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このところ更生しつつあった有村悠さんだが、艦これの演習に負けたという理由でディスプレイを破壊したそうである。
これは決して過去の粗暴な人間に戻ったわけではないであろう。
有村悠さんは自己改善への意志をお持ちであるから、このまま昔の自暴自棄な生活に戻るとは思えないし、むしろ自制しすぎたことでストレスが溜まったのだろう。

チェ・ゲバラはキューバ革命を成功させた後、その地位に晏如とせず、革命運動を続けたのだが、死地となるボリビアでは、ストレスで馬を鞭打つということもあった。
有村さんがディスプレイを壊したのは、それだけ苦難の道を進んでいるのであるし、過去の自分との戦いなのであろう。

「チェ・ゲバラ伝」三好 徹
それは八月八日のことだが、荷物を背負わせている小馬が進もうとしないのに腹を立てたチェは、かっとなって、小馬の首を激しく鞭打ち、かなりの傷を負わせてしまった。馬も人と同じく疲れきっているのだ。それを鞭打ったところで何の役に立とう。その夜、チェは同志を集めていった。
「いまのわたしは、人間の形をしているにすぎない。小馬の一件は、自制心の欠如を示す例だ。やがては軽減するだろうが、こういう状態はみんなにものしかかっているにちがいない。耐えられないと感ずるものは、そういうべきだ。いまや大いなる決意をすべきときである。この種の闘争は、ぼくらを最高の革命家たらしめる機会をあたえてくれるのみならず、人間としても進歩させてくれるのだ。そのどちらも達せそうにないものは、そういって戦場を去るべきだ」

他人を尊重しなければならないというが、尊重されると怒り出すのが人間である。
犬の場合には権勢症候群と言われるが、人間だって同じである。
丁重にされたら威張ってみせることも多々ある。
人間を尊重するのはヒューマニズムとは限らない。

だから他人を馬鹿にするのを禁じ手にしてはならない。
権勢症候群という問題は人間にもあるので、そこは踏まえる必要がある。

馬鹿にされて怒る人間はまずいない。
みっともないからである。
やはり尊重されると怒り出すので、そこは理解しなければならない。

無言で他人を馬鹿にするのはごく普通に行われているし、これが咎められることはない。
当たり前と言えば当たり前である。
すべての人間をリスペクトするとかあり得ない。

理由を言わなくても相手には伝わるのが人間社会の仕組みである。
テレパシーではなくて、蔑みの目線を向けられたとして、その理由がわからないということはない。

いわゆる人格者と呼ばれる人でも、馬鹿にはそれなりの接し方をする。
もちろん露骨に嘲笑することなどないし、「馬鹿かこいつ」みたいな表情をすることもない。
たいていは眉を顰めて困惑しつつ後ずさりするとかそんなところだが、ともかく黙って距離を置くという判断をしているのである。

これは教えて貰う問題ではない。
「他人を馬鹿にしてはならない」と教えられることはあるが、「他人を馬鹿にした方がいい」と教えられることはないであろう。
学校の校長先生がそんなことを言うわけはない。
統合失調症の人はネットではあまり見かけない。
というより時たま見かけるのだが、触ると人権問題になるから、誰も言わないし、そもそも御本人の活動量がたいしたことないのである。
やはり統合失調症は快楽ではないはずで、おそらく、おかしな妄想を書き連ねるのも苦痛であるはずだ。
大量投稿は無理だと思われるから、さほど見かけることがない。

人格障害は、快楽という観点からすると、統合失調症とは明確に線引きができるものである。
人格障害は娯楽であるから、朝から晩までフル稼働できる。
馬鹿なことをやっているという自覚もある。
はしゃいでいるわけだ。
楽しいとは言っても、おそらく、鼻くそをほじるのと同じ程度の快楽だろうから、決して幸福な人生ではないのだが、ともかく楽しそうではある。
だから統合失調症の人の10000倍くらいは書くであろうし、放電される運動量は半端ではないのである。

人格障害が多動性なのかどうか、というのも難しいところであるが、おそらく挙動不審の人が多いであろう。
落ち着き払った人格障害者というのは少数派に思える。

やはり多動性が諸悪の根源なのである。
人格障害と統合失調症は峻別されるべきだが、人格障害とADHDはさほど径庭がない。
衝動に取り憑かれていることに自覚はあるはずなので、いわゆる心神喪失ではないし、責任能力はある。
狂っている自分を客観的に眺めているつもりなのである。

身体が勝手に動いている人間をADHDと呼んで障害者扱いするのは極めて適切であるし、頭で考えてから身体が動くという過去の常識は疑問視されるべきである。
肉体に意志があるとまで言うと極論であろうが、普段から、われわれは身体を自動操縦モードにしているのも確かである。
身体が暴れるままにしていると、本当に頭脳が指令しているのかどうか判然としない状態にもなり得る。

坐禅の問題としては、臨済宗はかえってややこしくて面倒で混乱させるように思えるし、禅僧から詰問されて公案など考えたら、より根深い独善性に囚われる。
鈴木大拙の本など読んでもろくなことがない。
やはり道元の曹洞宗が的確である。
只管打坐、つまり目的もなくただ単に座るだけ、というのが悟りに近い。
身体を静止させるだけでいいから、曹洞宗に入信する必要など無いし、余計な思想を吹き込まれることもない。

一日平均1000回を超えるペースでネットに投稿し続ける生活を10年続けて、まったく進歩がないとすれば、活動していたのは指だけであり、頭は動いてなかったということだろう。
人間が仏道を行くのは、自己を知るためであるが、そのためには我執に囚われた自己を忘れなければならない。
自分の思い込みは自己ではなく、あらゆる法に照らされている位相に自己はある。
身心を脱落させるのが悟りである。
Uverworldが転売屋と対決したというのが話題になっている。

俺達のことを好きでもない奴らがさ
お金儲けのためだか何だか
本当に欲しがってる真っ直ぐなcrewの心につけこんで高く売りつけて。本当に腹が立つ。
だからさ
どんな野郎がこんなずるいことしてんのかさ
見てみたくて

『チケット、。買ってやった』

「手渡し」って書いてあったから受取先に行って。
よくわからない人相のおっさんに俺たちのライブへの想いと

「2度と俺らのチケットに触れんじゃねえぞ」

って伝えた。

本当に驚いて、謝ってた。
その日に出してた何枚かのチケットも全部キャンセルさせた。
2度とUVERworldのチケットを転売しないと約束させた。


このTAKUYAという人物の記述だが、「俺達のことを好きでもない奴らが」というのは事実認識の誤りである。
本格的にやっている業者であれば現地で手渡しなどしない。
これはライブを見に行くファンがチケットを多めに買って、残りを転売しているケースであろう。
悪席を他人に売ることで小遣い稼ぎになるし、自分はいい席で見るわけである。
だからどうしたというわけでもあるまいが、転売屋とか、日本語が怪しいのもいるし、ヤクザだっているし、このケースはファンが相手でよかったですね、ということだ。

そもそもこのTAKUYAという人物が嘘の武勇伝を語るタイプかもしれないので、すべてが作り話かもしれないが、素直に事実として読むなら、このオッサンはファンだというだけである。
つまりそのcrewと呼ばれるUverworldのファン自体が人間の屑なのが実情。
負けず嫌いというパーソナリティーがあるが、たいてい文化資本が脆弱である。状況がよく見えておらず盲目的な衝動に取り憑かれている。その気性の激しさは悪魔に取り憑かれた淫祠邪教の徒と言っても差し支えがないが、生まれつきの性格や気質の問題と言うよりは、物事の認識力の弱さが伺える。やたらと視野が狭くて無知だから話が通じないし手が付けられない。戦局が見えてないのに特攻精神だけは満ち溢れており、猪突猛進して騒擾を巻き起こし敗北の憂き目を見るのがオチである。

もしくは状況をよく把握している人が負けず嫌いである場合、それは問題ではない。視野が広くて見識が高ければ愚かしい自己主張をしないので、周囲が悩まされることはない。あくまで盲目的な負けず嫌いで自己主張が激しく泥沼化する人を想定して話しているのである。

人類は五感の仕組みが共通しているはずで、色覚障害などを除くと、共通のフォーマットに従い、誰でも同じ映像が見えているはずなのだが、それでも理解度の差がある。親子で美術館に行くとして、教養がないと漠然と見るだけで終わりである。教養がある親だと、いろいろと見識の高い感想を述べるであろう。同じ絵を見ても、文化的認識力の差が生じる。知識なんてwikipediaで調べればいいと言うかも知れないが、これはナチュラルな洞察力とは違うのである。会話には着眼点というものがあり、同じところに着目しながら言葉を交わすのである。馬鹿な親だと愚昧な雑談で終始するが、優秀な親だと物事の見方や、物事の不思議さなど、謎解きの課題として呈示し知的好奇心を刺激することができる。親子の会話で自我が形成されるのだから、これは文化的遺伝と言えるし、たいていは金銭的な資産と比例するであろうが、あくまで文化的な毛並みのよさなのである。

はるかぜのババアと話が通じないのは、やはり無類の負けず嫌いであるし、その激憤で世の中に体当たりしていく。無知蒙昧を体現した群賊悪獣として突撃していくわけである。これを性格的問題と言うのは容易いが、根底にあるのは文化的な理解力の弱さである。この親子の知的好奇心の欠如は凄まじく、いろんな物事をまったく不思議に思ってないのである。謎解きの楽しさを教えられたことがないから学業への意欲が極めて低い。

有村悠さん(36歳)はここ最近は更生しつつあるが、はるかぜのババアと大差がない暴れ方をしていたのは、劣悪な家庭環境の反映であっただろうし、親からろくに教わってない人間ならではの盲目性で、怒り以外の感情を持たないテロリストとなり、あちこちに突撃して顰蹙を買っていたのである。あのババアと違って、有村悠さんは東大に合格(中退)された知力をお持ちであるし、文化資本を親から投じられなかった人間が、後天的にそれを得ることができるかどうか興味深いケースである。有村悠さんの自伝的なエッセイはかなり読み応えがあるので、後半生で文化的認識の組み替えが行われれば表現者としての飛躍も期待される。
「おまえはみんなから嫌われている」という定番の台詞があるが、なぜそうやって世界を代表したようなことを言えるのかと言えば、「みんなから好かれたい」という感情を見抜かれているからである。
つまり全会一致で好かれたいという立場でいると、ひとりにでも嫌われたらいわば常任理事国に拒否権を発動されたのと同じようなものであり、全員から嫌われたことになるのだ。

「ひとりでも不愉快に思う人がいるなら」と何らかの表現行為が中止になることがある。
テレビCMなどのデリケートな問題なら企業の判断であろうが、それ以外の問題だとずいぶん違和感があるわけである。
障害者の人が文句を言ってきたとして、「ひとりでも不愉快に思うなら」と相手にしていたのではキリがない。
もしくは、それは人権問題だから仕方がないとしても、果たしてひとりの個人が人類の全員から好かれることを目指し、ひとりでも嫌いだという人間がいたら破綻するのはおかしいであろう。

「みんなから全会一致で好かれたい」という願望さえ捨てれば、そこらへんの有象無象がすべて常任理事国という変な状況はなくなる。

そもそも「好き」というカードはいつでも引っ込められるので、失望したとか見損なったとか、駆け引きされるのがオチである。
常任理事国として拒否権を発動されても困るから、迂闊に他人から好かれない方がいいのである。
知識偏重という言葉があるが、「偏重」というレトリックの怪しさは踏まえて貰いたい。
つまり「偏重はよくない」と言われたら、正論の極みなのである。
「偏りすぎてる方がいいんだよ!」と言えないこともないが、フォーマルな場では無理だろう。
「知識偏重はよくない」と言われたら勝ち目が無い。
ディベートなら「どの基準を超えたら偏重なのですか」と質問するのは可能だが、だいたい社会において質問は禁じられており、こういうスローガンは一方的に垂れ流される。

法科大学院の問題も、たぶんそこなのである。
知識偏重はよくないというスローガンで作られたが、では旧司法試験で落ちるような人間を裁判官にするのかという疑問があり、結局は瓦解したのである。
専門知識を備えてない人間に下駄を履かせて裁判官にしたりしたら、ヤブ医者も同然であるから、危なくて仕方がない。

上述の理由により、裁判官を量産するにも限度があるわけである。
ではどうするかというと、警察官という素人が決めつけるのである。
できるだけ裁判は減らしたいから、まずは有罪と決めつけて、書類送検とか、略式起訴で罰金という落としどころにするわけである。
容疑を認めず法的に争う姿勢を見せると長期間拘束されて嫌がらせを受ける。
これは解決策がない難題であり、ヤブ医者みたいな裁判官を量産しても困るので、どうしようもない。
警察官は法律の素人だし、取り調べを受ける方も法律の素人だから、ずいぶん変な話なのである。
警察官はこのところ大卒が半数以上のはずだが、昔で言えば、高卒の体育会系であろうし、それが法律の判断をする恐ろしさである。
だが、法的な知識が怪しい裁判官を大量生産する方がもっと恐ろしいので、これはやむを得ないであろう。

だから、われわれの社会は警察が裁判官なのである。
われわれの刑法の解釈は、警察が動くか動かないかの問題である。
「これをやったら警察が来る」とか「これくらいだと警察は来ない」という過去の事例から刑法を理解している。
ひとびとは不倫は性道徳の問題だという嘘を吐きすぎている。
そもそも恋愛だと、ひとりのイケメンがたくさんの女を相手にしているのが実情である。
つまり彼女というものは、何人もいるか0人かどちらかなのだ。

結婚してからの不倫が糾弾されるのは、生活費の分散というややこしい事情が発生するからである。
旦那が愛人を作ったとなれば、生活費の分散が起こるので、離婚して母子家庭になるかどうかは別として、経済的にダメージなのは間違いない。

つまり不倫が許せないとされるのは、性道徳の問題ではなく、ひとりの男が何人も養えるわけではないからである。
医者のような高給をもらえる職業でも生活費が分散したら困るし、愛人がいても経済的に不安がないのは、かなりの大金持ちだけである。

旦那が不倫をするとして、遊びで終わると断定できるなら女も騒ぐまい。
やはり愛人の方に心が移って、扶養義務を懈怠する可能性があるから、不倫には神経を尖らせるわけである。
「家庭を壊す」というが、要するに経済的な組合としての家族の破壊なのである。
愛情がどうこうの問題ではない。
不倫女は生活費の泥棒だから蛇蝎のごとく嫌われるのである。
離婚して慰謝料や養育費をちゃんと払うとしても、やはり生活費が分散してるからダメージだし、そもそも養育費を払えないケースだって多々あるだろう。
人権という概念は、絶対王政と戦い、一般市民が権利を得るための思想だったが、現在だと、一般市民でないマイノリティー救済が人権の課題となっている。
市民革命以降、女性や有色人種の人権がないがしろにされていた経緯があり、たとえばフランス革命は1789年だが、婦人参政権となると、アメリカでは1920年、イギリスでは1928年、フランスでは1945年である。
このあたりの立ち後れを解決するために二十世紀後半はマイノリティーが人権のために戦ったのである。
つまり人権と言っても、時代に併せて「進歩」しているのである。
ドナルド・トランプが蹶起したのは、マイノリティーへの厚遇に嫌気がさしたからであろうし、正しさの恩恵を受けない普通の駄目な奴らが熱狂しているわけだ。

ドナルド・トランプはまったく正しくない人間だが、アメリカという国で、故意に差別発言をして居直るのがどれだけハイリスクか、その重みを理解しなければならない。
ただの差別主義者ではなく、命など惜しんではいないであろうし、政治的正しさに寄生して甘い汁を吸う人権貴族に挑戦する英雄である。
公民権運動やフェミニズム運動が一定の達成を見たので、だんだん既得権益となってきた側面があるから、さすがに逆差別への不満が蔓延しているのである。

この日本においても、乙武の貴族生活を見ていたら、おかしいと思うであろう。
逆差別問題に関して問われて「あなたも障害者になってみたら」と乙武がキレたことがあったが、厚遇されるのに加えて、美人に対してもバリアフリーなら手足などいらないという人もいるだろう。
結局のところ乙武はヘレン・ケラーではないという単純な問題である。
いろんな人が戦ってきた果実を食べているだけである。
われわれ人権難民はドナルド・トランプにはなれないが、人権問題という地雷について勉強し、徹底した理論武装を行い、反撃の準備を始めるべきである。



われわれ菊地最愛原理主義者は完全に壊滅し、あの瘴気漂う半人半獣のドブスに食い尽くされ、死灰として折り重なる白骨を蕭条たる月明かりに照らされ、その髑髏の眼窩は虚無すら眺めることができないが、僅かに落ち延びた残党は難民として蹌踉し、南條愛乃さんという天才的表現者に出会い、推し変したわけである。

転向と難じられるかもしれないが、そもそも菊地最愛という人物が口癖にしていた「ラブライブ」とか「声優」とか「ソロアイドル」とか、すべて南條愛乃さんに当てはまるし、おそらくパクリであろう。
南條愛乃さんはパフォーマンスの素晴らしさ以外に、アニメ関連の該博な知識があり、オタ気質の強さでも人気を得ているが、こういうキャラクター性もパクっていたと思われる。
菊地最愛容疑者は「南條という名前は聞いたこともない」と容疑を否認しているが、ラブライブについて延々と語り声優になりたいと言っていた人物が南條愛乃さんを知らないのは不自然という指摘もされており、パクリ疑惑は払拭されていない。


さて、南條愛乃さんとベビメタを比較する必要など無いのだが、相変わらず中元すず香があちこちの道場の看板を叩き割りに来るので、決してベビメタが最高のアイドルではないということは言っておきたいわけだ。


instagramのフォロワー数を見比べてみよう。

南條愛乃10.7K
ベビメタ10.4K

中元はドブスで南條さんはババアという点ではいい勝負なのかもしれないが、ゆいもあの差がある。
やはり写真だとババアは不利なのでこれは追い抜かれるかもしれない。


ツイッターの方では南條愛乃さんが差を広げる一方である。
(最近二ヶ月の推移)。
南條愛乃 554099→595946
ベビメタ 188720→195751

これはベビメタがオタ切りしているのに対して、南條さんはオタ受けがよすぎるのが原因であろう。
ベビメタはファンでない人でも一度くらいライブを見てみたいという好奇心があるから、信者以外もたくさん動員できるので、ベビメタの方が動員力があるのは確かである。

われわれは南條愛乃さんがベビメタを打ち負かすことは望んでいない。
ベビメタは馬鹿を集める誘蛾灯としての役割がある。
あの愚昧な兇徒がBABYMETALのTシャツを脱ぎ捨てて南條愛乃さんに押し寄せても困るので、ドナルド・トランプではないが国境線は封鎖したいし、いわばモンロー主義というべきか、中元すず香や本田圭佑を応援している人たちはそのままでいいし、南條愛乃さんが帝国として彼らを制圧する必要はない。
隠れキリシタンのように南條愛乃さんに帰依することで、ゆいもあをロストした疼痛も癒えたのであるから、南條愛乃さんが世間に発見されないまま信者数だけ伸ばしていくことが望ましい。

南條愛乃さんの実物は田舎のソープのババアくらいのレベルだが、画布に人跡未踏の王道楽土が描かれていく歴史的革命に立ち会うとして、その描線を引いている大芸術家の容姿を問うても意味はあるまい。
南條愛乃さんは美意識そのものであり芸術運動である。
南條愛乃さんは母親がアニメーターであり、御本人も得意科目は美術だとしているが、衣裳のデザインもご自分でされたりするそうだし、ごく自然に美術家である。
すでに南條愛乃さんはリプニツカヤを超えたと言ってもいいであろうし、これだけポージングが綺麗な人は過去に存在しなかった。
美に対する感性が素晴らしく、美術史に刻まれるべき天才的人物と言えるであろう。

南條愛乃さんは街で誰からも気付かれないとかツイートしていたから、ストーカー問題なども抱えていないと思われる。
片想いをこじらせた熱狂的なファンもいない印象である。
わたしとしては南條愛乃さんをリプニツカヤになぞらえたいのだが、ファンが冷静であることに関しては、伊藤みどりの枠なのかもしれない。
伊藤みどりさんはとても素晴らしいし、リンク上での演技は惚れ惚れとするが、実物に関しては願い下げであるし、おそらく南條愛乃さんもそういう認識のされ方だと思われる。
南條愛乃さんは公称150センチだが、実寸145センチの伊藤みどりさんと似通った小さい地味なおばさんである。
南條愛乃さんが若くて美人だったら、アンチを兼任するファンが大量に発生してしまうであろう。
この間、予備校生の女の子が刺殺されるという気の毒な事件があったが、この子は池永チャールズトーマスの鈴木沙彩さんのようなDQNではなさそうだし、「告白して断られた」というのが殺人の動機なので、やはりいい子なのだろうと思う。
殺された後に合格発表があって、大阪大学に合格していたそうだから、一般入試で国立大学に入れる知力もあるし、なぜこのような模範的な少女が、逆恨みで殺されなければならないのか、という疑問だが、片想いをこじらせた典型的な事例として理解されてしまうのであろう。
池永チャールズトーマスと鈴木沙彩さんの問題はリベンジというより内ゲバのように思えるが、こちらの方が人権問題としては重大なのである。
ともかく南條愛乃さんは伊藤みどりさんの枠なので、このような心配はほとんどなさそうである。
伊藤みどりさんをリスペクトするのと同じ感情で見られているから、「告白して断られた」という感じの恐いファンがいない。

なぜ過去にこういう傑出した人物が存在しなかったのかと言えば、南條愛乃さんの容姿では芸能界に入るのは無理だからである。
このところの声優業界は芸能界の落ちこぼれが多く、中途半端な連中が跋扈しているが、南條さんだとその中途半端なレベルにすら到達していない。
南條愛乃さんは芸能界のノウハウを知らず、ご自身の美術への見識の高さからアプローチしているから、ひとつのアウトサイダーアートと言えるし、認められるつもりもなく芸術への愛でやっていただけであろう。
自己流でやるのはたいてい失敗するけれども、野心的に頂点を目指していたわけではあるまいし、見た目は貧相ながら、天賦の才に溢れた具眼者が、おそらく見返りなど期待せず、芸能人ではできないような独自のスタイルを作り上げたのである。
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