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PerfumeはKOBAMETALと昔からの知り合いであり、揶揄のネタにするほどの関係である。ベビメタのメンバーがKOBAMETALをお父さんと呼んでいるという挿話を、Perfumeがネット番組で紹介して茶化していたわけだ。Perfumeと中元すず香はアクターズスクール広島で縁がある。これまでのKOBAMETALの説明によれば、可憐ガールズを見て中元すず香をプロデュースしたいと思って会社にプレゼンして認められたということだが、あまりに用意周到であることからして、KOBAMETALと中元はずいぶん長いこと共犯関係にあるという仮説も成り立つ。KOBAMETALという山師の経歴が謎とされているのは不思議なことである。普通なら出世したということで表に出てきそうなのに、なぜかアミューズでの立場が判然とせず、隠したいことがあるようだ。KOBAMETALは中元すず香のプロデューサーであり、ゆいもあは添え物であり、場末の見せ物小屋の檻に入れられてるだけなのだが、それを明確にしたくないのだろう。KOBAMETALが中元すず香のプロデューサーであり、ゆいもあはどうでもいいという事実を鮮明にするのが嫌なのだと思われる。この世の中には察しが悪い鈍感なひとがたくさんいるもので、雲煙のように遊弋する不安と疑惑の粒子が像を結び、なんらかの重大な答えを暗示しているというのに、一望千里の大平原で余すところなくすべてが明晰に見えなければ信じないらしい。KOBAMETALはアミューズのキッズ部門の人間ではないと言い切っていいだろう。形だけはキッズ部門に出向しているらしいが、本当にキッズ部門の一員になったわけではなく、人さらいに来た不審者だ。中元をプロデュースする都合上キッズ部門に移ったのだ。ゆいもあが早期解放された場合には、KOBAMETALはキッズ部門の功労者と言ってもいいが、それはないであろうし、ゆいもあが滂沱のごとく流している血涙が一滴も出なくなるまで酷使される可能性が強く懸念される。イロモノで有名になるのはいいが、イロモノを人生そのものにされたらたまらない。アミューズ社には利益をもたらしたことで評価されるだろうが、中元すず香のプロデューサーがゆいもあを使い潰すとすれば、その部分は人権問題として汚点となるだろう。さくら学院としても、ゆいもあが隠されてしまったので、連続性が失われた別物になった。キッズ部門としては、ゆいもあに絡んで欲しいだろうが、KOBAMETALはキッズ部門から離れているはず。金塊を根こそぎ奪い取った銀行にもう一度強盗に行く人間はいない。武藤彩未ちゃんの世話になったという人はたくさんいるのに、中元の世話になったという証言がひとつもないのだから、KOBAMETALといいお仲間なのだろう。ゆいもあが個人活動をするのにBABYMETALの解散は必要ないはずであり、平行してやればいいだけなのだが、個人活動するとなればKOBAMETAL以外のアミューズ社員が担当するので、主導権を奪われても困るから何もやらせないのだ。信頼関係など無く盗品だからこそ厳重に管理されている。あちこちで死の灰を降らせて恨みを買っているのだから当然の警戒心といえるが、ゆいもあは担当社員がいない幽霊のような状態であり、これもKOBAMETAL+中元すず香が練りに練った作戦なのである。いずれゆいもあも中元を恨むことになるが、簒奪者として生きる帝王学なのだろうし、怨嗟の念を持つ人間が一人や二人増えても変わりがないのだろう。
実存を事実存在として考えるなら、人間の尊厳はまさに実存なのである。
尊厳は事実存在である。
何らかの形でカーストを背負っているのがわれわれの存在である。
尊厳の多寡こそが人間そのもの。
つまり空疎な観念ではなく、人間に血肉化した事実そのものなのである。
他人から侮辱されるのは、自分で転んで怪我をするのとは話が違う。
自分で転ぶのも事実だが、この事実は尊厳を含まない。
他人から侮辱されるのは証拠を掴まれたということなのである。
「恐くない」という証拠を掴まれたのである。
「恐い」とか「恐くない」というのは事実の問題である。
恐そうな人を敢えて挑発して、そのまま馬鹿にするのを貫いたら「恐くない」という事実を証明することが出来るが、相手はなりふり構わず全力で反撃してくるから、触らぬ神に祟り無しということになる。
タブーこそが尊厳の根幹なのだ。
侮辱というのは事実性が非常に強い。
転んで怪我をしたというのは歴史に残らないし、大怪我でもない限り本人もすぐに忘れてしまうであろう。
だが、侮辱というのは歴史の重大事件なのである。
侮辱されるのは実害があるのである。
「恐くない」ことが事実存在として立証されたわけだから、こいつは恐くないという扱いをされる。
これは当たり前の話なのだ。
どうやら「恐い」というのが尊厳の根幹であるらしい。
なんかネットでKOBAMETALについて調べると、こんな感じの文章が出てくる。


キッズ事業室に出向になり、腐っていた時に Perfume のライブで感動し、「可憐ガールズ」を作る


だがソースらしき物を辿っていくと、どうやらこれとは違うようなのである。
「音楽主義」というフリーペーパーではこんな風に書いてある。
KOBAMETAL本人のインタビューだから、文飾や嘘はあるにしても、ある程度これを事実としてとらえるべきだろう。


http://www.nexus-web.net/article/ongakusyugi-60/
kobakids.jpg



これからすると、KOBAMETALは能動的にキッズ事業室に出向してきたのである。
左遷されてキッズ事業室に来たというのは誤りである。
最初から中元すず香に目を付けた上でプロデュースの企画を出したわけである。
つまりさくら学院の担当社員が重音部を立ち上げたのではなく、外部からKOBAMETALが出向してくるという形で重音部が出来た。
同時期に武藤彩未ちゃんを中心とするバトン部が出来ているが、これはアミューズキッズの皇祖と言える武藤彩未ちゃんを外す事への配慮として、さくら学院側が用意したのだろう。


http://trendy.nikkeibp.co.jp/article/pickup/20121026/1044961/?ST=life&P=2
例えば、「Perfume」というテクノとアイドルを組み合わせた成功例がある。これを自分が新しく作るならば、アイドルに組み合わせるのはメタル以外にはないと思っていたところ、メインボーカルのSU-METAL(さくら学院の中元すず香)に出会った。そして、彼女の良い意味でクセがなくストレートな歌声を聴き、「メタルアプローチの曲を少年少女合唱団が歌う」ようなイメージを表現できるのではないかと感じたのが初めだ。


KOBAMETALが彩未ちゃんに対して冷酷なのは当然のことなのである。
キッズ事業部に昔からいる社員なら、彩未ちゃんに足を向けて寝られるはずがない。

このKOBAMETALの出向が本人の単独意志なのか、影の偉い人の意向も含んでいるのか、そこは不明である。
本人が単独意志だと言っているから、ひとまず単独意志だとしておこう。
KOBAMETALの思いつきで中元すず香をプロデュースしたくなったのだろう。
当時のグーグルトレンドを見れば、彩未ちゃんと中元では検索数の格差がはっきりしており、中元は脇役である。
主役の彩未ちゃんを外して可憐ガールズを再構成するというアイデアを遂行するべくKOBAMETALはやってきたのである。

つまり、重音部とバトン部をやりましょう、というのではなかった。
外部から訪れたKOBAMETALの重音部が大前提である。
バトン部は彩未ちゃんへの配慮として付け焼き刃でやっただけ。
アミューズに入る前から水野由結ちゃんと家族ぐるみのつきあいをしてきた彩未ちゃんからすれば、人類の頂点に君臨する麒麟というべきゆいちゃんを持って行かれるのはたまったものではないが、これはひとまずバトン部をやらせることで納得させたわけである。

KOBAMETALが武藤-水野を分断しようとしており、決して共演させないのは、経緯からすれば当然なのである。
KOBAMETALは武藤彩未ちゃんとほとんど接点がないからだ。
キッズ事業部の社員からすれば彩未ちゃんは天皇陛下のようなものだが、KOBAMETALはさくら学院に対する思い入れはゼロである。
中元すず香の一本釣りが目的だったのだ。
それなら中元のソロでやってくれればいいものを、水野由結ちゃんの人生まで奪い取っていくのだから、中元以外はどうなってもいいのだろうし、ゆいもあの暗澹たる未来は覚悟しておくべきである。
正直なところわたしは生理でスクワットというツイートのどこが悪いのかわからない。わたしはババアのツイートだと確信しているので、くだらんと思っただけである。「おちんちんを見られたい人は渋谷まで来て」というツイートも過去にはあったし、まあババアだろうと思うわけである。だが生理でスクワットの話には、なぜか大勢の人間が憤懣やるかたないという様子で集結したのである。これによってパラダイムが変わったのである。はるかぜアンチというのは、あくまで悪いのはババアであり娘は気の毒というのが多数派だったのだが、生理騒動からは潮目がかなり変わった。このところはるかぜアンチスレは誤字が多く、また早とちりも多々見られる。思い浮かんだらすぐに書き込む人が多いのであろう。投稿する前に確認するというプロセスが省かれているのだ。おそらく直情的な怒りが強いのであろう。今までは将棋や囲碁のように悠然とこの親子を観覧していたのに、わびさびがなくなった。アンチの考えが変わったというよりは、生理騒動で怒りのボルテージが上がった人が新たなアンチとして流入してきたのであり、そちらが多数派となったのである。ともかくはるかぜ(娘)への同情論がかなり薄まった。亀田ファミリーが出てきた頃、あの亀田史郎の息子に生まれるなんて可哀相という同情論もあったが、さすがにもうそれはないわけである。亀田興毅は亀田史郎あってこその存在だが、もはや親のせいにする立場ではない。親の毒を全身に浴びているとしても、もはや本人の責任というしかないのである。自己責任というのは、つまり除染作業は自分でやれということだ。家族という培養液が本質的にマインドコントロールであるなら赤の他人が手を出せるわけがない。環境因子が作り出す業病は患者が治療を拒否するから救いがたい。隣の家であっても他人は他人であり、そこでの内戦はわれわれの管轄の埒外である。はるかぜ(娘)はまだ中学三年生であり、未成年ではあるが、大人顔負けの子役というキャラクターが賞味期限を越えて瘴気を放っているから多くの人が実情に気付いているわけであり、モラトリアム期間は終了している。子役でいられない年齢という限界の輪郭を強く描き出したのがたまたま生理騒動だっただけで、きっかけは何でもよかった。未成年の間は同情して頭を撫でておいて「20歳過ぎたら自分の責任」と突き放すのも酷であろうし、狂言芝居が露見するのは早いほうがいいという気もする。いずれ毒親体験でビジネスをするのであろうし、ババアが悔悟の涙を流しながら壇上で切々と語るところまで考えると薄ら寒くなる。
平凡な人というのもなかなか不思議な存在である。この世の中の設定に疑問を抱かないし、あまりにも世界に馴染みすぎている。平凡な人というのは、なぜか自分はすごいという自意識を抱えておらず、ごく普通に現実に適応してしまう。この現実というものをまるで自分のために仕立てられた服であるかのように着こなしてしまう。決して自分の都合通りの世界でなくても、それが身の丈だと考えるのである。これは自意識に柔軟性があるから可能なのであるし、外面世界への視野が広いから脇見運転をしない。無難な選択をすることになんら痛痒を感じないのである。凡人は一定の尊敬を得ることが出来る。決して前人未踏の偉業を成した人として勲章がもらえるわけではないが、バランスが取れた人間性が好ましいと思われるわけである。普通のことを普通にやれるのが感心されるわけだ。発達障害者も人格障害者もおかしなことをやるのである。本当に気が狂っているのではなく、自分が凡人ではないという認識が強いから、馬鹿なことばかり思いつくのである。おそらく自分の内面を蠢いているのが基本であり、そこから不器用な手付きで外面世界に接していくのである。韓国人が馬鹿なことばかりやるのは、本当の精神病ではなく、自分はすごいという気性の激しさゆえである。世の中を見渡してひとりの人間として妥当な行動をするよりは、本当の世界の王である自分の頭の中で思いつくことの方が重要なのである。王に相応しい待遇をされてない外面世界には恨みしかない。日本人はあれほど酷くはないが、まったくの無縁というわけではない。子どもの頃は凡人を尊敬しようという気にはならないし、凡人になりたいなんて思わないが、だんだんと凡人でない人(そして知性も才能もない人)にうんざりしてくるので、普通のことを普通にやれる人はすごいと思えてくる。内面世界と外面世界がシームレスに繋がっていて、外面世界の方に重きを置いているだけですごいのである。この現実に究極的な根拠はないのだが、肉体の物差しにとっての最適解はあり、凡人はそれをたやすく見いだすのである。宇宙の根源まで考えるのでなければ、凡人というのが暫定的に正しいのである。
人間が存在するのは、現象世界の登場人物になる、ということだ。
人間がここからさらに進化すると、世界が虚妄であることが分かりすぎて、存在が成り立たないような気がするのである。

この問題は、われわれが被造物でいられるかどうか、であろうと思う。
被造物として強制されているからこそ登場人物なのである。
役割を強制されているからこそ存在なのである。
自分で設定を変えられるのなら、それは空想であり、世界を舞台にした登場人物ではない。
われわれは脳を使っていながら、脳の内部構造には触れないわけである。
ニューロンから感覚が生成されるプロセスは、かなり科学が進歩してもわかるまい。
ここがブラックボックスのままなら、人間が進化しても存在はし得る。

現在の人間は、世界に根拠が無いことに気付いても、本能的な感覚は壊れないのである。
美人に根拠がないとか、目と鼻と口の並び順に根拠がないとか気付いても、やはり美人は美人であり、性欲はひとつも減殺されない。
おそらくはここがポイントなのであろう。
顔というものに根拠がないと気付いて、その気づきから、頭部に感覚器官が並んでいるだけとしか思えなくなるなら、存在はかなり困難になる。
美人は美人だという脳に焼き付けられた感覚がなくなると、この現象世界は破綻するのだし、存在というのも破綻する。
ベビメタのライブと言えば痴漢が風物詩となりつつある。凶相を浮かべた愚民がオールスタンディングでモッシュモッシュと素っ頓狂な声を上げながら暴れ回り、もはや音楽を聴くのが目的ではないから、その高揚感から女性の身体に手が伸びるわけである。中元すず香がフィジカルエリート特有のドブスになってしまったので、顔をじっくり見せたくないのだし、轟音を鳴り響かせるのも、中元の取り柄が声量しかないから、地響きのような演奏が必須であり、暴走族の集会でボーカルが通るのはすごいという怪しげなセミナーのノリを求められ、その暴力的な異常心理が猖獗を極め、黒檀の穢れが愚衆の心を蝕むように版図を広げ痴漢という行為につながる。椅子に座ってボーカルの顔を見ながら歌を聴くという基本的なことをやられると化けの皮が剥がれるのであるから、今後とも色情魔が乱痴気騒ぎを続けるしかない。いずれは圧死事故でも起こって新聞種となり解散するのであろうし、ゆいもあはいわくつきのアイドルということになるしかない。死人が出てもおかしくないのだから、痴漢被害くらいは我慢しろといいたげな狂気に戦慄する。この商業主義に与した愚かしい騒擾の首魁たるKOBAMETALはサイコパスであり、魔界と契約をした魔人と言えよう。彼にとっては人間がどうなろうとも鶏を闘わせている程度の感覚しかない。雑居房で囚人が暴れているような光景も退廃的な濁世に似つかわしい淫祠邪教なのであろう。それにしても女の身体にそんなに触りたいのかという疑問が生じてくる。エルンスト・マッハの感覚一元論を想起してもらいたい。この世界は五感で生成されている。五感が認識しない物理現象もあるが、それはまた別の話であり、たいていは五感の問題である。われわれは三次元空間を盲信しているが、これにしても触覚が大きな役割を果たしている。視覚は二次元から三次元を思い描いているだけだが、触覚は三次元そのものだ。女のおっぱいは触ってこそ三次元である。やわらかくて、それでいて張りがあるという不思議な感触を楽しむわけである。その触り心地は宇宙の真理ではない。あくまで人間の肉体の物差しで測ったものである。こういう手触りは決して宇宙普遍のものではなく、三次元空間という虚構を成り立たせる演出でしかない。ベビメタのファンがいずれ犯罪者として刑務所で生活するとして、その身体的な苦しみも肉体が生成しているに過ぎない。ならいいではないかという結論にもなるが、刑務に忙殺されていては心の想念からも隔絶されるであろう。痴漢をしている中元信者は、われわれ菊地最愛原理主義者が到達している山岳信仰の境地には一欠片も縁がないらしい。それは決して簡単な道のりではない。われわれの心を暗澹たる色で覆い尽くす峻険なる山並みを越えなければならない。その嶮岨な断崖を登攀し、われわれを蝕むディストピアの瘴気を振り払った時に、この宿痾というべき肉体の業病から逃れ、山紫水明の地たる三輪山を想見するのである。
人間存在の根幹にあるのは能力の連続性である。
普通の人間が明日からいきなり欧州で活躍できるサッカー選手になるということはあるまい。
これが人間の同一性の根幹にある。
能力がきまぐれにころころと変わるとしたら、なかなか自分の同一性というのも認識しづらい。
能力を得るとしても、これはこれで時間が掛かるし、素質の問題もある。
容姿も含めて肉体の性能は固定なのである。
明日の朝になっても、この同じ肉体で現実に向き合うというのが肝心なのである。
固定された肉体に固定された現実。
肉体は醒めない悪夢である。
もちろん他人の肉体も固定されているのだし、ころころと性能が変わることはない。

この能力の連続性もよくよく考えると不思議な問題である。
どうしても性能が固定していなければならないということはあるまいし、ランダムに変動してもいいであろう。
変わらないのは、性能が変わらないように固定されているからとしか言いようがない。
これは宇宙を司る物理法則でそう決まっているからである。
寝ている時に見る夢のようにあれこれ自分の設定が変わるのは現象世界としてはありうるが、物理法則がそれを許さないのである。
変えるとしたら宇宙を根底から変えるしかない。

知識の連続性の問題もある。
明日から医者になるとしてその医学知識はどこから来るのかという問題である。
なぜパソコンならすぐにインストール出来るのに、人間は無理なのかと言えば、そういう脳の仕組みだからとしか言いようがない。
頭の中身もそう簡単に変わらないように出来ているのである。
亀田興毅が明日からいきなり物理学者になるとしたら、今までの彼の思考はどうなるのかという問題があるだろう。
頭の中身が簡単に変わったら人間存在が成り立たない。
変更不可能な状態で同じ事がずっとループしているから、これが自分なのだと認識するわけである。
よく言われること、というのがあるわけである。
われわれはこの手のスローガンに縛られて思考している。
われわれが世界や時代を共有するのは、何かしらこの手のスローガンが原因なのであろう。
他人一般の声なのである。
そしてこういうのはあまり親切ではないので、本当のことは言ってくれないのである。

「人のせいにするな」というのはスローガンとして定着している。
英語だと「自分の問題で他人を責めるな」となるのだろうが、なんか日本語だとそれよりさらに強力に決めつけている。
これは本当に責任の所在を問うているのではない。
実際は他人に対して批判精神が強すぎることが問題視されているのである。

もちろん文字通り「人のせいにするな」と言いたいこともあるわけだ。
責任転嫁が酷すぎる人間を見ればそう言いたくなるであろう。
だからこの「人のせいにするな」というスローガンは多義的なのである。
おかしな責任転嫁をする人間に向けられることもあれば、他人に批判的過ぎる人間にうんざりして吐かれる台詞でもある。

他人を批判してはいけないというスローガンになぜ「おまえのせいだ」というのを含めるのかと言えば、おそらくは煽りなのであろう。
やはり批判すること自体はタテマエとしては正当な権利なので、批判すること自体がよくないという単純なスローガンは成立しづらい。
おまえのせいだと煽るところまで含めてこそ成立するのである。

他人の正義を問うのは好ましくないのである。
人間関係において超越的な裁判官のように存在することは求められてないし、それとは別の論理で動かさなければならない。
他人を批判するというのは蛇蝎のごとく嫌悪される行為であるから、それを自覚することが必要なのである。
https://twitter.com/hazuma/status/631796947284656128
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https://twitter.com/hazuma/status/631797833843150848
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こういうのを見るとソーカル事件があって本当によかった。あれのおかげで浅田彰や東浩紀が終わったわけである。ごく普通にエゴサーチのしすぎであろうし、ネットでの活動が頼りであるほどアンチ批判をするという事例である。インターネットがなかったら東浩紀はどうするつもりだったのかという気もするし、小保方さんの捏造だってネットで騒ぎになったのが発端だろうに、おそらくこういうアンチ批判で信者の連帯感を高めているのだと思われる。論理の倒錯こそが一部の人を引き寄せる。選ばれた革命家たちがこの穢れたインターネットを浄化するために敢えて降臨している。東浩紀という高級な人間が低級なネット住人から攻撃されて法難を蒙っている。教父を防衛するための私兵が求められている。被害妄想はビジネスである。アンチがいないと困るというのが実態であろう。
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