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こうやって生身の人間として生きているのだから、肉体の仕様書に縛られている。
一定の時間でどれだけ出来るかというのは決っている。
駅まで徒歩で何分かという場合、個人差はあれど、人間としての目安があるわけだ。
優秀な医師であろうとも、一時間に500人を診察するとか出来ない。
人間的な作業とはそういうものであり、それなりの時間を要する。

いずれ人工知能で診察できるようになったり、もしくは3Dプリンターで建築出来るとか、すでにいろいろテストされており、近い将来に普及するのかもしれないが、完全に機械化されたら、時間は0に近いと言ってもいいわけだ。
たとえば全自動洗濯機で20分掛かるとしても、その20分の間、無人の状態、つまり人間が洗濯機を放置していても差し支えないのだから、掛かる時間は0と言える。

消費する(商品を購入する)という行為は、実は一瞬ではない。
一ヶ月の間にどれだけ使えるか、というのを念頭に置いて、その時間の長さを前提に消費している。
スーパーのレジで何かを買うとして、その消費は瞬間的に思えるが、実際には一ヶ月のお小遣いとか生活費の枠の中で消費しているので、一ヶ月がかりで買っていると言ってもいいのである。

生産に人間的時間(人件費)を要しており、それに応じて消費しているから、経済的な制約がある、というか、生産と消費を一致させようという力が働くので、それなりに均衡するのだろう。

機械が勝手に全部作ってくれて、買いたいだけ買えるとしても、これまた人間的な時間の枠に縛られる。
使いもしないものを大量に購入してもあまり意味はあるまい。
何かを使うにはそれなりの時間がかかる。
同時の二冊の本は読めない。
人間は何をやるにも時間がかかるのである。
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世の中には似たような人間がいるものだが、有村悠さん(37歳)とかなり似通った人物。

全角岩手さん(47歳)という2ちゃんねるのコテだが、ご自身が精神病だと認められているようである。

有村悠さんはまったく精神病ではないが、なぜか精神病の薬を飲んだりしているファッションメンヘラであるから、そこは違う。
有村悠さんがADHDであることは疑いがないと思われるので、その二次障害で鬱になっている程度であろう。
精神病でも神経症でもなく、ただの詐病である。

有村悠さんは東京大学文学部西洋史学科中退だが、この全角岩手さんは東大理Ⅰを中退されているそうだ。
なかなか興味深い関係である。
2016.07.17

退屈と新しさ

退屈とはなんだろうかというと、新しさがない状態に耐えられない感情である。
おそらく多動性が強いと退屈になりやすいであろう。
依存症として括られやすいタイプである。
とはいえ、退屈そのものはおそらく普遍的なものである。
人間は新しさを待ちわびている。
新しいことがないと手持ち無沙汰になる。
われわれがニュースを追っかけているのも、それが世界の更新作業なのであろうし、退屈さに一息つくことなのである。
新しさへの飢えの度合いは個人差があるにしても、やはりニュースには誰でも食いつく。
これでわれわれは同時代人と同期して、同時代性を生きている。
新しい出来事を待ちわびており、その新しさに殺到して食いつくからこそ同時代である。

新しさがなければ酸欠のようになってしまうのが人間である。
好奇心で新しさを求める設定になっている。
人間は被造物であり、そのように創造されているのである。
息苦しく重苦しい時間が空転し、何かが起こるまで「暇人」として無駄な時間を過ごしてしまうこともある。
これに個人差があるのは言うまでもない。
退屈に耐えられないのは人間に共通した特徴であるが、重症か軽症かの違いはあり、重症であるならば、明らかに欠陥となってしまう。
無であれば無でも平気であるはずだし、要するに精神的飢餓であるから、先天的な特徴を含めた心構え次第とも言える。

いわゆる暇つぶしというのは、たとえばゲームなどをやってストレス発散することである。
現実がつまらなくて、好奇心が満たせないなら、ゲームという架空の世界で済ませてしまう。
時間の空費を避けるためにゲームで時間を浪費するのが最高の解決策とは言い難いので、やらないに越したことはない。
それでもゲームが存在してしまうのは、新しい刺激がない退屈な状態に耐えられないのが人間だからである。
退屈の安易な解決方法がゲームとして跋扈しているのである。
2016.07.17

EDMと人間疎外

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わたしのGoogle Play Musicの再生回数を見ていると、やはりわたしはメタルに関心を失ったのであり、すっかりEDMに馴染んでいる。

そして、メタルが斜陽になったのも納得できるようになった。
特にメタリカが聴くに耐えなくなってきた。
ギターで重低音のサウンドを作っていくメタリカは、悪い方向で文化が手詰まりになった象徴であろう。
オジー・オズボーンは今から聴いても素晴らしいし、メタルであってもジューダス・プリーストのようにサウンドが軽ければ、ギターならではの楽しさがある。
だが、メタリカの楽曲はシンセサイザーでやった方がいい。
シンセサイザーでやれることをギターでやっても意味が無いし、「俺達は自分で演奏している」という自己満足でしか無い。

ジミ・ヘンドリックスは変死してから半世紀近く経っても史上最高のギタリストとして君臨し続けて、シンセサイザーが台頭してもまったく色褪せないのであるから、やはりメタリカが悪いのであろう。

Skrillexの「Rock'n Roll」という楽曲の最後で、「彼らはノイズを作るのが得意なだけでミュージシャンではない。誰もギターを弾けないじゃないか」というどこかの爺さんの発言のサンプリングがあるわけだ。

''You have technicians here making noise. No one is a musician.
They're not artists because nobody can play the guitar!''

深い意図は知らないが、ギターが弾けてこそミュージシャンだという古典的な価値観を自虐も含めて「晒し上げ」したのであろう。
Skrillexはグラミー賞でジャスティン・ビーバーとコラボした際に、おそらく生演奏でギターを弾いてると思うのだが、メタルならギタリストとして認められないレベルである。
どちらにせよ、ジミ・ヘンドリックスのように弾けるのでなければ機械に演奏させればいいし、人間の出る幕はない。
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以前は非常な危険人物であり、加藤智大予備軍として恐れられていた有村悠さんだが、とうとう母親が掛けた鍵を壊したようである。

鍵を持たずにふらりと表に出たら、家族が鍵を掛けて外出してしまった、という経験は誰にもあるに違いない。
有村さんもそういう事態に陥ったが、ママが鍵を開けてくれるのを待たずに、鍵を交換するという暴挙に出たのである。
これは今後の有村さんの人生を象徴する出来事となるだろう。

ママが路を絶ったのなら、自ら路を切り開けばいい。
ママの救恤を待つことなく、有村さんは自分で自分を扶けた。
骨肉の軛を脱したのであり、これまでの37年間の錆を落とすのである。
使嗾されるがままに生きてきた奴隷が脱出しても、その血肉化された奴隷としての在り方しか知らないので、たいていは馴染んだ苦界に繋がれることに甘んじてしまう。
突如として目の前に開かれた見知らぬ自由な世界の手触りに馴染むのは容易ではあるまいが、進境著しい有村悠さんなら、その廃疾となった身体にも生命が脈打ち、あらゆる幻想を正夢にしてしまうだろう。
個人とは、まさに個人という閉鎖系で判断している主体なのである。
部屋の掃除をしようと思い立ったとして、その「思い立った」のは自分という主体性である。
あくまで自分が掃除しようと思い立ったから、掃除したのである。

電波を受信して掃除させられているというのであれば、自由ではないかもしれないが、われわれの脳に他者は触れられないのであり、その絶対不可侵の場において「掃除しよう」と思ったのであるから、この絶対不可侵性こそが自由意志だと言うしかない。

卑俗な事例で言うなら、美人を見てセックスしたいと思うとか、その欲望の根拠を辿る必要はないであろう。
本能がそうなっているというしかないし、やはり現象世界の問題としては自由意志はある。
なぜ美人とセックスしたいのか、と根拠の無さを理屈で言い立てるのは可能だが、その性欲という現象は分解しない。
快楽-苦痛の原理でわれわれは生きており、快楽-苦痛が付帯しながら五感を通して立ち現れてくるのが人間世界である。
この位相において、個人個人がそれぞれ絶対不可侵の内面において生きているのだから、それは自由意志である。

多細胞生物として有性生殖するようになったのは9億年くらい前であるし、それ以前はオスもメスもない。
37兆の細胞が集まって一人の人間を作っているが、われわれは自分を成している37兆の細胞については把握してないし、あくまで単一の主体性という現象を生きている。
女の体を37兆に分解しても仕方があるまいし、あくまでそれが女として現象してくるのを魅力的に見ているのである。

ひとつの個人の肉体は、この人間世界の盤面ではひとつの駒であり、この主体性は分解できない。
われわれはこの三次元の世界で自分という駒を動かしながら生きている。
この自分という主体そのものは絶対不可侵なので、それを自らの自由だと考えるしかない。
これよりさらに自由を分解するなら、すべては無であると言うしかあるまい。
物事が現象しているレイヤーでは自由意志はある。
われわれ赤の他人が石田純一によって迷惑を蒙ったかというと、たぶんそれはないであろう。
(参院選前に与党批判をするために、都知事に立候補するつもりなどさらさらないのに、計画的に馬鹿を演じたという解釈もあるだろうが、そこまで深読みはしないことにする)。
昔の世の中では、馬鹿をやる人間が面白がられていたはずで、無関係のわれわれが、所属事務所の金銭的損失の心配などして怒ることなどなかったが、最近はかなり怒りを買うのである。
ベッキーの事例が典型だが、CMに出演しているタレントがトラブルを起こすとして、最近のわれわれは、その周囲がどれだけ迷惑しているかを想像して怒り狂う。
違約金が発生してサンミュージックが困っても、われわれが怒る必要ないはずだし、昔ならそんなことまで考えなかったはずなのに、なぜかサンミュージックの立場に立って怒るのである。
犯罪とはまた別の、トラブルメーカーに対する怒りというのが、やたらと蔓延しており、それは蔓延しているから蔓延しているのである。
蔓延しているから、ああそういうことで怒るべきなのだと思い、版図を広げていく。
究極的な根拠はないので、蔓延してるから蔓延するのが時代性である。
おそらく、昔なら、馬鹿なことをやれば殴られていたと思うし、石田純一のような事例があれば、世間は面白がるだけであり、裏では関係者がタコ殴りにして終わりだったであろう。
関係者が暴力で止めればいいという時代ではなくなったし、社会全体で矯正することになった、とも言える。
一昔前だと、馬鹿というのは社会の粗暴性の中に紛れていて、いわゆる目立ちたがり屋は、殴られることもあれば人気者になることもあるという曖昧さがあったが、だんだん非暴力の世の中になるに従って、馬鹿というのが概念としてはっきりと捉えられ、世間から厳しい目で見られるようになり、言動の社会的ルールを逸脱する許しがたいものとされている。
暴力や死と隣り合わせであるようなロックスターは世界的にいなくなっているし、潜在的にロックスターである人間はトラブルメーカーとして矯正される対象となるから、これは日本だけの問題ではあるまい。
なぜ小さい頃から芸能界にいるとたいていおかしくなるのか、といえば、母親が原因なわけだが、おそらく母親の一喜一憂がすごいわけである。
母親の一喜一憂が娘に伝染しているから、どうにもならない。

母親が娘を応援するのは、悪事と言っても差し支えない。
熱狂的なサポーターとして貼り付いていて、目先の試合で天国と地獄みたいな両極端な感情を爆発させるのだから、これは罪悪である。
これがスポーツ選手と観客なら、所詮は赤の他人だし、サポーターがどれだけ怒り狂っても、選手が本気で気に病むこともないだろうが、母親がそれをやるとすれば、無視するわけにはいかないので、極めてまずい。

杉本愛莉鈴さんがさくら学院を途中でやめたのは、中元すず香とユニットが組めなかったのがよほどショックだったのだろうが、端から見ていたら、どうでもいい話である。
機会は何度でもあるのだから、シーズン序盤での敗戦にすぎないし、残りの試合で挽回できることである。
だが、おそらく杉本さんの母親は、アクターズスクール広島に四歳の時から娘を入れて、なんか地元の英雄だったらしい中元すず香と組ませることを夢に見ていただろうから、かなりショックを受けたであろうし、それは娘にも伝染するから、さくら学院をやめたのである。

揃ってアミューズを解雇された杉本さんと武藤おばさんがもめているのも興味深く、武藤おばさんも、おそらく母親の一喜一憂がすごいので、どこかで敗北すると、残りの試合をすべて放棄するわけである。
アミューズ社員はシーズン全体として見ているだろうから、その試合で負けても、残りで挽回できると考えているわけだが、やはり母親がショックを受けてしまうので、これが娘に伝染してどうにもならないのだろう。

一喜一憂というのは、とても無責任な行為である。
観客とスポーツ選手の関係なら、所詮はストレス発散のためのショーであるから、無責任な応援は許されるが、シーズン序盤でいちいち天国と地獄みたいな反応をステージママがしてしまうと、これが娘に伝染し、厄介な人間を生み出すのである。
こうなってしまった人は、アミューズとしては解雇するしか無いのであろう。
津田大介が連日のようにネトウヨを晒しあげているのだが、いかにも愚にもつかない言い返しをしており、「あなたの人生ほどひどくはないです」とか、そういうレベルである。

最近話題の荻上チキではないが、「津田大介は朝鮮人」というのが国籍透視能力だとすれば、津田はどうやらカースト透視能力があるらしい。
超能力で戦っているわけである。

ネットではこの手のカースト透視が溢れかえっている。
「ネトウヨは実は社会的地位が高い」という怪しい調査で反論されることもある。
どうも、そこが肝心であるらしく、匿名の言説であるにも関わらず、そいつの社会的地位について勝手に透視しているわけである。
そうやって無力化しようという試みは、心理的な慰撫としてはいいのかもしれないが、言論としては無価値であろう。

ネットで大量に投稿している人を見れば、その暇な時間の多さからして現実のカーストの低さを推定せざるを得ないし、大富豪の趣味としてネットで投稿し続けることは極めて稀であろうから、カーストの低さというのは、それなりに蓋然性のある推定ではあるだろう。
だから、その推定が完全な間違いだとは言うまいし、おそらく大雑把には妥当ではあるにしても、この手のカースト透視にそんなに意味があるのか、という問題である。

これは津田大介だけの問題ではあるまいし、むしろ左翼系文化人すべてに共通する問題であろう。
ネトウヨと左翼系文化人の戦いなのだから、国籍透視能力者とカースト透視能力者のバトルが関の山なのかもしれないし、それが似つかわしいとも言えるが、どうもわれわれの思考も、これに感染してしまっている。
「どうせこいつは朝鮮人だ」とか「どうせこいつは底辺だ」とか透視してしまうわけだ。
いちいち相手にするのも面倒なので、透視能力で片付けるのもいいだろう。
とはいえ、言論として価値が無いのは理解しておくべきである。
自分がよく知らないジャンルの作品に対して「みんな同じ曲に聞こえる」とか「全部同じように見える」という感想をわれわれが抱くことはあるわけだ。
言うまでもないが、文字通り本当に同じ曲に聞こえるわけではなくて、自分がそのジャンルに共感できず、機微を捉えることが出来ない、もしくは機微をとらえるつもりがないことを強調してるだけである。

猿真似とか劣化コピーという表現を用いることがある。
これは著作権侵害と言っているのではなく、本家本元を劣悪な形で模倣した場合のことである。
剽窃ではないが、あまりにも出来の悪い模倣をしているということであろう。
よほどひどくなければ、模倣は許されるし、オリジナルとして諒承される。
ライトノベルで本当に丸写しにした作品が時たま盗作騒動として話題になる。
これは丸写しが許されないだけであり、ラノベは全体的に猿真似ばかりであろう。
もちろんエポックメイキングな作品を挙げることはできるが、それが超越的なオリジネイターではあるまいし、決して無から大廈高楼たる巨塔が創りだされるわけではない。

われわれが他者の作品を参考にして作っていることは歴然たる事実だし、また影響関係は認めてもいるから秘密ではないが、とはいえ、この共同作業が深く考えられているとも思えない。
この人間社会では、文化という無生物がウィルスのように存在していて、それが人体に感染しながら個々の作品が作られていく。
具体的に誰の影響と言うのは簡単だが、実際はそういう具体性がなく、特定の作者ではない文化の全体性から作られていく。
関心がない人が「みんな同じように聞こえる」というのは症状が似通っているからだが、同じ病気でも個性の差はあり、スペクトラムとして偏波している。
われわれは文化を天才の系譜として語りがちだが、それが正しいとは限らない。
文化的に感染した人々があちこちで似たようなことをやりだして、それで熱が上がっていくし、いわば集合知としてノウハウが蓄積され、それを扱う能力の差があるから、ひときわ目を引く傑作を創りだした人が天才と言われるだけである。
同じ文化的病に感染した人は、同じ雑居房に居合わせているのであり、同志として仲間意識を持ったり、もしくは光風霽月たる人ばかりではないから、良くも悪くも反目しあって血で血を洗う地獄草紙のような内ゲバが起こったり、絵が上手い人は絵が上手い人としか交流しないようなカーストもできてくるが、全体としてはひとつの文化圏なのである。

こうやってわたしが書いている文章も、おそらくどこかで目にした意見を自分の意見として書いてる箇所がずいぶん含まれているであろう。
あるいはまともな書籍では参考文献が提示されているが、それだってすべてではあるまい。
わたしが書いている文章は「わたしの文章」ではないということだって言える。
それぞれのパラグラフの記述がどこでどうやって感化されたのか判然としないが、なんかいろいろとウィルスに感染しながら、それが神経毒のように宿っており、自動書記されていくので、誰のものでもないと言ったっていいわけだ。
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