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他人の家に入ってはいけない。
住居侵入罪になる。
モノを持ち帰ったら窃盗罪である。

なぜ他人の家に入り込んではいけないのかというと、所有権というか、縄張りというか、そういうのが人間、もしくは人間世界そのものだからである。
自己で所有しているものが自分の世界なのである。

このところ人々の幸福度が上がっているという奇妙なデータが出ている。
豪邸に住んだり美人妻を抱いたりする生活とは縁遠く、それどころか無縁仏になる連中が増えているのに意外と幸福らしいのである。

これは大衆消費社会において誰でも持てるような製品がQOLを上げているからであろう。
やはりiPhoneは革命的だったのであろうし、そして技術がこなれてきて、中華製のAndroidでも十分過ぎる状態になっている。
それは自分の世界なのである。
洗濯機や冷蔵庫は自己ではないが、スマホは自己である。

究極の美は、やはり肉体によって体現される美なのであろうし、その素肌の熱さはセックスという行為で貪らなければ得られないが、しかし、スマホの中の流麗なグラフィックを花鳥風月のように愉しむこともできる。
この満足が美人を抱くことに匹敵するとは言うまいが、代理満足としてそこそこ潤いにはなっている。

恋愛というゼロサムゲームは永遠の難題としても、有象無象の俗衆が手にできる生活の利便性は上がっており、古来より問題であった孤独という問題もスマホが解決した。ネットでの関係など蜃気楼のようなものだが、昔の隣近所のような煩わしさはないし、これなどは代理満足のほうがむしろ望ましい。

現在ではダイソーとかドン・キホーテのような安物の雑貨を売る店が大繁盛している。物を買うのは所有権の拡張であり、買い物でストレスは軽減される。
自分の所有物を増やすのが自分の世界の拡張だが、立派なマイホームを買わずとも、ダイソーの製品で安普請を埋めておけば事足りる。
豪邸や美人妻は手に入らなくても、意外と洒落た安物雑貨を自己所有し、自室に並べることはできるのだ。
ネットに生成されるバーチャルなアイテムは、ダイソーの百円商品と同じ文脈のものである。
われわれはネットにおいてあれこれと所有し、自らの版図を広げることができる。

女さえ断念すれば金持ちと大差がないと言うことさえできる。
もはや大塚家具を並べなくていいと思うし、ダイソーの整理箱で十分である。
美人を抱けなければ意味が無いという意見もあるだろうが、 巣鴨プリズンで拘置所暮らしをしていた戦犯は、それなりに暮らしやすい質素な生活と読書三昧によって、健康で教養豊かになって戻ってくる人も多かった。
夜な夜な繁華街で乱痴気騒ぎをして美人にチンコを挿すEXILEや津田大介のような人生だけがすべてではあるまい。
われわれは有用な存在として活躍することを求められている。
チームが勝っても自分が活躍しなければ嬉しくないという話であるが、ここで厄介な問題が生じてくる。
能無しが参加しても足手まといだから、いないほうがいいというのがミクロな問題としてはある。
活躍しなければならないというのは、社会が総論として求めているだけであり、その基準に達しない人はどうすればいいのか、という難題である。

この人生には、どちらを選択しても非難されるということがある。
活躍問題もそれである。
何もしないほうがマシな能無しがいるとして、では何もしないと褒められるわけでもなく、「おまえは何もしてない」と批難されるのだ。
だから大活躍するべく、無能な味方として暴れまわることもある。

何もしないことを褒めるという対策も、理屈としては可能である。
だが、やはり無理があるだろう。

多動性が障害であるという観点から言うと、本当に「何もしない」のは山紫水明たる境地であり、禅定に入ったとも言える。
達磨禅師だって壁に向かって九年間座っていただけで聖者として扱われる。
暇人として暴れるよりは、「何もしない」のが望ましい。
だが、そういう人間理解が浸透するとも思えないし、まず、出来損ないはたいてい暇人として暴れるのをやめられないし、たとえ、本当に何もしないという坐禅の境地を学んだとしても、やはり何もしなければ非難されるであろう。

活躍する義務というのがあるのだから、本人だけに責任があるのではなく、これは社会が抱えている矛盾でもある。
性能が低い人間はどうにもならないし、不行跡として咎めれば済むわけではない。
われわれも二枚舌であり、能無しはなにもしないほうが有り難いと思いつつも、やはり非難はするのである。

この社会的な矛盾の延長として、能力が低いほど低賃金でキツい仕事という法則が出て来る。
能力が高いほうが精神的にも肉体的にも経済的にも快適なのである。
このヒエラルキーは当然という意見ももっともだが、多少は見直さないと、移民だらけになる。
もしくは移民はキツい仕事に耐えるが、移民の二世はキツい仕事を避けるとも言われる。

たとえば有村悠さんは以前倉庫でバイトをしたことがあるが、すぐに身体を壊してやめてしまった。
現在は艦これで多少は稼いでいるが、生活保護予備軍であるのは確かだ。
休み休み倉庫でバイトをして、作業した時間だけ時給を貰うような制度が求められる。
それでは生活できないが、生活保護も組み合わせればいいであろう。

有村悠さんが達磨禅師のように壁に向かって座ってるだけならいいが、まったくそうではないし、一流の人間として活躍しようとして迷惑をかけるわけだ。
これは本人の妄想というだけではなく、社会が作り出した状況でもあるから、三流の人間の扱い方も考えねばならない。
わたしのノートパソコンのHDDに不良セクタが発生したので、ハードディスクの交換、もしくはパソコンそのものを買い換える必要に迫られた。

最近はSSDがずいぶんリーズナブルな価格になっている。
とはいえ、これはSSDを自分で買った場合の話であり、ノートパソコンの価格設定には反映されてない。
そもそも依然としてHDDが主流であるし、SSDを搭載しているのが少数派である。

デルは比較的SSDの値崩れに対応している。
デルの即納モデルで言うと、これが実売8万円(送料・税込み)である。

15.6-インチ FHD (1920 x 1080)
Core i5-7200U
256GB SSD
AMD Radeon™ R7 M445 グラフィックス 4G GDDR5 グラフィックス メモリ付き
メモリ8GB

これを買うかどうかずいぶん迷ったし、今でもこっちの方がよかったという気もするのだが、256GBというのがやや引っ掛かり、512GBのSSDを買って現在のノートパソコンに付け替えることにしたのである。

デルの8万円のパソコンに一万円追加して512GBにできるならいいが、そういうカスタマイズはほとんど用意されておらず、大幅に価格が跳ね上がるだけなのである。

実際は256GBで充分であろうし、外付けのハードディスクが不便であればmicrosdという選択肢もあるが、これは後になってから思いついたことである。

わたしが買ったSSDはCrucialの製品で、現在アマゾンではベストセラー一位である。
512GBで一万八千円弱である。



これに限らず、512GBのSSDは割安感があり、256GBの七割増しくらいの価格である。
256GBを買うくらいなら奮発して512GBにした方がお買い得なのだ。

この状態がまだまだノートパソコンの価格に反映されてないのが残念である。

わたしのヒューレット・パッカードのノートパソコンは、このような性能である。

フルHDではない
Core i5 3320M
グラフィックカード無し
メモリ8GB
Windows 7

Windows 7は2020年1月でサポートが切れるから、あと二年四ヶ月の命であるし、いずれにせよ、二年くらいすれば低価格のSSDが当たり前になるだろうから、そこまでの延命である。
新製品を買うつもりだったら、修理で対応出来てしまったので興を削がれたのが正直なところであり、もやもやとした感じは残るのであるが、致し方があるまい。

なお、SSDに換装してみたら、今までのようなもたつきはなくなった。
OSの起動がかなり早いのは言うまでもないが、普通の操作もずいぶんスムーズである。
かなりストレスフリーな世界であり、アプリもすぐに立ち上がる。
Windows Liveメールも以前は起動に10秒位掛かっていたが、SSDにしてからは2秒位である。
PDFとか今まではめんどうで仕方なかったのだが、SSDだとすぐに表示できる。
もはやPDFだから重いということはない。

結局のところ、重い原因の多くはハードディスクにあるのだろうし、ひとびとがパソコンを敬遠してスマホやタブレットに群がったのは、SSDの速さに惹かれたのであろう。
最近のSSDの安さがノートパソコンに反映されるのは時間の問題であろうし、HDDは普通のパソコンやノートパソコンからは駆逐されると思われる。
就寝時の夢の中で、たとえば東京から徒歩でニューヨークに出かけても「これは理屈に合わないから夢だ」とは思わない。
実際は時たま「あ、これは夢だな」と半覚醒状態で理性が働き、夢と空想の半々のような状態に陥ることもあるが、たいていは夢の中の仮初めの法則をまったく疑ってない。

たとえば現実世界で地下鉄に乗っているとする。
半蔵門線に乗っているとか、日比谷線に乗っているとか、そういう自覚はあるわけだ。
なぜそのような見当識を持てるかというと、連続的な記憶があるからである。
生きているのは瞬間瞬間であり、未来も過去もなく寸断されているのだが、物事の経緯を記憶で繋いでるから、今どこで何をやっているかという見当識が発生するのである。
これが夢となると、その連続性が無くなるのだが、しかし、仮初めの見当識はあり、東京にいるとかニューヨークにいるとか、そういう「自覚」があるのだから面白いところである。

われわれは空間の一箇所にしか存在してないから、実は三次元を体験してないし、たとえば視覚であれば二次元を三次元に置き換えているだけである。
東京からニューヨークまでは一万キロだが、一万キロでも一キロでも別の場所である。
別の場所は別の場所であり、隣町とニューヨークは同等であるとさえ言える。
だが夢と現実の違いとして、一キロ歩けば隣町に行くがニューヨークには行かないという事実があるわけだ。

徘徊している痴呆老人は見当識がないと言われるが、記憶を繋げて現実を維持する能力がないのである。
さきほどの地下鉄の事例で言えば、あなたが痴呆老人でないなら、半蔵門線に乗ったとか日比谷線に乗ったという自覚を維持しているわけであり、たとえば銀座に買い物に行く途中であるとか、乗っている目的も知っているわけである。
その根底にあるのは時間と空間であり、それが現実なのである。
夢で擬似的な現実が生成されるのは、主観としては東京とニューヨークが隣り合っていても差し支えがないということだろうが、正真正銘の現実はそれを認めていない。
赤の他人は赤の他人である。
これは誰もが認めるであろう。
だが、「赤の他人の家族」となると、いきなり自分の身内と混同する人間がいるわけだ。

まったく無関係の人間が「俺には娘がいる」と自分語りを始めてシャドーボクシングを始めるのである。
これで頭のおかしな人間と言われることはないし、自分の家族と他人の家族の混同は、むしろ常識なのである。
おそらく蟻が巣を作る社会性と同じであり、本能なのであろう。

理屈としては、「俺には娘がいる」とシャドーボクシングされてもわけがわからないが、だが、何もされてないうちから威嚇するのも、これまた正常なのである。
何かをされてから怒っては遅いので、なにもないうちから怒るわけだ。
理由があって怒り狂うと「我慢ができない人間」と蔑まれ、怒りのコントロールが必要だと矯正施設に放り込まれるが、理由がなければいいのである。

朝日新聞の植村隆が逃げ切れたのも、娘の悪口が書かれたという件が大きい。
「俺には娘がいる」ということで、娘を守ろうとする父親たちが援軍として現れたのである。
悪口を書かれるのと直接危害を加えられるのとは話が違うが、女子ということでそういう扱いになるのであろう。
これが息子だったらこういう展開にはなってない。

誤解している人が多そうだが、植村隆の娘は「高校生平和大使」というよくわからない活動をしていた。
興信所で調べられたわけでもないし、ごく普通に実名で活動していただけである。
もちろん著名人とは別枠であろうし、実名を名乗っている一般人という立ち位置である。
時たま何らかの活動をしていて、それが新聞で紹介される高校生がいるが、あれと同じである。
著名人ではないから「晒し」という側面もあるが、実名を名乗っていたのも事実であり、完全な晒しとはまた違う。
ちなみに「反日捏造工作員の父親に育てられた超反日サラブレッド」というツイートをした人間は裁判で170万円の賠償を命じられた。

これについて述べるなら、裁判で170万円という判決が出たのだから、この訴えについては、そういう結論なのだろう。
これが娘ではなく息子だったら170万円だったのかという疑問もあるが、ともかく170万円だ。

朝日新聞の捏造記事についてはまた別の話であり、その全体を見ていく必要がある。
名誉毀損の裁判というのは要するに勝てる争点で原告が訴えたというだけであり、言論としての勝敗が決したわけではない。
喩えるなら、サッカーの試合が90分あるとして、その中のワンプレーが誤審だという主張をするのが、名誉毀損の裁判である。
大量失点でボロ負けした方が、ワンプレーの誤審を主張して、それが法廷で認められた、ということである。
日本が受けた被害は170万円では済まない。
法廷で試合全体を総括する必要はあるまいが、ワンプレーだけに絞って勝訴を勝ち取る最近の風潮には懸念を覚える。
そもそも訴えられようが言論が封じられるわけではないので、裁判は裁判として、それとはまた別に言論を展開する自由もあるが、やはり弁護士から「傷口を広げないために黙っていてくれ」と言われるであろうし、たいていは言論における反論を放棄するようである。
現在はるかぜがやっている舞台で、仄聞するには、どうも原作の許諾をきちんと得ていないという疑義が生じており、まだ事態が明確にはなってないので詳細は差し控えるが、二年ほど前も、オーケストラで「進撃の巨人」をやると告知して、はるかぜが司会になったが、許可が取れないから直前で曲目が差し替えられる出来事もあった。いわゆる類友の法則であるが、あの親子が友誼を結ぶとなると、どうしても事実や現実への検疫が大雑把な人たちと気脈が通じるようになるらしい。今回の件の真相は判然としないにしても、きちんと許諾を取った上で舞台を行うしっかりとした姿勢がないのであろう。

われわれはダメージ計算をしながら生きているはずである。これは予見可能であるから、行動とリスクは考えることができる。六弦の親指ミュートが難しくてエレキギターが弾けないならミュートは怠ってもいいだろうし、ミスピックしてもたいしたことはない。演奏をやめるよりはとりあえず弾いてみた方がいい。だが、たとえば何かの作業をするとして、ミスをしたら大事故になるならやらないであろう。まさにケースバイケースであり、それぞれのダメージ計算を事前に行う賢明さの問題である。予測されるダメージに合わせてやったりやらなかったりする現実的判断である。

あるいは、そのようなダメージの予見を超越した、確実な失敗というのもある。いわば破産の前夜祭、残りの財産を使い果たすべく派手な夜会服を身に纏い、最後の晩餐の饗宴に耽り、酩酊で歪んだ世界を眺めながら、おぼつかない千鳥足でダンスを踊るファンタジーな愚か者である。はるかぜ(娘)はあと一年半で高校(通信制)を卒業するわけである。卒業できないかもしれないが、どちらにせよ年齢的に子ども枠ではなくなる。予見性の麻痺と言えるメンタリティが、まぐれ当たりを生み出すこともあろうし、軽業師のように地雷を回避し、破滅に邂逅することなく天寿を全うする人だっているのだが、18歳からはるかぜがスーパースターとして活躍することはなさそうだし、これはただ先延ばしするだけのモラトリアム問題である。はるかぜ親子の話だけではあるまい。現実逃避のために予見性を麻痺させるのは、知力がある人でもやってしまうことがあるし、精神的な弱さ、あるいは気位の高さ、自尊心の傷痕、そのように病める心が、人生の耐え難さをファンタジーで誤魔化そうとするのである。
艦これなど作業ゲーの典型であろうし、わたしは過去に(枠を拡張するために)数千円は課金したが、とっくの昔にやめてしまった。
おそらく飽きる人のほうが大半であろう。
有村悠さんなどは極端なゲーム音痴であるから、イベントのたびに毎回毎回本気で怒り狂っているわけである。
東大受験のためにゲームを禁止されていたのに結果は高卒という哀しさもあるし、また野生本能に満ちた高卒とも違うから、そこも哀しい。

お化け屋敷を本当に怖がる人もいれば、こういう演出なんだと冷めてしまう人もいるであろうが、だいたい慣れてくるとパターンはわかりきってしまう。
有村悠さんはド田舎で丸暗記・ガリ勉・詰め込み教育を極めた人であるから、学習能力が全くないし、幽霊のカラクリが見えないようである。
艦これを簡単にクリアできる人はそんなに楽しんではいないであろうし、開発者側が設定しているパラメータを踏まえつつハリボテと戦って、それを容易く打ち破っているのである。
とはいえ、以前のようにディスプレイを破壊したりという無茶苦茶な暴れ方をしなくなったのは、攻略サイトを見るようになったからである。
丸暗記・ガリ勉・詰め込み教育で培った能力でなんとか進めているのであろう。

有村悠さんの作家的想像力という見地から言えば、おそらく幽霊が幽霊に見えたままのほうがいいであろうと思われる。
ゲームなんて開発側が数値と確率を決めているのだから、その難易度の匙加減を推し量って攻略していくだけだが、そうなるとただの作業になる。
これまで100万円以上の課金をしているとはいえ、艦これ同人誌を累計二万部売っている有村悠さんとしては、飽きてしまうのも望ましくない。
有村悠さんは、高卒にしては意外と文筆の力はしっかりしており、長文は理路整然としているので「人間失格」程度なら書けそうだが、太宰治と同等の文学的な才があるわけではないであろうから、艦これクラスタが終の棲家であろう。
アニメやゲームのキャラクターにしても、やはり記号から生成されてくる生々しさを体感出来なければ楽しめないし、幽霊の正体を見透さないほうがいいというのもある。
お化け屋敷で半狂乱になるような場違いもそれはそれとして作家性であるし、これを矯正すればいいというものではあるまい。
叶姉妹の今回の件に関しては、以前からコミケを訪れたりしているようなので、真偽で言えば、叶姉妹が真なのであろうし、とらのあなのプロモーションだという観測は正しくないのであろう。

叶姉妹がネットのアニメアイコンから絶賛されているのとは対照的に、著名人からの言及がとても少ないことが印象深い。
争点を限定して名誉毀損の訴訟で勝つのは容易いが、あれこれ他のことで粗探しされる副作用もないとはいえない。
真実の人という立ち位置は取らないほうが無難である。

弁護士は代理人に過ぎないので厄介である。
相手の弁護士と言論を戦わせることは出来ないわけだ。

弁護士は真実発見義務という倫理規定があるが、法的にそれが課せられているわけではない。
よほど悪質であれば懲戒処分もありえるが、滅多にないことである。

たまたま今回のケースでは、弁護士の主張が真実と一致しているので問題とはならないが、そういう真実発見義務がなされているとは限らず、そもそも民事訴訟には原告も被告もいるので、双方に弁護士がいるとしたら、一勝一敗のはずである。
敗訴するのも弁護士なのだから、弁護士の主張が正義というわけではない。
原告だから正義というわけでもない。
それに、依頼人のために偏った主張をするのが悪いとも言い切れない。
真実発見のために依頼人の不利な情報を出すわけにもいかないだろう。

今回出てきた法律事務所は佐村河内の代理人もしているのである。
弁護士に積極的な真実発見義務はないとされるが、消極的な義務なら弁護士会の規定としてあるはずなので、そこは留意して欲しいものである。
2017.08.13

人間の皮

人間の皮をかぶっていると言うが、そもそも皮しかないのであるし、この皮が筋繊維を殖やし臓器を形成し、精神なるものまでも創り出すのである。その人間の皮が、他の人間の皮を求めているだけである。皮が裂けて内臓でも見えようなものなら嘔吐するのであるから、どうやら皮にしか用がないらしいし、すべては人間の皮に従属している。このところ久しく凡人という言葉が死語になっており、蔑む意図で使われることは滅多にない。才無きことを恥じて懊悩する立場の人間はごく少数であるし、ネットの氾濫により、才なきことを咎め立てされない有象無象が幅を利かせているとも言えるが、凡人という言葉より、キチガイという言葉の使用頻度のほうが明らかに高くなっている。われわれが他者に攻撃的な言葉を投げかける場合には同調者を期待している。キチガイ呼ばわりは、関東大震災のときの「朝鮮人が来たぞ」と同じように連帯感を生む効果があるが、あいつは凡人だと言ったところで、それは正常さの証でしかないから、明らかな無効打であるどころか、むしろバランスの取れた人間だと礼賛していることになる。われわれの認識は森羅万象すべてを映し出す鏡ではない。人間の皮としての体験、それだけである。若い女の素肌は美しいとか、おばさんだからアウトだとか、人間の皮に似付かわしいことばかり考えているのである。洗濯機が洗濯するのと同じである。洗濯機には洗濯物しか見えない。そういう箱庭世界にいる。だから、まるで未来予知者のように、生まれつき社会の仕組みを知っている凡人が現れてくるのである。後からようやく気づく鈍感な人間からすれば、最初から気づいている人間は不可思議であるが、人間の皮として体験可能なことは、社会的動物として自明なのである。
ヴェブレン(1857-1929)の「有閑階級の理論」は読まなくても内容が分かる本であり、退屈であると言っていいのだが、幸運を信じる心というくだりが面白かったので引用しておこう。

ヴェブレン「有閑階級の理論」高哲男訳
ギャンブル好きな性向が、もっぱら略奪的なタイプの人間性に属する特徴と分類されるべきものであることに、疑問の余地はない。ギャンブルを行う習慣に含まれている主要な要素は、幸運を信じる心である。そして少なくともその要素についてみるならば、この信念が略奪文化に先立つ人間の進化段階にまでさかのぼることは明らかである。幸運を信じる心が、ギャンブル好きな性向の主要な要素として、スポーツ好きな気質のなかに存在しているような形に発展したのは、略奪文化の下でのことであったと言えよう。
(中略)
古代の人間にとっては、周囲の環境のなかのきわめて顕著で明らかに重要な対象や事実は、すべて準人格的な個性をもっている。それは意志力、あるいはむしろ性向をもつと考えられており、したがって、複雑な原因のなかに入りこみ、不可解な仕方で結果に影響を及ぼすのである。幸運とチャンス、すなわち幸運な必然性に関するスポーツマンの感覚は、漠然とした、あるいは未完成なアニミズムなのである。それは、しばしばきわめてあいまいな仕方で対象や状況に適用されるが、しかし通常は、技能とチャンスをきそうあらゆるゲームの装置や服装の付属品を構成する対象に含まれている独自な性向の展開を和らげたり、逸らしたりねじ曲げたり、さもなければ混乱させたりする可能性を意味するもの、と定義されている。多少とも効き目があると見なされているお守りや魔除けを身につける習慣をもたないスポーツマンは、ごく少数に限られる。


幸運を信じる心、という概念も面白いし、これをアニミズムに結びつけているのも卓抜だと思われる。
ヴェブレンは、スポーツ選手がお守りのたぐいを所持するのをアニミズムだと指摘しているが、これはこじつけではなく、かなり本質的な指摘である。

スポーツを本気で見ると、どうしても祈るような気持ちになるのであり、これはパチンコ台の前で大当たりを待っているのと、そう変わりはあるまい。
スポーツは実力次第であるし、実力そのままであるはずだが、スポーツの一試合だけ切り取ってみれば、番狂わせはずいぶんあるものである。

入学試験にお守りを持っていくのも、やはり一発勝負だからであろう。
試される機会は限られているし、運不運が出てしまう。
人生の重大事では、節目節目で、どうしても幸運を祈るしかないのである。

アニミズム的な習慣は、どんな場合でも因果的継起の理解を曇らせるように働く。だが、より初期の、ずっと思慮を欠き、それほど明確ではなかったアニミズム的な性向についての感覚は、より高度な形態の擬人観よりもはるかに広く個人が知力を働かせるプロセスに影響すると期待してよいだろう。


ヴェブレンは初期のアニミズムを因果関係の否定と規定する。
それは高度に知性的なものに発展していくという。

ヴェブレンは人生の一回性ということは述べてないので、そこはわたしが補助線として引いただけだが、やはり人生が一回である限り、幸運を信じる心というのは避けられない。
因果関係というのがあるとしても、一回だけだと、運不運はあるので、事前に確実な予想をすることはできない。

背景にあるのは、やはり人生が重大ということであろう。
たとえばサイコロを振るだけであれば、まったく何もないわけであり、出た目の結果で快楽と苦痛に分かれるからこそ意味があるのである。

気候についても、それぞれの土地において決まった傾向はあるが、バラツキもあるので、一回だけの人生では雨乞いするしかないこともあろう。

「目先のことに囚われるのはよくない」という言い回しがあるが、これは長期戦を視野に置いた話であろう。
試行回数が多いことなら、物事に一喜一憂しないことが望ましい。
しかし、アスリートにとっての五輪とか、ひとつの舞台が重大過ぎることもあり、その一回のために幸運を祈るしかないこともある。
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