問題に携わる専門家は、親の養育に安易に原因を求めることを厳に慎み、そうすることは、ほとんどタブーとなったのである。
そのため、遺伝的要因で起こるはずの自閉症が、何十倍にも増えるという事態を前にしても、専門家の多くは、その事実をにわかには信じようとせず、むしろ診断上の問題と考えていた。
ADHDについても、遺伝的要因が八割くらいと考えられ、養育環境の影響は小さいとされ、あまり問題にされなかった。


はるかぜ(娘)と有村悠さんは明らかにADHDだと思われる。この二人に共通しているのは、貧困層であり、母親のロボットだということである。母親の理想通りに生きることを義務づけられており、本人が自分の人生を生きることは禁じられている。ADHDが先天的な障害で絶対に治らないと思われているのは、やはり親を変えるわけにはいかないからである。

はるかぜ(娘)がまともな家に養女として引き取られたら、単なる普通の人として育てられるであろう。それによって、ADHDが治る可能性もあるのである。現状だと、はるかぜ(娘)は、才能のある知的な美少女を演じなければならず、それが無理だから、現実のはるかぜ(娘)はぼんやりした状態で過ごしているわけである。凡人として生きることを認められておらず、理想的な人間を演じきるだけの才能もないから、本人は、まるで自分の人生が他人事であるかのように、ぼけっとしているわけだ。

有村悠さんも、思い通りにならないと暴れるため、ADHDが強く疑われているのだが、この「思い通りにならない」というのが重要だと思われる。母親の思い通りにならないと怒られるという環境で過ごしてきたから、思い通りにならないと暴れるのが当然だと考えているのである。艦これのイベントで負けると暴れたり、課金してしまうのも、ゲームで負けたら怒りを鎮めて、ゲームから離れるという常識的な行動が出来ないからである。健常者もゲームで負けたら頭に来るだろうが、「たかがゲーム」だと思い直すわけである。なぜ有村さんは暴れてしまうのだろうと考えるに、生まれつきのADHDというだけでなく、何が何でも思い通りにするという家庭環境が強く影響しているのである。期待したとおりにならないと激高する母親に育てられているのだから、期待通りにならなかったら軌道修正するという健常者の思考法が身についているはずがない。

ADHDとは、思い通りにならないと暴れる人のことだと言っていいと思うのだが、蒼波さんのような金持ちだと、そういう傾向は微塵も見られないわけである。われわれの存在はパラレルワールドがないのが特徴である。時間の中で一回しか生きられず、それ以外のルートはすべて死産に終わることになっている。だから、仮に蒼波さんが極貧家庭に生まれていたらADHDになっていたかもしれないと想像するのは、架空戦記と同じような話であり意味がない。はるかぜ親子のような貧困家庭ほど、思い通りにならないストレスが溜まり、何が何でも思い通りにするという衝動的なパーソナリティーになってしまうのは理不尽ではあるが、これこそが一回限りの現実なのである。どのようなむごたらしい人生であれ、その一回がすべてであり、時間を戻して他のマシなルートに乗り換えることなど出来ない。

はるかぜ(娘)が自分の目で世界を見て自分で判断して、凡人として生きていけば、ADHDが改善する可能性は充分にあるのである。ババアの二周目の人生をやるために、主体性を奪われているから、はるかぜ(娘)はぼんやりした状態で生きているわけだが、ババアの理想を生きるのではなく、自分の人生だという自覚をもって生きることが出来るなら、ぼーっとした状態から脱却し、まともな人間になるのも不可能ではあるまい。

落ちこぼれている問題にしても、ババアの指示を待っている状態を14年間続けているからそうなっているだけで、これを克服すれば知能が向上する可能性さえあるのである。最初にナベプロに入った時は、ババアが完全に駆除されたように思えたのだが、中川翔子のマネージャーがはるかぜを担当するようになってから、元の路線に戻ってしまったので、今後が危惧される。ADHDは脳障害とは限らず、本人が主体性を喪失している状態なのかもしれないし、はるかぜ(娘)は露骨にそういう環境にいるわけである。空気が読めない挙動不審者のように見えるのも、現実世界を理解した上で行動することが禁じられており、ババアのファンタジーに隷従しているから、と考えられる。そもそも生まれつきで言うなら、はるかぜ(娘)より蒼波さんの方が自閉度が強いように思える。蒼波さんが誰からも好かれて、はるかぜにオファーが全くないのは、容姿の問題だけでなく、はるかぜ(娘)はまったく楽しそうでないのである。天然の面白い子というタイプではない。台本を必死で読んでいるだけでまったく楽しそうでないから、共演者が疲れている様子が窺える。なんか考えれば考えるほど、生まれつきは普通の子で、後天的におかしくなっている気がするのである。ババアの二周目の人生という苦役から解放されれば意外と普通の子に戻るかもしれないが、その日が来るかどうかはわからない。
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