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一物一価の法則については説明する必要もないだろうが、商品の価格はだいたい同一になってくる。
ブランドの違いなどはあるにせよ、同等の商品がまったく違う価格で売られていたら安いところで買うに決まっているので、高い店は潰れる。

そして人間も一物一価である。
人間の値段は決まっている。
だから世界の殆どの人間と会ったことがなくても、自分の扱われ方は想像が付くわけである。
この地球上のどこで値踏みされようがだいたい同じ価格になるのだ。

この一物一価性からして、とある場所で詰んだからと行って、別の場所に移動するのは、さしたる効果がない。
人間は何かしらパーソナリティーのパターンを持っており、同じことの繰り返しである。
だから、われわれは新天地を求めない。
引っ越すだけで人生が薔薇色になるというのは考えづらいからである。

とはいえ、自分の性能や気質が変わらないとしても、それなりにフィットした市場というのは探しうる。たとえば有村悠さんなどは艦これクラスタに移動してから、累計二万部は売ったそうだし、莫大な収入を得ているわけではないにしても、小遣いには困っておらず、暖衣飽食というべき生活を楽しんでいる。人間の性能は変わらないし、気質も変わらないから、艦これ同人界隈でも疎まれているようであり、ディスプレイ破壊おじさんという通り名で知られ、蛇蝎のごとく嫌っている人間も少なからずいるようだが、食うや食わずやという状態は脱したので、そこそこ自分に向いているクラスタに入ったとも言える。おそらく絵の方も、執筆量が増えたからなのか、昔よりはかなり細部まで描き込んでいるし、本人基準では上達していると思われる。以前であれば、有村悠さんの歴史知識など東大卒の人から「おまえは高卒」と一蹴されていたが、艦これ方面だと、東大文学部西洋史学科中退というのが碩学として一目置かれているようだ。決して名誉や勲章を手にしたわけではないのだし、出世したという文脈ではないが、余生を過ごしやすい終の棲家を発見したようにも思える。

すでに述べたように、人間の性能や気質は固定だから、どこかに移動しても評価は変わらないのだが、一物一価とはいえ、それなりに売りやすい市場もありえる。恋愛市場はさすがに均一性が高いので、モテる人間はどこに行ってもモテるし、気持ち悪い人間がどれだけ放浪しても至る処で門扉は閉ざされるであろうが、文化的な活動については、恋愛よりは好みの可動域が広く、雑駁に言えばニッチ狙いということでもあるが、カストリ雑誌のエログロを偏愛するような物好きだってたくさんいるから、どこかに新天地はあり得る。恋愛とは別件のことであるなら、まだ芽吹いてない雪月花を開き示すことは可能であるし、目鼻立ちも定かではないような存在が、重力のような泥土から遁れ、それに似付かわしい気候の大地にたどり着くことで、凛とした輪郭をもって、自らの本質を謳うような花ざかりを見せることはあり得るのである。
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クシュナーの権勢を見れば、ボスの寵愛を受けるための悲喜劇というのが政治の本質であると思わされる。
歴史は繰り返される。
これはボスのエゴというだけでは説明が出来ない。
たとえば昭和天皇のように無私を極めた人物もいたけれども、あちこちから有象無象の右翼が天皇のためだとして要人を殺し回って大変なことになった。
なにかしらナンバーツーの座を巡って人間は争うのである。
讒言(ざんげん)という言葉が歴史書にはたくさん出て来るが、われわれ人間は伝聞に頼って生きているので、ボスはあれこれ吹き込まれる。
自分の肉体が存在している場所のことしか人間は知らないのだし、森羅万象については盲人であるから、讒言(ざんげん)に振り回されるのも致し方があるまい。

プリーバスとスカラムッチの暗闘も、そういうことであろう。
そもそもスカラムッチは、トランプ政権の発足当初から要職に就くはずだったのだが、プリーバスがトランプに進言して妨害したという。
今度は、スカラムッチがやり返したわけだ。
これは立場の逆転というよりは、プリーバスを外したいというクシュナーの意向を受けたものだと思われる。
スカラムッチが「自分の資産情報をプリーバスにリークされた」と主張して、それが実際は公開情報だったから失笑されていたが、この発言の本質は、ロシア問題をリークしているのがプリーバスだと、トランプやクシュナーが疑っているというのが根底にある。
この真相はわれわれにはさっぱりわからないが、誰がリークしているのかという疑心暗鬼があり、スカラムッチが「自分の資産情報をリークされた」と的はずれな批判をしたのは、プリーバスへの疑心暗鬼に同調したものだと思われる。

プリーバスは共和党全国大会委員長が前職であり、ポール・ライアン下院議長の強い推薦で首席補佐官になったのだが、外様であるがゆえに、リークの疑いを掛けられたのであろう。
言うまでもないが、オバマケアの撤廃がうまくいかない、というのも大きな理由である。

またリーク問題とは別だが、スカラムッチはバノンに対しても、自分でフェラチオをしている云々という卑猥な暴言を吐いているので、おそらくバノンの更迭も時間の問題である。
クシュナーがバノンを嫌っているので、その意向を反映した暴言だろうと思われる。

スカラムッチはクシュナーの代弁者として登場したのであり、プリーバスの立ち位置になるわけではない。
スカラムッチはあくまでコミュニケーションディレクターになっただけである。
クシュナーがナンバーツーだから、その片腕になろうとしているのである。

クシュナーがなぜナンバーツーなのかと言えば、イヴァンカの夫だというだけでなく、同じユダヤ人ということでキッシンジャーから気に入られているらしい。
クシュナーが外交をやっているのは、キッシンジャーの代弁者なのであろう。

国務長官のティラーソンは、トランプからすれば会ったこともないような人間であり、たまたまブッシュから推薦されて入れただけである。
ティラーソンはベイカー元国務長官の親友であるそうだが、トランプの個人的ブレーンはあくまでキッシンジャーであり、ベイカーとはほとんど接点がないから、こういうバランスなのであろう。
さすがにエクソン・モービルCEOとクシュナーでは能力差がありすぎると思われるが、実際に判断しているのはキッシンジャーなのであろう。

冒頭に昭和天皇の事例を挙げたのは、たとえ無私な人間が上にいようとも、ナンバーツーを巡る争いはあるのだし、クシュナーに媚びたスカラムッチのように、それが連鎖していくのである。
スカラムッチは短足でやたらとスタイルが悪いイタリア系の小男で、よくサングラスを掛けてマフィアを気取っているが、かなりの巨額資産を持っているウォール街の人間で金は腐るほどあるらしい。
ずいぶん政治に野心があるらしく、その取っ掛かりということなのだろう。
有村さんの母方の祖母が亡くなったそうで、夏コミ原稿の進捗に支障をきたしてるとぼやいておられる。通夜が面倒、葬式が面倒、そういう本音を吐露しておられる。これは当たり前のことであり、赤の他人どころか、身内が死んでも悲しいわけがない。どこかの知らん人が殺されたとかどうでもいい事件について怒り狂い、「これが俺の家族だったら」と目を眇めて復讐劇を空想する阿呆がいるが、あれは家族というファンタジーに基づいた集団安全保障であり、仇討ちで共闘するということなのだろう。他人を断頭台に送りたい正義くんが復讐の理由に飢えているのだ。外敵に家族を殺されたとすれば、それは侵略であるから怒髪天を衝くし、他人を斬りたくて仕方がない剣を抜く絶好の機会となる。正義くんの実態は屍体愛好家なのだ。

普通に身内が病死や老衰で命を閉じたとなると、討ち入りする理由などないのだから、荼毘に付された軀を手持ち無沙汰で眺めるしかない。たとえば兄弟姉妹が死んだときなど、全く悲しくないのが現実である。他人に殺されたときと、普通に死んだときは話が違うのだから、そこは理解しなければならない。だいたい家族というのは親子の繋がりのことであり、それ以外は余録、もしくは邪魔者である。有村悠さんとて、ママンが亡くなったとしたら、それこそ天が割れて、ナイアガラの滝が堕ちてくるような滂沱の涙を流すに違いないし、その嗚咽は川崎市の鹿島田だけでなく、日本全土に版図を広げ、あるいは海を超えて、ユーラシア大陸や北米大陸を舐め尽くすまで響き渡るであろう。人間の生死が平等であるということはない。他人が死ねば悲しい演技をして悼むというのも儀礼ではあるが、つまるところ儀礼でしかない。儀礼が大事であるのは言うまでもなく、「おまえの家族が死んでも悲しくない」とヘラヘラ笑いながら弔問に訪れる人間がいるとすれば、正義くんから侵略行為とみなされるから、もっともらしい儀礼はしないといけないが、それだけのことである。だいたい通夜や葬式で身内だけになったら、悲しみの演技をやめて普通に歓談するわけだ。

ところで有村悠さんが現在ママンと暮らしている鹿島田の古臭いマンションの一室は、賃貸ではなく、祖父母に買ってもらったそうだ。まったく恩がないわけではあるまいし、せめて葬儀では一芝居打って泣き崩れてみせたらどうか。津田大介や川越シェフでも他人の葬儀ではそれくらいするわけだし、演技の練習にはなるだろう。
人間が賢明であるかどうかについて、たとえば必要/不要の判断ができるか、という問題があろう。
この必要/不要というのは、0か1で区別できるわけではなく、匙加減も求められる。
オッサンが身だしなみにどれくらいの時間を掛けるか、という場合、0時間というのもひとつの回答である。
気を使ったところで女を抱けるのでもないなら、0時間が正答とも言いうる。

これは、其の人が自分の立場を考えた上での戦略であり、なぜオッサンを事例にしているかというと、ファッションモデルとかなら、身だしなみに使うのがそれこそ一日5時間でもいいだろうし、労力に見合うだけ売れたり、女を抱けるかもしれない。
つまり女を抱ける可能性もないそこらのオッサンならほどほどでいいだろう、ということで匙加減の話をしているわけだ。
自らの立場に似付かわしい身だしなみをイメージできるかが問題である。

そして、こういう賢明さは、自己制御の問題でもある。
清潔感のある身だしなみが必要な立場であるのに、ものぐさで怠ってしまうこともあろう。
つまり必要/不要の判断だけでなく、その判断に従って、髪を洗ったり風呂に入ったりしなければならないのだ。
「一日に一回くらいは髪を洗わないと」と言いながらまったく怠っているのでは愚かと言うしかない。

怠るとすれば、身体性の感覚が不十分なのであろうし、なんとなく「一日に一回くらいは髪を洗わないと」と理屈で言っているだけなのだ。
自らの身体性をきちんと捉えた上で、ファッションモデルとは全く違う、オッサンなりの最低限の清潔さを把握できるかどうかなのである。
口だけになってしまうひとは感覚をつかめてない、この文脈で言えば身だしなみの感覚だが、その感覚に照らし合わせる賢明さがない、もしくは照らし合わせるべき感覚がない、あるいは感覚を育てる賢明さがないのだが、愚かさの根源はそこなのである。
自己制御というのは、獄につながれて鞭で打たれ、首にぶら下がった鑑札の番号で呼ばれ、一挙手一投足を獄卒の言うとおりにすることではないはずだが、口だけの人は、だいたいそういうレベルであるから努力が苦痛なのであるし、鞭で打つ人間がいないなら平気で怠けるのである。
だいたい世界のどこでも似たり寄ったりだと思うから、かなり本能的な判断であろうが、われわれは人間を同じ属性でまとめて集団を作らせて、マウント大会をさせるようである。
学校のクラスなどはその典型だが、おそらくそれだけにとどまるまい。
ママ友同士の人間関係にパパが介入することはないであろう。
これは自治の尊重なのである。
われわれが本当に自治を好んでいるかというとかなり怪しいし、マウントされる側としてはウンザリであろうが、しかし外部の視線を入れるべきではないという発想も根強い。
女同士の人間関係を傍目から見ていておかしいと思っても、それに口を挟む男はまずいない。
われわれはなぜか自治へのこだわりがあるのである。
自治が好きなわけではないし、このところ地域共同体が崩壊したのも、近所付き合いというマウント大会にウンザリしたからであろう。
「子どもの喧嘩に大人が口を出すな」という意見はそれなりに適切であろうし、恣意的に口を挟むなら公平性を欠くであろう。
では大人がずっと見ていて、できるだけ公平な判断をすればいいのか、というと、これも難しい問題である。
たぶん古今東西から、そんなことはしてないであろう。
大人は見てない、あるいは見て見ぬふりをして、子どもだけの世界が作られていくのである。
この自治感覚の問題はさほど明示的に意識されているとは思えないが、それだけ根深いのである。

マウント大会は、全人類が入り乱れて戦うバトルロワイヤルではなく、何かしら同じ属性の人間でまとめられ、密室的な閉鎖空間で行われるのである。
マウント大会の中で友達もできるのだし、「友達を作れ」というのだが、これはなんというか、マウント大会で敗北してハブられた人間への蔑みという側面も含んでいる。
同じ属性の人間との間で生まれる友情が偽りだとは言わないが、「友達を作れ」というのは、おそらく勝者を礼賛しているだけであり、敗者をなじっているわけだ。
たとえばご近所さんと仲良くなることもあるが、村八分にされることだってある。
だいたい仲の良いご近所さんとやらは、マウント強者の連合だったりする。
だから近所付き合いを煩わしいと思って、関わらないことにしたのであるし、マウント大会からの離脱というのは社会の進歩としてあり得るかもしれないのである。
人間が本能的にやりたいことは決してなくならないが、マウント大会についてはウンザリしている人も多いはずなので、時代とともに変化しうる。
このところ、理性と欲望という言い回しをあまり目にしないのだが、やはり理性というのは重要であろう。
この対概念がないと、欲望とか暴力こそが自分の真実であるから、その真実を遂行するべきということになってしまう。
欲望を断念するというのは、理性のある自分を選び取ったのであり、それは必ずしも自らの意思に反したというわけではあるまい。

精神病の人間が長期間アクティブに暴れているのを見たことがなく、だいたい燃え尽きるのが早い。
やはりアクティブな度合いが激しいのはパーソナリティー障害(人格障害)だと思われる。
理性という概念が存在せず、なにかしら昂ぶった衝動に魅入られるのである。
ドストエフスキー的な命題であり、社会的な理性を脱ぎ捨て、暴力や欲望という悪魔と褥をともにしてこそ本物の自己にたどり着くという発想だが、こうやって理性を軽んじるのは、一言で言えばパーソナリティー障害であり、暴力や欲望だけに真実味を感じているのであるし、たとえば有村悠さんなどはその典型なのであろう。

あの文春の女性声優の件は、なぜか茅原実里であった。
出されているヒントからすると、多くの人が水樹奈々か上坂すみれだと思ったはずであり、これは文春の悪意のあるミスディレクションでもあった。
スキャンダルが出る時は、本人サイドに連絡が行くはずであるから、上坂すみれは自分のことではないと知っていたはずだが、万が一という危惧があったのかもしれない。
おそらく文春が予告してから上坂すみれが迷走し始めたので、文春が愉快犯として面白がっていたところもあるであろう。
かつて文春はいろいろと貴重なスクープを連発して褒めそやされたが、このところ腐敗の兆候が明確に現れてきた。

上坂すみれへの殺害予告で逮捕された高専生は20歳ということだが、ファンだったということであるから、やはり上坂すみれのアンチはファンが兼任しているという事実を露呈してしまったのである。
和田アキ子とか中元すず香みたいに素行不良が単純に批難されているドブスもいるわけだが、上坂すみれだと、やはり本人の奇を衒った芸風に釣られたパーソナティー障害者がファンとアンチになっていると思われる。
上坂すみれは角度的に据わりがいい静止画像でようやく見られる程度であるから、表舞台では美人と言われないであろうが、地下臭い容姿も含めてファナティックなのであろう。
ロシアをネタにしているのも、欧米的な理性の欠落した悪魔的なまがまがしさを生み出している。
やはりドストエフスキーなのである。
鳥肌実みたいなことを妙齢の女性がやっていて、そこそこセンスはあるのだから、悪目立ちする有象無象が集結する異空間が生じてしまう。
このようなことは本人サイドが放置しておけば済む問題とも言えるのであるが、20歳の男性ファンを警察に売ったからには、今後はこのような鳥肌実的な芸風は封印されるのが自然である。
とはいえ、この芸風以外に取り柄がないと思われるので、これからもおかしな男性ファンを警察に突き出し続けるかもしれないし、そこは曖昧である。
上坂すみれさんに殺害予告をして捕まった20歳。
ファンだったと供述しているそうである。
供述というのは警察の作文ではあるが、ここで警察に都合のいい創作を入れる必要はあるまいから、ファンなのは事実であろう。
上坂すみれさんは、演者としての能力は最底辺であるが、奇抜な面白さはあり、どこまで本人が考えてるのか知らないが、サブカル的に変わったことをやるセンスはあるので、なんとなく「面白い人」を惹き付けてしまうのであろう。
本当に面白い人と、括弧つきの面白い人(つまらない人)の違いは明白であり、まったく次元が異なるはずなのだが、はしゃいで奇抜な言動をすることに快楽を見出す共通性で、運命を感じたりするのであろう。

おそらく昔から、芸能事務所におかしなファンレターを送り続ける「面白い人」はたくさんいたと思われるが、それは事務所の人間が黙って焼却していたであろう。
今日だと上坂すみれさんみたいな芸風が難しくなっている。
上坂すみれさんと、今回逮捕された男は、おそらく庵野秀明と有村悠さんくらいの格差があるはずなのだが、変わり者という共通点だけをもってして、赤い糸でつながっていると思い込んでいるわけだ。

やや気になるのは7月22日に文春が大物女性声優の熱愛報道をすると予告していることであり、なぜか上坂すみれさんだと思われている。
上坂すみれさんは大物のカテゴリーではないが、たとえば水樹奈々なら、他社に抜かれる前に出す必要がある。
つまりスクープとして一刻もはやく報じるだけの価値がないレベルの「大物」だから、上坂すみれさんは丁度当てはまりそうである。
文春が予告した時に、たまたま上坂すみれさんが体調不良で倒れたので、関係があると思われたのである。
6月13日からツイッターも止まっているし、なにかありそうだ。
どうせ数日内にわかることであるから、この真偽を長々と論じても意味があるまいが、ともかくそういうことだ。

上坂すみれさんは、自らの芸風に葛藤を生じさせていてもおかしくない。
演者としての能力は致命的に低いので、エキセントリックなキャラクター性とサブカル設定でやっていくしかないのだが、やはり「面白い人」が共鳴してくるわけであり、これは煩悶も深いはずである。
上坂すみれさんのアンチというのは、本当のアンチではなく、仲良くなりたいという発想が根底にある怨みという印象を受けるし、つまり好意を含んでいるから不気味さもあるはずだ。
変わった人から好かれては怨恨を持たれるという構造があると思われるので、上坂すみれさんが、自らの風変わりな才能を摘み取って、当たり障りのない人間になればいいのだろうが、そうなると、上坂すみれとしての存在も消えてしまうという難題である。
どこかで池上彰が、「1960年代に学生運動が世界的に広がって、それが衰退した理由がわからない」と書いていて、あまりうまく説明した事例も見たことがないらしい。
これについては、わたしは海外の事例までつまびらかに調べたわけではないが、ごく普通に、反面教師の説得力で回答できると思う。
1970年くらいから、学生運動とか本気でやっていた活動家がどうなるかというのが、反面教師として示されてきたわけである。
連合赤軍とか中核派の内ゲバとかいろいろと悲惨な末路が現実的な事例として鈴なりのように生じてきた。
おそらくそれだけで学生運動の衰退は説明できるであろう。
40歳とか50歳とかになっても活動家をやっている惨めな人を目の当たりにすれば、一気に目が覚めるはず。
わざわざそういう醜い反面教師を見なくても想像がつくと言うだろうが、興奮状態になった人間が盲目的に暴走することは多々ある。
活動家のおっさんが惨めな反面教師となって登場するまでは、想像力が働かなかったのである。
おそらく若気の至りで思想にかぶれている頃は、自分が世界史的な政治指導者になるつもりであろうから、いわば選民思想によって、現実的な想像力が壊死するのである。
なにかしら救世主になるという妄想にかぶれたら、どうにもならない。
それを治すには、惨めな事例を見せるしか無く、だからこそ、人類はいつも教訓を必要としている。
反面教師を見なくてもわかるはずなのだが、やはり現実的な想像力が死んでしまうこともあるのだ。
100万分の1の確率で成功する事案があるとして、現実的に考えれば近似値的にそれは0だとなるが、選民思想の目線だと、むしろ確率が極めて低いからこそ、選ばれた自分には似付かわしいということになるし、人類史で一度しか起こらないようなことならキリストのような特異点、もしくは一度も起こらないようなことなら無から有を生み出すビックバンである。
こういう底無しの阿呆を「我に返る」という状態にするためには、反面教師たる失敗事例、学生運動という文脈では選ばれたはずの政治指導者の成れの果てということだが、それを見せることに尽きる。

果たしてこれが最高の正答かどうかわからないが、やはり思想運動に深入りしたオッサンを現実に見れば、それの真似をしようとは思わないであろうし、学生運動が衰退した大きな要素のひとつであるはずだ。
2017.07.14

マメな人

マメな人は好かれやすい。
もしくは人間関係の中心になることが多いようだ。
津田やロンブーのような魑魅魍魎だってマメではあるので、徳操が高い貴人というわけではなく、マメだからマメなのであろう。
マメな性格だと好感を持たれるなら、なぜ多くの人はマメにならずに、いろいろと怠るのかということだが、マメな人間にはあざとさがあり、あまり目が笑ってなかったり、時としてサイコパスと揶揄されるようなところもあるから、大雑把な方が裏表がない正直な人間とも言えるからであろう。

ロンブーや津田大介や川越シェフのようなジャンルの好感度がこの世にはあるのだろうし、それが似付かわしい人間は、マメなやり取りをするだけである。
マメな人間が好印象を持たれるのは、距離感の適切さなのであろう。
岩崎友宏から高級腕時計など送られたら、その贈り物の重さは言うまでもないし、完全にロックオンされたという恐怖体験でもある。
朝から晩まで冨田真由さんに執着するのをマメとは言わない。
マメな人間は、そのあたりの距離の感覚がしっかりしている。

社交的でない人がマメになろうとすると、不得意なフィールドで戦うことになってしまう。
虚弱体質だからといって、体力をつけるために運動部に入るとしたらちょっとおかしいであろう。
コミュ障の鞘師里保ちゃんが社交的な人間になろうとしていろんな人と積極的に会話するようにしたら、飯窪とか道重にハメられて病んで引退してしまったが、無理はしないことも大事だと思われる。
すべての人間関係はマウンティングであるとも言えるから、津田大介や川越シェフのような幇間とまともに組み合うのも愚かである。
この手のマメな人たちは決して敬虔な篤志家のように慈愛を分け与えるわけではないし、最後は裏切るつもりだからこそ、手のひらは永久機関のように回り続けるし、あたかもフラグを立てるかのように、わざとらしく媚びたりするのである。
たとえば100メートル9秒で走れるとする。これが人間であれば人類最速と褒めそやされるであろう。だが犬や猫で100メートル9秒だと遅すぎるに違いない。同じ生物種であれば、だいたい似たり寄ったりのスペックであり、すべて同じと言ってもいいくらいなのだが、動物だって優劣を競い合う。優劣は性欲という意味では実在感があり、セックスが出来るならどんな相手でもいいということはなく、優れた相手との結合が究極の快楽となる。特に人間であれば、社会的なものも含め、その差異に基づいた市場価値が付いて、首から値札をぶら下げながら個体としての個性を持たされるのである。憧れの人の肢体に触れようという本能は、見栄や虚飾としては切り捨てられない熱病であり、それこそが人間存在である。光風霽月たる白皙の美青年ならどんな女でも日常性の延長で手に入るのであろうが、たいていの人にとって眷恋の対象は嶮岨な山道、もしくは原理的に扉が開かない掟の門のように立ちはだかる。

自らを呪詛しつつ、この不可能性をオンリーワンな独自基準で乗り越えようとするのがサブカルチャーである。普通であれば、足が速い遅いとか、背が高い低いとか、顔の美醜であるとか、知能の高い低いとか、そういう世俗の基準で生きているのだが、この世俗的な基準だと劣ってしまう人が、サブカルチャーに流れ着いてくる。

宮﨑駿とか庵野秀明は一歩間違えればただの障がい者だが、だからこそサブカルのスターなのである。サブカルチャーにはこういう世俗的な価値を逆転したスターがいる一方で、はるかぜ親子や有村悠さんのようなサブカル人間を作り出してしまう。冒頭で述べたように100メートル9秒だとすごいとされるのは、人類の中での個体差の優劣であるから、根拠があると言えばあるし、根拠が無いと言えば無い。あくまで比較した場合に出現する凄さであり、100メートル9秒それ自体が凄いとは言えないからだ。このあたりは意外と曖昧である、もしくはただの肉体性能の設定に過ぎないのだから、その空隙を縫うようにして虚ろな自己愛が生々しく繁殖するのであろうし、愚にもつかない空想が遊弋し内面世界が瘴気を放つのである。束の間の午睡の間でさえ、まどろみながら薔薇色の人生を生きることがあるのだから、この獄舎のような肉体の設定から解き放たれれば何にでもなれるとも言える。そのファンタジーを現実世界にまで垂れ流すのがサブカル人間である。さすがに160センチの人間が「俺は180センチ」と主張するのは出来ないが、どう考えても知能の低い人間が「俺は本当は頭がいい」と主張するのはよくあることだ。「本当は100メートル9秒で走れる」と言い張って走らない、というのは文字通りだと無理があるが、こういう「本当はできる」という欺瞞を抱えている人ならたくさんいる。これが重病であるほどサブカルチャーへの親和性が高くなる。

はるかぜババアは大卒らしいが、もちろんこれは詐称であろう。有村悠さんも大卒らしいが、もちろんこれも詐称である。有村さんが東大に合格したのは事実だが、空手部に体験入部したら全身複雑骨折で不具者になったようなものだし、これで空手部を名乗られても困るわけだ。とはいえ、そもそも大学というのも設定である。小保方晴子だってAO大卒だしコネ理研だし、そしてサブカルである。わざわざ慶應AOを選択したTehu君もサブカルである。何かしら現実の自分を空想的に改変しようという邪心こそが業病であることに贅言を費やす必要はあるまい。ラスプーチンは血友病を治せるという設定でロシアの皇帝一家に取り入ったが、人間は肉体に縛られているからこそ超越を願い、百鬼夜行というべきおどろおどろしさが現実を蝕みつつ徘徊するのである。
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