Archive
思い付くと思い浮かべるはほぼ同義語のはずである。だが、日本語のニュアンスとしてはやや違っていて、 思い浮かべるだと、ただの心象風景の話だが、 思い付くというのは、犯罪や暴力のような露骨な悪い意味ではないにしても、それを実行に移す軽はずみな意欲の湧き上がりを含意している。「思い付きで行動する」という言い回しでよく使われる。おそらく落ち着きがない人間に向かってよく投げ掛けられる言葉である。新しく思いついたことは鮮度が高く、飽きるのと対極というか、新製品ならではの煌きが魅力なのである。そういう瞬発力を頼みにしている様子が馬鹿ということなのである。定型発達者と発達障害の違い、もしくは多動性の有無という区別も出来そうだが、おそらく落ち着きがある正常人は、いろいろと思い浮かべつつも、実行とは切り離している。「思いついたときにやっておかないと」という論法を用いる人がいるが、そのような勢いで物事を片付けるのは、要するにサボるときはいくらでもサボるのだから悪癖である。有村悠さんが蔑まれつつも、時に妬みの対象ともなるのは「やる気が出ない」という自由人ならではの言動を繰り返しているからであろう。世の中の正常人は命令や依頼に従って行動しているのであり、たとえばクロネコヤマトの配達の人が、気分次第で配達したり、配達をサボるということはないのである。「やる気がある/やる気がない」という人間的な欲求を阻却されながら生きているわけだ。頭の中に思い浮かべているスケジュールはあくまで他人次第であり、大袈裟に言うなら自己疎外であるし、自由意思は一欠片もない。有村悠さんの気分次第の言動はADHDの典型であり、有村悠さんが後生大事にしている「自分」というのはまったく価値がないし、この生ゴミはすえた臭いを発して、直に接した人は誰しも鼻が曲がるような吐き気を経験し、その場で嘔吐しなければマシというくらいの責め苦を味わう。東大東大と騒ぎ立てるママンのせいで人間の自由を根源的に奪い取られて高卒になったから、誰の言うことも聞かず好き勝手に生きているのは、自由を奪還するための抵抗運動のつもりらしい。日が昇れば農耕に出掛け日が没すれば寝床に戻るという古来よりの仕組みから逸脱し、自らの心が翳ったり晴れ渡ったりするのに任せているわけで、いつの時代にもいる瘋狂人と言えばそれまでだが、昨今は個人商店のようなやり方もほぼ消えており、隅から隅までマニュアル化された社会であるから、そこに有村悠さんのような落伍者が自由人として蹌踉し、すべてが気分次第という赤ちゃん返りの境地を体現してみせるのは、他人の都合に合わせて存在している正常人を激昂させるに足るようだ。誰よりも自由を与えられているのが有村悠さんの実態だが、現実社会に手を伸ばそうとするたびにママンが見えない鉄格子として立ち現れ、荊棘が叢生する牢獄から遁れられない、ということらしい。
centertrend.jpg

メタルというのはギターサウンドであるから、ギターが弾けないとまったく面白くない。
たとえばJudas PriestのPainKillerはギターが弾けないと、ただの駄曲ということになる。
これのリフは、五弦でメロディを奏でつつ、六弦でベース音を鳴らすパターンである。
ダウンピッキングだけでも弾けるが、たぶんオルタネイトピッキングの方が美しいと思う。
実際にはほとんど変わらないが、ダウンピッキングだと何か雑な気がするし、オルタネイトピッキングは調和があり、弾いている方としては、手元で開放弦が跳ね上がる感じも心地よい。
ともかくそういうことなのである。
ギター奏法としての枝葉末節であり、決して名曲でも何でもないのだ。
こういう種類の音ばかり聴かされていたら、嫌になるのも無理はない。

水野由結ちゃんは女優志望だったはずである。
そこだけ聴くと奇異に思えるが、現実的に、 人気アイドルであれば、ドラマや映画に出演するのが普通であり、女優にまったく挑戦しないことのほうが珍しい。
元AKBの連中を見れば失敗だらけなのだが、逆に言えば、あの連中のレベルでも挑戦くらいはさせてくれるということだ。
BABYMETALからアイドル活動が排除されていなければ、水野由結ちゃんがドラマに出るくらいは自然にあったと思われる。
ブレイクしすぎたことや、海外人気という幻覚にアミューズの上層部も浮かれたであろうし、ドブ元と小林の謀略で、BABYMETAL以外の活動はやらせないということになったのだ。

水野由結ちゃんは、自分の能力より低いことしかさせてもらってないので、挫折さえ出来ない人生だったと言える。 女優に向いているという印象もないので、成功確実なルートを握りつぶされたわけではあるまいが、アイドルとしてドラマに出演するという、どこの事務所でもやってる挑戦すらさせてもらってないので悔いは残るであろう。人生の一回性というテーゼから言うなら、ここ何年かの空白は一時的な端境期ではなく、人間としての可能性を根絶やしにされたのであり、二度と芽吹くことのない終わりである。ただの飼い殺しであるから、自分の限界も知らないし、遠くから須弥山を眺め、その頂上に到れると夢想していただけである。なまじポテンシャルが高いだけに「自分はもっとできる」という変な全能感が内面の篋底で繁茂し、悪魔憑きのように心を蝕んでいると思われる。今後についても、やはりアイドル枠から外れているのが致命的だと思われるし、BABYMETALでの活動は不透明だが、もし脱退するとなれば、アミューズが女優として推してくれるわけもなく、ドブ元からの圧力も含め、芸能界から消え去るしか無いのであろう。

グーグルトレンドで見てみると、ドブ元と同じようにセンターでゴリ押しされている平手友梨奈は、広瀬すずの三分の一くらいの人気はありそうである。
ドブ元は広瀬すずと並べると0になってしまう。
平手友梨奈の脇役ならいいが、ドブ元は0ポイントなので、これの脇役をやるのは絶望である。
鞘師さんでさえ2ポイントは付くのに、ドブ元は0なのだ。
なぜか松岡茉優さんは鞘師里保さんに憧れているそうで、その分のポイントが鞘師さんに流れているだけであろうが、これは頼んでいるわけでもなく、松岡茉優さんが一方的に鞘師さんに憧れているのだから、人気の実態ということであろう。
ドブ元に憧れている人間など誰もいないのに、他人の人生を潰す力だけはあるのだから恐懼の念に耐えない。
社交辞令というのは、それなりに距離をおいた状態だからこそ言える。
距離が接近してしまうと、空々しい社交辞令とかお世辞を真顔で言うのも奇妙だし、あるいは道化みたいな太鼓持ちに徹して、腰巾着に徹することになる。
利害が衝突している相手にお世辞を言うのも変であるし、内輪揉めでゴタゴタするのもそういうことなのだろう。

学校でクラスメートを固定して、そこで人間関係を作るのが義務になるのは、距離の近さによる難しさを体験させる通過儀礼とも言える。
たまにしか接しない相手なら、適当にやり過ごすために、おべんちゃらを言ってもいいのだが、いつもいつも接しているとなるとそれはできないし、学校のクラスはその典型というか、社交辞令が排除された空間である。

われわれは力士ではないので、クラスメートや家族の頭部を酒瓶で叩き割ることはないが、暗喩として言うなら「酒瓶で殴る」みたいなことは、内輪ではずいぶんやっているのである。
距離が遠い相手になら、儀礼として品格を保てるが、いつもいつも接している相手に対しては、腰巾着に徹するのでなければ、社交辞令でごまかすわけにも行かないので、口論するしか無いこともあるし、文字通り酒瓶で殴ることはないが、それに匹敵するような悪辣な攻撃も行うのである。

まったく知らない赤の他人がこの世にたくさん存在しているのは、われわれが儀礼的に品性を保つため、と言えなくもない。
人間関係が固定化した密室空間では儀礼など無いので殺伐とすることも多々あり、だからこそ、知らない人、もしくは時たましか会わない人も、表面的な儀礼や品位を見せる相手として必要なのだろう。
最近の記事
月別アーカイブ
カテゴリー
リンク
スポンサードリンク
RSSフィード
プロフィール

ukdata

Author:ukdata
FC2ブログへようこそ!

katja1945uk-jp■yahoo.co.jp http://twitter.com/ukrss
あわせて読みたい
あわせて読みたいブログパーツ
アクセスランキング