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悪事を犯しても無罪というと、病識がない精神病の人というイメージである。
異常者だからお咎めなしということだ。
だが、その一方で、正常者だから無罪ということもある。
これは法廷で無罪になるのではなく、そもそも裁判にならないし、警察も来ない。
他人を迫害するのは正常な行為であり、これは容認されている。
正常者だからこそ無罪なのである。
迫害される異常者、もしくは異端者は復讐としてテロルを夢見るかもしれないし、ごく稀に実行されるから、そういう反社会的な人間を排除する正常行動とも言えるが、ともかくそういうことである。

迫害という正常行動をどう扱うかの話だが、これは社会的に認められていると言うしかないのである。
正常だから構わないと結論付けるしかない。
迫害は集団でやるから、罪が分散するのもあろうし、民族浄化のようなものでなければ、異常者のテロリストのような大惨事を巻き起こすこともない。
迫害とは、雑に言えば「追い出す」という行為であるから、これが何の罪に該当するのかよくわからない。
もちろん追い出す過程で、いろいろな刑法に触れているとは思うのだが、そのあたりは看過されている。
たとえば小突き回す行為があったとして、それに暴行罪を問うのは可能であろうが、ともかくテロリストの行うことに比べたら微罪であるし、それよりひどくても、だいたいは私刑として認められている。
天下りする役人だって正常者であるし、彼らが利権の確保のために嫌がらせをするとしても正常行動である。
他人に嫌がらせをするから異常者というわけではない。
われわれは津田大介のような野生の生き物に勝つことは出来ないが、普段は世渡り上手で器用なだけに、ここ最近の狂疾というべき発狂にはいろいろと考えさせられる。コミュ強として金も女も手にした男が、たかが知性が足りないというだけで錯乱しているのだ。津田大介も43歳であるから、ロンブー淳とかダウンタウン松本のように、後半生でこの病気に罹ったらしい。人生の景品はすべて手に入ったはずなのに、手段にしか過ぎない、というより、手段にすらならない知性を欲しがるのである。アメリカ大統領戦も、票を数え直すために億単位の手数料を寄付で集めたとか妙な話になっているが、ポリコレにとってヒラリー敗北は極めて都合が悪いのである。これから津田大介はファッションとしてポリコレは使えない。なぜ差別はよくないのか、たとえば、なぜわれわれは戦前のナチズムに負い目を感じているのか、という問題を根本から説明しなければならないのである。ポリコレは馬鹿でも使える武器として機能してたのに、これからはいちいち説明しないといけないので、いわば裸城になった状態。100年前のことに法的責任は問えまいから、人権問題は人権団体の脅迫で立ち現れてくるのだが、ポリコレの旗色が悪くなったので、人権団体の正義にも説明が必要になった。津田大介の頭のレベルで、人権問題、つまり、なぜ法的に時効である問題を延々と遡るのかというのは、なかなか説明できまい。現在で言えば、われわれは在日朝鮮人から被害に遭っているのに、これはわれわれが生まれてくる前に彼らを差別したらしいので、何かしら民族的な責任があるらしい。ポリコレは地球市民であるはずなのに、民族というアイデンティティを最大の根拠にしているのが謎である。これからは、ポリコレを使うたびに説明が必要になるので、ポリコレおじさんたる津田大介は詰んだのである。いずれ、どれだけたくさん美人を抱いたとか、コミュ強らしい反撃をわれわれにしてくると思われる。
われわれは同じ現象世界を生きており、言葉は現象世界を記述するツールと言えるから、言葉は現実の人間や社会を書き写せるし、「悲しい」とか「楽しい」とか感情さえ指し示せる。
とはいえ、どこまで厳密に悲しいのか楽しいのか言い表せないのも確かである。
同じ現象世界の住人として同じ言葉は共有出来ても、限界というのがある。

われわれがこうやって書いている文章でも、ひとつの文だけだと言葉足らずでニュアンスが曖昧なことがある。
だから、誤読されないように、念を押すように書いていくのであり、同じようなことを表現を変えて何度も書くのはそういう理由である。

その一方で、故意に曖昧な発言に終始することもある。
竹下登首相は言語明瞭意味不明とよく言われたが、あれは故意であろう。
首相としてそれだと問題だろうが、一般人であれば、言葉を濁すことは多々ある。
あまりはっきり言うと差し障りがあるから、ぼかした表現にするわけだ。

もしくは、書き手の側で、「どっちでもいい」ということがある。
複数のニュアンスで取られる可能性があるが、どちらでも差し支えないことがある。
それは念押ししないで放置しておくわけである。
もしくは、知識不足による曖昧な記述。
あるいは、神様の仕組みであるとか、テーマが深遠すぎて明確な記述が出来ないこともあろうし、そういう時には、念を押すのを省くのである。
2016.11.25

遺族と家族愛

なにかのニュースで遺族なるものが出てくると、いかにも家族愛を背景としたものに思えるが、本来は彼らに愛などなかった。
外敵が発生したから家族愛が生じたのである。
普段は内輪揉めしていても、外敵がいれば一致団結する。
法的にはともかく実態として家族は連帯保証人であり、運命共同体と見なされているから、外敵に侵害されたとなれば決起しなければならない。

普段は家族と折り合いが悪くても、家族が犯罪の被害に遭ったとなれば報復感情が生じてくる。
この報復感情はいわば愛国心である。
ここでは愛国心がよいとも悪いとも言わないが、ともかく、隙間風を熱狂で埋め立てているのであり、普段から内輪で愛があるかどうかは怪しいのである。

運命共同体である家族が攻撃されたら怒るのは当然であるし、外敵に家族が攻撃されたときの怒りというのは誰でもわかるものだから、共感するのは可能なのだが、それと同時に、家族がそんなに普段から愛に満ち溢れているかどうか、現実に照らし合わせて疑問を覚える。
自分の家庭でも知人の家庭でも、あいつら普段からそんなに愛に溢れているか、という話である。
被害の大きさを誇張するために、これまで愛を知らなかった家族が過去に遡って、筆硯を新たにし、綺羅びやかな美しい想い出に書き換えられても困るのである。
こういう美談はいわば神武天皇のようなものであり、実在はしない。
遺族になると家族は、その怒りの礎となる建国神話を求めて、それこそ奇跡の詩人として、悪魔憑きのように愛に貫かれてきた歴史を書き綴るのである。

池永チャールストーマスと鈴木沙彩さんにしてもそうだし、鈴木沙彩さんが清楚だというが、最近の東京でいかにもDQNな女はそんなにいない。
中身がDQNでも黒髪にしていたりするものだ。
鈴木沙彩さんの外見が清楚だとしても、それは最近の流行りであり、この人の中身はDQNである。
DQNとDQNが色恋沙汰でやらかしただけである。
つまり鈴木沙彩さんは元から汚れた女なので、「汚された」というのは偽史である。

いわば集団安全保障として、われわれはお互いの遺族感情を尊重しており、それに乗っかっていくことになっているのだが、やはり普段から家族という集団が愛に満ち溢れているとは言い難いので、遺族がふっかける無理難題にまでお付き合いする必要はないと思われる。
福知山の露天商が火事を出した時に、問題の露天商をスルーして、金がありそうな商工会議所に遺族が殺到した件などは、彼らの暴徒としての行動に鼻白むくらいの自由はあるだろう。
2016.11.23

死の重大性

悪夢なら覚めて欲しいという言い方をすることがあるが、現実の人生は、なんとなく終わることはない。なんとなく生まれて、なんとなく存在しているのが人間であるはずだが、死というのは「なんとなく」ではないからである。死という最も重大なポイントまで生きながらえる必要があり、人生設計に忙殺され、なんとか寿命まで漕ぎ着けて死ぬわけである。突然の大災害で、不慮の死を遂げることもあろうが、では、死にたい人がそうやって死ねるかというと、やはりそう簡単に不慮の死に巻き込まれることは出来ない。直線的な時間の中で何らかの義務を与えられて存在することにおいて、これは夢も現実も同じである。試験の夢を見てヒヤヒヤするとか、そういうのは、まさに現実と同じ感覚現象である。だが、夢という寸劇のひとつひとつには連続性がないし、もしくは、ひとつの寸劇の途中でさえ、因果律がすり替わることもある。現実というのは、それぞれの寸劇が、動かぬ過去として連続性を持ち、禍根を残しながら、因果を絶対的に律している。現実の因果を貫いているのは死の重大性である。どうせ死ぬのになぜそこまで惜しいのか謎であるし、実際のところ、今から眠りについてその途中で心臓発作で死ぬなら有り難いという人も少なからずいるだろう。生への執着心はかなりの個人差があり幅は広いはずなのだが、他者として他者を観測する限り、他者の死は重大であり最大の罪であり、正解は一つである。自らの死は観測できないが、他者の死は観測できるので、死を重大事件として扱うしかない。だから、なぜか知らないが、たいして生きたくない人まで、他者のために寿命まで生きているのである。この文脈での他者は、家族とか大事な人に限らないし、むしろ世間一般の圧力である。早く死んで楽になりたいという願望の持ち主でさえ、他人の死は許さないのである。これは半ば儀礼の問題であるし、実は他人が死んでもたいして悲しくなかったりするし、そもそも赤の他人が死んで本当に悲しいと思うのも変だが、「早く死ねておめでとう」と大っぴらに発言することは出来ないので、もっともらしく死を悼んでみせるのだし、不謹慎なことを言うやつがいたら叩き潰すのであるが、そうやって他者として死の重大性を見ているうちに、なんで人間はそんなに生きたいのか、という自己の疑問は有耶無耶になり、寿命まで生き延びるために、人生設計に忙殺されていくのである。
自動車という殺人兵器を運転するからには不安を克服しなければならない。
というより、大半の人は不安がないからこそ運転できる。
人を轢き殺したのではないかと気になって何度も確認してしまう強迫性障害の人が、これを克服して車を運転出来るようになった事例もあるだろうが、大半の人は端から何も考えてないし、人を轢き殺しても差し支えないという立場で運転している、もしくは、その可能性が頭の片隅にすらない。

高所恐怖症とか閉所恐怖症とか、そういうのも、普通の人は馬鹿馬鹿しいと思うわけである。
だが、その普通の人は、なぜ最悪の事態を頭から振り払えるのか、という謎もある。

生活の不安や将来の不安は普通の人でもあるだろう。
人を轢き殺してしまう恐怖で車を運転できないのは病気だが、将来を不安に思うのは正常である。
これを同じ「不安」と呼んでいいのかどうか、という問題だが、おそらく、自動車事故のようなアクシデントと、生活不安のように確度が高い不幸は別枠なのである。
自動車という殺人兵器は平気で運転出来ても、自分の将来はアクシデントではなく、不安定な人は確実に不安定である。
将来が安泰であるか、もしくはお先真っ暗であるのかというのは予測できるので、ランダムな出来事ではない。
確実に暗い未来を馬鹿馬鹿しいと一笑に付することは出来まい。
2016.11.19

失敗と授業料

ただのひとつも失敗を許さないという理想主義があるが、これは確実に人間を蝕み壊死させる愚神礼賛である。失敗して授業料を払うことはいわば貸倒引当金として織り込まなければならない。人生の授業料を一銭も支払わないという姿勢は、やがて悲劇をもたらす。子どもに料理をさせるなら、指の切断とか、火事に気をつけるように言い聞かせれば足りるし、まずい料理を作るくらいは授業料としてカウントしなければならない。まずい料理が出来てしまって、生ゴミとして捨てて無駄になるにしても、コストはたかが知れている。失敗することは確実に勉強になるので、指を切断するとか、全身火だるまになって大火傷とか、そういう大惨事でなければ、まずい料理は作ったほうがいい。理想主義者は、まずい料理を作るのと、全身火だるまになるのが同じだと考えているのである。失敗を見たことがない無垢な人間は、小さな失敗と大惨事の見分けがつかない。これは知性の問題というよりは、自己愛性人格障害の問題と考えたほうがよさそうだが、完全主義的な価値観で目が曇っており、区分けが出来ないのであろう。有村悠さんの母親などはこの手の理想主義者であった。まずい料理を絶対に作らせないように教育した。その結果として、世事にまったく免疫がなく、大惨事ばかり起こす人間が出来上がったのである。大事な客人を迎える時にまずい料理を出してはならないが、そのためには、あらかじめ予行演習として、まずい料理を何度も作って失敗する経験が求められる。有村悠さんと加藤智大が同一人物のように重なって見えるのは、同じ理想主義に感染し、失敗すること自体を認めない淫祠邪教の宗徒として、完全なる黄金郷への最短距離を目指し、平仄を合わせるように生きてきたからだ。艦これの演習に失敗したくらいでディスプレイを破壊するのは、やはり理想主義者だからである。本来ならこの拳は子どもの顔面を打ち砕くために振るわれていたはずだが、今のところご結婚される様子がないので、理想主義が悪疫として連鎖するのが保留されている。いずれご結婚されることがあれば、ゲームでさえ失敗を許さないという理想主義が子どもに押し付けられ、大惨事が繰り返される。
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ももクロがブレイクした頃は、いろんな芸能人がファンだと公言するマーケティングが行われていたわけである。
BABYMETALも海外の大御所(過去にロックスターだったお爺さん)と盛んに写真を撮って、
それを公開するというマーケティング戦略である。

つまり、ベビメタが宣伝してないというのは嘘であって、
実際は海外でのプロモーション活動に力を入れているだけである。
海外では、相場の半額くらいでライブをやってる。
海外の大型フェスのメインステージに出ているが、おそらく金で買ってると想像するのが妥当であろう。
(もちろんカネを払わずに純粋に大抜擢されたのかもしれないが、真相は関係者しか知らない)。
ともかく、ベビメタはプロモーション費用の使い所が海外だというだけである。
外タレ感を出すために、日本国内では故意に宣伝活動してない。

ともかく、他の芸能人から褒めてもらうのが実は重要であり、非常に効果がある。
ハロプロみたいに内輪で褒め合ってるところはだめになってる。
内輪のお世辞はプロモーションとして効果がないから、他の事務所の人に褒めてもらわなければならない。

ハロプロでは最終決戦兵器というか、第二次世界大戦末期の戦艦大和のように最後の希望を託される状態になってきた鞘師里保さんだが、またインチキ臭い道重鞘師の路線にされると困るのである。
これでは縮小再生産でしかないし、今さら27歳のババアに用はない。
あの道重というババアは、どこかで愛人契約が切れてホストクラブの借金が溜まってるのだろうが、景気の悪いハロプロに復帰するよりは、新しいパパを探した方がいい。

鞘師里保さんに関しては、松岡茉優さんという大物のファンがおり、まだ21歳だが大河ドラマに出演したりするなど進境著しい。
グーグルトレンドで橋本環奈や大原櫻子と並べてもそんなに見劣りはしない。
つまり、ももクロとかベビメタのマーケティングの真似をして、松岡茉優さんに鞘師さんを褒めてもらいたいわけである。
というか、すでに松岡茉優さんが勝手にやっているのだが、ただの鞘師ヲタであるから、アップフロントが有効活用しているとはいえない。

松岡茉優さんは鈴木愛理と日出高校で一緒であるが、ゲストに呼んだりしていることからして、おそらく不仲ではない。
特別に親密ではないにせよ、友人と言ってよさそうである。
だから来年6月に℃-uteが解散するので、鞘師と愛理で組んでくれると、松岡茉優さんを利用したステマがやりやすいわけである。
松岡茉優さんはモーニング娘。ヲタでもあるから、道重にリスペクトの感情は表明するだろうが、地下アイドルのババアと、大河ドラマに出ている女優さんでは立場が違いすぎる。
道重さんご自慢のバラエティ能力でも松岡さんの方が優秀であるし、この27歳のババアが、大河ドラマに出ている21歳の女優さんに先輩面して台無しにされても困るわけだ。
これから復活するそうだが、この道重というババアは鞘師にとって邪魔なので、一人で勝手に活動してもらいたいものである。
マツコ・デラックスに関しては、道重が絡んだほうが番組的に面白くなりそうだし、マツコと道重の並びは絵面として面白そうだが、しかしマツコは鞘師個人にも言及してくれるから、どうしても道重が必要というわけではない。
あと、言い忘れていたが、われわれが道重を嫌っているのは、なにしろ歌とダンスがとても下手くそだからである。
鞘師里保さんと同じステージに上がるのはやめてもらいたい。

人間の尊厳は、その人への畏怖の問題である。
この人を怒らせたら怖い、というのが尊厳である。
これを(ニーチェの「道徳の系譜学」を意識して)貴族的尊厳と名付けてみる。

では、そういう貴族的尊厳がない人はどうすればいいのであろうか。
というより、尊厳を奪い取られるというのは、そういうことなのだ。
貴族的尊厳を奪い取られることだ。
つまり「こいつは怖くない」という烙印を押された、ということだ。
そういう怖くない人間にも尊厳はあるが、これは奴隷的尊厳とでも言うしか無く、それは蔑まれるのである。

現在の社会では、身分制度とかないから、普段の生活で奴隷扱いの人間でも、本当の奴隷ではないから法的には立派な尊厳がある。
普段から内輪のルールで馬鹿にされている奴が、たとえばどこかで窃盗の被害に遭ったとする。
こいつは怖くないから無罪とかあり得ない。
あるいは逆に、被害者が普段から会社で「この人は怖い」と怖がられているとしても、その貴族的尊厳を汚したから死刑ということはない。

ただし、家族や学校や会社に警察が乗り込んでいくのも難しいから、内輪の世界ではカーストがあり、ここは貴族的尊厳-奴隷的尊厳で動いている。
だから、「この人は怖い」「こいつは怖くない」というマウンティングが常態化する。

学校のいじめで「こいつは怖くない」という扱いが定着した場合、それは貴族的尊厳を持たない人間として証拠を掴まれたのだから、仕方がないのである。
いじめる側は「俺を怖らせると怖い」と主張するためにいじめてるのである。
家庭や会社でもそういうマウンティングはある。
いじめはよくないとか、単純な言説はまったくの無意味であり、「この人を怒らせたら怖い」とか「こいつは怖くない」という原始的な駆け引きが根っこにあり、学校・家庭・会社まで警察が面倒を見きれないから、大企業でさえ、靴にビールを入れて飲ませるとか、そういう馬鹿なマウンティングをやっているわけである。
そんな習慣があるのは電通だけだ、というわけではあるまい。
代理人に権利を主張してもらうのは、法律知識の問題として専門家に任せる側面が強いわけだが、おそらくそれだけではない。
内輪の世界では、人間というのは、蔑まれており、もしくは畏怖されており、そういうカーストが染み付いている。
絶大なる発言力、もしくは、発言力の欠落である。
だから人間の常識として、当然の主張すら通らないことがある。
つまり、権利主張の前提として、人間の尊厳というのがあるわけだが、これが内輪の論理で破壊されている場合、その肝心の前提が退けられている。
靴にビールを注がれて「俺の酒が飲めないのか」と言われたとして、これがどこかの飲み屋で知らないオッサンに言われたのなら、そのような義理はないと主張できる、というより、そのような蛮行へ殺意を向け、何ら負い目なく怒るのは可能である。
これが内輪の論理の中で「俺の酒が飲めないのか」であるとするなら、それを拒む基礎となる人間の尊厳が破壊されているので、内輪の人間全員を敵に回せない弱さに負い目を感じながらビールを飲むのだ。
もしここでまったく無関係の人間が代理人として登場できるなら、その蛮行への謝罪とか、原状回復を主張できる。
内輪の論理への甘えを切断した上で、常識的な主張が出来る。
戦う必要など無く、その非常識さへ目線を向ければいいだけなのである。
このような内輪の論理を異常性と言うのはたやすいが、閉じられた関係の中では暴力的なマウンティングを行うのは正常であるとも言える。
この世の中の異常性の大半は、本当に気が触れて心神喪失になっているのではなく、故意の腐敗であるから、それに汚染された人間では如何ともし難いので、尊厳が穢されてない外部の人間に代理してもらう必要があるのである。
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