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現在という時間も記憶である。
一秒前だって過去である。
現在と一秒前が現在として地続きに思えるのは、細切れにならないように脳が繋げているのだろうと思われる。
短期記憶やワーキングメモリーという概念はまだはっきりとは分かっていないが、やはりこの現在も記憶なのである。

われわれは現在が「生」で過去が「録画」という認識をしているが、これは正しくないであろう。
現在こそが「生」であり、過去が不鮮明な録画に思えるのは、記憶の劣化の問題であり、どちらも五感を通した現象世界であることは明らかである。
本当は生中継と録画中継くらいの違いしかないのだが、この過去の録画が不明瞭なので現在が優先される。

他人と会話しているような状況を考えると、この現在という仕組みはずいぶん不思議なものである。
われわれは脳の仕組みが同じだから時間の流れ方も同じであろうし、他人と同期も取れているのであろうが、時間を止めた状態の出来事というのは、ほとんどないわけである。
瞬間というものを止まっている状態だと考えると、「飛んでいる矢は止まっている」というゼノンの詭弁と同じになるであろう。
おそらく停止している瞬間というのはない。
われわれは現在という時間の体感に馴染んでいるので、これを不思議に思うことは滅多にないが、あらゆる現象は時間の流れを前提としているのである。
これは脳の外側の問題ではなく、脳の問題と言うしかないであろう。
脳の外側で何かが流れているわけではないので、すべての体験が時間的なのは脳の仕組みなのである。
韓国人が人格障害でおかしすぎる問題は盛んに言われているし、いまさら述べるまでもないのだが、彼らが反日である理由として、背景には徴兵制があるだろう。徴兵制がなくてもあの国のメンタリティーはそう変わるまいが、若者に兵役義務を課するためには物語が必要であり、愛国心を過剰に煽るしかないのである。日本でも明治時代になったらいきなり皇国になったわけではなく、1878年(明治11年)の竹橋事件などは当初の忠誠心の低さの象徴である。なにしろ近衛兵部隊が西南戦争の行賞への不満などで決起したのだから、この時点では尊皇の感情に溢れた皇軍の精神など寸毫も認められない。これに危機感を憶えた山県有朋が軍人勅諭を作らせて1882年(明治15年)に発表させたわけである。つまり軍人勅諭は天皇への忠誠心が低いからこそ、それを高めるために作られたのである。昭和時代に青年将校がテロリズムに走ったのも、皇軍のひとりという自負の強さとも言えるし、天皇への崇拝感情を高めたことが諸刃の剣となった。徴兵されて戦地に赴くのが嬉しい人などいるわけがないので、物語が必要なのである。聖戦で死を遂げれば天国に行けるという宗教がある。自殺すると悪霊になるが特攻隊として米軍艦隊に突撃すると靖国神社で英霊になれるという国が復活しつつある。われわれ日本人はまさか韓国のような兵役義務が日本に導入されるはずがないと信じ込んでいるが、もはやその実現は目睫の間に迫っている。無や無意味さに人間は耐えられない。安逸を貪って浮き草のような生活をしているならまだしも、否応なしに送付されてくる召集令状がわれわれに軍人たることを求めるなら、血腥い軍服を身にまとい英雄でもなく一兵卒として命を散らすのであるし、その暗澹たる膨大な虚無をファンタジーとフィクションと軍人勅諭で埋めなければならない。
カスペルスキーのライセンスキーの更新をしたのだが、重力の魔というべきしんどい作業であった。お金を使うというのは本来は楽しい行為のはずなのに、なぜこれだけ暗鬱たるものなのであろう。これが有料アプリを買うのだとしたら楽しいはずだ。やはり倹約の範囲を逸脱した時に消費の楽しさが生じるのであり、カスペルスキーの更新料は払っても楽しくないのである。ウィルス対策ソフトを入れないわけにはいかないので、消費というよりは税金の類であろう。ヴェブレンの「有閑階級の理論」を引き合いに出すまでもなく、貴族的な奢侈こそが消費の愉しみである。カスペルスキーの更新料は奢侈の要素が一欠片もない。パソコンが壊れて新しいのを買うなら、新製品を手に入れる楽しさがあるが、カスペルスキーの更新料は、そのような新しさもないから楽しくない。人間が買い物で自己を拡張するのだとすれば、倹約はそのような広がりの否定なのである。さて、これは快楽-苦痛という文脈で話してきただけであり、快楽だから正しいとは限らない。快楽は風紀の紊乱でありソドムへの扉である。苦痛の方が選択として正しいことはよくあるのだ。教訓的な話を縷々と書き綴る必要はあるまいし、浪費癖で破滅する問題については筆を省いてもいいであろう。だが、500円くらいの有料アプリなら買うべきなのである。ネットが無料にこだわった結果として得られたものは少ない。ソーシャルゲームは、ネットでお金を使わないという倹約のルールを破るポトラッチの快楽であるし、その熱病に浮かされて粗忽きわまりない高額課金者が出てしまう。これなら少額の無駄遣いをした方が精神衛生上望ましいという気もする。ソーシャルゲームはレアリティを仮想的に作り出すことで、ただのデータなのに、傾城傾国の美女のような高嶺の花を作り出したのだが、この大衆消費社会では、たいていの商品はわれわれの嗜好を愉しませるようにパッケージされているし、本当の稀少品でなくとも少額で物珍しさを満たす奢侈が出来るようになっている。買うのが楽しいということにとどまらず、特別な高級品を見せびらかしたい願望に取り憑かれると破滅に向かう。
「六〇年安保闘争の真実 あの闘争は何だったのか」保阪正康
午前十一時には、日比谷公園で全学連主催による「学生ぎゃく殺抗議、全学連総決起大会」が開かれた。会場には樺美智子の写真と血まみれで倒れている学生の写真が、タテヨコ、二メートルの大きさで飾ってあった。
この大会で樺美智子の父は、「警察の発表では圧死ということになっているが、立ち会った私の知人の専門医の話では……」と前置きして次のように話した。「娘は警官にまず頭を殴られ、手でこれを防いだときにめちゃめちゃに警棒で手を砕かれ、さらに首を腕でしめつけられ窒息の状態で倒れるところをひざで蹴りあげられたと判断される」  警察側は、圧死によると発表しているが、彼女の死因については現在に至るも明確な結論はでていない。


樺美智子の父親が中央大学の教授だったというのは知らなかったが、こんなわけのわからない妄言を吐いていたのも知らなかった。この安保闘争でアメリカ大統領のアイゼンハワーを訪日中止に追い込んだのだし、極左冒険主義と呼んで差し支えあるまいが、決して革命家ではないという立ち位置なのである。革命家が死んだ場合であれば被害者という扱いはあるまいが、樺美智子は被害者なのだからブントに属していても革命家ではないのである。この娘にしてこの父親ありということだろう。学生運動の活動を終える時に「もう子どもではない」というようなことを言うが、やはり子どもによる革命なのである。子どもの革命運動でアメリカ大統領が訪日中止というのもずいぶん奇妙であるが、警官が大人で大学生が子どもというのも変な話である。活動家の大学生が警官に暴言を吐くのが当たり前であったし、「おまえらは文字が読めない」とか煽っていたようだが、警官も学歴コンプのストレス発散として大学生を殴っていた。大学生は子どもだが、高卒の警官は大人ということらしい。樺美智子も22歳の東大生であった。

マルクスは分業を嫌っており、いろんなことが出来る万能の人間を理想としているわけである。最近はレオナルド・ダ・ヴィンチのようなルネサンス人はあまり人気がないし、ひとつのことだけやる方が望ましいとされているが、マルクスはひとつのことを専門にするのは人間疎外だというのだ。


「ドイツ・イデオロギー」マルクス/エンゲルス(花崎皋平訳)
労働が分割され始めるやいなや、
各人はある特定の活動範囲だけにとどまるように強いられ、
そこから抜け出すことが出来なくなる。
彼は猟師、漁夫、または牧夫、または批判的批判家のいずれかであって、
生活の手だてを失うまいと思えば、
どこまでもそのいずれかであり続けなければならない。

これに対して共産主義社会では、
各人はそれぞれに固定されたどんな活動範囲をも持たず、
どこでも好きな部門で、
自分の腕を磨くことが出来るのであって、
社会が生産全般を統制しているのである。
だからこそ、わたしはしたいと思うがままに、
今日はこれ、明日はこれをし、
朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、
夕食後に批判をすることが可能になり、
しかも、決して、猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくてよいのである。



人間疎外の本質は、人生の一回性であり、これは解決不能である。一日に24時間というのも変更出来ない。右目と左目で別の本を読むのも不可能である。一度にひとつのことしか出来ない仕組みになっている。それ以外の可能性はすべて葬り去られているのだ。なんらかの環境に放り込まれて、その一回がすべてという憂いは人間の本質である。たとえば医者になれた人も医者しか出来ないわけである。明日から医者になれると言われたら、たいていの人はなるかもしれないが、一日中患者の診察をしたりメスを手にして開腹する生活になるのだし、これまでの自分は疎外される。

奴隷がガレー船を漕いでいるのと大差ない過酷な労働をさせられているプロレタリアートが事例になると、その労働に蝕まれ、すべてを奪い取られているという悲劇性は酸鼻を極めるが、これに関しては社会主義的な政策で労働環境を改善すればいいのだし、それは資本主義国家でも行われている。

樺美智子も全能感に満ちた人間だからブント(共産主義者同盟)に入ったわけだし、荒唐無稽なマルクス主義が理想郷に思えたのであろう。この肥大した全能感を修正することがないまま22歳で人生を閉じたのであるし、一個の人間としての目鼻立ちもはっきりしないまま、無限の可能性とともに荼毘に付されたのである。天命に身を投じた革命家としても扱われておらず、ただの被害者として歴史に名を残した。官憲を批判する材料として使うことがブントにとって都合がよかったわけだが、対立する日本共産党は同情してないし、唯物論的に言うなら天国という楽園にいることもあるまいし、死ぬ寸前の頭の中が楽園だっただけである。
http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-11133785150.html
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2012年にゆいちゃんと彩未ちゃんが東京ディズニーランドに行った事案であるが、当然ながら二人きりではないであろう。
親が同伴しているだろうし、この写真を撮影しているのは親であると想像するのが妥当である。
武藤-水野グループが幼少期からの派閥であることは知られているが、親同士の親交もあるわけである。
おそらく彩未ちゃんは水野由結(娘)だけでなく、水野由結(母親)とも親交がある。
これがこの派閥が危険視される原因なのである。
佐藤日向と飯田來麗も幼少期から武藤-水野グループだと思われるが、こちらは親同士の繋がりまではないような気がする。

http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-11253051070.html
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同じく2012年だが、休みの日に彩未ちゃんとゆいちゃんと島さんの三人で過ごしている様子が紹介されている。
当然だが、中元がいるわけがない。
この記事の時点では彩未ちゃんは芸能活動休止しているのだが、そういう状態でも会っているわけである。
活動休止と言っても、やめる気は絶無でありあくまで準備期間だというのが窺える。
芸能活動を断念してから思い直して復活したという説明を時たま見かけるが、それは誤謬であろう。


http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-10647543601.html
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http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-11222879896.html
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水野由結(母親)はバレーボールを本格的にやっていたらしく、ゆいちゃんの体幹の強さも親譲りかもしれないが、このあたりの記述を総合すると、おそらくお母さんの試合を彩未ちゃんと一緒に見に行ったこともあるのだろう。
やはり水野由結(母親)と彩未ちゃんは親交がある。
水野由結(娘)だけでなく水野由結(母親)とも親しいとなると、かなり影響力がありそうだし、ここが中元陣営からいろいろと攻撃される理由なのだろう。
おそろいの洋服を着ているという話からして、武藤彩未(母親)と水野由結(母親)が親しいのも間違いない。
水野由結日誌を見る限り、ゆいちゃんと中元はプライベートではほとんど接していない。
中元が孤立しているからゆいもあが監禁されているのだろうし、いろいろと考えさせられる。
中元のせいでゆいもあとさくら学院も断絶されたし、困ったものである。
なぜわれわれが時代を共有しているのかという問題だが、やはり具体例の説得力が大きいのである。福島原発(2011年)や地下鉄サリン(1995年)のような大きな事件があると、それが社会の巨大なテーマとして立ち現れてきて、共通体験として差し迫ってくるのである。人間存在を具体例無しに語るのは可能であるが、とはいえ、具体例の方がずっと伝わりやすいのも確かである。個人主義のアメリカ人でもグラウンド・ゼロ(2001年)を共通体験としている。

2010年以前でも原発の議論をすることは可能だっただろうが、おそらく食いつきは悪かったであろう。チェルノブイリ(1986年)の後は、広瀬隆の「危険な話」がベストセラーになったし、原発問題は大きな社会問題として俎上に乗っていたが、だんだんと風化したのであるし、2010年あたりだと今さら原発という感じであったはずだ。福島原発の後なら最大級の津波を想定した議論は出来るが、2010年の段階で巨大津波の話をしても伝わらなかったであろう。

やはり関心が起動されることで情報は頭に入るのである。津波の危険性について2010年に語ってもほとんど関心を持たれないであろうが、福島原発以降なら、津波の話は大きな関心を持たれる。人間はパソコンではないから、情報をインストールすればいいというものではない。関心が向くかどうかが重要なのである。福島原発の前の段階で津波や原発の話をされても聞く耳を持たないのが人間である。

戦後社会において最大の事件はなんぞやというと、ひとつには絞れないが、敢えて選ぶなら下山事件(1949年)である。激しい労働争議の渦中にいた国鉄総裁の下山定則が轢死体となったことで、大衆の大きな関心を呼び、世間の耳目を集めた。下山事件の真相は未だに不明であるが、国鉄の労働組合が犯人だと世間は想像したのである。下山事件をGHQの謀略と見ることも可能である。第二次世界大戦が終了してから、GHQは当然ながら日本の右翼勢力の排除に躍起になっていた。最初の頃は共産党を推奨していたと言ってもいいくらいなのである。軍国主義者を対象にした公職追放(1946年)にしても当初は永久追放とも思われていたが、1951年から追放解除が始まり、1952年で全員が解除された。要するに、軍国主義者を徹底排除していたら、左翼が伸びすぎて面倒になったのでGHQが方針転換したのである。下山事件で左翼を野放しにする方が恐いという考えが浸透したのであるし、これも具体例の強さである。公職追放されていた鳩山一郎やA級戦犯の岸信介が首相になったのも、こういう文脈の世相の変化であろう。
人間のたいていのことは快楽と苦痛に紐付けられている。
快楽と苦痛に操縦されているのが人間存在である。
だが、知性だけは、快楽との紐付きが弱いのである。
反知性主義こそが人間であるし、それがゆえに知性は特権的なのである。
読書は苦痛で仕方がないという人の方が多数派である。
食欲や性欲とは真逆の立ち位置だからこそ、知性の自由がある。
食べるのが楽しい、セックスするのが気持ちいいという次元を超越できるのである。
知性と快楽の結びつきが弱いのは、これこそが人間のツールだから、とも言える。
人類という牢獄に与えられた自由なのである。
読書が苦痛だとは言っても、多少の悦びを見いだすことは可能である。
頭を悩ませながら数学の難問を解くのが楽しいという人だっているわけだ。
知性の使用は苦痛である人が多数派であるというだけであり、どこかしら楽しみが見いだせるので使用可能ではある。
人間の感覚では理解し得ない余剰次元を考えるのも可能であるし、こうやって人体が感じている三次元空間に疑念を持つことも出来る。
快楽-苦痛に従う限りは反知性主義に辿り着くからこそ、知性は自由であり、快楽の原理の支配を免れている。
勉強が楽しくないのも、快楽から自由だからである。
飯を食ったりセックスをするような楽しさがないところに知性の自由度があり、ここに制約はないのである。
楽しくはないが楽しむことも可能なツールとして提供されている。
このディストピアに動物として生きながらも、それについて思考出来るのである。
http://www.forest.impress.co.jp/docs/serial/androidlab/20150909_720211.html
「Google Playミュージック」は、Googleが提供する音楽配信サービス“Google Play Music”の公式クライアントアプリ。月額980円で3,500万曲以上が聴き放題になるサブスクリプション型の音楽ストリーミングサービスに加えて、PC内の楽曲を最大5万曲までクラウド上に保存して複数端末で聴ける“ロッカー”、楽曲を1曲またはアルバム単位で購入できる“ストア”という3種類のサービスを利用可能。なお、サブスクリプションサービスは、登録後30日間は無料で試用できるほか、2015年10月18日までに申し込むと、以降は永久に月額780円で利用できる。本稿では、サブスクリプションサービスを中心に「Google Playミュージック」の使い勝手を紹介していく。


アップルと似たような定額聴き放題のサービスをグーグルが始めた。月額980円だが、今はキャンペーン中で780円。コンビニに売っているグーグルプレイのプリペイドカードで決済できる。この手のサービスは30日無料と言っても、30日無料が冒頭にあるだけで、最低一ヶ月は課金が必要だったりするが、たぶんこのGoogle Play Musicは30日以内に解約すれば料金は発生しない。このあたりはグーグルのヘルプページを見てもはっきりとはわからない。説明文をごく普通に読むと、30日以内に解約すれば0円で済むように思えるので、気軽に試してもいいと思うが、厳密に明記されてはいないから、落とし穴が無いとは確言出来ない。大人は説明してくれないし甘えは捨てなければならない。780円払う羽目になる可能性が絶無だとは言い切れない。虎の子の780円を失って窮乏した衆生が、コミンテルンに指令された極左冒険主義者のように、火炎瓶を手にしながら凶相を浮かべて蹌踉し暴徒化しても困るので、グーグルの文面ではどちらとも言えないといっておく。いずれにせよ、月額780円で火が付いたように騒擾を起こす愚衆にはこういうサービスは向いてない。

さて、このサービスを試してみたわけだが、やはり邦楽はラインナップがかなり弱い。わたしはアップルの方は試してないので比較は出来ないが、邦楽はどこでも似たようなものであろう。基本的にavex関連はかなりたくさんある。洋楽はアルバム曲がかなり揃っているが、YouTubeでもアルバムごと上がっていたりする。YouTubeではFrank Zappaのアルバムがそのまま上がっているので聴きづらいが、Google Play Musicは一曲ごとに区切ってあるので取り扱いやすいのが微かな優位性である。

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このGoogle Play Musicは「ラジオ」という概念が重要である。これによって似た曲のリストが演奏されていく仕組みである。たとえばNirvanaの楽曲を選んだ上でメニューから「ラジオを起動」というのを選ぶと、似たようなグランジロックの楽曲が演奏される。青い丸で囲った部分をタップすると、その再生リストが表示される。「ラジオを起動」で類似した楽曲を再生するという仕組みに最初はなかなか気付かないので、ここで挫折してしまう人もいるだろう。この「ラジオを起動」はYouTubeの関連動画と同じような機能であるが、違うアーティストの曲が出てくるので、こっちの方がアンテナを広げやすい。Nirvanaから辿り着いたAlice in ChainsのStoneという曲が素晴らしすぎるのだが、2013年リリースだそうである。終わったバンドだと認識していたので、二年前にこんな傑作を出していたとは気付かなかった。こうやって新しい楽曲を発見することもあるわけだ。メタルは本当に斜陽であるし、グランジロックの方が素晴らしい。というより、グランジロックの方がオジー・オズボーンに近いし本当のメタルなのである。中元すず香というドブスは歌手としてアミューズに入ったのにアイドルとして活動してるし、グランジロックではなくメタルを選んだし、なんかプロの二軍選手が草野球で大暴れしている印象を受ける。帝国主義が排され民族自決の世の中になったことで、世界大戦からは縁遠くなったが、愚にも付かない血塗れの内戦は絶えないし、その矛盾が生み出した塵芥のような難民があふれ出してくる。人類の進歩が停止しているのである。この限界は絶対的であり、塗炭の苦しみが消えることはないように思われるが、それを超えるのがゆいもあである。われわれ菊地最愛原理主義者は、もあちゃんがいわばカール大帝のような役割を演じ、人類史を再起動させるために戦端を開き、五族協和と八紘一宇の理想を具現化した帝国を建設すると予言する。ゆいもあが人類の頂点に立つための手始めとしてベビメタを解散し、ゆいもあドームツアーを行わなければならない。ゆいもあならウェンブリースタジアムを超満員に出来るのに、中元がいるせいでその隣のホールになるのだから、これは人類が法難を蒙っているのである。人類は克服されなければならず、それを決するべき時は目睫の間に迫っている。われわれは超人を生み出すための成長痛を覚悟しなければならない。人類愛のための第三次世界大戦である。
現在という瞬間は、文字通りの瞬間ではないはずであり、なにかしら幅があるのである。
この現在という幅は人間のワーキングメモリーに依存しているであろうから、宇宙の真理ではあるまい。
記憶力が増大すれば現在という瞬間の幅は変わるはずである。
われわれは現在しか知らないはずである。
80歳の人でも、現在しか知らないはずである。
80年の曖昧な記憶はあるだろうが、時間としては現在しか体験していない。
現在がループしているのだから、過去など知るはずがないのだ。
本当に過去があるなら邪馬台国の場所を教えて欲しいし、それがわからないのは、やはり過去はないのである。
われわれは延々と現在をループしているはずなのに、過去と連続しながら現在進行形として生きており、これを成り立たせているのが時間感覚である。
10秒前は過去であり、10年前と変わらないはずだが、人間の時間感覚としてそうではない。
集中や関心が切れると、そこから過去に移行するが、そこまでは現在である。
そういう切断がない限り、10秒前は現在であろうし、10年前とは違う。
われわれは時間感覚に馴染みすぎているので、これを疑いもしないのだが、やはりこれは脳の記憶力に依存しているわけである。
記憶力が増大したら、この現在というのは、別の状態で立ち現れてくるはずなのである。
スポーツのルールに根拠がないというのは誰もが認めるであろう。
ゴールにボールを蹴りこむと血気盛んな観衆が死なんとするばかりに狂喜するというのは、決して天地開闢から決まっていたわけではない。
スポーツという文化に基づいて、肉体で競い合う人間的な熱狂が積み重なって、暴徒が騒擾を起こすわけである。
競い合って勝敗が決まるならそれでいいわけである。

ゼロサムゲームであることがスポーツの本質である。
勝利の数と敗北の数は同じである。
両方が勝つということは無いわけである。
つまり、個々の主体から見た勝敗である。
コインを100回振って表が50回、裏が50回出るとして、それだけだと何の意味もない。
この100回のそれぞれに勝者と敗者がいて、その一回性の人生で歓喜や苦悩を体験するのである。
人生の明暗が分かれなければならないのである。

同じことを別の事例で言うなら、サッカーの得点を考えて貰いたい。
ゴールが見たいというのは、自分の応援しているチームが得点するのを見たいわけである。
相手チームのゴールが見たいわけではない。
総得点と総失点は当然ながらイコールである。
ゴールするたびに得点と失点が発生するのだから当然である。
自分が得点するからには失点する他者が必要である。
得点する快楽と失点する苦痛。
快楽を体験する人間と、苦痛を体験する人間の格差。
こうやって快楽と苦痛が分かれるからこそ、スポーツは人間の本質そのものであり、人気があるわけである。
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