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2016.11.15
他人と他人を超えられないとしても
もはや政策とかどうでもよく、偽善が世界地図を覆い尽くし、人類を窒息させていることが最大の懸案であったのだし、政治的正しさという怪物を倒すためなら、それこそ血塗れになるのも厭うべきではない。偽善に悩まされる愁傷に終止符が打たれるのなら、世界を破壊してくれても構わない。実際は、ヒラリーという守銭奴のほうがビジネスとして戦争をやる懸念もあるし、トランプは意外と安全だと思うが、ともかく人間が生々しさを取り戻すことによって血腥い瘴気が漂っても痛痒はない。人間が福祉の対象でしかないのであれば、マイノリティは見捨てられたほうが望ましい。もしくは福祉で悦んでいるマイノリティは、人権という無法地帯での堕落を恥じるべきである。人権という思想警察は膨れ上がり続けているが、この偽善を撃たなければ人間が生きている意味がなくなってしまう。われわれは他人としてしか存在できない。他人の前では他人だ。20年ほど前、インターネットの普及で「自分」を開き示せると期待されたが、この幻想はひとまず潰えていた。有象無象がゴミみたいな「自分」を繋げてもどうにもならないことは、経験的に示されていた。マスゴミに代弁されるだけの一般的な他人を超えて殴り書きしたところで、ゴミはゴミだった。とはいえ、よそよそしい一般的な他人ではなく、もっと本音に踏み込んだ他人となるための素地は出来つつあった。われわれは他のネットユーザーとつながって群生動物となることは望んでいないが、他人と他人との関係が、儀礼的、もしくはマスメディアや人権団体にコントロールされることも望んでいない。ドナルド・トランプという偉大な人間がアメリカ大統領に選ばれた。トランプ支持を公言するだけで社会的に終わってしまうのに、当選したのである。大手メディアがトランプの当選を阻止しようと万策を尽くしたのに選ばれた。これがネットの力であるのは論を俟たない。これまで役に立たないと思われていたネットの力が、はじめて世界を変えたのである。やはりトランプという特異点あってこそ、である。有象無象が群れても無駄だが、ドナルド・トランプのような人物が現実で行動すれば、われわれはそれを支援することが出来る。もちろん投票用紙という弾があってこそ、この偽善的な社会を撃ち抜くことが出来たのだし、たやすく他のケースに適用は出来ないが、人権社会として完結したとされる人類史が、この世界没落体験を経て、叙事詩として新しい事跡を刻んだのである。果たして悪魔に憑かれているのはどちらなのか、その正答を記すのは差し控えるが、偽善という既製品の仮面を被らされるくらいに人間を蝕むものはないのであるから、あけすけな世の中に立ち返ろうとするトランプ旋風は、仮死状態の人間が篋底に秘めていた魂に息吹をもたらした。普段の上っ面だけの「他人」を演じることから逃れる機会を与えられたのだ。マスゴミという中間業者を排して、われわれが新たな他者となるのは容易くないし、トランプがアメリカの田舎を遊説して回ったオフラインの活動も大きいが、われわれも、新しい団結の仕方を学習したと言える。他人としてしか存在し得ない人間のさだめは変えられないが、政治的正しさを強要されてきた人たちがそれを投げ捨てたのである。真なる自己回帰であるとは言うまいし、そんなものはありはしないだろうが、少なくとも偽善的な正しさに黙らされてきた自分の殻を破り、トランプ支持者として、言いたいことは言うという人間の根本に立ち返ったのである。
2016.11.13
ヤフーニュースを見るのをやめられないのか
人生には何の目的もなくただ「適応」だけが求められている。
われわれが時代性に囚われているのは、他人が見ているものはとりあえず見ておかないと適応できないからである。
他人が見ているものを見ていないとなると、頑固な変わり者であるか、もしくは生まれつきの自閉ということになるわけである。
だからわれわれは適応するために、他人が見ているものを一生懸命追っている。
われわれがヤフーニュースを見ているのも、他人が見ているからであり、お互いに「他人が見ているから」という理由でチェックしているわけだ。
ただ適応するためであり、ヤフーニュースが好きなわけではない。
このところ、ヤフーニュースの自前の記事が目に余る。
ヤフーが集めてきた専門家・有識者に記事を書かせ、それが頻繁にヤフートップに載るわけだ。
その有識者の経歴はたいていが自称である。
蓮舫の国籍でさえ謎なのだから、他人のプライバシーには踏み込めない。
「プライバシーは大事だ」というと誰もが賛同するのだろうが、御自分でプロフィールに書いていることもプライバシーに含まれるらしい。
自分でプロフィールに書いてることについては、プライバシー権がないと考えるのが妥当だとわたしは思うが、これはわたしが思っているだけであり、そういう法的根拠や社会通念はない。
ともかく御本人がプロフィールに書いてることもプライバシーだという嫌な世の中なので、それをチェックすることすら出来ないし、ヤフーの「専門家・有識者」が誕生してしまうわけだ。
嫌なら見るな、というが、こういうのは集団で見捨てないと意味がない。
それなりにまとまった人数でヤフーニュースを見捨てない限り、あのインチキな「専門家・有識者」の記事を読まされる。
われわれが時代性に囚われているのは、他人が見ているものはとりあえず見ておかないと適応できないからである。
他人が見ているものを見ていないとなると、頑固な変わり者であるか、もしくは生まれつきの自閉ということになるわけである。
だからわれわれは適応するために、他人が見ているものを一生懸命追っている。
われわれがヤフーニュースを見ているのも、他人が見ているからであり、お互いに「他人が見ているから」という理由でチェックしているわけだ。
ただ適応するためであり、ヤフーニュースが好きなわけではない。
このところ、ヤフーニュースの自前の記事が目に余る。
ヤフーが集めてきた専門家・有識者に記事を書かせ、それが頻繁にヤフートップに載るわけだ。
その有識者の経歴はたいていが自称である。
蓮舫の国籍でさえ謎なのだから、他人のプライバシーには踏み込めない。
「プライバシーは大事だ」というと誰もが賛同するのだろうが、御自分でプロフィールに書いていることもプライバシーに含まれるらしい。
自分でプロフィールに書いてることについては、プライバシー権がないと考えるのが妥当だとわたしは思うが、これはわたしが思っているだけであり、そういう法的根拠や社会通念はない。
ともかく御本人がプロフィールに書いてることもプライバシーだという嫌な世の中なので、それをチェックすることすら出来ないし、ヤフーの「専門家・有識者」が誕生してしまうわけだ。
嫌なら見るな、というが、こういうのは集団で見捨てないと意味がない。
それなりにまとまった人数でヤフーニュースを見捨てない限り、あのインチキな「専門家・有識者」の記事を読まされる。
2016.11.12
愚痴と発達障害
愚痴というのは、発達障害と関係ありそうな気がするのである。
愚痴っぽいから発達障害だと診断されることはあり得ないが、ただ、なんというか「黙ってられない」という感じや、落ち着きに欠けていそうなところが、多動性を思わせる。
定型発達者であれば、不平不満があっても、それなりに泰然自若とした態度を取ろうとする。
沈思黙考という状態があり、必ずしも言葉に変換しなくても人間は思考が出来る。
意識のリソースは少ないので、そこを雑念で埋め尽くしてはならない。
意識の表層は外部からの入力に使うべきであり、ここを自らの排泄物たる雑念で埋めてはならない。
発達障害者は意識の表面にたくさんの粗末な言葉が遊弋している。
雑念とは言葉の放逸であろうから、それが氾濫して口から発せられるわけである。
そのように決壊して流れ出した思慮の浅い言葉が心地よいはずがない。
人間は脳が中央制御室ではあろうが、おそらく権限はそれなりに身体に分散されていて、たとえば口癖というのは、口が勝手に喋るのである。
だから愚痴っぽい人に「黙ってろ」と言っても無理なのである。
物理的に口を塞げば黙るだろうが、頭の中は言葉で溢れており、それは唇に乗っかって発声されることを求める。
おとなしくしていられないのだから、まさに多動性である。
もしくは最近のネット社会だと、口癖というよりは指の癖で、大量の書き込みをすることもあるだろう。
雑念を奔流させるのはまともな思考とは言い難いし、そういう人間の口は汚物を垂れ流す下水溝である。
それでもくだらないことを言いたいのであろうし、「我慢できない」という脊髄反射であるから多動性と関連付けてもよいであろう。
言葉に変換しない沈思黙考こそが本当の思考力である。
愚痴っぽいから発達障害だと診断されることはあり得ないが、ただ、なんというか「黙ってられない」という感じや、落ち着きに欠けていそうなところが、多動性を思わせる。
定型発達者であれば、不平不満があっても、それなりに泰然自若とした態度を取ろうとする。
沈思黙考という状態があり、必ずしも言葉に変換しなくても人間は思考が出来る。
意識のリソースは少ないので、そこを雑念で埋め尽くしてはならない。
意識の表層は外部からの入力に使うべきであり、ここを自らの排泄物たる雑念で埋めてはならない。
発達障害者は意識の表面にたくさんの粗末な言葉が遊弋している。
雑念とは言葉の放逸であろうから、それが氾濫して口から発せられるわけである。
そのように決壊して流れ出した思慮の浅い言葉が心地よいはずがない。
人間は脳が中央制御室ではあろうが、おそらく権限はそれなりに身体に分散されていて、たとえば口癖というのは、口が勝手に喋るのである。
だから愚痴っぽい人に「黙ってろ」と言っても無理なのである。
物理的に口を塞げば黙るだろうが、頭の中は言葉で溢れており、それは唇に乗っかって発声されることを求める。
おとなしくしていられないのだから、まさに多動性である。
もしくは最近のネット社会だと、口癖というよりは指の癖で、大量の書き込みをすることもあるだろう。
雑念を奔流させるのはまともな思考とは言い難いし、そういう人間の口は汚物を垂れ流す下水溝である。
それでもくだらないことを言いたいのであろうし、「我慢できない」という脊髄反射であるから多動性と関連付けてもよいであろう。
言葉に変換しない沈思黙考こそが本当の思考力である。
2016.11.11
性器はなぜグロいのか
あらゆる対象はわれわれにとって人間的な現象であるから、その好悪は本能に根ざしたものであろうし、美しい・醜いという判断も、現象世界の演出のひとつである。
生物が誕生する前から、物体の美醜が決まっているはずがない。
そもそも物体を視覚で捉えるのも生物ならではの方式である。
美醜の判定基準は生物の本能でしかなく、そしてこの感覚こそが自分なのである。
であるからして、性器がグロいのも、そう設定されているのだろうし、その判断は「自分」の判断となる。
誰が人間を設計したのか知らないので、設計者に取材することは出来ないが、おそらく、性器そのものに価値があっても困るのである。
おまえらみたいに不細工な男のチンコに価値があるとしたら差し障りがある。
チンコという野蛮でグロテスクな兵器をぶら下げて許されるのはイケメンだけである。
あまりチンコとかマンコとか連呼するのも何なので、長広舌を振るうのは避けるが、縷々と綴らずとも理解されるであろう。
性器そのものに価値はない、というだけである。
女はなぜ若いだけでチヤホヤされるのかと言えば、これはおっぱいが性的な意味であり、その張りのある弾力性がとても魅惑的だからであろう。
では、40歳のおばさんのおっぱいを見てどう思うか、これは言うまでもない。
たぶん性的関心が若い女に向かいやすいように設計されているのだ。
われわれは性的魅力を持って(もしくは持たずして)存在しているのだが、性器はグロテスクなので、それ以外のところが美しくなければならない。
生物が誕生する前から、物体の美醜が決まっているはずがない。
そもそも物体を視覚で捉えるのも生物ならではの方式である。
美醜の判定基準は生物の本能でしかなく、そしてこの感覚こそが自分なのである。
であるからして、性器がグロいのも、そう設定されているのだろうし、その判断は「自分」の判断となる。
誰が人間を設計したのか知らないので、設計者に取材することは出来ないが、おそらく、性器そのものに価値があっても困るのである。
おまえらみたいに不細工な男のチンコに価値があるとしたら差し障りがある。
チンコという野蛮でグロテスクな兵器をぶら下げて許されるのはイケメンだけである。
あまりチンコとかマンコとか連呼するのも何なので、長広舌を振るうのは避けるが、縷々と綴らずとも理解されるであろう。
性器そのものに価値はない、というだけである。
女はなぜ若いだけでチヤホヤされるのかと言えば、これはおっぱいが性的な意味であり、その張りのある弾力性がとても魅惑的だからであろう。
では、40歳のおばさんのおっぱいを見てどう思うか、これは言うまでもない。
たぶん性的関心が若い女に向かいやすいように設計されているのだ。
われわれは性的魅力を持って(もしくは持たずして)存在しているのだが、性器はグロテスクなので、それ以外のところが美しくなければならない。
2016.11.11
トランプ当選に怒り狂うアメリカのセレブ
トランプの勝利に悲憤慷慨するアメリカのセレブたちの馬鹿馬鹿しさは憫笑するしかない。
トランプに怒り狂っている正しい姿を見せないとまずいのであろうし、そうしなければ社会的生命が絶たれてしまう。
政治的正しさのアリバイ作りのために怒り狂っているわけだ。
こいつらの人権芝居には嘔吐するしかないが、芝居ではない本音の部分もあるのだ。
あいつらは一人一票の民主主義を否定している貴族なのだ!
自分が特権階級であるからこその怒りなのである。
普段から何百万票も持っているようなライフスタイルであるから、その特権階級の思考が染みついていて、トランプの当選を認めまいとする阿呆な言動が出来る。
貴族しか投票できないとかいつの時代だ!
そういう上位1パーセントの感覚が叩き潰されたのが今回の大統領選である。
あのアメリカのセレブ連中は、貧困層に投票させるべきではないとか思っているのであろう。
社会的にレベルの低いひとたちの投票が、ヒラリーという絶対正義を枉げたと思っているわけだ。
特権階級に善導されまいとする人間が、トランプに投票したのである。
その愚民を嘲笑する言説はこの一年くらいメディアで垂れ流されてきたが、彼らは自らの信念を貫きトランプに投票した。
冗談でトランプに投票したのではなく、特権階級への深い怨恨があるから投票したのである。
そう考えてみると、まるで選挙が不正であるかのように怒り狂っているアメリカのセレブの醜悪な姿も、一人一票だと考えてない貴族として、その往生際の悪さを歴史に描き出されるためには必要なのかもしれない。
トランプに怒り狂っている正しい姿を見せないとまずいのであろうし、そうしなければ社会的生命が絶たれてしまう。
政治的正しさのアリバイ作りのために怒り狂っているわけだ。
こいつらの人権芝居には嘔吐するしかないが、芝居ではない本音の部分もあるのだ。
あいつらは一人一票の民主主義を否定している貴族なのだ!
自分が特権階級であるからこその怒りなのである。
普段から何百万票も持っているようなライフスタイルであるから、その特権階級の思考が染みついていて、トランプの当選を認めまいとする阿呆な言動が出来る。
貴族しか投票できないとかいつの時代だ!
そういう上位1パーセントの感覚が叩き潰されたのが今回の大統領選である。
あのアメリカのセレブ連中は、貧困層に投票させるべきではないとか思っているのであろう。
社会的にレベルの低いひとたちの投票が、ヒラリーという絶対正義を枉げたと思っているわけだ。
特権階級に善導されまいとする人間が、トランプに投票したのである。
その愚民を嘲笑する言説はこの一年くらいメディアで垂れ流されてきたが、彼らは自らの信念を貫きトランプに投票した。
冗談でトランプに投票したのではなく、特権階級への深い怨恨があるから投票したのである。
そう考えてみると、まるで選挙が不正であるかのように怒り狂っているアメリカのセレブの醜悪な姿も、一人一票だと考えてない貴族として、その往生際の悪さを歴史に描き出されるためには必要なのかもしれない。
2016.11.10
ポール・ライアン下院議長はどうなるのか

共和党のリーダーと言えばポール・ライアン下院議長だが、10月上旬にトランプの卑猥な発言のテープが公開された時に、彼は「うんざりだ」とトランプを切り捨てて袂を分っているわけである。
そしてトランプも、ポール・ライアンは弱くて機能不全のリーダーとdisって、shackles(束縛)がなくなったから俺は自由にやれると啖呵を切ったのである。
こういう流れの中でトランプが大統領に当選したわけだが、これからポール・ライアンが下院議長がどうなるのか注目される。
まだトランプが大統領に決まったばかりなので、あらゆることは不透明である。
英文記事も読んでみたのだが、さしたる情報は出ていない。
ポール・ライアンが主流派のリーダーとは言っても、それとは別にティーパーティーの勢力もある。
代表的なのはテッド・クルーズである。
副大統領候補、いや、正式に副大統領となるマイク・ペンスは共和党内で非常に人望がある温厚な人間ということらしいので、これからはマイク・ペンスの調整次第である。
マイク・ペンスはポール・ライアンの強い推薦で副大統領候補になっているから、当然つながりはある。
またテッド・クルーズがトランプ支持に回ったのも、クルーズとマイク・ペンスがティーパーティー仲間であり、ティーパーティーが移民を憎悪しているからだと思われる。
いずれにせよ、新自由主義と人権主義の据わりの悪さが、トランプ人気を生み出したのであろうし、さらにアメリカ大統領にまでなるのだから、人権が利権となっている現代社会の病が大きなテーマとなるであろう。
歴史は終わったと言われていたが、人権が思いのほか厄介であり、人類の桎梏となっている。
こういう時代の危機というべき時には偉大な人間が出て来るものなのである。
2016.11.08
他人をよけるために行きたくない方向に行く
たとえばスーパーとか、もしくはダイソーとかドンキホーテのような狭い店でありがちだが、本当はジュースを買うのが目的なのだが、「他人をよける」ために進路を変更した結果、お菓子のコーナーに行ってしまうことがある。
ジュースを買うのが目的なのだから、ただひたすらジュースのコーナーに猪突猛進するという考えもあるだろうが、たいていの人はそれはしない。
ジュースのコーナーに行くことより、他人をよけることを優先する。
もしくは、他人をよける必要(ぶつかるのを避ける必要)がなくても、ジュースのコーナーに人がいれば、なんとなく敬遠することもある。
そいつがいなくなるまでお菓子のコーナーで時間を潰す。
たとえばペプシコーラを買うと決めていれば、人がいても、そっちに行って速やかにペプシコーラを手にとってカゴに入れてささっと立ち去ることもあるが、どのジュースにするか決めてないときは、遠慮してしまう。
なんか他人とパーソナルスペースが被った状態で思案するのが嫌だからである。
もしくは逆の立場でもなんか嫌である。
相手が目的の商品を取ってすみやかに立ち去ってくれればいいが、そうでもないとなると、どうも居心地が悪い。
本屋さんとかでも、自分が探している分野の棚の前に人がいたら、そいつが消えるまで、他のどうでもいい本を眺めていることがある。
雑誌のコーナーなら立ち読みで並んだりするのが当たり前だから遠慮はしないが、普通の書籍だと、他人のパーソナルスペースに入り込みたくないという心理が働く。
これにしても、本屋が混雑していたら、いわば満員電車のように、他人への無関心で対応するであろうし、「お前に関心があるから近くにいるのではない」という空気に切り替わり、そばに他人がいるのを気にしないようにするわけである。
ジュースを買うのが目的なのだから、ただひたすらジュースのコーナーに猪突猛進するという考えもあるだろうが、たいていの人はそれはしない。
ジュースのコーナーに行くことより、他人をよけることを優先する。
もしくは、他人をよける必要(ぶつかるのを避ける必要)がなくても、ジュースのコーナーに人がいれば、なんとなく敬遠することもある。
そいつがいなくなるまでお菓子のコーナーで時間を潰す。
たとえばペプシコーラを買うと決めていれば、人がいても、そっちに行って速やかにペプシコーラを手にとってカゴに入れてささっと立ち去ることもあるが、どのジュースにするか決めてないときは、遠慮してしまう。
なんか他人とパーソナルスペースが被った状態で思案するのが嫌だからである。
もしくは逆の立場でもなんか嫌である。
相手が目的の商品を取ってすみやかに立ち去ってくれればいいが、そうでもないとなると、どうも居心地が悪い。
本屋さんとかでも、自分が探している分野の棚の前に人がいたら、そいつが消えるまで、他のどうでもいい本を眺めていることがある。
雑誌のコーナーなら立ち読みで並んだりするのが当たり前だから遠慮はしないが、普通の書籍だと、他人のパーソナルスペースに入り込みたくないという心理が働く。
これにしても、本屋が混雑していたら、いわば満員電車のように、他人への無関心で対応するであろうし、「お前に関心があるから近くにいるのではない」という空気に切り替わり、そばに他人がいるのを気にしないようにするわけである。
2016.11.06
LINE無料電話のためにスマホ月額8000円
子どもが学校に行くとして、大半はなんの疑問も感じないわけだ。これは社会的適応力の高い子どもなら当然のことである。「なぜ学校に行くのか」と疑問を呈する子どもがいるとすれば、それは社会的不適応と言うしかないし、不登校の理由を探しているのだろう。不適応は格差問題である。個体差によって脱落すると不適応になるだけであり、適応するのが人間存在の基本である。社会常識でノルマとされていることを、やらない理由はたくさん思いつく。究極的には理由がないのだから、やらない理由をたくさん考えて、究竟たる楼閣を築き上げるのは可能だが、その理屈のほとんどは愚見であり、人間社会への幼児的な疑問なのである。やらない理由を考えているよりは、何も考えず素直に適応したほうがいいのである。とはいえ、大衆が雲霞の如く群れをなして適応した結果が、とてつもなく悪いこともある。何も考えずに適応するという人生の最適解が、時として過ちを引き起こす。バブル経済とかリーマンショックなどはその代表例であろう。そして最近で言えばLINE依存である。LINEに盲従した結果として、スマホの維持費が高止まりしている。Spotifyに980円課金するだけで、わたしは幾度も眠れぬ夜を煩悶し、不定愁訴にさいなまれた。とりあえず清水の舞台から飛び下りる心境で一ヶ月だけ課金したが、有料サービスへの課金は心理的負担が大きく、無料こそが大正義として適応しているネットユーザーからは嘲笑されるに違いない。ネットは無料というのが絶対的な戒律である。電話の方もLINEが無料だということで、ペストのように猖獗を極めた。そのLINE依存の結果として、スマホは月額8000円が相場であるし、LINEのためにこれを払わなければならない。販売奨励金の撤廃で安くなるはずが、ただ単に高くなったのは、櫻井翔の父親が賄賂を貰ったのだと思うし、ドコモやauやソフトバンクのお歴々と宴を愉しみ、民衆の膏血を絞る密議を旦那衆と繰り返し、妓女をたくさん抱かせてもらったからだし、天下りで10億円は稼ぐのだろうが、とはいえ、根底にあるのはLINE依存である。ガラケーなら1000円で維持できるのに、8000円のスマホを選択するのは無料のLINEを使っているからである。そのドコモのガラケーもなんか無くなるそうであり、津田大介みたいなコミュ強がLINEに張り付いている限り、われわれは抵抗のしようがない。津田はメルマガは有料のくせして、WinnyとかLINEとか、そういうのは無料で使う。LINEさえなければ、金がない若者は8000円のスマホから1000円のガラケーに移行すると思うのだが、いわばLINEによって人間関係を人質に取られているから、移動できないのである。LINEが無料だと喜んでいたら、肝心のスマホの維持費を高額にされて裸城にされたのが昨今の素寒貧の若者である。8000円払って四六時中コミュ強の顔色を伺っているのだ。LINE依存が神経毒のように回っているから、キャリアが強気の価格設定で攻めても、愚衆は鞭打たれるのみであり、スマホから離脱しないので、ドコモはガラケーを切ろうとしているのである。
2016.11.04
隣近所のステレオの音は許されていた
今だと考えられないが、30年前だと、それなりに大きなスピーカーのステレオが一家に一台あった。
かなり所有率は高かったはずで、ミニコンポの類さえ無い家庭は珍しかった。
オーディオマニアというのもたくさんいた。
稀少なマニアというよりは、スピーカーの音質にこだわる人のほうが普通だった。
当然ながらステレオで音を出すと近所には聞こえるのだが、あまり近所迷惑とは認識されなかった。
おそらく30年前だと近所の人とだいたい顔見知りで家族構成とか細かいプライバシーまで知っているから、そういう距離感の問題であろう。
たとえば田舎の一軒家に住んでいて、隣の部屋で家族が大きな音で音楽を聴いていたとして、おそらくそんなに迷惑には思わない。
これがアパートの隣の部屋だと殺意が湧くレベルである。
やはり迷惑にもいろいろあって、自分が軽んじられているのが嫌なのである。
隣近所と親しい時代なら、というか本当に親しいとは限らないが、近所付き合いがあり挨拶くらいはする関係であるから、うるせえなと思いつつも、たいしてステレオの音など気にならなかったが、アパートの隣に誰が住んでるのかわからない時代になってから、騒音を出されると、自分が愚弄されていると感じるようになったのである。
だから自らの尊厳のために抗議に行くこともあるわけだ。
ステレオの音はたいした問題ではないが、その無神経さが許せないのである。
別に他人を軽んじる目的で大きな音を出しているのではないが、やはり知らない相手に騒音が届いてしまうと、いわば領域を侵犯したことになるし、騒音でうざい思いをさせるだけでなく、その気遣いの無さに殺意だって湧くだろう。
かなり所有率は高かったはずで、ミニコンポの類さえ無い家庭は珍しかった。
オーディオマニアというのもたくさんいた。
稀少なマニアというよりは、スピーカーの音質にこだわる人のほうが普通だった。
当然ながらステレオで音を出すと近所には聞こえるのだが、あまり近所迷惑とは認識されなかった。
おそらく30年前だと近所の人とだいたい顔見知りで家族構成とか細かいプライバシーまで知っているから、そういう距離感の問題であろう。
たとえば田舎の一軒家に住んでいて、隣の部屋で家族が大きな音で音楽を聴いていたとして、おそらくそんなに迷惑には思わない。
これがアパートの隣の部屋だと殺意が湧くレベルである。
やはり迷惑にもいろいろあって、自分が軽んじられているのが嫌なのである。
隣近所と親しい時代なら、というか本当に親しいとは限らないが、近所付き合いがあり挨拶くらいはする関係であるから、うるせえなと思いつつも、たいしてステレオの音など気にならなかったが、アパートの隣に誰が住んでるのかわからない時代になってから、騒音を出されると、自分が愚弄されていると感じるようになったのである。
だから自らの尊厳のために抗議に行くこともあるわけだ。
ステレオの音はたいした問題ではないが、その無神経さが許せないのである。
別に他人を軽んじる目的で大きな音を出しているのではないが、やはり知らない相手に騒音が届いてしまうと、いわば領域を侵犯したことになるし、騒音でうざい思いをさせるだけでなく、その気遣いの無さに殺意だって湧くだろう。
2016.11.03
読まない本は捨てる
人間は所有することで存在するのだが、所有は権利だけでなく義務も伴う。自我の荷物とも言えるから、本当に必要なものでなければ、身軽になるためにどんどん捨てた方がいい。金の延べ棒が積まれているならいいが、読まない本がたくさんあるとか、着ない服がたくさんあるとか、これは重力の魔であり、足首に絡みつく桎梏と言うべき泥土だ。読まない本を読むかもしれないし、着ない服を着るかもしれないが、だが、そのような義務を指折り数えてうんざりするくらいなら、捨てた方がいい。読まれる機会を逸した本が、再び手に取られるべき好機を迎えて鮮度を取り戻すのは稀である。現在の自分に必要でなく、将来もたぶん必要でないのに、これらを損切りせずに取っておくのは人間を蝕む。積んでる本を読んでも読まなくても購入した代金は戻らない。タスクの順番待ちで滞っているのだから、詰まっているところを捨てれば気が軽くなる。人生は回避できない義務というものもあるが、積んでる本からの催促がめんどうで読書が辛いとか、そういう些事であれば、その本を捨てて義務を減らしたほうがいい。新しく興味を惹く書籍があっても「他に積んでるのがたくさんあるからなあ」と、その読みたい本を断念するのであれば、あまりにも愚かである。読むことで書籍の購入代金を回収するという発想は間違いであるし、そういうバランスシートで動くべきではない。当たり前だが、3000円で買った本を読んだら3500円もらえて、500円の利益になるわけではない。放蕩や奢侈への歯止めとして「元を取る」という倹約的な消費者心理も教え込まれるのだが、実際は買ったが最後、読んでも捨てても同じであるし、時間のほうが遥かに貴重なのだから、貧乏性は卒業しなければならない。わざわざ物理的に捨てずとも、其の本の存在を忘れ去ることで対応してもいいが、そうやって未練がましく惜しむからには、どうしても義務の羅列の中に紛れ込んでしまう。所有権を捨てずに心理的義務のリストから外せるならそうすればいいし、そのような心の整理で、もったいないという重苦しさを克服し、この無明の世界に、ひとつも引っ掛かりのない希望が満ち溢れるならいいが、賞味期限が切れた本は捨ててしまうのが最も手っ取り早いのである。