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2016.04.23
「逆らう」のは悪事であろうか
体育会系という人種は、自分を棚に上げるのが当たり前である。
では彼らは悪人なのかといえば、そうではあるだろうが、ごく普通の悪人とはまた違うのである。
彼らにとっては「逆らう」のが究極の悪であり、それだけである。
普通の意味で素行が悪いとか、そんなことはどうでもいいのである。
「逆らう」という大逆罪こそが肝心である。
たとえば先輩や監督に口答えするのは、親殺しのような罪である。
神に対して弓を引くのと、そこらの商店の店先から品物をくすねるのとは違うのである。
そもそも「自分を棚に上げる」のが許されないのは、人間が対等であるべきという発想であろうし、そんな考えなどさらさらない暴君としては、自らは大暴れして他人には厳格であるのが正しいアティテュードである。
ある閉鎖的な組織で、その体制を転覆するべき行為が許されるはずがない。
体育会系でなくとも、たとえば企業で、部下が上司に反逆したら許されるとは思えないし、お巡りさんが出てくる案件ではないが、「逆らう」というのは内部的な規律の問題である。
このような権力性の肯定により、権限を振り回せる人間がサディズムの化身となることもあるだろうし、鞭打たれその闇が深く根を張った受難者が新たなサディストとして孵化するのか、鬱病で病院に運ばれるのかは知らないが、おそらく運動部がこの世に無くても、この類の問題は人間につきまとう。
では彼らは悪人なのかといえば、そうではあるだろうが、ごく普通の悪人とはまた違うのである。
彼らにとっては「逆らう」のが究極の悪であり、それだけである。
普通の意味で素行が悪いとか、そんなことはどうでもいいのである。
「逆らう」という大逆罪こそが肝心である。
たとえば先輩や監督に口答えするのは、親殺しのような罪である。
神に対して弓を引くのと、そこらの商店の店先から品物をくすねるのとは違うのである。
そもそも「自分を棚に上げる」のが許されないのは、人間が対等であるべきという発想であろうし、そんな考えなどさらさらない暴君としては、自らは大暴れして他人には厳格であるのが正しいアティテュードである。
ある閉鎖的な組織で、その体制を転覆するべき行為が許されるはずがない。
体育会系でなくとも、たとえば企業で、部下が上司に反逆したら許されるとは思えないし、お巡りさんが出てくる案件ではないが、「逆らう」というのは内部的な規律の問題である。
このような権力性の肯定により、権限を振り回せる人間がサディズムの化身となることもあるだろうし、鞭打たれその闇が深く根を張った受難者が新たなサディストとして孵化するのか、鬱病で病院に運ばれるのかは知らないが、おそらく運動部がこの世に無くても、この類の問題は人間につきまとう。
2016.04.22
コミュ障と家父長制
アスペルガーとは男性的な鈍感さのことであろうし、一昔前なら真面目な男性と言われていたわけだ。家父長制への嫌悪の蔓延、家を維持するという妄念の崩壊、そしてその粛清の渦中にわれわれは置かれており、かつては賞賛の対象にもなり得た男性的鈍感さが忌避されている。
これについての是非を問うても意味はあるまいし、ただ世の中がそうなっているというだけなのである。女とセックスするとして、責任を取ることは考えなくてよい。女がそれを望んだという、それだけなのである。
かつては世渡り上手な男は煙たがられていたのに、それが賞賛されるというのは、進歩的な存在だからである。この流れに逆らうのは反動的ということになる。この案件に関しては、おそらく反動的に振る舞う必要などあるまいし、大伽藍が軋みながら焼け落ちていく乱痴気騒ぎを黙過するしかない。
父性の抹殺によって、ロンブー淳とか津田大介とか小山田圭吾が跳梁跋扈するのは致し方がないことである。これによって風紀が紊乱し犯罪が増えたかというと決して増えてないし、犯罪という点では大差がない。むしろ本当の意味での犯罪者予備軍がセックスで家畜化されておとなしくなっている。
おそらく1960年代生まれの女は未来の冴えない旦那への浮気として性の乱脈を極めたのだが、今日ではそういうややこしい回路ではなく、ただ単にセックスしているのだから進歩を極めたとも言えるし、また男性側が未来の旦那という自分の立場を仮想してそれを渋面で眺める必要もない。
家と家族はまったく別の概念だと理解すればいいだけであり、名だたる立派な血筋の旧家でもなければ、焔に焚くべき家系図など無いのだから家など鉄斧でぶちこわせばいいし、もはや鈍感な石頭で在り続ける必要はなくなったので、旧套に晏如とせず、山野を跋渉し無縁仏となるべき出家者として、惨憺たる世情を睥睨するべきである。この太陽系第三惑星はかなりの辺境であるし、宇宙人も相手にしない僻地であるから、ここに繁殖している群賊悪獣に理非を問う価値もないが、もはや規範がわれわれを縛ることはなく、鈍感さから解き放たれた自由人として容赦のない世界認識が可能である。
これについての是非を問うても意味はあるまいし、ただ世の中がそうなっているというだけなのである。女とセックスするとして、責任を取ることは考えなくてよい。女がそれを望んだという、それだけなのである。
かつては世渡り上手な男は煙たがられていたのに、それが賞賛されるというのは、進歩的な存在だからである。この流れに逆らうのは反動的ということになる。この案件に関しては、おそらく反動的に振る舞う必要などあるまいし、大伽藍が軋みながら焼け落ちていく乱痴気騒ぎを黙過するしかない。
父性の抹殺によって、ロンブー淳とか津田大介とか小山田圭吾が跳梁跋扈するのは致し方がないことである。これによって風紀が紊乱し犯罪が増えたかというと決して増えてないし、犯罪という点では大差がない。むしろ本当の意味での犯罪者予備軍がセックスで家畜化されておとなしくなっている。
おそらく1960年代生まれの女は未来の冴えない旦那への浮気として性の乱脈を極めたのだが、今日ではそういうややこしい回路ではなく、ただ単にセックスしているのだから進歩を極めたとも言えるし、また男性側が未来の旦那という自分の立場を仮想してそれを渋面で眺める必要もない。
家と家族はまったく別の概念だと理解すればいいだけであり、名だたる立派な血筋の旧家でもなければ、焔に焚くべき家系図など無いのだから家など鉄斧でぶちこわせばいいし、もはや鈍感な石頭で在り続ける必要はなくなったので、旧套に晏如とせず、山野を跋渉し無縁仏となるべき出家者として、惨憺たる世情を睥睨するべきである。この太陽系第三惑星はかなりの辺境であるし、宇宙人も相手にしない僻地であるから、ここに繁殖している群賊悪獣に理非を問う価値もないが、もはや規範がわれわれを縛ることはなく、鈍感さから解き放たれた自由人として容赦のない世界認識が可能である。
2016.04.19
時代性。問題意識の共有。
車輪の再発明という問題であるが、解決済みの問題を解いても意味がないわけである。
訓練のために解答がある問題集を解いてもいいが、あくまで練習問題であるし、そこに新しさはないわけだ。
われわれは時代の中に存在している。
時代とはなんぞやという場合、その時点での解決済みの問題と未解決問題の区分けがとても重要である。
この未解決問題は練習問題ではなく実践である。
本当に解かなければならないし、解けなければ人が死ぬとか、著しく不幸になるとか、逆に言えば解くことで大きな利益が得られる、のである。
自分の持っている技術が、人生の途中で使いものにならなくなることもあるわけだ。
なぜか人間は頭が固くなって老衰していくので、技術革新は、用済みになった不平士族を生み出すのである。
この間まで剣術で生きていた人間が、まったく別のことを学び直すことは難しい。
古い人間が退場し、新しい人間が台頭する。
この新しい人間もいずれは古くなるのだし、その繰り返しである。
もしくは、自分で新しいものを提示して、既存のものを時代遅れにすることもできる。
何にせよ、いつでも人間は時代の最先端への適応を迫られるのであり、このせめぎ合いで敗北するとなれば死ぬしかない。
つまり社会への「適応」と言っても、その適応の条件は流動的なのである。
訓練のために解答がある問題集を解いてもいいが、あくまで練習問題であるし、そこに新しさはないわけだ。
われわれは時代の中に存在している。
時代とはなんぞやという場合、その時点での解決済みの問題と未解決問題の区分けがとても重要である。
この未解決問題は練習問題ではなく実践である。
本当に解かなければならないし、解けなければ人が死ぬとか、著しく不幸になるとか、逆に言えば解くことで大きな利益が得られる、のである。
自分の持っている技術が、人生の途中で使いものにならなくなることもあるわけだ。
なぜか人間は頭が固くなって老衰していくので、技術革新は、用済みになった不平士族を生み出すのである。
この間まで剣術で生きていた人間が、まったく別のことを学び直すことは難しい。
古い人間が退場し、新しい人間が台頭する。
この新しい人間もいずれは古くなるのだし、その繰り返しである。
もしくは、自分で新しいものを提示して、既存のものを時代遅れにすることもできる。
何にせよ、いつでも人間は時代の最先端への適応を迫られるのであり、このせめぎ合いで敗北するとなれば死ぬしかない。
つまり社会への「適応」と言っても、その適応の条件は流動的なのである。
2016.04.17
はるかぜと読書
はるかぜの高校の偏差値がどうこうと一部で騒いでいるらしいが、まともな教育を受けていないのであるから、誰でも入れる高校にしか行けないのは当然の結末であり、それを底辺校disの人権問題にすり替えるのは無理があるだろう。
中川翔子に取り憑いてナベプロに入った時がラストチャンスであったのだし、あそこで心を入れ替えておとなしくしていればよかったが、それができない重篤な底辺家庭だからこそ中川翔子のソウルメイトとして共鳴したのだし、いきなり上品で富貴な御家庭のお嬢様のようにおしとやかにするのも無理な話。
ともかく、一時的にナベプロに保護はされたが、やはり手に負えないということで放流されたのである。
はるかぜ親子は知能の低さだけでなく、おとなしく端座して書物に向き合う習慣もあるまい。
はるかぜは一万冊の本を読んでいる天才ということだったが、これくらいに読書が苦手な人間は滅多にいないであろう。
ワイドショー的なメンタリティーの固まりであるし、簡単に言うと多動性だが、これは少なからずのネットユーザーが陥っている病であり、空腹でないのにジャンクフードに手を伸ばすような飢えであるから、ごく自然な閑暇にさえ耐えられない。
読書はワイドショーの視聴とは対極である。
リアルタイムに生起する騒擾とは別のことに好奇心を向ける必要がある。
知的好奇心という言葉があるが、まさにこれがないと読書好きにはなれない。
束の間でも俗世の喧噪から遁れて、山紫水明の世界を辿る愉しさを知るかどうかは家庭環境の問題もあろうし、誰でもできるわけではないだろうが、有象無象のネットユーザーとは次元が違う天才達と言葉を交わすことができるのである。
読書で好奇心が満たされないとなると、天才が書いた書物を平気でゴミ箱に投げ捨てて、ソドムのようなネットを延々と巡回したり、そして自ら大量投稿とか、リアルタイムで反応が得られる乱痴気騒ぎに好奇心が向かってしまう。
スポーツ新聞やカストリ雑誌ばかり読んでいるような生活であるから、まったく成長しないのは明々白々たる結末である。
中川翔子に取り憑いてナベプロに入った時がラストチャンスであったのだし、あそこで心を入れ替えておとなしくしていればよかったが、それができない重篤な底辺家庭だからこそ中川翔子のソウルメイトとして共鳴したのだし、いきなり上品で富貴な御家庭のお嬢様のようにおしとやかにするのも無理な話。
ともかく、一時的にナベプロに保護はされたが、やはり手に負えないということで放流されたのである。
はるかぜ親子は知能の低さだけでなく、おとなしく端座して書物に向き合う習慣もあるまい。
はるかぜは一万冊の本を読んでいる天才ということだったが、これくらいに読書が苦手な人間は滅多にいないであろう。
ワイドショー的なメンタリティーの固まりであるし、簡単に言うと多動性だが、これは少なからずのネットユーザーが陥っている病であり、空腹でないのにジャンクフードに手を伸ばすような飢えであるから、ごく自然な閑暇にさえ耐えられない。
読書はワイドショーの視聴とは対極である。
リアルタイムに生起する騒擾とは別のことに好奇心を向ける必要がある。
知的好奇心という言葉があるが、まさにこれがないと読書好きにはなれない。
束の間でも俗世の喧噪から遁れて、山紫水明の世界を辿る愉しさを知るかどうかは家庭環境の問題もあろうし、誰でもできるわけではないだろうが、有象無象のネットユーザーとは次元が違う天才達と言葉を交わすことができるのである。
読書で好奇心が満たされないとなると、天才が書いた書物を平気でゴミ箱に投げ捨てて、ソドムのようなネットを延々と巡回したり、そして自ら大量投稿とか、リアルタイムで反応が得られる乱痴気騒ぎに好奇心が向かってしまう。
スポーツ新聞やカストリ雑誌ばかり読んでいるような生活であるから、まったく成長しないのは明々白々たる結末である。
2016.04.15
想定問答集が頭の中にインストールされている
われわれは想定問答集に従って世界を把握している。
誰が何を言うかは事前に予想が付く。
言うまでもなく、超能力の予知のようにズバリと当てられるわけではないが、大雑把にはわかるわけである。
この想定問答集がわれわれの頭の中にインストールされていて、いつもアップデートされているのである。
それに基づいて頭の中でシミュレーションもしている。
どうやってアップデートされるのか、というと、たとえば何かが起こった時であろう。
今までであれば人権問題は人権団体の言うなりであり、マイノリティー様を貴族として優遇するのが、(抗議された時の)想定問答だったのだが、ドナルド・トランプみたいなのも出てきたし、さすがに大統領にはなりそうもないが、アメリカでこういうことがあると、微妙にひとびとの価値観が揺らいだであろう。
アップデートというと、なんか優れた内容に更新されるかのようだが、もちろん改悪であることもあるだろう。
ともかく改善か改悪かしらないが、アップデートされるのである。
社交的な人でさえ、会話する相手の数はたかが知れているし、かなりの部分は頭の中の想定問答集で図上演習するしかない。
マスゴミの常套手段として、たとえば「女子高生がこんなことを言っていた」と創作することで世間の想定問答集を書き換えようとする。
万が一本当に取材していても、都合のいいところだけ切り貼りするから創作と同じである。
情報を受ける側は、そういう間接的な形で情報を得る、というか情報操作されるのだが、そのせめぎ合いで想定問答集はアップデートされる。
だからわれわれは時代の価値観に引っ張られているのである。
個々人の価値観というのは実はほとんど存在しない。
想定問答集に基づいて頭の中で図上演習して世界を理解して、それに与しているだけである。
そして現実に話すとなると、われわれはお互いに正解を持っているわけではないが、相手の答えを予想しつつ、それっぽい会話をするのである。
誰が何を言うかは事前に予想が付く。
言うまでもなく、超能力の予知のようにズバリと当てられるわけではないが、大雑把にはわかるわけである。
この想定問答集がわれわれの頭の中にインストールされていて、いつもアップデートされているのである。
それに基づいて頭の中でシミュレーションもしている。
どうやってアップデートされるのか、というと、たとえば何かが起こった時であろう。
今までであれば人権問題は人権団体の言うなりであり、マイノリティー様を貴族として優遇するのが、(抗議された時の)想定問答だったのだが、ドナルド・トランプみたいなのも出てきたし、さすがに大統領にはなりそうもないが、アメリカでこういうことがあると、微妙にひとびとの価値観が揺らいだであろう。
アップデートというと、なんか優れた内容に更新されるかのようだが、もちろん改悪であることもあるだろう。
ともかく改善か改悪かしらないが、アップデートされるのである。
社交的な人でさえ、会話する相手の数はたかが知れているし、かなりの部分は頭の中の想定問答集で図上演習するしかない。
マスゴミの常套手段として、たとえば「女子高生がこんなことを言っていた」と創作することで世間の想定問答集を書き換えようとする。
万が一本当に取材していても、都合のいいところだけ切り貼りするから創作と同じである。
情報を受ける側は、そういう間接的な形で情報を得る、というか情報操作されるのだが、そのせめぎ合いで想定問答集はアップデートされる。
だからわれわれは時代の価値観に引っ張られているのである。
個々人の価値観というのは実はほとんど存在しない。
想定問答集に基づいて頭の中で図上演習して世界を理解して、それに与しているだけである。
そして現実に話すとなると、われわれはお互いに正解を持っているわけではないが、相手の答えを予想しつつ、それっぽい会話をするのである。
2016.04.13
津田大介と小山田圭吾
https://twitter.com/tsuda/status/720060730783846400

津田は自称音楽ライターであるから、小山田圭吾がいじめでウンコを食わせていたとか、あちこちのインタビューで自慢していた時代のことは知っているはず。
これは類友というよりは、ソーシャルスキルが高い人間ならではのモラルへの無関心であろう。
正義感を持たないのはソーシャルスキルとして重要である。
正義感が強いと、威張るタイプの人間と衝突しやすくなるので、正義感はない方が生きやすい。
小山田圭吾は正義のリトマス試験紙と言えるし、こいつに怒ったらソーシャル的に負けなのである。
ソーシャル的に勝利するためには、こういう人物に無感覚でなければならない。
ワル自慢に対して怒ると、小山田が強者で、こちらが弱者みたいな感覚になるから、無関心である方が戦略的には適切なのである。
われわれは津田大介にできないことが平気でできるのであるから、この自由を最大限に行使しなければならない。

津田は自称音楽ライターであるから、小山田圭吾がいじめでウンコを食わせていたとか、あちこちのインタビューで自慢していた時代のことは知っているはず。
これは類友というよりは、ソーシャルスキルが高い人間ならではのモラルへの無関心であろう。
正義感を持たないのはソーシャルスキルとして重要である。
正義感が強いと、威張るタイプの人間と衝突しやすくなるので、正義感はない方が生きやすい。
小山田圭吾は正義のリトマス試験紙と言えるし、こいつに怒ったらソーシャル的に負けなのである。
ソーシャル的に勝利するためには、こういう人物に無感覚でなければならない。
ワル自慢に対して怒ると、小山田が強者で、こちらが弱者みたいな感覚になるから、無関心である方が戦略的には適切なのである。
われわれは津田大介にできないことが平気でできるのであるから、この自由を最大限に行使しなければならない。
2016.04.12
暗黙の了解と言うが、そもそも明示的な了解はできないはず
いちいち他人に確認して「わたしも同じ認識です」という証言を取る意味はない。
というより、他人の頭の中は確認できないので、究極の了解はできない。
言葉で確認するのも、言質を取るのが必要であればそうしなければならないが、たいていの場合は、言葉での誓約は不要であろう。
つまり暗黙の了解に言葉で念押ししてもたいして意味がない。
だからわれわれは言葉で念押ししないのである。
他人の頭を開いて脳を調べたところで何もわからないから、この世には暗黙の了解しかないと言っても言いくらいである。
想像で察する以外に何もできないのであるし、われわれ人類は性能違いのクローンであるから、だいたいのあたりは付くわけである。
想像が正しいとは限らないし、誰も予想しないような驚愕の事実が出てくることも時たまあるが、それは仕方がないのである。
隣に並んで同じ景色を見ていても、本当に同じ景色かどうかわからないし、もちろん言葉で「あれは青」とか「あれは山」とか確認して、たぶん同じだろうという推定を補強することはできるが、いずれにせよ、普段からそういう認識の確認などしない。
他人も同じ認識をしているだろうと思っているから省いているし、暗黙の了解なのである。
たとえば他人のカップルが別れたとして、察しの悪い人もいるから、好奇な噂話とはまた別に、「あいつらは別れたらしいよ」と教えてあげる必要があることもあるが、これは察しの悪い人への介護である。
そういう介護を要する鈍い人がいない場合には、言われなくてもみんな察しているので、それだけである。
これにしても、別れた素振りをしているだけかもしれないわけで、その察しの方が間違っているかもしれないが、われわれは超能力者ではないから想像で理解するのが限界である。
というより、他人の頭の中は確認できないので、究極の了解はできない。
言葉で確認するのも、言質を取るのが必要であればそうしなければならないが、たいていの場合は、言葉での誓約は不要であろう。
つまり暗黙の了解に言葉で念押ししてもたいして意味がない。
だからわれわれは言葉で念押ししないのである。
他人の頭を開いて脳を調べたところで何もわからないから、この世には暗黙の了解しかないと言っても言いくらいである。
想像で察する以外に何もできないのであるし、われわれ人類は性能違いのクローンであるから、だいたいのあたりは付くわけである。
想像が正しいとは限らないし、誰も予想しないような驚愕の事実が出てくることも時たまあるが、それは仕方がないのである。
隣に並んで同じ景色を見ていても、本当に同じ景色かどうかわからないし、もちろん言葉で「あれは青」とか「あれは山」とか確認して、たぶん同じだろうという推定を補強することはできるが、いずれにせよ、普段からそういう認識の確認などしない。
他人も同じ認識をしているだろうと思っているから省いているし、暗黙の了解なのである。
たとえば他人のカップルが別れたとして、察しの悪い人もいるから、好奇な噂話とはまた別に、「あいつらは別れたらしいよ」と教えてあげる必要があることもあるが、これは察しの悪い人への介護である。
そういう介護を要する鈍い人がいない場合には、言われなくてもみんな察しているので、それだけである。
これにしても、別れた素振りをしているだけかもしれないわけで、その察しの方が間違っているかもしれないが、われわれは超能力者ではないから想像で理解するのが限界である。
2016.04.11
数学は空間と時間を計算するツール
わたしは数学はできないので、かなり大雑把な話になってしまうが、数学や物理学になぜ実用性があるとかといえば、空間とか時間の長さに基づいて計算するツールだからである。
空間の長さとか、時間の長さとか、その数値を元にして計算しているのだから、その計算結果が現実と一致しているのは当然である。
空間と時間が厳密な数値で表現できるから、計算可能であり、極めて実用性がある。
なぜ人文系で数学が使えないのかと言えば、空間や時間を演算する機会がないからである。
経済学なら、お金は数値で表現できるから、人間の行動は予想できなくても、多少は何とかなるが、人文系の対象となる物は大半が数値化できない。
数値化できないはずなのに、なぜか高等数学の数式が解として並んでいるのがフランス現代思想だったのだが、ソーカル事件がどうこうというより、数値化できないのになぜ高等数学の解が出てくるのか、という素朴な疑問が持たれなかったのが問題であろう。
ジャック・ラカンが精神病だったと言えばそれまでだが、数値化できないことでも数学は使えるという信仰があったのであろうか。
空間の長さとか、時間の長さとか、その数値を元にして計算しているのだから、その計算結果が現実と一致しているのは当然である。
空間と時間が厳密な数値で表現できるから、計算可能であり、極めて実用性がある。
なぜ人文系で数学が使えないのかと言えば、空間や時間を演算する機会がないからである。
経済学なら、お金は数値で表現できるから、人間の行動は予想できなくても、多少は何とかなるが、人文系の対象となる物は大半が数値化できない。
数値化できないはずなのに、なぜか高等数学の数式が解として並んでいるのがフランス現代思想だったのだが、ソーカル事件がどうこうというより、数値化できないのになぜ高等数学の解が出てくるのか、という素朴な疑問が持たれなかったのが問題であろう。
ジャック・ラカンが精神病だったと言えばそれまでだが、数値化できないことでも数学は使えるという信仰があったのであろうか。
2016.04.10
人類と事実認識
宇宙人が人類を観測するとして、果たして、その宇宙人は人類と同一の五感を持っているのか、という疑問があるわけである。
もしくは価値判断が同一なのか、という疑問もある。
というより、五感や価値判断が同一とは思えないから、違うと考えるのが妥当であろう。
最も重大な違いは、宇宙人には顔という概念がない。
頭部に目と鼻と口が付いていて、それを顔と言うのだが、宇宙人はたぶんそういう構造ではないし、そもそも顔という概念すらない。
顔が事実であるかというなら、たぶん事実ではないし、もしくは物理的な形態として事実であるとしても、それは指紋のように無機質な差異であろう。
指紋を美しいとか醜いとか言いながら、それに性的な欲求を抱いて人類史は刻まれていくのだが、美・醜は宇宙人にはないと思うし、性欲もないであろう。
オスとメスというのも、10億年くらい前に分かれたのであり、宇宙の真理とは違うので、これもたぶん宇宙人からは理解されないであろう。
物理的な事実はひとつでも、何をやっているのかさっぱりわからないのが実情だと思われる。
たとえば皇位継承権で争っているとする。
これは皇位という観念の理解が必要である。
リーダーを決めなければまとまらないという人間の感覚が理解されるかどうか、であろう。
加藤智大が秋葉原で暴れているのとは違うと理解して貰う必要がある。
胃袋が食べ物を消化するのは殺人ではないと理解して貰うことも必要。
10年前の自分と現在の自分が同一である、という自意識を持って人間は生きているが、この同一性も理解して貰わなければならない。
物理的に同一であるのは理解可能としても、たくさん咲いているたんぽぽの花のひとつひとつに固有名を付けようとは思わないのと同じで、宇宙人からすれば、人類もそういうものかもしれない。
「自分」という主体性がたくさんあって、それが競い合っているらしい、くらいは理解されるかもしれないが、その欲求や心情は理解できまい。
もしくは価値判断が同一なのか、という疑問もある。
というより、五感や価値判断が同一とは思えないから、違うと考えるのが妥当であろう。
最も重大な違いは、宇宙人には顔という概念がない。
頭部に目と鼻と口が付いていて、それを顔と言うのだが、宇宙人はたぶんそういう構造ではないし、そもそも顔という概念すらない。
顔が事実であるかというなら、たぶん事実ではないし、もしくは物理的な形態として事実であるとしても、それは指紋のように無機質な差異であろう。
指紋を美しいとか醜いとか言いながら、それに性的な欲求を抱いて人類史は刻まれていくのだが、美・醜は宇宙人にはないと思うし、性欲もないであろう。
オスとメスというのも、10億年くらい前に分かれたのであり、宇宙の真理とは違うので、これもたぶん宇宙人からは理解されないであろう。
物理的な事実はひとつでも、何をやっているのかさっぱりわからないのが実情だと思われる。
たとえば皇位継承権で争っているとする。
これは皇位という観念の理解が必要である。
リーダーを決めなければまとまらないという人間の感覚が理解されるかどうか、であろう。
加藤智大が秋葉原で暴れているのとは違うと理解して貰う必要がある。
胃袋が食べ物を消化するのは殺人ではないと理解して貰うことも必要。
10年前の自分と現在の自分が同一である、という自意識を持って人間は生きているが、この同一性も理解して貰わなければならない。
物理的に同一であるのは理解可能としても、たくさん咲いているたんぽぽの花のひとつひとつに固有名を付けようとは思わないのと同じで、宇宙人からすれば、人類もそういうものかもしれない。
「自分」という主体性がたくさんあって、それが競い合っているらしい、くらいは理解されるかもしれないが、その欲求や心情は理解できまい。
2016.04.10
南條愛乃さんのふぁぼが倍増

今までは南條愛乃さんがツイートするとふぁぼが5000くらい付いていたのだが、μ's解散以降は10000くらいになっている。
なにかを食ったとか飲んだとか、それで10000のふぁぼが付くのだから、そこらの芸能人では太刀打ちできないレベルであるし、それに南條さんの場合、これが動員の実態にも結びついている。
センターポジションの人の重大事件もあり、ラブライバーは難民化したとも言えるが、やはりμ's全体を推していたひとたちが、南條さん単騎に切り換えていると思われる。
まだ四月始まったばかりなので、この時点での数字を持ち出すのもなんだが、グーグルトレンドによれば、松田聖子が22ポイントなのに対して、南條さんは23ポイントであるから、ひとまず松田聖子は追い抜いた。
松田聖子のファンだというおっさんの少なさを見れば、たいしたことがない存在だったと力説するまでもないし、南條さんの方が遙かに素晴らしいのだが、武藤彩未さん親子が松田聖子に固執したことでアミューズも大変な思いをしたに違いない。
われわれは勝った負けたを問題にしているわけではなく、南條愛乃さんという不世出の存在を応援しているだけである。
いずれにせよ中元はこの次元で競い合うレベルではない。