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就寝時の夢の中で、たとえば東京から徒歩でニューヨークに出かけても「これは理屈に合わないから夢だ」とは思わない。
実際は時たま「あ、これは夢だな」と半覚醒状態で理性が働き、夢と空想の半々のような状態に陥ることもあるが、たいていは夢の中の仮初めの法則をまったく疑ってない。

たとえば現実世界で地下鉄に乗っているとする。
半蔵門線に乗っているとか、日比谷線に乗っているとか、そういう自覚はあるわけだ。
なぜそのような見当識を持てるかというと、連続的な記憶があるからである。
生きているのは瞬間瞬間であり、未来も過去もなく寸断されているのだが、物事の経緯を記憶で繋いでるから、今どこで何をやっているかという見当識が発生するのである。
これが夢となると、その連続性が無くなるのだが、しかし、仮初めの見当識はあり、東京にいるとかニューヨークにいるとか、そういう「自覚」があるのだから面白いところである。

われわれは空間の一箇所にしか存在してないから、実は三次元を体験してないし、たとえば視覚であれば二次元を三次元に置き換えているだけである。
東京からニューヨークまでは一万キロだが、一万キロでも一キロでも別の場所である。
別の場所は別の場所であり、隣町とニューヨークは同等であるとさえ言える。
だが夢と現実の違いとして、一キロ歩けば隣町に行くがニューヨークには行かないという事実があるわけだ。

徘徊している痴呆老人は見当識がないと言われるが、記憶を繋げて現実を維持する能力がないのである。
さきほどの地下鉄の事例で言えば、あなたが痴呆老人でないなら、半蔵門線に乗ったとか日比谷線に乗ったという自覚を維持しているわけであり、たとえば銀座に買い物に行く途中であるとか、乗っている目的も知っているわけである。
その根底にあるのは時間と空間であり、それが現実なのである。
夢で擬似的な現実が生成されるのは、主観としては東京とニューヨークが隣り合っていても差し支えがないということだろうが、正真正銘の現実はそれを認めていない。
赤の他人は赤の他人である。
これは誰もが認めるであろう。
だが、「赤の他人の家族」となると、いきなり自分の身内と混同する人間がいるわけだ。

まったく無関係の人間が「俺には娘がいる」と自分語りを始めてシャドーボクシングを始めるのである。
これで頭のおかしな人間と言われることはないし、自分の家族と他人の家族の混同は、むしろ常識なのである。
おそらく蟻が巣を作る社会性と同じであり、本能なのであろう。

理屈としては、「俺には娘がいる」とシャドーボクシングされてもわけがわからないが、だが、何もされてないうちから威嚇するのも、これまた正常なのである。
何かをされてから怒っては遅いので、なにもないうちから怒るわけだ。
理由があって怒り狂うと「我慢ができない人間」と蔑まれ、怒りのコントロールが必要だと矯正施設に放り込まれるが、理由がなければいいのである。

朝日新聞の植村隆が逃げ切れたのも、娘の悪口が書かれたという件が大きい。
「俺には娘がいる」ということで、娘を守ろうとする父親たちが援軍として現れたのである。
悪口を書かれるのと直接危害を加えられるのとは話が違うが、女子ということでそういう扱いになるのであろう。
これが息子だったらこういう展開にはなってない。

誤解している人が多そうだが、植村隆の娘は「高校生平和大使」というよくわからない活動をしていた。
興信所で調べられたわけでもないし、ごく普通に実名で活動していただけである。
もちろん著名人とは別枠であろうし、実名を名乗っている一般人という立ち位置である。
時たま何らかの活動をしていて、それが新聞で紹介される高校生がいるが、あれと同じである。
著名人ではないから「晒し」という側面もあるが、実名を名乗っていたのも事実であり、完全な晒しとはまた違う。
ちなみに「反日捏造工作員の父親に育てられた超反日サラブレッド」というツイートをした人間は裁判で170万円の賠償を命じられた。

これについて述べるなら、裁判で170万円という判決が出たのだから、この訴えについては、そういう結論なのだろう。
これが娘ではなく息子だったら170万円だったのかという疑問もあるが、ともかく170万円だ。

朝日新聞の捏造記事についてはまた別の話であり、その全体を見ていく必要がある。
名誉毀損の裁判というのは要するに勝てる争点で原告が訴えたというだけであり、言論としての勝敗が決したわけではない。
喩えるなら、サッカーの試合が90分あるとして、その中のワンプレーが誤審だという主張をするのが、名誉毀損の裁判である。
大量失点でボロ負けした方が、ワンプレーの誤審を主張して、それが法廷で認められた、ということである。
日本が受けた被害は170万円では済まない。
法廷で試合全体を総括する必要はあるまいが、ワンプレーだけに絞って勝訴を勝ち取る最近の風潮には懸念を覚える。
そもそも訴えられようが言論が封じられるわけではないので、裁判は裁判として、それとはまた別に言論を展開する自由もあるが、やはり弁護士から「傷口を広げないために黙っていてくれ」と言われるであろうし、たいていは言論における反論を放棄するようである。
現在はるかぜがやっている舞台で、仄聞するには、どうも原作の許諾をきちんと得ていないという疑義が生じており、まだ事態が明確にはなってないので詳細は差し控えるが、二年ほど前も、オーケストラで「進撃の巨人」をやると告知して、はるかぜが司会になったが、許可が取れないから直前で曲目が差し替えられる出来事もあった。いわゆる類友の法則であるが、あの親子が友誼を結ぶとなると、どうしても事実や現実への検疫が大雑把な人たちと気脈が通じるようになるらしい。今回の件の真相は判然としないにしても、きちんと許諾を取った上で舞台を行うしっかりとした姿勢がないのであろう。

われわれはダメージ計算をしながら生きているはずである。これは予見可能であるから、行動とリスクは考えることができる。六弦の親指ミュートが難しくてエレキギターが弾けないならミュートは怠ってもいいだろうし、ミスピックしてもたいしたことはない。演奏をやめるよりはとりあえず弾いてみた方がいい。だが、たとえば何かの作業をするとして、ミスをしたら大事故になるならやらないであろう。まさにケースバイケースであり、それぞれのダメージ計算を事前に行う賢明さの問題である。予測されるダメージに合わせてやったりやらなかったりする現実的判断である。

あるいは、そのようなダメージの予見を超越した、確実な失敗というのもある。いわば破産の前夜祭、残りの財産を使い果たすべく派手な夜会服を身に纏い、最後の晩餐の饗宴に耽り、酩酊で歪んだ世界を眺めながら、おぼつかない千鳥足でダンスを踊るファンタジーな愚か者である。はるかぜ(娘)はあと一年半で高校(通信制)を卒業するわけである。卒業できないかもしれないが、どちらにせよ年齢的に子ども枠ではなくなる。予見性の麻痺と言えるメンタリティが、まぐれ当たりを生み出すこともあろうし、軽業師のように地雷を回避し、破滅に邂逅することなく天寿を全うする人だっているのだが、18歳からはるかぜがスーパースターとして活躍することはなさそうだし、これはただ先延ばしするだけのモラトリアム問題である。はるかぜ親子の話だけではあるまい。現実逃避のために予見性を麻痺させるのは、知力がある人でもやってしまうことがあるし、精神的な弱さ、あるいは気位の高さ、自尊心の傷痕、そのように病める心が、人生の耐え難さをファンタジーで誤魔化そうとするのである。
艦これなど作業ゲーの典型であろうし、わたしは過去に(枠を拡張するために)数千円は課金したが、とっくの昔にやめてしまった。
おそらく飽きる人のほうが大半であろう。
有村悠さんなどは極端なゲーム音痴であるから、イベントのたびに毎回毎回本気で怒り狂っているわけである。
東大受験のためにゲームを禁止されていたのに結果は高卒という哀しさもあるし、また野生本能に満ちた高卒とも違うから、そこも哀しい。

お化け屋敷を本当に怖がる人もいれば、こういう演出なんだと冷めてしまう人もいるであろうが、だいたい慣れてくるとパターンはわかりきってしまう。
有村悠さんはド田舎で丸暗記・ガリ勉・詰め込み教育を極めた人であるから、学習能力が全くないし、幽霊のカラクリが見えないようである。
艦これを簡単にクリアできる人はそんなに楽しんではいないであろうし、開発者側が設定しているパラメータを踏まえつつハリボテと戦って、それを容易く打ち破っているのである。
とはいえ、以前のようにディスプレイを破壊したりという無茶苦茶な暴れ方をしなくなったのは、攻略サイトを見るようになったからである。
丸暗記・ガリ勉・詰め込み教育で培った能力でなんとか進めているのであろう。

有村悠さんの作家的想像力という見地から言えば、おそらく幽霊が幽霊に見えたままのほうがいいであろうと思われる。
ゲームなんて開発側が数値と確率を決めているのだから、その難易度の匙加減を推し量って攻略していくだけだが、そうなるとただの作業になる。
これまで100万円以上の課金をしているとはいえ、艦これ同人誌を累計二万部売っている有村悠さんとしては、飽きてしまうのも望ましくない。
有村悠さんは、高卒にしては意外と文筆の力はしっかりしており、長文は理路整然としているので「人間失格」程度なら書けそうだが、太宰治と同等の文学的な才があるわけではないであろうから、艦これクラスタが終の棲家であろう。
アニメやゲームのキャラクターにしても、やはり記号から生成されてくる生々しさを体感出来なければ楽しめないし、幽霊の正体を見透さないほうがいいというのもある。
お化け屋敷で半狂乱になるような場違いもそれはそれとして作家性であるし、これを矯正すればいいというものではあるまい。
叶姉妹の今回の件に関しては、以前からコミケを訪れたりしているようなので、真偽で言えば、叶姉妹が真なのであろうし、とらのあなのプロモーションだという観測は正しくないのであろう。

叶姉妹がネットのアニメアイコンから絶賛されているのとは対照的に、著名人からの言及がとても少ないことが印象深い。
争点を限定して名誉毀損の訴訟で勝つのは容易いが、あれこれ他のことで粗探しされる副作用もないとはいえない。
真実の人という立ち位置は取らないほうが無難である。

弁護士は代理人に過ぎないので厄介である。
相手の弁護士と言論を戦わせることは出来ないわけだ。

弁護士は真実発見義務という倫理規定があるが、法的にそれが課せられているわけではない。
よほど悪質であれば懲戒処分もありえるが、滅多にないことである。

たまたま今回のケースでは、弁護士の主張が真実と一致しているので問題とはならないが、そういう真実発見義務がなされているとは限らず、そもそも民事訴訟には原告も被告もいるので、双方に弁護士がいるとしたら、一勝一敗のはずである。
敗訴するのも弁護士なのだから、弁護士の主張が正義というわけではない。
原告だから正義というわけでもない。
それに、依頼人のために偏った主張をするのが悪いとも言い切れない。
真実発見のために依頼人の不利な情報を出すわけにもいかないだろう。

今回出てきた法律事務所は佐村河内の代理人もしているのである。
弁護士に積極的な真実発見義務はないとされるが、消極的な義務なら弁護士会の規定としてあるはずなので、そこは留意して欲しいものである。
2017.08.13

人間の皮

人間の皮をかぶっていると言うが、そもそも皮しかないのであるし、この皮が筋繊維を殖やし臓器を形成し、精神なるものまでも創り出すのである。その人間の皮が、他の人間の皮を求めているだけである。皮が裂けて内臓でも見えようなものなら嘔吐するのであるから、どうやら皮にしか用がないらしいし、すべては人間の皮に従属している。このところ久しく凡人という言葉が死語になっており、蔑む意図で使われることは滅多にない。才無きことを恥じて懊悩する立場の人間はごく少数であるし、ネットの氾濫により、才なきことを咎め立てされない有象無象が幅を利かせているとも言えるが、凡人という言葉より、キチガイという言葉の使用頻度のほうが明らかに高くなっている。われわれが他者に攻撃的な言葉を投げかける場合には同調者を期待している。キチガイ呼ばわりは、関東大震災のときの「朝鮮人が来たぞ」と同じように連帯感を生む効果があるが、あいつは凡人だと言ったところで、それは正常さの証でしかないから、明らかな無効打であるどころか、むしろバランスの取れた人間だと礼賛していることになる。われわれの認識は森羅万象すべてを映し出す鏡ではない。人間の皮としての体験、それだけである。若い女の素肌は美しいとか、おばさんだからアウトだとか、人間の皮に似付かわしいことばかり考えているのである。洗濯機が洗濯するのと同じである。洗濯機には洗濯物しか見えない。そういう箱庭世界にいる。だから、まるで未来予知者のように、生まれつき社会の仕組みを知っている凡人が現れてくるのである。後からようやく気づく鈍感な人間からすれば、最初から気づいている人間は不可思議であるが、人間の皮として体験可能なことは、社会的動物として自明なのである。
ヴェブレン(1857-1929)の「有閑階級の理論」は読まなくても内容が分かる本であり、退屈であると言っていいのだが、幸運を信じる心というくだりが面白かったので引用しておこう。

ヴェブレン「有閑階級の理論」高哲男訳
ギャンブル好きな性向が、もっぱら略奪的なタイプの人間性に属する特徴と分類されるべきものであることに、疑問の余地はない。ギャンブルを行う習慣に含まれている主要な要素は、幸運を信じる心である。そして少なくともその要素についてみるならば、この信念が略奪文化に先立つ人間の進化段階にまでさかのぼることは明らかである。幸運を信じる心が、ギャンブル好きな性向の主要な要素として、スポーツ好きな気質のなかに存在しているような形に発展したのは、略奪文化の下でのことであったと言えよう。
(中略)
古代の人間にとっては、周囲の環境のなかのきわめて顕著で明らかに重要な対象や事実は、すべて準人格的な個性をもっている。それは意志力、あるいはむしろ性向をもつと考えられており、したがって、複雑な原因のなかに入りこみ、不可解な仕方で結果に影響を及ぼすのである。幸運とチャンス、すなわち幸運な必然性に関するスポーツマンの感覚は、漠然とした、あるいは未完成なアニミズムなのである。それは、しばしばきわめてあいまいな仕方で対象や状況に適用されるが、しかし通常は、技能とチャンスをきそうあらゆるゲームの装置や服装の付属品を構成する対象に含まれている独自な性向の展開を和らげたり、逸らしたりねじ曲げたり、さもなければ混乱させたりする可能性を意味するもの、と定義されている。多少とも効き目があると見なされているお守りや魔除けを身につける習慣をもたないスポーツマンは、ごく少数に限られる。


幸運を信じる心、という概念も面白いし、これをアニミズムに結びつけているのも卓抜だと思われる。
ヴェブレンは、スポーツ選手がお守りのたぐいを所持するのをアニミズムだと指摘しているが、これはこじつけではなく、かなり本質的な指摘である。

スポーツを本気で見ると、どうしても祈るような気持ちになるのであり、これはパチンコ台の前で大当たりを待っているのと、そう変わりはあるまい。
スポーツは実力次第であるし、実力そのままであるはずだが、スポーツの一試合だけ切り取ってみれば、番狂わせはずいぶんあるものである。

入学試験にお守りを持っていくのも、やはり一発勝負だからであろう。
試される機会は限られているし、運不運が出てしまう。
人生の重大事では、節目節目で、どうしても幸運を祈るしかないのである。

アニミズム的な習慣は、どんな場合でも因果的継起の理解を曇らせるように働く。だが、より初期の、ずっと思慮を欠き、それほど明確ではなかったアニミズム的な性向についての感覚は、より高度な形態の擬人観よりもはるかに広く個人が知力を働かせるプロセスに影響すると期待してよいだろう。


ヴェブレンは初期のアニミズムを因果関係の否定と規定する。
それは高度に知性的なものに発展していくという。

ヴェブレンは人生の一回性ということは述べてないので、そこはわたしが補助線として引いただけだが、やはり人生が一回である限り、幸運を信じる心というのは避けられない。
因果関係というのがあるとしても、一回だけだと、運不運はあるので、事前に確実な予想をすることはできない。

背景にあるのは、やはり人生が重大ということであろう。
たとえばサイコロを振るだけであれば、まったく何もないわけであり、出た目の結果で快楽と苦痛に分かれるからこそ意味があるのである。

気候についても、それぞれの土地において決まった傾向はあるが、バラツキもあるので、一回だけの人生では雨乞いするしかないこともあろう。

「目先のことに囚われるのはよくない」という言い回しがあるが、これは長期戦を視野に置いた話であろう。
試行回数が多いことなら、物事に一喜一憂しないことが望ましい。
しかし、アスリートにとっての五輪とか、ひとつの舞台が重大過ぎることもあり、その一回のために幸運を祈るしかないこともある。
神経症という言葉が死語になったのは、DSMの名付け方の問題ではなく、根本的にこのようなメンタリティが社会から消えつつあるからである。
現況と反りが悪い強迫観念を抱いているような存在の在り方が認められなくなった。
これは社会の流動性の問題でもあるし、一昔前であれば決まりきったことしかやらない義務感の強さが高く評価されたのである。
合理性がないことでさえ、義務であるとして徹底的にやることが求められた。
反復強迫とは、どれだけ空回りしても義務を実行することであるし、遺骸に絡みつく亡霊であり続ける不合理さこそが人間ということだったのである。

精神的に抑圧されることがなくなった2017年現在になってもまだ怒り狂っているのは、神経症的な義務に囚われる美学に酔っている時代遅れであるか、そうでなければアスペルガー症候群の類であろう。
頻繁に怒り狂う人は、状況の変化に対して、頭と心を整理することが出来ない。
あらかじめ決めた予定が究極の目標という認識をしているのである。
そういう義務感に満ちた認識は、今日においては正しくない。

怒りの頻度が高い人は、神経症的に未来を決め込んでいる。
これは賢明さから極めて遠い状態にあると言える。
何かしらマイナスの出来事が発生したら、その塵芥は夙に壊死したものと断念し、社稷墟となるにまかせ、新たに蚕食すべき大地を検索し思考を這わせる、もしくはあらかじめ考えておかなければならない。
殉教に値する信念などこの世にはないのだから、理想にそぐわないとして怒る理由などまったくない。

気持ちを切り替えるという言い回しがあるが、神経症という拘束具が外れた現在では、たいていの人はそれができる。
局面が変わったなら、その状況を把握して、自己認識と世界認識を組み直す必要がある。
空間は曲がるそうだが、世界も曲がる。
世界は固定ではないし、自己を枉げるとそれに応じて変化するのである。
元の発言は見つからないが、というより、探す気力は微塵もないが、東浩紀が「自分に擦り寄ってきて、後足で砂をかけて去っていった人間は数え切れない」という趣旨の発言をしていたことがある。必ずしも宇野常寛のことだけではあるまいが、そもそも東浩紀の頭の中はジャック・ラカンの知識しかないから、誰しも教えてもらうことがない。文化人サークルへの入り口として門をたたくだけであろうし、用が済んだら立ち去るのであろう。

われわれは他人からの好意はあまり嬉しくないのである。親切な人も「ゴルフを教えてやる」とか大きなお世話であることもあるし、下心が見えたり、それに、好意はいつでも引っ込められるカードなのだ。好意の釣り針に引っかかったが最後、なにかあるたびに「失望しました」とか鉤針で抉られるし、アンチ化せずに無関心になって去ってくれればこちらの手傷が浅いという具合であるから、疑似餌に惑わされる代償は大きい。

こういううわべの好意と比べると、岩崎友宏が冨田真由さんに執着しているのは真剣そのものに思えるが、永遠の愛を誓うのは岩崎友宏のように誰からも相手にされない人間だけであろう。門前払いされた数多の経験から怨み骨髄に徹してるだけである。

相思相愛というのは、お互いのレベルが一致した状態である。そしてお誕生会で和気藹々とやるのである。何らかの事情でランクが落ちたとすれば、お誕生会に呼ばれなくなる。もしくはその主役が落ちぶれたら、お誕生会が寒々しく閑散とする。相思相愛は美しいように見えるし、ランクの高い人間が転落するのはそう頻繁にはないので、破綻することも少ないが、とはいえ、頻度は低いにせよ、転落することも時たまあるので、相思相愛の無慈悲が顕わになる光景に出くわすわけだ。恋愛の相思相愛にしても、美男美女は頻繁にくっついたり離れたりしているのである。

このように取り留めもなく語った文章において、最後に筆者のスタンスを記すことで体裁を整えた方が論考としては据わりがいいし、文章の骨組みとして可読性が上がるのであろうが、ただあるがままに空疎なお誕生会があり、門前払いされたり、素知らぬ顔で侵入してくる輩がいるというだけなのである。

物事の重大性から言えば、冨田真由さんを滅多刺しにした岩崎友宏こそ最悪であり、「東浩紀さんのファンです」と言って敷居をまたいで、一通り用が済んだらあれは嘘だったと去っていく宇野常寛のほうがまだマシであると言うのが常識的は妥当であろう。獄舎につながれる囚徒でさえ、量刑の違いがあるわけである。囚人服を着ているから全員が同一というわけではない。

だいたい好意とか愛は胡散臭く、そう気安く受け取るべきではない。もしくはアバンチュールとして楽しんでもいいのだし、津田大介が近づいてきたら大喜びで乱痴気騒ぎして翌朝はゴミ箱に投げ捨てられる女もたくさんいるわけだ。いずれにせよ、すべての好意については見極めが必要なのである。
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