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仏教というのは釈迦の思想を勝手に発展させたものであり、ずいぶん偽書もあり、それが正統に受け継がれていたりするが、これはインド人の大雑把さなのであろう。釈迦そのものが荒行を否定しているのは確かであり、これはだいたい枉げられずに受け継がれている。身体的な苦痛が激しい命懸けの荒行をする人間もいることはいるが、これはかなりの少数派である。ほとんどは、快楽を減らすことで苦痛を減らすという発想を基本としている。欲しいものが手に入らなければ苦痛であるから、何も欲しがらなければいいのである。もしくは、苦しい苦しいと悪あがきするから苦しくなるのであり、平然としていれば、苦しくないこともある。仏教でなくても、困難を前にして周章狼狽するのはみっともない。難局だからこそ、平然としていた方が、人間として好ましい。痩せ我慢と言われるだろうが、腹を括ってこそ、この人間を縛り付ける痛みを超越できることもある。泰然自若としているのが望ましいというのは、おそらく仏教とはまた別に、人類普遍の発想でもある。泣きたいときは泣けばいいという人もいるが、世の中はそれほど優しくないし、歴史的な偉人の末路を記録するときでも、気が動転して泣きわめく文弱な芸術家の素顔を書くこともあるが、大人物として描きたいときは、うろたえることなく無表情で腹を切るような様子を描くわけである。禅というと臨済宗の方が有名であろうが、わたしは道元(曹洞宗)が好きなので、そちらに重きをおいて書くが、坐禅はただ座ることが大事なのである。道元は禅問答を批判しているわけではないが、あまり重視していない。只管打坐、ただひたすら座る、それだけである。寸陰を惜しんで生きている現代人には時間の無駄に思えるかもしれないが、挙動がおかしなパソコンは再起動したほうがいい。なぜ仏教で坐禅をするのかというのも、いろいろ理由はあるだろうが、快楽や苦痛がわれわれをお誂え向きの弱者に仕立て上げようとする中で、ただ座っているだけというのが人生への気高い姿勢なのである。坐禅は目を開いた状態、もしくは半眼で行うが、どちらにせよ瞼は閉じない。これは布団でゴロゴロしている朦朧とした状態とは対極である。目を開いて、明晰な意識で身体静止することが肝要であると思うし、座り方はさほど重要でないだろう。正式な結跏趺坐でなくても、半跏坐で充分と道元禅師は述べられている。身体静止が何よりも肝心であり、座ったほうがその境地に至りやすい、という程度の気がする。達磨大師のように九年間面壁坐禅とか、そこまでする必要はあるまい。われわれは生まれてから死ぬまで悪魔に誘惑され、唆され、使嗾される。心が揺さぶられるからこそ、いわば耐震構造の強度を上げるため、身体を止めておかなければならない。泰然自若としたポーズを身につければ、内面も制御できる。中枢神経に直接触って治すわけにはいかないので、身体の動きをとめることで、自分をコントロールするしかない。ロボトミー手術みたいに、脳にノミを打ち込む方法は今の医学では効果が見込めないので、身体を静止させることで脳を落ち着かせるのである。多動性こそが馬鹿の特徴であるという発達障害の考えは的確だが、リタリン服用への是非はともかく、身体が止まっていることが何よりも肝要であり、道元禅師には及ばないにせよ、その境地をお手本にするべきであるように思う。
ヒラリーがなぜ嫌われているのかというと、本音を言わないタイプだからであろう。
これは詐欺とは違う。
偽善者と詐欺師は違うのである。
共通していることは多々あるが、共通してないこともある。
詐欺は嘘をつくことだが、偽善は本音を言わないことであり、併発しやすい病ではあるが、区別はした方がいいであろう。

ヒラリーは弁護士として磨き上げたテクニックなのだろうが、
官僚答弁というか公式見解を述べることに終始するし、
本音を言わない、というより、本音がないのであろう。
本音とはなんぞやと言っても、これはわれわれも自分の中でいろいろ葛藤しているのだし、
明確にひとつに決まったものではないが、
タテマエ論から踏み込んで、腹を割って話すということであろう。
いろいろな自分の考えや気持ちも含め、状況をあるがままに話すことである。

偽善と対極なのは馬鹿正直である。
何十年か前までは馬鹿正直が美徳とされていたが、
他人のプライバシーに土足で踏み込むような、配慮が足りない地域共同体だから美徳だったとも言えるし、
馬鹿正直が素晴らしいわけではあるまい。
とはいえ、それなりに正直ではあって欲しいものである。
これはバランス感覚の問題と言うしか無いが、
ヒラリーに関しては、公式見解しか言わないのが徹底しているし、
いろいろと腹を割って話して距離を縮めるタイプでもない。
公式見解しかなく、中身が空洞という印象を与えるし、実際にそうであろう。

偽善者などこの世から消えればいい、というわけでもあるまい。
時として、公式見解を繰り返すしかないこともある。
公式見解が悪であり、何でもかんでもズケズケと本当のことを言え、というわけはない。
とはいえ、ヒラリーは度が過ぎているし、法廷戦術に慣れすぎたのか、芝居がかった綺麗事しかない。

弁護士は双方代理が禁じられている。
原告の弁護士と被告の弁護士が話し合いで和解することはあるにせよ、
ひとりの弁護士が、原告と被告を仲裁するのは禁止である。
あくまでどちらかの立場に立ち、片方の立場に徹するのである。
もちろん大統領だって、自国の公式見解を述べるのが中心になるし、そういう白々しい官僚答弁を述べることに関して、ヒラリーは極めて優秀ではあるだろうが、ここまで偽善者オーラが強いと、人の上に立つべき器とは思えない。
どれだけ長広舌を振るっても語るべきものが見えず、分厚い契約書を読まされてるような気にしかなれないのでは、国家が危殆に瀕したときの精神的なリーダーシップも不安視される。
昭和天皇は右翼を止めるべきだったと素朴に考える人もいるだろう。「おまえら迷惑だからやめろ」と言うべきだった、かもしれない。だが、明治憲法は立憲君主制だから、天皇が右翼に活動停止を求めるのが難しい。あと、時代背景からして共産主義者を最優先で取り締まらないといけないし、特高警察に両方取り締まれというのも難しい。

なにより、右翼のおそろしさは天皇から頼まれてないことである。親切の押し売りは、贈与の一撃である。断ったら面子を潰すことになる。天皇が右翼に「おまえら迷惑」と言ったら、右翼の面子を潰すことになる。右翼は天皇に頼まれてないからこそ、いわばストーカーと同じ人種であるし、「おまえら迷惑」と言っても逆恨みしか無い。

孝明天皇がたまたま死んだことで、長州藩が覇権を握ったのが明治維新である。孝明天皇は天然痘で死んでいるのだが、ほとんど恢復したのに死んだという不自然さもあり、長州藩が孝明天皇を殺したという想像は誰だってするだろう。

たまたま孝明天皇が死んだら、孝明天皇から蛇蝎のごとく嫌われていた長州藩が官軍となったのである。孝明天皇に好かれていた会津藩がどれだけ酷い目にあったかは、説明を割愛してよかろう。その顰みに倣い、昭和天皇がたまたま死ぬことだってあり得るわけだ。

ともかく、孝明天皇が長州藩に「おまえら迷惑」と言って排除したら、たまたま死んでしまった実例があるわけだ。憂国の人たちは、天皇に拒まれたくらいで引っ込むことはない。明治天皇は近代化を成し遂げた偉大な人物で、孝明天皇は異人を畏怖する頑迷固陋な人間として描かれるが、そういうバイアスを後から国民に植え付けるのは容易い。右翼は天皇の部下ではないのである。無教養のクズの集まりながらも、何が正義であるかを知っているらしく、誰から頼まれてもないのに、その正義を具現化してくれるのであるから、その尊厳の高みたるや、天皇陛下の御稜威を超えるのである。依頼されたことをやるのはサラリーマンとか、奴隷とか、そういう雇われ人種である。頼まれてないことをやる人は、サラリーマンと対極の、独立不羈の自由意志を持ち、思想集団の食客として居候しながらも貴族的な精神を持つ大芸術家であり、天下国家を論じ、天空から啓示される天意に従い、直情径行する権利があり、誰にも意志を売り渡さない不遜な帝王である。
感覚は脳が作っていると言うが、膝を壊したら膝が痛いわけである。
これが身体性である。
脳の機能で判断しているはずなのに、膝が壊れたら痛いのは膝なのである。
われわれは身体性に馴染みすぎているので、あまりこれを疑問には思わない。
膝が壊れてるなら膝が痛いのは当然であろうと、そう思っている。

養老孟司がとてつもなく平凡であるのは、東大医学部の解剖学の教授であるにも関わらず、解剖学に関心がないらしく、脳について語ってしまったことだ。
それも脳医学を余芸として嗜んでいるレベルではなく、おそらく解剖学の探求は放棄したのであろう。
もちろんわれわれ素人と違って、知識は圧倒的であろうし、さすがに東大教授だから襤褸は出さないにせよ、トップレベルの中では最底辺であろう。

脳がすべて決めているのは確かであろうが、やはり膝痛は膝が痛いので、むしろ人体を解剖学的に見たほうが、脳の不思議に近づけるはずである。

「痛み」だけでも不思議なのに、膝が痛いとか、肩が痛いとか、肘が痛いとか、そういう身体の部位に紐付けられて痛んでいるのである。
神経が繋がっているから故障の情報が脳に伝わるのは当然としても、膝が故障したという情報で膝が痛くなるのがどうも不思議である。
神経が繋がっているだけであり、位置情報は把握してないという考え方もあるだろうが、われわれの普段の身体動作からして、脳は身体のパーツの位置を把握しているはずである。
たとえばわれわれが楽器演奏したり、もしくはスマホを操作してるのも、指の位置を脳が把握しているからである。目で指の位置を確認しなくても、われわれは自分の指の位置を知っている。

わたしのような医学の素人が、人体の構造について仔細に語ることは出来ないし、こういう粗笨なエントリーしか書けないのだが、該博な知識があるはずの養老孟司が、なぜ人体の不思議に魅入られないのか、この凡人性たるや恐るべしである。
人体の構造については、解剖学者として東大教授になるレベルだから、全部わかったつもりなのだろうし、よくわからない脳に興味を持って、文化人路線に行ったのである。
自分の道が見えなかった盲人であろうし、東大医学部教授とは言っても、茂木健一郎と大差あるまい。
https://twitter.com/yuuraku/status/779149372919472128

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キチガイという言葉は昔からあるわけだが、リアルの人間関係で頻繁に使われていたわけではないから、おそらくネットスラングと言ったほうが適切であろう。
それも、ネット初期のディベート文化が廃れた後の、ブロック時代のスラングである。
議論して勝敗を決めたり、理非を糺すのがあまりにも不毛であるとわかったので、このところわれわれはブロックで済ませることにしている。
キチガイと叫んで扉を閉ざすヒステリックな行為が共感性を呼ぶのがおもしろい。
Facebookのような実名SNSはあるにしても、やはり全体として匿名空間ではあるので、誰が誰だかわからない有耶無耶な世界であるし、白黒つける必要がないのである。
本当にキチガイかどうか長々と議論して決着をつける必要など無いから、そういうネットスラングでお手軽に納得できればいいわけだ。
自分が正義であるという短絡的な確信は、本来なら他人の正義と激しく衝突するはずなのだが、ネットだと誰が誰だかわからないので、お天気のような無難な話として着地するのである。
要するに酔っぱらいの愚痴であり、その中身に仔細まで踏み込まないわけである。
このキチガイという単語の共感性の強さからして、先制攻撃で相手をキチガイ呼ばわりしないとまずいから、ますます使用頻度が上がる。

この冒頭に掲げた、愚にもつかない意見がこうやってたくさんRTされるのは、おそらくキチガイというのを仮想敵として共有しており、魔女狩りだが異端審問だか知らないが、ともかく先手必勝が求められている時代なのである。
このツイートにしても、失笑せざるを得ないほどに平凡すぎる意見だが、この鋭さの一欠片もない一般性こそが共感を呼ぶのだろう。
「身の回りのキチガイ」という妙な括り方が跋扈し、それがひとびとの不満を生ぬるく包み込んでいるのである。
おそらく今のところ、これはネットの愚痴にとどまっており、リアル世界に侵食してないとは思うのだが、こういう匿名の気安さに馴染みすぎると、リアルで会うような相手をキチガイ呼ばわりしてトラブルに発展する懸念もなくはない。
なんかめんどうなことを人に頼んできて、お人好しかどうかをテストする人間がいる。
素朴な事例で言えば、「ノートを貸して」とか頼むわけである。
断ったら「あいつは嫌な奴だ」とか言いふらされるわけである。
ある程度おとなになってくると、変なことを言いふらす人間を見たら、こいつ俺の悪口もどこかで言ってるなと警戒心を持つが、なかなか子どもだとそういう勘が働かない。
他人が言いふらす話に身を乗り出して聴いてしまうわけである。
当然ながら個人差があり、それなりに落ち着きのある子どもだと、「こいつ俺の悪口を他でいう可能性があるな」と察して、変な噂話を吹き込まれても興味を示さないものだが、そうでない子どももたくさんいる。

あるいは、おばさんだと、ずいぶん幼児化するから、おとなになっても子どもみたいな言いふらしをやることもあるわけだ。
大人の男なら、「こいつ俺の悪口も他で言ってるんじゃねえか」という警戒心は最低限あるはずだが、おばさんは歯止めが利かない。

もちろん悪評が自業自得なら仕方があるまい。
たとえば覚醒剤をやっていて、「あいつ覚醒剤やってるぜ」と言いふらされるなら自業自得でしかあるまい。

問題なのは、「嫌な奴」という人間概念である。
覚醒剤をやってもないのに「あいつは覚醒剤をやってる」というのも困るが、「嫌な奴」というのも、別の意味で難題である。

「いい人」という人間概念は、ほぼ脅迫と言ってよく、いい人かどうかをテストされて断ったら、「あいつは嫌な奴だ」と言いふらされるのだが、こういう人間に屈するのはあまりにも愚かである。
「いい人」というイメージを破壊されないためには、最初から自分で破壊しておくのも手である。
「いい人」と思われるとコストが大きいので、最初からそう思われないようにしておくわけである。
有村さんは艦これで稼げるようになってから、ずいぶん精神が安定してきたのだが、このところ昔に戻りつつあり、過去のルサンチマンを反芻し、テロリストめいた言動を口にするようになっている。
わたしは同人界隈詳しくないので、よくはわからないが、新作作るたびに1000部くらい刷ってるらしいので、一定のポジションは築いたのだろうが、そろそろ頭打ちというところはあるだろうし、作品制作に没頭する熱意が醒めてきて、未来へ向かっていた関心が過去に退行しているように思える。

さて、その有村悠さんだが、かつて東大生から高卒野郎とバカにされた過去があるようだ。

https://twitter.com/y_arim/status/779099518302162944
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これは厳しい。極貧母子家庭の有村悠さんが、金持ち東大生から馬鹿にされたとなると手も足も出ない。

人間はいつまでも同じではない。若さを失っておとなになっていくと、かつての友達を蔑んで整理するのは普通。友達ってそういうものだし、根底には階級意識がある。お仲間の互助会であるから、そのギルドから零れ落ちたら無慈悲に排除し、斃死するままに任せる。つまり有村さんを高卒と愚弄した東大生はただの気まぐれな「侮辱」ではなくて、心的外傷として消えない瘢痕を残して結界のような羈絆を刻んだのであり、絶縁するために釘を刺したのである。いつまでも友達だよ、なんて人生の幕間の戯言であるし、世塵に曝される分岐点が来たらリストラは行われる。有村悠さんだって、万が一、本当に万が一だが、東大卒だったりしたら、いろんな人を切り捨てて、アッパークラスの人間関係を築いていたであろう。お誕生会開いたとしても、そこに高卒野郎なんて入れない。パーソナルな社会階級の再編であり、離合集散していく中で、グループ分けをやり直してるのです。高卒の有村さんはずいぶん東大が好きなようだが、Facebookで東大卒と交流しようとしても弾かれるであろう。そんなに東大が好きなら、今からでも東大受験して、東大卒になればいいのではないでしょうか。そうすれば、今まで門扉を閉ざしていた東大卒から賓客としてお誕生会に呼んでもらえると思うし、アッパークラスの見目麗しく教養高い貴婦人からも相手にされるであろう。そういうハイソで差別的なお誕生会にお呼ばれしたいのか、という疑問はあるが、タダのケーキでも食べたいのであろう。
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おそらくやまもといちろうさんを想定した批判であろうが、津田大介がこのところ、ヤフージャパンの個人ブログの在り方を問題視するツイートをしている。

わたしはかつて、zenhiteiというハンドルで「2ちゃんねる研究」というサイトをやっていた頃、やまもと氏の言動にずいぶんミスディレクションしてもらったので、あまり関わりたくないのであるが、それは別として、このヤフー問題は取り上げておこう。
これはやまもと氏への批判ではなく、ヤフージャパンへの批判である。

「有識者・専門家がニュースに切り込む」というコーナーがヤフー公式に設けられているわけである。
つまりヤフーの方で「有識者」もしくは「専門家」と明確に謳っている。
ヤフーが厳選した有識者・専門家であるということだ。

言論の自由は人間にとって何よりも大事ではあるが、だからこそ、紛らわしいこのコーナーには疑問がある。
日本ではネットの中心と言っていいヤフーが公認した専門家が、ヤフーの保証書付きの情報を書いているように思えてしまう。

だいたいブログなんて、断片的な情報を想像で継ぎ接ぎして書くものである。
公益通報者保護法というのはあるにしても、内部事情を知っている人が真相を書いたら解雇である。
真相を知ってる人はブログを書けないというジレンマである。
それはそれで問題はなく、真相を知らないわれわれが好き勝手に書くのがブログであるから、ヤフー公式で変なコーナーを作ってほしくない。
ジャーナリストとして取材して確たる事実を掴んだのなら、それはブログではなく、自信を持って、ニュース記事として出せばいい。
ニュース記事だと銘打てないのなら、それはあくまで想像で書いた記事なんですよ。

われわれは森羅万象を知っているわけではないので、この世界は想像の継ぎ接ぎのゲームでもある。
そういう推理ゲームにヤフーが入ってきて、しかも「有識者・専門家」とか謳って、ややこしいことにされるのは、かなり疑問がある。
ヤフーは「ニュース記事」だけ扱えばいい。
ニュース記事と名乗れないブログ記事は、個人がネットの片隅で勝手に書けばいいのであり、ヤフー公式に載せるべきではないです。
遊んでいると言われる状態でも、いわゆるリア充として青春を謳歌するようなものもあれば、腐って怠けている状態のこともある。
腐っている状態を「遊んでる」と言われても、なんか違和感があるわけである。
まったく楽しくないのになぜ「遊んでる」と言われなければならないのか、という疑問である。
とはいえ、時間を無駄にしているという点においては、繁華街で夜遊びして美人とセックスするのと、鬱々と空閨を託つ眠れない夜を過ごすのは同一である。
セックスしている人間と鬱々している人間が本当に同一のわけはないが、時間を無駄にするというのは、一括りにされて同一の罪状を問われて然るべきなのだろう。

それに、本当に同じという気もするのである。
「ヒトラーと同じ」というような誇張表現のレトリックがあるが、そういう誇張表現ではなく、繁華街で遊ぶのも、鬱々と部屋で時間をムダにするのも、自己の真実から遠いという点において同じである。

本当にやりたいことを見いだし、自らが辿り着くべき山紫水明の地を想見し、それを篋底に秘めている人間からすれば、繁華街で泥酔して暴れるとか、あるいはセックスしたとしても、それさえ程度が低い快楽であり、自らの決然たる歩みを止めようとする悪魔の誘惑でしか無い。

では、何も見出さないまま、夜中に鬱々と空閨を託っている人間はどうなのか。
ただ単に不細工だからリア充方面にいけないだけ、ということもあろうが、サボるという消極的な自由に耽溺しているのである。
サボタージュは楽しくはなく、腐って鬱々していて辛いのは間違いないが、義務を懈怠して虚無に遊弋する自由に、闇夜ならではの楽しみが一欠片もないとは言えまい。
こういうまさに腐った自由は、我が世の春を楽しむこととは対極だが、サボタージュすることで、あまりにも不完全ながらも、主体性を回復しているのである。

腐っていても何にもならないから、生きよう!と結論付けることは容易いが、これも民主党の公約のようなもので、うわべだけ綺羅びやかな文言を止処無く記述するのは造作無いことだが、自己啓発本のように糞の役にも立たないので、訝しげな解決法は提案しない。
歴史上の天才であれ、その人生の途次において腐って過ごした悩める端境期はあるだろうが、誰もがベートーベンの顰みに倣うことが出来るわけではないし、おそらく大半の人は、その煩悶から何も発見できない、もしくは発見するべきものを何も持ってないから、死ぬまでその怠惰に沈殿するしかない。
https://twitter.com/harukazechan/status/777998886145175552
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https://twitter.com/harukazechan/status/777999998835265537
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ネットで傷ついたと大袈裟に芝居してみせる点で類友になり得る人材と見なしたのであろう。
類友としてはすでに岡田斗司夫や中川翔子や乙武と多士済々たる面々を失っているだけに、新戦力として目をつけたのである。

すでにはるかぜも高校生。
子どもの特権が使えないし、そう簡単にはいくまい。

はるかぜはファンがほとんどいないのが実情であり、「ネットの中傷はひどい」とか共感してくれる偽善者しかいないから、同情を引いてもまったく金にならない。
一銭もかからない応援リプならしてくれるが、金が掛かる応援はしない。
かと言って、ファンを増やせるわけでもないから、もう取り戻せない嘘くさい文化人路線に復帰したいと考えることもあるだろう。

遅かれ早かれ詰むことはわかっていたし、類友がことごとくスキャンダルで堕ちていったので、手のうちようがなく、ひとまず北条かやに接近しようとしてるのだろうが、すでにはるかぜが高校生だから人権エリートとしての利用価値がないというのが大きく、北条かやがここに飛びつくことはないであろう。
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