Archive
人間は交換可能な存在である。岩崎友宏にとって、冨田真由さんでなくてもよかったはずであり、若くて美人なら誰でも交換可能だったはずだ。それにも関わらずロックオンを外さないというミステリーである。ロックオンという単語は相思相愛の場合には使わないであろうが、もし、相思相愛をロックオンと呼んでもいいのなら、常識人もロックオンしあっている。片想いと相思相愛は線引して然るべきであるし、ロックオンというのがネガティブな言葉なら、相思相愛に用いるべきではないだろう。とはいえ、やはり誰しも特定の誰かをロックオンしているのである。だから、ひとまずこのエントリーでは相思相愛もロックオンだということにする。この世界に74億人いるとして、ほとんどの人には会ったことがない。だから、われわれは既知の誰かにロックオンして、そこからすべての理想が紐解かれる夢を抱いている。一人の人間に向かって74億人を求めているのである。婚活とかナンパで未知の相手を探し回ることはあるにせよ、そういういかがわしい目的がなければ、われわれは狭い人間関係にとどまっている。だから常識人でも、特定の親友や配偶者にロックオンする。常識人が結婚するとすれば、お互いに「この人しかいない」と思うわけである。果たしてこれが岩崎友宏と区別できるかというと、何とも言えないのである。やはり「この人しかいない」という感覚は同じである。岩崎友宏の異常性については論を俟たないだろうが、むしろ、常識人が「この人しかいない」と結婚する仕組みの方が不思議である。品定めや選り好みをしながらも、「この人」という交換不能なところに着地していくのである。いくら人間が交換可能とは言え、現実に出会ってなければ無と同じであるし、実際に人生において接した狭い人間関係こそが、具体的に肉付けされた物語なのである。想像上の人物と、具体的な人物を比すれば、後者の方に質量がある。ここにはやや欺瞞があるだろうし、代えがたい人間などいないのであろうが、いわば現実は乗りかかった船と言うか、やり直せないので、その一回性の因縁こそが真実だと思い込むのである。また、相手をかけがえのない存在と見做すのは、真剣さのアピールでもある。このような真剣さで盟約を結ばなければ、われわれは交換可能性の中に埋没してしまう。他人から真剣な好意を持たれて、代えがたい存在だと思い込まれるのは恐怖でもある。ロックオンに重みがあるからこそ、相思相愛の愉しみもあるのだろうが、あちこちでブロックされまくった岩崎友宏が、日暮れて道遠しという風情で人生を歎じながら、最後の最後に辿り着いてくる災難もある。相思相愛に限ってロックオンは許されるという常識的な考えに丸めてつつがなく筆を置くのは可能であるが、一人の相手に思い焦がれて眠れない夜を過ごすのは誰しも経験するであろうし、相思相愛になろうと契約書に捺印してから、ようやく重い腰を上げてロックオンし合うわけではない。われわれは量産された骨組みを持ったプラモデルではなく、個性的な顔を持った唯一無二の存在であるらしいが、これを成り立たせているのは、特定の相手への執着である。この執着がなければ、月明りが縹渺たる白骨の群れを照らしているだけの世界になるだろう。愛情が特定の相手に向かって焼き付くように像を結ぶからこそ人間なのだと言えよう。ロックオンされたらなかなか遁れられないのも、それが愛着の幕開けであり、その執念深い持続性こそが人生という物語の本質だからである。
arimuradesite.png



有村悠さんは6月11日がお誕生日だったと思うが、そろそろ38歳になられるはずである。
これまで艦これの同人誌を15冊くらい出していて、累計で2万部を越えているという。

今回は自分の作品が違法アップロードされていたという。
その原因をDLsiteという販売元のせいにして騒いでいた。
これはまったくの事実誤認だったようである。
該当のツイートは消したようだが、500くらいRTされたようである。
かつて東京大学に合格(中退)したことがあるにも関わらず、時系列をまともに理解せずあらぬ疑いを掛けるとか、この罪は極めて重いであろう。
慰めのリプをしてくれる人もたくさんいるようだし、はるかぜ親子と大差がない。
このところディスプレイを破壊したり手首を切ったりという破滅的な行動は収まっていたが、やはりまだ完治はしていないようである。
自傷行為をやめただけであり、他人を傷つけるのはまったく変わりがないようだ。
後からバレる嘘を吐く人がいるわけだ。
短絡的なのであろうし、破滅型とも言えるのだが、意外と破滅しない。
本人がそこまで計算してるとも思えないが、佐村河内のような決定的な証拠が出ない限りは、面の皮の厚さで乗り切れる。

嘘に騙された人間は、被害者というよりは共犯者なのだ。
法的には共犯者であるはずがないが、図らずも片棒を担いでしまったという負い目はある。
法的な共犯ではないにしても、悪事に加担してしまったような気まずさは確実にある。
佐村河内の設定を信じ込んで絶賛した人はさぞかしバツの悪い思いをしただろう。
善意で障がい者を過大評価したら、間抜けなことになったわけである。
怒り狂うのもみっともないから、顔を伏せるしかないのだ。

たとえばソーカル事件というのがあった。
ニューヨーク大学物理学教授のアラン・ソーカルが、フランス現代思想の数学の出鱈目さを槍玉に上げた事件である。
理工系の大学教授に徹底的にやられたのだから、すべては灰燼に帰した。
ジャック・ラカンの意味不明な文章をしたり顔で解説していた浅田彰は、ひっそりと京都大学助教授を辞することになった。
この当時に大学院生だった東浩紀などは被害者と言えるかもしれないが、しかし、共犯者としての側面が皆無とは言えないし、どちらにせよ間抜けである。
人に騙されるとはこういうことだ。
図らずも片棒を担いでしまって、間抜け面を晒すことになる。
ラカンの意味不明な文章を読んで「理解したふり」をするのは決して犯罪ではないが、法的にはともかく、やはり共犯なのである。

われわれは根源的な正しさに触れていない状態で、何らかの権威に寄りかかっていたりするから、ちょっと気を抜いたら騙されてしまう。
小保方に巻き込まれて自殺した笹井という人だって、一流の研究者ではあったようだが、ノーベル賞に手を伸ばそうとしてああいうことになったのだろう。
インテリと言えども全知全能ではないから、既知の問題より先に行こうとするなら騙されうる。

佐村河内、ソーカル事件、小保方など、インチキが明らかになった事例を列挙してみたが、決定的な証拠がないこともあるから、こうなると嘘つきはいつまでも嘘をつく。
そしてこれらは専門家が騙された事例であるが、普通の人間でも似たような話である。
専門家の方がダメージがでかいだけであり、バツの悪さは変わらない。
騙されたと気づいた人間は、片棒を担いでしまったことを恥じるから、「よくも騙しやがったな」と怒り狂うことは稀であるし、黒歴史として封印しようとするわけだ。

つまり、騙すというからわかりづらいのであり、実際は踊らせることなのである。
詐欺師は煽動家なのである。

法的に共犯でないという議論は無意味、というより、それは当たり前なのだから、やはり道義的な共犯性に注目しなければならない。
デマに踊らされて片棒を担いでしまったら、騙された被害者とは言いづらい。

この共犯性があるからこそ、嘘が露見しても、嘘つきはいつまでも嘘を吐き続けるのである。
嘘で他人を踊らせたら、そこで嘘つきの勝ちなのである。
不可逆的な勝利であるから、バレても白紙にはならない。
だからバレても嘘を反復するのだ。

法的に共犯ではないと再三書いているが、やはり、嘘つきに踊らされると、共犯になってしまったという負い目は間違いなくあるわけだ。
無関係の第三者から見ても、デマに踊らされた人は純粋な被害者には見えないし、あまりにも目が曇っていて、それ自体が罪であると思えるわけだ。
人生の汚点として染み付いたのであり、この汚れは不可逆的である。
騙された方は、汚点を拭い去れないからせいぜい黙っているくらいしかない。
嘘つきからすれば、他人を騙したことで戦果を上げたと言えるから、バレたらもう嘘はつかないということは決してないのである。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング