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有村さんのツイッターが凍結されたそうだ。異議申し立てはできるそうだが、復帰できるのかどうかは不明である。トランプのツイッターがまだ健在だから、差別どうこうではないだろうし、凍結された理由は判然としないが、他にも同人作家が凍結されているらしいから、エロが原因だと考えるのが妥当である。これがツイッター社の強硬姿勢だとすると、再開しても同じことの繰り返しではある。ツイッターはADHDのためのものであるから、有村さんにとっては終の棲家を奪われたかのようだが、東京大学文学部西洋史学科中退という経歴でもあり、はるかぜ親子と同じ雑居房で多動を垂れ流しているのも惜しく、物事を理路整然と過不足無く長文で記述することは出来るから、そろそろ惰眠を貪る端境期に終わりを告げて、驥足を延ばすためのいい機会でもある。雑念が雑念のまま遊弋し続ける人は、ツイッターで生き長らえればいいが、九州で最も偏差値が高い久留米大附設高校を卒業した有村悠さんは、そこらへんの高卒とは格が違う。艦これ界隈では、特異なキャラクターが名物となって、ディスプレイ破壊おじさんという悪名を馳せているご様子でもあるが、人は一代、名は末代。いずれは太宰治の人間失格を超える自伝小説を書くと思われる有村悠さんであれば、どのような法難も、血で作品を書き綴るための試練であり、いずれ人類の記念碑となるような文学に昇華されるのであろう。
われわれにとって、本音というのは定かではないし、状況次第で流動的でもあるが、一応はそれなりに本音があるわけだ。口が堅い人間というのは、それなりに正直なのである。黙して語らずという姿勢は、何らかの意思表示をしているし、本音は察しがつく。それに本音を言えばいいというものではないから、無言で示すのは妥当な態度である。隠しているのではなく、ズケズケ言うと差し障りがあるから沈黙する賢明さなのだ。対応に困るのが偽善者タイプであり、ヒラリーとかベッキーである。腹に一物抱えているが、綺麗事だけはペラペラと出て来る。ベッキーならどれだけバッシングしても構わないとは言わないが、やはりそれなりの理由はあるのだ。決して腹を割って話すタイプではないのに、やたらと多弁で流暢に話すし、インチキなセールスマンのような姿勢である。本音を話すべき、ということではない。何でも馬鹿正直に言う口の軽さも好ましくない。前述したように、黙して語らず、というのが妥当である。ヒラリーやベッキーは「口が軽い」のかというと、これは定義による。少なくとも日本語で「口が軽い」というのは本当の話を迂闊に漏らしてしまうということだから、ヒラリーもベッキーも当て嵌まらない。いつも口が動いているが、本音は隠しているというのは「腹黒い」と言われる。こういう腹黒い人間への対処はなかなか難しいものである。ヒラリーが落選したり、ベッキーがこうやってバッシングされたり、一気に失墜することもあるが、普段はどうしようもないのである。だからこそ手を緩めずにベッキーをバッシングしたりする。普段は絶対に本音を言わず、それでいて沈黙を知らず、空疎なことをスラスラと言い立てているので、腹に隠していた黒い正体がどろりと出てくると総攻撃されるのだ。カルマが溜まっているから精算させられるだけである。
このところ津田大介がツイッターの言論を規制しろとか、おかしな発言を繰り返している。現世の快楽のすべてを体験したと思われる成功者が、あたかも落魄した敗残者の断末魔のように癇を高ぶらせている。津田大介は対人スキルの第一人者であり、組み手争いの猛者だ。直接会えばたいていの相手は捩じ伏せられるし、女の股を開く程度は朝飯前である。現実は理屈ではない。理屈に合わないことに抗うこと無く、それこそが現実の実態なのだと適応するのが社会性であろうし、理屈抜きに生きてきたからこそ津田が勝ち進んだのである。津田はSNSに極めて適性がある。直に会わないとしても、人を選ぶから、現実の相似形であるSNSには向いていたのだ。それによって成功したのに、どうもここ最近はSNSらしくないツイートをしており、この不特定多数のWorld Wide Webに向かって、文弱の書生めいた真似事をして、これがあまりにもレベルが低いので失笑されている。ロンブー淳も、一時期は政治家になりたがっていたし、厭くほどに女も金も手にした人間が、その満腹感を持て余して、名誉欲に取り憑かれることもあるのだろう。津田大介は、具体的に相手を見て捻じ伏せることに特化しているから、抽象的なことを言っても恥をかくだけである。理屈抜きの現実を生き抜いた野卑なコミュ強が津田大介であり、この大地を舐め尽くすために現れた夷狄であるから、もやしのようなインテリとは人種が違うのであり、理の通った論陣を張る能力はまったくない。信者から金を集める仕組みを築き上げたのだから、その自己啓発空間に甘んじていればいいのだが、一言居士を気取り始めたので、ひとびとを困惑させている。津田はネットで組み手争いがうまくいかなくて苛立って、憤懣を撒き散らしているが、津田大介は有村悠さんより知能指数が低い。有村さんはいくら莫迦とは言っても、東大に合格(中退)しただけの知能はある。現実で津田大介に出会ったら、われわれは這々の体で逃げ出すしかないが、組まれる恐れのないネットなら、そりゃ文句は言う。津田大介は、対人スキルだけが取り柄なのだから身の程を弁えたほうがいいし、人を選べるSNSに徹するべきであろう。
なぜか知らないが、集団に絡まれたら全員を倒さないといけないらしい。先制攻撃でいきなりナイフで刺すとか、相手の眼球を潰して失明させるとか、そういうテロリストのような行為は正当防衛として認められていない。おそらく、絡む側は殺人が目的ではないから、正当防衛が成立しないということなのだろう。だから、あくまでヒーローとして力を見せつけて、集団を倒さなければならない。これはずいぶん奇妙な問題である。われわれはヒーローを待ちわびている。自分が英雄たらんとしてもいいし、正義の味方が英雄として現れてもいいが、そういう英雄的な解決を望んでいる。なぜか悪党集団はひとりで倒さなければならない。それが出来ないと「弱い」と言われてしまう。もちろんこの場合の「倒さなければならない」というのは実現不可能なノルマである。この空想的な願望の強さこそが問題の本質なのである。おかしな人間の妄想ではなく、人類が普遍的に持っている願望なのである。集団に絡まれた個人は弱者である。その憤激を晴らすべく眦を決し、テロリストのようにナイフで刺したりすることも考えるが、それを実行できないのも本能である。この衆寡敵せずというのが、人間の屈辱体験としてプリミティブであるらしいが、たとえばサッカーで11人と1人で試合をしろと言われることは、中学生でさえありえない。スポーツは社会的なものであるから、同じ人数でやろうという理性的な発想になる。理性と本能を峻別するのも、また本能であろうし、そもそも11人で1人を相手にゴールしても嬉しくないのは論を俟たない。スクールカーストのような暴力は、サッカーとは違うので、同じ人数で戦おうということは出来ない。11人で1人を相手に暴力で勝つようなことは、いわゆる村八分と言うべきか、サディストとしての歓びは大きい。このようにいたぶられる状況こそが英雄願望と結びつくのは、本能でそう決まっているのであろうが、この願望が、たとえばナードだけが篋底に秘める空想ではなく、幅広く漫画や映画などのフィクションで共有されているのは不可思議であり、普段は多数派でいるのが好きであるはずなのに、老若男女が映画館でそういう映画を喜んで見ているのは謎である。ひとりで多人数を蹴散らすヒーロー像が、大衆を相手にしたフィクションとして流通し、その理非を糺す姿が人気を得て、延々と反復されるのであるから、これが人間のストーリーの骨格なのであろう。われわれの価値判断はあらかじめ本能で決まっており、こうやって人間の皮を被る前の自分など無いのであるから、全身に神経毒が回るのも致し方あるまいし、本能を枉げることはできず、人間的な願望に憑かれて生きるしかない。
精神は進化している。偶然か余興かは知らないが、おそらくは無から始まって、ただひたすら進化している。38億年くらい前に生物が生まれたとして、理由は知らないが、そこから精神が進化してきたのである。この始原の状態を現在のわれわれの五感でイメージしてはならない。映像や音声や、触り心地、味も匂いも宇宙にはない。光はあっても、これを視覚的な映像として捉える義務はないから、光を「観察」するために他の方式もあり得た。光とか重力をどう捉えるかはまったくの自由なのである。現在のわれわれのような精神世界は、多細胞生物となった10億年くらい前からだろうが、そうやってこの世界の盟主たる主体性を強めてきた。これは「進化論」の話ではない。精神が進化するロジックはまったく見当がつかない。ただ精神は進化している。現在のわれわれは生物としての現象機能を元に文明社会をなしている。物質が精神の苗床ではあろうが、肥料と作物が別物であるように、この精神現象は、物質とはまったく懸け離れたところにある。快楽-苦痛の原理がわれわれの意志の根底である。すべてが決められているわけではないが、この快楽-苦痛によって価値判断が生じ、それにそそのかされつつ、意志というものが像を結ぶわけである。われわれは自らの精神を調整することは出来るし、たとえば読書が苦痛である人が、それを歓びとすることは、さほど珍しくない。とはいえ、快楽-苦痛の原理で動いているのは確かであるし、苦手なものを得意にしていく努力さえ、この原理の支配下にある。自己克服さえも、精神が成長する可動域として定められている。われわれ人類は、本質的に不自由であったこれまでの38億年の中で、ようやく不自由さを認識して煩悶できるくらいにはなった。38億年という長さを考えれば、5000年などつい最近である。なぜたまたまわれわれが、38億年間の生命史に大変革を告げる文字の誕生に居合わせたのかは謎だが、われわれが初めて、物質世界の仕組みを検証することになった。日常的な認識が嘘というわけではないが、われわれは身体という物差しで測っているだけであり、これは精神世界を作っているものだから、物理の原理そのものは見えていない。素朴に認識できないものが近代科学で明らかになる時代に、たまたま生きている。
なんか女性向けアンケートでよく見かけるのだが、デートで相手に幻滅した理由として、「店員に横柄」というのがある。
ほぼ定番として、これは上位に入っているのではなかろうか。
興味深いのは、まずはデートに行っていることである。
つまり、生理的に嫌悪感を抱いてない。

これはこういうことだと思う。
威張る男は強そうなので、女にはモテるのである。
だが、その負の側面として、店員に威張るとか、そういうこともある。
わたしがわりと若い頃、そういうタイプの男が居酒屋のオッサン店員に横柄なタメ口をきいていて驚いたことがある。
クレーマーとかではなく、ごく自然体で横柄で、店員を使用人だと思っているらしい。
どういう教育を受けたのかと思ったのだが、親は金持ちであるらしい。
なんか偉そうだなと思っていても、一回りも上の店員に偉そうなのを見るとさすがにビビる。

店員に横柄で幻滅した、というのも、やはり横柄な男はモテる、という結論でよろしかろう。
だからこそ、これがデートで幻滅する定番になるのだ。
店員にしか威張れない卑屈な男、ということではない。
マンコを濡らしながらデートに行っているのだから、そういう弱者や変わり者ではあるまい。
横柄なのは最初からわかっているわけだ。

店員は弱者ではないのである。
弱者としての刻印は押されていない。
あくまで括弧つきの弱者であるし、時として店員こそが横柄でもあるのだが、ひとまず公共の場において儀礼的に主人と召使を演じるだけである。
店員はホンモノの奴隷ではないし、ただの表層的なロールプレイであるから、仮面の問題でしかない。
内輪の関係だと素顔にまで刻みつけた強者・弱者のロジックに入れるが、なんか店員にそれをやると、道化のような薄ら寒さが浮かび上がってくる。
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http://www.foxnews.com/politics/2017/01/03/ford-to-scrap-mexico-plant-invest-in-michigan-due-to-trump-policies.html
Ford Motor Company announced Tuesday it will cancel a $1.6 billion plant planned for Mexico and will instead invest $700 million in a Michigan assembly plant, directly tying the decision to “pro-growth policies” championed by President-elect Donald Trump.


トランプの政策を理由に、フォードがメキシコ移転を撤回したそうである。
これはクリント・イーストウッドの「グラン・トリノ」と重ねてみると面白い。
というより、ミシガン州(おそらくデトロイト)に投資して工場を残すらしいので、まさにミシガン州が舞台である「グラン・トリノ」そのままである。

グラン・トリノとは1970年代のフォード車の名前である。
2008年公開の「グラン・トリノ」はアメリカミシガン州の片田舎で白人の老人が死んでいく様子を描いた。
主人公の老人はフォードで働いていた退役軍人であり、このフォード車のグラン・トリノを宝物にしている。
移民と友情を育む様子が物語のメインではあるが、移民が敵でもあり、退役軍人である主人公が有色人種に銃を向けるのが繰り返されるから、移民への憎悪が根底にある作品でもある。

時たまクリント・イーストウッドがトランプ支持者だと言われることがあるが、それはあまり正確ではなくて、インタビュアーから、「トランプはあなたの顰め面を練習しているように見える」と問われて、こう答えた程度である。

http://www.esquire.com/entertainment/a46893/double-trouble-clint-and-scott-eastwood/
Maybe. But he's onto something, because secretly everybody's getting tired of political correctness, kissing up. That's the kiss-ass generation we're in right now. We're really in a pussy generation. Everybody's walking on eggshells. We see people accusing people of being racist and all kinds of stuff. When I grew up, those things weren't called racist. And then when I did Gran Torino, even my associate said, "This is a really good script, but it's politically incorrect." And I said, "Good. Let me read it tonight." The next morning, I came in and I threw it on his desk and I said, "We're starting this immediately."

自作の「グラン・トリノ」を引き合いに出して、ポリコレ規制が跋扈する時代を嘆いてみせた。
この発言を除いては、だいたい消極的な支持と言っていいであろう。
実際には通底する部分が多いからこそ「グラン・トリノ」に言及したのだろうが、やはり大っぴらに支持すると一騒動起きるので、ポリコレの部分だけ共感してみせたのである。

われわれも映画の主人公のように美しく死ねるのであればそれが望ましいが、なかなかそういう機会がない。
首を吊るか、そうでなければ見苦しくても生きなければならないので、映画と現実では展開が違うのであろう。
移民を射殺してグラン・トリノを走らせるようなことをしないといけないわけだ。

今回の決定に関して、フォードが「グラン・トリノ」に言及したわけではないが、やはりミシガン州(デトロイト)からフォードが消えていく様子を描いたものであるから、この作品を知らないわけはないし、やはりミシガン州という設定の一致も含めて、いろいろと興味深い。
乞食とか物乞いとか、そういう用語は、コンプライアンスが問われる大手メディアでは使いづらいと思われる。
本来なら筆頭に上げなければならないテーマであるのに、なかなか難しい。
寄生虫と呼ぶか、それに近いネットスラングであればリーチャー(leecher)が適当なのかもしれないが、これもP2Pでダウンロードだけする人間を指す言葉であるようだし、そもそもアップロードする方も著作権侵害が疑われるから何とも言えない。
ともかく、乞食、物乞い、リーチャーと呼ぶべき連中が、無料を求めて徘徊している。
もしくは最近の低品質なキュレーション記事の大半はP2Pでアップロードする行為と大差あるまいし、これに難癖をつける無料ユーザーはリーチャーと名付けるにふさわしいとも言える。

2016年8月に日本でKindle Unlimitedが始まってからいろいろと紛糾したわけであるが、漫画をかなり減らして、グーテンベルク21とか日本評論社など硬いラインナップを中心に据えて、ひとまず物乞いは追放したと思われる。
グーテンベルク21の堅苦しい訳文や、日本評論社の硬い本も知能指数100あれば読めるが、やはりこれがひとつのハードルであろう。
真面目な話、グーテンベルク21と日本評論社は活字が苦手だと敬遠するような文体で書かれているから、知的能力が平均未満の人間を排除する狙いはあったであろう。

2017年になってから光文社が復活した。
光文社だと、柔らかめの翻訳の古典とかあるので、これも物乞いを生みかねないが、柔らかめでも知能指数100未満であればどうせ読まない。
あと、光文社古典新訳文庫は複数巻にまたがる場合は、最初の一巻しか読めないので完全復活とは言えないが、乞食を呼び寄せないための策であろう。
麻生太郎のような人間が周囲を困らせるのは、こういう失言癖があると連帯責任を取らされることである。ナチズムなど遠い過去であり、もはや烟るべき遺灰とも思えないが、とはいえ、人権問題としてまだまだ火を熾せる現役であるらしい。脳裏に遊弋する雑念をおもしろおかしく口に乗せてしまうのは、人権問題を呼び寄せるだけである。失言は延焼してくる。魔女裁判の幕開けであり、たまたま居合わせるだけで巻き添えになる。このような人権問題の構造として、追及する方は手加減無く声高に責め立てるのである。責められる側は沈黙しなければならない。平謝りで鎮火させる。それしかないのである。差別は全体主義的なものであるらしく、社会全体が共犯者であるらしい。隠れ切支丹ではないかという嫌疑がかかり、悪魔祓いのような人権教育を受けさせられることもある。いわば推定有罪であり、致死性の伝染病が発生したようなものだから、自分はこの悪疫に感染しておらずクリーンであると証明すべく、過度な政治的正しさを示さなければならないし、保菌者でないことに念を押すために、あらゆる疑念や臆見を消し去るべく自分の家を焼き討ちにすることさえ求められる。普段われわれは空気を読みながら沈黙しているので、抗議活動はずいぶん非日常的である。ひとまず、抗議活動は露悪的なものである、と言って差し支えはあるまい。通常の出来事であれば、他人を槍玉に挙げるとなると「ひとの揚げ足を取る」として責められる。変わり者として片づけられるべき案件だ。だが、人権団体に「変わり者」というレッテル貼りをして追い返すわけにはいかないから平謝りする。人権団体はヤクザそのものとは言わないが、メンタリティがヤクザである。人権活動家はわれわれの日常的な羞じらいを投げ捨てた狂気の階梯にいるのである。とはいえ、麻生太郎のような木偶の坊がいるかと思えば、トランプのような歴史的偉人もいるのだし、決して口を滑らせること無く、イスラム教の悪口や移民排斥などを計画的に唱えるのは、北米の内陸部で熱狂的な歓迎を受けた。このトランプという大人物も、ずいぶん露悪的である。口を開くからには滑らせてはならず、露悪的でなければならない。また、イスラムや移民は黙っていれば雲散霧消するわけではないので、顰蹙を買いながらも文句を言わないと、雪崩のように入ってくる。時間の推移に従って利権が逓減していくかどうかの問題である。利権が増大するのであれば、意を決して口を挟まなければならない。
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