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このところ勉強嫌いというのが減っているように思える。
最近の若者は断念することに慣れているし、おそらくそれと関係している。
本当に勉強するようになったかというと疑わしいし、実際の学力は低下している懸念もあるが、感情的な反発はかなりなくなっている。

何十年も前の人間が「勉強が嫌だ」と暴れていたのは、断念する習慣がなかったからである。
とりあえず暴れるのが流儀だったわけだ。
勉強そのものが嫌というだけでなく、勉強のために何かを断念するのが嫌という側面が大きかった。
たとえばサッカーがやりたいというような具体性がなく、せいぜいダラダラと怠けている人間でさえも、そのダラダラの断念が嫌なのである。
むしろ、サッカーの練習をきちんとできる人間であれば、勉強もきちんとやっているのが普通であろう。
これについては体育会系のクルクルパーもずいぶんいるので一概には言えないが、ともかく、「断念」そのものへの反発というのがかなりあったのである。

人生は一度しかないし、一度にひとつのことしか出来ないから、いつでもわれわれは断念しているはずなのだ。
音楽を聞きながら勉強するくらいは可能でも、二冊の本を同時に読むのは不可能である。
つまり、どっちみち時間は排他的であり、「ひとつ」に絞られているのだが、変な全能感というか、ダラダラ感ですべての可能性を保持しているかのような、奇妙な錯覚もあるわけだ。
「ひとつ」を選ぶと、それ以外のすべての可能性を捨ててしまうので、何も選ばずにダラダラしていればいいということらしい。
まったく理屈に合わないのだが、おそらく「本当は自分は何でもできる」という空想的ファンタジーがあるのだと思われる。
40歳の既婚女性であれば夫は確定しているが、独身のババアだと王子様が現れるかもしれないということなのだろう。

ともかく、断念そのものへの激しい抵抗はずいぶん減ってきた。
これは多動性が障害とされるようになったこととも関係はあるだろう。
なにもしないことで「あらゆる可能性を捨ててない」と考える自己愛性人格障害は普遍的病であろうが、もはや健康な人はごく普通にひとつのことをやっているのである。
昔は発達障害でない人でもずいぶん暴れていたのだが、21世紀になっても暴れているのは発達障害とか人格障害だけであろう。
物質世界と精神世界を別々に考えるのは、あながち間違いではない。
物理現象と、それに充てがわれる感覚の繋がりに究極の根拠がないからである。

生物がいなければ暑いとか寒いというのはないはずである。
温度はあるとしても、それは暑い寒いの話ではない。

40度の湯船なら心地よくて、熱湯だと大変なことになるが、そういう熱さの感覚も、要はシグナルである。
警報装置の音に究極の根拠はあるまい。
つまり、快-不快というのは、安全マークもしくは危険信号であり、その対象そのものではない。
火災報知器の音が火災そのものではないのと同じである。

社会が発達してくると、快-不快の素朴な判断では、人生の転落という問題が起こってくる。
たとえばアルコールを事例にすると、これについては「飲みすぎると危険」だと言い聞かせるしかないわけである。
二日酔いという警報装置は身体に備わっているが、原則的には快楽だから、心身の健康を損ねる問題について、アルコール依存症で人生を台無しにした人の事例を列挙するなどして、「社会的な警鐘」を鳴らすわけである。

ともかく、われわれが精神と呼んでいるものはシグナルであり、それがすべてなのである。
快楽だけに走らないように理性で補正しているので、そこが上積みと言えるが、基本的には暑い寒いという警報装置が人間そのものである。
そもそもわれわれ人間は多細胞生物であるから、37兆だかの細胞については認識してないし、中央の管理人室でピコピコ音を聴いているだけなのである。
われわれはおそらく好き嫌いについて根本的に思い違いをしているのである。
たとえばあなたがカーストの低い人間だとして、あなたに好かれるために他人が媚びてくるかというと、それはないはず。
つまり、あなたには好かれたくないわけである。
そして端的にいうならこの世の中、「この人には好かれたくない」という人だらけなのである。

セックスという問題があり、若い女ならとりあえず(極端な不細工を除いては)性的価値があるので、実は他人から好かれたくないという真実は曖昧にされているが、本質的な人間と人間の関係からして、やはりわれわれは他人から好かれたくないのである。

他人に好かれたいという強迫観念を持っているなら、それ自体がおかしいのである。
もちろんセックスとか金とか名声とかそういう実利のために、手段として好かれたいというのはあるから、好かれるための努力をしているのだが、チヤホヤされている人でも、人気がなくなったら一気に人がいなくなったりするわけだ。
なぜ「人気がなくなった人」に好かれたくないのか、それはメリットがないからだし、そもそも他人から好かれたくないからなのである。

発達障害者が疎まれる大きな理由もそれなのである。
自閉症スペクトラムの濃淡によってかなり違いはあるが、他人と親しくなれないのと同時に、やたらと馴れ馴れしいのも特徴だったりする。
ADHDは分け隔てのない親しみを他人に示して疎まれたりするわけだ。
定型発達者であれば、お誕生会に誰を呼ぶか(誰を呼ばないか)という差別感覚を身に着けているのだが、ADHDは無頓着だったりする。
これは決して差別をしない聖者というのではなく、社会的嗅覚の鈍さ、そして自らの体臭に気づいてないだけであろうし、頭のネジが外れているのである。

定型発達者のお誕生会も、要するに人選が差別的であるから、今まで呼ばれていた人が呼ばれなくなることもあるわけだ。
言い方を変えれば、差別などではなく、われわれはひとしく人間そのものが嫌いであり、容姿や金銭や権力などが目当てというだけなのである。
人間としては嫌悪しあっているのに「お目当て」のためにお誕生会をしているのだ。

ともかくチヤホヤされていた人がチヤホヤされなくなるという現象を目にすると、この世には差別などない、とも言える。
誰もが本当は嫌われている。
どんなに華やかな人間でも、お誕生会から外される可能性はある。
人間の人生は短い一回性であり、立場や肉体は固定されているし、そうそう頻繁には没落しないから、その短いスパンだと差別があるように見えるだけである。
誰もが本当は嫌われている、そもそも他人に好かれたくない、それが真実である。
「人気がなくなった人」と友だちになりたいか、と想像してみれば簡単な話である。
チヤホヤされなくなった人を見るだけで、そういう人間の本質はよくわかる。
わたしが佐藤日向に対して強い怒りを抱いたのは、「少女 歌劇 レヴュースタァライト」について、「当日券がある」という紛らわしいツイートをしたからであるし、実際は「当日券のための整理券配布」と抽選であったから、わざわざ渋谷まで行ったのが無駄足になったからである。
佐藤日向は自らを推してもらうために、自らのカラーの水色の服を着てくれとか、つまり、オタ向けの営業活動として「当日券がある」とやっていたわけだ。

なぜわたしだけが怒っているのかというと、真人間を装っているヲタは黙っているのであろうし、わたしは佐藤日向に興味がないからであろう。
わたしは今まで佐藤日向のツイッターをフォローしたことさえないし、たまたまRoseliaの姉ちゃんが出ているから、今回の演劇を見てみようと思っただけである。
普段は佐藤日向のツイートなんぞ見てないのだが、たまたまRoselia繋がりでチェックしたのである。

さて、このタイプの利口で素直な人間に時たま激しい怒りを持つことがある。
たとえば道を譲らないとか些細な事でも、人から好かれそうなタイプの人間にそれをやられると、こちらが悪者にされる予感がMAXになるので、それが憎悪になるのである。
ゴロツキに攻撃されるのとはまた別の怒りである。
無個性で利口で見た目も好青年みたいなやつから無神経なことをされると、いかにも差別的な言動を受けたという強い印象を受ける。
喧嘩を売られたというよりは、貴族と賤民が当然のごとく決っているというナチュラルなカースト意識を感じるのである。

わたしが佐藤日向に全く関心がなかったことは前述したとおりだが、やはり利口で素直なタイプなので、人から好かれそうなところが嫌だというか、「こっちが悪者にされそう」という畏怖があり、敬遠していたのであろう。こうやって小さなトラブルが起こると、向こうが健全な貴族でこちらが狂った廃疾であるという前提について、天道是か非かという義憤があり、おそらく人間の根源的な劣等感の問題である。当日券の抽選があるのを「当日券がある」と記述するのは誤りだと思うのだが、どれだけ理屈を弁じ立てようが、賽の河原で小石を積むような徒爾にしかなるまいし、あくまで人間の貴賤で決着が付き、結論が綴じられてしまう。

人類全員が佐藤日向の味方をしそうだし、そういうナチュラルな貴族主義というか、逆に言えば、こちらがナチュラルで賤民というか、そういう理不尽さである。
当日券の問題で佐藤日向は釈明もしてないし、すっかりAKB商法でヲタを転がすことに馴染んだ様子だが、このままいろんな人に取り入りながらうまくやっていくのであろうし、時たま無神経な言動をしても声を荒げる人はいないし、御本人は大過なく生きていくわけである。
佐藤日向は人から好かれやすい人物であるにも関わらず人気はないが、おそらくこれも人間社会における典型的な事例なのである。
「人から好かれやすそう」という特権的な貴族が世の中には一定数いて、果たして本当に好かれているのかというとそうでもないし、好きだという自己判断の積み重ねというよりは、なんか「他人から好かれているだろう」という迂回した目線で見ているわけだが、これが人間社会なのであろうし致し方あるまい。
https://twitter.com/lp_announce/status/911431502486921221

sekininnourixyoku.png

本当に心神喪失している人は病気そのものが苦痛であるはずなので概して活動量が少ないし、ネットで大暴れしている輩のほとんどは有村悠さんのような快楽主義的人格障害者であるが、どうやら、本当に心神喪失の人から怪文書が直に届けられたようである。
この文面からは何も読み取れないが、いわゆる世界没落体験をしたのであろうし、その原因が有村悠さんということらしい。
われわれは寝ているときの夢で「コーラを飲むと癌が治る」とか「池田大作から攻撃されている」とか、そういう荒唐無稽な観念に取り憑かれるのだが、目が覚めているときにもその憑き物が落ちず、なおかつ直接的に訪問してくる人がいるのであれば、これは警察に相談するべき案件であろう。
普段からキチガイを演じている有村悠さんが警察に頼るのは恥ずかしい気もするが、どうせ生き恥だらけなのだし、どっちみち数え切れないからひとつやふたつ増えても差し支えあるまい。
親を尊敬するとか、教師を尊敬するとか、先輩を尊敬するとか、そういうのを定型的な訓示として述べて終わりにするのは、物事の深層まで洞察してないのだし、人間理解が足りないと言える。
温厚な親とか温厚な先輩なら、「尊敬します」と言っておけばそれまでだし、いわば儀礼で済むのである。
これが気性の激しい人間となると、そうはいかない。

つまり尊敬と一言で言っても、温厚な人と気性の激しい人では話が違う。
気性の激しい人間であれば絶対服従を求めるから、儀礼では済まない。
奴隷としての実践活動で尊敬を示す必要がある。

「尊敬に値する」とか「尊敬に値しない」というのは分別としてあまり適切ではない。
表面的な儀礼で済むか済まないかが大事なのである。
儀礼で済むのであれば、相手が誰であれ一定の敬意を払って然るべきだろう。

温厚さ、気性の激しさはある程度は先天的なものだが、本人の人生への態度でもある。はるかぜババアのような気性の激しい人間は生まれつきであるだろうが、それに加えて育ちの悪さとして、娘に絶対服従を求めるのである。あちこちで干戈を交えては、その累が娘に及ぶ仕組みなのである。娘を使って炎上を繰り返すことができるのは、やはり気性の激しさが突き抜けているのであり、これは自らの人生への憎しみであり、その深淵には底がない。

有村悠さんはディスプレイ破壊おじさんとして知られており気性も激しいのだが、どこかしらユーモラスな側面もある。高卒なのに朝から晩まで東大の話をしている最底辺の人間だが、はるかぜババアほどに突き抜けてないのは、やはり東大に合格した体験があるからであろう。虚無へ還るべく人生や世界という事実性の全てを焼き尽くし根絶やしにするとなると、東大合格という事実が消えてしまうのでまずいわけである。金持ち東大生から「おまえは高卒」とか「わたしは特別な人間だが、あなたは特別な人間ではありません」となじられて退学した怨みがあるとはいえ、人間最後のプライドが満たされているのである。有村さんが本質的にファッションメンヘラであり、通り魔のような気質を持ちながらも実行しないのは、どれだけ潰走を繰り返しても、やはり東大合格が金字塔として煌めいているのであろうし、もしこれがなかったら、箍の外れたルサンチマンの虜として、森羅万象のすべてを消去するために怪物化していただろう。

平凡で温厚な人はたくさんいる、というより、世の中の半分くらいの人はそうであるから、尊敬する美徳が安易に説かれるのであろう。
前述したように、相手が温厚な人間だと儀式で済むが、気性の激しい人間だとそうはいかない。

気性の激しさはプライドの問題とかなり深く関わっているので、まずはそこに着目する必要がある。
温厚な人間と気性の激しい人間を厳密に区別できるわけでもないが、それでも明確な違いはある。
社会的に成功しているにも関わらず、あたかも殺し合いのような勢いで他人に向かってくる激しさを持つ人間もいるし、いろいろとバリエーションはあるだろうが、こういう気質まで考えた上で「尊敬する」という行為を考えねばならない。
なぜかわれわれは自分の家族と他人の家族の区別がつかない。
いや、別人であることは知っているが、あたかも同一のように見做して共感しているのである。

社会には経済というものがあり、家族は連帯保証人のようなものだから、身内と他人というのは区別できるけれども、家計という縛りがないとしたら、どこまで家族関係の根拠があるのかわかりづらい。
経済という要素がなければ、という仮定はナンセンスかもしれないが、仮に経済という要素がなく、誰もが最高の環境で生まれてくるとするなら、親が誰かはさして問題ではない。
やはり経済的な問題として連帯している関係だと言うしかないのである。

ベビーカーが迷惑という変な話が出るのも、イエ制度から核家族に転じているので、個人主義的な発想に基づいて家族を守るという観念が強くなっており、子連れの親が警察官のように見えるからだろう。
事件報道があるたびに、ネット上で「これが自分の家族だったら相手を殺す」とか書いてる善男善女がたくさんいるわけだが、そのような家族愛の意識が、現実のベビーカーなどを見ると、自らが犯罪者だと疑われないように警戒する形で跳ね返ってくる。
家族に何かあったら「相手を殺す」と仇討ちを予告しているのが最近の親であり、そういう殺伐とした善男善女と現実に接するとなると厄介なのである。
仇討ちの予告は犯罪に該当しないようだから、これは自由なのであろうし野放しにされるが、其の結果として殺伐感が生まれる。

自分の家族は本当に自分の家族なのかというと、前述したように、人間は経済的存在なので、富貴の生まれとか貧賎な生まれという格差が出るわけだが、これは要するに縄張りの問題であるし、事実といえば事実だし、無根拠と言えば無根拠である。
「これが自分の土地だ」という所有権に事実性があるのなら、「これが自分の家族」というのも事実なのであろう。
人間同士での取り決めでしかないが、その事実性が人間存在である。
経済的に運命共同体であるというのは、たまたまどこかで接点があるという程度ではなく人生そのものであるし、だから最寄り駅の駅員さんを「自分の駅員」だと言うことはなくても、自分の家族は自分の家族なのである。
ではなぜ自分の家族と他人の家族を混同して共感しているのかというと、「身内」というイデオロギー性なのであろうし、それが軍事境界線なのであろう。
有村悠さんがいつもの金欠に入り始めたらしい。印刷代の前借りをしているようである。同人誌でそこそこ利益はあるはずだが、赤字を承知で地方のイベントに遠征したり、川崎から近場の秋葉原でさえワシントンホテルに泊まったり、艦これに100万円を超える課金をしたり、数多の無軌道な奢侈が彼を行き詰まらせたと思われる。

このような不行跡を断ち切るために、強制的に貯金させるという対処療法はあるとしても、その強制力のために後見開始の審判まで行くのは容易ではない。

金銭感覚の話だけではなく、世界認識の在り方が問われている。有村悠さんの金遣いの荒さは、あたかも手足のない人間が電動車椅子であちこちに突撃していくような生き方である。バリアフリーでどこまでも辿り着けるという全能感ではなく、自らの手足で世界を認識し、事理弁識能力を獲得しなければならない。

空間的に別の場所は不可知とも言えるし、未来も不可知ではあるのだが、空間には地図があり、時間についてもだいたい妥当な経験則があり、予想は可能である。世界は決してバリアフリーではないので、空間認識と時間認識をきちんとした上で人生を操舵しなければならない。

われわれの地理認識はかなり拙いものである。さすがに最寄り駅への道や生活圏の土地勘はあるけれども、そこから少し外れたら地図を参照してやり繰りしている。自宅から5キロくらいの近場でも、たまたまほとんど行かない場所があったりするし、そこでは迷う。フランスに行ったことがなくても場所を知ったつもりになっているし、其の程度のかなり端折られたものなのである。決して細密画のような空間認識はしていない。

時間についてもかなり拙いはずであり、そもそも時間は現在しかないので、過去の記憶と未来の想像を直線的に繋いで見当識を生成しているに過ぎない。過去も未来も判然としないものである。それでもやはり、生活に必要であれば、たいていの人はスケジュール通りに回転している世界に合わせて、時間と空間の平仄を合わせ、適切に存在していくのである。時間と空間は幻想のようであるが、人間にとっては絶対的な真実である。時間と空間は絶対的なバリアである。この真実から目を背けてバリアフリーな言動をしていると、人生の破綻が待っている。人生が破綻したらどうしたという話もあるし、どれだけ立身栄達を遂げて勲章をぶら下げようと誰しも荼毘に付されて無に還るのだが、この文脈ではそこまで思考を虚無に這わせる必要はあるまい。人生には計画性が必要である。

東京大学に合格したことがある有村悠さんが、このような障がい者同然の人生を送っているのは憂うべきことである。嘘がバレても平気で活動を続けている連中をネットで散見するわけだが、有村悠さんの破滅的な散財は、そういう後からバレる嘘に似ていて、実は破滅というのではなく、箍が外れた図太い神経に根差した故意であるようにも思える。疫学的に見れば、だいたい母子家庭育ちはこんなものという気もするし、外に女を作って出ていった父親はかなり浪費癖があったようだし、ママンは料理をしない人である。世界認識の弱さと育ちの悪さが相俟って病膏肓に入るという印象だが、いずれこのあたりは自伝小説で綴られるのであろう。
岡目八目という言葉がある。

たとえば昼飯のためにラーメン屋に行ったとする。
すごい行列が出来ていて、その後に用事があるとしたら、ラーメンを断念して、カレーでも何でもいいと思うのが普通だが、本人のこだわりとして、後の用事に差し障りがあってもラーメン屋の行列に並ぶということだってある。
端から見ていたら、ラーメンに固執する合理性がわからないし、カレーでもいいと思うわけである。

この喩えでは、ラーメンとカレーにヒエラルキーがないという前提で話しているわけだ。
これが岡目八目なのである。

「カレーでいいだろ」という岡目八目な意見が誤謬である可能性もある。
好き嫌いがあるからこそ人間なのだと言えるし、ラーメンにこだわるべき合理性があるかもしれないのだ。
第三者が見ると、当人の好き嫌いを無視して「どちらでもいい」とか、「こっちの方が正解だろ」と決めつけてしまうのだが、その合理性に適応できないのが人間でもある。

どうもRoseliaを見ていて懸念されるのは、ギターの姉ちゃんだけ、この歴史的なユニットに価値を感じてなさそうなことである。
ギターの姉ちゃんは、元がトップコート所属のセブーンティーンモデルだが、おそらく身長150センチないと思うので、それが原因で解雇されているはずなのである。
調査したわけではないので想像でしかないが、ごく普通に見てモデルをやる身長ではなかろうと思うだけである。

オジー・オズボーンとセブンティーンモデルのどちらが凄いのかと言ったら、オジー・オズボーンに決まっているのだが、これは好き嫌いの問題でもあるから、本人のこだわりも重要である。
われわれが端から見て岡目八目でとやかく言っても仕方がないのであろう。


Roseliaはブシロードが手がけているバンドリ!というアニメの中のユニットであるが、木谷社長がずいぶん熱心にやっている企画であるらしい。また、声優が実際に演奏することに強いこだわりがあるという。声優のチョイスについては、楽器を演奏できることが最優先であるという。つまりアニメ作品を成功させることはもちろんだが、そこから派生する声優ユニットを本格的にやりたいらしいのだ。声優ユニットはおまけではなく、むしろそちらをやりたいらしいのである。おそらく木谷社長が人選にも関わっている。

バンドリ!自体はアニメとして成功しておらず、スマホのゲームの方はiPhoneだと40位くらいで、これもなんとも言えないのだが、まだまだ諦めている様子はない。

Roseliaのボーカルの姉ちゃんが中元すず香のコスプレをして露骨に喧嘩を売って完全勝利した件についてだが、これはブシロードの木谷社長が了承したはずである。
木谷社長のこだわりが、アニメそのものよりは、そこから派生していく声優ユニットにあることは前述した。
とにかくRoseliaがBABYMETALに勝つことが重要なのである。
楽曲制作をしたのは上松範康だが、アニメと連動したユニットで、作品世界をぶち壊しにしてまで中元に喧嘩を売るなんて、上松範康が独断でやるわけがない。
やはり、上松範康と木谷社長が意気投合して、こういう悪ノリが発生したのであろうし、実際にRoseliaは中元すず香を打ち砕いてみせた。
Roseliaは東京ドームまで行くだろうし、BABYMETALはもう無理っぽいから、勝負は決したのである。

ブシロードの木谷社長が新日本プロレスに金を出して立て直したのはよく知られるが、よほどプロレスが好きなのであろうし、Roseliaのボーカルの姉ちゃんが女子プロレスラーであるのも、木谷社長が人選しているからであろう。
また人生に挫折した経験のあるおばさんを露骨に選んでいるのも、やはり木谷社長の人選であると思われる。
優秀な人間を集めてBABYMETALに勝とうとするのではなく、あえて出来損ないを集めた。
これはプロレス好きの感覚なのであろう。

そもそも作品の中でRoseliaのボーカルが孤高の美少女であるのに、実際の姉ちゃんはオジー・オズボーンの再来というようなロックスターであるから、作品に忠実であるなら人選を間違えているが、しかし本当にBABYMETALを捩じ伏せてみせたのだから、実演の部分にこだわりを持った木谷社長の狙いは当たったといえる。
木谷高明は雇われ社長ではないので、ブシロードとしてやりたいと思ったら何でもできるのである。
これまでの音楽業界で、BABYMETALを仮想敵にするユニットが登場しなかったのも、本当の無一文や無能では出来ないし、能力や資金がある大企業の雇われ社長にそんな馬鹿は出来ないということもあった。
たまたまブシロードはそれができる立場なのである。
このバンドリという企画が今ひとつであることを考えると、もう作品どうこうではなく、Roseliaという歴史的なユニットを全力で売り出していくと思われる、もしくはバンドリという作品を立て直すなら、実在するRoseliaに活躍してもらうしかないであろう。

中元すず香は広告代理店を集めて話し合っているのかもしれないが、ブシロードは広告を出しまくることでウザいとよく言われるから、広告代理店も攻撃できない。
アミューズ全体としては、ブシロードより広告を出しているかもしれないが、(ベビメタが広告を出さないのに、アミューズの他のアーティストの広告出稿量に頼っているのも欺瞞のひとつだが)、何にせよ、広告代理店がブシロードに嫌がらせすることはない。
ともかく音楽的にRoseliaが完全勝利したのは明らかだし、この三年くらい、中元すず香さんはゴミみたいな作品しか提供されてない。
海外人気という間接情報で他人に劣等感を持たせるやり方に我慢の限界という音楽関係者がたくさんいたからこそ、水樹奈々の楽曲制作者に直接対決で打たれたのである。
情報のBABYMETAL、音楽のRoseliaということだが、Roseliaの大傑作を見てしまった後では、この中元というドブスが何をやりたくてこの世に生まれてきたのかとても疑問である。
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