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中元すず香は男だったらイケメンだったのにという慨嘆を、では男にしてしまおうと本当にやったのがSU-METALというキャラクターである。これはコロンブスの卵というものであり、実際に見せられると普通の発想にも見えるが、なかなか実行は出来ない。ほとんどのプロデューサーは中元すず香をそのままステージに上げて失敗していたであろう。このあたりはKOBAMETALのセンスのよさである。中元すず香を女の子だと思うと可愛くないので、男性としてステージに上げて、ステージから降りたら徹底して露出制限することにしたのである。これはおそらくはアミューズ社でかなりの功績だと扱われてるはずである。逸材のつもりだった中元すず香が、成長するに従い、女の子というストライクゾーンから外れる一方だったので、中元を女の子としては売らずに、SU-METALにしてしまったのは、たぶん社内で相当な評価を受けているはず。中元が女の子として可愛くないのは絶対に間違いないが、男だとしたらかなりのイケメンであるのも間違いがないので、そういう意味ではSU-METALというのはこれ以上ない的確な演出なのである。

中元すず香を男性に変更するために、かなり多くのコストが支払われているのも確かであり、こういう宝塚的な手法がテレビで受けるわけがないから、どうしてもコアなファンに絞っていくことになる。海外へのこだわりというより、日本のテレビだとSU-METALが成り立たない問題である。これまで歌番組に出ても反響はないわけであり、やはりそれなりの凝った舞台装置が必要なのである。ベビメタという世界観から取り出して、いろんな歌手の中に混じって一曲だけやるというのでは、何も面白くないわけである。ベビメタがテレビに出ないのはポリシーというのではなく、テレビに出ても人気がないのが判明しているから、もう出さないことにしたのである。テレビに出せば人気が出るのにあえて出さない、というのではなく、結果が出ないから逃げたのである。

ここまで来ると水野由結と菊地最愛は被害者と言って差し支えが無く、これから16歳になるわけだが、まったく終わる気配がない。サイドダンサー交代でも、さくら学院新入生から選べば、それほどダメージはないように思えるし、もしくはサイドダンサーはゆいもあ固定ではなく、さくら学院新入生を含めたシャッフルにしてもいいわけだ。だが、あくまでKOBAMETALは中元すず香のためだけにやっているので、さくら学院新入生を売り出しながら、ゆいもあは徐々にフェイドアウトという戦略を考える立場にない。BABYMETALはさくら学院と無関係になりつつあるが、サイドダンサーをさくら学院新入生に変更するというのも、管轄が違うということで、なかなか出来ないと思われる。

EXILEにやたらとたくさんダンサーがいるのは、それがHIROにとって利益なのであり、ダンサーを育成するのがビジネスになっているからである。ベビメタのセンターが中元すず香で不動であるにしても、サイドダンサーは変えてもいいと思うし、それがアミューズ社全体の利益にもなるのだが、おそらく個々の担当プロデューサーに責任を預けているはずであるから、やはりKOBAMETALがさくら学院のことまで考える理由はないのである。サイドダンサー変更で、さくら学院の生徒の売り出しというメリットはあるにせよ、それで中元すず香の人気が上がることにもならないから、KOBAMETALがそれをやる動機がまったくないのである。またさくら学院の側からしてもKOBAMETALがそこまで考えるのは、大きなお世話かもしれない。KOBAMETALがさくら学院新入生の中から二人を指名して、それに変更しようとしても、さくら学院側が拒否する可能性もあるわけだ。
個体には寿命があり、死んでいくことによって世代交代していくというのは、よくよく考えたら奇妙である。細胞というものが、テロメアに制限されて老化して死んでいくのがむしろ変であり、いつまでも同じ状態で再生産する方が簡単なような気がする。だがあくまで個体が死んでいって、世代が変わって進化していくという仕組みなのである。

人間社会に関しては、偉い人が死んでくれるのが本当に大切である。偉い人がいつまでも生きていたら、それはそれで困るわけである。昭和天皇がいつまでも生きていたら、新しい時代には進めない。このところ東京裁判が茶番だという意見が言われるのも、完全に昭和天皇が過去になったからであろう。1945年8月15日を体験した人であれば、これで国体と天皇も終わりと絶望したであろうし、その後にマッカーサーがやってきて、昭和天皇無罪ありきの東京裁判を行ったのは、たいていの日本人が安堵したに違いないのである。中国や韓国でさえ、あれだけ反日なのに、昭和天皇だけはバッシング出来ないのである。頼みの綱の東京裁判で昭和天皇が無罪なのだから、バッシング出来るわけがない。東京裁判は茶番だが、何のための茶番だったのかと言えば、昭和天皇のためだったと言うしかないのだし、A級戦犯は誰でもよかったのである。

昭和に入ってからは、政党政治が完全に崩れたし、立憲君主制など機能しなくなったのである。統帥権がクローズアップされ天皇のためと言えば何でもよくなった。昭和天皇から何も頼まれてないのに、天皇の代弁者として活動することが可能であった。美濃部達吉や共産主義者は思想的に弾圧されたが、天皇崇拝の立場を取ればだいたい問題がなかった。2.26事件はさすがに行き過ぎであり、当初は成功しそうにも思われたが、昭和天皇が激怒し自分で兵を率いてでも鎮圧すると意志を示したので、皇道派は追いやられた。昭和天皇が傍観者を決め込まなかったのはこの時くらいであろう。

戦後になってからも、自衛隊の市ヶ谷駐屯地に男が乱入して割腹自殺をするという事件が起こったが、この男は決して昭和天皇に頼まれて行動したわけではない。頼まれてもないのに昭和天皇のために決起するというのは、まさに昭和天皇という無私を貫いた存在が生み出してしまった問題である。この男は割腹自殺をする前に「天皇に自衛隊をお返しするためです」と動機を述べたが、昭和天皇がそんなことを頼むはずがないのである。「我国の稜威振はざることあらば、汝等能く朕とその憂いを共にせよ」というのが軍事勅諭にあるが、このあたりが、天皇が何を憂いているか、自分の思いこみで考えていいという自由を生んだように思える。徴兵制度や軍人の忠誠心のために、天皇を崇拝する精神を育んできたことが、やがては狂気しか生み出さなくなる。割腹自殺した男は「憂国」というくだらない小説を書いていたが、この男が国を憂いて自衛隊で割腹自殺したのは、まさに天皇崇拝ならではの独断主義である。天皇のためだと言えば、あらゆるモラルや法は超越できて、誰でもラスコーリニコフになれるという構図を、戦時中に徴兵逃れしたこの男はかなり乗り遅れた人間として演じて見せたのだ。その介錯されて転がった首の画像は新聞にも掲載されたが、その頭部が何を語るわけでもなく、まさに死である。平成になってから、とても温厚で善良さに溢れた常識人が天皇に即位したため、右翼団体、つまり無言の昭和天皇の代弁者として活動する輩は、かなり勢いを失ったのである。

人間に寿命があるのは、ここがいいのであろう。もしくは寿命があるからこそ、老人が退場し、社会として新しい時代を迎えるのである。果たして生命が誕生した時に、その最初のDNAは人類のことまで考えていたかどうかわからないが、こうやって社会というものが出来るとなると、人物が入れ替わるのは、それも設計されているように思えてならない。
目と鼻と口の構成を顔として扱うことが急激に不思議になってきたのだが、しかしこれを不思議で仕方がないという意見は見たことがないので、わたしの中で生じた疑問はかなり稀であろうと思われる。人生で最も重要なのは顔であろうし、その目と鼻と口の並び方に人類は美を見いだしたり醜いと思うわけだし、あるいは、目や鼻や口が変なところに発生したら、グロテスクの極みである。

たぶんわたしはTehu君の画像を見ている時に、もはや顔として破綻しており、なんか頭部に目と鼻と口がくっついているだけという強烈な印象を持ったのだと思う。その違和感がやがて、なぜ、目と鼻と口という順番なのであろうという疑問にまで発展したのである。もうどこに目と鼻と口があろうがいいであろうという考えが、Tehu君の顔を見ているうちに浮かび上がってきて、なにかしら人類への重大な疑問符を突き付けられたのである。

この目と鼻と口という構成が宇宙の真理とは思えないのである。たまたま地球の生命体がそうなっているだけである。宇宙の真理とはまったく無関係のはずである。そしておそらく顔という概念は遺伝子に組み込まれているだろうから、そこまで考えるととても不思議なのである。この頭部の構成を顔として把握する概念。それによってわれわれの精神に浮かび上がってくる美的観念。この何かしらおそるべき設計思想を持った顔というものを誰も疑問にしないのである。人生で顔が一番大事と言いながら、誰も顔とはなんぞやと問わないのだから、この顔という概念はなにかしら圧倒的な強制力である。

今までずっと目と鼻と口というパーツを顔として把握するのが当然だと考えていたし、何しろ美人が美人であるのは絶対的な真実なので、その美という規律に囚われて、顔という概念の不思議さに気付かなかったのである。おそらくTehu君の画像を見た時に、彼の顔へのこだわりとともに、顔とはそもそも何なんだろうと重大な疑問を抱いたのである。今までは美人への憧れが強すぎて、まったく疑問に思わなかったのだが、要は頭部に目と鼻と口が付いているだけで、美には根拠がない、という気がしてきてしまったのである。

美という規律は絶対に揺るがないものであるから、美人が美人というのに変わりはないし、道重さゆみちゃんの画像を見て性欲をそそられるのはまったく変わらないが、顔というのはおそらく地球の生命体だけの万有引力のようなものであり、宇宙まで考えると、顔では説明できないという気がしてきたのである。地球人類の誰一人として道重さゆみちゃんの美しさは否定しないのであるし、この美の規律は絶対なのだが、果たして宇宙のどこでもまんべんなく、道重さゆみちゃんの頭部のパーツが顔として把握され、美人として認識されるのか疑念が生じてきたのである。地球上では誰も否定しないが、宇宙のどこまで通用するのかという疑問である。

われわれの内面に浮かび上がり続け人生を支配する美人への憧れも遺伝子の設計なのであろうから、どうしても人間より高級な知性であろうと考えざるを得ないのだが、こうやってひとりひとりに顔というアイコンを持たせて、われわれを繁殖させたり淘汰しているのが、何の目的もなさそうなところに戦慄するのである。通常であれば、Tehu君のような人は表には出てこないので気付かないのであるが、顔というテーマに関して、これだけインパクトの強い存在はあるまいし、今まで思いもしなかったような顔という概念への疑問が生じてきて仕方がないのである。ひとびとのまっさらな頭部に人面瘡が浮かび上がってきて、それを顔として他人に向き合い人生を演じさせられているという、そういうグロテスクなイメージである。美というのは宇宙の真理であると考えていたのだが、この地球上に住むわれわれだけが、顔という概念でやり取りしているという感じが拭えない。われわれ人類にとって顔は絶対的だが、この目と鼻と口の並びが宇宙全体を貫く真理とは思えない。
われわれは顔への関心が非常に強いわけである。
顔が存在の基本である。
たとえば顔を隠した状態でもコミュニケーションは可能であろうが、それはあくまで隠されている中に顔があると確信しているからである。
顔を隠すのと顔が無くなるのとではまったく違う。
あまりにも顔というものへのこだわりが普遍的過ぎて、これはよほどのことがない限り、病的とすら言い難いのである。
醜貌恐怖は病気と言われるが、美人が好きというのは当たり前である。
醜貌恐怖にしても、極端すぎるから病気と言われるだけであり、不細工で恥ずかしいと考えるのは普通である。
この世界から顔を廃止したいという願望はあまり聴いたことがないわけである。
たとえばパンチラに対して、なんで布が見たいのかという問いかけは頻繁に目にするし、実際ここ最近は見せてもいいのを重ねて履いているのが普通という感じであろう。
どうしてもパンツを見たいという関心も低下してきているように思える。
だが、下着とは違って、顔というのは、われわれの本能から切り離すのが無理と言っていい対象であり、パンツがただの布であると思えるかのように、肉体の頭部に味覚や視覚や聴覚の器官が並んでいるだけと思うはずがない。
人間の目や鼻や口を、胃袋や肺や膵臓と同じと考えようとしても、これはかなり困難である。
内臓がグロテスクというのも、ほぼ本能で決まっており、これも変更不能であろう。
おそらく顔というのは人間の存在イメージそのものなのである。
顔を否定するとなると、人間そのものを否定しないといけないという感じである。

顔というのも、この地球上の生命体の設計であろうし、他の星の生命に顔があるとは限らないわけである。
そもそも目と鼻と口という位置関係に必然性があるとは思われず、目と鼻の位置が逆でもいいであろう。
目が変な位置に付いているというのはグロテスクな表現の典型であるが、これもなかなか興味深い。
目と鼻と口がこの位置である必然性はなかっただろうし、もしくは口で食べるという行為自体に必然性があるわけでもなく、他のやり方もあるだろうから、この位置こそが美人であるという観念に絶対性はないはずなのだが、なぜわれわれは顔という概念を信じ込んでいて、目が変な位置に付いているとグロテスクに思えるのか、それは本能で決められている美的観念の設定だとしか言いようがない。
よく世界が滅びればいいという人がいる。
これが滅びないのは人類がたくさんいるからである。
狭い空間に100人だけいて、その100人が人類のすべてなら、自分以外の99人を殺害することは可能であるような気もする。
世界が滅びればいいと言う人が何もしないのは、人類が70億人もいるので滅ぼせないからである。
もちろん今日の世の中では核兵器というものがあり、人類の絶滅も可能ではあるが、かなり限られた権力者しかそれを実行できないわけである。
実行されることがあるかもしれないし、ソビエトがあった頃なら現実にあり得ただろうが、いずれにせよ、単なる一般人が人類の絶滅など出来ないのである。

この滅ぼせないというところが、人類の本質なのである。
70億人という特定可能な人数ではあるが、ほとんど無数というべき数の人間が存在しているのである。
こうでなければ、通り魔願望のある人間に世界は滅ぼされていただろう。
たぶん通り魔というのは、シンボリックに人類の絶滅を願う行為であり、誰でもいいというより、誰だかわからないからこそ、その人類の普遍的な在り方に即して、人類への挑戦として、誰かを殺害しているのである。
それしか出来ないわけである。
文字通り絶滅させることは出来ないわけで、なにかしら象徴的に世界を滅ぼしてみせるような行為をするのが限界である。

言うまでもなく、70億人という人数は最近のものである。
たぶん地理的な広さを問題にするべきであろうし、地理的な広さ故に絶滅が出来ないということも出来る。
地球を一周するだけでも大変なのに、しらみつぶしに地球全体を踏破するとなると、ひとりの人間の肉体では不可能である。
これについては長々と述べる必要はあるまい。

世界人類の大半の人はほとんど面識がないわけである。
ほとんどの人を知らないからこそ人類という概念があるわけである。
人類、つまり類的存在として、共通の認識システムを持っており、それぞれが別の人生を体験している。
他人の人生も想像で理解できるわけである。
もちろん想像に過ぎないから、陳腐な想像しかしてないだろうが、その想像だけが頼りなのである。

それぞれが肉体というシステムを持ち、その共通の構造体で世界を理解しているのである。
空閨を託っている人間でも、人生を謳歌している人間のことは想像が付くのである。
快楽は体験できなくても、その快楽の想像は出来るのである。
貧乏人が金持ちの生活を想像するとなれば、それは陳腐であろうし、本当の意味で細部まで再現出来るわけがないが、この漠然とした感じこそが重要なのである。
この想像の陳腐さも普遍的であろうし、何かしら、共通の答えが出てくるのである。
こうやって共通規格を持たされていることで、世界が成立しているのである。
たとえば駅があってホームがあって電車が走っているのは、人類として存在しているからなのである。
誰が乗るのか特定しているわけではないが、人間が使うことを想定しているわけである。
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なぜか水野由結ちゃんと武藤彩未ちゃんが共演しない問題があるわけだが、今後も本間昭光がプロデュースを継続するようなので、共演しない状態は続くはずである。武藤彩未ちゃんは表向きは80年代をテーマにしているが、実際はいきものがかりと同じ路線だと思われる。奇抜で斬新な曲ではなく、すでに定着している王道パターンの曲をやろうということなのである。要はギミチョコとは対極の地味な楽曲ということである。内部事情はまったくわからないし、KOBAMETALが反対しているのか、アミューズ社の方針なのか、それはまったく不明である。BABYMETALが武藤彩未ちゃんを直接的にアシストするとなると、これから武藤彩未ちゃんが中途半端な状態になった場合に、誰に責任があるのか曖昧になるし、もしくは成功した場合でも誰の手柄なのか曖昧であるから、これはよくないという判断が働いているはず。本間昭光が反対している可能性だってあるのだし、そこは完全に不明であるが、ともかく水野由結ちゃんはKOBAMETALで、武藤彩未ちゃんは本間昭光ということで明確に線が引かれているはずで、この軍事境界線は不可侵のものであり、今後とも共演はしないと考えられる。実際のところ、個人的に親密とか険悪であるという理由でくっついたり離れたりするのでは問題があるであろう。

おそらく武藤彩未ちゃんは地道に対バンするとか、そういう路線ではなく、高いハードルを設定されていて、それがなにかしら不安定な原因だと思われる。20歳になるまでに武道館というのも、その段階で結果を求められているのである。こうやって事前にサクセスストーリーが描かれて、その通りにならないという事例はまま見かけるわけだし、その墓標のひとつになるのかもしれないが、ともかく結果はすべて本間昭光の責任に帰着するということなのである。アミューズ社にはいろいろなアーティストがいるので、すでに決まっていると思われる武道館を他のアーティストに譲るのは簡単だが、たぶん撤回されない。

資本主義社会では他人を見捨てる義務がある。商品として成立しないものは見捨てなければならない。そしてアーティストは多かれ少なかれ商品である。作詞作曲演奏すべて何もかもを自分でやるなら自由はありそうだが、そうでもない限り、プロデューサーに作られた商品と言うしかない。たとえばゆいもあの自作曲を武藤彩未ちゃんに提供するならグレーゾーンだが、これにしても、ゆいもあというキャラクターが強調されるなら、商品を無償で供与しているということになる。もちろん同じアミューズ所属であるから、ゆいもあ共演で救済しても、企業としての損失はないが、やはり規律の問題としてそれはやらないであろう。そこまでやるとプロデュースの成功失敗が無意味になり、何位でゴールしようが結果が取り消されるようなものである。武藤彩未ちゃんに高いハードルが与えられているのは、失敗することも計算に入れられているからである。どこまでも消耗しながら戦い続けるのではなく、20歳までにブレイクするべきという期限を付けるのも規律である。武道館がガラガラになるのであれば、アミューズ社はそれも敢えて放置するのである。絶対に損をしないというやり方ではなく、あえて損失を受け入れるわけである。損切りということである。どこまでも際限なく赤字を垂れ流すのではなく、一定のところで失敗と損失を認めるわけである。共産主義社会では、消費したいだけ消費して、労働したいだけ労働することで帳尻が合うことになっているが、ここは資本主義社会である。見境無く救済してしまうと規律が無くなるので、どんなに気の毒であっても助けないのがルールである。もちろん自分の財布からお金を出して寄付するのは自由であるが、気の毒な人を見るたびに一万円札を渡すという人はまずいない。どれだけ気の毒な子どもがいても、児童養護施設を最高の環境にするわけにはいかない。子育ての責任は親に負って貰う。親が見捨てた子どもを過剰救済することは許されない。沈没していくのをただ見守るということも必要なのである。

ゆいもあからすれば、容姿も能力も人間性もすべて中元すず香より武藤彩未ちゃんの方が上であると知っているから、沈没するのを見守るのは耐え難いであろうが、しかし、これは本間昭光の責任として確定しなければならないのである。武藤彩未ちゃんは本間昭光の責任であり、中元すず香はKOBAMETALの責任であるというしかないのである。もちろん、ここまでの記述はこれまでの様子を観察しながら推測して言っているのであり、実際はアミューズ社の内部の問題であるから、ゆいもあが武藤彩未ちゃんを救済することもあり得なくはないが、たぶんそこまではしないであろう。ゆいもあと武藤彩未ちゃんの三人で活動させたりしたら、プロデュースの規律がなくなる。水野由結ちゃんはさほど中元と親しそうには見えないが、武藤彩未ちゃんとは幼少期から家族ぐるみで親密であるので、BABYMETALにとってかなりハイリスクな人間関係である。もちろんブレイクした後なら共演するのは自由だが、現在は失敗の責任を誰に取らせるかが課題となっており、だからこそ見捨てることが求められている。来年四月までに、損切りの意味も含めて武道館は決行されるはずだし、たぶんガラガラになるから、本間昭光に責任を取って貰うしかない。無論、具体的にどうこうというわけではないし、負債を背負うわけではないが、プロデューサーとして逸材を失敗作にしたという経歴の汚点は残る。ゆいもあが水野由結菊地最愛として普通にテレビタレントとして活躍でもすれば、KOBAMETALの管理下を離れてフリーハンドになれそうだが、それが嫌だからこそ、KOBAMETALはゆいもあを露出制限しているのである。もし仮に中元すず香の人気が絶大で、ゆいもあが雑魚ならタレント活動を推奨されるのだが、これが逆であるからいろいろ制限されているのである。

もちろん20歳という期限を設定しているのが撤回される可能性もあるし、まだ発表されているわけではないので、武道館を先延ばしにして、つまりハードルを下げて長い目で見る路線に変更されることもあり得るし、そこは何とも言えないが、アイドルという設定からして20歳というタイムリミットは変わらない気がする。プロデューサーは親と同じで変更出来ないから、それが運命である。成功することが約束されているわけではなく、むしろ逆なので、このまま失敗に終わる可能性も含めて、運命と考えるしかないのである。実際に武藤彩未ちゃんのライブを見てもらえれば、その質の高さは明らかであり、与えられている楽曲が地味でもそれを能う限り最大限に表現しているのであるが、YouTubeだけしか見ない人だと、どうしてもベビメタの奇を衒った曲の方が印象に残るし、中元という粗悪品がすごいように見えるのである。中元が最初からソロ活動でプロデュースが本間昭光だったらどうなるか、という話だが、これは結果論で言えば明らかだが、始まる前ではわからないのであるし、アミューズで窓際だったKOBAMETALが意味不明な歌詞でも盛り上がれるキラーチューンを用意してきたのだから、そっちがブレイクするのは当然である。この窓際社員がいかにもヒットしそうな曲ばかり集めてくるとは誰も予想しなかったであろう。アミューズ社はこれを戦果と認めているから、ゆいもあが戦利品として幽閉されている現在の状況があるのである。

本間昭光はいきものがかりの曲は編曲だけで、ほとんど作曲はしてないはずだが、おそらく同等の品質の作品は提供出来てると思うので、武藤彩未ちゃんはこれでどうにかするしかない。いかにもヒットしそうな曲はないにせよ、それなりの良曲は揃っているし、これくらいの地味な曲で売れている人もいるのだから、これはこれでどこかに需要はあるのだろう。KOBAMETALのストックの中から差し出すわけにはいかないので、地味な楽曲で売っていくしかないのである。ゆいもあに口先だけ応援するくらいはさせた方が角が立たない気もするが、あくまで本間昭光+武藤彩未で責任をもってもらうということなのである。なにかしら実体のあるコラボや共演などは無理である。武藤彩未ちゃんの渋谷公会堂のライブにゆいもあだけが来て中元が来なかったのは、KOBAMETAL+中元すず香という陣営でそう判断したのであろう。またそれが公正な規律であるとアミューズ社が認めているからこそ、ゆいもあが表に出てこないわけである。ここまで失敗だと決めつけて書いているが、一年後にどうなっているかはもちろん決まっていない。あくまで現状からの妥当な予想をしているだけなので、これは本間昭光+武藤彩未で書き換えるしかないのである。
われわれは他者として存在しているわけである。
自分として存在しているというのなら、それは嘘であろう。
他人の前では、あくまで他者として存在しているはずである。
本当の自分というのが確固としてあるわけではないが、ともかく、決して自分としては存在しておらず、あくまで他者として存在している。
他者の前では他者であるしかないので、本当の自分は疎外されていく。
この他者性こそが現実の根幹なのである。
一人だと自分であるつもりでも、他者の前に出た瞬間に、他人の顔を作らざるを得なくなる。

20世紀とはなんぞやと言えば、新聞によって作られた民主主義であった。
思想だけは民主主義であったが、なにしろインターネットがないから、2015年現在より、他者性が強かったのである。
究極的には本当の自分というのはなく、自分というのも、たまたま育った環境に応じて生成されただけであり、産院で取り違えられていたら、まったく別の内面を形成していたであろうが、とりあえず他者性とはまた別の本当の自分があるのも確かである。
20世紀は民主主義はあったが、個人が情報を発信する手段に乏しかったので、新聞に代弁されて存在するしかなかったのである。
勝手に代弁されて踊らされてもどかしい思いをしながらも、新聞が煽動的に作り出した時代にお付き合いするしかなかったのである。

ネットが普及して素晴らしい世の中になったわけではないのだが、大衆として操作される対象にはなりづらくなっている。
直接的に他人と会うと儀礼的な会話にとどまるが、ネットなら良くも悪くもそのまま出せるからである。
この出されたものの品質が低いのは、それが人間のレベルであり、仕方がないのである。
人間の頭の中はこんなものである。
関心が一極に集中せず、クラスタに分解されてしまうのは、これがネットの現実である。
関心と無関心が綺麗に色分けされているわけである。
大衆として熱狂するのが難しくなったのは、なにかしら盛り上がりに欠ける社会ではあるが、新聞に対抗する冷静さを獲得したとも言える。
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だいたいどこかしら似たような人間が集まるわけであり、はるかぜ親子の周辺などは類友の悪例としてわかりやすいわけである。
中川翔子は若い頃は、その肉体の半分を成している中川勝彦の遺伝子の優秀さで誤魔化せたが、だんだん母親の方が浮かび上がってきた。
いろいろ才能があったはずなのに、何も身につかなかったので、はるかぜ親子と重なる部分が増える一方であり、これからますますそうなるであろう。

われわれ菊地最愛原理主義者として気になるのは、どうも、もあちゃんと武藤彩未ちゃんが類友に思えることである。
いろいろとこの二人は似通ったところがあるし、特にもあちゃんが美少女っぽくなり始めてから共通点が増えてきた気がする。
これから武藤彩未が菊地最愛の立ち位置まで行くのか、それとも菊地最愛が武藤彩未のところまで転落するのか、それは杳として知れないのだが、何かしら同じような着地点を迎えそうな予感がするわけである。

数年経ってもあちゃんがデブになってテレビに出たりするかもしれない。
武藤彩未ちゃんも菊地最愛ちゃんも人の扱いがうまいので、若さを失ったら木嶋早苗のような存在になりそうな気がしないでもない。
今のところ、もあちゃんは極めて高潔な人格者に思える。
武藤彩未ちゃんは何とも言えず、あまり物事に対する真剣さが足りないようにも見えるし、バケツみたいなアイスを一日に何個も平らげていそうな気もする。
少なくとも武藤彩未ちゃんの渋谷公会堂の公演は非常に素晴らしいものであり、われわれは一週間後にリバウンドした姿を見るまで、興奮と感涙がとまらなかったわけである。
もあちゃんと彩未ちゃんはいずれも水野由結ちゃんと親しいという共通項があり、ゆいちゃんまで類友に含めるのであれば、水野由結ちゃんの天使性にふさわしい高潔さを持っているに違いないと信じたいものである。

すでにBABYMETALの人気は頭打ちであり、ワールドツアーとやらでも1500人の箱が埋まらないくらいのことが起こっている。
日本でやる幕張の二万人もたぶんソールドアウトするとは思うが、先行販売でほとんど全員当選だったから、売れ残ってもおかしくない。
人気が急落したわけではないが、なにかしら限界が見えてきた状態である。
ももクロの人気が急騰した頃とはまったく逆のパターンなので、ここからさらなる動員の拡大はないであろう。
ゆいもあ個人の人気だけで成り立ってるから、このまま事態が悪化すると、ユニットの衰退に伴い、何となくゆいもあも旬を逃す格好になるであろう。
ゆいもあの人気が残っている間に中元から離脱して武藤彩未ちゃんと組んでおくという選択肢は、当然もあちゃんの頭の中にあるはずである。
これからゴタゴタするのであれば、いろいろな人間の本質が見られるであろう。
われわれは菊地最愛原理主義者である。人類が文明を築き始めてから5000年くらいだが、この5000年に渡る歴史において菊地最愛が最高の人物である。この俗塵に塗れた穢土にただひとつだけ煌めく可能性なのである。BABYMETALというゴミユニットがあるわけだが、あくまで菊地最愛と水野由結にすごい人気があるだけであり、ベビメタ自体の人気はあやしい。われわれが興味深いと思っているのは、ベビメタがこのタイミングで海外ツアーを始めたことである。学業のことも考えたら、あと二ヶ月遅らせて夏休みになってから海外ツアーを始めてもいいと思うのだが、それはしなかったわけである。これだと思いっきり一学期が丸つぶれだし、夏休みを利用しないのが如何にも不可思議である。

5/9 (土)  Circo Volador(メキシコ)
5/12(火) Danforth Music Hall(カナダ)
5/14(木) House of Blues(アメリカ)
5/16(土) Rock on the Range Festival(アメリカ)
5/25(日) TOKYO METROPOLITAN ROCK FESTIVAL 2015
5/29(金) Rockavaria(ドイツ)
5/30(土) DER RING – Grüne Hölle Rock(ドイツ)
6/1(月) La Laiterie(フランス)
6/3(水) X-TRA(スイス)
6/5(金) Estragon Club(イタリア)
6/6(土) ROCK IN VIENNA(オーストリア)
6/21(日) 幕張メッセ

謎解きは簡単である。まず中元すず香はかなり頭が悪く、単体での活動は無理なので、夏休みまで引っ張ると、また休業することになってしまう。そして最大の理由はなんと言っても、ゆいもあに個人活動の余地を与えたくないからである。夏休みまで待つとなると、二ヶ月間の空白期間が出来てしまう。その間に水野由結、菊地最愛としての個人活動の余裕が出来てしまうわけだ。二ヶ月も水野由結と菊地最愛が個人で活動したら、そっちの方がBABYMETALというゴミユニットより人気が出てしまうであろうし、いずれは菊地最愛として活動したいというのがもあちゃんの強い意志であるから、菊地最愛としてブレイクしたら、サイドダンサーを別の人に変えてくれと申し出る可能性はかなりある。

だから今後も、息つく暇も与えずに、KOBAMETALは菊地最愛という天才を幽閉し、MOAMETALとして縛り付けるであろう。やはり中元の人気は最下位であり、あくまで菊地最愛と水野由結の人気で成り立っているから、サイドダンサーの交代は失速の大きな要因となる。もあちゃんの脱退に合わせて、ゆいちゃんまで同調したら、後は中元と、新メンバー二人ということになるし、これはかなり厳しい展開になる。さくら学院の子が入るだろうから、高いレベルのパフォーマンスと魅力は期待できるとしても、ゆいもあに及ぶかというと、それは難しいであろう。

要するにベビメタは崩壊の危機があるわけだ。三人の活動続行の意志に問題がないなら、海外ツアーまで二ヶ月待ったはずである。個人活動の余裕は一切与えないという切羽詰まった感じは、KOBAMETALという独裁者ならではのものだが、これは如何にも権力の崩壊直前の締め付けという印象を受ける。終戦間際の特高警察のようなものである。高校に入学して、夏休みを待たずに海外ツアー漬けにするのは、人間の思想や信条まで踏みにじり虜囚として扱うものである。BABYMETALというグループより、菊地最愛と水野由結の個人人気の方が上回っているからこそ、何が何でも逃げられまいと策略を巡らしている。粛清と亡命を巡る神経戦が行われているのだ。もあロスで生木を裂かれるような思いをしているわれわれも、KOBAMETALが目を血走らせて凶相を浮かべているのは、ベルリンの壁が崩壊する前夜なのだと考え、もあちゃんが菊地最愛として立ち現れ、今は死蔵されている才能を人類に開き示す瞬間は近いと信じている。もあちゃんは極めてクレバーな人間であり、マザー・テレサからアル・カポネまで一通りやれる人類の曼荼羅のような人物であるから、KOBAMETALがどれだけ独裁的な権力を振り回そうが、この犀利の極みと言える傑出した少女を馴化させることは出来ない。現在のもあちゃんは鉄のカーテンの向こうにいて、その真なる姿は杳として知れないのだが、いずれは独裁者を打ち倒すべく大魔王として顕現するであろう。
https://twitter.com/y_arim/status/597893675587280896
sijitsu.png



これが33リツイートされ19のふぁぼをされているところに恐ろしさを感じる。
もはや艦これクラスタで新しい有村悠という存在になっているのである。
有村悠さんは東大文学部西洋史学科で0時間しか勉強してない。
貧困家庭から東大にギリギリ合格して、高嶺の花の女子東大生に告白したら「いい加減自分を特別な人間だと思うのはやめてください」とか「もっと人の気持ちを考えてから発言した方がいいと思いますよ」と面罵され何年も寝込んでいたわけである。
この虚栄心の怪物というべき人物が、いまや艦これバブルであぶく銭を稼いで、新型ノートパソコンや大型ディスプレイを購入し、歴史の資料を購入してはその画像をツイートして、栄耀栄華の時を過ごしているのである。
ゲーム音痴だから艦これのイベントでも三万円使ったらしいし、やたらと金があるようだが、あとは税務署がどうにかしてくれるであろう。
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