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人間ゾルゲ (角川文庫)
KADOKAWA / 角川学芸出版 (2013-08-29)
売り上げランキング: 30,320



アマゾンのレビューだと高評価が付いているのだが、恋人があれこれ書いた本ということで、資料的な価値はあるが、決して名著ではない。そもそもリヒャルト・ゾルゲの人物像を浮き彫りにするノンフィクションを目指したわけではなく、あくまで少女趣味の追憶を綴ったものである。ゾルゲのスパイ活動については知らなかったという立場であるから、諜報関連の裏話もないし、プライベートな素顔を描いただけである。被害者意識の強さがめんどくさくて仕方がないのだが、これも恋人を亡くして愁傷やるかたない想いを愚痴っぽく綴ったのであり、内面の心情に重点が置かれており、スリルに満ちたサスペンスとして描く工夫はなされていない。この人はゾルゲの死後にいろいろな形で弔おうとするのだが、自らの望んだとおりにならなかった不満を、人間としての尊厳がいかに傷つけられたかと切々と語るのだが、どれだけ縷々と述べようとも、ゾルゲがソビエトのスパイであることに変わりあるまいし、こいつは単なる恋人でしかないわけである。仮に内縁の妻と考えるとしても、内縁の妻に多少の法的権利は認められているが、相続権はないので、本妻のように振る舞うことは出来ない。そもそも妻ではないからこそ、無責任に少女趣味のような愛をメランコリックに綴れるのだし、当時の水商売のカテゴリーはわからないが、あまり身持ちが堅いようには思えないから、その系統の職業だと思われるし、いろいろと難しい人間なのである。そもそもゾルゲがソビエトのスパイであるのは間違いなく、西側陣営から見て、どこに名誉回復のポイントがあるのかわからないし、またこの女に思想的な動機がないので、ソビエトのスパイであった罪を棚上げした上で、亡くした恋人を美化するので、アホかこいつはと思うしかない。身内の回想記としては正しいスタンスとも言えるし、著者の記述に客観性を要求するよりは、われわれ読み手の側で割り引いて読解する必要があるだろう。ゾルゲはダークヒーローとしての側面を持つとも言えるし、映画の登場人物ならキャラが立っているし、ゾルゲの素性をまったく知らないで純粋に愛したという立ち位置が、悲劇のヒロイン性を持つから、あまり深く考えず、素朴に共感してみるのは可能ではある。

石井花子は、金に困った場合には、ソビエトの大使館に行ってゾルゲの本の印税を貰えばいいと言われていたそうで、戦後になり、実際に行ってみた際のことである。

その人は、片手に診断書と手紙と封筒を持って、入って来たが、わたしの前に立ちどまり、
「ゾルゲさんの本のお金は、渡せないのです」と言った。
「なぜですか」
「法律的に、何もないからです」と答えた。
わたしはなおも聞いた。
「そのことは、誰が言うのですか?」
「これは、モスコーからの指令です」
彼はきっぱりと言った。
わたしが、正式に結婚していなかったからですか?」
「そうです」彼はうなずいた。
もう聞くことはなかった。しばらく二人は無言のまま見つめあった。それから手渡された手紙と診断書を受けとった。封筒はなぜか彼の手に残された。無言のまま私はレインコートを着て、部屋を出ると、彼は少しあとからついて出た。わたしはふりかえって、挨拶して玄関を出た。傘をかしげがら電車通りを歩き、わたしは今言った彼の言葉を反芻した。
モスコーの指令──。法律的──。なんという冷たい響きであろう。このほかになんの言葉も添えられなかったのであろうか? 人間の世界に、いや社会に法律は秩序を守る、必要な権利義務である。わたしとて知らないわけではない。だがしかし、これのみで社会が平和で幸福であるとは考えられない。ソヴェト国民は真に幸福なのであろうか? 考えざるを得なかった。わたしは金だけが欲しくて行ったのではない。この目で、この耳で、ソヴェトを知りたかったのである

万事が万事この調子で、事情を知らないイノセントな恋人として、あれこれ行動するのだが、正妻ではないので印税が受け取れるはずもなく、断られて悲劇のヒロインとして嘆息する。結婚していて自分の旦那がソビエトのスパイだったら、それこそ人生を台無しにされるのだから、こんな美談に書けるわけがない。事情を知らずにスパイと恋をした無垢な女という立ち位置は好都合なのに、それに不満を唱えて愚痴るのは、安藤美姫みたいなめんどくさいタイプだと断じることが出来る。とはいえ、このような否定的な感想を持ったのはわたしだけかもしれないし、他の人のレビューでは評価が高いので、端から見ていてはしたない行いも、本人としてはその一回性の人生の中でタイタニックのヒロインに負けないようなメロドラマを生きたのかもしれない。ゾルゲが共産主義にかぶれたドイツ人として、第二次世界大戦の前夜に日本の地を踏んだからこそ、大きな物語と言うべき舞台設定となったのだし、この邂逅はとても背徳的なドラマであり、順調な人生とは別の、ハッピーエンドがないからこそ燃えさかる愛だとも言える。ゾルゲはソ連に本妻を残しており、1943年にシベリアの収容所で死亡している。ずいぶん女にモテたらしいので、一生に一度の恋というわけではないが、それこそが映画的なロマンスなのかもしれない。
Jane Styleの山下は能無しっぽいし、仮にこいつが味方だとしても何かやらかしそうなオーラがプンプンしている。
敵ならまずいし、味方でもほとんど敵と同じようなものという問題だ。
2chmateとBB2Cはスキルはありそうだが背後がきな臭いということで、あまり使いたくないわけである。
2chmateのエアフロントは立ち上げ時に竹中直純が関わっているから、西村博之との接点があると推察される。
BB2Cは現在はフジテレビとTBSと株式会社ブックウォーカーが株主となっている。
株式会社ブックウォーカーは角川の電子書籍のサービスである。
角川とドワンゴは一緒になったので、これもあまり使いたくない。

実はわれわれは2ちゃんねるを信頼していたのである。
絶大なる信頼である。
ここならそう簡単にIPアドレスを開示しないという安心感である。
誹謗中傷の拠点ではあるが、問題を暴露する場でもある。
事実無根でも、事実でも、名誉として渾然一体になっているから生じる問題である。
たとえば他人の後ろ暗い過去の噂が書かれるとして、それが事実無根であることもあれば、事実そのものであることもある。
われわれにはプライバシーの感覚があり、そこは不明瞭にしている。
黒とも白とも言わないことにしている。
プライバシーだからといって、まったく触れてはいけないというのもおかしいので、陰口は容認しているのである。
陰口がない世の中なんてそれこそおそろしい。
誰でも触れられたくない事実はあるだろうが、やはり事実性こそが存在の根拠であるし、過去を本当に消すわけにはいかないのだ。
だから、他人の後ろ暗い過去に関しては、陰口という形で曖昧に認めているのである。

その2ちゃんねるへの安心感は壊れた。
わたしはJane Styleの山下は敵ではないと考えているが、何しろ能力に疑問があり、致命的なミスをやらかしそうなのが恐い。
とはいえ、パソコンで発信する情報などたかが知れているので、わたしはJane Styleは使う。
クレカを登録しているなら例の流出騒動の再現もあるかもしれないが、そうでもなければ、パソコンにたいした情報などないし、山下がやらかしても被害は少ないはずである。
2chmateとBB2Cは技術はしっかりしているのだが、敵か味方かわからず、スマホだと位置情報の問題で不安になるのだし、また技術があるだけにマーケティングに用いられる懸念もある。
ともかく信頼性が壊れたのである。
匿名性という信頼である。
他人の後ろ暗い問題を自由に書ける場所が失われつつある。
わたしはJane Styleは使うが、これすら危惧する人はいるだろうし、山下がポンコツなのは確かなので、不安になるのも当然である。
2chmateとBB2Cは、わたしは使いたくないし、今後はスマホから書き込むことはない。
西村博之よりはマシということでJIMを応援してきたが、堅牢な匿名性という最大の利点を損ねたのだから、馬鹿だろこいつ。
https://twitter.com/y_arim/status/572597000346058752
senebanaranai.jpg


御本人が問題のポイントを自覚してないことがあるわけである。
そして間違った説明で納得してやがるのである。
完璧主義だから何も出来ないとか言い出してやがる。

有村悠さんがあれこれ決意を表明する習慣があるのは、決して強迫神経症のような義務感ではないし、単に「明日から頑張ろう」の人だからである。
たとえば部屋を掃除しようと思うなら、普通に掃除すればいいし、そんなことで一念発起する必要がない。
神経症でもなんでもないから、詐病はいい加減にしてもらいたい。

なぜこういうパーソナリティーができあがるかというと、すべてが衝動性のご機嫌次第だからである。
マグマのような衝動性が爆発するまでやる気にならないし、理性で考えたやるべきことは先延ばしにするだけなのである。
理性で考えて、部屋を掃除した方がいいなあと思っても、マグマのような衝動が噴火しないので、先延ばしにする。
一言で言えばADHDなのだが、ADHDが生まれつきの脳障害だとされるのは、母原病だと言わないための配慮であるし、決して脳に損傷などない。
だいたい落ち着きが無くて衝動的に行動するのは貧困層の特徴であり、ADHDと貧困に強い相関があるのは知られている。

落ち着きがあるというのは、単に椅子に座っていられることではない。
衝動の誘惑にびくともしない人間のことである。
衝動なんてキャッチセールスのようなものである。
秋葉原のエウリアンと変わらない。
普通の人は、こんなのは無視して終わりである。
衝動的な性格の持ち主は、胡散臭い謳い文句に引っ掛かる馬鹿なのである。
衝動性とは、持っているお金を全部使うとか、人生設計をぶち壊しにする悪魔の誘惑でしかない。
有村悠さんの父親は浪費癖があり、女を作って離婚したし、衝動に誘惑されると、それに突き動かされてどこまでも進軍していく馬鹿なのである。
その息子である有村悠さんも何ら変わりなく、衝動からの誘いに簡単に乗っかってしまう。

有村悠さんが口癖のように鬱だというのも、衝動が高まらないと動けないだけである。
本当の鬱ではないのである。
マグマのような衝動が身体を突き上げてきて、テンションが最高潮に達してようやく行動するのだから、それまでは何も出来ないし、衝動的に動いてもトラブル起こすわけである。
火山が噴火するような形でしか行動出来ないのが問題であって、完全主義どうこうではないと思います。
宇宙が出来てから137億年経っているが、たぶんその逐一の経過は記録されていない。ラプラスの悪魔を逆回しにするように物理学的計算は出来るにせよ、生物の頭の中まで記録されてはいない。この地球上で起こった様々な出来事は生物の脳に刻まれたのみであるし、アカシックレコードは決して存在しない。どこかの辺鄙な山村で起こった小さなやり取りなど、跡形もなく消えていくのである。かつてアイザック・ニュートンという人が、光に色はないと断言したので、われわれの前に色づく景色も、光を色として解釈したわれわれの脳が作り出す現象世界である。脳に描かれたものでしかない事件なのだから、目撃者が全滅して闇に葬られたとしても何ら差し障りはない。頼みもしないのに、このボウフラのような意識が湧いてくるなら、いっそ宇宙にあまねく湧かせて遍在してみたいものだが、それぞれの個体は分断されている。個々はそれぞれ肉体の存在している座標に固定されているし、そこから見える風景、耳に響いてくる音、鼻の近くに漂う匂い、それに縛られているのである。監視カメラの発達でアカシックレコードの真似事が出来そうにも思えるし、あの日誰がどこにいたと記録される社会になるやもしれないが、しかし、われわれの脳内現象をそのままアウトプットすることは出来ない。監視社会について書くためにエディタを開いたのではないから、監視カメラ問題は割愛するが、人生の多くの出来事は、われわれ個人個人のプライベートな記憶に委ねられている。歴史的な出来事も、真相が確かめられないものだが、これは歴史学の欠点というより、想像で埋め合わせて理解していくのが人間の本質なのである。フランスに咲く白い百合の匂いをかぎたいなら、フランスにまで行く必要がある。それが意識の脊椎であり、空想では物足りないという主体性の我が儘であり、これが肉体の隅々まで強固に根を張っている。手を伸ばさずとも森羅万象に触れ得るとしたら肉体などいるまいが、肉体がないと認識できないとか、何かの罰なのであろう。鉄格子の先に見える美人画に眷恋するとしても、この牢獄の鍵は原理的に開かぬようになっている。この鉄格子の内側に道重さゆみちゃんがいたならば、鉄格子の外側の世界に思いを馳せることもあるまいし、この空間の狭さの不思議さに首を捻ることもなかった。悶絶するべき苦悩が取り憑いて離れないのは、人間の真実や宇宙の真理について考える機会を与えられたといえるであろうが、この思索によって答えが出ないのも厄介であり、宇宙やその現象世界の不可思議さに圧倒され、無常観に囚われるのみである。道重さゆみちゃんのまんこが、鉄格子の向こうにあるというのが、われわれの自我を成り立たせているのであろうし、見たこともないのに知っているという不思議である。この宇宙の大部分を占める暗黒物質の謎はまったく見当が付かないが、道重さゆみちゃんのまんこなら、まだ見ていないし、これからも見ることはないだろうが、すでにわたしは知っているのである。本当にその形や色を子細に言い当てられるわけではないが、性器とは記号であり、実は未知ではないので、知っているわけである。女はアダムの肋骨から作られたというのが生命体の本質である。失った片割れに手が届かない問題である。この絶対不可侵の領域をやすやすと見ることが出来る人間もいるわけであり、鞘師里保は道重さゆみちゃんのまんこを通算で500時間は舐めているはずだし、ここまでたやすく手にはいるなら日常的な嗜好品と変わらないであろう。カフカの掟の門と同じ話である。道重さゆみちゃんが異郷の果てを旅していても、鞘師里保から連絡があればすぐに帰国し、その透き通るような裸身をベッドに投げ出して、なおかつ金まで貢ぐのである。こうなると物理的な座標の問題だけではなく、存在と存在の接近のしやすさの話である。わたしと道重さゆみちゃんの間に立ちはだかる掟の門は、距離の問題だけではなく、この世界内存在の規定からして、同じベッドに入ることがあり得ないということである。鞘師里保なら世界中の欲しいものが何でも手に入るのかといえば、決してそうではなく、たぶん中元すず香が掟の門なのである。快楽など手に入らなくてもトップアイドルとして君臨したい熱望はあるだろうし、アイドルとしての不完全燃焼を打破したいであろうが、それは叶うことはなく、ルーキーの牧野真莉愛にセンターポジションも取られるだろうから、いずれ一人の元アイドルとして大衆酒場で飲んだくれつつ、人生にあぶれた自分を悲嘆し、かつて聖女と身体を重ねた過去を思い返し、その煌めきが現在の時間にまったく重ならない苦みを味わうのである。中元すず香にしても、初見は目の覚めるような美人に映るし、女子ではあり得ない声量も含め、不世出の存在が世界地図に立ち現れたという第一印象のインパクトたるや、表現する言葉が見つからないくらいだが、見れば見るほど女子らしくない骨格なのであまり可愛くないし、最初の褒め言葉はたやすく撤回され、人々の関心はゆいもあにシフトしてしまう。人間は誰しも肉体的な制約に縛られており、森羅万象のすべてに触れるわけにはいかない。たまたまわたしは有名人の名前を挙げているが、はるかぜ(母親)という貧乏人が、金持ちの蒼波さんに嫉妬できるのも、蒼波さんが新進女優であり、可視化されたお嬢様だからである。普通であれば、ババアが育ちのいいお嬢様の存在を知る機会などあるまい。世間に著名人として名前を公開していない無名のお嬢様はたくさんおり、われわれはその高貴な色に染まる花を手折る夢想すら出来ない。彼女たちがFacebookに実名を書いていても、あくまで無名人なのである。フラタニティ、いや、女子であるからソロリティと言うべきだろうが、この種の上流階級のクラスタが、下流のクラスタと交流することはないのである。そのアッパークラスの幸福たるや羨むべきだが、とはいえ、タワーマンションの最上階から高級ワインを片手に世界を見下ろして、人間や宇宙を理解できるのかどうかは疑問である。聖徳太子のエピソードの大半は創作であり、10人の話を同時に聞くというのも、出来るわけがないからこそ、文飾として添えられている。ネットはあまりにも巨大すぎる図書館のようなものであり、見渡す限り聳え立つ書架に埋め尽くされた浩瀚なる蔵書を誇ろうとも、誰がこれを全部読めるのかという話であり、人間が一生に読める本の冊数は決まっているのである。書物の数をどれだけ増やしても、人間の脳に進歩がないという難題である。何万年か時を経て人類が進化すれば別であるが、そうなるのなら、われわれの文化など古代祭祀と同じ扱いになるであろうし、どこまで行っても希望の余地はない。インターネットの普及で全人類がお互い顔見知りになるということはない。図書館の本を全部読めないのと同じで、人間だってほんの一握りしか知り得ない。認識の限界によって、他者はたやすく圏外になってしまう。だから鉄格子に囲まれた部屋にいるのも同然なのである。個々人はプライベートな構造体であり、それが周辺世界の働きかけで作動しているわけだが、同じ仕様で作られた人間として、他人の頭の中は想像が付くにせよ、脳の中身そのものを見るわけにはいかないし、開頭してニューロンの電位を調べたところで何もわかるまい。どこかで全能の神がアカシックレコードの役割を果たしているならいいが、天才科学者がわれわれのプライベート性をすべて剥ぎ取るような発明をしてくれて、われわれの持つプライベート性がぶち破られるなら、ただ単に顔から火が出るだけでなく、あらゆることが既知であり「想像」しなくていい世界というのは、われわれ個人を存在たらしめるのかと疑念が生じる。自分の秘密を洗いざらい話した人は、人類の歴史の中でひとりもいないと言って差し支えなく、かなり大胆な告白をする人でも、やはり口をつぐんだエピソードはあるのである。スペック差がひどいにせよ、同じOSを積んでいるので、だいたい互いのことは想像で見透かしているのだが、それでもプライベート空間を守りたいという強い願望があるのである。
われわれがパワハラされたとして、平然と「なんでそんなに怒ってるんですか」と質問することは出来ない。
質問して答えさせるくらいに反抗的な行為はないのである。
パワハラされたら狼狽しなければならない。
オロオロしてみせる必要があるのである。
それによって被害を最小限にとどめているつもりである。
本当にそういう奴隷根性が被害を最小限にするための最適解とは思えないが、パワハラを仕掛けられて平然と「何なんですか」と説明を求めるのもなかなか難しい。
というより、そこまで冷静沈着に対応出来る人間であれば、パワハラの対象になりづらいであろう。
パワハラに反抗するからには相手を殺すとか殴るしかないと考えてしまう人間は、あまり要領がよくないのである。
ピエロのようにオロオロしてみせるか、相手を殺すかの二択だと思っていたら、オロオロするしかないのである。

ああ、たとえば西村博之を思い浮かべて欲しい。
こいつにパワハラは可能であろうか。
西村にパワハラを仕掛けても、こいつはオロオロしないであろう。
他人を殺すタイプでもないから、「何か嫌なことでもありましたか」と説明を求めるであろう。
スターリンがこいつを銃殺するというのなら、さすがの西村でも狼狽するかもしれないが、たいていの局面だと「何で?」と平然と尋ねるであろうし、そうなると権力が根無し草であることが露呈されてしまう。

もちろん逆らうことの代償が大きいこともある。
東條英機の父親などは、かなりのエリートであったのに、長州閥が専横を極めている軍部の風潮を憂い、その首魁たる山県有朋に抗議したことがあった。
それによって、東條の父は執拗な嫌がらせを受け、不遇の人生を過ごした。
山県有朋が死んでから長州閥の勢いなどなくなったのだが、東條英機はかつての父親の恨みを晴らすべく、地に墜ちた長州閥の連中をいたぶることを徹底し、山口県出身はかなり痛めつけられた。
まあ山県有朋に逆らうとか、さすがにまずいわけであるし、東條英機に逆らうのもまた難しいであろう。
(東條英機は周りが勝手に死んだり失脚したりして、消去法で首相になったので、軍部で圧倒的な力があったわけではないが)。
われわれは偉い人と偉そうな人の区別が付かないので、なんかとりあえずオロオロしてみせるのだが、権力者の力量を見透かすことなく、何でもかんでも従うのは愚かだと思われる。
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