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2017.04.14
リンチを受ける人間をへらへら笑って雰囲気を和らげる
ユナイテッド航空でベトナム系の人間が引きずり出された映像で、NHKの桑子真帆なるアナが半笑いしていたそうである。
この映像が見当たらないので、見もしないで書くわけだが、とういうより、たいていの人が見てないのに怒っているのは、なにかしら媚びた笑いを想像しているのであろうし、このNHKアナの罪科はともかく、日常的に思い当たる事象なのである。
(この問題があった4月11日夜の時点のSNSを検索してみると、笑ったことにリアルタイムで反応している人はたくさんいるので、笑ったことは事実のようだが、その表情までわたしは見ていない)。
だれかが悲惨な目にあっているのに、なぜか雰囲気を和らげるために笑う人がいるのである。
やはりこういうのは媚びているのであろうし、強者におもねった傍観者なのである。
当然ながらそういう媚びた傍観者は怨まれるのだが、とはいえ、本当に面白がってるのではないし、傍観者としての媚びた笑いを咎めるのもなんなので、たいていは黙過されている。
こういうトラブルの映像を見たら、とりあえずは無表情を作るべきであるし、本当に罪がない傍観者であろうとするなら、その中立性は必須であろう。
雰囲気を和ませる必要などないのである。
笑うのであれば傍観者としては一線を越えたのだ。
さて、冒頭に述べたように、この映像はほとんど出回ってないし、わたしも見てないのだが、伝聞でも不愉快になれるのは、似たような場面が想起できるからであろう。
リンチが行われたなら、それを和ませる笑顔があるのである。
本当に楽しんでいるわけではなく、暴力をジョークとして取り繕おうとしているわけだ。
このような中立ではない傍観者が思い浮かぶからこそ、この桑子真帆アナの半笑いの映像がないのに怒れるのだし、社会全体を怨む通り魔の発想にも繋がるのである。
この映像が見当たらないので、見もしないで書くわけだが、とういうより、たいていの人が見てないのに怒っているのは、なにかしら媚びた笑いを想像しているのであろうし、このNHKアナの罪科はともかく、日常的に思い当たる事象なのである。
(この問題があった4月11日夜の時点のSNSを検索してみると、笑ったことにリアルタイムで反応している人はたくさんいるので、笑ったことは事実のようだが、その表情までわたしは見ていない)。
だれかが悲惨な目にあっているのに、なぜか雰囲気を和らげるために笑う人がいるのである。
やはりこういうのは媚びているのであろうし、強者におもねった傍観者なのである。
当然ながらそういう媚びた傍観者は怨まれるのだが、とはいえ、本当に面白がってるのではないし、傍観者としての媚びた笑いを咎めるのもなんなので、たいていは黙過されている。
こういうトラブルの映像を見たら、とりあえずは無表情を作るべきであるし、本当に罪がない傍観者であろうとするなら、その中立性は必須であろう。
雰囲気を和ませる必要などないのである。
笑うのであれば傍観者としては一線を越えたのだ。
さて、冒頭に述べたように、この映像はほとんど出回ってないし、わたしも見てないのだが、伝聞でも不愉快になれるのは、似たような場面が想起できるからであろう。
リンチが行われたなら、それを和ませる笑顔があるのである。
本当に楽しんでいるわけではなく、暴力をジョークとして取り繕おうとしているわけだ。
このような中立ではない傍観者が思い浮かぶからこそ、この桑子真帆アナの半笑いの映像がないのに怒れるのだし、社会全体を怨む通り魔の発想にも繋がるのである。
2017.04.13
期待しては怨む
浅田舞が両親や妹を怨んでいるのも、人間が理想を求め、怨敵を作る生き物だからである。
浅田舞は栄誉などまったく欲しくなかったのかというと、そうではないであろうし、気楽なポジションにいた妹の方が理想を叶えただけである。
ノルマを課せられないほうが傷痕が少なく予後がよいとしても、期待されなければ何も求めなかったわけではあるまい。
人間は他人に期待しては怨んだりするが、そもそも最初の動機が怨みなのである。
おそらくわれわれは怨みを晴らすために生きている。
理想が叶わないままでは死ねないのである。
われわれは屈辱や怨みを執念深く抱えており、それを晴らすつもりなのである。
そして、その仇討ちを他人に期待するのである。
この文脈で言う理想とは、理想主義とはまた別であろうし、誰でも思い描く薔薇色の未来であるが、そこに到達できず、怨みが生じてこそ人間である。
快楽/苦痛の落差でドラマが作られていく仕組みの中に存在している。
落下しても大丈夫なようにクッションを置けばいいという話でもあるまい。
他人に期待することが悪事と見なされないのは、おそらく、他人の成功を祈って何が悪いということなのだろうが、ノルマを果たせなかったら怨敵として扱うのだから、やはり身勝手である。
愛しては思い通りにならなくて怨むのが人間らしさでもあり、この悪事と見なされない業病こそが人生を形造っている。
不本意にも暗澹たる刻印を象嵌するとしても、また懲りずに愛するのであり、その大半が裏切られる繰り返しである。
浅田舞は栄誉などまったく欲しくなかったのかというと、そうではないであろうし、気楽なポジションにいた妹の方が理想を叶えただけである。
ノルマを課せられないほうが傷痕が少なく予後がよいとしても、期待されなければ何も求めなかったわけではあるまい。
人間は他人に期待しては怨んだりするが、そもそも最初の動機が怨みなのである。
おそらくわれわれは怨みを晴らすために生きている。
理想が叶わないままでは死ねないのである。
われわれは屈辱や怨みを執念深く抱えており、それを晴らすつもりなのである。
そして、その仇討ちを他人に期待するのである。
この文脈で言う理想とは、理想主義とはまた別であろうし、誰でも思い描く薔薇色の未来であるが、そこに到達できず、怨みが生じてこそ人間である。
快楽/苦痛の落差でドラマが作られていく仕組みの中に存在している。
落下しても大丈夫なようにクッションを置けばいいという話でもあるまい。
他人に期待することが悪事と見なされないのは、おそらく、他人の成功を祈って何が悪いということなのだろうが、ノルマを果たせなかったら怨敵として扱うのだから、やはり身勝手である。
愛しては思い通りにならなくて怨むのが人間らしさでもあり、この悪事と見なされない業病こそが人生を形造っている。
不本意にも暗澹たる刻印を象嵌するとしても、また懲りずに愛するのであり、その大半が裏切られる繰り返しである。
2017.04.11
イスラム戦国時代
イスラム国はキリスト教も仮想敵にしているから、そこがクローズアップされる。
アルカイダとイスラム国は直接の繋がりはないが、歴史的な系譜としては連なるであろうし、反米思想の側面はある。
だが、イスラム国はシーア派の殲滅と、スンニ派の実効支配に重点を置いている。
あくまで大量に虐殺されているのは中東のシーア派である。
イスラム国はスンニ派の住民に対しては保護する立場なので、それこそ国家として機能している。
シーア派が一方的な被害者というわけでもあるまい。
これまでシーア派に殺されたスンニ派だってたくさんいるわけだ。
アサドはシーア派である。
イランはシーア派の本拠地のようなものなので、当然ながらアサド政権を支援することになる。
つまり、イスラム同士の内紛であり、スンニ派の方が多数であるから、イスラム国が衰退する可能性は低い。
こう考えると、アサドを追放してスンニ派の政権を立てることで安定化を図る策が浮かんでくるが、おそらくそう単純ではないのであろう。
ここ数日の発言を拾えば、国務長官のティラーソンは、カダフィが殺害されてから無政府状態になっているリビアの事例を挙げて、アサドの排除に慎重な姿勢を示している。
国連大使のNikki Haleyはアサドを排除するべきだと言っている。
国家安全保障担当補佐官のH.R. McMasterは両方の可能性を説明しつつ、アサドを軍事的に排除する意欲を示しながら、政治的解決も考えていると示唆している。
イスラム圏だと近代的なナショナリズムが発達してないし、国境線より宗派の方が重要らしいので、国民国家という図式で考えるのが妥当かどうかもわからない。
われわれは国境線を命のようなものと考えているから、イスラム国を認めまいというスタンスを取っているのだが、イスラエルとどこが違うのかは判然としない。
われわれがこの戦国時代のような状態を嗤うのは容易いし、第二次世界大戦が最終大戦であり、そこで国境線が確定したというのが近代的なイデオロギーであるから、21世紀にもなって国境線を引き直そうという行為には抵抗するのだが、進歩的なEUからイギリスが離脱し、あるいは、そこからスコットランドが独立する可能性もあるのだし、先進国が先走ったことへの反動が先進国でも巻き起こっている。
アルカイダとイスラム国は直接の繋がりはないが、歴史的な系譜としては連なるであろうし、反米思想の側面はある。
だが、イスラム国はシーア派の殲滅と、スンニ派の実効支配に重点を置いている。
あくまで大量に虐殺されているのは中東のシーア派である。
イスラム国はスンニ派の住民に対しては保護する立場なので、それこそ国家として機能している。
シーア派が一方的な被害者というわけでもあるまい。
これまでシーア派に殺されたスンニ派だってたくさんいるわけだ。
アサドはシーア派である。
イランはシーア派の本拠地のようなものなので、当然ながらアサド政権を支援することになる。
つまり、イスラム同士の内紛であり、スンニ派の方が多数であるから、イスラム国が衰退する可能性は低い。
こう考えると、アサドを追放してスンニ派の政権を立てることで安定化を図る策が浮かんでくるが、おそらくそう単純ではないのであろう。
ここ数日の発言を拾えば、国務長官のティラーソンは、カダフィが殺害されてから無政府状態になっているリビアの事例を挙げて、アサドの排除に慎重な姿勢を示している。
国連大使のNikki Haleyはアサドを排除するべきだと言っている。
国家安全保障担当補佐官のH.R. McMasterは両方の可能性を説明しつつ、アサドを軍事的に排除する意欲を示しながら、政治的解決も考えていると示唆している。
イスラム圏だと近代的なナショナリズムが発達してないし、国境線より宗派の方が重要らしいので、国民国家という図式で考えるのが妥当かどうかもわからない。
われわれは国境線を命のようなものと考えているから、イスラム国を認めまいというスタンスを取っているのだが、イスラエルとどこが違うのかは判然としない。
われわれがこの戦国時代のような状態を嗤うのは容易いし、第二次世界大戦が最終大戦であり、そこで国境線が確定したというのが近代的なイデオロギーであるから、21世紀にもなって国境線を引き直そうという行為には抵抗するのだが、進歩的なEUからイギリスが離脱し、あるいは、そこからスコットランドが独立する可能性もあるのだし、先進国が先走ったことへの反動が先進国でも巻き起こっている。
2017.04.10
バノン排除とシリア空爆
National Security Council(国家安全保障会議)からバノンが排除され、それからシリアへの空爆が行われたのは偶然ではあるまい。
シリアで化学兵器が使われてから空爆まで70時間弱であるが、時系列ではこういう具合である。
シリアで化学兵器が使用されたのが4月4日(火曜日)。
バノンがNSCから排除されたのが4月4日(火曜日)。
シリアを空爆したのが4月6日(木曜日)。
バノンがNSCから排除されたのは、フリンの失脚と関係があるという。
フリンに帯同するような格好でバノンが入っていたが、フリンがロシア問題で消えたから、それとともにバノンには居場所がなくなったらしい。
フリンの後任であるH.R. McMasterはバノンに否定的であるようだ。
そこにシリアの化学兵器問題が立ち上がってきたので、トドメを刺されたのであろう。
当然ながら、シリアでサリンを撒いたのはアメリカの自作自演かと訝しむわけだが、これについてはよくわからない。
疑念は残るにせよ、ひとまず保留としておこう。
バノンの地位低下に伴い、イヴァンカの夫であるクシュナーが主導権を握ったとされる。
バノンが壁際に追いやられてクシュナーが中央に来ている絵面から、二人のポジションが入れ替わったことは明白である。
クシュナーはユダヤ人なので、同じユダヤ人のキッシンジャーから好感を持たれているらしい。
キッシンジャーは非公式のブレーンであるから、政権に入っているわけではないが、トランプ政権に発言力があるとされる。
シリア問題の少し前、4月の頭に、イスラム国の問題でイラク政府と話し合うために出向いたのはクシュナーだったが、クシュナーがイラクを訪れたのはこれが初めてということである。
シリア問題発生後は国務長官のティラーソンが前面に出てきている。
シリアのアサド政権に武器を売っているのはロシアであるし、このあたりの事情には誰よりも精通していると思われる。
トランプはティラーソンと接点がない。
ロムニーを国務長官の候補に挙げた時に側近が揃って猛反対し、かなり紛糾しているところにブッシュ周辺からティラーソンの推薦があったので、側近が飛びついただけである。
まったくコネクションがないところから生じてきた人事であるから、いわゆる外様である。
数日前に習近平が米国を訪れたが、クシュナーが中央にいたので、中国問題はクシュナーの担当のようだ。
これは非公式アドバイザーであるキッシンジャーの方針であるらしい。
プリーバス首席補佐官の更迭論も出ているが、これはオバマケア次第であろう。
ポール・ライアン下院議長の推薦でプリーバスを首席補佐官にしたのだが、議会の調整が出来ないのであれば不要ということになる。
プリーバスの後任として、CNNの報道では二人の名前が挙がっている。
下院で共和党のHouse Majority LeaderであるKevin McCarthy。
もう一人は経済担当大統領補佐官であるGary Cohn。
ゴールドマン・サックスの元社長(COO)でユダヤ人である。
今のところ、バノンを失脚させるためにクシュナーが祭り上げられている状態なので、その勢いを反映するような観測が多いが、実際にどうなるかはわからない。
シリアで化学兵器が使われてから空爆まで70時間弱であるが、時系列ではこういう具合である。
シリアで化学兵器が使用されたのが4月4日(火曜日)。
バノンがNSCから排除されたのが4月4日(火曜日)。
シリアを空爆したのが4月6日(木曜日)。
バノンがNSCから排除されたのは、フリンの失脚と関係があるという。
フリンに帯同するような格好でバノンが入っていたが、フリンがロシア問題で消えたから、それとともにバノンには居場所がなくなったらしい。
フリンの後任であるH.R. McMasterはバノンに否定的であるようだ。
そこにシリアの化学兵器問題が立ち上がってきたので、トドメを刺されたのであろう。
当然ながら、シリアでサリンを撒いたのはアメリカの自作自演かと訝しむわけだが、これについてはよくわからない。
疑念は残るにせよ、ひとまず保留としておこう。
バノンの地位低下に伴い、イヴァンカの夫であるクシュナーが主導権を握ったとされる。
バノンが壁際に追いやられてクシュナーが中央に来ている絵面から、二人のポジションが入れ替わったことは明白である。
クシュナーはユダヤ人なので、同じユダヤ人のキッシンジャーから好感を持たれているらしい。
キッシンジャーは非公式のブレーンであるから、政権に入っているわけではないが、トランプ政権に発言力があるとされる。
シリア問題の少し前、4月の頭に、イスラム国の問題でイラク政府と話し合うために出向いたのはクシュナーだったが、クシュナーがイラクを訪れたのはこれが初めてということである。
シリア問題発生後は国務長官のティラーソンが前面に出てきている。
シリアのアサド政権に武器を売っているのはロシアであるし、このあたりの事情には誰よりも精通していると思われる。
トランプはティラーソンと接点がない。
ロムニーを国務長官の候補に挙げた時に側近が揃って猛反対し、かなり紛糾しているところにブッシュ周辺からティラーソンの推薦があったので、側近が飛びついただけである。
まったくコネクションがないところから生じてきた人事であるから、いわゆる外様である。
数日前に習近平が米国を訪れたが、クシュナーが中央にいたので、中国問題はクシュナーの担当のようだ。
これは非公式アドバイザーであるキッシンジャーの方針であるらしい。
プリーバス首席補佐官の更迭論も出ているが、これはオバマケア次第であろう。
ポール・ライアン下院議長の推薦でプリーバスを首席補佐官にしたのだが、議会の調整が出来ないのであれば不要ということになる。
プリーバスの後任として、CNNの報道では二人の名前が挙がっている。
下院で共和党のHouse Majority LeaderであるKevin McCarthy。
もう一人は経済担当大統領補佐官であるGary Cohn。
ゴールドマン・サックスの元社長(COO)でユダヤ人である。
今のところ、バノンを失脚させるためにクシュナーが祭り上げられている状態なので、その勢いを反映するような観測が多いが、実際にどうなるかはわからない。
2017.04.09
声を荒げるのが禁止されている
今村雅弘復興相の件について、元の映像まで見て検討する気はないし、その価値もないだろうから、たまたま事例として引き合いに出すが、このように声を荒げるのは、最近では攻撃とみなされる。
一昔前だと、声を荒げるのはそんなにおかしな行為というわけではなく、父親が怒鳴り声を上げるのはデフォだったであろうが、ここ最近はそういうのもなくなっている。
では怒りを表明するにはどうすればいいのかというと、無言で眉を顰めるのである。
怒声とどこが違うのかというと、眉を顰めるというのは、常識人から非常識に向けられる眼差しなのである。
自分が常識で相手が非常識という図式である。
現在はこれがデフォなのである。
黙っていられるならそれだけで常識人と判定される。
露骨に眉を顰めるのに差し障りがあれば、その一歩手前の無表情(無反応)でもいいし、それによって、馬鹿が浮いているのを示す対応が常識人なのである。
ここ最近は誰もが常識人になろうとしているから、声を荒らげることはないのである。
そんなに常識人になりたいのかという問題もあろうし、魔女狩りと言うのも可能だが、やはり粗暴な出来損ないがネットを埋め尽くしており、SNSでようやくブロック出来たのだから、自分は常識人だとアピールするしか無いのである。
この今村雅弘復興相についてはよく知らんが、授業中に奇声を上げる児童と同列にされて然るべきであろう。
1947年生まれだから団塊世代だし、彼らにとって粗暴性は造反有理というべきルールであっただろうが、われわれにとって父親ではないのだから、このタイプの粗暴な爺さんには蔑みしか無い。
ただ黙って眉を顰めるしか無いし、殴りかかってきたら警察に電話するだけである。
一昔前だと、声を荒げるのはそんなにおかしな行為というわけではなく、父親が怒鳴り声を上げるのはデフォだったであろうが、ここ最近はそういうのもなくなっている。
では怒りを表明するにはどうすればいいのかというと、無言で眉を顰めるのである。
怒声とどこが違うのかというと、眉を顰めるというのは、常識人から非常識に向けられる眼差しなのである。
自分が常識で相手が非常識という図式である。
現在はこれがデフォなのである。
黙っていられるならそれだけで常識人と判定される。
露骨に眉を顰めるのに差し障りがあれば、その一歩手前の無表情(無反応)でもいいし、それによって、馬鹿が浮いているのを示す対応が常識人なのである。
ここ最近は誰もが常識人になろうとしているから、声を荒らげることはないのである。
そんなに常識人になりたいのかという問題もあろうし、魔女狩りと言うのも可能だが、やはり粗暴な出来損ないがネットを埋め尽くしており、SNSでようやくブロック出来たのだから、自分は常識人だとアピールするしか無いのである。
この今村雅弘復興相についてはよく知らんが、授業中に奇声を上げる児童と同列にされて然るべきであろう。
1947年生まれだから団塊世代だし、彼らにとって粗暴性は造反有理というべきルールであっただろうが、われわれにとって父親ではないのだから、このタイプの粗暴な爺さんには蔑みしか無い。
ただ黙って眉を顰めるしか無いし、殴りかかってきたら警察に電話するだけである。
2017.04.08
道重さゆみが鞘師里保ちゃんに言及したが
http://ananweb.jp/news/102224/
人望を失った暗君の末路をわれわれは目撃しているわけだが、その暗愚さを糊塗する悪あがきも見苦しいものである。
道重さゆみというババアと鞘師里保ちゃんが実は仲良くないというのは、活動していた頃からだいたいの人が察していたが、卒業してからの道重は飯窪春菜と連絡を取っても、鞘師とは音信不通だったわけである。
今回の発言はその釈明なのであろうし、電話で話したとか、卒業後に食事をしたとかアリバイを述べているが、これで悪印象が払拭できるわけではないし、もはや鞘師里保ちゃんとのカップリングで人気を得ることは出来ない。
風が凪いで無人の縹渺たる光景が広がっているとすれば、それは立ち去った人たちからの答えなのであり、その磊落した虚無によって、過去の罪科を糺されているのである。
道重さゆみというサイコパスは、鞘師里保ちゃんに寄生する前の状態に戻っただけの話である。
若さは削がれているのであるから、不人気メンバーがババアになった悲惨な状態である。
何年かは他人を騙せたのであるから、ずいぶん稼いだであろうし、その金が消えるわけではあるまい。
恋愛解禁という設定で再開したからには、ホストに貢いで蕩尽したのかもしれないが、後に残らない快楽を貪ったとしても、その時は楽しんだのであろう。
今まで何度堕胎したのか知らないが、今度妊娠したらママタレという路線になるのだろうし、この色情魔はあちこちでいろんなチンコを試しているらしい。
ヤンタンで道重の後任を鞘師里保ちゃんにしたことで、妙な三角関係になったとも言えるが、飯窪と鞘師里保ちゃんの組み合わせに危惧を覚えた人も多いはずで、道重が決めたわけではないにせよ、止めるくらいの発言力はありそうだし、ここも不信感の原因である。
飯窪が無価値であるのに対して、鞘師里保ちゃんは価値が高いから決して対等ではないのだが、寄生虫の道重が神格化されたので、鞘師里保ちゃんに反感を持っている飯窪が道重を唆して、宿主にマウントを取って叩き潰したのである。
鞘師里保ちゃんが鬱で倒れたりして大変な時に、なぜか道重は飯窪に会いに行っており、鞘師里保ちゃんには会ってないから、だいたいが察しである。
道重と飯窪だと天と地の差があるわけだが、しかし、不人気時代の立ち位置は似たようなものだし、鞘師里保ちゃんのような華やかな扱いではないから、気脈が通じるのであろう。
マツコ・デラックスが「怒り新党」で鞘師里保ちゃんの卒業について義憤をぶちまけたことがあったが、おそらくあれ以降、マツコは道重には言及しなくなっているし、見る目がある人にはわかるのである。
道重のせいでモーニング娘。界隈から、鞘師里保ちゃんとマツコ・デラックスと松岡茉優さんがいなくなったのだから、ひとびとの間に生じた縁を無にして、生木を裂くように塗炭の苦しみを与え、すべてを灰燼に帰するサークルクラッシャーである。
鞘師里保ちゃんに寄生していた道重さゆみが、飯窪春菜におだてられて勘違いし、寄生虫が宿主を食らうべく梯子を外した場面を見たわけではないが、それを言い出したら、誰しも他人の事情などわかるまいし、その細かい沙汰は暗渠の中とするにしても、道重と鞘師里保ちゃんが仲良くないのは確実であり論を俟たないであろう。
道重:卒業発表前に電話がきて報告をうけました。びっくりしました…。鞘師は、いつも十分にかっこよかったと思います。あの若さで卒業という決断ができるのも凄いと思うし。たくさんの努力の上のことだと思うけど、センターに立っている鞘師の眼差しには、なんでもできる、怖いものなしというイメージがありました。卒業っていう選択には鞘師の強い部分と弱い部分、両方が感じられました。そういう意味で、卒業を発表した後の鞘師って、すごく自然体になったと思います。表情もかっこよさプラス、ナチュラルな感じで、すごくよくなったように感じました。卒業後に一緒にごはんに行ったりもしたんですが、私は鞘師という人間がどこにいたとしても好きです。それがモーニング娘。の鞘師であっても、そうじゃない鞘師であっても好きだし、応援してます。
人望を失った暗君の末路をわれわれは目撃しているわけだが、その暗愚さを糊塗する悪あがきも見苦しいものである。
道重さゆみというババアと鞘師里保ちゃんが実は仲良くないというのは、活動していた頃からだいたいの人が察していたが、卒業してからの道重は飯窪春菜と連絡を取っても、鞘師とは音信不通だったわけである。
今回の発言はその釈明なのであろうし、電話で話したとか、卒業後に食事をしたとかアリバイを述べているが、これで悪印象が払拭できるわけではないし、もはや鞘師里保ちゃんとのカップリングで人気を得ることは出来ない。
風が凪いで無人の縹渺たる光景が広がっているとすれば、それは立ち去った人たちからの答えなのであり、その磊落した虚無によって、過去の罪科を糺されているのである。
道重さゆみというサイコパスは、鞘師里保ちゃんに寄生する前の状態に戻っただけの話である。
若さは削がれているのであるから、不人気メンバーがババアになった悲惨な状態である。
何年かは他人を騙せたのであるから、ずいぶん稼いだであろうし、その金が消えるわけではあるまい。
恋愛解禁という設定で再開したからには、ホストに貢いで蕩尽したのかもしれないが、後に残らない快楽を貪ったとしても、その時は楽しんだのであろう。
今まで何度堕胎したのか知らないが、今度妊娠したらママタレという路線になるのだろうし、この色情魔はあちこちでいろんなチンコを試しているらしい。
ヤンタンで道重の後任を鞘師里保ちゃんにしたことで、妙な三角関係になったとも言えるが、飯窪と鞘師里保ちゃんの組み合わせに危惧を覚えた人も多いはずで、道重が決めたわけではないにせよ、止めるくらいの発言力はありそうだし、ここも不信感の原因である。
飯窪が無価値であるのに対して、鞘師里保ちゃんは価値が高いから決して対等ではないのだが、寄生虫の道重が神格化されたので、鞘師里保ちゃんに反感を持っている飯窪が道重を唆して、宿主にマウントを取って叩き潰したのである。
鞘師里保ちゃんが鬱で倒れたりして大変な時に、なぜか道重は飯窪に会いに行っており、鞘師里保ちゃんには会ってないから、だいたいが察しである。
道重と飯窪だと天と地の差があるわけだが、しかし、不人気時代の立ち位置は似たようなものだし、鞘師里保ちゃんのような華やかな扱いではないから、気脈が通じるのであろう。
マツコ・デラックスが「怒り新党」で鞘師里保ちゃんの卒業について義憤をぶちまけたことがあったが、おそらくあれ以降、マツコは道重には言及しなくなっているし、見る目がある人にはわかるのである。
道重のせいでモーニング娘。界隈から、鞘師里保ちゃんとマツコ・デラックスと松岡茉優さんがいなくなったのだから、ひとびとの間に生じた縁を無にして、生木を裂くように塗炭の苦しみを与え、すべてを灰燼に帰するサークルクラッシャーである。
鞘師里保ちゃんに寄生していた道重さゆみが、飯窪春菜におだてられて勘違いし、寄生虫が宿主を食らうべく梯子を外した場面を見たわけではないが、それを言い出したら、誰しも他人の事情などわかるまいし、その細かい沙汰は暗渠の中とするにしても、道重と鞘師里保ちゃんが仲良くないのは確実であり論を俟たないであろう。
2017.04.06
夢中になるのは悪事
もはや変わり者は存在を許されないのだが、これは人類として真っ当な方向に向かっており、われわれはトラブルメーカーにうんざりしている。インターネットの普及により、才能がない変わり者が雲霞の如く立ち現れたので、われわれはその瘴気漂う雑居房から這々の体で逃げ出し、慣れないスーツを着るようにして、常識人として身繕いしようとしているのである。ごく稀に才能がある変わり者もいるのだし、かつては、常識人と、そういう異才の持ち主が比較され、常識人はつまらんと言われていたが、ただの出来損ないでしか無い変わり者が大半であることが可視化されたので、これは人類として克服しなければならないということになった。
変わり者の特徴は夢中になることである。徳操が高い人間はたいてい夢中にならない。夢中になるのは暇人と呼ばれやすい下賤な人種である。たいていの人は自分の中に何も持ってないから、どうしても夢中になる対象は他者とかゲームのような享楽になってしまう。夢中になるという状態は、飽きるまでやるということであり、飽きたらやめるということである。何かに飛びついて障子や襖を破くようにして荒らし回っては飽き飽きして、その鮮度が落ちた廃墟を投げ捨て、また飛んだり跳ねたりしながら別の何かを探す繰り返しである。
少し力を抜いているくらいの人のほうがごく普通に努力しているし、あまり表情筋を動かさず、可笑しくもないことを平静にやっているから、これこそが霊山浄土の境地であり、努力も苦痛ではないはず。夢中になるとは要するにアディクションであり、取り憑かれて何かをやるとなると、たいていは短絡的なところに堕していく。自分では何もやることがない、という問題は、まず何より熱中したがる悪癖をアディクションとして断罪しなければならないし、何もやらなくても差支えないという結論に到達しなければならない。
変わり者の特徴は夢中になることである。徳操が高い人間はたいてい夢中にならない。夢中になるのは暇人と呼ばれやすい下賤な人種である。たいていの人は自分の中に何も持ってないから、どうしても夢中になる対象は他者とかゲームのような享楽になってしまう。夢中になるという状態は、飽きるまでやるということであり、飽きたらやめるということである。何かに飛びついて障子や襖を破くようにして荒らし回っては飽き飽きして、その鮮度が落ちた廃墟を投げ捨て、また飛んだり跳ねたりしながら別の何かを探す繰り返しである。
少し力を抜いているくらいの人のほうがごく普通に努力しているし、あまり表情筋を動かさず、可笑しくもないことを平静にやっているから、これこそが霊山浄土の境地であり、努力も苦痛ではないはず。夢中になるとは要するにアディクションであり、取り憑かれて何かをやるとなると、たいていは短絡的なところに堕していく。自分では何もやることがない、という問題は、まず何より熱中したがる悪癖をアディクションとして断罪しなければならないし、何もやらなくても差支えないという結論に到達しなければならない。
2017.04.03
路上で喧嘩する必要がなくなった
今だと、携帯電話が普及しているし監視カメラもあるから、トラブルになったら警察を呼ぶというのが常識である。
携帯が普及する前の世の中だと、路上でのトラブルは喧嘩で解決することになっており、殴り合いをしなければならなかった。
では、路上で殴り合っている人がそんなにいたかというと、ほとんどいなかったし、周囲を威嚇しながら粋がって歩いている人間ならたくさんいたという程度である。
つまり、喧嘩自慢というのは怪談と同じであり、端的に言えば作り話である。
とはいえ、われわれはずいぶん本気で路上の喧嘩を畏怖したり、もしくは自慢話を創作していたのである。
怪談を本気で怖がっている人も昔はいたであろうし、喧嘩の武勇伝も作り話ではあるが、プロレスを本気で見ていた時代であるし、このあたりの虚実は不分明であり、完全に割り切ってないものであった。
今から見ると総じて荒唐無稽に思えるのだが、その時代としては事実性を持っていた。
喧嘩という幽霊に関しては、いわゆるツッパリとして威嚇する人間はたくさんいたので、実際に殴り合う人間はほとんどいないにしても、現実的な畏怖として具現化していたのである。
虚言癖と言っていいのかもしれないが、しかし、集団で都市伝説を信じて話を大きくしているのであるから、伝言ゲームの問題であろう。
話が伝わるうちに尾ひれがついてどんどん大きくなっていくのである。
若者が草食化したと言うが、これは神経症的な抑圧の衰退が大きいにしても、やはり携帯電話やGPSや監視カメラの普及によって路上が照らし出され安全になった、というか、元から殴り合いなどしてないのだから、暗闇の中に幽霊を見出すようなことは荒唐無稽になったのである。
携帯が普及する前の世の中だと、路上でのトラブルは喧嘩で解決することになっており、殴り合いをしなければならなかった。
では、路上で殴り合っている人がそんなにいたかというと、ほとんどいなかったし、周囲を威嚇しながら粋がって歩いている人間ならたくさんいたという程度である。
つまり、喧嘩自慢というのは怪談と同じであり、端的に言えば作り話である。
とはいえ、われわれはずいぶん本気で路上の喧嘩を畏怖したり、もしくは自慢話を創作していたのである。
怪談を本気で怖がっている人も昔はいたであろうし、喧嘩の武勇伝も作り話ではあるが、プロレスを本気で見ていた時代であるし、このあたりの虚実は不分明であり、完全に割り切ってないものであった。
今から見ると総じて荒唐無稽に思えるのだが、その時代としては事実性を持っていた。
喧嘩という幽霊に関しては、いわゆるツッパリとして威嚇する人間はたくさんいたので、実際に殴り合う人間はほとんどいないにしても、現実的な畏怖として具現化していたのである。
虚言癖と言っていいのかもしれないが、しかし、集団で都市伝説を信じて話を大きくしているのであるから、伝言ゲームの問題であろう。
話が伝わるうちに尾ひれがついてどんどん大きくなっていくのである。
若者が草食化したと言うが、これは神経症的な抑圧の衰退が大きいにしても、やはり携帯電話やGPSや監視カメラの普及によって路上が照らし出され安全になった、というか、元から殴り合いなどしてないのだから、暗闇の中に幽霊を見出すようなことは荒唐無稽になったのである。
2017.04.01
フランケンシュタイン。社会への怨恨。
19世紀にメアリー・シェリーが書いた「フランケンシュタイン」(宍戸儀一訳)で怪物は、自らの造り主に対してこのように述べた。
おそらくこの憎悪は現在のフランケンシュタインのイメージにさほど強く反映されてないが、とはいえ、原作で描かれたこの感情に普遍性があるから、フランケンシュタインは今でも広く知られる作品なのであろう。
われわれはなぜかこの地球上に存在しているので、造り主は不明である。
この難問について縷々と書き綴っても結論が出ないし、宗教観の問題もあるからややこしいので筆は省くが、われわれは誰かに責任を求めずにはいられない。
そして責任だけではない。
全人類と和解するべく、だれかひとりの愛を求めるのである。
怪物はこのようにも叫んだのだ。
冨田真由さんが時計を送り返した時に「すべてを返せ」と岩崎友宏は言ったが、つまり社会全体が共犯であるという発想が根底にある。
過去にいろんな人から敬遠されてきて、そのすべての怨みが累積しており、その総決算を冨田真由さんに求めたのである。
これをただの異常者と片付けるのは容易い。
だが、過去にいろんな人から拒絶されたことで怨みを重ねているのは、そんなに珍しい発想ではあるまい。
たとえば差別問題などはその典型であろう。
差別の実行について、われわれは身に覚えがないにしても、いつの間にか社会的な共犯者として参加したことになっている。
傍観者として無意識の差別に加担していたらしいのである。
そして、差別されたという人たちは、その過去からの連綿たる怨みをすべて相続している債権者である。
社会としてこの債務を背負うという発想はあるらしいから、その溜まり溜まった怨恨を鎮めるべく、税金から喜捨して、身に覚えはないが、傍観者として共犯関係にあるらしい歴史的大罪を贖うのである。
われわれはお互いを花鳥風月として賞翫しているわけではなく、貪り尽くすこともあれば、踏み台にしたり、叩き落としたり、なぜかデスゲームをやっているので、その有責性の出処は不明ながら、図らずも業が深いということになるのであろう。
岩崎友宏に関しては、個人のパーソナリティに帰着する欠陥であるから、今のところ差別の要件には当て嵌まらないが、パワー系池沼が真人間になるのも難しい。
自らを律して粗暴性を脱却すべしということだろうが、自己改善できるとも思えない。
あちこちで疎略にされて恨み骨髄に徹しているのを「逆恨み」と呼ぶのは容易いが、われわれがこういう粗暴で馴れ馴れしい人種をパワー系として蔑んでいる罪かもしれないわけだ。
われわれはヤクザやDQNにはバイ菌として蔑むようには接しないし、恭しく道を譲っている。
それどころか若い女は、自ら好んで褥をともにすることも多々あるわけだ。
それに対して、岩崎友宏は明らかに侮蔑されており、DQNに股を開く女も逃げまどう。
われわれはこの手のパワー系を軽侮しているのだ。
岩崎友宏のような、いわば現代のフランケンシュタインたるパワー系池沼に対して、その粗暴性に懸念をおぼえながらも、わずかに善良な部分もあるし、軽んじて侮っているのである。
われわれはこの類の人間を犯罪者予備軍と誹りながらも、普段はそれなりに安全であるし、万が一の暴発を危惧しているだけである。
実行にまで至るのは稀であろうし、本気で悩むとすれば杞人天を憂うである。
フランケンシュタイン的な課題として見れば、われわれが必要以上に怪物を敬遠するからこそ憎悪が膨らんで、本当に血腥い怪物となったとも言える。
「フランケンシュタイン」の原作において、フランケンシュタインというのは造り主の名前である。
怪物に名前は付いていない。
とはいえ、ややこしいから、これは曖昧にしておく。
この造り主は怪物から「結婚式の夜には気をつけろ」と言われていたのだが、結婚式を挙げてしまう。
そうしたら花嫁を怪物に殺されるのである。
それこそ冨田真由さんと同じであり、侮っていたわけだ。
冨田真由さんに対して税金で補償をするべきかについてはいろいろと意見があると思うが、こういうフランケンシュタイン的怪物は泳がしておくしかないし、警察に責任はないにしても、厄介な人間を疎んじた人類の業として税金で贖われてもいいであろう。
事前に止めるわけにはいかないので、なにかしら事後的な補償がされてもいいであろうし、いわば保険制度として犯罪被害者給付金制度も理がある。
冨田真由さんは死んでないので、重傷者として支払われるのは120万円だとされている。
身体障害として第一級という解釈だと最高で4000万円支払われるそうである。
国家公安委員会では第一級だとこのような定義になっている。
あまり手厚く給付すると当事者の責任が曖昧になるし、若い美人が刃傷だらけになったからと言って、失明や全身麻痺と同等に扱うのかという問題はあろう。
40過ぎの婚活おばさんが滅多刺しにされたら、扱いが難しくなる。
とはいえ、ここまで述べてきた理由から、それなりの金銭的な給付はされて然るべきなのである。
「人間の男はみな妻を見つけて抱き、動物もそれぞれ相棒をもっているのに、おれはひとりぼっちなのか。おれは愛情をもっているが、それが嫌悪と軽蔑で報いられた。おい! おまえは憎むかもしれないが、気をつけろ! おまえの一生が怖ろしいみじめなものになり、やがておまえから永久に幸福を奪い去らずにおかぬ電戟が、おみまいするからな。こんなみじめなありさまでおれが匍いずりまわっているというのに、おまえが幸福でいてよいものかね? おまえは、おれのそのほかの情熱を枯らすことができるとしても、復讐心だけは残るよ――これからは光や食べものよりもたいせつな復讐心だけは! おれは死ぬかもしれないが、まず、おれの暴君、おれの苦しみの種であるおまえを、自分の不幸を見下ろす太陽を呪うようにしてやる。気をつけろ、おれは恐れないし、力があるからな。おれは、毒牙で咬んでやるために、蛇の狡猾さでもって見守ってやる。やい、ひどい目にあって後悔するな。」
おそらくこの憎悪は現在のフランケンシュタインのイメージにさほど強く反映されてないが、とはいえ、原作で描かれたこの感情に普遍性があるから、フランケンシュタインは今でも広く知られる作品なのであろう。
われわれはなぜかこの地球上に存在しているので、造り主は不明である。
この難問について縷々と書き綴っても結論が出ないし、宗教観の問題もあるからややこしいので筆は省くが、われわれは誰かに責任を求めずにはいられない。
そして責任だけではない。
全人類と和解するべく、だれかひとりの愛を求めるのである。
怪物はこのようにも叫んだのだ。
「わたしはよく話しあうつもりでした。こんな激情がわたしには有害なのですよ。あんたは自分がその激情をよけいにした原因だということを考えてくれないからね。もしも誰かがわたしに慈悲ぶかい気もちをもつならば、わたしはそれを何万倍にもしておかえししますよ。というのは、その一人の人のためなら、全人類と和解してもいいからですよ!」
冨田真由さんが時計を送り返した時に「すべてを返せ」と岩崎友宏は言ったが、つまり社会全体が共犯であるという発想が根底にある。
過去にいろんな人から敬遠されてきて、そのすべての怨みが累積しており、その総決算を冨田真由さんに求めたのである。
これをただの異常者と片付けるのは容易い。
だが、過去にいろんな人から拒絶されたことで怨みを重ねているのは、そんなに珍しい発想ではあるまい。
たとえば差別問題などはその典型であろう。
差別の実行について、われわれは身に覚えがないにしても、いつの間にか社会的な共犯者として参加したことになっている。
傍観者として無意識の差別に加担していたらしいのである。
そして、差別されたという人たちは、その過去からの連綿たる怨みをすべて相続している債権者である。
社会としてこの債務を背負うという発想はあるらしいから、その溜まり溜まった怨恨を鎮めるべく、税金から喜捨して、身に覚えはないが、傍観者として共犯関係にあるらしい歴史的大罪を贖うのである。
われわれはお互いを花鳥風月として賞翫しているわけではなく、貪り尽くすこともあれば、踏み台にしたり、叩き落としたり、なぜかデスゲームをやっているので、その有責性の出処は不明ながら、図らずも業が深いということになるのであろう。
岩崎友宏に関しては、個人のパーソナリティに帰着する欠陥であるから、今のところ差別の要件には当て嵌まらないが、パワー系池沼が真人間になるのも難しい。
自らを律して粗暴性を脱却すべしということだろうが、自己改善できるとも思えない。
あちこちで疎略にされて恨み骨髄に徹しているのを「逆恨み」と呼ぶのは容易いが、われわれがこういう粗暴で馴れ馴れしい人種をパワー系として蔑んでいる罪かもしれないわけだ。
われわれはヤクザやDQNにはバイ菌として蔑むようには接しないし、恭しく道を譲っている。
それどころか若い女は、自ら好んで褥をともにすることも多々あるわけだ。
それに対して、岩崎友宏は明らかに侮蔑されており、DQNに股を開く女も逃げまどう。
われわれはこの手のパワー系を軽侮しているのだ。
岩崎友宏のような、いわば現代のフランケンシュタインたるパワー系池沼に対して、その粗暴性に懸念をおぼえながらも、わずかに善良な部分もあるし、軽んじて侮っているのである。
われわれはこの類の人間を犯罪者予備軍と誹りながらも、普段はそれなりに安全であるし、万が一の暴発を危惧しているだけである。
実行にまで至るのは稀であろうし、本気で悩むとすれば杞人天を憂うである。
フランケンシュタイン的な課題として見れば、われわれが必要以上に怪物を敬遠するからこそ憎悪が膨らんで、本当に血腥い怪物となったとも言える。
「フランケンシュタイン」の原作において、フランケンシュタインというのは造り主の名前である。
怪物に名前は付いていない。
とはいえ、ややこしいから、これは曖昧にしておく。
この造り主は怪物から「結婚式の夜には気をつけろ」と言われていたのだが、結婚式を挙げてしまう。
そうしたら花嫁を怪物に殺されるのである。
それこそ冨田真由さんと同じであり、侮っていたわけだ。
冨田真由さんに対して税金で補償をするべきかについてはいろいろと意見があると思うが、こういうフランケンシュタイン的怪物は泳がしておくしかないし、警察に責任はないにしても、厄介な人間を疎んじた人類の業として税金で贖われてもいいであろう。
事前に止めるわけにはいかないので、なにかしら事後的な補償がされてもいいであろうし、いわば保険制度として犯罪被害者給付金制度も理がある。
冨田真由さんは死んでないので、重傷者として支払われるのは120万円だとされている。
身体障害として第一級という解釈だと最高で4000万円支払われるそうである。
国家公安委員会では第一級だとこのような定義になっている。
両眼が失明したもの
咀嚼(そしゃく)及び言語の機能を廃したもの
神経系統の機能又は精神に著しい障害を残し、常に介護を要するもの
胸腹部臓器の機能に著しい障害を残し、常に介護を要するもの
両上肢をひじ関節以上で失ったもの
両上肢の用を全廃したもの
両下肢をひざ関節以上で失ったもの
両下肢の用を全廃したもの
あまり手厚く給付すると当事者の責任が曖昧になるし、若い美人が刃傷だらけになったからと言って、失明や全身麻痺と同等に扱うのかという問題はあろう。
40過ぎの婚活おばさんが滅多刺しにされたら、扱いが難しくなる。
とはいえ、ここまで述べてきた理由から、それなりの金銭的な給付はされて然るべきなのである。