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学習塾でいじめがないわけではないが、学校に比べればかなり少ないはずである。
DQNが排除されているという問題もあるだろうが、やはり学校のクラスメートは友達になることが義務づけられているのである。
塾で同じクラスの人間はたまたま同じクラスにいるだけである。
友達になる義務はないわけである。
塾の人間と友達になるのは自由だが、大人から課せられた義務ではないし、友達になる必要はないのだ。
やはり学校の友達というのは義務なのである。
大人が作ったリストの人間と友達になるというのが課題なのである。
友達がいないというのは、大人から見ても欠陥品なのである。
学校のクラスという場が、友達候補の集まりであるというのが、逆に問題の根っこなのである。
友情が成立しなければ大人にとって都合が悪いという問題もある。
仲が悪いと大人の失点ということだから、この友情という問題に関して、子どもは大人から監視される立場にあるわけである。
果たすべきノルマなのである。
学習塾だと人間関係のノルマがないのに、学校だとノルマがある。
そしてこのノルマによって学校には問題が山積しているのが興味深いところである。
友達を作ることで営業成績を上げることが求められている。
今から50年くらい前だと隣近所の人のことはお互いにプライベートまで知っていたわけである。
だんだんわれわれが近所づきあいを避けるようになったのは、地理的に固定された近所の人間と探りを入れ合うのが負担になってきたからであろう。
学校でのクラスメートというのも、このご近所づきあいに似通っており、いずれは見直されてもおかしくないと思うのだが、まだ現状では友誼を育むべき相手としてクラスメートがリストアップされてしまうのである。
かつては理性と欲望というのがよく言われていたが、この頃はあまり聴かない。
実際のところ、これはあまり的確ではないからである。
変なことをやるのは要するに発達障害者であり、理性どうこうの問題ではない。
注意欠陥で気が散っていれば周辺の状況が頭に入ってないのだから、挙動不審になるのは当然である。
理性-欲望というのは、理性一元論とも言えるし、理性さえ鍛えればどうにかなるという誤った考えである。
周辺世界をちゃんと見ているかどうかが肝心であり、それさえ出来ていればロンブー淳みたいなすごい低能でも利口な行動が取れる。
注意力さえしっかりしていれば生きていける。
なぜ発達障害が最近になって発見されたかと言えば、ロンブー淳みたいなのを持ち上げる結果に繋がるからであろうし、あくまで知性に裏打ちされた理性でコントロールすることが望まれたのである。
伝統的で保守的な家父長制の社会ではロンブー淳が邪魔だというのもある。
気が散っているから馬鹿なことをやるというのは指摘されれば当たり前すぎるのだが、やはりロンブーの方が正常だとは思いたくなかったのである。
現在は核家族でバラバラの自由な社会だから、ロンブーが正しくなった。
もちろん知能が低いからロンブーが馬鹿をやることもあるが、注意欠陥による挙動不審とは違う。
ともかく、理性というのはほとんど死語である。
かなり頭が悪くても、注意力があって周囲がくっきり見えていればさして問題はない。
気が散っていて雑念にまみれていても、さほど学力には影響がないのだが、やはり自分の言動となると、かなり馬鹿をやらかすのである。
答案用紙は見えていても、周辺の状況をまったく見ていないことがあり得るのだ。
幸福論と銘打たれるとたいていつまらないのは、どうしてもローリスク・ローリターンな人生を推奨するからである。殺るか殺られるか、生きるか死ぬかという人生が美化されるとして、それを幸福論と呼ぶことはあるまい。つまり幸福がテーマになると、人生観のうちかなり穏健なものを語るわけである。思想は極端に走った方が面白い。極楽浄土で美女に囲まれるか、地獄の業火に焼かれるか、その両極端さが感覚にフィットする。出家して俗縁を断ち深山幽谷の地に草庵を構えるのは、暮らしは辛苦ではあれども宗教的な満足感は多いはずである。修行は苦痛でありながらもそこには超越的な至福があり、マゾヒズムとして快楽と気脈を通じる。マゾヒズムとは何かと言うなら、それは現在が苦痛であるほど未来の快楽が増えるという信仰である。現在と未来の比較考量を行いながら人間は生きているのだが、そのロジックが過激になった状態である。死が重いからには天国があるはずだと祈願するのである。宗教家や信徒は日常世界-超越世界という対立軸の中で後者を住み処としているのだが、決して超人となったわけではないし、あくまで宗教という物語を生きているだけであり、天国が確約されているわけではないから、その欺瞞に葛藤や不満も溜まるであろう。山奥でおとなしくしていればいいが、俗世に降りてきてテロリストになることもあるわけだ。殉教者というマゾヒズムの物語性においては、銃で撃たれる痛みや、肉片として散り散りになる血腥い結末さえ快楽に変わる。宗教は阿片であると言ったマルクスを教説として崇めたひとたちも北朝鮮を地上の楽園だと称美して紅い旗を振っていたのだから、人間は悪魔に魅入られないと気が済まないらしい。美について思い詰めると暗黒の思想に辿り着くと三島由紀夫は書いたが、金色燦爛たる世界を求めるとろくなことがない。
2015.10.14

対概念と人間

これはまだわたしの中で輪郭すら成しておらず、書き損じをするために文机に向かう試みとして、盲いた人間が象を撫でようとするようなものである。われわれはどうしても対概念を使ってしまう。真理と誤謬。正義と悪。天国と地獄。生と死。裕福と貧乏。勝利と敗北。美と醜。主観と客観。喜びと悲しみ。愛情と憎しみ。これは三次元空間と違って絶対というわけではない。いろんな概念を列挙して使うのも理屈では可能である。マックス・ウェーバーの合法的支配、伝統的支配、カリスマ的支配のように三つの区分で考えるのは無理ではない。だが、どうしてもわれわれは対概念に馴染みすぎている。人間そのものが快楽-苦痛の原理で出来ている。快楽-苦痛があるから、つまりプラスとマイナスの感情があるから、成功-失敗があるのだ。対概念がどうしても心理的にしっくりとくる。いろんな事象を五種類くらいに区別するのは可能であろうし、そういうカテゴライズはいくらでもあるだろうが、やはり貴族-奴隷とか強者-弱者のような対概念の方がわかりやすい。おそらく快楽-苦痛を当て嵌めるから対概念になると思うので、音楽のジャンルのように並列させるのも可能ではあるだろう。ブルースもロックもジャズもクラッシックもいい、というように。だが、われわれの普段の会話の多くは成功-失敗についてであるし、それが人生そのものである。感情とは別個のプラモデルのような理屈を組み上げてみても、それで死相が浮かぶ土気色の顔に生気がよみがえるわけではない。手付かずの自然のような自分が概念に毒される前に存在しているはずがないので、わたしが対概念に支配されているというよりは、この対概念の力学が虚無の世界に人間というホログラムを作り出している。成功-失敗という価値判断を含まないで語るとなるとピンと来ない。虫歯がどれだけ痛んでもそれを幻想だと言い切れる人はいいが、快楽-苦痛があまりにも絶対的なので、そこにすべては紐付けられる。たとえばクレッチマーの体型論は人間を細長型、肥満型、闘士型に分けている。細長型と肥満型はもちろん、闘士型というのもよくいるわけだ。ゴブリンのような筋肉質で肩幅が広く、強そうに見えるのだが、さほど運動神経はよくなくて、身長は低めであるという類型は思い当たるであろう。だがこういうのは博物学として列挙しているのであるし、思考概念とはまた違うであろう。痩身-肥満という対概念に闘士型(筋肉質)というのを含めても、これは概念をみっつにしたというよりは、種類を仔細に分割してリスト化しているだけとも言える。たとえば花の色で植物を分類してリストにするのは、概念とはまた違う気がするのである。貴族と奴隷の間に平民を挟んだり、もしくはさらにカーストを細かくするとしても、やはり貴賎という概念が根っこにあるのである。あるいはコーカソイドとモンゴロイドとネグロイドに分けるとしても、根底には白人と有色人種という価値観があるのである。
なぜ女は冤罪を作りたがるのかと考えるに、おそらく犯罪者予備軍を刑務所に入れたいという願望を抱いているからである。
端的に言うならレイプ不安の問題である。
レイプされてから逮捕されても遅いので、レイプされる前に予備軍を刑務所に送り込む必要があるのである。
つまり、予備軍という発想をしているから、有罪・無罪という合理的なロジックは破綻している。
犯罪者予備軍というのはわけがわからないし、何もやってないから無罪というしかないが、それでも刑務所に入れたいわけである。

おそらく女の頭の中では、男が、王子様と犯罪者予備軍に区分けされていると思うので、前述したようなレイプ不安の問題から、やりそうな人間は刑務所に入れたいと思うのである。
再犯への予防拘禁というのはあるにしても、犯罪者予備軍というのはあまりよくわからない。
とはいえ、たとえば宮崎勤の時にはオタクは性犯罪の予備軍であるとされたわけである。
また性犯罪以外でも、宅間守の件などは、子どもを対象にした大量殺人ということで、これも不審者を事前に捕まえるという変な話になったわけである。
不審な人がいるとしても、犯罪を実行する前に逮捕するというのは不可解だが、水際で警察が事情聴取することで防げると考えるらしい。

再犯の予防と初犯の予防の区別が付いてない問題であるが、初犯の予防などあり得ないといくら理屈で説明しても、不安は消えないのであろう。
それに一般予防(まだやってない人間への脅し)というのも、ひとつの考え方である。
ひとまず警察というスケベ親父が王子様の役割になっているらしい。

問題なのは、これが社会不安を根にしたものなので、よくわからないものほど冤罪に巻き込まれるということだ。
特定の男が特定の女を狙っているという場合は、なんとなく大丈夫な気がする。
ターゲットの女がロックオンされているのだから、無差別の社会不安ではないのだ。
DVから逃げている女性というのがいるわけで、これには警察も無関心である。
DVはターゲットがロックオンされているから、何をやるかわからないという不安ではないし、本当に実行するから「怪しい人間」ではないわけである。
ADHDは頭の中が雑念で一杯である。思いつきだけで浮き草のように蹌踉する繰り返しである。余分なタスクを切って頭のリソースを空けることが出来ない。いわゆる暇人は雑念の固まりである。暇を持て余すというのも変な話であり、貴重な時間をなぜ持て余すのかということだが、要するに気が散っているのでくだらない「暇つぶし」しか出来ない状態である。ADHDは治らないとされているが、治したくないという腐った精神こそが瘴気を放つ病根である。雑念に身を委ねて浮ついているのが好きなのである。もちろんそれによって人生の不幸が増えるから、そのマイナス部分だけ都合良く消したいと願うのだろうが、たとえば空想癖をやめたいとは思わないわけだ。二次障害に苦しんでも、根っこを治そうとはしない。アルコール中毒で困っているという患者はアルコールが好きだから困っているわけである。一升瓶を手にしながら「酒をやめたい」と言っているのである。パチンコ中毒もパチンコが病的に好きだからそうなるのだ。ADHDとアルコールとパチンコは同列に並べて差し支えない。ADHDが馬鹿なことをやめようとしたら、禁断症状が起こるのである。ずっと濁り酒で蜷局を巻いてパチンコをやりながら空想を描きつつ堕落した生活をしたいのである。自閉症の原因を水銀の被害に求める仮説がある。古典的に科学者と言えば、数奇者だか風狂人とでも言うべきか、深刻な狂疾というべき連中だったのは、錬金術のため水銀を使っていたからだとされる。これはセルフコントロールが出来ない状態が似通っているだけであろう。水俣病と自閉は違うであろうし、水俣病が楽しいという患者は絶対にいない。水俣病患者は水銀に依存しているわけではない。ADHDはADHDを愉しんでいるのであり、あくまで二次的な結果に苦しんでいる。ADHDは授業中に歩き回ることが多いのだが、雑念で頭の中が一杯だから身体が動いてしまう。曹洞宗の道元禅師は身体を調えることで心も調えられると述べた。達磨大師も九年間に渡り壁に向かい座禅をした。悟りのためではなく、座禅そのものが身心脱落であり仏の姿であり、安楽の法門である。身体的な威儀作法がしっかりしていれば、心もそれに伴うと道元禅師は言う。道元禅師は座禅だけでなく日常生活の作法もかなり重視していた。身体の所作と心は同じだというのである。未来の利益のために現在を我慢するのが世法(世間の法)の一歩ではあるが、ただ目的もなく座るという無我の境地こそが真実の仏法である。暇人は「何もしない」ことが出来ないので、いわば挙動不審者であり、馬鹿なことを反復しているから、仏法が求める無我なる自己とは対極である。ADHDに座禅をさせた方がいいのか、というと何とも言えないし、菩提心の欠片もない人間もどきに仏の道は教えがたいだろう。発達障害の権威であるジョン・J・レイティは「脳を鍛えるには運動しかない」という本を書いている。運動すると脳内物質が分泌されるので、リタリンを飲むのと似たような効果がある。こちらの方が医学的には適切であろう。どちらにせよADHDは座るのが嫌だし運動も嫌だというボンクラだからどうにもならないし、頭の中が煩悩だらけで仏から遠い堕地獄にいるわけである。
はるかぜ親子についてのエントリーというわけではないが、あのようなタイプの人間を思い浮かべて欲しい。
いわゆるワルではないわけである。
だが、問題ばかり起こしている。
たとえば浪費癖のある人がいるが、これがワルとは限らない。
浪費は悪事とはまた別問題である。
悪意の固まりで散財するわけではないし、後先考えないことが問題である。
セルフコントロールが出来ない、もしくは欲望に負けるという課題である。
たとえば見栄を張って嘘を付く人がいる。
やり過ぎると詐欺師になるが、詐欺とも言えない範囲で名誉欲が強い人はいるだろう。
名誉への執着心が悪事とは限らないわけである。
つまり、物欲でも食欲でも性欲でも名誉欲でもなんでもいいが、欲求に取り憑かれやすい人が存在しており、これが犯罪に当てはまることもあるが当てはまらないこともあるわけだ。
犯罪に当てはまらないのなら、馬鹿と表現するしかないのであろうし、最近ならADHDということになる。
もしくは衝動的、短絡的ということもできるが、やはり自己制御が出来ない人は馬鹿と言うしかない。
ただ「馬鹿」という一言で片付けてしまうと問題がクリアにならないので、欲求への固執ということを仔細に考えなければならない。
これは低劣な欲求から、度外れな理想主義まで含む。
状況から現実的に妥当だと思われる言動を常識と呼ぶが、馬鹿はやはり非常識になる。
たとえばあなたのお父さんが、いきなり選挙に立候補すると言い出したらどうするのか、という話である。
当選する見込みもないのに本人は議員という名誉が欲しくて仕方が無くて、多額の負債を抱えることが目に見えていても立候補するとする。
常識的には立候補を取りやめるべきだが、それでも出馬してしまうことはあるだろう。
やはりこれも馬鹿と言うしかないが、ではどう対処すればいいのか、というと難しい。
「判断力の欠如」と言うことも出来るが、おそらくは執着心の強さという観点から捉えた方がいいであろう。
議員になりたいという執着心が絶対になっているから、あらゆる判断がねじ曲げられていくのであり、自暴自棄というべき案件である。
判断力が低いというよりは、思考停止して議員の椅子に執着しているのであり、その妄執が問題であろう。
人間は時たま何らかの対象に飽きて、憑き物が落ちたような状態になることもあるが、なかなかその状態にならない人がいるわけで、やはり馬鹿というしかないのだが、ともかく問題なのは判断力ではなく執着心であり、悪魔祓いの方法なのである。
孔子は正しいが、この正しさは朝日新聞の正しさと通底している。野心のある人間がもっともらしいイデオロギーを呈示して思想集団を形成しようという衝動。孔子は現世への執着心が捨てがたい人物だったと思われるし、死のエピソードにも欠けている。俗世を超越した死生観を示せないのは、ポリティカルコレクトネスの限界である。釈迦やキリストのような本当に人類の最頂点に立った天子ではなく、孔子はまさに支配者としての天子(皇帝)になりたかったのである。王子であった釈迦が老いと病と死の問題に懊悩し世を遁れて悟りを開いたのとはまったく違うし、キリストのような超越者となることで人類愛を現出させようとしたわけでもない。孔子は政治的なのである。乙武を批判してはいけないのと同じで孔子も批判しづらいのだが、やはり野心が垣間見える人道主義なのである。よくいえば名望家たらんとしたのである。悪人よりは偽善者の方がいいという物言いも可能であるが、刑務所の囚人と比較すれば誰でもマシであろうし、決して、キリストや釈迦の次元には到達していない。孔子が偉大な知性とは言い難いし、プラトンやアリストテレスのような学識はない。むしろ根っこには知性への劣等感があり反知性主義者である。貧困層で政治的野心がありもっともらしい人生訓を語るという点では池田大作と似ている。孔子集団と創価学会に類似性を見いだすことも可能であろう。論語は朝日新聞の社説と同じようなものだし、有り難いということになっているが、要するに自己啓発本である。われわれは菊地最愛という阿弥陀如来が世界地図に登場するまでの耐え難い時間を生きており、塗炭の苦しみを回避するすべを探そうともするが、俗世と超越世界が分断されている現状においては、ただひたすら菊地最愛原理主義という教説を奉じ、この大空位時代と言うべき苦界で悲憤慷慨しながら窮民として座するしかないのである。その原罪を贖うような疼痛の先に天子の綸命があるであろう。菊地最愛という特異点が金色燦爛たる煌めきを放つまで、来迎図を懸想しながら濁世に耐えるのみである。
書籍が実売で100万部売れることがあったとしても、国民の一パーセントしか読んでない。もしくは買っても読まない人だっているだろう。だが、われわれはベストセラーのタイトルだけは知っているのである。これが世界認識の本質である。中身は知らないがタイトルだけは知っている。万巻の書を読み尽くしたいが、それは出来ないので、タイトルだけ知って読んだつもりになるしかない。名作映画のタイトルだってみんな知っているだろう。中身まで見ている時間はないので、タイトルから中身を想像して理解したつもりになるのである。映画の感想を聴くくらいなら僅かの時間であるから、その耳学問で見たつもりになる。作品名にせよ人物名にせよ、固有名詞をわれわれはたくさん知っているが、その中身を子細には知らない。人間の頭の中は用語事典のようになっていて、固有名詞に数行の表層的な説明が記述されているのである。見ていない名作映画のタイトルとあらすじだけ知っている状態が望ましいのか、それは何とも言えないが、どちらにせよ脳の限界であるからわれわれが克服できる課題ではない。普通名詞も含め、そういう言語体系の中に住んでいるのである。同世代ならほとんど同じ辞書が頭の中で作られている。同じインデックスで言語体系が区切られていると思いこんでいるから、老境にさしかかったオッサンが若者と話していて、自分の辞書の項目の古さにカルチャーショックを受けたりするが、世代によって微妙に版が異なるという程度であり、この論考の文脈においては無視できる誤差だと言っていいであろう。社会の変化に従って痕跡器官のような死語がちらほらと出てくるだけであり、言葉の体系が崩壊したわけではない。人間はいろんなものに名前を付けるわけだが、現象世界が立ち現れる仕組み自体は人類共通であるから、だいたい似たような索引になる。知能程度の差や難解な語彙の差はあるとしても、ありふれた名詞はみんな知っている。本当に理解してようやく名札が付けられるというのなら、言葉など使えない。目鼻立ちが定かではないぼんやりとした事象にこそラベルが必要なのである。
http://ameblo.jp/hirano--aya/entry-12081361661.html
13時間ちょっとの激闘の末、
ようやくドラマの撮影が終わりました……。
思い残すことはありません。
すごい役柄でしたが、
役に振り回されながら楽しんで演じられました。
OAがまだまだ先だから詳しくお話できませんが……、
放送されたら、ネット荒れるだろうなぁ(笑)。

われわれは過去の記憶を反芻しながら存在しているのだが、すっかり忘却している事象もあるわけである。平野綾ちゃんはわたしの反芻のラインナップから完全に消えた。記憶の地質年代に区切りが付いたのかもしれないが、こういう生活史というのは、時間の経過に比例して滅却するとは限らず、二十年前の挿話が毎日のように反芻されることもあるわけだ。過去の記憶のすべてをリピートしているわけではないから、いつまでも宿痾のように取り憑いてくる悪夢もあれば、すっかり関心を失う対象もある。わたしはまだ平野綾ちゃんのDVDを捨ててないが、これは愛惜の念を断ち切れないのではなく、記憶から抜け落ちた樹海で野ざらしになっているだけである。炎上が利益にならないというと、はるかぜ親子が思い浮かぶが、おそらく平野綾ちゃんの方が深刻であった。はるかぜ親子は炎上子役の通り名で知られることしか道がなかったし、商品価値が絶無であるからどう転んでも駄目だが、平野綾ちゃんは涼宮ハルヒに続いてらきすたの主役もやったのだから、商品価値はかなり高かったのである。中堅声優なら普通に恋愛しているのに、未成年のうちから頂点に立ってしまって不自由さにも直面したはずだ。とはいえ、不運に見舞われたという悲劇的印象はまったくないし、やはり病的な負けず嫌いであるから、転落は必然であった。負けず嫌いがなぜ欠陥かというと、成功-失敗を短絡的に判断するからである。われわれは誰しも成功するために駒を進めているわけだが、執着心が強すぎて迷走することもある。戦線が伸びすぎて補給路が断たれる状態。潰走する羽目に陥るのが予見されても戦わずにいられない。やたらと気性が激しく、勝敗を目先で判断するので、戦略性を完全に欠いているのが平野綾ちゃんだった。自暴自棄になりやすいから玉砕戦法を好むし破滅型の人間でもある。すっかり過去の人になったのに「ネットで荒れるだろうなあ」という妄言を吐くのも、人格障害の一言で片付けられる。これはこういう性格なのでどうしようもなかった。所属事務所のスペースクラフトが能無しという問題もあったが、どちらにせよ温厚な性格でないとトラブルを起こしやすいので、イメージ商売には向いてなかった。
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