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乙武の女性スキャンダルが明日発売の週刊新潮で出るらしいが、どうでもいい噂を集めたゴミ記事かもしれないし、現段階では決めつけるべきではないであろう。
奥さん以外の女性と食事をしているのは、以前の炎上事件からも明らかである。
食事より先まで行っているのかどうかが問題だが、そこまで踏み込んで決定的な証拠を掴まれたのかどうか、詳報を待ちたいところである。

乙武が自民党から立候補するというのは、政治的正しさを体現する人物として人生を完結させることを選択したのだ。
正しさのエリートたらんとしたのである。

その正しさを目指した人間が、あれこれ胡散臭いのではないかと指摘される可能性が高まってきたわけである。

われわれは政治的正しさに、魂まで売り渡したわけではない。
自己防衛として「正しい知識」を身につけているが、これは決してわれわれのバイブルではない。
正しい人間に押し込まれて敗走しつつも、その対策マニュアルを練っているのである。
言うなれば種痘である。

あらゆる価値観が「偏見」だとして破壊された現代の社会であるが、隅々まで版図を広げた「正しい知識」も嘘くさいので、灰燼と帰したはずの蒼古たる世界を蘇らせる反動的なムーブメントとして、ドナルド・トランプが英雄になる現象も起こっている。

正しく進歩しようという力学と、それに抗う反動的な勢力の戦いなのである。
われわれは政治的正しさというマニュアルを常備しており、もはやこれは身体に染みついているから、いちいち検討することはないのだが、時には理屈で確認してもいいであろう。

病気は原則としてプライバシーである。
とはいえ、外見や言動に症状が現れる病気もあるわけだ。
病名が明らかに推察できる場合に、それを指摘するのがプライバシー問題なのか、という疑問はある。

たとえば本田圭佑がバセドウ病であるのは明らかである。
元々は彫りの深い顔立ちだったのに、眼球が突出して首に手術痕があるのだから、それ以外にあり得ないであろう。
これに関しては、秘密を知ったという話ではないし、当然ながら、主治医から情報を得たわけではない。

もちろんバセドウ病以外の理由で眼球が突出したのかもしれないし、首に手術痕があるからと言って、甲状腺の問題とは限らないが、この文脈の話だと、そこまで突き詰めて考える必要はあるまい。

バセドウ病は症状に個人差はあるとしても、スポーツ選手でもなければたいした病気ではない。
女性の方が患者は多いが、これを理由に結婚を断られることもないだろう。

本田圭佑に関しては、週刊文春は報じていたから、他が報じないのはスポンサーとか電通への配慮があるのだろうし、病気がタブーというよりは、電通的にタブーなのであろう。
ワールドカップに熱狂していたのは過去の話であり、現在ではただの興行であり、その勝敗に醒めている人が多いのも確かだ。
日本が勝っても負けてもわれわれの人生とは無関係だから、本田圭佑が日本国家に不利益を与えているとは言い難い。
せいぜいサッカーを冒涜したという程度であろう。

もしくは有名人で明らかに奇行とか妄想がある人がいるわけで、それに触れたらいけないのか、という問題がある。
統合失調症となると、バセドウ病とは違って隠したい病気であろうから、これは難問である。
というより、これは完全に沈黙するのが正解である。

妄想や奇行を露骨に繰り返していても、本人の隠したいという意志が尊重される。
トラブルを起こしていても責任能力はないので、それを批判するとなれば、無実の人を批判しているのも同然なので、言論の自由の余地はなく、名誉棄損罪に問われる案件とも言える。

それとは対照的に、騒音おばさんは知的障害が疑われるが、懲役1年8ヶ月の実刑判決となっている。
拘置所に一年半くらいいたから、刑務所で過ごしたのは三ヶ月くらいらしいが、ともかく一年八ヶ月拘束されたわけである。
刑務所に知的障害者が多いというのも、やはり責任能力があり、また法律の抜け穴を探して合法的にやる知恵もないから罪が大きくなってしまう。
騒音おばさんはずいぶんマスコミのおもちゃにされていたが、それが名誉棄損に問われたことはない。

騒音おばさんが統合失調症であったとしたら、マスコミがこれを取り上げることは決してないし、警察も放置であるし、警察が動くとすればおばさんを批判した人間を逮捕するためである。

なぜかそういう仕組みになっているのである。
たぶん警察ですら理由はわかっていないであろう。
頭の中で空想するとして、それは五感を使って体験しているわけである。
五感の機能の本質は目玉とか鼻にあるのではなく、脳の中での解釈であるから、空想と現実は同じ現象形式となる。
目を閉じて頭の中で映像を思い浮かべるとしても、やはりそれは視覚である。
目玉は外部との接続端子でしかないし、映像機能は脳内にあるから、目を閉じても(空想をするために)視覚を使うことはできる。

空想が物足りないのは、物足りないように設定されているのであろう。
本来は空想だけで満足できてもおかしくはない。
時たますごくいい夢を見ることがあるが、あれをいつでもできるようにすることだって脳の機能としては可能であるはずだが、濫用は禁止されていると思われる。
空想と現実は現象世界の生成としては同じ仕組みだが、空想に溺れて貰っては困るということなのだ。

この五感が究極の認識システムではないであろうし、もっと優れた感覚機能もありそうだが、それはわれわれの頭の中にインストールされてないし、まさに空想すらできないのである。
光を視覚以外で解釈してもっと高度な認識をしたいと考えても、それを現象させる回路が脳内に無いから、為す術がない。

進化論を信じるのであれば、この五感が最後の到達点ということはあり得まいし、何かしら脳がバージョンアップすれば、現在とは別の現象世界になる。
それは5000年前に文字を使い始めたような革命となるであろうし、現在のわれわれなど類人猿に格下げされる。
岸田秀(1933年生まれ)は故人だと思いこんでいたのだが、まだ生きているらしい。
さて、ともかく岸田秀の唯幻論はインパクトがあったわけである。
かつては夢中で読んだ人も少なくないだろう。
岸田秀の本はすべて処分してしまったので、読み返さずに書くが、なぜ再読を懈怠して書き綴るのかと言えば、彼の文章は理論的に意味はあるまいし、その立ち位置の時代性の方が重要であり、薄れた読後感に頼って記述すれば足りるからである。

岸田秀は若い頃のビートたけしみたいなもので、世の中を斜めに見て分析してみせる視点は鋭いが、そこより上にはいかないし、パターンがわかってくると飽きる。
決まり切った切り口があって、その切り方で一通り社会現象を斬ると、なんとなくマンネリになってきて終わりなのである。

二十世紀後半の社会は伝統的な固定観念を破壊する作業をしていた時代だと言えるし、そこで岸田秀が求められたのである。
岸田秀は左翼ではなかったから、伝統的な固定観念を糾弾してリベラルな正しい知識を説くことはなく、何でもかんでも「あれは幻想」と語って結文する自由な芸風であった。

神経症についてはすべては母親のせいとか、まるで有村悠さんみたいな話が多かった。
母子密着の問題へのこだわりも受験戦争の時代にフィットしていたのであろうが、親子関係が原因なのは確かであるとしても、そういうカウンセリングで治ることは少ないであろうし、むしろ悪化した人の方が多いと思われるので、このあたりは、岸田秀は先見の明は無かったと言える。
親が原因であるとしても、親は交換できないので、親が悪いというアプローチはあまりよくないのである。
岸田秀は心理学者として評価するべき点はないであろう。

21世紀になってからリベラルが定着したので、男子に敵意を剥き出しにする女子は消えたし、急進的なフェミニズムは役割を終えて退潮した。
過度な禁欲が無くなったので、神経症というものも薄れた。
かつては厳格な人間が模範とされたが、今は温厚さが求められている。
そのせいか、人生に困ったらとりあえず鬱で寝込む人が増えたように思う。
心の病も時代性なのである。
「おまえはみんなから嫌われている」と言われることがある。
これは無意識の嘘なのである。
本当は「おまえはみんなから馬鹿にされている」というのが正確なのだ。
どちらでも似たようなものだが、馬鹿にされるのと嫌われるのとでは、やはり嫌われる方がダメージが大きそうなので、そういう嘘を吐くのであろう。
「おまえは馬鹿にされてる」でもダメージはあるだろうが、これだとどうしても攻撃として弱い。
やはりダメージの重い言葉として「嫌われている」と言うわけだ。
この問題を自覚している人はあんまりいないはずで、まったく意識せずに言葉のすり替えを行っているのである。

いずれにせよ、嫌われているのか馬鹿にされているのか、どちらが真相なのかはっきりさせた方がいいであろう。
馬鹿にされるというのは要するに馬鹿なのであり、間抜けということであろう。
間抜けだから顰蹙を買っているのである。
間抜けが原因なのに「嫌われている」と言われてしまうと、好かれるために他人の顔色を窺う努力をするのである。
これは努力の方向が間違っているので解決はしない。
原因を探るべくタイムマシンで15歳時点の武藤さんの言動を調べてみた。


アミューズ社長「さくら学院卒業後は武藤彩未さんのバラエティー出演枠はたくさん確保してますからお願いしますよ」
武藤彩未「この武藤は歌手しかやらない。歌以外のことをやるなら芸能界を引退する」
アミューズ社長「あなたはさくら学院の前も引退をちらつかせてゴネて生徒会長になりましたよね」
武藤彩未「芸能界は戦場だ。軍事境界線で虚々実々のせめぎ合いをするのは当然の理法。この大元帥たる武藤が生徒会長でなければ学院の意味がないからな」
アミューズ社長「歌をやりたいのはわかりましたが、武藤さんをプロデュースしたいという人がいないのです」
武藤彩未「おまえ社長だろ。この武藤をプロデュースするように命じればよい」
アミューズ社長「プロデューサーがピンと来るかどうかが大事なのです。そういう閃き無しに、社長の側から機械的に割り当てるものではないですよ」
武藤彩未「では武藤は芸能界引退だ。廃帝として寂れた居城で過ごす余生だ」
アミューズ社長「そんなにやめたいなら引退しなさいよ。こうやって毎回ゴネて休業するんじゃ手に負えない。気にくわないことがあるたびに芸能界引退とか休業とか騒がれたら今後が思いやられる」
武藤彩未「信長が長篠の戦いで行った鉄砲三段打ちの兵術を想起されるがよい。英雄たる軍事革命なのだ」
アミューズ社長「なぜアミューズが武田勝頼にならねばならないのでしょうか。武藤さんは芸能界引退でいいですよ。もうめんどうなので駆け引きしたくありません」
武藤彩未「武藤が引退する場合には、水野も引退する。これは武藤-水野グループの会合で決まっているし血判状も交わしている」
アミューズ社長「それだけはやめてください。では武藤さんのプロデューサーを捜してきますよ」
武藤彩未「イメージは松田聖子ちゃんだ。武藤は頂点しか目指さない」
アミューズ社長「最近のアイドルは人間的なおもしろさが大事なんです。武藤さんは話術も達者ですし、プロデュースするならイロモノでやりたいんですよ」
武藤彩未「それなら武藤と水野は芸能界引退だ。さくら学院のコンセプトは崩壊するだろうが、この武藤の関知するところではない」
アミューズ社長「ぐぬぬ。ああ、では松田聖子さんの路線で紅白30回を目指しましょう」
武藤彩未「武藤は正統派で行くからな。この武藤はイロモノはやらないしトークもしない」
アミューズ社長「ではそのように予算を付けておきましょう。しかし武藤さん、こうやってめんどうな要求ばかりしてるとアミューズ社員からますます相手にされなくなりますよ」
武藤彩未「アミューズの社員など雑魚。この武藤という大廈高楼たる煌びやかな大伽藍が参謀本部であり、こちらで戦況は判断する。プロデューサーはどこかから名義だけ借りてこい」
はるかぜは正規の高校には行かないはずであるし、フリースクールの類でさえ行くのかどうか怪しいが、4月から女子高生という設定になる。
こうなっても、やはりまったく進歩がないとなると、どれだけ糊塗しても暗澹たる輪郭が浮かび上がってくるのだし、たいていの人がババアの代筆を確信しているであろう。
はるかぜが天才ではないという当たり前の事実に到達するのに時間が掛かりすぎた。
ナベプロでさえ教誨師の役割を果たせずに放出したのであるから、罪障を浄化する術は無いであろうし、小学生感覚のツイートを続けていくしかないと思われる。

われわれはITmediaと児童虐待の問題を問うだけであるし、はるかぜ大本営の主筆と言うべき岡田有花の責を問うだけである。
岡田有花は恵まれた健常者であるのに、気の毒な事情があると勝手に誤解されているが、この女を批判することで悪霊のようなカルマが溜まるというのであれば、それはそれで構うまい。
発達障害が疑われる娘に対して、岡田有花は何らケアを促すこともなく、またババアの教育方針の礼賛にも荷担してきた。
ババアが偉大な人物であるという幻想に協力してきたのである。
亀田興毅は「うちの親父は世界一」だと言っていたが、幼少期において自分の親が偉大な人間であるという無垢な幻想はあるにしても、これが絶対化されると人間性の喪失であるから、病が深く根を張る前に緩和させねばならない。
はるかぜ親子に関しては、やはりITmediaの信頼性が大きく、ほぼ裸城となった現状では最後の砦と言えるから、岡田有花の自己批判をわれわれは求めるわけである。

はるかぜ親子に存在意義があるとしたら、小学生の頃から芸能活動をさせる危険性の問題であろうし、生まれてから死ぬまで母親がプロデューサーとして君臨する悲劇として、人類の教訓となるしかない。
芸能界に巣くっている数多の野心的な母親に対して、罪科を糺す、もしくは転落を未然に防ぐための好個の事例となるであろう。
それこそいずれは教科書に載ったり、毒親問題の本で必ず取り上げられるようになるかもしれない。
どうもこの10年くらい、遺族の代理人のつもりで発言する人だらけになっている。
鈴木沙彩さんが元恋人の池永チャールストーマスに殺害され、ハメ撮り画像を晒された事件でも、遺族の立場になって考えなくてはいけないらしい。
そうやって遺族の代理人というメンタリティーを持つ風潮は、本村洋とか池田小の遺族が作ったのだろうけど、俺にとってはどうでもいいことである。
池田小の件なら宅間守が悪いのだし、社会のせいにされても困る。

この鈴木沙彩さんの件にしても、自分の娘がDQNとハメ撮りしていてなおかつ殺されたとか、そういう想像をして感情移入すればいいのでしょうか。
遺族の代理人たる大衆のみなさんがどういう憤りを抱えているのか謎である。
リベンジポルノがどうこうというのも、AV女優の一歩手前の話くらいにしか思えないが、みなさんのお考えは違うはずである。

万引きから逃げている途中で鉄道に轢かれた少年の場合でも、店主への抗議などがいろいろとあったようで、閉店に追い込まれたわけである。
みなさんは遺族の代理人であるらしいので、なかなか難しい話である。
俺は遺族の代理人になるつもりなどないので、どこか知らない星で起きた事件くらいにしか考えられないが、みなさんはわれこそが代理人だと言い張っているわけである。

刑法は何でも死刑という世界ではないし、それなりの量刑が決まっているのだが、みなさんの民意が罪刑法定主義を逸脱させることがある。
本村洋の件でも、あれは普通なら死刑ではない。
みなさんが頑張った結果としての死刑なのです。
みなさんは本村洋と面識もないはずだし、彼が再婚していることも知らなかったはずだから、なぜそこまで感情移入できるのか不思議である。

「これがおまえの家族だったらどう思う」という仮定を強いられるわけだが、しかしそういう仮定が本当に必要なのか疑問である。
普段は見知らぬ他人であるのに、いきなり遺族を自分の家族と重ね合わせないといけないのであろうか。
俺と鈴木沙彩さんは、まったく縁もゆかりもないはずなのに、殺された瞬間から仮想的に俺の娘になるのでしょうか。
そもそも「これがおまえの家族だったらどう思う」というのは脅迫にも思えるし、そうやって目を眇めて言われるとなると、俺の家族が報復の対象になるような錯覚をしてしまう。
この錯覚は錯覚でしかないので、別に畏怖してないし、だから他人は他人だと、俺は考えるのであるし、池永チャールストーマスに極刑は求めない。
オースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」だったと思うが、(ずいぶん昔に読んだので記憶は判然としないが)、すごい天才的で匿名のオピニオンリーダーがネットを動かして行くみたいな未来像が描かれていた。
ネットが一般人に広まりだして15年か20年くらい経った現在から見ると、これは明らかに間違った予想であったが、とはいえ、ネット初期の頃はオピニオンに対して過剰な期待があったのである。
だからこそ昔はネットでの議論の勝敗に執着していたのであろう。
今日ではネットユーザー同士で論争しても無意味だとはっきりしたので、誰もそんなことはやらない。

熱狂してそれが具現化したものが歴史であるし、漫然と多くの人が不満を抱えているのでは、心の中に散逸する雑念と大差がない。
そもそも不満を持っていて何もしないというのは奴隷の特徴であり、その弱々しい不満が現実を動かしたらおかしいのである。

まず利権の非対称性という問題がある。
たとえば天下り問題。
税金の使われ方として、一般市民にもデメリットがあるはずなのだが、その被害が見えづらい。
それに対して、天下りのために意味不明な特殊法人を作る役人の方は死活問題だから必死である。
利権に絡んでいる連中と、そうでない一般市民では切実さが違うのである。

利益がないのに連帯するというのは、動機が薄いし、何よりも気恥ずかしさがある。
ネットの暇人が有り余ってる時間で抗議活動をするのは、やはりメリットがないのに加えてみっともない。

意志というのは沸騰しなければ意味がない。
利権に絡んでいる連中と、そうでないひとたちではこれが決定的に違う。

ドナルド・トランプは、かなり影響力のあるオピニオンリーダーになってしまったが、マイノリティー優遇に不満を持つ白人層の声を代弁しているわけである。
やはりドナルド・トランプだからこそ意味があるわけである。
落ちこぼれの白人が言いそうなことを、世界的に著名な大富豪が言うことで、それが歴史的な発言となるのである。
重要人物の発言こそが歴史である。
同じ台詞を重要でない人が言っても意味がない。

この間接民主制の世界では、立派な候補が並んでいるが、立派と言ってもあの育休の宮崎議員みたいなのもいるし、営業マンが礼儀正しいのと同じでしかないから、誰に投票しても同じというニヒリズムが蔓延している。

ドナルド・トランプは英雄としか言いようが無い。
不満だらけで座して何もしない連中を沸騰させたのだから、カリスマである。
こんな馬鹿なことをやる大富豪は他にいないし「誰に投票しても同じ」というニヒリズムを力への意志で克服したのである。
つまらない世の中において、ドナルド・トランプは革命家として現れたのである。
ポリティカルコレクトネス(政治的正しさ)に絞殺された窮民が蘇生しているのである。
世間のひとびとは立派な人間にうんざりしており、立派な人がたいして立派ではないことに欺瞞を感じており、ドナルド・トランプの方が英雄的なのである。
顔色を窺うというのは最悪の選択である。
相手を嫌いだと示しながらビクビクしているのであるから、ろくなことにはならない。
弱者が被害者に甘んじて命乞いする態度でしかない。

「顔色を窺う」の対極は「おだてる」である。
清原和博みたいなのがいたとする。
元木大介であればおだてる。
巨漢の馬鹿をおだてて操縦するわけである。

「おだてる」というのはずいぶん品性が低い行動であるが、倫理の問題を無視すれば、かなり世渡り上手だと言える。
あまりにも腰巾着をやり過ぎると親分の悪事に巻き込まれることもあるだろうし、元木大介もそうなるかもしれないが、たいていの場合はそうはならない。

さて、それでは「顔色を窺う」と「おだてる」の二択しかないのかと言えば、そういうわけではあるまい。
しっかりした人間であれば、どちらにもならないであろう。

これは勇敢-臆病の二択があまり正しくないのと同じ問題である。
しっかりした人間はごく普通に平常心でちゃんとやるだけであり、勇気など必要としない。
何かをやるたびにいちいち勇気が必要になる段階でおかしいわけである。
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