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http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150330-00000061-nksports-ent
お笑い芸人たむらけんじ(41)が29日、「一般の方の写真のモラルなさ過ぎ、嫌になる」とツイッターで苦言を呈した。

 「今ロケしてるんやけどほんまに一般の方の写真のモラルなさ過ぎ、嫌になる」と書き出したたむら。
たむらがロケで訪れた飲食店では、子どもが店内で写真を撮っていたという。

 しかし、その子どもを親が注意していなかったとして「子供が飲食店でパシャパシャ撮ってても親は何も言わずにニヤニヤ。
『勝手に撮ったらあかんのやで、お店の中やろ?他の人に迷惑かかるからやめなさい』って言うのが親でしょ?」と、
親のしつけに対し苦言を呈した。

 これまで、無断で撮影された自身の写真をネット上に公開されることが度々あったたむらだけに、
今回もそうしたケースを恐れてか「無防備の状態の写真を撮られるのはもう恐怖です」とつづっている。


トラブルメーカー体質のゴミクズというのがいるわけだが、こいつがまさにそう。
以前たむらけんじがロケで男性から暴行を受けたというのがあったんだが、こいつは純然たる被害者ではない。

事件の流れはこんな具合である。

ロケの機材が女性に当たり、同行していた64歳の男性が激怒。

たむらけんじが「仲裁」に入る

64歳の男性がたむらけんじに蹴りを入れる

警察が来るが、たむらけんじは「謝って貰えばいい」といい64歳男性が謝罪したため事件化せず


64歳の男性から見たら、ロケの集団から襲われたようなものである。
たむらけんじはテレビクルーの一員である。
こいつ第三者じゃないんだから「仲裁」ではないだろ。

たむらけんじは巨漢というほどではないが、公称180センチだし、実寸で175くらいはあるからわりと大柄だし、それにテレビクルー側の人間であるから、たぶん64歳の爺さんを押さえつけたのだろう(と想像する)。
女の手前もあるし、腕力でたむらけんじに敵わないから、爺さんとしては蹴りの一つでも入れるしかなかったのであろう。
たむらけんじがするべきは「謝罪」であって「仲裁」ではない。
仲裁と言っているところからして、爺さんを押さえつけたのだろう(とわたしは想像する)。

要するに、こいつはテレビクルーが特権階級だと思っているのである。
俺だってこの爺さんの立場だったら蹴りくらい入れる。
たむらけんじがテレビクルーの代わりに謝罪するならわかるけど、なんで「仲裁」するのか意味不明だし、おまけに警察を呼んで爺さんに謝らせて終わりという意味不明さ。

もちろんわたしは現場を見たわけではないので想像で書いてるのだが、たむらけんじが最初に64歳男性に謝っていたら、さすがに蹴りは入れられてないだろう。
こいつは一般人を格下だと思ってる節があるから、公称180センチの身体で、抗議してる爺さんを制しただけ。
重要なのは、たむらけんじが「仲裁」するまで、この爺さんは手を出していないことである。
たむらけんじが仲裁に入ったら暴力が発生したのだから、どういう仲裁だったのか察しはつく。
「おだてる」というのは他人を操縦することである。
何の理由もなく他人を褒めることはあるし、音楽を聴いていいと思ったらいいと感想を述べることは普通にあるが、おだてながら頼むということがあるわけである。
ただ単に「頼む」だけだと効果が薄いので、持ち上げて上機嫌にさせた上で頼むわけである。

馬鹿な大男はたいてい用心棒として操縦されている。
清原が暴れていれば、必ず元木がいるわけである。
清原をおだてるくらいに簡単なことはないはずで、おだてられるのがこれだけ好きな人間は滅多にいない。
元木の要領がいいのもあるが、たいていの人は太鼓持ちをやるのが下劣だと考えており、だからやらないだけである。

清原和博の後半生が苦境に陥っているのは、おだてられると何でもやる人間だからであり、いくら税金を払ったとしてもかなり金は稼いだだろうに、それが底を突いているのは、おだてられたからなのである。
わたしは超能力者ではないので、清原がおだてられて破滅していく姿を千里眼で見たわけではないが、おだてられるのが好きな人物であり、操縦されるのが好きだから、たぶん持ち上げられて転落したのだろうと推察するわけである。

マッチョな性格だと後半生が苦しいというのは普遍的問題であろうが、おそらくそれでも若いうちは問題がないのだろうし、むしろスクールカーストで上位を占めるのだろうし、性格を改める理由がないのである。

人間はよほど痛い目に遭わないと自分を直さない。
おだてられていい気になって自己破産でもすれば、さすがにおだてられるのは懲り懲りとなるだろうが、そうでもならない限り、おだてられる気持ちよさを克服できるはずがない。

まともな人間なら、おだてられた段階で警戒心を持つわけである。
何かをやらせたいからおだてるわけである。
変な儲け話とか、どうせろくなことではないからである。
俺をそれだけ馬鹿だと思っているのか、と怒りも生じるであろう。
とはいえ、おだてられると気持ちがよくなって止まらない馬鹿は確実にいるわけで、これはどうしようもないし、そういう手の付けられない暴れん坊がいたら清原のような破滅に陥るのを待つしかない。
おだてられると気持ちがいいというのを、破滅の前に改めればいいのだが、馬鹿にはそれは無理なのである。
はるかぜ親子のツイッターのフォロワー数が減り続けているようである。今まであれこれ屁理屈をこねて炎上を招いて関心を惹いていたが、ナベプロ移籍以降はそれが出来なくなった。移籍前にアンチが恐いとか殺されるかもしれないなどと大仰なツイートを連投してツイッターを削除してたくさんの同情を得たが、さすがに「ナベプロに移籍しました」と平然と復活したことで、鈍感なひとたちでも開いた口が塞がらない思いをしたであろうし、この親子の本質に気付いたに違いない。フォロワーが減るのは当然のことであろうと思われる。

このフォロワー減少に関して、はるかぜ親子はかなり焦っている様子が窺える。不思議なことである。中川翔子原案のアニメで声優をやれるのだから、人生最大の悲願が叶ったはずなのだが、夢を叶えた人という雰囲気ではない。はるかぜ(母親)としては論客になりたいのだろうし、声優というのはその論客の箔付けに過ぎない。たぶんババアは文化人というものに知的なイメージを抱いていてそれになりたいはずだから、娘が声優として役をもらえればいいというわけではないのだろう。はるかぜ(娘)がどうなのかは知らないが、おそらくかなり一体化してるであろうから、母親を冷めた目で見ているということはあるまい。声優になれれば満足なのか、それとも声優で知名度を高めて文化人として活動したいのか、娘は自分の意志というよりは、母親の顔色を窺っているのだろう。

そういう意味では、このエントリーを書くのもなかなか難しいのである。娘の意志が曖昧な状態に置かれているし、当人に確認するわけにもいかない。それに14歳で、これから中学三年生ということだと、本人も声優とかよくわからないであろう。われわれに見えるのは、知的な文化人になりたい母親の方である。ツイッターなら代筆出来るが、声優だと代演させてもらえないのでつまらないというのもあるだろう。はるかぜ(母親)が認められるためには文化人でなければならない。そして母子一体化しているから、その感覚はある程度娘も共有しているだろう。このところは無害で模範的なタレントを装おうとしていたが、効果無しと見るや、だんだんとトラブルメーカーとしての本性を現しつつある。この親子はADHD気質だから、目先の結果を求めずにはいられない。半年後とか一年後を見据えることなど出来ない。これはネット中毒者の本質であろう。エゴサーチ中毒も、現在の評判が気になって仕方がないからだ。

気が短いからこそネットに延々と貼り付くのである。過去に印刷された書物を読むのとは違って、ネットはリアルタイムの現在を映している。待つのが嫌いな人間は、その現在進行形の状態に中毒的に拘泥するのだ。それによって時間を浪費していくのである。深呼吸して目標を先に置ける人なら、ネットは少し休むであろう。フォロワーを増やすにしても、半年後あたりを見据えながらやるであろう。はるかぜ親子にとっては毎日が天王山である。エゴサーチにすべての時間を使い果たしているから、未来のために頑張ったことなど無いだろうし、何も積み重ねていないし、それだけのポテンシャルもない。また、母親が文化人になりたいのだから、娘の学力を上げても意味がない。戦力の底上げをすることなくただひたすら戦い続けているのだから、それに似つかわしい敗戦の記録が鈴なりのように並ぶのである。

われわれははるかぜ(娘)の劣悪な家庭環境を不憫に思いつつも、時間のマネジメントの悪例として教訓にするしかないのである。今すぐ結果が欲しいという焦りをもって、塵芥のようなツイートを連投するのであるが、ネットでのアウトプットは能力の向上には繋がらない。現状に閉塞感を抱き、今すぐどうにかしたいと衝動的になるのは誰でもあるにせよ、ババアが娘の人生を使って二周目を生きている状態であるから歯止めが利かない。これが自分の人生だったら、中川翔子のルートで仕事はもらえるのだから、餓死しないだけの補給線は確保したと言えるし、ひとまずツイッターは卒業して、腰を据えて勉強しようという計算が働くかもしれないのである。ナベプロで声優の仕事を貰って活動の足場を得たのに、あたかも焼け出された戦災孤児のように見える。娘だけなら「声優になれてよかったね」で解決出来そうだが、母親の承認願望も含めると知的な文化人でなければならず、少なくとも母親は今から長い目で勉強して知的になるわけにもいかないから、目先の戦争を継続させるのである。
ほとんどテンプレとなっているこの定型文があるわけである。
これはミスディレクションを誘うものでしかない。

いじめとは政治的に最下位を決めるゲームである。
だから、こいつなら最下位という納得感が求められる。
最下位になるにふさわしいスペックの持ち主だったり、もしくは発達障害だったりするわけである。

つまり、いじめというゲームを行った場合、誰が最下位になるかは予測が付くので、その意味では、そいつが最下位たる理由は言える。
こういう問題があるからこいつは最下位なんだと言えるわけである。

「いじめはいじめられる側に問題がある」という定型文のどこがミスディレクションなのかというと、こうやって最下位を決めるゲームを主催する必然性が説明できてないからである。

最下位決定戦で最下位になる奴には、それなりに最下位になるべき理由はあるが、その最下位決定戦を主催するべき理由は説明出来ていない。
頭が悪いのか意図的なのか、ここを混同して議論している人が大多数なのである。

なぜそもそも最下位を決めないといけないのか、というのが本当の問題であろう。

また性格的問題がどうこういう場合もあるが、最下位に蹴落としやすい性格でなければならないわけである。
こいつは嫌な奴だから最下位にしようというわけにはいかず、いかにも最下位になりやすそうな人物であることが必要なのである。


アイドルのつまらなさとして、大人の事情で楽曲がよくないことである。ハロプロでつんくが印税乞食やっていたのが典型であると思うし、つんくの豪邸のために、どれだけ産業廃棄物が作られ捨て去られたかわからない。つんくほど酷くなくてもプロデューサーが印税で儲けるのが目的になってる事例は多々あるだろう。BABYMETALの楽曲の質が高いのは、プロデューサーが自分で曲を作ってないのが大きい。たぶんベビメタの曲が一曲作られるたびに、かなり大量の候補曲が没にされているはずである。

そんな中でわたしが最近発見したのがBELLRING少女ハート(ベルハー)というアイドルなのだが、なんかペットボトルの水を口に含んで観客席に吹きかけたり、如何にも地下アイドルであり、また意図的に下手に歌っているのだが、まともに歌っても下手だと思う。メンバーの質自体が低いのであまり応援したくない。

だが、だが、だが、楽曲が極めて素晴らしい。「the Edge of Goodbye」という曲が特に圧倒的なキラーチューンでこれはBABYMETALでも確実に採用される。演じてるのが地下アイドルだから話題にならないが、これだけの中毒性のある曲をゆいもあがやったら、軽く5000万回は再生される。またこの曲だけではなく、他の曲も全体的にかなりインパクトがある。

東京女子流とか、武藤彩未ちゃんとか、大手事務所が力を入れながらもブレイクしきれないのは、やはり楽曲に難があるのである。大手事務所だから演奏がハイレベルだったり仕上げが素晴らしかったりしても、肝心の曲にインパクトがない。BELLRING少女ハート(ベルハー) の楽曲はすごすぎるので、これが埋もれていくのはあまりにも惜しい。

田中紘治という人がプロデューサーなのだが、この人が曲を全部書いているわけではなく、他人に書かせている方が多いのだが、だからこそ、つんくとは真逆のクオリティーの楽曲が仕上がってくるのであろう。

東京女子流の中で新井ひとみちゃんだけは、かなり有望な素材だと思うし、橋本環奈より可愛いのになぜ話題にならないのか不思議なのだが、女子流自体が何やりたいのかわからないし、アイドルから脱却するそうで、いろいろ迷走してるわけである。ベルハーの曲があったら、伸び悩んでいる女子流でも武藤彩未ちゃんでもブレイクするし、横浜アリーナが暗幕だらけになりそうな℃-uteでも再生するだろう。BELLRING少女ハート(ベルハー)というアイドルそのものに見込みがないので、この楽曲だけでもどうにかしたいものである。
脅された場合に「どうぞどうぞ殺してください」と平然と振る舞う対処法があり得るわけである。
これは相手が底辺であればあるほど使えない。
顔面をグーで破壊されるくらいは普通にあり得る。

社会的立場のある相手には「どうぞどうぞ殺してください」でいいので、育ちがいい人の余裕はそこだと思うのである。

貧困とADHDの相関が強いのはそれが原因だという仮説を立ててみる。
もちろんこの仮説はなんら証明できないのだが、脅されるという行為をよくよく考えると、ここがポイントだと思うのである。

威嚇されたらおびえてみせる必要があるわけである。
われわれがおびえてみせるのは、おびえてみせないと相手が満足しないと思うからである。
恐怖感を表情に出すことで許して貰うわけである。
威嚇されておびえるという繰り返しでADHDらしい人間性になる。

有村悠さんがなぜああやって暴れているのかというと、暴力で育てられたからである。
脅されたら怖がる義務があったのである。
貧困層においては、脅されたら本当に怖がって見せないと危険なのである。
血塗れのリンチを受けて新聞に載る可能性がある。

たとえば有村悠さんと櫻井翔が産院で取り違えられたとする。
ADHDが生まれつきの脳障害だとするなら、産院で取り違えられたとしても、有村さんはADHD剥き出しのゲロ以下の人間でなければならない。
また、櫻井翔は、発達障害のオールスターと言える有村一族にどっぷり浸かっても、彼だけはおっとりして上品な人間性を持っているはずである。
こんなことがあり得るのだろうか?
有村悠さんは、どんな裕福な家庭環境で育っても、怒り狂って部屋で暴れてるんでしょうか?
櫻井翔は、赤貧を極める母子家庭で有村ママと密着して過ごしても、あの上品な性格でいられるんでしょうか?

仮に櫻井翔が産院で取り違えられて有村ファミリーで育ったら、あの粗暴な教育ママから殴る蹴るの暴行を受けて東大東大言われるだろうし、奴隷がガレー船を漕ぐようにしてガリ勉はしただろうが、仮に東大にギリギリまぐれ合格しても、他の金持ち東大生にはかなわず、美人の東大生からも気持ち悪がられ、鬱になって中退するのがオチであろう。
櫻井翔の品のよさは、暴力を受けてないからである。
貧困層なら、威嚇したり威嚇されたりが命がけであるし、有村悠さんなどは、暴力に支配されて育ったのだから、これが落ち着きの無さの原因なのである。
櫻井翔のような恵まれた家庭だと、社会的立場のしっかりした人と接するのだから、本当に殴られたり殺されたりする心配をする必要がないし、平然としてればいいのである。

落ち着きのある性格とは、脅されても平然としている性格なのである。
ADHDでない人、つまり定型発達者というのは、暴力で脅されない環境で育ったのである。

だから櫻井翔と有村悠さんが産院で取り違えられていたら、櫻井翔は貧困層で殴られながら育ったわけであるし、あのような落ち着きのある品のよさはあり得ない。
暴力のない環境、刑務所や少年院とまったく無縁の環境だからこそ、あの品のよいパーソナリティーがあるのである。
その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急にカンダタのぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。ですからカンダタもたまりません。あっと云う間もなく風を切って、独楽のようにくるくるまわりながら、見る見る中に暗の底へ、まっさかさまに落ちてしまいました。
後にはただ極楽の蜘蛛の糸が、きらきらと細く光りながら、月も星もない空の中途に、短く垂れているばかりでございます。

御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがてカンダタが血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、カンダタの無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。


「蜘蛛の糸」はカラマーゾフの兄弟にも似たような話があり、天使が老婆を救おうとするが、老婆が他人を蹴落とそうとしたのでネギが切れてしまうというものである。

この「蜘蛛の糸」の主人公はカンダタだと考えられている。
御釈迦様や、もしくは(カラマーゾフの兄弟の)天使が罰を下したとは書かれていない。
あくまで悪いことをすると神様が見ているよ、という教訓話である。

この類の教訓話は馬鹿正直の推奨であり、ワシントンと桜の木でも、本当に実行したら馬鹿を見るだけである。

新自由主義の時代においては、カンダタこそ正義であり、蜘蛛の糸は登り切れる、つまり天罰が下らずに天国に行けると考えられており、実際に天国に行けるのである。
われわれも新自由主義が正しいと教えられているから、蜘蛛の糸を登り切って凱歌を上げるカンダタをイメージして生きているのである。

だが、実のところ、「蜘蛛の糸」というのは、天罰を下すべきかどうか、という問題に読み替えるのも可能である。
つまりカンダタが他人を蹴落としてぐいぐいと昇ってきたら、その糸を切るかどうかという判断である。

経済というのは、売れたか売れなかったかの問題だから、結果がはっきりしているのだが、意外と貢献度がわからないものである。
企業の業績としては明白だが、それぞれの社員の貢献度は判然としない。

コミュニケーション能力がGDPに対してプラスの効果を持つのか、というのもよくわからないわけである。
コミュ力とは蜘蛛の糸を登り切って勝ち抜く能力とも言えるし、排他的なスキルでもある。
その一方でリーダーシップを発揮し全体を押し上げることも出来る。
端的に言えば政治力であるから、他人を蹴落としてるのか、全体をまとめてるのか、よくわからないわけである。
何かを発明したとか、売れ筋の商品を開発したとか、そういうのなら明らかだが、コミュ力に関しては、貢献しているのか否かが判然としないのである。

新自由主義はすべての嘘くさい教訓を葬り去ったと言っていいのだし、自分だけが蜘蛛の糸を登り切って凱歌を上げる物語が肯定されるのだが、経済の問題として、新自由主義の敵は新自由主義者である。

思想的な新自由主義は、蜘蛛の糸を登り切ろうという人間を礼賛するものだが、経済競争に本当に勝とうとするのなら、企業はこの糸を切断して然るべき、とも言える。
コミュ力の高い人間が、他のスキルの高い人間を蹴落としていることもあり得るわけである。
「蜘蛛の糸」というのはカンダタの選択ではなく、御釈迦様として糸を切るかどうかの決断の問題である。
漫然と新自由主義に従って見逃せばいいものではないであろう。
長男と次男がいたら、たいていは長男が不器用だが、これは長男に対しては「言われたとおりにやれ」というスタンスを親が取るからだろう。
最初に生まれた子供に対しては一挙手一投足を監視し、言われたとおりにやれと怒鳴るわけである。
次男に関しては、言われなくても気付けと放任するのである。

「言われたとおりにやれ」という教育をしていては要領が悪くなるに決まっているのだが、親は最初の子の要領が悪くても意に介さない。
明らかなハンデだと思うのだが、ハンデを負わせて当然だと考えている。
なぜ次男三男と増えるたびに放任主義にするのかは知らないが、おそらく、次男以降は、親が思ったとおりの人間にならなくてもいいからであろう。
最初に生まれた子供は、親が思ったとおりの人間になることを求められる。

たぶん職業選択の自由が無かった時代の名残と思われる。
「言われなくても気付け」と教育した方が要領はよくなるのだが、長男にそれは望んでないのである。
むしろ不器用に育てたいのであろうと思う。

長子相続の時代だと、次男以降には相続もさせないし家業も継がせないから、勝手にひとりで生きろと放任するのが自然だったのである。
最初に生まれた子供に「言われたとおりにやれ」と徹底し、二番目以降の子どもに「言われなくても気付け」と放任するのは、今の時代にまったく合わないやり方なのだが、馬鹿な親は死んでも譲らない。
もちろん柔軟な発想の出来る犀利な親は大丈夫だが、玉砕に向けて理想の実現を絶賛実行中の馬鹿な親は改善できない。

長子相続の時代ではないので、最初の子どもに自分の理想を押しつけるのは道理が通らないはずだが、なぜかこの問題は知られつつも、あまり難じられることがないし、改善する気がないようである。

いわゆるコミュニケーション能力とやらは、言われなくても気付く能力と言っても差し支えなく、これは親の育て方がかなり関わっている。
「言われたとおりにやれ」という教育で得をすることはほとんどないのだが、これをやっている親は死んでも改めないから無理であろう。

また未婚の女のヤリチン好きという問題も根底にある。
40歳くらいの女でも、既婚で子どもがいるとヤリチンを嫌うわけである。
逆に40歳でも未婚だと、どこかしらヤリチン好きな肉食のオーラがある。
未婚の女は器用な男が好きなのだが、既婚で子どもがいる女は不器用な人間を好むので、当然ながらそれに応じた教育が行われるのである。
未婚の女はロンブー淳に股を開くが、結婚して子どもが出来るとなると、この手の男を「悪いお手本」として蛇蝎のごとく嫌うわけである。
若くて綺麗な頃に股を開いて、閉経しそうな経産婦になると嫌うとか、まさにロンブー淳の思う壺である。
なぜ若くて綺麗な未婚の女は「悪いお手本」が好きなのかという問題でもある。
日本の歴史の中で文学的天才と言えば三島由紀夫と空海が思い浮かぶ。やはりこういう天才は、教育がしっかりとした家庭で生まれているのである。三島由紀夫は祖父が官僚として失脚したので暮らしぶりは傾いていたようだが、それでも、祖父から三島由紀夫まで三代東大卒の官僚なわけである。空海(774-835)も家は武士であるが、母方は学者の家系であり、阿刀大足という大学者が空海の叔父であった。空海の家はそこそこ裕福な武家であったのに加えて、学者の叔父さんから勉強を教えて貰っていたのだから、かなり環境に恵まれているのである。空海の漢文の素養のすさまじさも、環境がもたらしたものである。この当時ひとつしかない大学に空海は入学し、勝手に中退して世捨て人となったのだが、31歳になって遣唐使に参加している。このあたりの経緯はあまりよくわからないが、やはり実家が裕福だから何かしらコネがあったのであろう。卓越した書家としての力量に加えて、漢文は天才的でまた会話もかなり堪能だったようなので、小保方さんのケースとはまったく違う。24歳の時に空海が書き記した書物を読む限り、かなり真剣に仏教に取り組んでいたようである。

空海の思想は、この宇宙を大日如来の曼荼羅と捉えることなのだが、これは人間観として極めて適切であるように思える。ひとりの人間がすべてをやるわけではないのだし、それどころか、この世界の中で短い命を与えられて、一度にひとつのことしか出来ないようになっている。この地球上で人間が行っているたいていの行為は他人がやったものである。部屋の中を見渡してみれば、ほとんど全部他人が作ったものである。ひとりの個人は、巨大な曼荼羅のうちの一箇所を演じているだけである。この一回の人生も大日如来のひとつであり、そこに仏性は宿っている。

この空海の思想が人気とは言い難い。やはり人は奇蹟が欲しいのである。何しろ楽園の否定こそが真言密教であるから、そこに優しい嘘はない。死んだら天国の庭園に道重さゆみちゃんがいて、金色の糸で刺繍されたように何もかも都合よく誂えられているに違いないという度し難い妄想を許してこそ宗教である。楽隠居が予定されているからこそ現世という名の懲役にも耐えられる。そのような奇蹟が無く、ただ大日如来の現象として宇宙を考えるのは真理に近いとしても、これぞ無慈悲の極みである。馬齢を重ね、やもめ老人として閑居し、宇宙について考え悟りを開き、決してみずみずしい若さを取り戻せないことを確信するのが愉しいはずはない。それこそ残酷な復讐心をもってして人間存在の虚無を暴き立てるカタルシスしか見あたるまい。

大日如来がどうこうというと難解にも思えるが、要は汎神論であるし、理屈としては素朴である。汎神論は、自分が世界の主人公であるという幻想を打ち砕いてくれるので面白くないのである。わたしが森羅万象の一部でしかないというのは、至極もっともな思想であるが、自分を中心に世界が回っているという天動説を否定してくれるので、決して喜ばしいはずがない。玲瓏たる煌めきを放つ箱船に乗る資格を受けし選ばれた人間であるという幻想を与えてくれないなら、どこに信仰の意味があるのだろう。大乗仏教の極みとして、誰でも同じということであるし、自分だけが例外的に選ばれているという感覚の入り込む余地がない。

宇宙がどれだけすごい力学で動いていようとも、このわたしが選ばれた人間でなく、救世主たらんとすることも出来ず、一人の人間として救われないのなら、宗教的体験ではないのである。この大日如来の宇宙はすごいから、ミジンコのようなあなたもすごいんですと言われても、それはわれわれが宗教に求めているものとは違うのである。

やはり空海の根底は貴族主義である。他の俗塵とはまったく違う内面世界の王者たらんとして、私度僧として勝手に出家したのであろうし、自らの天才性について確信はあったはずである。空海にとって悟りとは、その天才性をもってしてすべてを明晰に見通してしまうことだったはずだ。その透徹たる認識に絶望しながらも楽しむ、知性による暴力であり、ひとりのニヒリストによる悪趣味なのである。
人類愛をもってしてこの世界をあまねく光で照らし出そうという少女がいるとしても、その聖蹟が存在として顕現するのはたやすいことではなく、あれこれと業界の権利や大人の利害関係が衝突する。ひとつの時間にひとつのことしか出来ず、数多の選択肢は捨て去られるのだから、われわれの希望するべき未来なんて、そうやすやすとは手に入らない。菊地最愛ちゃんは紛れもなく現役最高のアイドルである。もあちゃんはアイドル文化に極めて造詣が深く、また強い愛情も持っている。アイドル以外の何者にもなりたくないという人物である。知性や人間性も極めて優れており、決して詐術ではない本物のアイドルなのである。

わたしが深く絶望しているのは、MOAMETALというゴミみたいなキャラクターをやめられないことである。現役最高のアイドルたるもあちゃんであるから、MOAMETALというイロモノもエンタメに昇華して世界を熱狂させたのだが、人間の時間は限られている。MOAMETALはもううんざりだし、もあちゃんのような最高ランクの人間がやらなくてもいいことである。このゴミキャラのせいで、菊地最愛として過ごす時間が削り取られていく。わたしはただもあちゃんの歌が聴きたいのである。



この映像は何度引用したかわからないが、前半を中元が歌っていて、後半をもあちゃんが歌っているので、比較としてわかりやすい。中元の歌唱力は、アイドルとしては桁外れと言われるが、それはAKBやハロプロと比べた場合の話である。AKBやハロプロはひどい歌声ばかりであり、中元すず香とは天と地の差であるが、現役最高のアイドルはもあちゃんである。もあちゃんを完全に圧倒してこそ、アイドルなんぞ相手にならないと言えるのだが、そこまでの差があるようには思えない。

MOAMETALがゴミだと言っているのは、これだともあちゃんの歌が聴けないからである。BABYMETALでMOAMETALのソロが何曲も用意されるなら、それはそれでいいわけである。そうなってないから、こうやって怒りで指を震わせながらエントリーを書いているのである。MOAMETALというキャラクターを口実に菊地最愛ちゃんの歌声を封じているから激怒しているのだ。

この天界から響いてくるもあちゃんの歌声は、衆生が苦しむ穢土に降り注がなければならない。まさに絶対的な天使である。その透き通るような声質や、音程の合わせ方の巧さはもちろん、もあちゃんの芯の強さに貫かれた精神性は、天使だからこそ発現できるものである。人間が存在する忌まわしさ、弱さ、苦しさ、そして血に塗れた歴史。その重みを抱えながら、この地上に降りた一人の少女として、天使の愛と強さを謳うアイドルとしてのレジスタンスである。

いや、中元すず香最高ということでもいいのである。問題はボーカルが中元に固定されており、もあちゃんの天使の歌声を聴く機会がないことである。現役最高のアイドルである菊地最愛ちゃんをサイドダンサーに格下げし、BABYMETALというニセモノがアイドルだという面をしているのは我慢がならない。これは理屈の問題ではなく、もあちゃんの歌声を聴きたいという窮民の欲求である。MOAMETALとかもう飽きたし早くベビメタ解散しろよ。アイドルの歴史を通して、最高のボーカリストは菊地最愛ちゃんである。もあちゃんのボーカルが地上に響かなければ、この末法の世に生まれてきたすべてが悪いことだらけである。穢土で生まれ穢土で死ぬとしても、同時代人としてもあちゃんの歌声を聴けるのであれば、瀕死の傷病兵がナイチンゲールに癒されたような奇蹟に触れることが出来る。もあちゃんの歌声は瞬間的に天界と穢土をつなぐのであり、ほんの僅かだけわれわれを奴隷として縛める重力から解放し、人跡未踏の楽土の光景を幻想のように想見させるのである。BABYMETALというわけのわからない自称アイドルは本当に潰れて欲しい。われわれは菊地最愛ちゃんの歌を聴きたくて、この泥土から天に手を伸ばしているのである。ゆいもあなら武道館は簡単にソールドアウトになるだろうし、アイドル史で最高のボーカリストたる菊地最愛ちゃんの歌声が聴けるのなら、もうBABYMETALなんてインチキアイドルはどうでもいい。もあちゃんという不世出のアイドルが、いつでも天使として具現化出来る状態で地球上に存在しているのに、MOAMETALとして粗衣を身にまとい蹌踉しているのは、アミューズのアーティスト志向の強さでしかない。中元すず香をアーティストとして売り出すという目的のためなら、あらゆるものを犠牲に出来るらしい。わたしはアミューズに激憤を感じている。中元にとってはアーティストになるための準備期間であろうが、菊地最愛ちゃんは今ここでアイドルとして花開かなければならない。時間は生命を生木のように切り裂いていくのだ。もあちゃんはこのままMOAMETALとして時間を空費し、地平線の果てまで赤いダリアが咲き乱れるはずだった可能性を摘み取られ、ひとりの名も無きアイドルとして死ぬのである。中元すず香の実力は確かにすごいであろう。女子でこれだけの声量がある歌手は他にいないし、特に海外では極めて高い評価を受けている。だから、中元さんだけでアーティストとして海外行けばいいだろ。
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