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国民主権と憲法には書いてあるが、これはあくまで憲法である。
憲法は法律ではないので、この憲法を元に法律が作られねばならない。
つまり憲法そのものが法律のように動くわけではなく、憲法に基づいて法律が作られてはじめて意味があるのである。

たとえば放送電波は本来は国民のものとも言えるから、タダみたいな使用料でテレビ局が使っているのは不当である気がする。
ではこの放送電波を所有している国民として、その返還をテレビ局に求めることが出来るかというと出来ないのである。

このあたりがネット民主主義の誤謬なのである。
なにかに反対運動を起こせば、国民主権に基づき権益を奪還できると誤解している。
そりゃあテレビ局から放送電波を奪い取れるなら多くの人は署名しますよ。
あれこれ異論が噴出するのが社会運動だが、署名さえすればテレビ局をつぶせるなら、わたしだって細かいことには目をつぶって署名しますよ。
でも放送電波を返せと署名してもなんにも実効性がないのだから、法律の裏付けがないお遊びなのである。
そしてお遊びだから、どうせ変なNPOに利用されるのがオチだし、くだらない署名なんぞ出来るかと思うわけである。

もちろん議員に「法律を作れ」と働きかけることは可能だが、要はそれしか出来ないわけである。
つまり、ネットで意見をまとめたからと言って、それ自体は何の効力もないのである。
間接民主制の世界であり、選挙の時に議員に投票できるというだけの国民主権だから、これではどうにもならない。

同じ考えの奴をたくさん集めれば世の中が動くと思うなら、それは間違いである。
国民主権とか言っても、そんなの法律に反映されてないから、一般市民に権利などないのだよ。
0票の有象無象をたくさん集めてなんになるんだよ。
ネットが普及すれば、同じ考えの人間がたくさん集まって世界が変わるという妄想があったのだが、現実の運動に繋げないと意味がないし、繋げるとなると、また変なのが旗振り役として出てきて、別の形で支配されるわけよ。
https://twitter.com/harukazechan/status/578435672928735232
koumuin.jpg

はるかぜ(娘)は気の毒であるにせよ、このまま駄目になった方が、ステージママの悪辣さの教訓として人類の遺産になるのではないか、と考えていたわけであるが、中川翔子とはるかぜ親子が深い絆で結ばれたことで、それは曖昧に回避されたのである。あの炎上騒動は動物愛護を強硬に主張することでストレス発散したのだろうが、たぶん中川翔子の主観では悲劇のヒロインなのである。中川翔子がアイドルと名乗ったことはないと思うが、やはりある種のアイドル的な立ち位置だったのであり、加齢やスキャンダルでアイドル性などすべて失ったから、すでに足を踏み入れつつある中年女性タレントとしての立ち位置にいろいろと不満を溜めて不定愁訴に陥っていたのだろう。

中川翔子は人気がなくなったとはいえ、テレビ出演は出来るレベルだろうと思われる。そもそも本当に人気があるタレントなんて数えるほどしかいない。はるかぜは中川翔子の妹分としてのポジションを確立したと思われるので、これははるかぜ(母親)がステージママとして成功を収めたということになる。どこからも相手にされなくなっていた親子がナベプロでポジションを得たのだから、それこそ王侯貴族に成り上がったくらいの心境であろう。

炎上したとは言っても、動物愛護を振り回したのであるから、はるかぜ親子の世界観だと正義ということで成り立つし、今度は鯨かイルカになるのだろうが、こうやって他人とぶつかり合うのは個性だというのだろう。はるかぜ周辺が炎上しやすいひとたちの集まりになっているのは、なにかしら朝日新聞的な偽善者として共通点があるのである。他人との衝突を繰り返して、非常識を個性だと言い張る人たちであるから、それに応じた問題を抱えているわけである。

はるかぜ(母親)は加護亜依が好きだったと思うのだが、最近のハロプロではあの系統の問題児はまったく入れていない。モーニング娘。の新規メンバーでも、牧野は北海道に頻繁に家族旅行してるから金持ちだし、野中は帰国子女で英語ペラペラでピアノがかなり上手いらしいので金持ちだと思われるし、尾形もフィギュアスケートやって同志社の附属校に通ってるからたぶん金持ちであろうし、羽賀もたぶん金持ちである。新メンバーの四人すべてがかなり裕福だと想像されるのだから、下流でオーディションを受けた子は親の所得で切り捨てられているのであり、その理不尽さたるや血涙を流すしかないが、やはり劣悪な家庭環境のモーニング娘。OGへの強い反省があるわけである。モーニング娘。OGは表に出ているだけであれだけスキャンダルがあるのだから、直に見ていたアップフロントとしては、貧困家庭の子はもう入れたくないと強く思ったに違いないのである。家庭環境が悪いから芸能界に入るというパターンは、かつてはスタンダードであったが、育ちの悪さの総本山とも言えるハロプロでも完全に方針転換しているのである。育ちの悪い人間をトラブルメーカーとして排除する風潮の是非は何とも言えないが、モーニング娘。という事例は具体例としてとても説得力があり、だからこそハロプロが率先して、金持ちの子どもしか入れないようにしているわけである。

はるかぜ親子はひとまずおとなしくなったように見えるが、どのような緑豊かな森もババアにとっては紅蓮の炎に包むべき材料であろうし、地獄絵図を描くべき画布である。ほとんどの芸能関係者から見放された中で、中川翔子の庇護を得たのだし、何でも出来るであろう。もちろん中川翔子が自腹で家庭教師を雇うなどして教育放棄されているはるかぜ(娘)の面倒を見るならいいのだし、あのババアが暴れるたびに窮民が逃げまどい防空壕に駆け込む悲惨な光景が遠い石版画の過去になり、おだやかで静謐な空間が訪れるなら、それは素晴らしいことである。今のところはるかぜ(娘)は善良な人間であり、独裁者にして最高指導者たるババアに教えられた破滅的な思想が芽吹く前に措置をすれば、加護亜依のような悲惨な物件になることを免れうる可能性もある。だが、あのババアは毒親によって駄目にされた子どもが好きらしいので、その悪魔的な趣味を奪い取るのは難しいであろう。
小泉政権の時にワンフレーズというのが話題になったが、おそらくワンフレーズで伝えるのは、必ずしも愚民向けではなく、インテリ層でも必要なことである。
ワンフレーズで伝わらない思想というのは伝わらないのである。

何かを言い表したい時に、それを表現するワンフレーズがないもどかしさを感じることがある。
ワンフレーズで伝われば簡単なのに、長々と説明しないといけないとなると、伝達が困難であるという問題である。
なにかしら「あれ」について指し示したいのだから、そのワンフレーズは潜在的には存在しうるはずなのである。

極端に言うと、あらゆることはワンフレーズで言えるはずなのである。
それが人間の思考の限界である。
「あれ」と一言で指し示すのが人間の思考であり、一言で言えないなら、それは人間の思考の限界を超えているのだ。

たとえば、わたしはどうも婚前交渉という言葉がしっくり来ない。
これは結婚前のカップルがセックスをすることであるから、たとえば婚約中のカップルでも当てはまってしまう。
結婚する気がさらさらない相手とあれこれセックスする行為を呼ぶ言葉として、婚前交渉はあまり素晴らしくないのである。

ではワンフレーズで現すとして、自分なりに考えてみると、婚前ハーレムという言葉になる。
この言葉がワンフレーズとして最高というわけではないが、結婚する気もない相手とあれこれセックスしておくという状態を、「あれ」とそれなりに指し示せるはずである。
わたしとしてはワンフレーズでカッチリはまるなら何でもいいので、誰かが適切な単語を開発してくれればいいのだが、なぜかしっくりくる単語がないので、自分で考えてみたわけである。

若さを失った女が婚活と言い始める胡散臭さを表現するには「あれ」という一言で足りるはずなので、ワンフレーズが必要なのである。
婚前交渉というのは死語であるし、前述したように、結婚を考えているカップルがセックスすることも含むから、結婚する気が全くないセックスを呼び現すには別の単語が必要である。
赤の他人は本当にどうでもいいわけであり、生きても死んでもどっちでもいいし、どちらかと言えば死んでくれた方がいいが、しかし本当にどうでもいいから、死んでくれなくてもいい。
生きていてもそれはそれで構わないんだ。

そういう赤の他人という生き物に囲まれて、われわれは生きている。

では、なぜその赤の他人に囲まれていて、世界を共有出来るのかと言えば、そいつらにも家族はいて、そこに象徴的な相似性があるからである。

甲さんというどうでもいい赤の他人がいるとして、そいつが殺されたとする。
この時点ではわれわれにとってどうでもいいわけだが、甲さんの家族が登場してくると話は違ってくるのである。
甲さんの父親の憤りや、甲さんの母親の嘆きに接すると、その父親や母親という象徴的な立ち位置から、なんか他人ではないぞという気がしてくる。

もしくは甲さんが働き盛りの男だったら、残された子どもの悲しみでもいいのだが、そういう<父>とか<母>とか<子ども>という象徴的な役割が出てくると、なんか赤の他人の甲さんが他人には思えなくなってくる。

これが天涯孤独の乙さんだったら、乙さんが死んでも誰も出てこないし、乙さんが工事現場で転落死したとしても、「乙さんに家族なんかいないだろうなあ」ということで片付けられてしまう。

甲さんも乙さんも、赤の他人であるはずだし、本当にどうでもいいはずなんだけど、甲さんには家族がいるので、われわれも完全な赤の他人とは思えないのである。

そもそもわれわれの存在自体が、なんらかの役割を演じることで存在しているわけである。
だからこそ、赤の他人の家族は他人ではないのである。
家族の中での役割という位置づけを得た時点で、赤の他人が他人ではない気がしてくる。

天涯孤独の乙さんが死んでもいいのか、と言えば、そりゃあ赤の他人なんだからどうでもいいのである。
甲さんは遺族がいるので、なんか赤の他人ではないような錯覚をしてしまうが、乙さんは天涯孤独であるから、家族関係という形で、われわれと重ね合わせてみることは出来ない。
天涯孤独の人でさえ、乙さんとは重なるところがないのである。
天涯孤独は役割ではないので、何ら象徴性を持たないからである。

何度殺しても足りないような丙さんを殺したとして、丙さんに家族がいたら、何か申し訳ないような気がするわけである。
いや、実際は、家族さえもまとめて殺したいかもしれないが、まあ反省の演技も必要であるから、丙さんの家族に申し訳ないと落涙してみせるわけである。
減刑のために一芝居打っているにしても、それがすべてではないはずで、やはり赤の他人でも、家族という象徴的な構図の中で重ね合わせると、なんか他人ではないような気がしてくるのである。
たぶん潜在的には仇討ちという観念も含めて、自らの家族に復讐される因果応報ということも想像しながら重ね合わせるのだろうが、何かしら「役割」に引き付けて考えると、赤の他人が他人ではないような気がしてくるのだろう。
そう言えば、有村悠さんの問題で、なぜか看過されてきた問題があるのである。この人は、普通の人だと何か都合が悪いのであろうか、ということだ。この問題は深く問われておらず、中二病をこじらせているだけだと考えられてきた。子どもの全能感の延長で生きていると揶揄されるにとどまっている。

この世の中には、まかり間違っても普通の人にはなりたくないという変わり者が確実にいるのである。たとえば三島由紀夫の事例で考えてみよう。三島由紀夫は女好きだと思われるエピソードが皆無であるから、「仮面の告白」で書かれている同性愛者という設定は事実であろう。あの当時だと見合い結婚が普通だし、敗戦後の女余りの時代なら、東大卒の大蔵官僚というのは、いくらでも若くて美人の処女と結婚できたはずだ。それこそ道重さゆみちゃんクラスの女と結婚できても不思議ではない。大蔵官僚として道重さゆみちゃんを妻にすることを目の前にしたら、どのような大芸術家も筆を折って無名のエリート人生を受諾すると思うのだが、こともあろうに三島由紀夫という人間は大蔵省を早々と辞めて、文壇の片隅の無名作家として、「仮面の告白」を書き出したのだから、普通の人生が相当に耐え難かったと思われるし、本当に女に興味はなかったのだろう。のちに結婚はしているし子どももいるが、これはアリバイ工作である。今日ではセクシャルマイノリティーの権利主張が強いし、コンピューターの基礎を作りエニグマを解読したアラン・チューリングのように、同性愛者として逮捕され、青酸カリを塗った林檎を食べて死を遂げるようなことはそう起こるまいが、同性愛者の権利が確保された世界に三島由紀夫が生まれていたら、世界と何となく和解していたのであろう。

さて、有村悠さんが、やたらと普通の人として生きるのを拒むのは、本当は何かしら事情があるのかもしれないのである。それは決して語らないであろうが、何が何でも「普通の人」だけは受け入れられないという強硬な姿勢があるのだから、なにかしらマイナスをプラスに変えずにはいられない、という意志も感じられる。もちろんわれわれにその「マイナス」の正体はさっぱりわからず、想像も付かないので、自意識過剰を極めた人間だと思うわけだし、おそらくそういう理解にとどまるであろう。

卑近な例で言えばTehuなどは、実寸で二メートル近い不細工なわけであり、あれが普通の外見だったら、ああやって悪目立ちすることを目指すまい。これは非常にわかりやすい事例である。あの外見だと、悪目立ちする以外に何もないという思いこみが膨れあがっても不思議ではない。身長二メートルの普通の不細工として、たとえば公務員として平均以上の収入を得ながら女にはもてない人生を送るのは耐え難いのであろう。

やはり「普通の人」であるためには、地味に生きていて満たされることが必要である。地味な人生に強烈な違和感があるからこそ、特別な人生を目指そうとするわけである。普通の人であるからには、つまり不良品ではなく、それなりに標準的な水準にある必要がある。その人並みの人生さえ無理なら、何かしら下克上の願望を膨らませても不思議ではない。出来損ないだからこそ特別な人間を目指すという思考回路があり、これが人格障害の根源なのである。出来損ないであるからには、なにかしら選ばれた存在に違いないとでも思いこまなければ、この人生は耐えがたいものである。

また「普通の人」と考える基準が、実は平均より高いという問題もある。この社会では、特別な障害者でなければ健常者であると扱う。だからたいていは健常者なのだが、実質的なスペックが出来損ないだということはよくある。われわれが「普通の人」という場合、特段の欠陥が無く、全体的に平均程度のスペックが揃っていることを意味しており、なかなかこれがハードルが高い。「健常者」ならたいていの人が当てはまるが「普通の人」は難しい。欠点が見あたらないという部分を強調するなら、「普通の人」のハードルは意外と高いのである。

われわれはこの世界の居心地のよさ、もしくは居心地の悪さからして、なんとなく平凡さに誘導されることもあれば、何が何でも特別な人間にならなければならないという自意識を育てることもあるのである。有村悠さんが純然たる我が儘で特別な人間であろうとしている可能性は高いのだし、われわれが知っている材料ではそう判断するしかないのだが、普通の人だとまずいような事情があるのかもしれないわけである。常識人になろうという努力をするどころか、出来る限り非常識になろうと固執しているのであるし、普通の人になってしまうと極めて都合が悪いらしいので、普通の人間として生きたらまずい事情があるのかと勘ぐりたくもなる。とはいえ、ここはプライバシーの問題であるから、本人が口を閉ざしている限りは単なるわがままで自分が特別だと思いこんでいる状態だと考えるしかないのである。
なぜかわれわれは卑怯と言われるのを嫌がるのだが、その妙な倫理観が邪魔なのである。
悪事は平気なのに卑怯は嫌であるらしい。
たぶん卑怯というのは「人間としてちいさい」ことなのだと思うが、これが嫌であるらしいのである。
悪事を働くとスケールが大きいわけではあるまいが、なんか人間性のスケールという概念があるらしく、卑怯とだけは言われたくないという強い感情があるらしい。
悪事を貴族的な行為と見なす風潮はあり得ても、卑劣な行為だけは卑しいものであるらしい。

なぜ清原と後藤と元木をまとめて殴り倒さないといけないのか。
まとめて殴り倒してこそ正義の味方なのであろうが、そのような非現実的な正義はあり得ないわけである。
正義の味方が現実にいないのは、清原・後藤・元木を全員まとめて倒さないといけないという奇妙な倫理観があるからである。

元木がひとりでいるところを殴れるか、が問題なのである。
いろんな意味でこれは出来ない。
まず元木が一人でいる状態でさえ恐いと思うかもしれない。
それに元木への同情もある。
自分は元木より立派な人間であるから、元木のようなクズには同情しなければならないという自負だ。
元木を殴って解決となると、卑怯な気がするのである。

清原、後藤、元木をまとめて倒さなければならないというヒロイズムこそが、克服するべき問題のはずだ。
倫理を問えば問うほど立派な言動が求められ自縄自縛になり、元木がひとりでいるところを殴るという適切な解決法から遠のくのである。

いじめで有名な小山田圭吾も、自分がリーダーではなく、いじめの方法を提案する役割だったと言っているし、やはり清原的な人間は、元木タイプに媚びられて操縦されるのが好きなのである。
清原が単体でいじめを実行するのは、おそらく気恥ずかしいであろうし、やはり元木におだてられるのが大前提である。
元木や小山田のような類の太鼓持ちキャラを気の毒に思う心情こそが問題なのである。
殴るか殴らないかのどちらかしかない。
元木なんぞ殴るにも値しないと格好つけると清原に殴られるだけである。
3月31日からNHKで中川翔子原案の「おまかせ!みらくるキャット団」というアニメがスタートするのだが、これの声優がはるかぜらしい。
「マミタスの飼い主は、勉強も運動も苦手でネガティブな小学4年女の子・赤川ぽこ美という設定」らしいのだが、この赤川ぽこ美をはるかぜが演じるそうである。
マミタスの飼い主ということなので、たぶんヒロインなのであろう。

中川翔子とはるかぜ親子が意気投合しているというのは、仮説のひとつでしかなかったのだが、ここまで来るとかなり断定的に言っていいだろう。あの炎上騒動で中川翔子が決して謝罪をせず、はるかぜ親子の参戦で被害を拡大させたのだが、中川翔子はこれに感謝しているのである。普通の感覚なら消火活動するであろうに、それを全面戦争に持ち込んだのだから、はるかぜ親子の恐ろしさ極まれりと誰もが思ったはずだが、しかし中川翔子には心強い味方であり、自分を理解してくれる存在だと認識したようである。

はるかぜ(母親)はツイッター代筆がライフワークなのであろうし、娘の名前で自己表現し続ける姿には誰もが唖然としているのだが、しかし、このような母子一体化は中川翔子も同じであろうし、普通なら非常識であることも常識に感じてしまうのであろう。小学生レベルの知能のババアに代筆されてもはるかぜ(娘)は迷惑であろうが、能力がないのにエネルギーだけはマグマのようにあるから、この押しつけがましさは断ち切れまい。親から子に対するストーカーと言ってもいいのだが、これは中川翔子の母子関係と相似であり、これまた然りと了解されるのであろう。

中川翔子は篠田麻里子と似たような状況下にあるのだが、ほとんど使いどころがない篠田麻里子に比べれば、中川翔子の方が、母親はクズであるとしても、父親の中川勝彦の優秀さは引き継いでいるであろうし、まだタレントとしての能力はある。もはや年齢的限界を迎えており、どこからみても紛れもない中年女性なのだが、たぶんテレビ出演は出来るのであろうし、はるかぜはいいポジションを得たとも言える。ひとが炎上しているところにガソリンを持ち込むような真似を繰り返すババアが感謝されるのは不可思議であるとしても、若さを失った中川翔子としてはすべてを焼き尽くしたかったのかもしれないし、死の衝動を具現化したババアだからこそ、中川翔子のアイドル的な物語を完全破壊するにふさわしかったのであろう。これから中川翔子が和田アキ子のポジションに行くのか、サブカルおばさんとして生き延びるのか、そこは判然としないながらも、はるかぜ親子と手を取り合いながら黄泉路を行くのである。
幻想という言葉はあれこれと幅がありミスディレクションを生み出すための罠であるが、美人だけは幻想ではないのである。ブスを美人だと思いこもうとしても無理なのである。今からドブスとセックスするとして、この女が道重さゆみちゃんクラスの美少女だと思いこめるならいいが、それは不可能である。わたしとしては、ドブスが美人に見えるのなら、それで差し支えないし何の不満もない。錯覚でも構わないのである。だが錯覚すら出来ないのだから、この強制力は凄まじく、認識は絶対王制と言うべき拘束具である。断じて変更出来ないようにプロテクトされているのだから、これこそが絶対的な真実だと言わざるを得ない。これは空想が現実に侵犯しないための措置であろうし、人類それぞれが共通の認識を持つためであろう。われわれに内在する美的観念の象徴を求めるならば、道重さゆみちゃんに行き着かざるを得ない。極めて嶮岨で峻厳たる規範である。何日か前に水野由結ちゃんがわたしの夢に出てきて、ゆいちゃんがいれば何でも楽しくなるという桃源郷のようなストーリーの繰り返しだったのだが、こういう夢を見た後は、この凄惨たるディストピアの据わり心地もわずかながらよくなるものである。もはや大きな物語で支えられてはいない世界であり、底なしのアノミー状態に陥り、この悪疫が輪を広げとどまるところを知らないからこそ、せめて寝ている時の夢くらいは自由にしたいものである。だが、そのような自由はまったく与えられていない。この神との戦いの中で、わたしは天国の門をくぐらせろと言っているのではなく、せめて望むがままに幻想くらいは見させろと要求しているのみである。実物の道重さゆみちゃんのまんこを目の前に持ってこいと無理難題をふっかけているわけではない。好きな夢を見れたり、そこらへんのブスが道重さゆみちゃんに見えるように認識を調整したいだけである。このわたしの要求は拒絶されるのみであり、空想では到底物足りない。空想なんぞ鰻の匂いだけ嗅がされているようなものであり、飢餓の苦しさをさらに強め、ひとを悶絶させる堕地獄でしかない。子宮から新しい生命がひねり出されるたびに、それは肉体という拘束具を焼き付けられ穢土に投獄されるのだ。空想と現実の明確な線引きだけは境界線として死守したいというのがデミウルゴスの意志なのである。食品添加物というものがあるわけである。これによってジャンクフードがそれなりの味になっている。ジャンクフードこそが好きという人だって少なくあるまい。それは本物の高級食材の味とは違うであろうが、普通に食べたらまずさの極みのゴミみたいな材料で魅力的なテイストを味覚にもたらすことが出来るのである。この食品添加物が虚妄というわけでもあるまい。高級食材の味だって結局は物質であるし、食品添加物がニセモノというわけでもあるまい。無論、食品添加物の味はニセモノだと言い張るなら、それを止めはしまいが、このような味覚の錬金術の成立を是とする人間がたくさんいるのも確かであり、大多数は経済的な理由もあれど食品添加物の美味を受け入れている。イオウ化合物の漂白剤のプールに漬けたカット野菜の方が見映えもする。美人という問題に関して、食品添加物のような容易な解決法があるのなら、天に向け神を斬ろうとしている剣を鞘に納めてもいいのだが、美人という最大の問題について認識を動かせないからには、やはり現実は絶対的であり幻想の余地など皆無である。漁色家であれ高僧であれ、大芸術家であれ凡才であれ、美人の認識に揺らぎはない。道重さゆみちゃんがチンコを咥えてくれるならキリストだって聖書を燃やすし、釈迦だって煩悩を復活させて涅槃から出てくる。そこらの俗人ではなく、キリストや釈迦であっても、道重さゆみちゃんを抱けるなら、その艶めいた稀覯書を紐解くために鼻の下を伸ばして何でもするわけだから、人類の歴史を通した普遍的な問題なのである。聖者であり魔王であるのが道重さゆみちゃんである。美の圧倒的な排他性。霊威をまとうグルと信奉者の関係性が必ずグロテスクな悲劇に終わる問題。同一の理想を持つからこそ、僚友との内部ゲバルトは猖獗を極める。食品添加物のように、誰でも美人に見える薬があるならこの話はくつがえるが、現状ではこの美的観念たるや絶対的な拘束具としてわれわれの認識を束縛しており、人類の頂点が道重さゆみちゃんであるというのは揺るがない。同性愛者というのがこの世にはいるわけである。おそらくは男性ホルモンか女性ホルモンの分泌の異常だと思われるが、ホモの男性であれば、道重さゆみちゃんではなく、髭面のオッサンにチンコが反応するわけである。もしくは去勢すれば根源を断ち切れるやもしれない。とはいえ、やはり同性愛者でも道重さゆみちゃんを見れば美人だと思うはずだし、宦官が見ても美人だろうと思うので、やはりその認識は絶対なのである。認識は戦争であるのだ。深山幽谷で般若心経を唱える高僧も、俗世の美人の誘惑に耐えられないからこそ、女人禁制の地を選んでいるのである。いずれは科学の発達で食品添加物の類が拡大し、なんでもハッピーに思える時代が来るのであろう。それは遠い未来であるし、認識の普遍性の崩落は世界の同一性を死滅させるであろうから、為政者はその新しい科学を全力で防止するに違いないが、これまた戦争である。われわれが韓国人を嫌う理由はたくさんあるが、やはり韓国だと技術が低いので、下手くそで品性のない整形美人しかできあがらないからである。がらくたの造花としか言いようのない貧相な美しさ。出来損ないの頂点を極めたお手本を見せられたら、美人は天然に限ると確信するしかない。だが日本で整形技術が流行れば、道重さゆみちゃんくらいの美少女が街に溢れる可能性もあり、そこまで完成度が高いのであれば、認識を巡る人間と神の戦争に決着が付き、われわれが凱歌を上げる順番がようやく来ると言ってもいいのである。
文学部不要論が唱えられて久しい。実際に不要であるし減少する一方であるから、地球上から根絶やしにされるかもしれない。確かに産業として役に立たないし、この大衆消費社会で商品として売れるものではないから、淘汰されるのはやむを得ない。

その消え去る一方の文学部にとって、歴史問題は非常に大きなチャンスである。韓国と中国という人権ヤクザを相手に歴史を語らなければならない状況では、文学部の知識が求められるのである。これからも延々と歴史問題を言われるのであるから、国際的な理論武装として、歴史学に実用性を持たせることも可能だろう。

「つくる会」が素晴らしいとは言わないが、タブーを打破出来たのは、小林よしのりが風刺漫画家として絶大な人気があり、朝日新聞と平気で喧嘩できたからである。いわゆる文化人なら朝日新聞の顔色を窺うばかりで韓国に阿ることしか出来ない。これは現代史があまり歴史学の対象ではないこととも関係するが、歴史問題となると現代史が重要なので、どうしてもジャーナリズムの分野になるのである。そこで朝日新聞が大活躍していたのだが、しかし本当に韓国や中国の歴史を含めて根本から問い直すには、人類の歴史すべてを語る必要があり、現代史だけではなく、かなり過去まで遡って考えることが求められる。

英語で主張することが求められるわけである。英語というとディベートが出来ないと駄目と言われるのだが、日本語は音素数が少ないので、会話が不得手であるのは仕方がない。普段から単純な音で話してるのに、外国語が流暢に出来るわけがない。英文で読み書きさえ出来れば、それで問題ないはずである。もしくはこの英語で主張する問題にしても、歴史学者がやる必要はなく、その部分は英文学の人間に任せればいいであろう。

理論武装のための歴史学であるから、古事記・日本書紀からベトナム戦争まで語ることが求められる。まともな歴史学者は、特定の対象に専門化しているし、ひとりで全部は語れまいが、ひとりで全部やる必要はあるまい。中国と韓国から歴史問題でネチネチやられ続けるのがわかりきってるのだし、そこで歴史学者が活躍すれば、歴史の勉強も少しは役に立つということになるだろう。歴史問題が政治学なのか歴史学なのかというのもあるが、もはや政治学では手に負えない状況であり、一次資料から検証出来る歴史学者の手を借りなければならない。現代史をジャーナリズムに任せるというのは、朝日新聞という悪例を見ればまったく望ましくない。国際政治について語れる学者と歴史学者が共同執筆してもいいわけである。文学部が役に立たないと言われるのは、現実問題の解決に寄与しないからだが、少なくとも中国と韓国のおかげで「歴史問題」という現実的課題は生じてきたわけである。
印刷技術など無い頃は暗誦こそが教育だったはずである。
筆写して暗記するのがすべての基本だったはずだ。
今日においては検索すればよく、まったく記憶する必要はないとされる。
頭の中に知識を入れなくても、ネットに情報があるからである。

暗記力(長期記憶の能力)の格差が学歴カーストであるとすれば、その下克上の試みであり、自分の脳の性質に有利な結論に誘導したがるという問題もあるだろう。
おそらく現状においては、暗記する意味がないと主張する階層はAO入試組なのであろう。
そもそも記憶しないことによるメリットがほとんど見あたらないので、暗記がマイナスということはありえず、ある程度公平に言うなら、暗記力の過大評価という問題である。
不当に虐げられていた暗記弱者の救済というか、暗記弱者への逆差別として考える力うんぬんが言われていることが大半であり、基本的には朝日新聞的なユートピア言説と考えていいであろう。
知性のバリアフリーと言うべき問題なのである。
暗記力の欠如で躓いている人を排除してはならないという政治的な正しさである。
暗記力は不要と言っておいた方が政治的にセーフティーであるという問題である。

朝日新聞が好きな考える力なるものは、これなら格差がないということなのだろうが、これに格差があるとしたら、これもまた差別である。
なぜ考える力が差別問題にならないのかと言えば、これはAOの面接で評価されているのであろうし、要はエア能力である。
逆差別政策(アファーマティブ・アクション)として、架空の能力を認めているのだと思われる。

教育から暗誦が無くなり、コピペでよしとする風潮については、このエントリーでは筆を省くことにする。
まず何より暗記弱者への逆差別政策が盲目的に行われていることが問題であり、暗記そのものの価値やコピペで足りるのかという問題は、また別の考察となる。
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