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時間は貴重だというわりには、人間は退屈に悩まされている。
おそらくADHDだとそれが重症なのであろう。
その退屈という苦痛を和らげるために暇潰しをずっとやるわけである。

人間がゲームに興じるのは、退屈を紛らすためである。
手持ち無沙汰というストレスを癒すのだ。
健常者でもゲームをやるから、退屈は人類普遍の病ではあろうが、ADHDは重症患者である。
小人閑居して不善をなすというが、ADHDが厖大なる自由時間を手にしてしまった場合、その目的のない時間においてろくなことはしない。
徴兵されたり徴用でもされれば、強制的になにか作業をさせられるのだろうが、彼らは今のところ自由であり、目の前にはインターネットがある。

重症であれ、人並みの退屈さであれ、人間は新しい話題で好奇心を満たしたいのである。
たとえば芸能人が逮捕されたとなれば、その人物について好奇心が湧いてきて、いろいろと語り始めるわけである。
そのスキャンダルがなければ、その人物について語ることなどなかったであろうに、好奇心が刺激されて、あれこれと語りたくなるのだ。
すっかり飽きていた人物についても、何かのスキャンダルで好奇心が起動されると、結末が決まることでプロットとが完成するということなのか、その半生の挿話や事蹟をクロノロジカルに辿りながら語り明かすのである。

直近の話題に好奇心を持つのは人間誰でもそうであり、それによって時代を共有しているのであるが、ADHDは目先のくだらないことへの指向性が極端であり箍が外れている。
2ちゃんねるで特定の話題に固執し一日100回くらい投稿するADHDはどこにでもいるが、これも退屈を紛らすためである。
この手の発達障害者は誰にも見せない自分用のメモは書き留めないが、掲示板には書くわけである。
刺激を求めるのが衝動性である。
自分のためのメモを書き記しても刺激がないが、ネットでレスが来るのは新しい刺激であるし、顰蹙を買うことであっても、好奇な感情は満たされる。
卒業という便利な言葉はおニャン子クラブが発祥とされるが、不良債権化したメンバーを排除するための美名である。
留学と言っているのも、当然ながら、芸能活動休止という言葉の代替である。
鞘師里保は三ヶ月くらい前に鬱で四日間休んだ一件で詰むことは目に見えていたが、予想よりかなり早い活動休止である。
普通なら卒業商法をやるのに、それすらしないで消えるのだから、かなり追い込まれた状態である。
モーニング娘。はオワコンとは言っても、実際は武道館くらいは普通にソールドアウトするから、出来損ないの集団の一人に甘んじれば鞘師里保の生き残りは可能だったと思われるが、エリートのはずだった人間が有象無象に埋もれていくのは耐え難いであろうし、本人の自尊心の問題でもあるだろう。
元々がかなり可愛い外見だったのに、毎年毎年確実に劣化していくので、多感な少女としては心が折れたと思われる。
アップフロントのハンドリングの悪さということでもあるが、ここはかなりブラックであるし、使い捨てが基本だから、壊れるのも想定内であろう。
モーニング娘。の代役のセンターというのもなかなかいない状態であり、スキルが最も高そうな野中美希に彼氏疑惑が浮上した件もあるから、推すべき人材もいない。
牧野真莉愛はスタイルがかなりいいのでステージで見映えはするのだが、静止画像でよくよく見ると顔が変という問題があり、これも難しい素材である。
佐藤優樹は知的障害さえなければかなり能力は高いのだが、とても前面に出せるメンバーではないし、全体的に人材不足であるから、サヤシステム崩壊後は横並びになると思われる。

なお、これは中元すず香の勝利ではない。
さくら学院=ラブライブというもあちゃんの思想が粛清されたので、ゆいもあのファンがラブライブに流れているだけである。

TwitterCounterで最近二ヶ月のフォロワー数の推移を見ると、BABYMETALは明らかに頭打ちである。
南條愛乃(ラブライブ)の方が明らかに勢いがある。


BABYMETAL
164869→173607

南條愛乃
443959→477148


またinstagramのフォロワー数もこうなっている。

BABYMETAL
71900

南條愛乃
88000

「いいね」の数もベビメタがだいたい6000くらいであるのに対して、南條愛乃は9000くらいだから、明確に勢いの差はある。

ラブライブがヒュンダイならゆいもあはフェラーリというくらいの性能差はあるが、なにしろKOBAMETAL(中元すず香のプロデューサー)に監禁されたのであるから、芸能活動休止と似たようなものである。

グーグルの検索数でも南條愛乃は中元すず香の五倍くらいあるから、もはや中元は鞘師を超えるお荷物である。
われわれ菊地最愛原理主義者にとってKOBAMETAL+中元すず香は皇統譜を穢す朝敵である。

ラブライブは最近の映画でも興行収入25億円であるし、こちらは南條愛乃の相乗効果でかなり巨大なビジネスになっているのである。
というか、ゆいもあが支配するはずだった市場を全部譲り渡したのである。
BABYMETALが飢餓商法をやって、その窮民がラブライブに流れているだけなのである。

アニメの企画と音楽を一緒にするなという意見もあると思うが、2014年のμ'sの音楽セールスは20億円であるし、BABYMETALの五億円を大きく上回っている。

またウェンブリースタジアムの隣のコンサート会場でやるという件だが、追加公演の話が出てないから、そんなにチケットは売れてないと考えるのが妥当である。

つまり今後は中元すず香の卒業・留学が待たれるのである。
奇妙な未解決問題。なぜ日本人は中指を立てられても頭に来ないのであろうか。魏志倭人伝にしか書かれていないことを確かめるという話ではなく、まさに目の前の人間という現象の案件であるし、いくらでも仔細に観察したり自らに問いかけることが出来るのだが、説得力のある解答が思い浮かばないのである。匙を投げるべき課題なのであるし、無理して答案用紙を埋めようというものであるから、誤答をするために筆を走らせるわけであり、揮毫するたびに書き損じの嵩が増えるのである。笑っている顔や悲しい顔というのは、よくよく考えると根拠がないが、表情と感情は結びついているのであるから仕方がない。肉体という桎梏。感情と身体は先天的にかなり紐付けられており、われわれの内面など肉体の法則に隷従して晒されるがままであり、その双眸に意志を現すしかない。肉体の表現にさほど文化的な差異はないように思えるのだが、中指を立てるということだけは、どうしても日本人には理解しがたいのである。欧米人の心の動きまではわからないから、日本人の共通認識として議論するしかないが、おそらく中指を立てるというのは挑戦的で挑発的な態度だと日本人は解釈してるので、これは日本人はスルーできる。弱者として蔑まれているのではなく、わりと対等な立場で決闘を申し込まれたという印象を持つからである。実際はそうではないのかもしれないし、相手が報復など出来ないことを見抜いた上での挑発なのかもしれないが、ともかく日本人としては、挑発されただけで報復しようという発想はないので、喧嘩を買わなければいいだけの話である。おそらく欧米人はナチュラルに武士なのであろうし、血腥いことへの拒絶反応が弱いのであり、一介の市民が屍山血河の非日常空間にたやすく踏み込むことが出来る。もしくは銃社会であるから、剣客として闊歩して血塗れの臓腑とともに横死するイメージとは違うのかもしれない。欧米人も日本人がお辞儀をする理由はわからないであろうし、男性ホルモンの問題と言えばそれまでだが、おそらくわれわれに自由意志などないし、怪鳥が遊弋するディストピアは蒼天から遠い。この人間精神という名の裸城は肉体の麾下に置かれている。
「感覚の分析」エルンスト・マッハ (須藤吾之助/廣松渉訳)
同時に響いてくる沢山の音が識別されるのは、一体どうしてなのか?
どうして一つの感覚に融合してしまわないのか?
高さを異にする音がどうして中位の高さの混合音にならないのか?
このようなことが実際には起こらないという事実によって、
われわれの考案すべき見解が一層限定される。
恐らく、音の場合にも、識別され単一の印象に合流してしまわない空間中の相異なる場所に現れる赤と黄の混合色の系列の場合と類似の事情にあるものと思われる。
実際、或る音から別の音へ注意を移す際には、
視空間内における凝視点の転換の場合と類似の感覚が生ずる。
純音列系は、両側が限界を画された、
例えば正中面に垂直に右から左へと伸びている直線のような対称性を呈せぬ
一次元の空間と類似的である。
それは鉛直線や、正中面内でこちらから向こうへ伸びている直線とは、より一層よく似ている。
しかし、色は空間点と結びついておらず、空間内を動き回るので、われわれは空間感覚と色彩感覚とを容易に分離するのであるが、音響感覚にあっては事情が異なる。
一定の音響感覚は上述の一次元の空間の特定の部位にしか現れることが出来ないのであって、
当該音響感覚が明晰に現れる場合には上に言う部位が必ず確定している。
ところで相異なる音響感覚は音感基体の相異なる部分に現れるのだと表象したり、
或いはまた、かの二つのエネルギーのほかに第三のものがある。
詳しく言えば、高低音の色合いがそれの割合によって制約されているかの二つのエネルギーの他に
音に注意を固定する際に現れる神経興発に類する第三のものがある、と考えることも出来る。
あるいは、これら双方が同時に生じるのかも知れない。
この点について裁定することは目下のところ不可能でもあり、不必要でもある。
音響感覚の領域が空間、それも対称的でない空間、とのアナロギーを供するということは、
無意識のうちに言語にも現れている。
楽器がヒントになって左の音、右の音といった表現が生まれてもよさそうなものだが、
われわれは音の高低は云々するけれども、
音の左右を云々しはしないのである。

エルンスト・マッハの本は意外と難しくない。
根底にあるのはヒュームの感覚一元論であるし、ヒュームやカントが読める人ならマッハも読めるはず。
とはいえ、マッハはかなり黙殺されている。
実際のところ、これについてちゃんと語るとなると、物理学と哲学と、さらには医学の知識まで必要になってしまう。
マッハの言っていることは表面的に理解できても、そこから議論を広げるのはかなりの専門知識が必要である。
たとえば木田元の「マッハとニーチェ」は入手しやすい概説書だが、木田元は数学も物理も出来ないので、いろんな文献を引用して概略をまとめた中途半端なものとなっている。
われわれが医学書を読んでも一応は理解できるわけだが、それはあくまで表面的な理解であり、さらに深く語るとなれば専門的な医学知識を総動員することが必要となる。
たとえば嘘の医学知識が書いてあっても素人には見抜けないし、そのまま読むしかないわけである。

マッハの名前は音速の単位として誰でも知っているわけである。
また相対性理論はマッハとヒュームの影響で生まれたとアインシュタイン自身が言っている。
時間や空間を人間の感覚的なものだと考えてみることで、強い影響を受けたのであろう。

冒頭に引用してみた文章は、要するに、音がなぜ耳にこういうふうに聞こえるのかという不思議を語っているわけである。
これ自体はもっともであるし理解できる。
バイオリンの音が鳴るとして、バイオリンの音が鳴りながら空気中を伝わってくると普段は素朴に思っているが、よくよく考えるとそうではないはずで、聴覚を抜きにしたところでバイオリンの音が鳴っていることはないだろう。
音波とそれを頭の中で再生するのとは別問題である。
それにわたしの頭の中と他人の頭の中で同じ音声が響いているかどうかは確認できない。
頭の中の音や声は確認のしようがないからだ。
これは五感すべてについて言えるわけである。

形而上学とは宇宙や人間の根源を問う学問である。
近代科学が出てくる前にはそうするしかなかったのだ。
その宇宙と人間の根源を問う学問をマッハはやっているように思うし、いわば形而上学と近代科学の橋渡しをしていると言ってもいいのだが、いろんな人に影響を与えている形跡はあるとしても、なにしろ物理学と哲学に通暁している必要があるから、読んでないことにしておくのが無難である。
マッハの言っていることは理解出来るが、それについて深く語るのは無理というのが正直なところだろう。
いずれにせよ、形而上学の時代は終わったのであり、これからは物理学者が宇宙の根源について考えるのである。
アインシュタインはヒュームを愛読していたそうだから、物理学者が発想のヒントとして哲学書を読むことはあるだろうが、形而上学そのものでは答えが出ないだろう。
ヒュームは自分の考えをあっさり結論から言ってしまって、それでおしまいというタイプであるから、ハイデガーのようなカリスマ性が無くて人気がないわけである。
人気がないヒュームが最も人類への貢献度が高いのは興味深い。
ニーチェ「曙光」永上英廣訳
あとからの合理性----
永いこと存続しているすべての物は、
しだいに合理性が滲みこむので、
成立当時は不合理なものだったということが、
そのためありえぬことのように見える。
成立を扱ったほとんどすべての精確な歴史は、
感情的には、矛盾とも冒涜とも思われるのではないだろうか。
良き歴史家は、絶えず首をふっているのではないだろうか?

学者の偏見---
すべての時代の人々が何が善、何が悪、
何が褒めるべく、何が咎めるべきかわかっていると信じていたというのは、
学者の正しい判断である。
だが、いずれの時代よりも現代のわれわれがそれをよりよくわかっているように思うのは、
学者の偏見である。


道徳と愚鈍化---
社会的慣習は、古い人間たちが有利または有害と考えた、
その経験を表現する。
しかし慣習を支える感情はかの経験そのものに関係しないで、
慣習の古さ・神聖さ・確かさに関係する。
そのためにこの感情は人々が新しい経験を積み、
慣習を修正することに反対する。
つまり、道徳は新しい、より良い慣習の成立に反対する。
道徳は人を愚鈍にするものだ。


ニーチェの箴言を引用した上で、愚見を縷々と述べるのはあまり好きではないのだが、そういう牽強付会な読み方しか出来ないのもまた確かであるし、そもそもニーチェの箴言は閃きを呈示しているのであろうから、特定の思想文脈を指定しているとは限らない。さて、遠い昔の人が奇妙なことをやっているように見えるのは近代科学がないからであろうし、つまり医者も病院も薬もないような世界である。近代的な医療がないなら加持祈祷にすがり、死んだとなれば祟りを畏れ奉り立てるくらいしかあるまい。人間は思想的な課題として迷信を克服したのではなく、医学が発展しただけである。特効薬で快癒するならお祓いの必要もあるまいから、迷信を脱却するに決まっている。20世紀になって女性の解放が進んだのも、家電製品の普及と軌を一つにしているであろうし、人権どうこうというのは後付の説明とも言える。奴隷解放も召使いが不要になったからであり、人権思想は後付である。思想が発展しているように見えても、それは科学の発展で世の中が変わったから説明が変更され人間観が変わっただけである。
おそらくひとびとは文章が読みたいのではなくて、それがリアルタイムで更新されてくることが好きなのである。
ツイッターのタイムラインだけでなく、いろんなソーシャルツールの動き、もしくは常駐している掲示板の動きを含めてもいいだろうが、定点観測しているところが更新されると嬉しいという感覚である。
なぜ嬉しいのかと考えるとずいぶん奇妙だが、おそらくコミュニケーションしている錯覚か、そんなものだろう。
ずっと記述の内容が変わらないページとは違って、更新されることで、何かしら悦びがあるのである。

タイムラインへの依存度が高まると、流れているテロップをずっと見ている生活になってしまう。
ツイッターに貼り付くだけでなく、巡回対象のスレッドを何度も何度も確認したり、もはや意味不明の飢餓感である。
何に飢えているのかという重大な疑問が湧いてくる。
ゴミみたいなテキストが本当に好きというわけではあるまいし、目的はテキストではなく、新しい動きを待ちわびているのである。
そもそも素晴らしい文章を読みたいなら古典を紐解けばいいだけであるが、それはしないのである。

黎明期の頃は、ワイアード空間で全人類が手を取り合い、世界のすべてがあまねく照らし出されるくらいに思われていたが、実際に世間に普及してみたら、変わり映えのしない狭い世界にずっといるわけだ。
まったく世界が広がらず、これでは田舎の近所づきあいと変わりがない。
どうせなら普段は見ないサイトを見てはどうか、と思ったりするが、定点観測しているところが更新されるのが悦びの本質であるから、知らないサイトを見ても楽しくない。
何の籠城戦なのか知らないが、同じところを根城にして梃子でも動かないのである。
ネットジャンキーは関心を広げることは望んでいないし、人跡未踏の地を求めて開拓者たらんとする意志などあるはずもなく、世間話の相手を探してうろうろしてるおしゃべりなババアと大差ない。
近所づきあいが嫌悪されたことでそういうババアは淘汰されたが、われわれがネットで似たようなことをやってるのが興味深い。
われわれ人類は神である。
ひとりでゲームをやってもつまらないので、神であるわれわれは自分と他人を分割した。
それぞれの個人から他のプレイヤーの頭の中が見えないシステムを作ることで、ゲームの戦略性が成り立つ。
自分と自分でチェスをやるという間抜けなことにはならない。

この地球で陣地を取り合うゲームにおいて、それぞれのプレイヤーは「他人」として存在するしかないのである。
自分として存在は出来ない。
ゲームの盤面に載っかった瞬間に他人となるのである。
他人の前では他人にしかなれない。
他者の前に呈示される前段階の自分がないとは言わないが、脳の中身をごっそり見せることは出来ない。
どれだけ親しい家族や恋人であれ、自分をそのまま見せることは出来ない。
家族と恋人のことなら何でも知っているということはない。

社会のルールは人間が決めているので、そう決めたからそうなったという循環論法になってしまうが、このトートロジーを避けているのは他人という仕組みである。
人間が決めたんだろうけど、それは自分ではなく他人である。
われわれという神はそのように人類を設計して、世界というゲームをやることにしたのである。
忘れると言っても、本当に記憶から失われたものもあれば、長らく反芻を忘れていた出来事もあるわけで、埃をかぶった書架から取り出すことが出来るなら記憶として残っているはずなのだが、反芻のリストから削除されたエピソードは「忘れていた」と表現される。人間は楽しいことがあってもすぐに飽きる。もしくは幸福な瞬間があったとしても、それは過ぎ去った夢のようであり、ほろ苦い感傷である。たとえば道重さゆみちゃんとセックスが出来たとか、まさに金色燦爛たる極楽浄土が顕現したというレベルの至福なら話は別だが、たいていの楽しいことは刹那的な感覚しかない。それに対して苦痛とはどれだけ繰り返しても摩耗することが無く、いつでも塗炭の苦しみを伴うのである。まるで楽しさなど人生の箸休めで、苦痛こそが人生の本質であるかのようだ。この苦痛について考えてみると、自分で転んだという類の痛みなら忘れるのである。なぜか屈辱という対人的な痛みに関しては忘れてはならないらしい。他人から与えられた疵など救済はされまいし、いわば不良債権であるが、これを手放すわけにはいかない。実際のところ、屈辱を味あわされた相手に屈託無く接するのも馬鹿すぎる。高度な戦法として、あえて過去の屈辱を忘れてその当該の相手に接するというのもあるだろうし、すっかり忘れてみせることで途惑った相手の罪悪感を引き出すことも不可能ではないだろうが、なかなかそういうことは出来ないし、またそれが倫理観に響く相手ばかりではない。ごく普通に考えて、屈辱の記憶は心に血文字で銘記せざるをえない。歴史書に記録されるわけではない塵芥のような挿話でも、個人的な恥辱としては人生の重大極まりない出来事として、根深い愁傷と憤怒を伴った内面の奥底で、非合法の地下出版のように再生産され続けるのであり、それは劣化を知らない複製なのである。何度でも何度でも、まさに目の前で起こった出来事同然に幻視するのである。煩瑣な俗事を弁護士に任せるのと同じ感覚で、仇敵が死後にどうなるか神様に対応を委ねてしまうのも思考法としてはあり得るだろうが、来世まで待てないのが人間であるし、宗教の熱心な信者ほどテロリズムに近いのである。李白が銀河の九天より落つると評した廬山の滝は今でも150メートルの高さから大瀑布として畏怖をたたえながら降り注いでいるのであるし、かつてパンゲア大陸から分裂してそれぞれの大陸が生成された頃まで遡ればまた別だが、人間的な尺度からすると、自然のエコシステムは変わり映えのしない円環構造である。われわれだけが直線的な一回性の時間の中で死という終決、つまり世界の終わりに向き合っている。ネガティブな記憶ほど反芻するのは人格障害者の狂疾ではなく、むしろこれこそが歴史の中に生きる人間の本質なのであるし、他者との因縁をスティグマとして背負い、宿怨を晴らすべく干戈を交えるか、もしくは奴隷となれということだろう。
ほんの半世紀ほど前までは真面目であるかどうかが人間を評価する最大のポイントだったのである。そこは父親という畏怖するべき帝王が睥睨する絶対的な世界であり、怒りによる規律が重んじられていた。その父親というシンボルは御陵威をたたえた現人神であり、この世界の根源たる規律を皇統として引き継ぐ法身であったが、同時に不倶戴天の敵でもあるアンヴィバレントな存在だったのである。このところ、そのわれわれに取り憑いていた父という観念が忽然と消え失せ、怒りのない人間の方がバランスが取れているという考えが一気に版図を広げた。社会がそれだけ抑圧的ではなくなったのである。実際、抑圧を緩めてもたいしたことはなかった。抑圧を緩めると人間が自由奔放になり快楽主義が猖獗を極め社会が混乱状態に陥るという予想は完全に外れていた。風紀の紊乱は元からの話であるからさして変わりはない。女は古来より春をひさいでいたし、父親もただの暴君であったし、自らを本当に律してなどいなかった。父という悪魔崇拝の終わりによって神経症は淫祠邪教のようにして淘汰されたのである。規律とは要するにノルマであり、それを果てしなく探求することは自我を蝕む。あらゆることがどうなろうがどちらでも構わないという境地に辿り着けば神経症は治る。抑圧とは家制度のためであるから、家父長制を放棄すれば抑圧の必要はない。これによって結婚するのがただのコストでしかないという状態になったが仕方があるまい。結局のところ、真面目さというのは人生の諸過程をノルマとして捉える考えである。ヒステリーの女性はその肢体を縛る義務感の強さに打ち震えて痙攣していたのだ。この義務への固執を支えるのは怒りであり、それが真面目さであった。発達障害と神経症は義務への固執という点ではさほど径庭がない。人生が選択の余地がないノルマとして与えられていた神経症の時代においては、発達障害も類友として温存されていたのである。言われたことだけやれという社会から、言われなくても気付けという社会に大きくシフトしたので、われわれの人生へのアティテュードは真逆になっており、これは歴史的にかなり大きな粛清なのであるが、刑場の露と消えて退場するのもままならず、敗死するべき人々が生かされている状態である。怒り狂う人間には神経症が似つかわしいが、怒らない人間には鬱病が似合う。メンタルを病むのも時代相の反映であるのが興味深い。
われわれは自分のことで怒ってはいけないルールの中で生きている。
馬鹿にされて怒るのはまずみっともないし、それでも強行すれば、頭のおかしな人という扱いになる。
だから怒りは代行されなくてはならない。
それが政治の根源である。
われわれがボスというものを畏れるのも、この原理によるものであり、ボスに刃向かうとまわりの子分から集中砲火を浴びるからだ。
ボスの立ち位置から、カーストが低い自分へのバッシングがなされるのである。
つまりボスというのは強者ではあるが、これはそのような怒りの起点として仮想されているのである。
いわば天皇機関説みたいな話だが、天皇は実在しているにしても、その構造が実体なのである。
ボスのために怒る、天皇のために刃物を振り回すというのは、人間としてはしっくりくるのである。
なぜ他人のために怒るのかとよくよく考えると説明が付かないのだが、なにしろ自分が馬鹿にされて怒るのは恥ずかしいし、世間的にも狂人として扱われるから、他人をだしにして怒るしかないのである。
ボスが幅を利かせている空間では、人間の信頼関係などないのである。
ボスママの周辺にいるママは、ボスママを出汁にして他人を攻撃するという力学の中にいるだけである。
遠く離れた地域の宗教戦争などを見ても、やはり他人のために怒るというのは人間の基本であるように思われる。
自分が馬鹿にされたら怒らないように気をつけているのに、小耳に挟んだデマでは怒り狂うわけである。
デマを吹き込まれて怒るのは正当な行為なのである。
それが行きすぎるとスマイリーとかいう芸人への名誉棄損みたいになってしまうが、あれで逮捕された人たちでも、自分が馬鹿にされたら怒らないだろう。
言うまでもないが、本当にはらわたが煮えくり返るのは自分が馬鹿にされた時であるが、自分の場合には、あくまで冷静でいなくてはならないのである。
だから怒りを代行して発散する。
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