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頭に思い浮かんだことを全部書くのは自由だが、とても読みづらいので、脱線した箇所は推敲で削らなければならない。
脱線しそうなところで脱線しないのであるから、文章表現というのは、普段の思考そのままではない。
とあるタレントについて語っていて、そのタレントの活動を紹介するとして、たとえばマクドナルドのCMに出ていたとして、ああそう言えば、とマクドナルドの原田社長の話に転じていくとすれば、それは脱線である。
調べてみると原田社長はベネッセを2016年6月に退任しているようで、ここからさらに脱線することも可能であろうが、文章でそこまで筆を走らせてしまったら、そこはすべて削除するか、もしくは筆を改めて新しい原稿を起こすことになる。
脱線していたら読めないということはあるまいが、そのタレントについての記事であるのに、途中から原田社長について長々と語っていたら、やはり変ではあるだろう。
雑駁たる文章が許されないというわけではないし、もしくは、万遍なく総花的に書き綴ることだってあるだろうが、テーマを決めているなら、そこに絞って書かなければならない。
これは読む側のワーキングメモリーへの配慮である。
とあるタレントについての記事を探し求めている読者からすると、たまたまマクドナルドのCMに出ているだけで、原田社長の話が長々と入っていたら、主題であるタレントさんの話に戻るまで、セーブポイントというか、脱線する直前の状態を頭に保持しておかなければならず、この負荷はとても面倒である。
書き手の配慮として、脱線部分は推敲するときに泣く泣く省くのである。
論旨についても、右顧左眄してはならない。
たとえばA案とB案に一長一短あるとしても、どちらかを支持する論陣を張ったほうが読みやすい。
ああいう見方もあればこういう見方もあると色んな確度から眺めて、全体をなぞって概説するような煮え切らない文章を書くことが求められるケースもあるが、そう依頼されているのでなければ、どちらかに立場を固定して決めつけて書いたほうが読みやすい。
相手の考えにも一理あるとか譲歩すると蛇足になりがちなので、そうやって予防線を張らないと危険だとか、意図的に不明瞭にしたいのでなければ、かなり断定的に書いたほうがいいのである。
男だって嫉妬するのになぜ女は嫉妬深いと言われるのかという問題だが、おそらく、女子の方が他人をよく見ているからである。
個人差はあれど、女子の方が周辺視野が広いというのは確かめられている。
これが小さい頃は女子の利発さ、もしくは男子の鈍くささにもなるが、女子の周辺視野の強さが賢明さに高められることは少なく、大人になると見栄もかなり出てくるから、他人が見えていることが陥穽になる。
他人しか見えてない、と言ってもいいだろう。
お受験ママが他のママと張り合うことしか考えられなくなるような具合である。
この他人を観察しすぎて、いつも他人に関心が吸い寄せられていく性質が嫉妬深いと言われるのであろう。
男でも他人には嫉妬するが、そもそも他人をよく見ていない。
子供の頃は女子のほうが利発なのに、だんだんそれが失われていくように思えるのは、やはり女子だと他人を見ないわけにはいかないのであろうし、他人の動向が刻々と通知される設定なのであろう。
その機敏な性質が、歳を重ねるに連れて、だんだんよくない方向に偏っていく。
視野が広すぎるので、他人のことが気になって仕方がないのであり、他人の偵察で頭が一杯になっているから、自分のことが疎かになる。
見栄の張り過ぎで、その虚飾の世界が架空性の色合いを帯びて、現実が見えなくなる。
女子が他人を攻撃する時に「無視」を頻繁に使うのに対して、男子が用いないのは、おそらく女子はお互いをよく観察しているから、その相互的な目線の世界からの排除が攻撃になるからであろうし、男子はそもそも他人を見てないから、無視されてるのに気づかないことだってある。
2017.02.05

真札と偽札

人間的なシステムの中での真偽は存在する。真札と偽札は明らかに違うものであり、人間的なシステムに照らして、その真偽は言える。ここに究極的な真偽がないのは論を俟たないが、われわれは真札/偽札の仕組みの中で、物事を判断して生きている。手塚治虫は戦時中に軍医が足りないということで、医学部でもないのに医師免許を貰えたが、これはこれで真札というしかないのである。国家が輪転機を余計に回してインチキ臭い真札を粗製乱造したという誹りは免れまいし、普通であれば医者になれるような人間でなかったのも確かである。真札/偽札のシステムでは、こういう釈然としない現象が生まれることもある。医師免許があるのだから医者をやるのは差し支えないが、真札を余分に刷ったというグレーな事案なので、綺羅びやかな経歴として提示するには無理がある。平時なら可笑しなことであろうし、たとえば情実で粗製乱造されたのであれば、裏口入学と同等に扱われるであろう。では、その偽札の真骨頂たる裏口入学も、コネ入社とどこが違うのかと言えば判然としないし、コネで下駄を履かせてもらうのは眉を顰める事案ではあるが、偽札とは言い切れない。跣足の状態こそが真実と言うのは容易いが、実力主義にさえ難癖をつける人権主義者がいるのであるから、何らかの手段で真札に紛れ込もうとする偽札は救いがたい問題であり、真札/偽札が人間システムの根幹であるがゆえに、タブーとして棚上げされていく。文字通りの紙幣の偽造であれば、これは警察が洗いざらい捜査する案件であるが、もう少し微妙な問題であると、あいつは怪しいと陰口を叩きながらも素知らぬ顔をするのが習いであるから、プライバシーとして突破できることもままあるし、そもそも国家が輪転機を余計に回すのは止め難い。真札がひとつの王朝であるとするなら、オルタナティブ・ファクトが別の王朝として成り立ちうる。EUという仮想現実よりは、もっとプリミティブな民族性の方が真実味があり、ユーロそのものが最大の偽札であると主張することも可能だ。あるいは、蓮舫の二重国籍問題などは、これがまかり通っても支持が下がるのが現実であるから自民党には有利ということで、空想的社会主義のファンタジーが検閲も校訂もされず故意に放置されているのである。今のところ大半の人間は、浮き草を繋いで生命を与えるツールとして国籍という通貨を信じているから、蓮舫をユートピア思想に基づいて受容できる人はかなり限られる。
理数系であれば、大学では、高校より難しい数学や物理をやらされるであろう。
だから大学の勉強は高校より難しい。
だが、文系であれば、思想とか文学とか大雑把なものになるから、中学・高校より簡単だとも言える。
文系が不要だと言われてしまうのは、基礎学力が怪しいのに、それでも思想や文学は出来てしまうからであろうし、決して本当に学問として理解しているわけではあるまいが、表面をなぞることは出来る。
数学や物理と違って誤魔化しが効くということだ。
中学・高校で落ちこぼれる人間は、理詰めで考える能力が弱いと思われるが、大学ならどうにかなる。
たとえば黒柳徹子みたいなタイプの馬鹿。
中学や高校で落ちこぼれる典型だが、上っ面の思想とかは言えるわけである。
支離滅裂だが、綺麗事ばかりだから許される。
このレベルの馬鹿にとって、「考える」というのは綺麗事を思い浮かべることであり、人間性が美しいとか、そういう偽善者として生きていけるのだ。
大学入試の偏差値で人間が判断されるのは、論理的な能力を問うているのである。
大学だとあてにならないので、高校での学力を問題としている。
つまり、大学生にもいろいろいて、高等数学とか、難しい物理学に取り組んでいる学生がいるかと思えば、黒柳徹子みたいな学力0の状態で社会学とか学んでいる学生もいるわけだ。
高校までの勉強から切断され、小学生に回帰してしまう文系大学生が蔑まれるのは当然のことである。
大学無償化という方向に話が進んでいるらしいが、黒柳徹子みたいな馬鹿を台頭させるだけであろう。
気の毒だと思って黒柳徹子みたいなのを容認していると、いずれ大変なことになる。
はるかぜババアみたいに娘の人生を乗っ取る行為がなぜ行われるのかというと、やはり努力が苦痛なのである。
この努力が苦痛であるという件だが、極端な苦行の話ではあるまい。
炎天下に死ぬまで練習させるような過酷な事例もあるだろうが、たいていは漢字の書き取りとか、そういう努力のつまらなさである。
苦痛というよりは、退屈と呼んだほうが的確なのである。
漢字の書き取りが拷問であるはずはないが、そういう退屈さを苦痛と表現するらしい。
努力は苦痛ではなくむしろ無痛であり、たとえばレジ待ちのようなものである。
レジ待ちは無痛であるはずだが、何もしないで待つというのは刺激がなさすぎてストレスがたまるので、そのストレスを苦痛と呼んだりする。
努力が苦痛であるかどうかは個人差があり、苦もなく普通にやれる人もいる。
地道な反復学習が退屈でストレスが溜まって暴れる人間ばかりではあるまい。
はるかぜババアのように努力が苦痛という個性の持ち主は、自分自身の人生が退屈なので、娘の人生を乗っ取ってフーリガンみたいに暴れてストレス発散する。
はるかぜババアは典型的な「暇人」なのである。
刺激があることしかやらない。
暇だから暇人という素朴な意味もあろうが、その退屈さに耐えられずに暴れる人が「暇人」と揶揄されるわけである。
このババアほど酷いのは珍しくても、これは少なからずの人間が抱える病である。
努力が苦痛でない人はさほど珍しくないから万人の病ではないが、努力が苦痛であるなら刺激を求めてフーリガン活動に熱中するしかない。
2017.02.01

貢ぐのは乞食

貢ぐという行動がある。これは乞食である。お金を渡す人間を乞食呼ばわりするのは変だが、やはり乞食なのである。貢ぐのは、愛情に飢えているからするわけだ。物を乞うのと、愛情を乞うのは、ほとんど同じと言っていいであろう。貢ぐのはだいたい迷惑行為である。ホストのように貢がせるシステムが完成しているならいいが、そうでなければ一方的な求愛になる。自己と他者の境界線を超えて馴れ馴れしく接していくのは、生理的な嫌悪感を持たれる行為である。果たしてアイドルが握手会を嫌がっているのか、それは不明であるし、ホストのように割り切っているかもしれないが、境界線を侵害されている違和感が発生しても不思議ではない。美人や金持ちの方から馴れ馴れしくしてくることは滅多にない。やはり境界線を超えてくるのは難民なのである。乞食や物乞いにはあまり適切な代替語がなくて困るのだが、差別用語と言われないようにあえて言い換えるなら難民と呼ぶしかない。飢え渇く人間に対して、受け入れ難い思いをするのは人間の生理としては当然である。そのような生理的嫌悪感が、理に沿っているかという問題もあろうし、まだ何もやってないのに犯罪者予備軍と呼ばれるのが妥当なのか、という問題もあろう。イスラムから先進国に押しかける難民も、ホストやアイドルに貢ぐ人間も、同等のメンタリティであり、おそらく、貢ぐタイプの人間は、一歩間違えれば境界線のない無政府状態を招来すべくテロリストとなるのだし、そもそも普段から無償の愛を求める図々しさもあるから、扱いは極めて難しい。朝から晩までパチンコ屋にいる人間のことを考えれば、人間の不合理さは知る能わざることではなく、わかってても吊られる衝動について滔々と語る必要はあるまい。貢ぐことは、過剰な対価を無為に求める厚かましい行為であるが、それをやらない分別ある人でも、そういう悪しき種が心に蒔かれることくらいはあろうし、時たま芽吹いてしまって、その煩悶を早期に摘み取ることもあるだろう。愛に飢える難民から金を取る商法が正しいのかどうか知らないし、期待を裏切るのであるから詐欺と呼ぶのも容易いが、美人が靡くことを願う虚しさは騙される当人も承知であろうし、金を取らなくても難民は難民であり、やはり馴れ馴れしく愛を求め、隙きあらば敷居をまたいで食客やヒモになろうとするのであるから、その下劣な品性に似付かわしい対応をするしかあるまい。
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