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2015.09.30

光と視覚

生物が存在してなかったら、誰にも観測されずに宇宙は存在しているのかという疑問があるわけだが、いずれにせよ人間の頭部に浮腫のように付着している感覚器官が絶対というわけではあるまい。
光を認識するとして、それが視覚である必要はない。

遠くのものが小さく見えるのはレンズを通しているから当然なのだが、要はレンズの仕組みの話である。
つまり、光を検出して、そこから像を生成して現象世界を体験しているのだが、光から分析して物体の位置関係を把握するのであれば、眼球のレンズでなくてもいいような気がする。
失明するとたいていの人は自殺を考えると言うが、物体の位置がわからなくなるのだから深刻さの極みである。
だが視覚が絶対ではないし、光の情報を把握出来ればいいのであり、眼球のレンズで捉える必要もあるまい。

地球の生命体とはまったく別の生き物がいるとして、人間より遙かに高性能な検出器官を持っているかもしれないし、それと比べたら人間の方が遙かに盲人かもしれないのである。
われわれは目で見て楽しむことに文化や性の悦びを見いだしているので、これを失うのは耐えがたいように思えるが、もしかすると宇宙人は遙かに優れた感覚器官を用いて光が作り出す世界を享受しているかもしれないわけである。
なぜ自分が同一人物として存在し続けるのかと考えると、一回だけの人生経験から人間が成り立っているからである。
福山雅治には福山雅治の人生しかない。
福原遥はまいんちゃんとしての体験に縛られている。
福原遥がまいんちゃんとしての人生経験を消去したら空洞になってしまう。

一度に二冊の本は読めないというわれわれの性質からして、得ている情報はかなり限られている。
優秀な人でも、というより、優秀な人ほど専門外のことは知らない。
それまでの一回限りの人生経験と学習を背景として存在しているのである。

自分が別人にならないのも、人生経験が固有のものだからである。
おそらく似たような人生が世の中には溢れていると思われるが、似たような人がいるとしても同一ではないし、やはり人生経験は唯一無二のものだと言うしかない。
一回の人生で得た一回だけの経験を反芻して存在しているのであるから、その同一性以外に何もないのである。
福原遥がまいんちゃんとしての経歴を消去できるとしても、その替わりに別の人生経験を得るわけではない。

仮に脳が突然進化して、いろんなことを瞬時に学習出来るようになったら話は別だが、今のところは入力のチャンネルがひとつであり、ひとつの脳に時間を掛けてひとつの知識を容れるしかないので、限られた一回性しかない。
福原遥が過去を入れ替えようとしても無理であり、良くも悪くもまいんちゃんであるしかない。
人生経験を消去しようとすると根源的な虚無しかないのである。

潜在的に人間が万能であるとしても、一度に万のことを実行することは出来ないので、シングルタスクに縛られるのである。
その限定性によって未達成に終わったことに関しては、未達成の願望として断念を強いられるか、もしくは他者に憧れたり嫉妬するのだが、どちらにせよその願望は自分が実現することは出来ない。
誰でも死体をグロテスクに思うわけだが、このおぞましく湧き上がる感情こそが、人類共通のマニュアルなのである。
参照できてこそマニュアルというのであるから、ここまで自分と一体化した感情はマニュアルとさえ言えないかもしれないが、どちらにせよ死体はグロテスクにしか思えない。
そもそも生きている人間が開腹しているところだって見たくはないし、内臓はグロテスクであると決まっている。
われわれは素肌に美しさを求め内臓に嘔吐することになっている。

もし仮に死ぬと水蒸気のようになって消えて無くなるとしよう。
そうであれば、死のイメージはかなり変わるはずだし、気軽にも思える。
だが、そうであるなら、その水蒸気のように消えることをグロテスクに感じるように設定されるかもしれないし、やはり死というのはネガティブな感情と紐付けられるのであろう。
われわれはこの設定を自分で決めているのではないが、この感情というものを夾雑物として扱うのは困難である。

とはいえ、感情というアプローチを変更しながら人間が生きているのも確かである。
たとえば顔を水につけるのが恐いから泳げないという子どもはいるわけである。
これに対して、実は恐くないと言い聞かせる、もしくは本人にそう思わせることは可能であろう。
顔を水につけることに慣れれば問題はないからだ。
だがこれにしても、顔を水につけても大丈夫という現実に合わせているのであるし、感情から遁れたわけではない。
葬儀屋や検屍医を考えれば、死体に慣れることは可能であるだろうが、どっちみち感情が適応しなければならない。
溺れている人を助けるという喩えはやたらと使われるようである。
損得を抜きにしても助けるという話である。
貧困で困っている人に「ほどこし」はしないわけである。
自分の財布から一万札を出すのは、自分にとっても痛手であるし、相手を乞食扱いすることでもあるから、やるはずがない。
つまり溺れている人を助けるという喩えは、何かしら緊急性のある事態であり、損得を度外視する状況なら人助けはするということなのである。
そういう意味で言うなら、われわれはほとんど人助けはしないのである。
等価交換原理が大原則だからである。
この等価交換という秤が脳に組み込まれているからこそ貨幣は生まれたのである。
乞食を蔑むのも、もしくは自分がほどこしを受けるのを嫌うのも、等価交換原理というのが頭の中に組み込まれているからである。
緊急事態では等価交換原理を度外視するというのも、おそらくは脳に組み込まれているのである。
人道支援という善行を行うと幸福な気分になるように設定されている。
人間は被造物なので、創られたとおりに世界を理解して、それに従い行動しているのである。
われわれは意志を自己固有のものであると信じ込んでいるが、少なくとも根底の価値判断は自分以外の力で決定されている。
平氏が驕っていたということだが、平清盛がやったことで本当にひとびとを激怒させたのは福原遷都くらいであろう。この福原遷都にしても乱心というわけではなく、以仁王の乱(1180年)があり、これで源氏が立ち上がったため、清盛としてはめんどうなことになり始めていた。宗教権力も平氏の敵に回ったので、いろいろと大変であったから、京都から離れることを決意したのである。安徳天皇(平清盛の娘の息子)を京都に置いておくと危険というのが懸案事項であった。この当時は僧兵というのが仏罰の畏怖を背景に幅を利かせていたので、対立は避けたかった。結局は福原遷都が大不評であったため半年持たずに元に戻ることになり、平清盛は京都の宗教勢力を叩き潰すことにした。園城寺と興福寺を焼き払ったのである。これも後の織田信長などを見れば普通に思えるが、当時としては驕慢だったのかもしれない。どちらにせよ、こういう武家のやり方が後には普通になる。平清盛の台頭で摂関家は終わったし、武力による支配の先駆者と言えるのだが、摂関家が衰退したのは白河法皇の院政がきっかけであるし、平清盛が特に革命を起こしたわけではない。平清盛が台頭したのは白河法皇の御落胤だからとされており、この真偽は今日では確かめようがないにしても、どちらにせよ戦場で活躍して天下を取ったわけではない。めざましい出世をしただけである。戦国武将とは扱いが異なるのである。保元の乱や平治の乱で勝利者の側になったが、これは朝廷での権力闘争を鎮圧したという扱いであろうし、英雄とは違う。

平氏という悪を源氏という正義が倒したというわけではない。後白河法皇と平氏の対立関係ということに過ぎない。後白河法皇は中継ぎで天皇になっただけだが、66歳まで生きているから、何度失脚しても復権しただけである。平清盛が後白河法皇を幽閉して、年若い高倉上皇に院政を敷かせた段階で、本来なら政治生命は終わっているのである。この高倉上皇が20歳で夭折して後白河法皇が復権したのが、平氏の滅亡の大きな要因ではある。もしくは、院政を巡る権力闘争をずっとやっていただけであり、平氏はそこで勝利し、敗北もしたというだけである。都落ちの時に後白河法皇を連れて行こうとしたら逃げられたのが平氏滅亡の直接の原因である。

平清盛の存命中から源平の争いは始まっていたが、本格的になるのは平清盛が64歳で病死してからであるし、その死から四年後に、高倉上皇の息子である安徳天皇(平清盛の孫)は壇ノ浦に沈むことになるのである。源氏の軍勢の中心であった源義経の方がいいイメージで語られるのは、やはり平清盛がこの時点ですでに鬼籍に入っているからであろう。平清盛は敗軍の将としてもキャラクターが立っていない。平清盛は朝廷の実権を握っていた状態であったが、天下を取ったとは言えないし、自らの理念を実現したわけではない。国家を設計したという側面が薄いので、その意味でも英雄的な存在とは言えないのである。悪人とかそういうことではなく、英雄にはなれなかった、もしくはならなかったのである。
これは書くまでもないことであり当たり前のことなのだが、なぜかあまり指摘されないので記述しておこう。
大学入試は入社試験とほぼ等号で結べるが、そもそも誰でも入れる無名大学は普通にあるわけだ。
また有名大学でもたとえば国士舘大学なら入るのは簡単である。
一流大学に入ると、大企業の正社員になれる確率が跳ね上がるので、誰もが行きたがるわけである。
大学入試に受験料を払うのは普通であるが、入社試験で高い受験料を取るのは無理なのでこうなっている。
現状ではAO入試という変なものが全盛になっているが、これは人文科学や社会科学への不安や懐疑で起こってきた流れなので、いずれは数学能力で判断されるはずである。
もしくは入社試験が有料というのが一般化すれば大学自体がいらなくなる。
今のところは、勉強より意志の方が大事だというリベラル的な世論が煽られているので、コミュニケーション能力とか意識が高いとか、その手の力が幅を利かせている。
これは政治的な正しさを求めて迷走している流れでしかないし、入社試験の替わりに大学入試を使うということも、いずれは問い直される。
実用性を求めると、結局は数学の能力に行き当たるので、数学が出来ればいいというところに帰着する。
宇宙は数学で記述されているので、数学より実用的なものはないのは論を俟たない。
諸子百家の時代に戻ることはなく、文系は実用性がないという結論で終わりであるし、あとは文化財として保護するべきかという話である。
2015.09.22

快楽と合理性

合理性とは快楽の問題である。
快楽を増やし苦痛を減らすことを合理性という。
歯を磨くと虫歯や歯周病を回避できるとなれば、合理的な行動として磨くわけである。
何の目的もなく歯を磨いているわけではなくて、快楽-苦痛の合理性がある。
虫歯がどれだけ痛んでも構わないという人はいないのであるし、これはほとんど強制と言える。
われわれはこの問題を究極まで問うていない。
虫歯が痛んだら本当にまずいのか、そこを問わない。
虫歯の痛みがあまりにも差し迫ったものであるため、回避するのは当然だと考えるわけだ。
苦痛がどうしてまずいのかと言えば苦痛だからと言うしかない。
これが合理性の正体である。
虫歯を快楽に変えることは出来ない。
このゲームのルールは変えられない。
意志は虫歯を回避しようとしなければならない。
被弾しても構わないのであればシューティングゲームは成り立たない。
自由意志というものはほとんど無いと言ってもいいのである。
ケーキを食べるのを我慢するということで考えれば、そこは自由意志があるが、虫歯が苦痛なのは誰でも変わらないから、だいたい似たような結論が出るのだし、一晩で全財産使うような人は要するに破滅型としてカテゴライズされて、いわば墜落機の無惨な姿として存在しているわけである。
どのような風狂人でも苦痛は苦痛である。
人間はQOLの向上のために生きなければならない。
2015.09.21

作風の固定

才能があればどんな作品でも作れると思いがちであるが、実際は創作家の作風は固定されており、ひとつの作品しか作れないと言ってもいいわけである。ドストエフスキーでいえば、「カラマーゾフの兄弟」と「罪と罰」と「悪霊」と「白痴」は同じ作品だと言って差し支えあるまいし、やはり政治犯として捕まり、シベリアで四年間過ごして「死の家の記録」という獄中記を書き上げたことが、その作風を決定づけたのである。ドストエフスキーの作品には人間のすべてが書いてあると言うことも出来れば、ひとつのことしか書いてないということも出来る。おそらくひとりの創作家はひとつの断面しか示せないのである。ひとつの作風を終の棲家としなければならない。人生が一回であるなら作品も一回なのである。三島由紀夫のすべての作品は、彼のプライベートな性的疎外感を繰り返しているだけとも言えるし、その対象の煌びやかさに触れられないことがテーマなのである。森羅万象に触れることは出来ず、ある一点からすべてを想像しているのが人間であるし、この偏りが誰でもそうであるからこそ、表現には普遍性があるのである。これは人間にとっての普遍性であり、もし複数の人生を歩める生物がどこかにいるとしたら、また別の話であろう。人間の嗜好が固定化されており、その最たるものがセクシャリティーであるのだから、フロイトがすべてを性で説明するのは、それ自体はもっともな話なのである。おそらく性欲だけでなく名誉や優越感の問題も含めた方がいいであろうが、いずれにせよ、その類の人間的欲求は個人的に固定されている。われわれは固定された欲求と紐帯を結んで同一人物として存在し続けるのである。同一人物であるというのは趣味趣向があまり変わらないことであり、それなりに頭の固さが必要なのである。新作を創るつもりであっても、それはすでに諳んじていることの再生産である。別人になってはいけないというのが個人の限界であり、それは多大な矛盾を滞積させていくのだから、人間は死ななければならない。
KOBAMETALが覆面プロデューサーである限り、われわれはかなりの部分を想像で語るしかないのだが、おそらくアミューズのルールとして、KOBAMETALはゆいもあをプロデュースできないのであろうと思う。
そう考えると、だいたいしっくりくるわけである。

普通に考えてみて欲しい。

BABYMETAL:KOBAMETALプロデュース
中元すず香:KOBAMETALプロデュース
菊地最愛:KOBAMETALプロデュース
水野由結:KOBAMETALプロデュース

本当はこれが望ましいわけである。
まずKOBAMETALとしては利益が絶大なので、こうしたいはずである。
それに、もあちゃんはどっちみち自分でやるから、形式だけKOBAMETALプロデュースでいいし、もあちゃんとしても問題ないわけだ。
こうやってKOBAMETALが個人に対しての権限も持っておけば、ベビメタと個人活動を平行させつつやっていける。

ともかく想像でしか書けないが、ベビメタとそれぞれの個人活動をすべてKOBAMETALがプロデュースというのは、アミューズのルールで出来ないはず。
根拠としては、出来るなら確実にやっている、と言うしかない。

中元推しが露骨であり、ゆいもあを監禁しているわけで、いわゆる飢餓商法といえるが、飢餓商法はアーティストがやるものである。アーティスト宣言はしてないがアーティストに路線変更したようなものだから、アイドル性の欠落を伴うわけで、実際のところ海外での熱意は冷めているだろう。ゆいもあのアイドル活動こそが人気の根幹だったからだ。飢餓商法は苦肉の策であろう。

武藤-水野グループが問題視されるのも、やはりゆいもあは将来のプロデューサーが未定なのだと思われる。もちろん想像で書いてるのだが、KOBAMETALがゆいもあを形だけでもデビューさせて、プロデューサーとしての立場を確立出来るのであれば、ゆいちゃんと彩未ちゃんの共演くらいは勝手にさせるはずである。KOBAMETALがゆいちゃん個人のプロデューサーになれないからこそ、現在のような構図になっているはず。
欠点を治したくないのは、やはり快楽だからである。
快楽を断念したくないから、欠点を治さないのである。

発達障害は治らないと決めつけられているが、究極的に脳障害とは断定出来ないし、あくまで社会的に認定しているだけである。
脳がどうやっておかしくなるとアスペルガー症候群になるのか、と言われても、答えられるわけがないのだ。
そもそもニューロンが発火して精神世界が生成される仕組みなど、かなり科学が発達しないと解明出来まい。
事故で前頭葉に鉄の棒が突き刺さったフィネアス・ゲージのような事例の積み重ねで、脳のどこがどういう機能を担っているということはわかるが、それにとどまる。

たとえば、そそっかしいからミスが多い人がいるとする。
「ミスを減らしたい」としきりに言うが、そそっかしい性格は治したくないのである。
短絡的でふわふわした性格はそのままでミスだけ減らしたいということなのだ。
パチンコで借金漬けの人間が、パチンコを続けながら借金を減らしたいというようなものである。

そそっかしい性格を治すとなると、つまり四六時中冷静でいるということだ。
これが楽しいわけがない。
ADHDは本人だけが楽しいという馬鹿だから治した方がいいのだが、本人としては楽しさを失いたくない。
そそっかしい性格はそのままで維持して、発生するミスだけ減らしたいわけである。
冷静な人間になるというのは、要は津田大介みたいに、いつも眉を顰めて苦々しい顔をすることである。
津田大介がはしゃいでいる様子というのは想像出来ないし、ああいう眉間に皺が寄った冷たい人間になるわけだ。
ADHDははしゃいで馬鹿なことをやるのが楽しいので、これをやめさせるのは困難である。
冷静な人間になど死んでもなりたくないのである。
障害だから治らないというより、まず本人が治したくないというのが重要であろう。

アスペルガー症候群にしても、治したくないという側面はあるはず。
自閉性があると、人生にはマイナスだらけだが、なにかしら独特の鋭い観察眼があったりするわけである。
社交性があってやたらと馴染めるタイプの人間は深く考えてないのだし、そうはなりたくないのであろう。
濁世に馴染むよりは弾圧された方がマシだと考えているのだから治す気がないのである。
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