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はるかぜが新事務所に移籍したようである。
プロダクション・エースという声優事務所である。
角川系列らしい。

高校もナベプロと無関係の通信のようだし、ナベプロとは完全に切れたのである。
ナベプロの女帝である渡辺ミキと一緒にナベプロの高校を見学したりしていたのに、やはりババアが我慢できなかったのであろう。
わたしは見たわけではないが、ババアがナベプロ社員にツイッターやらせろと執拗に食い下がっている光景が浮かんでくるのである。

はるかぜの支持者は0円ユーザーであり、子供に温かい言葉を掛けるだけである。
本当に応援しているのとは違うわけだ。
ここから集金するのは難しい。
元から素質がないのに、教育も受けてないから、とても気の毒なことになっている。

しかしババアの人生への渇望たるや恐ろしいものである。
負けず嫌いが同じことをやって負け続ける、という悪夢の繰り返しである。
この負けを繰り返すパターンから抜け出すためには、ババアではなく、もっと優秀な人に教育してもらう必要がある。
中川翔子に取り憑いてナベプロに入れたのは、その最高の機会だったのだが、おとなしくしているという簡単なことができないのは、もはや結果などどうでもよくて、敗走を繰り返して継戦能力が下がっても戦意だけは高揚していくという負けず嫌いのおそろしさであり、何もしないと禁断症状がすさまじいのであろう。
おとなしくナベプロで教育してもらうというラストチャンスを母親が潰したのだから、おそらく将来的には毒親被害者として講演会に呼んでもらうとか、それくらいしか可能性がない。
人間にも需要と供給がある。
需要がある、もしくは潜在的に需要がありそうなことを、われわれ自己存在は供給しなければならない。
需要がないことを供給(生産)すると赤字在庫が山積するだけであるから、売れる品物を作るしかないのである。

人間は存在するだけでコストがかかるようになっている。
この世界では人間そのものが商品なのである。
先史時代はともかく、文明の中で生きるとなれば、自らを商品として維持しなければならない。
ニーチェのようにたまたま実家の資産があれば、100年後の人類への贈り物として著作を書くという姿勢もあり得るが、ニーチェにしても実際は承認願望の固まりであろうし、そこまで悟ってないのは確かである。
それに、同時代人からの評価が完全に0であると、後世での再評価も難しい。
今ならインターネットがあるが、昔だと出版すらされてないし、すでに焼き払われた草稿をわれわれが読むことはできないのである。

ネットでも閉鎖されたサイトの記事は読めないのが普通であるし、たとえばInfoseekのサービス打ち切りで、過去のホームページは大量に消えているわけである。
10年前のページですら、かなり消えているのである。
これについては著作権法やネット技術の問題でもあるから、長々と議論しても脱線となるので筆は省く。

ともかく生命維持のためにも、承認願望のためにも、同時代人に伝えるのが人間の原則なのである。
同時代人から需要がないことをやってもしかたがないので、どうしても同時代人に取り込まれていく。
何らかの新しい文化が一気に流行って時代を塗り替えることもあるし、それだけの斬新なことをやるという道筋もあるが、どっちみち同時代人の需要を先読みして掘り起こさないといけないわけだ。
いい人がなぜ女にモテないのか、という意見を時たま聞く。
女という生き物はロンブー淳とかに大喜びで股を開いているのであろうし、そういう淫獣に好かれなくてもいいだろうとは思うが、ひとまずそれは置いておこう。
いい人が女にモテないのは、やはり他人を恨んでいるからである。

ここで「いい人」の定義も必要であろう。
ここで念頭に置いているのは、いわゆる育ちのいい温厚な人ではない。
おそらくみなさんが、いい人は女にモテないという場合、家が金持ちで育ちがよさそうな好人物のことは指し示していないだろう。

要するに真面目系クズである。
少し前で言えば、有村悠さんみたいな人間である。
このところ有村悠さんは更生しつつあるので、引き合いに出すのは躊躇われるが、わかりやすく言うなら、以前の有村さんのような人のことである。

真面目系クズは恨みがましいのである。
彼らは犯罪者とは対極であるが、なぜかロリコン犯罪の予備軍だとみなされやすかったりする。
もしくは、被害者意識が強いだけに、通り魔をやらかしそうとか、そういうオーラがある。
有村悠さんは加藤智大にはならずに、立ち直るベクトルに入っているが、やはり東大合格歴があるし、多少は修正能力があると思われる。

恨みがましい、という問題だが、恨むべき深刻な被害にあった人だっているだろう。
だが、真面目系クズになってしまうと、なんでもかんでも恨むのである。
おそらくご本人の主観では受難者のつもりなのだが、端から見ていると逆恨みの固まりで気味が悪い。
札付きのワルとは対極のパーソナリティーなのに、犯罪者予備軍と言われてしまうのは、やはり恨みがましいからである。
ワルの常習犯とはまた別の嫌がられ方をされるのである。
このところ、ベビメタの宣伝がうるさすぎなのだが、あくまで作られたイメージのポジキャンであるから、本音や真相とは懸け離れたところにいるし、さくら学院についても触れない方針であるらしい。

http://lite-ra.com/2016/04/post-2191_3.html
それどころか、BABYMETALが海外で高い評価を受けるにつれ、メディアが事務所の意向をのんで、彼女らがもともとアイドルグループ出身であるというルーツを隠そうとする動きすら始まっている。周知の通りBABYMETALはそもそも、小中学生で構成されるアイドルグループ・さくら学院内の部活動ユニット「重音部」として結成されたのが始まりだったが、彼女らを表紙巻頭に据えた「ミュージック・マガジン」(ミュージック・マガジン)16年4月号掲載の特集にあるグループの沿革を辿る記事には〈企画ユニットとして始まり〉という一文はあるものの、さくら学院の名前や、もともとはアイドルグループ所属だった事実に関して不自然なほど触れられていない。このことに関しては、ライターの吉田豪氏もツイッターでこのように疑問を呈している。
〈公式プロフィールに入れないのも本人たちが触れないのも全然いいんですけど、『ミュージックマガジン』BABYMETAL特集でグループの歴史を辿る記事が2013年のメジャーデビューから始まってたりと、第三者がさくら学院に触れないまま歴史を語るようになっちゃってるのが不思議なんですよ〉


武藤彩未さんの母親と水野由結ちゃんの母親は、アミューズに入る前からかなり親密である。
これは水野由結ちゃんの日誌を読んでいればわかる。
母親同士がよほど親しくないとお揃いの服など着ない。
水野由結ちゃんがアミューズに入った経緯が謎であるのも、ただ単に武藤さんの紹介で入ったというのが実情であろう。


http://ameblo.jp/sakuragakuin/entry-10647543601.html
yuiayamiosoroi.png



「重音部」はさくら学院の部活という建前だが、実態としては違う。
さくら学院がスタートする前から中元すず香と小林啓(ベビメタのプロデューサー)はコンビを組んでいる。
ゆいもあの発言などからして、重音部のスタッフはさくら学院のスタッフとは別である。

重音部と平行してバトン部という武藤彩未さんを中心とする部活も立ち上げられているが、中元の方は準備万端であるから、これは公平性の演出でしかなく、最初から勝負が決まっている。

背景は不明だが、おそらく武藤彩未さんはアミューズ社員から好かれていない。
可憐ガールズでもさくら学院でもエース扱いなのに、アミューズ社員から支持されている様子がないのである。

水野由結ちゃんを武藤サイドから中元サイドに移動させようという意図がミエミエなのだから、さくら学院の担当社員が反発してもおかしくはないのだが、おそらくさくら学院の側に小早川秀秋みたいな社員がいたのである。

武藤彩未さんが水野由結ちゃんに独占的な権利を持っているわけではあるまいし、グループのメンバー構成などはアミューズ社の権限だが、やはりアミューズ上層部とアミューズ社員の見解が違っていて、上から押し付けられたエースである武藤彩未さんの取り扱いが面倒なので、社員がクーデターを起こしたようにも思える。
だから、この問題がタブーとなってしまうのである。

言うまでもないが、武藤彩未さんと水野由結ちゃんを切り離すのがアミューズ社の方針だとしたら、さくら学院など作るわけがないし、武藤さんを生徒会長に据えるわけがない。

アミューズ上層部が武藤さんを推していたのは、一応はソロデビューさせてもらったことでも明らかなのだが、なんかマネージャーに権限がなさそうだし、スタッフが外部の非常勤ばかりだし、無残な状態で放置されていたのは、崇徳上皇が流罪に処され、髪も爪も伸ばし放題で、日本国の大魔縁になると呪詛した挿話を思い起こさせる。
現在は三度目の休業中ということだが、天才的な雄弁家であるから、他の事務所に移籍して、中元すず香の非道と言える人倫を糺すべく遊説するとずいぶん需要がありそうなので、迂闊に解雇もできない。
政争に敗れたお姫様として不遇を囲っている状況に同情を寄せるべきかどうかは知らないが、ここまで縷々と述べてきたように、アミューズ社が武藤彩未さんをエース扱いしていたのも確かであるから、中元寄りの社員から不当に皇位を簒奪されたという言い分も成り立つし、これまで五年くらいアミューズを相手にゴネておりろくに活動もしてないから、かなりのタフネゴシエーターでもある。
この腫れ物具合は、北一輝が三井財閥から金をもらって生活していたのと似たような印象も受けるが、さくら学院の矛盾のすべてがここで像を結ぶのであるから、いつでも火種になりうる特異点なのである。
なぜ物理学に実用性があるのかと考えると、空間と時間は掛け算できるからである。
空間の長さと時間の長さはもちろん単位が違うが掛け算が可能である。
時間というのも摩訶不思議であり、これは現在という瞬間のループであり、過去も未来もないはずなのだが、とはいえ、われわれの脳の記憶の仕組みとして、時間は直線的である。
時計を見ながら10秒計るとしたら、いろんな意味でその10秒は直線的に経過しているのである。

ともかくその10秒が直線的な長さなので、空間と掛け算ができるし、10秒後の物理運動が計算できる。
机の上の計算と現実が完全に一致するわけである。
だから物理学の実用性が極めて高いのは当然である。

空間の「長さ」もよくよく考えると不思議である。
東京と大阪に同時に存在することは出来ない。
空間はそれぞれの箇所がバラバラで無関係とも言えるが、ごく普通に緯度や経度のような座標で指定できるので、やはり全体像があるのだろう。

人類より宇宙のほうが先であるから、人類の脳の「長さ」の観念に合わせて宇宙が作られたわけではあるまいが、そうだとすると、なぜ人間の脳は時間と空間の長さを認識出来ているのかというのも不可思議である。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160427-00000060-it_nlab-sci
批判が殺到していたのは、4月23日に「犠牲になられた方々とご遺族の皆様に対し、深くお悔やみを申し上げます」など熊本地震に関してつづられたブログ記事。平子さんによると、その6人は「同じ人が毎回名前を変え、あたかもたくさんの人から批判されているように見せかけていた」「時々良いコメントを書いてみたり、時には女性に、時には男性になって書かれていた」と巧妙なやり方でコメントを残していたとのことで、中には「自殺しろ」と100回以上書き込んだ人もいたため「慎重に調査するつもり」としています。


この平子理沙さんという人をよく知らないのだが、45歳のモデルらしい。
こういう事例についてなぜか法整備を求める意見が多々あるが、大量投稿の問題と、名誉毀損の問題は区別したほうがいい。
大量投稿に関してはごく普通にアメブロで対処すればいいだけの話であろう。

大量投稿は病気ではないし、たくさん投稿して面制圧するというのは馬鹿が真っ先に思いつく方法である。
もしくは古典的に言えばサクラ、最近ではステマだが、金をもらって褒める業者もあるわけである。
サクラとかステマをやりやすくするために穴を開けているから、そこにアンチが大量投稿する構図もあるはず。
法整備云々言う前に、すべての自作自演を防ぐための技術的努力を最大限にやることが必要である。

書き込みをするに際して、アカウントを作成してログインする必要がある場合もあれば不要であることもある。
これは選択可能であることもあり、たとえばアメブロだと、「アメーバ会員のみ受け付ける」というオプションが有るわけだ。
著名人の方々は、炎上とか誹謗中傷とか騒ぐ前に、まずアカウントの問題について考えたほうがいいし、「アメーバ会員のみ受け付ける」という選択肢もあることは理解したほうがいいであろう。

当然ながら、アカウント必須として書き込みのハードルを上げても、複数アカウントで自演とかいくらでもあるから、無駄といえば無駄である。
とはいえ、アカウント作成無しで書き込める状態にしておくのは、最低限の対策を懈怠しているように思えるし、炎上がどうこう騒ぐのはずいぶん愚かである。

おそらくアメブロの場合だと、特定ユーザーの書き込みをブロックする機能はなく、IPアドレスで指定するしかないと思われるが、これはこれでアメブロの問題であるし、発言力のある有力な著名人はアメブロに要望すればいいであろう。
なぜアメブロにこの機能がないのかは不明だが、サイバーエージェントが馬鹿であるか、もしくは、自作自演で自分を褒めている芸能人もいるだろうから、アカウントで紐つけたくないのか、いずれにせよ、まずはアメブロが技術的に対応するべき問題である。
ポジキャンだけ野放しにしてネガキャンだけ取り締まるのは無理がある。
ログイン必須にして、それぞれのアカウントの過去の投稿すべてが表示されるようにするべき。
そうすれば怪しい活動はやりづらくなるであろう。
歴史上最高のギタリストは誰かと問われたら、たいていの人はジミ・ヘンドリックスの名前を挙げるであろうし、20世紀最高の名著と言えば、ハイデガーの「存在と時間」と言うしかないのである。
「存在と時間」は世界内存在としての人間について語ったが、社会学的な側面が殆ど無く、そこで提示されるのは、一般的な人間なのである。
優劣を抜きにした誰しも共通している人間が描かれる。
人間について語るなら、優劣の問題は避けて通れないはずだが、「存在と時間」はこれについて書いていない。
社会学的な視点を入れると、どうしてもいわゆるマニュアル本、つまり、なにが合理的であるかとか、人生で得をする方法について記述することになってしまう。
われわれは365日ずっと人間について語り続けている。
人間と社会とかそんな話は、普段から人生にあぶれた飲んだくれが場末の大衆酒場で蜷局を巻きながら論じていることであるから、あれこれ書いても普段の通俗的な会話の繰り返しであるし、緻密で高度なノウハウとなるとエリートの企業秘密なので、それを超えるなら、出鱈目な科学理論を作り上げることになってしまう。
ハイデガーは「通俗的」という言葉を頻繁に用いるが、これによって俗世間のモノの見方を相対化し、対応マニュアルなどは示さない。

刊行されている「存在と時間」は上巻であり、予定されていた下巻は出されずじまいだったが、「ある」とはなんぞやというのが一応のテーマではある。
上巻ではその主題についてまともに書かれてないから、下巻に書かれるはずだったのであろう。
ハイデガーは上巻を出してから50年くらい生きているので、下巻を出さなかったのは蛇足になるのを避けたのであろうし、保身でもあっただろう。
それに「ある」とはなんぞやというのは、物理学者が考えるしかないであろう。
正義というのは難しく、問題児だから焼却炉に投げ込めばいいというわけではなく、生きている人間を生かしたまま対処しなければならないし、この地上は聖人君子の集まりではないのだから、人が人を裁くということ自体が、とても据わりが悪い。

正義とは局地戦であるし、特定の疑惑に焦点を絞って戦うわけである。
局地戦といっても血で血を洗うという意味ではなく、抵抗できない相手に集中砲火を浴びせるわけである。

当然ながら報復もあり、政界疑獄の追及の急先鋒たる議員が、逆にスキャンダルを暴かれて失墜することもある。

だからたいていのひとはおかしなことがあっても黙過するのである。
大正義で他人を吊し上げると顰蹙を買うから、追及はせずに見なかったことにする。
これはこれで現実によくありがちな人間的問題であり、その対応が素晴らしいとは言えないが、問題児を粗大ごみとして捨てることはできないので仕方がないのである。
片付けられないゴミというのが人間の本質であり、いわゆる育ちのいい人であっても、AO入試やコネ入社など至れり尽くせりであるから、咎人たることから逃れることは出来ない。

誰なら他人を裁けるのかという文脈において、ネットユーザーの正義というのは、良くも悪くも有効なのである。
匿名でクレームを入れているわけだから、決して大正義の人として英雄となり、銅像が建てられて除幕式が行われるようなことはない。
匿名だから卑怯というが、たぶん実名で正義を振りかざして手柄を立てる方が卑怯なのである。
(卑怯という概念も判然としないが、正義が政治的であることと裏腹なのだろう)。

著名人が「ネットで誹謗中傷されている」というのはあまり正しくないし、不倫したとかそういう急所があるからこそ、徹底してバッシングされているのである。
顔のある正義君なら、そうやって他人の不正義をあげつらうことで顰蹙を買うし、報復もされるのだろうが、ネットユーザーは当たり前だがまったく手柄を認められてないし、叙勲の見込みなどない無位無官の徒であるから転落することはない。
誰でも知っている定番曲はさすがに聞き飽きているので、今まであまり聴いてなかったアーティストを聴いているのだが、アリス・クーパー(1948年生まれ)などは今までスルーしていて、ようやくおもしろさに気付いた。ショック・ロッカーの元祖と言うべき大御所であり、その奇抜なスタイルは多くのロックスターに影響を与えたが、だんだんこの世代の人たちが、老躯を辛うじて支えているか、もしくは20世紀文化の幕を引くようにして鬼籍に入るようになったし、訃報に接するたびに、われわれは芸術運動はナマモノであり、その寿命の限界という宿命を痛感している。デヴィット・ボウイとプリンスを失っても、まだアリス・クーパーとオジー・オズボーンは生き残っているが、数多の大傑作を生み出した奇蹟に終止符が打たれつつあり、この現代の世界は、その王朝を引き継ぐだけの資格を有してないのである。

この2016年現在でスター扱いされている奴らは全員ニセモノである。わかりやすく言えば中元すず香はアミューズという大企業病の象徴であるし、ゴシックな衣裳で血や死がまとわりつく惨劇を演じても、それは他人が完成させたノウハウの切り貼りであり、音楽活動というよりは、トヨタの期間工のように作業している木偶人形であるし、血で書かれた文字だけに価値があるというニーチェのエピグラムから最も遠い。

本物のロックスターたるアリス・クーパーは日本ではあんまり人気がない。やはり主旋律が力不足ではあるし、サウンド全体のおもしろさでやっているからだ。だからわたしはアリス・クーパーを絶賛することを差し控えるし、お気に入りの楽曲を羅列することも避ける。褒めちぎった後で実際に聴いてみたら拍子抜けであるのは間違いないからだ。ロックのサウンドとしての愉しさを結集したようなものだが、日本人の琴線には引っ掛からない。

日本人は楽器を添え物だと考えているし、主旋律がキャッチーでないと決して名曲とは言わないので、アリス・クーパーのサウンドの魅力を伝えるのは難儀であるし、伝わらなくても差し支えないが、文化的な問題として聴いてみると面白いと思う。日本でも主旋律がすごい名曲というのは出尽くしていて限界に来ているから、こういう古典的なサウンドの見直しがされてもいいであろう。
三角関係というと、恋愛感情の話とされるが、同性でもあり得る。
曖昧模糊とした話であるから体系的に縷術することはできないが、雑駁たる話題として提起しておきたい。

五人グループとかで「この人がいなくなったら残りの四人で集まることはないな」というのはあるはずだ。
必ずしもリーダーとは限らず、親しさの中心なのである。
その人がいなくなると、実は残りの四人がたいして親しくないことに気付く。
この現象に名前が付いているのかどうかは知らない。

すごい美人を巡って競い合っているわけではないから、大人だとたいしたことではなく、他の面子に違和感があるなら何の未練もなく離れるだけだが、子どもは友達を作るのがノルマなので、人気者のA君と親友になるために争わなくてはならない。

実のところ、このA君みたいなのは、親が決めた友達だったりする。
親から見て理想的であるらしく、その御推薦もあるから、営業ノルマを果たすべく友達でいるしか無く、こいつと友達にならない方が平和だという発想はあり得ない。
「このグループって、おまえと親友だという人の集まりで、おまえがいなかったら他の面子はまったく仲良くないよな」という冷静な分析も子どもではできない。

このA君が何股も掛けて愉しんでいるという誹りを受けるべきなのか、それは知らない。
嫉妬を誘発して悦に浸っているのか、それはわからない。
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