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2017.04.29
威張る人間を止める根拠が無いので、こちらも対抗して威張る
威張るという愚行が世の中を支配している。その大廈高楼のように聳え立つ虚像に睥睨されつつ、ひとりの窮民として「お願いだから威張らないでください」と頼んでも無駄であるし、血腥い凶行に及ぶことなく反撃するとすれば、威張り返すくらいしかない。お互いに何様のつもりだと罵り合ってイーブンにするしかないのである。あまりにもくだらない話であるが、誰が偉いのか、というのがまったく決まってないからこそ、人類というゲームが成り立っている。このゲームをやりたいわけではないし、むしろスイッチを押したら自分自身が消えるのなら喜んで押すけれども、轢死体のような惨たらしい姿にならずに自殺する手段は封じられているし、不承不承このゲームの続行を受諾しているのである。なぜ人類いたるところに身分制度があるかというと、身分などないからである。誰も偉くないから身分制度がある。偉い人と偉そうな人の区別がつかないだけでなく、そもそも人類史において偉い人はかつてひとりも存在してないし、あくまで偉そうな人しかいない。偉くない囚人が雑居房に放り込まれて、そこから自らの縄張りを形成していくのであるから、誰が誰にマウントを取ってもおかしくないし、どのようなカーストも成り立ち得るし、もしくは覆す余地はある。偉い人に反抗してひどい火傷を負ったという人もいるだろうから、卑屈に振る舞うのも生存戦略ではあるけれども、偉い人が存命中に失脚することだって普通にあるし、そうでなければ、人間の寿命が短いので、なんとか勝ち逃げして、棺桶から勝利宣言するだけである。死んだら無であるのに勝ち逃げもくそもないが、せいぜいその勝ち方しかなく、また寿命だけが物差しであるから、その尺でわれわれの人生という体感は満たされており、歴史書を書き綴ったり紐解いたり出来るとしても、不老長寿の立場から栄枯盛衰を眺めるわけにもいかず、偉いとか偉くないとか流転する虚しさを見通す具眼者にはなれないので、生きているからには、花鳥風月や山岳信仰とは別の、この生々しい俗悪なエゴにまみれた生命体として威張り合うしかないのである。
2017.04.28
子役は手足
加藤智大の母親は大学受験に失敗した高卒だが、懲りずに息子を手足として使って再挑戦してまた失敗したのである。
果たしてこういう業病と無縁の人間がどれだけいるのか、という話である。
本当に感染しないような健全さを持っている人間がいるのか疑問である。
理想に取り憑かれやすい人間と、そうでない平々凡々たる人間の気質の差はあるだろうが、完全に切り分けることは出来まい。
たとえば芦田愛菜と加藤智大はまったく別の生物のようにも見えるが、これは環境の差とも言えるわけだ。
あるいは、はるかぜと芦田愛菜が産院で取り違えられたら、いくら素質が違いすぎるとはいえ、あのババアの娘という時点で、頭をもがれた「手足」として生きるしかないし、その条件だと、芦田愛菜でも女子学院には合格出来なかったであろう。
芦田愛菜はたまたま「手足」として使われなかっただけである。
たいていの子役は「手足」である。
(産院で取り違えられたとして)芦田愛菜という手足が受験に失敗したとすれば、頭脳であるババアからかなり深く怨まれたであろう。
頭脳(はるかぜババア)が手足(芦田愛菜)を憎むわけである。
幸いなことに産院で取り違えられてないので、芦田愛菜は手足だけの存在にならずに、つまり、頭をもがれることなく女子学院に合格することが出来たが、これは環境に恵まれたのであろう。
手足だけでなく頭のついた人間として扱ってもらえるのは恵まれている。
芦田愛菜の母親が天性の聖人君子とは限らないし、むしろ本当の聖者なら子どもを子役にはしないし、たまたま宮沢りえや安達祐実の母親ほどこじらせなかっただけであろう。
果たしてこういう業病と無縁の人間がどれだけいるのか、という話である。
本当に感染しないような健全さを持っている人間がいるのか疑問である。
理想に取り憑かれやすい人間と、そうでない平々凡々たる人間の気質の差はあるだろうが、完全に切り分けることは出来まい。
たとえば芦田愛菜と加藤智大はまったく別の生物のようにも見えるが、これは環境の差とも言えるわけだ。
あるいは、はるかぜと芦田愛菜が産院で取り違えられたら、いくら素質が違いすぎるとはいえ、あのババアの娘という時点で、頭をもがれた「手足」として生きるしかないし、その条件だと、芦田愛菜でも女子学院には合格出来なかったであろう。
芦田愛菜はたまたま「手足」として使われなかっただけである。
たいていの子役は「手足」である。
(産院で取り違えられたとして)芦田愛菜という手足が受験に失敗したとすれば、頭脳であるババアからかなり深く怨まれたであろう。
頭脳(はるかぜババア)が手足(芦田愛菜)を憎むわけである。
幸いなことに産院で取り違えられてないので、芦田愛菜は手足だけの存在にならずに、つまり、頭をもがれることなく女子学院に合格することが出来たが、これは環境に恵まれたのであろう。
手足だけでなく頭のついた人間として扱ってもらえるのは恵まれている。
芦田愛菜の母親が天性の聖人君子とは限らないし、むしろ本当の聖者なら子どもを子役にはしないし、たまたま宮沢りえや安達祐実の母親ほどこじらせなかっただけであろう。
2017.04.26
JINSで眼鏡を買った
JINSで眼鏡を買ってみたので体験談を書いてみたい。
わたしが最初に訪れたのは似たような業態のZoffであった。
ふらりと入って店員さんに薄型レンズについて尋ねてみたら、追加料金が発生すると言うので、ちょっと考えてみると言って数分で店を出た。
その後でネットで調べるとJINSの方は薄型でも追加料金がいらないという。
屈折率が高いほど薄くて値段も高いのだが、Zoffだと標準が1.55であり、1.67にすると追加料金7000円、1.74だと9000円する。
これはZoffが暴利を貪っているわけではなく相場なのであろうが、安いイメージが有るだけに釈然としないし、安さは擬態でしかない。
その翌日、わたしはJINSを訪れた。
レンズについてはこちらから言わず、まず購入を決めて、最後の方で店員さんの方からレンズのことを言われたのだが、「1.74は在庫がないので受け取りが後日になる」ということだった。
これもひとつの後出しではある。
本当に在庫がないというよりは、1.74だと赤字になってしまうのであろう。
なかなか1.74は出したがらないようだ。
とはいえ、1.70ということだったので、ずいぶん良心的に思えた。
レンズを含めて5000円の品物であったから、1.70でもかなりの出血サービスであろう。
客寄せのロスリーダーとしてドンキホーテが清涼飲料水を投げ売りしてるならともかく、メガネ屋の眼鏡がこんなに安くていいのか恐縮するところもある。
1時間未満で完成して当日受け取りというのはまったく知らなかったので、カルチャーショックを受けた。
出来上がった製品も明らかにレンズが薄いので、本当に1.70なのだろう。
手にとって矯めつ眇めつ検分してみて、洒落たこの眼鏡がとても5000円とは思えない。
決して高級品ではないし、フレームは安物だろうが、似たような度数の薄型レンズではない眼鏡と並べてみると、明らかに薄いのである。
果たしてこれで儲けが出ているのか謎である。
軽い近視であれば薄型レンズの必要はあるまいし、意外とそういう人がたくさんいて、ヘビーユーザーの赤字を多数のライトユーザーが埋め合わせる構図を想像したりするが、その裏付けはない。
薄型レンズでなければZoffでも価格は変わらないが、Zoffに優位性があるわけではない。
隙あらば薄型レンズで追加料金を取ろうと、悪魔の形をした影法師が追尾してくるのであるから、Zoffを選ぶ理由はないであろう。
ともかく薄型レンズにしたいならJINSがいいに決っている。
ちなみに有価証券報告書を見てみると、JINSは儲かっている。
http://pdf.irpocket.com/C3046/irQp/VVpV/B5YQ.pdf
平成24年と平成28年を比較すると、業績も伸びている。
売上高 218億円→408億円
当期純利益 11億円→24億円
Zoffは上場してないのでメガネスーパーを調べると、こんな具合。
売上高 192億円→157億円
当期純利益 △19億円→4億円
なぜか知らないがJINSは業績好調であるから、負い目を感じることはなく、何種類も作って構わないだろう。
わたしが最初に訪れたのは似たような業態のZoffであった。
ふらりと入って店員さんに薄型レンズについて尋ねてみたら、追加料金が発生すると言うので、ちょっと考えてみると言って数分で店を出た。
その後でネットで調べるとJINSの方は薄型でも追加料金がいらないという。
屈折率が高いほど薄くて値段も高いのだが、Zoffだと標準が1.55であり、1.67にすると追加料金7000円、1.74だと9000円する。
これはZoffが暴利を貪っているわけではなく相場なのであろうが、安いイメージが有るだけに釈然としないし、安さは擬態でしかない。
その翌日、わたしはJINSを訪れた。
レンズについてはこちらから言わず、まず購入を決めて、最後の方で店員さんの方からレンズのことを言われたのだが、「1.74は在庫がないので受け取りが後日になる」ということだった。
これもひとつの後出しではある。
本当に在庫がないというよりは、1.74だと赤字になってしまうのであろう。
なかなか1.74は出したがらないようだ。
とはいえ、1.70ということだったので、ずいぶん良心的に思えた。
レンズを含めて5000円の品物であったから、1.70でもかなりの出血サービスであろう。
客寄せのロスリーダーとしてドンキホーテが清涼飲料水を投げ売りしてるならともかく、メガネ屋の眼鏡がこんなに安くていいのか恐縮するところもある。
1時間未満で完成して当日受け取りというのはまったく知らなかったので、カルチャーショックを受けた。
出来上がった製品も明らかにレンズが薄いので、本当に1.70なのだろう。
手にとって矯めつ眇めつ検分してみて、洒落たこの眼鏡がとても5000円とは思えない。
決して高級品ではないし、フレームは安物だろうが、似たような度数の薄型レンズではない眼鏡と並べてみると、明らかに薄いのである。
果たしてこれで儲けが出ているのか謎である。
軽い近視であれば薄型レンズの必要はあるまいし、意外とそういう人がたくさんいて、ヘビーユーザーの赤字を多数のライトユーザーが埋め合わせる構図を想像したりするが、その裏付けはない。
薄型レンズでなければZoffでも価格は変わらないが、Zoffに優位性があるわけではない。
隙あらば薄型レンズで追加料金を取ろうと、悪魔の形をした影法師が追尾してくるのであるから、Zoffを選ぶ理由はないであろう。
ともかく薄型レンズにしたいならJINSがいいに決っている。
ちなみに有価証券報告書を見てみると、JINSは儲かっている。
http://pdf.irpocket.com/C3046/irQp/VVpV/B5YQ.pdf
平成24年と平成28年を比較すると、業績も伸びている。
売上高 218億円→408億円
当期純利益 11億円→24億円
Zoffは上場してないのでメガネスーパーを調べると、こんな具合。
売上高 192億円→157億円
当期純利益 △19億円→4億円
なぜか知らないがJINSは業績好調であるから、負い目を感じることはなく、何種類も作って構わないだろう。
2017.04.25
ルールを分析する能力
たとえば交通法規の理解について、運転免許の筆記試験に合格できればよいと言えるし、なぜそういう法規になっているのか分析する必要はない。
ルールを知っていれば足りるのである。
比喩を展開させていくと話が逸れるし、車の運転と人生のハンドリングでは話が違うであろうから、この喩え話に沿って長々と述べることはしないが、ルールを知っていることと、なぜそういうルールなのか考察することは、物事への理解の次元としてまた別である。
個人差はあるにしても、女子は小さい頃は男子より利発である。
女子はあらかじめ社会のルールが身についた状態で生まれてくる。
これは不思議な事ではあるまいし、われわれの経験の仕組みそのものが脳内で作られるから、最初からわかっていて不思議ではない。
いわゆる直観の問題である。
外国語が翻訳可能なのは、たとえば動詞(動物のアクション)が決まりきっているからであろう。
アクションが同じだから、だいたい動詞は同じである。
もちろん他の品詞も同じことである。
認識の仕組みが同じだから、対象を表現する名詞も、その印象を叙述する形容詞も、だいたい同じなのである。
直観とは物事を自明性で捉えることである。
よく観察していれば、当たり前のことだらけであるし、それが直観である。
決して超能力ではなく、周囲をよく見て馴染んでいくだけである。
社会性ということについて、個人差はあるが、男子は試行錯誤が必要である。
説明されてようやく気づいていく。
女子は説明される前から直観で把握しているから、いろいろと見落としている男子が馬鹿に思えて仕方ないであろうし、世の中の仕組みについて、なぜそうなっているのかと思い悩む動機は乏しい。
津田大介やロンブー淳のように、女子のような直観の強さを持った男子もいるのだが、彼らは世渡り上手である一方で、やはり後半生はずいぶん馬鹿である。
説明されなくても社会のことがよくわかっているので、いろいろと考えて分析してようやく理解するという男子らしいプロセスは省かれている。
言うまでもないが、男子だから分析力があるわけではない。
直感力と分析力の両方が欠けていることもある。
自閉傾向のある男子は、直観の弱さを説明や分析力で補うべきなのだが、盲人が右往左往しているだけということもある。
ルールを知っていれば足りるのである。
比喩を展開させていくと話が逸れるし、車の運転と人生のハンドリングでは話が違うであろうから、この喩え話に沿って長々と述べることはしないが、ルールを知っていることと、なぜそういうルールなのか考察することは、物事への理解の次元としてまた別である。
個人差はあるにしても、女子は小さい頃は男子より利発である。
女子はあらかじめ社会のルールが身についた状態で生まれてくる。
これは不思議な事ではあるまいし、われわれの経験の仕組みそのものが脳内で作られるから、最初からわかっていて不思議ではない。
いわゆる直観の問題である。
外国語が翻訳可能なのは、たとえば動詞(動物のアクション)が決まりきっているからであろう。
アクションが同じだから、だいたい動詞は同じである。
もちろん他の品詞も同じことである。
認識の仕組みが同じだから、対象を表現する名詞も、その印象を叙述する形容詞も、だいたい同じなのである。
直観とは物事を自明性で捉えることである。
よく観察していれば、当たり前のことだらけであるし、それが直観である。
決して超能力ではなく、周囲をよく見て馴染んでいくだけである。
社会性ということについて、個人差はあるが、男子は試行錯誤が必要である。
説明されてようやく気づいていく。
女子は説明される前から直観で把握しているから、いろいろと見落としている男子が馬鹿に思えて仕方ないであろうし、世の中の仕組みについて、なぜそうなっているのかと思い悩む動機は乏しい。
津田大介やロンブー淳のように、女子のような直観の強さを持った男子もいるのだが、彼らは世渡り上手である一方で、やはり後半生はずいぶん馬鹿である。
説明されなくても社会のことがよくわかっているので、いろいろと考えて分析してようやく理解するという男子らしいプロセスは省かれている。
言うまでもないが、男子だから分析力があるわけではない。
直感力と分析力の両方が欠けていることもある。
自閉傾向のある男子は、直観の弱さを説明や分析力で補うべきなのだが、盲人が右往左往しているだけということもある。
2017.04.24
スマホ8000円時代の終わり
大手キャリアでスマホを維持しようとすると月額8000円してしまうというおかしな状態が続いているが、iPhone SEの評判がよいらしいので、そろそろ流れが変わるであろう。
iPhone SEはだいたいiPhone 6sくらいの性能とされているが、画面が4インチと小さいのが特徴である。
4インチというのをプラスと捉えるかマイナスと捉えるか、それはその人次第であろう。
アップル公式でSIMフリーのiPhoneが売っているが、だいたいこんな具合。
iPhone 7 plus(128GB)96800円 (税別)
iPhone 6s(128GB)72800円(税別)
iPhone SE(32GB)44800円(税別)
iPhone SE(128GB)55800円(税別)
iPhone SEの128GBにするとして、AppleCare+は12800円だが、AppleCare+に入らずとも一年の保証はあるのだし、二年縛りがないのだから、壊れたらどうしようとビクビクする必要はない。
壊れたら買い直せばいいだけである。
SIMフリー時代においては壊れるまで使うという当たり前の行動が取れる。
AppleCare+に入らないとすれば、 税込み6万円である。
これを二年で割るなら月額2500円である。
(32GBの方なら月額2000円である)。
これに格安SIMを刺すとして、たとえば楽天モバイルの通話SIMは3.1GBプランで月額1600円である。
不透明の裏技ではなく、だいたい四千円くらいでiPhoneが維持できるわけだ。
格安SIMについてネガキャンする記事も見かけるが、あれは大手キャリアが書かせているのであろう。
アップルストアでiPhoneを買って、どこかの格安SIMと契約するのがそんなに難しいとは思えない。
やはりアップルストアでSIMフリーのiPhoneが売られているのは信頼性を高めるし、iPhone SEの評判もよいから、この正義が版図を広げていくことになるであろう。
iPhone SEはだいたいiPhone 6sくらいの性能とされているが、画面が4インチと小さいのが特徴である。
4インチというのをプラスと捉えるかマイナスと捉えるか、それはその人次第であろう。
アップル公式でSIMフリーのiPhoneが売っているが、だいたいこんな具合。
iPhone 7 plus(128GB)96800円 (税別)
iPhone 6s(128GB)72800円(税別)
iPhone SE(32GB)44800円(税別)
iPhone SE(128GB)55800円(税別)
iPhone SEの128GBにするとして、AppleCare+は12800円だが、AppleCare+に入らずとも一年の保証はあるのだし、二年縛りがないのだから、壊れたらどうしようとビクビクする必要はない。
壊れたら買い直せばいいだけである。
SIMフリー時代においては壊れるまで使うという当たり前の行動が取れる。
AppleCare+に入らないとすれば、 税込み6万円である。
これを二年で割るなら月額2500円である。
(32GBの方なら月額2000円である)。
これに格安SIMを刺すとして、たとえば楽天モバイルの通話SIMは3.1GBプランで月額1600円である。
不透明の裏技ではなく、だいたい四千円くらいでiPhoneが維持できるわけだ。
格安SIMについてネガキャンする記事も見かけるが、あれは大手キャリアが書かせているのであろう。
アップルストアでiPhoneを買って、どこかの格安SIMと契約するのがそんなに難しいとは思えない。
やはりアップルストアでSIMフリーのiPhoneが売られているのは信頼性を高めるし、iPhone SEの評判もよいから、この正義が版図を広げていくことになるであろう。
2017.04.23
買い物は人生
金がなくて時間が余っていると、いわば虫刺されを掻き毟っているような状態であり、化膿して腐臭が漂い、さらに掻き毟るのである。財布からお金を出さない人間は、こういう痒みが深く根を張った閉塞感を生きている。金銭を使った消費こそが環境世界を更新する。そもそもわれわれの存在とは何ぞやというと、所有である。所有物と一緒に作り出される環境世界こそが人間存在である。裸一貫の原始人のような自分があって、たまたまそれが何かを所有しているのではなく、むしろ所有物が自分なのである。洋服や住んでいる家を取り除いて人間を考える必要はあるまい。浪費で人生を台無しにする放蕩人も少なからずいるから、われわれは訓戒めいた吝嗇を説くのであるが、買い物こそが人生という本質を見失っている。浪費で自己破産するのはよくないが、しかしそれでも買い物こそが人間である。そして、その買い物の楽しさにより、QOLの向上を体感しなければならない。切れた電球を買い換えるような買い物は本当につまらない。あくまで環境世界の現状維持でしかないし、道具によって自己が拡張されていく楽しさも真新しさもないからだ。これが、蛍光灯を捨ててLEDに替えるのであれば、環境世界がバージョンアップされるのである。蛍光灯とLEDでは文字の鮮明さがまったく違う。文盲であれば変わりがないだろうが、文字を読むならLEDの方が格段に綺麗である。高い電気カミソリと安い電気カミソリでは切れ味が違うし、高ければ数分で剃り残しがないように仕上げられる。LEDや高級電気カミソリこそが、人間存在である。あるいは、実用性のない綺羅びやかな雑貨などは無駄遣いのように思えるが、小綺麗な環境世界を作れるのであればいいであろうし、精神衛生としてまったくのムダとは言えない。情報にも金は払うべきだし、最近だとwikipediaの切り貼りで済ませている人が多いが、有料の事典を買えば、それで環境世界が拡張される。WELQ(ウェルク)を読んでいるよリは、医学事典を買ったほうが環境世界が充実する。辞書とか事典とか、せいぜい数千円か、高くても一万円くらいであろうし、DeNAに文句を付けているよりは、自分で辞典・事典を買ったほうが手っ取り早いし、ネットの切り貼りとは別の環境世界を手にすることが出来る。貧困家庭の方がADHDになりやすいとされるが、やはり貧乏だと現状維持的なライフスタイルになるのも理由としてあるだろうし、死んでも金を払わないという抵抗運動をしているのだからさぞかし退屈と思われるし、暴れまわるくらいしかないのである。
2017.04.20
リトグリ脱退の謎
https://twitter.com/LittleGleeMonst/status/848481389066436608

Little Glee Monsterは歌がうまいブスの集まりであり、楽曲も中途半端であるが、それでも武道館を超満員にするなど、ずいぶん勢いがある。
辛うじて武道館にたどり着いて、もう下山する力はなく、そこからは凍傷で壊死した肢体がもげるのを待つような事例をしばし見受けるが、リトグリはかなり余裕を持って埋めているし、これからも動員力は続くと思われる。
それなのに、なぜか脱退するメンバーがいるようである。
脱退する発表の前に本人が、「ちょっとした裏側」とツイートして、天使、哺乳瓶、指輪の絵文字を使うわかりやすさである。
本人はまったく隠す気がないのであろうし、若い身空でデキ婚するのであろう。
高校に進学しているのかはしらないが、年齢的にはそろそろ19歳らしいから、本人の意志で結婚できるわけである。
アーティスト云々言ってるのは方便であろうし、そういうもっともらしい理由を本人が嫌ったから、丸わかりのツイートをしたのであろう。
根も葉もない噂というよりは、事務所が隠蔽しても、本人に隠蔽する気がないのだから、真相は漆黒の闇に沈んだわけではなく、あらかさまに曝け出され、皎然とした月明かりに照らされている。
どうせわかることなら仄めかしておくのも、そう悪くはないし、むしろこれくらいあっさりしていると好感すら持てる。
リトグリという枠から離れたら何も残らないだろうから、この断捨離によって本人が失う利益は計り知れないし、こういう露悪的なヤンママが誕生する場面は過去に何度も見たが、今はサバサバしていても、いずれその傷痕が幻肢痛のように疼くのである。

Little Glee Monsterは歌がうまいブスの集まりであり、楽曲も中途半端であるが、それでも武道館を超満員にするなど、ずいぶん勢いがある。
辛うじて武道館にたどり着いて、もう下山する力はなく、そこからは凍傷で壊死した肢体がもげるのを待つような事例をしばし見受けるが、リトグリはかなり余裕を持って埋めているし、これからも動員力は続くと思われる。
それなのに、なぜか脱退するメンバーがいるようである。
脱退する発表の前に本人が、「ちょっとした裏側」とツイートして、天使、哺乳瓶、指輪の絵文字を使うわかりやすさである。
本人はまったく隠す気がないのであろうし、若い身空でデキ婚するのであろう。
高校に進学しているのかはしらないが、年齢的にはそろそろ19歳らしいから、本人の意志で結婚できるわけである。
アーティスト云々言ってるのは方便であろうし、そういうもっともらしい理由を本人が嫌ったから、丸わかりのツイートをしたのであろう。
根も葉もない噂というよりは、事務所が隠蔽しても、本人に隠蔽する気がないのだから、真相は漆黒の闇に沈んだわけではなく、あらかさまに曝け出され、皎然とした月明かりに照らされている。
どうせわかることなら仄めかしておくのも、そう悪くはないし、むしろこれくらいあっさりしていると好感すら持てる。
リトグリという枠から離れたら何も残らないだろうから、この断捨離によって本人が失う利益は計り知れないし、こういう露悪的なヤンママが誕生する場面は過去に何度も見たが、今はサバサバしていても、いずれその傷痕が幻肢痛のように疼くのである。
2017.04.19
自分に限界があるから逃避して他人に首を突っ込む
「ドイツ・イデオロギー」マルクス/エンゲルス(花崎皋平訳)
時たまダルビッシュとか為末大が、「自分のことに時間を使ってください」とか、それを言ったらおしまいという寒々しい発言をすることがある。
われわれが他人に首を突っ込むのは、自分には限界を感じているからだし、現実逃避として他人の応援に精を出すのだが、この逃避行動こそがスポーツ観戦なのだから、その興は削がない方が適切だし、アスリートとして生活しているのであれば、野次馬も致し方がないと思うべきであろう。
ネットで暇人と言われてしまう人は、自分に絶望しているのであろうし、それでいて溢れるばかりのエネルギーを持っている。
人生が詰んだという言い回しがあるが、どれだけ駄目人間であろうが、算数のドリルからやり直せば少しはマシになるはずだ。
それをしないのは、僅かに改善したところで何になるという認識なのだろう。
30点の自分を40点に改善しても意味がないと思っているらしく、しかし本当の自分にふさわしい煌めくような人生がどこかにあると爛々と目を光らせる野心家なのであり、そうかと言って、自分ではやることがないから、他人に取り憑こうとするのである。
戦後の教育ママという現象は、専業主婦の家事労働の負担が減って時間が有り余っていたからであろう。
最近であれば、共働きで忙しいかもしれないし、昔のような母親は減ったという漠たる印象はある。
労働によって人間が疎外されるとマルクスは言ったが、どっちみち自分でやることなど無い人が大半であろうし、自由時間という地獄から人間を救済するために労働があるとも言える。
常識的な人間でも何らかの理由で膨大な自由時間を与えられたら、ネットで大暴れしないまでも、持て余すことはあるに違いない。
やはり人間は他人に関わることに飢えており、この飢えを有効活用するためには、資本に雇われて言われた仕事をやるのが需要と供給をマッチさせるのであろう。
労働が分割され始めるやいなや、各人は、ある特定の活動範囲だけにとどまるように強いられ、そこから抜け出すことが出来なくなる。
彼は猟師、漁夫、または牧人、または批判的批評家のいずれかであって、生活の手立てを失うまいと思えば、どこまでもそのいずれかであり続けねばならない。
これに対して共産主義社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をも持たず、どこでも好きな部門で自分の腕を磨くことが出来るのであって、社会が生産全般を統制しているのである。
だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかも、決して、猟師、漁夫、牧人、批判家にならなくてよいのである。
時たまダルビッシュとか為末大が、「自分のことに時間を使ってください」とか、それを言ったらおしまいという寒々しい発言をすることがある。
われわれが他人に首を突っ込むのは、自分には限界を感じているからだし、現実逃避として他人の応援に精を出すのだが、この逃避行動こそがスポーツ観戦なのだから、その興は削がない方が適切だし、アスリートとして生活しているのであれば、野次馬も致し方がないと思うべきであろう。
ネットで暇人と言われてしまう人は、自分に絶望しているのであろうし、それでいて溢れるばかりのエネルギーを持っている。
人生が詰んだという言い回しがあるが、どれだけ駄目人間であろうが、算数のドリルからやり直せば少しはマシになるはずだ。
それをしないのは、僅かに改善したところで何になるという認識なのだろう。
30点の自分を40点に改善しても意味がないと思っているらしく、しかし本当の自分にふさわしい煌めくような人生がどこかにあると爛々と目を光らせる野心家なのであり、そうかと言って、自分ではやることがないから、他人に取り憑こうとするのである。
戦後の教育ママという現象は、専業主婦の家事労働の負担が減って時間が有り余っていたからであろう。
最近であれば、共働きで忙しいかもしれないし、昔のような母親は減ったという漠たる印象はある。
労働によって人間が疎外されるとマルクスは言ったが、どっちみち自分でやることなど無い人が大半であろうし、自由時間という地獄から人間を救済するために労働があるとも言える。
常識的な人間でも何らかの理由で膨大な自由時間を与えられたら、ネットで大暴れしないまでも、持て余すことはあるに違いない。
やはり人間は他人に関わることに飢えており、この飢えを有効活用するためには、資本に雇われて言われた仕事をやるのが需要と供給をマッチさせるのであろう。
2017.04.18
マスゴミを動画で晒すという望みが叶った
われわれの正義は迂回しており、直接的に投げかけられるよりは、間接的に投げかけられるのが大半である。
その場では有耶無耶にやり過ごしておいて、後で愚痴ったりして、その愚痴が流通してルールになったりする。
当事者の間でルールが形成されるというよりは、別のところで火柱が上がって回覧板のように回ってくるのである。
われわれはマスゴミに漠然とした批判をしてはいるし、マスゴミも目にしてはいるだろうが、やはり武力の差という問題があるから、弱々しい間接的な批判など意に介さないチンピラも立ち現れる。
今回の共同通信の記者もヤクザではないだろうし、むしろ社会階級としてはアッパークラスに属しており、威張ると通じるという経験が蓄積しているだけであろうから、そこらの不良公務員と同類である。
権力が威張るのは合理性があり、ひとびとは屈辱を畏怖することで沈黙する。
われわれの大半はマスゴミに暴言を吐かれたことなどないのだが、とはいえ、暴言を吐かれる想像はしている。
マスゴミの前ではおとなしくしてないと、恥をかかされると思っているわけだ。
実のところ、この世界の屈辱の大半は、そういう仮想問答である。
われわれは屈辱を避けているから、屈辱の恐れがあるだけで充分なのである。
つまりリンチされるのを恐れているのであり、実際にはリンチされてない。
このような恐怖イメージこそが権力なのである。
全員を支配する必要はない、というより、無理なのであるから、逆らったらリンチされると畏怖させればよい。
それを何らかの形で討ちたいというひとびとの怨嗟も積み重なるので、特権階級がカルマから逃げ切れずに討ち取られることもままある。
とりあえずこの共同通信の記者が解雇されるかどうかが見ものである。
憎悪されることによって巨大になったのであろうから、やはりこの怪物を倒したというシンボリックな成果が必要であるし、具体的には問題の記者が共同通信社から解雇されるかどうか、なのである。
見せしめが行われれば、あらゆるマスゴミ関係者に恐怖を与えることが出来るし、それが倫理となる。
解雇されないとすればどうなるか、それは共同通信社が畏怖するべき問題である。
2017.04.16
音楽は0秒で体験できる
たとえば4分の曲があるとする。
これを0秒でイメージできるかというと、可能ではある。
そもそも4分掛けて曲を聴き終わった瞬間の状態を考えてみてもらいたい。
その終了時点で、4分は過去である。
短期記憶でつなげている状態でしかないし、0秒で4分を経験したつもりになっているだけだ。
曲が始まって3分の時点でも、そこまでの経過は記憶でしかないし、決して3分という時間が維持されているわけではなく、それまでの3分は永遠に滅している。
脳内で地続きの現在という連続性を作り出しているだけで、本当は時間の流れなどない。
人間はいつでも0秒の地点に存在しており、記憶で時間の流れを経験しているだけなのである。
われわれは人間という現象を生きているので、この現象世界において時間というのは他者との通貨であり、いつもその経過を逐一確認しなければならない。
だから、時間を直線的に引いて確認しているのだが、やはり過去は記憶の中にしかないし、いつでも0秒の地点から回想で繋げているだけである。
記憶を繋いで「流れ」を認識しているから、われわれは時間について思い違いをしている。
たとえば80歳で死ぬとして、80年生きたつもりになっているかもしれないが、その死の床で臨終を迎えようとする老人は、あくまで80年を回想しているだけである。
過去も未来もない0秒のところに人間はいるのだし、あらゆる経験は、時間の経過というイメージを伴うとしても、やはりイメージの展開でしかないから、本質的には0秒である。
これを0秒でイメージできるかというと、可能ではある。
そもそも4分掛けて曲を聴き終わった瞬間の状態を考えてみてもらいたい。
その終了時点で、4分は過去である。
短期記憶でつなげている状態でしかないし、0秒で4分を経験したつもりになっているだけだ。
曲が始まって3分の時点でも、そこまでの経過は記憶でしかないし、決して3分という時間が維持されているわけではなく、それまでの3分は永遠に滅している。
脳内で地続きの現在という連続性を作り出しているだけで、本当は時間の流れなどない。
人間はいつでも0秒の地点に存在しており、記憶で時間の流れを経験しているだけなのである。
われわれは人間という現象を生きているので、この現象世界において時間というのは他者との通貨であり、いつもその経過を逐一確認しなければならない。
だから、時間を直線的に引いて確認しているのだが、やはり過去は記憶の中にしかないし、いつでも0秒の地点から回想で繋げているだけである。
記憶を繋いで「流れ」を認識しているから、われわれは時間について思い違いをしている。
たとえば80歳で死ぬとして、80年生きたつもりになっているかもしれないが、その死の床で臨終を迎えようとする老人は、あくまで80年を回想しているだけである。
過去も未来もない0秒のところに人間はいるのだし、あらゆる経験は、時間の経過というイメージを伴うとしても、やはりイメージの展開でしかないから、本質的には0秒である。