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われわれは一般人なので、芸能界の大物とかどうでもいいわけだが、はるかぜのこの感覚はすごいわけである。
たぶんババアの方がリプしたのだと思うが、この馴れ馴れしさあり得ない。
もちろん渡辺ミキと中川翔子はかなり親密だと思われるし、中川のコネで入ったのだから、これが問題となることはないが、それにしても不躾である。

馴れ馴れしさこそが、はるかぜ親子の手法であり、ブスの特徴なのである。
考えてみて貰いたい。
橋本環奈がため口で馴れ馴れしく話しかけてきたとする。
そうしたらたいていの人が有頂天になってしまう。
橋本環奈と付き合えるかも知れないとか考えてしまうわけだ。
だから美人はむやみに勘違いされないように、よそよそしく接する作法を身につけているのである。
ブスだとそのような自重をする必要がないから、馴れ馴れしく近づいて距離を縮める手法を使うわけである。
ジャイ子とか花沢さんみたいなのが現実にいるんだな、とはるかぜ親子を見て思う次第である。
やたらと不躾なのも親しみの表現のつもりなのであろう。
こう考えると女は美人であるべきなのである。
美人だからこそ、それなりに慎みを持つわけであり、美人でない場合は、はるかぜとかジャイ子みたいに、やたらと馴れ馴れしく接する空気が読めない人間になってしまう。
美人はよそよそしく、ブスは馴れ馴れしいとすると、人間の性格とは、外的な条件で作られているのだと痛感させられる。
この親子は非常識だとよく言われるが、美人でないのが大きな理由である気がしてきた。
空気が読めないのも、他人の視線を感じる機会が少ないからなのだろう。
われわれは菊地最愛原理主義者である。もあちゃんが中元すず香の脇役扱いになっていることに強く異議を唱えるものである。中元すず香は初見では凄まじい歌唱力を持ったスターに見えるかもしれないが、結局のところデーモン小暮と同じなのである。声量をMAXにするために、あまりナチュラルではなく、どこかしら人工的に加工したような声音になるのである。声を楽器として使っているのである。デーモン小暮の歌唱力は誰もが認めるところだが、しかし、デーモン小暮の歌が好きで好きで仕方がないという人はかなり稀である。どこかしら機械的であり、合成音でも聞いているような印象しか受けないのだから、これが心に響くはずがないのである。BABYMETAL自体、ブレイクはしたが、ももクロのように右肩上がりでファンが増え続ける様子はない。ボーカルの中元がまさにデーモン小暮のような実力派歌手であるだけに、あんまり人気が出ないのである。中元が不人気なのは、これからもずっと続く。実力派歌手として一定の支持は得るし、ファンはいるだろうが、あまり多くの人に感動が広がらないのである。これが実力派歌手の運命なのである。もあちゃんは実力派歌手ではないが、人間らしい表現力に満ちあふれていて、山口百恵くらいは簡単に超えられる逸材である。現状のベビメタはいわば絶頂期の山口百恵をサイドダンサーに使っているようなものである。この何が何でも中元すず香というこだわりが、ももクロがブレイクした時の勢いに遠く及ばない原因であろう。のど自慢ならデーモン小暮は山口百恵に勝てそうだが、そういう問題ではあるまい。ライブ会場を埋めるわれわれはカラオケの採点機ではないのである。デーモン小暮と山口百恵がいたらどっちに歌わせるかという問題である。われわれはもあちゃんの愛を求めているのである。しかも中元はMCが出来ないデーモン小暮だから、これが問題の深刻さである。BABYMETALとしてのブランドを管理するやり方も、所詮はマニュアルであろうし、菊地最愛という傑出した天才に対応出来てない。ニセモノを売ってるのではなく、もあちゃんという正真正銘の天才で商売しているという感覚がないらしい。Perfumeみたいなアミューズの落ちこぼれの人たちと同じ戦略をとるのはやめていただきたい。PerfumeとBABYMETALでは実力が天地の差であり、同じノウハウでやってるなら愚かである。中元は絶対的なセンターと決まっているのだろうし、もあちゃんはいわば一敗地に塗れたのであり、組織の力学で完膚無きまでに蹴落とされたのだから、二度と立ち上がれない状況にある。だがこの特別な天才がどこまで島流しにされようと、まだ弔辞を述べるには早いであろう。完全に未来が閉ざされたようにも見えるし、BABYMETALとしてCMに出ることが人生最大の目標に設定されたと思われるから、タレントイメージのために露出機会も極めて限られるであろう。ほとんど肉声を耳にする機会すらあるまい。しかし、もあちゃんの才能や人間性に惚れ込んでいる衆生はたくさんいるはずである。われわれ菊地最愛原理主義者は、どのような苦境においても聖地の奪還を諦めない。
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ナベプロがはるかぜ親子の希望する仕事をゲットしてきたらしい。
一ヶ月に一回の討論番組で、たぶんはるかぜはレギュラー扱いだと思う。
やはりはるかぜと中川翔子はかなり固い絆で結ばれているはずである。
自慢できない人間関係なので、表では馴れ合うメリットがないから、ネットでのやり取りはしないのであろう。

文化人になりたいというはるかぜ(母親)の皮相な願望が叶おうとしているのである。
はるかぜ(娘)はかなりの低学力だと思われるし、喋りもかなり怪しいのだが、これぞナベプロの力なのであろう。
まだ始まってないので中身は不明だが、討論形式とは言っても、台本を用意してもらえる番組なら乗り切れるのだろう。

そもそも文化人とはなんぞやといえば、かつては世論の代弁者であった。
もちろんマスコミの台本通りのことを言うわけである。
本当の言論人とはまた別枠のポジションである。
ネット以降の社会では、世論の代弁者とか必要とされてないので、漫然としたコメンテイター枠なのであろう。
文化人だと三流の頭脳でも一流の頭脳だと扱ってもらえるし、それにはるかぜ(母親)が世間に向かって意見を言いたい性格でもあるのだろう。

わたしは千里眼が使えないので、ババアが代筆しているところを目撃したわけではないが、いつも言うように、小学四年生から中学三年生までツイートの内容が進歩してないので結論は明らかである。
完全にバレバレであろうに、これをプッシュしてしまうナベプロは、よほど中川翔子の力が強いのだろうが、はるかぜ(娘)は本当にこの人生でいいのだろうか。
ここ数ヶ月、武藤彩未ちゃんの肥満具合を経過観察していたわけだが、昨日のLogirlを見た限り、今年に入ってからは最も痩せている状態である。人間としてあらゆる美質を失った脂肪の固まりだったのが、なにかしらかつての美が痕跡器官のように、うっすらとした輪郭で浮かび上がってたように思える。武藤彩未ちゃんなら、4月29日までにあと5キロは痩せてくれるだろう。われわれ菊地最愛原理主義者はもあロスで死に瀕しており、このすべてが灰燼に帰した穢土に戦災孤児として横たわるだけだが、もし武藤彩未ちゃんがマッチ棒のような痩身で登場してくれたら、多少は癒されるかもしれないし、実際のところ体重だけが問題だと思われる。歌唱力はCDよりライブの方が明らかに上手いのでこれはまったく問題ないし進歩が無くても構わない。MCもたいしておもしろいことを話してるわけでもないのに、間の取り方が絶妙で、会場の呼吸のつかみ方がとてもうまいし、これも進歩が無くていい。体型さえ元に戻してくれれば、それで完成なのである。キラーチューンがないという問題もあるが、これはアミューズ側でテコ入れすべき問題であるし、即座にどうにかなるわけではあるまい。

http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-11133785150.html
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武藤彩未ちゃんは幼少期から、水野由結ちゃんと家族ぐるみのつきあいであり、これだけが命綱である。水野由結ちゃんは何のオーディションも受けてないのにアミューズにいるわけだが、おそらく武藤彩未ちゃんの紹介で入ったのだろうと思われる。武藤彩未ちゃんを単騎で推してるのは100人くらいしかいないと思うので、一週間後の渋谷公会堂での公演がソールドアウトとなったのは、ゆいちゃんとの関係で応援して貰ってる要素がかなり大きいだろう。たいていのアイドルは過去を調べるとDQNと遊んでる写真が出てきたりするわけだが、武藤彩未ちゃんは水野由結ちゃんと遊んでる写真が出てくるので、この宣伝効果は計り知れない。これがなかったら、ただ単にさくら学院の最初の生徒会長というだけであるし、万が一、水野由結ちゃんと犬猿の仲だったりしたら、完全に詰んでいたと思われる。とはいえ、いつまでもゆいちゃん頼みというわけにはいくまい。4月29日に35キロくらいまで絞ってくれれば潮目が変わるに違いないし、このディストピアの暗澹たる画布に、かつて持っていたはずの美しさの輪郭を燦然と描き出すことが出来るなら、迷い果て蹌踉していた時間も終わりを告げ、失くしていたすべての事象の欠片の数々が、ステージで煌めくひとりの歌姫として像を結び、王位を奪還するための総決算となるであろう。さくら学院への望郷詩もいいが、そろそろ武藤彩未そのものを雪月花として開き示すべきなのである。
われわれは異性を見るたびに、品定めすることにしているのである。
石ころを見てその造型を品評することはないが、異性となるとそいつと付き合ったらという妄想をするのである。
品定めこそが、われわれの存在の根幹なのである。
それによって世界を把握して、世界が出現するのである。
品定めを延々と続けるのが人生であると言ってもいいのである。
品定めが露骨すぎると下劣であるが、しかしどんな上品な人でも品定めはする。
というより、育ちがいい奴らは品定めの反復で選り好みして、アッパークラスの生活を維持しているわけである。

佐々木希が芸人と付き合っているというのが、なぜかなんとなくショックなのである。
わたしは知能が低い女がすごい嫌いなので、佐々木希は憎悪対象と言っていいし、またいくら美人とは言っても、あの胴長はあり得ないし、人類最高の美と言えば道重さゆみちゃん以外にあり得ない。

しかし、それでもなぜか佐々木希のニュースで漠然としたショックを受けるのは、人間が関係妄想で出来ているからなのである。
佐々木希は日本最高の美人という立ち位置になっているのだし、この女とやれるとしたら、とみんなが妄想しているのである。
わたしもおそらく佐々木希に無関心ではいられないのだろう。
有名人とは大衆からそういう目で見られる記号なのである。

そしてここが肝心なのだが、佐々木希も道重さゆみちゃんも、わたしにとって縁がないという点で、同列に並ぶ存在なのである。
仮に道重さゆみちゃんが隣で寝ているなら、佐々木希とかどうでもいいに決まっている。
胴長の佐々木希と違って、あの道重さゆみちゃんのバランスのいい肢体なら、どんな体位でも美しさの極みであろうし、セックスが終わった後でも、類い希な聡明さをもってして楽しい話をしてくれるだろう。
だが、だが、だが、だが、実際には、佐々木希も道重さゆみちゃんも、わたしの妄想の対象に過ぎないという点では同列なのだ。
これがわたしをアンニュイにさせるのである。

女を「石ころ」として見るのは困難だし、関係を妄想してこそ、無機物ではなく、生々しい人間として立ち現れるのである。
たぶんセックスの問題に限らず、われわれはいろんな人間との関係をシミュレーションしているのである。
人間を品定めしてこそ世界である。
そのような想定や妄想がないなら、石ころに囲まれた空間であり、それはわれわれを存在させる世界ではない。
われわれは朝日新聞をよく批判するが、世界最大の発行部数を誇るのは読売新聞である。読売が傍観者を貫く姿勢もなかなか凄まじいものである。なにか不満が有れば言論で決することなどはなく、すべて弁護士に任せて、法廷で書類を取り交わして粛々と処理される。

読売が週刊ポストを訴えている裁判もアホだと思うのだけど、なぜか東京高裁では読売が逆転勝訴している。
東京地裁で読売が敗訴していることから、はっきりとした判決が出せる案件ではないと思われる。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2605I_W4A620C1CR8000/
権力と一体になって不公正な報道をしたとする記事を週刊ポストが掲載し、名誉を傷つけられたとして、読売新聞東京本社が発行元の小学館などに損害賠償と謝罪広告を求めた訴訟の控訴審で、東京高裁は26日、名誉毀損を認め、100万円の支払いを命じる読売新聞側の逆転勝訴判決を言い渡した。
問題となったのは2012年4月13日号の記事で、「海外取材までして警視庁『2ちゃんねる潰し』を応援する読売の“見識”」との見出しで掲載された。
須藤典明裁判長は「記事は読売新聞が積極的に捜査機関に協力している印象を与え、報道機関としての社会的評価を低下させた。内容も事実ではない」と指摘した。
一審東京地裁判決は「記事の大半は抽象的な内容」とし、社会的評価を低下させたとは認められないとしていた。
小学館広報室は「主張が一部認められず遺憾。判決を精査して、対応を考えたい」とした。読売新聞グループ本社広報部は「妥当な判決と考えている」とコメントした。〔共同〕


わたしはこの週刊ポストの記事を読んでないから中身は知らないが、警察の記者クラブで言われたとおりに取材しているのは事実そのもの。もちろん「命令」されてるわけではないし強制ではないのだから、警察から言われたとおりに何でもやるはずはないし、興味がなければスルーすればいいのだが、あくまで警察からの示唆に基づいて取材しているわけである。記者クラブからのリーク無しには動きようがないというのが問題の本質であろうし、元記事は見てないが、どれだけ乱暴な表現を使ったにせよ、記者クラブと警察発表に誘導されつつ取材活動しているのは確かであろう。


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150422-00000046-dal-ent
日本テレビは22日、同日発売の週刊文春(4月30日号)に掲載された上重聡アナウンサーに関する記事について、「事実ではない悪質な内容」との見解を発表。週刊文春に対して、訴訟を提起する準備を進めるとのコメントを発表した。


この上重の問題にしても、弁護士に任せるということなのである。マンションの問題をスクープしたのは週刊文春であり、これは事実なので争いようがないが、たぶん松坂のボールを売ったとか、そのあたりが事実に反するのだと思う。マンションの問題が事実なのに、松坂のボールを売ったところだけ提訴するのは訴訟馴れしすぎである。ここだけに絞って勝訴を狙っているのである。読売新聞と日本テレビは同一の主体ではないが、体質は同じなのである。裁判を起こすのは自由といえば自由だし、権利といえば権利だが、読売新聞や日本テレビがそれをやるのは濫訴の極みとしか言い得まい。上重のマンションの件をきちんと説明するのが日本テレビの義務であろうし、松坂のボールを売った云々がデマだとして、そこだけに論点を絞り込む戦略だとしたら、もはやどこに大義があるのか、ということである。

週刊文春はいまや最も信頼できるメディアの一つであり、ここは週刊ポストのように甘くはない。週刊文春はメディアの護送船団体質から抜け出して、真のジャーナリズムに脱皮しようという決断主義が感じられる。他局も、各紙も上重の問題に関してはスルーを決め込んでいるのだから、われわれネットユーザーは文藝春秋社を、ジャーナリズム精神の勃興として応援するべきなのである。オールドメディアの胡散臭さと欺瞞が世界を覆い尽くしていることが気付かれ始め、われわれネットユーザーも気付いてはいるのだが、素人ではどうにもならないという状況下において、週刊文春が決起したのである。ネットの素人集団ではマスコミに太刀打ちできないのははっきりしたのだから、もはや文藝春秋社しか頼るところがない。文藝春秋社がこのまま守りに入っていては埋没してじり貧になるから攻めに転じているのだろうが、革命が必要とされる時に革命を起こすのは大いに結構なことである。このままでは死んでしまうという閉塞感によりなまぬるい生活態度をあらため気骨ある人間に生まれ変わろうという決断こそが志士たるにふさわしい。文藝春秋社が生き残るために、既存のメディアの体質に牙を剥くのは、われわれとしても大いに歓迎するべきところであり、丁度いい具合の会社があったものである。われわれが漠然とマスゴミ批判をしても意味が無く、実行力のあるのは週刊文春だけである。文藝春秋社が起こしつつある革命をわれわれは全力で支援し、週刊文春にお金をたくさん落とすべきなのである。週刊文春を買うか、関連書籍でも買うか、なにかしら文藝春秋社の本を買って支援の意を示すべきである。菊池寛の最大の業績は文藝春秋社を立ち上げたこととされるであろう。
われわれ菊地最愛原理主義者は中元すず香という女に難渋しているわけである。
ゆいもあは中元の世話にはなっていない。
武藤彩未ちゃんの世話にはなっているだろうが、中元に何の義理もない。
中元がいなければ、今頃はゆいもあ東京ドームやっていただけである。
もあロスの苦しみのすべては中元のせいである。

KOBAMETALのプロデュース曲なら誰でも売れるのである。
KOBAMETALがいなければ、菊地最愛という天才でさえ世に出られたかはわからず、その意味では義理はあるであろう。
では、なぜKOBAMETALだけ次々と傑作を用意できるのか?
これはKOBAMETALが単なるアミューズの窓際社員であり自分で曲を書かないからである。
だから自分より優秀な作曲家を平気で呼んでこられるのである。

たいていの音楽プロデューサーは自分より優秀な人間がいたら困るのである。
武藤彩未ちゃんのプロデューサーの本間昭光は、KOBAMETALより明らかにレベルが低い楽曲しか用意できない現状だが、本間昭光は自分で作曲出来るのでやはり自分で作曲したいのである。
本間昭光より優秀な人がいても都合が悪いのである。
自分より優秀な作曲家を見つける動機がまったくないのである。
これはほとんどの音楽プロデューサーに当てはまる問題である。
自分より優れた作曲家がいたら、そいつが傑作を書いてしまうから自分が用済みになってしまう。

こう考えると、作曲できない社員を音楽プロデューサーにした方がいいはずなのである。
作曲できないのなら、そもそも作曲の仕事を奪われることがないわけである。
BABYMETALの真似をしようとしている人たちは、くれぐれもこの点に注目して欲しいものである。
作曲できるプロデューサーにとって、自分より優秀な作曲家は敵でしかないのである。

自分より優秀な人間を探そうと思えば見つかるのである。
KOBAMETALは魔法を使っているわけではない。
自分が作曲できないから、ひとりのアミューズ社員として、優秀な作曲家を必死で探しているだけなのである。
こう考えると、音楽プロデューサーという在り方も見直しが必要であろう。
作曲家をプロデューサーにしたら終わりである。
自分より優秀な作曲家は絶対に連れてこない。
たぶんKOBAMETALはアミューズで出世できるのであろうし、窓際社員こそが優秀な作曲家を全力で掻き集める動機があるのである。
われわれの世界は、家族が身内で、それ以外は赤の他人という構成で出来ている。
では赤の他人は赤の他人だから本当にどうでもいいかというと、そうでもなく、赤の他人にも家族はいるわけで、その共通モデルから理解しているのである。
自分の親と他人の親が同一人物であるかのような錯覚をして、われわれは共感性を得ているのである。
自分の親と他人の親は別人に決まっているのだが、そのような象徴性を共有しているわけである。

子どもを育てるのに多大なコストが掛かるからには、血縁に縋るしか無く、この家族という関係性は絶対に崩れない。
何かしら科学の進歩で子育てを機械が行ってくれるなら話は変わるが、それは相当に遠い未来の話であろう。
やはり家族なのである。
家族しかないのが人間なのである。

はるかぜ親子の関係においては、母親を尊敬するのが絶対のルールである。
「こいつ馬鹿だな」と思うことなどあり得ない。
これがかなり危険なのである。
これは母親との関係に限ったルールではなく、それ以外の他人との関係でも反復されるからである。

はるかぜ(娘)は現状では善良なタイプだと思われるが、要するに反抗期がないのである。
あの非常識なババアと四六時中接していながら「こいつ馬鹿だな」と思ってはいけないという強い規範の下で育っているわけである。
このルールは他人にも適用されていくので、はるかぜ(娘)は誰に対しても「こいつ馬鹿だな」と思うことが出来ない。
他人を冷めた目で見る態度自体が禁じられている。

他人を露骨に馬鹿にするのと、心の中で思うのはまったく別のことである。
心の中で「こいつ馬鹿だな」と他人を冷めた感じで見ているのは人格者でもそうなのである。
もちろん人格者であれば、それを表には出さないが、冷めた目で他人を見ることは基本である。

自分の親だけを例外的に崇拝して、他人を冷めた目で見るというのは、なかなか難しい。
おそらくはるかぜ(母親)も毒親に育てられているから、他人を冷静に見るという習慣は付いていないはずだ。
だからこそ正義感の強さがあるのである。
まともなひとなら「こいつ馬鹿だな」と冷めた目線で見て整理する問題を、正義と悪という対立軸で捉えてぶつかっていくのだ。
そしていつも社民党議員のような騒ぎを起こしているのだし、政界を目指しても不思議ではないメンタリティーの持ち主なのである。

他人のことは馬鹿だと考えるのが常識であり、悪だと考えるのは非常識なのである。
はるかぜ(娘)がぐれる可能性が高いと思われるのは、他人を冷めた目で見るという基本を徹底的に禁じられているので、選ばれた人間が迫害されているような選民意識を持っているからである。
はるかぜ(娘)が他人を冷めた目で見るとしたら、いわば禁断の果実を口にするようなものであり、自分の母親こそが非常識の固まりだったと気付いてしまうことであるから、現在の楽園から追放されるしかない。
家族とはそういう括弧付きの「楽園」なのである。
家族以外は赤の他人という構造であるから、どれだけ最悪の環境であれ、追放されたくはないのである。
われわれは菊地最愛原理主義者である。8月下旬にベビメタが海外フェスに参加することが発表されたが、これは要するに、菊地最愛という絶頂期にあるアイドルの単独公演が行われる見込みがないということである。海外フェスなど、われわれ菊地最愛原理主義者にとっては悲報でしか無く、この滂沱のごとく流れる血涙がディストピアを埋め尽くすのである。極めて商品価値が高いもあちゃんが16歳になっても、中元のステマに駆り出されるわけである。われわれ菊地最愛原理主義者としては、この抱き合わせ商法に徹底して異議を申し立てるし、あくまで菊地最愛を崇拝しているのであり、決して中元なんぞ応援してないというのをはっきりさせておく。もはや中元は異教徒であり、もあちゃんという聖地を強奪している邪悪な悪魔である。

なんか中元すず香は栗原類と同じオーラがするわけである。ポンコツキャラとして愛されていたのに、だんだん本人の自尊心の問題などで、それを拒み始めて、誰も触れない物件になってしまった。これは人間として自然な感情でもあるし、いじられたくないというのも自然だが、中元とか栗原類みたいな人間が「いじられたくない」と言い出すと、芸能人として終わってるので、メディアから消えて貰うしかない。現状の中元はゆいもあ人気に寄生しているだけだし、このめんどくさい女をどうやって駆除するかという段階に来ている。

ゆいもあは超絶的な人気があるが、BABYMETALは完全に頭打ちである。この現実は認めなければならない。菊地最愛と水野由結にすごい人気があるだけで、ベビメタはあまり人気がない。幕張の先行販売がほぼ全員当選だったことからして、BABYMETALはももクロになれないのは明らかである。個々人の能力でベビメタの方が上であるのはもちろんだが、それでも勢いがないのは、グループとして機能不全に陥っているのである。

イギリスではいつも通り中元があの圧倒的な声量で観客をなぶり殺しにするのだろうし、海外のメタルフェスならそれが絶賛されるというだけである。日本人からすると、中元が歌姫になれないのはわかりきっているし、これだけ海外で売れてるアピールしても、中元だけは人気が上がらない。アピールすればするほど、中元すず香の日本語表現力の低さが露呈されていくだけである。不退転の決意で海外に行ってるわけではないし、もし本当に海外でやっていくつもりなら、中元だけ海外でやればいいであろう。声量で圧倒するしか持ち味が無く、何を歌っているのかわからないのだから、このデスボイスの女王は海外に永住した方がいい。われわれは菊地最愛原理主義者である。菊地最愛としての活動が見られないことに絶望しており、また中元がアイドルにまったく興味がないのも事実であるし、人気面でももクロに近づくことすら出来ないのだし、中元は皇位を簒奪したに過ぎない。中元がいなくなってゆいもあだけでやれば人気が上昇してももクロくらいは簡単に追い抜けるのが実情だし、本当の歌唱力は菊地最愛こそが最高峰であるから、実力面でも上昇するのである。
われわれは菊地最愛原理主義者である。菊地最愛しか応援しない。MOAMETALは認めない。菊地最愛単独公演が発表されるまではエルサレムに辿り着いたことにはならない。ボーカルが中元に固定されているという問題に強く異議を唱えるのであり、なにしろ菊地最愛原理主義であるから、もあちゃんの脇役キャラを容認することはない。芸能界のルールよりわれわれの聖典の方が優先するから、アミューズの決定を不承不承認めるということは断じてない。

中元はいわば野茂英雄のようなキャラクターなので、まあ悪い人ではないのだが、やたらとマイペースでもっさりしているわけである。もちろんさくら学院はDQNの集まりではないから、そういう個性の人として受容していたし、中元はポンコツの愛されキャラとなっていたのだが、現状では、カリスマとして裏に隠されている。さくら学院時代に嫌われていたという様子は見えないが、このところすっかり、あの人をいじってはいけない、という状況が生じている。ただでさえ取り扱いが難しい人間だし、アミューズ上層部の勘気に触れてはいけないということなのだろう。中元がポンコツとして愛される牧歌的な期間はすでに終わって、もはや腫れ物の極みとなっている。森先生にいじってもらって変な人扱いを続ければよかったのに、カリスマ路線を選択してICONIQのようになったのだし、さくら学院のコンセプトから遠く懸け離れ、別の世界の人間となったのである。

さくら学院の人間関係は武藤彩未ちゃんを中心に形成されているわけである。お互いが均等に仲良しなのではなく、あくまで武藤彩未ちゃんが中心である。彩未ちゃんに与えられている楽曲のレベルを考えるに、ベビメタとは雲泥の差があるから、ブレイクするのは困難だと思われるが、しかしそれでも彩未ちゃんが中心なのである。なぜ現状売れてないのに中心なのか、と言えば、水野由結ちゃんと幼少期から極めて親しいからであり、これが決定的である。さくら学院の校風は武藤-水野の関係の反映であり、水野由結という人間そのものが校風なのであった。天使と悪魔が共存しているもあちゃんではこれは出来ないことだった。これからは武藤-水野が完全に消えるので、山出愛子と岡田愛がステージ裏で殴り合うのが普通になる。

もあちゃんも、武藤彩未ちゃんにメールしたりして秋波を送っている様子が窺える。学生がバンドを作るのではないから好き勝手に出来るわけではないが、このままベビメタだと、16歳からのアイドル絶頂期が台無しになる可能性も高く、武藤彩未ちゃんと組んだ方が望ましいという考えも頭の片隅にはあるに違いない。武藤彩未ちゃんと組めば、必ず水野由結ちゃんが付いてくるので、中元陣営の切り崩しとしても望ましいし、他のさくら学院OBを絡めるのも中元さえいなければ出来る。BABYMETAL解散というのは極めて現実味が乏しいが、中元が不動のセンターという状況は変えなければならない。中元は声量ジャイアンなので、あれと一緒に歌うのは誰でも嫌だろうが、しかしちゃんと聴けばもあちゃんの天才的な表現力の美しさが際立ってくるのである。

ともかくどう見ても、菊地最愛こそが絶頂期を極めているアイドルなのだが、なぜかアミューズの中元推しがすごいらしく、それこそ中元原理主義である。われわれ菊地最愛原理主義者が中元原理主義に勝てるのかというと、それはまったく無理という気もするが、しかしアミューズは上場企業なので、なぜ菊地最愛という超絶的なアイドルが粗衣をまとい冷遇されているのか、株主総会で問われる可能性はある。

たぶんアミューズは中元の歌唱力がどうにかなると思ってるのだろう。やたらと声量があるので、この圧倒的な声量で蹂躙するスタイルで何とかしてるだけなので、日本人としては心に響かない歌手の典型であり、外人にしか人気が出ないのも納得だが、中元のためにわざわざ海外で人気を出して、逆輸入してくるという遠回りの時間的ロスはとても大きい。中元はアイドルではないから賞味期限にピリピリする必要もないのだろうが、ゆいもあに関しては、中元に青春を捧げろと言われているようなものである。花は一度しか咲かないし、青春は一回しかない。われわれは菊地最愛原理主義者である。中元のためにもあちゃんの絶頂期が失われるのは断固として拒否させてもらう。いくらもあちゃんといえども千年王国は築けない。僅かな時間だけ金色燦爛たる奇蹟を煌めかせるために生まれてきたのであるし、われわれはその瞬間的な奇蹟を特異点として永遠的に反芻したいのだから、それが一度も行われないのは人類にとって悲劇である。もあちゃんは頭の出来がいいので、30歳くらいになっても何かしら面白いことはやれそうだが、やはり容姿がピークの時こそ最大の利益を得られるのだし、偶像として人類の頂点に君臨できるのである。この大事な時期が中元計画の端役として消費されるのは人類にとって大きな損失である。薄暗いディストピアの大衆酒場で濁り酒を飲むだけのわれわれでも、そこにもあちゃんの歌声が流れてきたら、不意に涙が溢れるのだし、なにかしら、われわれには縁遠いながらも、人類愛の一端は幻視され、決して世界が薔薇色に塗り替えられるわけではないにしても、しかし、だからこそ心を響かせてくれる歌姫を求めるのである。われわれは菊地最愛原理主義者である。もあちゃんは人類のアイドルである。中元はアミューズ役員のアイドルであり、人類の財産ではない。
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