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2016.01.20
親孝行=権力者への崇拝感情
これは中国の儒教批判としてわりと言われると思うが、親孝行というのは権力者への崇拝を求めるものである。
つまり「自分の父親」と「自分の母親」の二名に限って孝行しろというのではなく、皇帝であるとか、もしくはそこらの偉そうなオッサンも父親の似姿として尊敬しろということなのである。
最近の日本で体罰が無くなったのは、親孝行が説かれなくなったからである。
昔だと世の中のオッサン全員が「父親代わり」だったのである。
だからたとえば塾の教師でさえ生徒を殴る権利があった。
父親代わりだからである。
体罰とは父親の代わりに殴ることなのである。
どう考えても、親孝行という美風は廃絶した方がいいのである。
もちろん「自分の父親」と「自分の母親」に孝行するのは自由だが、親孝行を持ち出してオッサンが子どもを殴るとか、そういうことが横行するのは困るのである。
だいたい父親代わりと言っても、父親の代わりに子どもを扶養してくれるオッサンはいないわけである。
あくまで父親の代わりに殴るだけである。
父親代わりとして面倒を見てくれたという美談もまったく無いわけではないが、それよりは父親代わりとして殴ってくれたオッサンの方が圧倒的に多いわけである。
ともかく親孝行を説くべきではない。
自分の親を尊敬するのは自由だし、各自が勝手にやればいい。
他人に対して「親孝行しろ」と説くのは父親の代わりに殴りつける準備作業なのである。
赤の他人は赤の他人であるから、父親面することを許してはならない。
つまり「自分の父親」と「自分の母親」の二名に限って孝行しろというのではなく、皇帝であるとか、もしくはそこらの偉そうなオッサンも父親の似姿として尊敬しろということなのである。
最近の日本で体罰が無くなったのは、親孝行が説かれなくなったからである。
昔だと世の中のオッサン全員が「父親代わり」だったのである。
だからたとえば塾の教師でさえ生徒を殴る権利があった。
父親代わりだからである。
体罰とは父親の代わりに殴ることなのである。
どう考えても、親孝行という美風は廃絶した方がいいのである。
もちろん「自分の父親」と「自分の母親」に孝行するのは自由だが、親孝行を持ち出してオッサンが子どもを殴るとか、そういうことが横行するのは困るのである。
だいたい父親代わりと言っても、父親の代わりに子どもを扶養してくれるオッサンはいないわけである。
あくまで父親の代わりに殴るだけである。
父親代わりとして面倒を見てくれたという美談もまったく無いわけではないが、それよりは父親代わりとして殴ってくれたオッサンの方が圧倒的に多いわけである。
ともかく親孝行を説くべきではない。
自分の親を尊敬するのは自由だし、各自が勝手にやればいい。
他人に対して「親孝行しろ」と説くのは父親の代わりに殴りつける準備作業なのである。
赤の他人は赤の他人であるから、父親面することを許してはならない。
2016.01.19
馬鹿は意志ではなく発作
馬鹿は「馬鹿なことはやめろ」とよく言われるので、「俺は絶対にやめない」と反発するわけである。
これは果たして意志であるだろうか。
意志とはなんぞやという究極的な問題はここでは問わないが、常識的に考えて、選択しているからこそ意志である。
馬鹿は自分の意志で選んだ上で馬鹿をやっているのではなく、衝動的な発作なのである。
意志だというのなら、馬鹿をやめることも可能なはずだが、たぶん無理であろう。
馬鹿をやめるとは、雑念や衝動で身体が動きそうになっても抑えることである。
というより、まともな人は、無理して自制しなくても、自然体でおとなくしていられる。
奇声を発したりバタバタしたいのを我慢しているわけではない。
「俺は馬鹿をやめない」と言うのが意志の選択であるなら、本当は真人間になれるが、敢えて馬鹿をやる道を選んでいるはずだが、果たしてそうなのかというとかなり疑問があり、落ち着いて普通にしていることが出来ないのが実際であろう。
なんか知らんが、馬鹿というのは馬鹿をやるのが楽しくて仕方がないのである。
もちろん馬鹿なことを繰り返していればろくな結果にならないので、結末が楽しいはずはないが、それでも馬鹿をやっている時は楽しいのである。
これは果たして意志であるだろうか。
意志とはなんぞやという究極的な問題はここでは問わないが、常識的に考えて、選択しているからこそ意志である。
馬鹿は自分の意志で選んだ上で馬鹿をやっているのではなく、衝動的な発作なのである。
意志だというのなら、馬鹿をやめることも可能なはずだが、たぶん無理であろう。
馬鹿をやめるとは、雑念や衝動で身体が動きそうになっても抑えることである。
というより、まともな人は、無理して自制しなくても、自然体でおとなくしていられる。
奇声を発したりバタバタしたいのを我慢しているわけではない。
「俺は馬鹿をやめない」と言うのが意志の選択であるなら、本当は真人間になれるが、敢えて馬鹿をやる道を選んでいるはずだが、果たしてそうなのかというとかなり疑問があり、落ち着いて普通にしていることが出来ないのが実際であろう。
なんか知らんが、馬鹿というのは馬鹿をやるのが楽しくて仕方がないのである。
もちろん馬鹿なことを繰り返していればろくな結果にならないので、結末が楽しいはずはないが、それでも馬鹿をやっている時は楽しいのである。
2016.01.19
親が肉体を作ったという誤解
われわれは根無し草であるからこそ根拠を求めざるを得ないのだが、どこまで手を伸ばしたとしても、掴まされるのはフィクションである。本当の根拠がないので、建国神話とか創造神話のような物語に依存している。こうやって肉体を持って存在しているのはカフカの「変身」のような悪夢であるし、ましてやおまえらの肉体だと巨大な虫とたいして変わるまい。なぜこの肢体をうごめかしながら生きながらえようとしているのか、その解答欄が空白であることに耐えられない人は神話に縋るしかないのである。われわれ個人の成り立ちについても、作り話で説明されている。親からもらった身体という物語が典型である。実際は生命体が繁殖しているだけである。親に感謝したり、もしくは恨んだりするのは筋違いであろう。産んだ後に育ててくれたことに感謝するのはいいとしても、産んだだけで感謝しろというのなら、子宮から出てきた瞬間にえいやと赤ちゃんポストに投擲されて不遇の境涯を過ごしている人でも、どこかの公衆便所で産み落としてくれた深い愛情に感謝しなければならないことになってしまう。人間存在というミステリーに向き合うなら、親への感謝とか、恨み辛みとか、そういう物語で誤魔化すのをやめるのが出発点である。気付いたら天涯孤独でこの地球上に肉体として存在しているのが実態であり、だからこそ血縁に頼り、家族の一員であることをアイデンティティーとして、そのつながりで生きながらえ命脈を保っているのだが、この現世で生き抜くことに忙殺され、黒檀に染まる無明の世界でひたすら貪るしか無く、煌めく蒼天からは遙かに遠い。もしくは蒼天はわれわれの頭上に広がっているのかもしれないが、動物が音楽を理解できないのと同じで、人間が理解できることしか人間は理解できないのである。五感が補足できない物理現象も科学で検出できるが、精神現象の検出は不可能である。人間にとって最高の快楽はセックスであり、天国に行ったら理想の相手とセックスしたいと願うのだが、山紫水明の景色が広がる天界で沐浴する貴人であれば、われわれソドムの住人とは設計が違うであろうし、もっと高級な快楽を体験しているかもしれないのである。
2016.01.17
「嫌われたくない」のは学校時代の後遺症
大人の世界でもパワハラはあるけれども、権力者からしか嫌がらせを受けない。
学校はそれとは違っていて、四方八方から嫌がらせをされる可能性があるし、「やり返す」ことが求められる。
最近だと子どもに「やられたらやり返せ」とは言わないだろうが、ともかく自分でどうにかしろということなのだ。
大人のパワハラでこれはあり得ない。
上司から嫌がらせをされている人に「やられたらやり返せ」とアドバイスする馬鹿はいない。
つまり学校というのは、刑務所の雑居房に近いのである。
スクールカーストがあるとしても、これは上司と部下ではないので、バトルロワイヤルという側面もある。
そして自力救済が認められている空間である。
というより、警察がないから、自力救済しかない。
自力救済は大人の世界では禁止されており、ものを盗まれたからといって、それを暴力的に取り返すことは認められていない。
学校だと自力救済が推奨されている。
「嫌われる」のを畏れるのは学校時代の後遺症である。
大人になると権限のある権力者だけが嫌がらせを出来るわけだから、やるかやられるかのバトルロワイヤルではない。
だから四方八方に媚びる必要はないはずなのである。
学校はそれとは違っていて、四方八方から嫌がらせをされる可能性があるし、「やり返す」ことが求められる。
最近だと子どもに「やられたらやり返せ」とは言わないだろうが、ともかく自分でどうにかしろということなのだ。
大人のパワハラでこれはあり得ない。
上司から嫌がらせをされている人に「やられたらやり返せ」とアドバイスする馬鹿はいない。
つまり学校というのは、刑務所の雑居房に近いのである。
スクールカーストがあるとしても、これは上司と部下ではないので、バトルロワイヤルという側面もある。
そして自力救済が認められている空間である。
というより、警察がないから、自力救済しかない。
自力救済は大人の世界では禁止されており、ものを盗まれたからといって、それを暴力的に取り返すことは認められていない。
学校だと自力救済が推奨されている。
「嫌われる」のを畏れるのは学校時代の後遺症である。
大人になると権限のある権力者だけが嫌がらせを出来るわけだから、やるかやられるかのバトルロワイヤルではない。
だから四方八方に媚びる必要はないはずなのである。
2016.01.16
玉城ティナの自意識の問題
玉城ティナがハヤカワ五味とツイッターでやり取りしていたので、見てみたら相互フォローだった。
フォロワーの中に伊勢谷友介もいるが、なんとなくこっちのジャンルの人になりそうである。
わたしは今まで玉城ティナにさほど関心が無く、ツイッターは何となく漠然とフォローしていて、意識高いメッセージみたいなツイートが気になってはいたのだが、いずれ伊勢谷友介みたいな活動でも始めそうな気がする。
玉城ティナは奇跡的な美貌の持ち主であることは間違いない。
ハーフだから、わりと早い段階で素肌が張りを失い造型も崩れるはずだが、まだ18歳の高校三年生だし、後半生がどうなるにせよ、現時点ではかなり恵まれているだろうに、なんか社会にメッセージを発したいというオーラがあるのが謎である。
そう言えば、玉城ティナはミスiDの物件でもあった。
いずれは劣化するとしても、出てきた段階ではかなりの特権的な美しさがあったから、講談社との出来レースのような気がするのだが、もちろんわたしにはよくわからない。
ミスiDは自意識をこじらせた人の集団とも言えるから、玉城ティナが率先してこちらに吸い寄せられたのかもしれない。
ハヤカワ五味は成功者でもないのに、功成り名を遂げた人間みたいに振る舞っており、Tehuの類友である段階で察しだが、玉城ティナはハヤカワ五味やTehuと違って、明らかな社会的成功者なので、なんか不思議である。
わざわざ自分をすごい人間に見せなくても、それだけの成功者であるから、これから経過観察して理由を探りたい。
現時点では玉城ティナはTehuをフォローしてないが、いずれここのラインも繋がりそうな気がする。
フォロワーの中に伊勢谷友介もいるが、なんとなくこっちのジャンルの人になりそうである。
わたしは今まで玉城ティナにさほど関心が無く、ツイッターは何となく漠然とフォローしていて、意識高いメッセージみたいなツイートが気になってはいたのだが、いずれ伊勢谷友介みたいな活動でも始めそうな気がする。
玉城ティナは奇跡的な美貌の持ち主であることは間違いない。
ハーフだから、わりと早い段階で素肌が張りを失い造型も崩れるはずだが、まだ18歳の高校三年生だし、後半生がどうなるにせよ、現時点ではかなり恵まれているだろうに、なんか社会にメッセージを発したいというオーラがあるのが謎である。
そう言えば、玉城ティナはミスiDの物件でもあった。
いずれは劣化するとしても、出てきた段階ではかなりの特権的な美しさがあったから、講談社との出来レースのような気がするのだが、もちろんわたしにはよくわからない。
ミスiDは自意識をこじらせた人の集団とも言えるから、玉城ティナが率先してこちらに吸い寄せられたのかもしれない。
ハヤカワ五味は成功者でもないのに、功成り名を遂げた人間みたいに振る舞っており、Tehuの類友である段階で察しだが、玉城ティナはハヤカワ五味やTehuと違って、明らかな社会的成功者なので、なんか不思議である。
わざわざ自分をすごい人間に見せなくても、それだけの成功者であるから、これから経過観察して理由を探りたい。
現時点では玉城ティナはTehuをフォローしてないが、いずれここのラインも繋がりそうな気がする。
2016.01.16
ボーカルパートが主役でアレンジは脇役だというが
Google Play Musicで東京女子流の新アルバムが配信されていたからちょこっと聴いたのだが、かなりの凡作である。
東京女子流は昔は生演奏でやっていたから、どうもその悪いパターンを引き摺っている。
ボーカルパート(主旋律)のメロディーが陳腐で、アレンジもお付き合いするように陳腐。
アレンジが陳腐なのは、何となく生演奏を意識しているからであり、やはりこういう失敗作を聴くと、モーニング娘。のEDM路線はカラオケアイドルとしては最適解だったのである。
My Heart Will Go Onみたいな、誰が聴いても名曲というのは、出尽くしたのが現状である。
こういうタイプの曲は広まりやすいから、すべて聴いたといってもいいくらいなのである。
クラッシックの名曲はほとんど聴いたことがあるのと同じである。
ではもう聴く音楽はないのか、ということだが、サウンドとして捉えるなら、あまり広まっていないいい曲はたくさんある。
主旋律(ボーカルパート)こそが主役でアレンジが脇役だというのは印税の配分でも明らかだが、世の中の音楽は「アレンジ」が主役であることも多いのである。
そもそも楽器演奏を含めたサウンドこそが音楽である。
レッド・ツェッペリンとかボーカルだけ聴いているとどこがいいのかわからないだろうが、全体のサウンドとして聴くととても素晴らしいわけである。
印税のことだけ考えてしまうと、アレンジャーや演奏者は脇役に思えるし、実際に脇役でしかないことも多いのだが、ギターのリフでサウンドを作り上げることだって出来るわけだ。
モーニング娘。とレッド・ツェッペリンを並列するのはさすがにおかしいが、とはいえ、モーニング娘。はボーカルパートがかなりの糞曲だからこそ、サウンドとしてよく作られている、と言いたいのである。
モーニング娘。は人気がないという設定だが、平日の武道館くらいは普通に埋まる。
12月の武道館も鞘師の卒業発表前に完売してる。
狭い会場だと男性ファンがメインだと思うのだが、先日の武道館は(わたしは2daysの初日しか行ってないが)半数くらいは女性だったと思う。
あくまでおっさんのファンがコアではあるのだが、それでいて、20代女性のライト層がずいぶんいる。
2014年のニューヨーク公演は、2016年のBABYMETALニューヨーク公演と同じ場所だから、意外と海外人気もある。
あれだけの糞曲でもそれなりにファンがいるのは、サウンド全体として聴くとなかなかいいから、だと思う。
ベビメタは「いいね!」はサウンド的にかなりよく作られている。
あれはアレンジが普通ならそれなりのいい曲で終わってしまうが、あちこちにキャッチーなフレーズが組み込まれているから、これはレベルが高い。
たぶんセカンドアルバムに入る「あわだまフィーバー」はサビの部分だけはかなりキャッチーでいいのだが、全体のサウンドとしては破綻している。
ベビメタはシンセサイザーのレベルが高いのが実際のところであり、あのギターとかたいしてうまくないのに、神バンドとか持ち上げたことで演奏が悪目立ちして浮いてしまい、サウンド全体の統一感が失われてしまった。
まさにあわだまのように渋谷のサポーターみたいな新規が増殖しているだけに、これからどうやって破綻するか楽しみである。
東京女子流は昔は生演奏でやっていたから、どうもその悪いパターンを引き摺っている。
ボーカルパート(主旋律)のメロディーが陳腐で、アレンジもお付き合いするように陳腐。
アレンジが陳腐なのは、何となく生演奏を意識しているからであり、やはりこういう失敗作を聴くと、モーニング娘。のEDM路線はカラオケアイドルとしては最適解だったのである。
My Heart Will Go Onみたいな、誰が聴いても名曲というのは、出尽くしたのが現状である。
こういうタイプの曲は広まりやすいから、すべて聴いたといってもいいくらいなのである。
クラッシックの名曲はほとんど聴いたことがあるのと同じである。
ではもう聴く音楽はないのか、ということだが、サウンドとして捉えるなら、あまり広まっていないいい曲はたくさんある。
主旋律(ボーカルパート)こそが主役でアレンジが脇役だというのは印税の配分でも明らかだが、世の中の音楽は「アレンジ」が主役であることも多いのである。
そもそも楽器演奏を含めたサウンドこそが音楽である。
レッド・ツェッペリンとかボーカルだけ聴いているとどこがいいのかわからないだろうが、全体のサウンドとして聴くととても素晴らしいわけである。
印税のことだけ考えてしまうと、アレンジャーや演奏者は脇役に思えるし、実際に脇役でしかないことも多いのだが、ギターのリフでサウンドを作り上げることだって出来るわけだ。
モーニング娘。とレッド・ツェッペリンを並列するのはさすがにおかしいが、とはいえ、モーニング娘。はボーカルパートがかなりの糞曲だからこそ、サウンドとしてよく作られている、と言いたいのである。
モーニング娘。は人気がないという設定だが、平日の武道館くらいは普通に埋まる。
12月の武道館も鞘師の卒業発表前に完売してる。
狭い会場だと男性ファンがメインだと思うのだが、先日の武道館は(わたしは2daysの初日しか行ってないが)半数くらいは女性だったと思う。
あくまでおっさんのファンがコアではあるのだが、それでいて、20代女性のライト層がずいぶんいる。
2014年のニューヨーク公演は、2016年のBABYMETALニューヨーク公演と同じ場所だから、意外と海外人気もある。
あれだけの糞曲でもそれなりにファンがいるのは、サウンド全体として聴くとなかなかいいから、だと思う。
ベビメタは「いいね!」はサウンド的にかなりよく作られている。
あれはアレンジが普通ならそれなりのいい曲で終わってしまうが、あちこちにキャッチーなフレーズが組み込まれているから、これはレベルが高い。
たぶんセカンドアルバムに入る「あわだまフィーバー」はサビの部分だけはかなりキャッチーでいいのだが、全体のサウンドとしては破綻している。
ベビメタはシンセサイザーのレベルが高いのが実際のところであり、あのギターとかたいしてうまくないのに、神バンドとか持ち上げたことで演奏が悪目立ちして浮いてしまい、サウンド全体の統一感が失われてしまった。
まさにあわだまのように渋谷のサポーターみたいな新規が増殖しているだけに、これからどうやって破綻するか楽しみである。
2016.01.15
ネットが名著を生み出さない問題
ネットが普及したことで多少はマスメディアがおとなしくなったので、それはいいのだが、思っていたほど革命的ではなかった。
まず人間そのものに限界があり、頭の出来映え自体が変わらない。
科学が進歩して生活は便利になるが、叡智から縁遠いことに変わりはない。
出版社の牙城が崩れていないのも大きな原因であろう。
紙媒体の方が明らかに権威が高い。
大手出版社から本を出すとなると、いかにも社会的に認められている著者という感じである。
同じ内容を無償でネットに公開したとして、これは金にならないだけでなく、出版したという実績にもならない。
初期の頃はネットを放送局に喩える人がたくさんいたが、それは間違いであろう。
公開はされているけれども、検索して辿り着いたひとしか読まないので、決して世界に向けて放送などしていない。
たくさんの名著がただで読める図書館があるとしたら、少なくとも書籍代がネックで知性が停滞することはなくなる。
人間が読める本の数などたかが知れているし、それも人間の限界だが、書籍が無料であるなら、書籍代の壁で読書から疎外されている人に機会は与えられるであろう。
海外の古典的な名著で著作権が切れてるのはたくさんあるが、翻訳者の著作権はなかなか切れてない。
日本政府が税金で人を雇って翻訳して、ネットで無償公開すればいいと思うのだが、もちろん現実には民業圧迫だと批難されるであろうし、出版社は死活問題として抵抗するであろう。
それ以外にも様々な障壁が考えられるから、これは現実的な提案ではない。
何にせよ、ネットが普及してから20年くらい経つが、無料の名著は生まれなかったのである。
価値のある文献を読むには金を払う必要があり、そこはまだ出版社が完全に支配している有料のゾーンである。
まず人間そのものに限界があり、頭の出来映え自体が変わらない。
科学が進歩して生活は便利になるが、叡智から縁遠いことに変わりはない。
出版社の牙城が崩れていないのも大きな原因であろう。
紙媒体の方が明らかに権威が高い。
大手出版社から本を出すとなると、いかにも社会的に認められている著者という感じである。
同じ内容を無償でネットに公開したとして、これは金にならないだけでなく、出版したという実績にもならない。
初期の頃はネットを放送局に喩える人がたくさんいたが、それは間違いであろう。
公開はされているけれども、検索して辿り着いたひとしか読まないので、決して世界に向けて放送などしていない。
たくさんの名著がただで読める図書館があるとしたら、少なくとも書籍代がネックで知性が停滞することはなくなる。
人間が読める本の数などたかが知れているし、それも人間の限界だが、書籍が無料であるなら、書籍代の壁で読書から疎外されている人に機会は与えられるであろう。
海外の古典的な名著で著作権が切れてるのはたくさんあるが、翻訳者の著作権はなかなか切れてない。
日本政府が税金で人を雇って翻訳して、ネットで無償公開すればいいと思うのだが、もちろん現実には民業圧迫だと批難されるであろうし、出版社は死活問題として抵抗するであろう。
それ以外にも様々な障壁が考えられるから、これは現実的な提案ではない。
何にせよ、ネットが普及してから20年くらい経つが、無料の名著は生まれなかったのである。
価値のある文献を読むには金を払う必要があり、そこはまだ出版社が完全に支配している有料のゾーンである。
2016.01.14
平凡-非凡。対概念という悪魔。
人間はどうしても対概念で考えてしまう。
人間を分類するとして、たとえば五種類くらいに分けると、なんか雑然とした感じになる。
善人と悪人とかそういう対概念の方がしっくりと来る。
薔薇の品種は何万種類もあるそうで、それを羅列するのは出来るわけだが、薔薇というのを何かの比喩として使うなら、どうしても対概念になりそうである。
イメージの悪い花を薔薇と対極の位置に置いて、それと対立させて考えたりするのである。
価値判断を含ませるとどうしても対概念になる。
平凡-非凡というのも、対概念が生み出した悪魔である。
平凡な人というのはいるわけで、みなさんのまわりでも、いかにもバランスが取れた無難なタイプの人間はいるわけだ。
これを対概念として用いるとややこしくなる。
人間を品種として羅列するなら、たとえばこんな感じになるだろう。
・極めて優秀な人
・平凡な人
・出来損ない
これを平凡-非凡という対概念にしてしまうと、極めて優秀な人間と、かなりの出来損ないが同じグループに入ってしまう。
「普通ではない人」として括られてしまう。
そしてこれが自意識の病なのである。
自己啓発本がたくさん発行されているのも、おそらくこのあたりが原因であろう。
極めて優秀な人がああいう愚にも付かない本を読むとは思えないし、たぶん出来損ないの人が、非凡だという自意識を持って自己啓発に取り憑かれているのだ。
これは人間の業病なのである。
たまたま優秀であれば発病しないが、そうでない場合には「凡人ではないから選ばれた人間」という思考に陥る。
何かしら自分を特別な存在だと思わないと自我が成り立たないのかもしれないし、この病気そのものが人間とも言えるから、快癒はあり得ないのである。
人間を分類するとして、たとえば五種類くらいに分けると、なんか雑然とした感じになる。
善人と悪人とかそういう対概念の方がしっくりと来る。
薔薇の品種は何万種類もあるそうで、それを羅列するのは出来るわけだが、薔薇というのを何かの比喩として使うなら、どうしても対概念になりそうである。
イメージの悪い花を薔薇と対極の位置に置いて、それと対立させて考えたりするのである。
価値判断を含ませるとどうしても対概念になる。
平凡-非凡というのも、対概念が生み出した悪魔である。
平凡な人というのはいるわけで、みなさんのまわりでも、いかにもバランスが取れた無難なタイプの人間はいるわけだ。
これを対概念として用いるとややこしくなる。
人間を品種として羅列するなら、たとえばこんな感じになるだろう。
・極めて優秀な人
・平凡な人
・出来損ない
これを平凡-非凡という対概念にしてしまうと、極めて優秀な人間と、かなりの出来損ないが同じグループに入ってしまう。
「普通ではない人」として括られてしまう。
そしてこれが自意識の病なのである。
自己啓発本がたくさん発行されているのも、おそらくこのあたりが原因であろう。
極めて優秀な人がああいう愚にも付かない本を読むとは思えないし、たぶん出来損ないの人が、非凡だという自意識を持って自己啓発に取り憑かれているのだ。
これは人間の業病なのである。
たまたま優秀であれば発病しないが、そうでない場合には「凡人ではないから選ばれた人間」という思考に陥る。
何かしら自分を特別な存在だと思わないと自我が成り立たないのかもしれないし、この病気そのものが人間とも言えるから、快癒はあり得ないのである。
2016.01.13
これまで南條愛乃さんが発見されなかった不思議
南條愛乃さんのツイッターのフォロワー数はすでにラブライブ本体を超えており、まったく失速する気配がない。こういう数字は当てにならないにせよ、ソロでかなりの動員力があるのは間違いないので、これは実態を伴っている。よくよく考えれば、アニメ好きなら、たいていの人はFripsideというユニットは知っていたはずである。漠然と知ってるがちょっと聴いてみて趣味に合わないから興味ないというバンドやユニットがたくさんあるわけで、Fripsideもその中のひとつだったわけだ。わたしの昔の印象で言えば、それなりにまとまっていて悪くはないが、中途半端に出来がいいだけで、ボーカルの女の実力が足りてない、という感じだった。南條愛乃さんがこのところ急速に支持を伸ばしているのはラブライブ効果なのかと言えば、確かにそうではあるだろう。南條さんは10年前から声優ではあるが、ラブライブに関わるまでは声優としての知名度は低かった。ラブライブ声優というのが極めて大きなステータスであるのは言うまでもなく、これによって人気が上がったのは間違いない。μ'sなら誰でも人気があるかというとそうではなく、むしろ人気がない人の方が多いわけだから、これは宝くじに当たったような特権ではないが、とはいえ、上方のバイアスが働くのも確かである。南條さんはラブライブへの忠誠度が低いとされるが、母親がアニメーターという家庭環境もあり、代々木アニメーション学院卒という寂寞たる黒歴史も含め、アニメやゲームへの知識もかなりあるから、ラブライブが嫌いであっても問題ではない。アニメ文化全般に興味がないのなら問題だが、文脈や歴史を踏まえた上で、それこそ臨済録さながらの、仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺し、そして始めて解脱を得んという快刀乱麻である。オタサーの姫として頂点に君臨する南條さんならではの具眼者たる痛快さといえるし、ラブライブが巨大コンテンツだからこそ右顧左眄することなく醒めている。ラブライブが顕教であるなら、南條さんなりの密教があり、とっくに悟りの境地に到達しているから、そのか細い指で印契を結び、唇は真言を誦し、沙羅双樹に寄り添いながら涅槃を待っている。紅白欠場の件が風化しつつあるのも、南條さんがオタサーの姫としての資質をすべて兼ね備えているからであり、もはや絶対者と言うしかないのである。もし南條さんみたいな存在が別にいたとして、それがラブライブ声優でもなく、ましてや声優でもないとすれば、実物以上に見映えがする才能が素晴らしいと思われたかは判然としないし、姥桜のまやかしのような美しさが絶賛されたかは疑わしい。たいていの人はFripsideを何となく知っていたのに、たいして人気が無かったのだから、今さら南條愛乃さんの凛とした立ち姿を阿弥陀如来の来迎図のように崇めて褒めそやすのは、ラブライブ声優として下駄を履かせているだけという誹りは免れないが、それを言うなら、ハンマー投げしか出来ないような屈強なガタイの中元すず香さんも、プロデューサーがゆいもあを拉致するなどいろいろ工夫して見映えをよくしているわけである。われわれニューヨーカーからしたら中元は鞘師と同レベルなのに、このソドムたるニューヨークより遙かに上の桃源郷である日本では東京ドームでロックスターに変身する奇蹟を実現したのだから凄い。ドブスだから正直にそのままドブスに見せなければならないわけではあるまい。中元も南條さんも見てくれが悪いので、実物そのままでステージに上がったらやばいのは同じであるが、中元がただの冴えない女であるのに対して、南條さんはナードを美少女化した究竟の存在であるし、いわばオタの理想を具現化したアイコンである。中身がババアであるとしても、歌舞伎の女形と同じようなものである。本物の美少女が素の状態でステージに上がったとして、たとえ現実でどれだけ魅力的であろうとも、イデアというべき根源的な少女性の雪月花すべてをあまねく現すことが出来るわけではないだろう。この血腥い苦界において、絵空事だろうが南條愛乃さん(31歳)が演者として仮初めの理想を描き、ステージでリプニツカヤに見えればいいのである。
2016.01.12
具体例を使って人間を説明する理由
われわれが人間について語る場合は、どうしても具体例を使うしかない。
もちろん具体例を使わずに記述することも可能ではあるが、どっちみち読者の方で具体例を思い浮かべるのだから、わざわざ避ける意味がない。
具体例を引き合いに出す場合、そのエピソードに普遍性を求めているわけである。
チェルノブイリや福島原発は個別の事件ではなく、それが人類にとっての課題なのである。
つまり、チェルノブイリとか福島の事例は、原発事故の類型としていろんなところに立ち現れるのである。
人間は具体的に(経験的に)存在しているのである。
あれこれ体験することで世界に存在する仕組みになっているので、その現象が肝心なのである。
具体性こそが存在の根幹であるから、具体例で語るしかない。
宇宙のどこかに知的生命体がいるとして、それはわれわれと同じ経験はしていないはず。
経験とは肉体と脳の機能による現象であり、それがすべてであるから、この仕組みが違えば経験もまったく違う。
たとえばわれわれは光を視覚で理解しているが、もっと高度な仕組みもあり得る。
だから、人類は、人間だけの経験則で理解するしかないのである。
人類は性能違いのクローンである。
われわれはお互いに仲が悪いし、胃袋と性器が個別である限りは不倶戴天の敵であり、蛇蝎のごとく憎み合いながらやむなく雑居房で顔を合わせているのだが、これは狂疾たる相続争いの渦中にある兄弟のようなものであり、血で血を洗いながら贖っている。
似通っているからこそ、同じものを求めて紛糾するのである。
そしてクローンであるから、すべての体験には共通性がある。
「転んで怪我をした」というのは共通性があるわけだ。
健常者であれば誰でも歩くし転ぶこともあるだろうし、怪我をすることもある。
「風邪で寝込んだ」ということなら、誰でもそれは理解できるわけである。
人間は風邪を引くし、寝込むこともあるからだ。
つまり性能差はあれども、身体の設計が同一であるから、すべての体験は理解しうる、というより、人類の規格にない体験は出来ないので、いやでも共通してしまう。
あなたの親が離婚したとすれば、他のいろんな離婚の事例を参照しながら考えるのであるし、人類史で一度限りの出来事ではなく、幾度となく繰り返された離婚問題という文脈で捉えるわけである。
言うまでもなく、すべての離婚はそれぞれ個別の事情があり、決して同一ではあるまいが、やはり類例として括ってしまった方が理解はしやすい。
というより、われわれは自分の体験しか知らないので、そこから理解を広げるには、類例を探すしかないのである。
人類すべての離婚事例を知っているなら、逆に、すべてを個別に扱ってもいいが、知っている数少ない事例からイメージするのであるし、それで人類全体を理解したつもりになるのである。
これは人間の認識の限界なのである。
もちろん具体例を使わずに記述することも可能ではあるが、どっちみち読者の方で具体例を思い浮かべるのだから、わざわざ避ける意味がない。
具体例を引き合いに出す場合、そのエピソードに普遍性を求めているわけである。
チェルノブイリや福島原発は個別の事件ではなく、それが人類にとっての課題なのである。
つまり、チェルノブイリとか福島の事例は、原発事故の類型としていろんなところに立ち現れるのである。
人間は具体的に(経験的に)存在しているのである。
あれこれ体験することで世界に存在する仕組みになっているので、その現象が肝心なのである。
具体性こそが存在の根幹であるから、具体例で語るしかない。
宇宙のどこかに知的生命体がいるとして、それはわれわれと同じ経験はしていないはず。
経験とは肉体と脳の機能による現象であり、それがすべてであるから、この仕組みが違えば経験もまったく違う。
たとえばわれわれは光を視覚で理解しているが、もっと高度な仕組みもあり得る。
だから、人類は、人間だけの経験則で理解するしかないのである。
人類は性能違いのクローンである。
われわれはお互いに仲が悪いし、胃袋と性器が個別である限りは不倶戴天の敵であり、蛇蝎のごとく憎み合いながらやむなく雑居房で顔を合わせているのだが、これは狂疾たる相続争いの渦中にある兄弟のようなものであり、血で血を洗いながら贖っている。
似通っているからこそ、同じものを求めて紛糾するのである。
そしてクローンであるから、すべての体験には共通性がある。
「転んで怪我をした」というのは共通性があるわけだ。
健常者であれば誰でも歩くし転ぶこともあるだろうし、怪我をすることもある。
「風邪で寝込んだ」ということなら、誰でもそれは理解できるわけである。
人間は風邪を引くし、寝込むこともあるからだ。
つまり性能差はあれども、身体の設計が同一であるから、すべての体験は理解しうる、というより、人類の規格にない体験は出来ないので、いやでも共通してしまう。
あなたの親が離婚したとすれば、他のいろんな離婚の事例を参照しながら考えるのであるし、人類史で一度限りの出来事ではなく、幾度となく繰り返された離婚問題という文脈で捉えるわけである。
言うまでもなく、すべての離婚はそれぞれ個別の事情があり、決して同一ではあるまいが、やはり類例として括ってしまった方が理解はしやすい。
というより、われわれは自分の体験しか知らないので、そこから理解を広げるには、類例を探すしかないのである。
人類すべての離婚事例を知っているなら、逆に、すべてを個別に扱ってもいいが、知っている数少ない事例からイメージするのであるし、それで人類全体を理解したつもりになるのである。
これは人間の認識の限界なのである。