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人間が短所を直さないのは、過去の人生が前科とも言えるし、真っさらに出来ないのもあろう。会社が赤字になっても簡単に倒産するわけにはいかないというか、詰んでいても同じ商売を続けるしかないこともある。

それ以外の理由について述べるなら、やはり「短所」という決めつけ自体が誤謬なのだろう。
たとえば偉そうに振る舞って総スカンを食らっている人がいるとしても、だいたい歴史の教科書に載っているのはそういう連中ばかりである。道徳の教科書に照らして「威張るのはよくない」と言えるとしても、歴史の教科書では別の話である。威張ると取り巻きが現れてワッショイワッショイしてくれることもあるのだし、そういう御輿こそが歴史であろう。
偉そうにして総スカンの状態になってから「短所」と言っているだけである。
本当にマイナスだらけの短所なら直すかもしれないが、おそらく短所の大半は、場合によっては武器となる。
外見が不細工とか、体が難病という話とは別であり、おそらく内面の気質として、絶対に武器にならない短所というのは無いと言い切ってもいいであろう。
たとえば臆病な性格は短所であるが、親切な庇護者が現れてくれるなら武器である。そうそう都合よく守ってもらえるとは思えないから臆病は短所なのだが、武器になる場合もあるので、短所と断定することはできない。
あるいは暴力に訴える気質は短所だが、昔の世の中なら暴力沙汰を起こしてもたいして咎められずに乗り切れたであろうし、昭和時代ならそういう大立者がたくさんいたわけだ。
虚言癖でさえそうであり、嘘は世渡りの武器にもなり得る。
われわれは誰しも知られたくないことがあり、事実でも名誉毀損というイミフな法律があるのもそれがゆえであろうが、それをいいことにインチキだけで乗り切っていくこともできるわけである。

当然ながら暴発して自分が大火傷する武器というのもあり、転落人生を送る可能性が高い気質もあるだろうが、人生は一回であり、サイコロを振る回数が少ないから、まぐれ当たりで成功してしまう人がいる限り武器なのであろう。

この背景にあるのは「勝ち逃げ」という考えがあるのだろうし、自分が棺桶に入るまでに誤魔化しきれれば勝利ということらしいのである。あるいはハッタリで一儲けして、それが詐欺まがいであっても、警察に捕まるようなものでなければ逃げ切ったと言えるのであろうし、虚業家の典型として表舞台から消え去った人でも、財産だけは残していて悠々自適の後半生だったりするわけだ。
水野由結ちゃんが病んでしまったのは中元すず香が吐き出したヘドロによるものであろう。
水野由結ちゃんが消えるとして、代役を希望する人間はほとんどいないはずだし、アミューズ内の有望な素材からことごとく断られているはず。
BABYMETALくらいの立ち位置ならドラマ出演は100パーセント可能であるのに、そういう特典すら奪い取られて海外のおじいさんのバンドの前座回りとか、加入するメリットがまったくないわけだ。

あと、中元すず香という巨悪に比べると些末な話になるが、水野由結ちゃんはギターの音が聴き取れてない側面もあると思われる。
聴き取れたとしても黴の生えた楽曲にうんざりするだけだが、聴き取れてないと耳障りなノイズでしかない。

女子がギターを弾こうとすると、まずはチョーキングが問題となるはずである。
女子にギターを教える機会がないので、実際に試したわけではないが、とりあえず書くだけ書いてみよう。

チョーキングは指だけでするのではなく、ネックを握るようにする必要がある。右利きであるのを前提として記述するが、左手の親指で6弦をミュートする癖を付けておくとチョーキングはしやすい。ネックを上下で挟む感じである。つまりアコースティックとは親指の位置を変える必要がある。
6弦ミュートそのものはさして必要ではなく、使うとすれば、5弦の開放弦を鳴らす時であろう。 Ozzy OsbourneのCrazy Trainのように5弦の開放弦を多用する楽曲で、6弦を親指でミュートする具合である。
ともかく普段から親指の癖として6弦に触っておく。親指で触るのに無理がある場合、たとえば4弦と5弦でパワーコードを弾くとして、6弦を親指でミュートする人はほとんどいないであろうし、そういう時は触る必要がない。
あくまでチョーキングのためのミュートである。
念を押しておくが、親指で6弦をミュートするのはミュートのためではなく、親指でネックを上から押さえつつチョーキングするわけである。

女子のギタリストが少ないとすれば、ここまでに述べたオーソドックスな方法では対応しきれない変則的なチョーキングもあるし、あるいは指の長さにしても、基本的なプレイは問題ないが、変則的な運指をする時に指が届かないことはあるだろう。
自分のバンドの楽曲を弾くならいいが、スタジオミュージシャンとかサポートミュージシャンとなると、指が長くないと弾けないとか、指の力がないとチョーキング出来ない変則的なフレーズを弾かされる事態もあり得るので、女性はかなり限られてしまう。
人格障害者は理性を保持した状態なのだが、合理的理性は失っている。空想は快楽であるが現実の刺激には及ばないし、どこかで醒めてしまうから、射精後の虚ろな冷静さが仮初めの理性を作り出すだけである。空想で満ち足りるなら、その桃源郷から戻ってくることはあるまいが、やはり空想では満腹になれないので、邪悪な窮民として現実に手を伸ばしてくるのである。現実と空想の区別が付いているというより、空想で腹は膨れないだけであり、涎を垂らし飢えにまかせて餌食となるターゲットを現実の界隈まで探しにくる。人格障害者にタゲられると厄介なのも、彼らは本質的に空想の囚徒だからであるし、現実を食べようとして地下牢から出てくるのだが、現実に適応しようという気はまったくないからである。空想家を卒業して現実世界に帰還する姿勢ではなく、現実を都合よくつまみ食いしようとするからである。賞品や賞金だけ奪い取る発想だからタゲるのだし、これは強盗のメンタリティである。その典型である有村悠さんが刑法犯として強盗を実行したかというとしてないし、あくまで美人東大生への告白とか金の無心とか、つまり空想世界で腹をすかして現実に物乞いしているだけだが、これはわれわれを不安にさせるものである。有村悠さんは高卒なのに東大卒に憧れているわけだが、決して東大で学びたいのではない。現実の試合には出ないのにバロンドールが欲しいということなのだ。空想的な世界観だから、瞬間的に東大卒になれるらしい。金メダルでもノーベル賞でも瞬間的に取れるし、そこに至るプロセスに関心は持っていない。こう考えてみると、やはり人格障害者に合理的理性はない。鹿島田のゴミ屋敷は金や女や立身栄達を空想で積み上げた大伽藍とも言えるが、精液の残滓が瘴気を漂わせているだけであるし、やはり現実の女やお金や東大卒の学歴が欲しくなるのだろう。そして、現実の試合に参加する気がまったくないのに、欲しいものを無心する叫びを現実に向けて発して、絵が上手い人と友達になろうとか、東大卒と友達になろうとするのだが、優れた人間と知遇を得ることで自らが達成した図式にしたいのであろうし、賞金や賞品だけが目当てという人格障害的な浅ましさは見抜かれているので、タゲられたら誰もが這々の体で逃げ出すのである。
万引きは犯罪であるが、犯罪者ではないというか、グレーゾーンに位置づけられている。他人の家に忍び込む泥棒と別枠であると人々が考えているのだから致し方あるまい。レトリックとして「万引きと泥棒は同じ」と言うのは簡単だし、そういう言い回しはよく聞くのだが、本当に実践されることはない。
つまり犯罪者に見せしめとして烙印を押す一般予防の問題として、空き巣に烙印を押すのは差し支えないが、万引きで烙印を押すのは酷だと世間的に考えられているのである。

これは万引きは未成年のやることだという固定観念もあるだろう。このところ若者より大人の方がマナーが悪いという奇妙な現象もあるし、見るからに凶暴そうな若者は見かけなくなった。繁華街で愚連隊を目にすることもない。未成年が通過儀礼として万引きをする悪習も廃れつつあるようだ。つまり若者の万引き離れである。とはいえ、わたしが自分で厳密に検証したわけではないが、まだ人口比では未成年の方が多いようであるし、万引きは未成年という固定観念が間違いというわけではあるまい。とりあえずこの拙稿においては、ベビーブーム世代と少子化世代の比較検討については筆を走らせず、万引きは未成年という固定観念を前提としておく。万引き犯を撮影した監視カメラの映像の公開をすると警察が阻止しにくるのも、そういうことであろう。

この世には自力救済の禁止という原則があり、これが厄介である。自らの力で犯罪者を捕まえに行くことは求められていないし、力づくで原状回復をさせるとなれば、それこそ犯罪になりかねない。
その一方で、内輪の関係なら自治(自力救済)に委ねられているから、またさらに厄介である。そしてその自治(自力救済)についてだが、その内輪のカーストに従った解決でなければならない。カーストの低い中学生が校内でカツアゲされたとして、それに報復するべく強者を背中から攻撃したら、中学生でもキチガイ枠になる。
この複雑さを人々が先天的に理解しているのはまさに本能と言うしかないし、世渡りの能力は別として、カースト自体はコミュ障でもわかっている。

世の中は何が何でも正義を貫くようにはできていないし、個人的な正義は芽を摘んでおくことになっている。正義と悪の匙加減というか、世の中の清濁併せ呑むグレーゾーンの象徴的な行為が万引きなのであろう。なんとなくこれを認めてしまう、もしくは捕まっても烙印は押さないということである。若者の万引き離れの傾向がさらに進むなら、また話は違うのであろうが、命をもって脈打つ世界を死灰にするような過剰な正義を持ってはいけないので、俗悪な生々しさを認めるためにも、万引きに怒らない生温さが求められている。
スワロウという社名で商業登記を検索してみるとパチンコ会社京楽の関連企業が出て来るが、もちろんこれは声優事務所ではないし、場所が愛知県だから違う。

遠藤ゆりか所属のスワロウのホームページにはこのような住所が記載されているが、要するに虎ノ門にあるポニーキャニオン本社ビルの10階である。

〒105-0001 東京都港区虎ノ門2-5-10 10F

この10階にあるのはポニーキャニオンの100パーセント子会社であるポニーキャニオンアーティスツであろうと思われるのだが、あまりはっきりとしない。
ともかくスワロウという声優事務所は法人としては実在してないので、分社化しているわけではなく、あくまでポニーキャニオン本社の10階にある声優関連の部署の名前だと思われる。

手数料を払ってまで建物図面や各階平面図の登記を閲覧する意味は無いので、ネットで適当に調べると、ポニーキャニオン本社ビル(11階建て)の延べ床面積は6,433.15㎡ということなので、ひとつの階は単純計算で584平方メートルあるから、だいたい24メートル×24メートルくらいである。
このポニーキャニオン(もしくはポニーキャニオンアーティスツ)の10階の片隅に、スワロウと名乗る声優事務所があるのだろうが、ポニーキャニオンのいろんな事業がドンブリ勘定とは思えないから、何かしら独立採算制で動いているとも考えられる。スワロウは巨大企業の中の小さな部署という印象なので、ここに問題があったとも考えられる。

Roseliaの他のメンバーの所属事務所についておさらいしておこう。

工藤晴香の所属しているエースクルーエンタテインメントというのは、代表取締役の自己紹介を見る限り、ブシロード関連会社であると思われる。

https://twitter.com/kazushimiyakoda
株式会社エースクルーエンタテインメントの代表取締役会長に就任しました。 主に映像制作、音楽制作、タレント事務所が弊社の事業内容です。自分自身がサウンドデザイナーというクリエーターとしてがメインですが、現在ブシロードに出向し、エグゼクティブプロデューサーの肩書きのもと、木谷社長から学んでいます。


またドラマーの櫻川めぐであるが、「株式会社S」所属で、ここはRoseliaの音楽プロデュースをしている上松範康が所属している。
櫻川めぐは売れない声優・売れない歌手だったが、上松範康から楽曲提供を受けたこともあり、接点そのものは昔からあるようである。
このおばちゃんの冴えない容姿や、一人だけ突出した演奏力からして、プロデューサーが無理して押し込んだというのではなく、実力と考えてよさそうだが、ドラムをやったことがないという表向きの説明は嘘かもしれない。

相羽あいながブシロード声優であることは説明を要しないだろうから、ここは割愛する。

明坂聡美はスペースクラフトからアミュレートという経由であるが、ブシロード作品との関わりが深いので、ブシロード声優と誤解している人も多いかもしれない。

遠藤ゆりかの「スワロウ」だけ外様のように思えるが、ブシロードはブシロードミュージック設立後も、ポニーキャニオンと縁を切ったわけではなく、かなり円満にやろうとしているから、これはこれとしてひとつの枠とも言える。
ともかく遠藤ゆりかはビジュアルでかなり決定力があっただけに、これを失うのはRoseliaとしては痛恨の極みである。
遠藤ゆりかは事務所もレーベルもポニーキャニオンなのだが、今後についてたとえばブシロード移籍というのが思い浮かぶし、ブシロードとしても引き受けたいだろうと思われるが、それでもポニーキャニオンから廃業という強い言葉でアナウンスされたのは業界全体への強い恫喝であろう。来年五月にポニーキャニオン主催で遠藤ゆりかの単独ライブを行う不可思議さも、つまり、商品価値が高いがゆえのことである。廃業が半年後になっているのは、すぐに代役が見つからないだけでなく、声優活動はRoseliaだけにして、ポニーキャニオン主導でアーティストとして個人活動する並行路線を模索していると思われるが、五月の単独ライブがただのお別れ会で終わる可能性は極めて高い。

オワコンBABYMETALの新メンバーということだと将来有望な素材は全員が断るが、Roseliaであれば希望者はいくらでもいる。遠藤ゆりかの代役となるとかなりハードルが高いが、希望者ゼロのBABYMETALとは違う。ブシロードとしても遠藤ゆりかはほぼ断念し、代役探しを優先して進めると思われる。声優業界は移籍問題でヤクザが出てくるわけではないのですんなり行くことが多いが、今回はRoseliaのコンテンツ価値がとても高いので、移籍という選択肢を徹底して潰された印象が強い。

遠藤ゆりかは若くて美人だから、目先の誘惑も多いであろうし、悪意をもって空想するなら、遠藤ゆりかの彼氏の意向で決まる印象なので、阿呆な話である。というより、遠藤ゆりかが彼氏と同棲してうんたら、という風聞は虚偽であろうが、実はこれの真偽は問題ではない。嘘であることは間違いないからだ。問題なのは、彼氏と遊んでバックレてもおかしくないというか、それくらいの印象を持たれていることである。先日で言えば、水野由結ちゃんが中元すず香の地元凱旋公演をバックレたが、彼氏うんたらと非難する人はまったくいない。あり得ないからである。水野由結ちゃんのように志操の堅固な有徳者であれば、かならず大義はあるのである。遠藤ゆりかは、そのような信頼性がないことを恥じるべきであろう。美人というのはカーストが高いが、恋人と付き合うと、相手も美男子とか金持ちとかカースト強者になるので、攻め落とされた王舎城が社稷墟となり荒廃する様相を呈することもある。こうやって恋人うんたら書いているのも、中傷と言えば中傷だが、実際は空想であり、「やってもおかしくない人間」と見なされているかどうかのテストなのである。われわれは警察ではないから、冤罪云々言われる筋合いはなく、有罪無罪の話ではなく、普段からどのように見られているかである。

遠藤ゆりかの個人的な問題だけでなく、ブシロードとポニーキャニオンの関係が悪化している側面もあると思う。最近のブシロードはポニーキャニオンから離れてブシロードミュージックを立ち上げてるし、Roselia(バンドリ)はブシロードミュージックである。とはいえ、関係悪化と書いてみたが、ブシロードが自前でやるようになったので、ポニーキャニオンとライバル関係になったという構図がわかるだけで、実際は和気藹々としてるのかもしれない。 たとえば三森すずこは所属がブシロードで、レーベルはポニーキャニオンだし、元々の蜜月関係の名残とも言えるが、三森すずこはまったく揉めてない。Roseliaのボーカルの姉ちゃんと三森すずこが参加している「少女☆歌劇 レヴュースタァライト」はブシロード企画だがレーベルはポニーキャニオンだし、Roselia(バンドリ)はブシロードミュージックとはいえ、ポニーキャニオン丸抱えの遠藤ゆりかがメンバーに入っているのは、たいして対立などしてない証拠ともなる。中傷うんたらではなく、そもそもわれわれ第三者は他人の私有地に立ち入って実況見分することは出来ないし、三森すずこがすごい極悪人で遠藤ゆりかが聖者という可能性だってなくはないが、普段の言動からして、どちらが信頼できるかと言ったら答えは明白である。

Roseliaではドラムのおばちゃんが突出して演奏力があり、ギターが一番下手くそなので、本当はギターがいなくなるといいのだが、容姿端麗でそこそこ演奏力もある遠藤ゆりかが脱退するのは、水野由結解放戦線の一人として残念なことである。
「熱色スターマイン」の衝撃があったからこそ、BABYMETAL陣営も右往左往しているのであるし、ここで失速されるのはたいへん困るところである。
遠藤ゆりかのビジュアル的な見映えの貢献度は高いし、これが損なわれるのはとても惜しい。
代役が残念な人選にならないことを祈るばかりである。

さて、後段はちょっと別の話になるので、本来なら新規にエントリーを起こして筆を改めるべきなのかもしれないが、可読性を上げるために手取り足取り世話を焼く気はないので、続けて書いてしまおう。
声優というと、まず顔面が不細工というイメージがあるが、実はスタイルの悪さが本質であろうと思う。顔がでかいとか足が短いとか、等身のバランスが悪いのである。遠藤ゆりかは女優と並んだとしても、おそらく見劣りはしないはずである。顔だけ見るとたいしてすごい美人というわけではないが、身体全体のフォルムがとても綺麗である。職業モデルにありがちな長身でゴツゴツしたタイプでもないから、本当の意味で理想的な女である。三森すずこは年齢が違うので、そのまま比較はできないが、三森すずこの23歳の状態と考えても、やはり遠藤ゆりかの方が全体的なフォルムとして特権的な美貌がある。三森すずこもスタイルはいいが、あくまで一般人の範囲であるし、遠藤ゆりかのような洗練された肢体ではない。
Roseliaメンバーで遠藤ゆりかに反感を抱く動機のある人物というと、ギターのおばさんがまず思い浮かぶ。工藤晴香はトップコート所属のセブンティーンモデルだったが、おそらく身長150センチ未満であるし、鳴かず飛ばずで解雇だったと思われる。決して工藤晴香が遠藤ゆりかを酒瓶で殴ったわけではあるまいが、身長が低く見えないようにずいぶん工夫してるし、遠藤ゆりかの隣に並びたくないという感情はあったはずだ。工藤晴香に限らず、声優はスタイル弱者なので、遠藤ゆりかと並びたくないというのは周囲の誰もが思っていたはずである。遠藤ゆりかは顔だけならたいしたことないので、座ってる状態ならまだいいが、立ち姿で並んで写真を撮ってネットにアップされると、いわゆる公開処刑になってしまう。モデルみたいな美男子と並びたくないというのは男だって思うわけだし、スタイルがいい人間が疎まれるのは男女共通であろう。見た目が不細工で忌まれている人間からすれば贅沢すぎる悩みであるし、遠藤ゆりかの悩みのうち「隣に並ぶのを嫌がられる」というのは瑣末なものだっただろうが、やはり、モデルみたいな等身で声優業界にいると、顔デカ短足の周囲から敬遠されるのは確実にあったと思うから書いてみただけである。
http://www.asahi.com/articles/ASKDK0CSQKDJUBQU01M.html
旧優生保護法に基づいて障害者らに行われた強制的な不妊手術に関する、約半世紀前の公文書約80件分が神奈川県立公文書館で見つかった。「育児能力がない」といった偏見や病気を根拠に、手術の適否を審査した状況が具体的に記されている。こうした内容が、実際に用いられた行政資料で公になったのは初めてだ。

文書は同県優生保護審査会に提出された1962年度38件、70年度10件の手術申請書などと、63年度に実施された34件の手術費明細書など。立命館大生存学研究センターの利光恵子・客員研究員が見つけて分析し、10月に神戸市であった障害学会で発表した。

「不良な子孫の出生を防止する」ことを目的にした同法は、遺伝性とされた病気、精神障害や知的障害のある人に、本人同意なしの不妊手術を認めていた。「公益上必要」などと医師が判断した場合、都道府県の優生保護審査会に申請した。

見つかった申請書や検診録には成育歴や症状が書かれ、何代にもわたる親族の病気や職業を調べた家系図も添えられていた。

知的障害のある10代女性の場合、申請理由に「月経の後始末も出来ない」「一日中座位、幼児の如(ごと)く遊んでいるが、時々興奮、粗暴行為あり」とあった。別の知的障害の女性は子どもがおり、「これ以上生まれては、益々(ますます)生活困窮する」。「仕事熱心で成績は優秀」な男性は、統合失調症を発症した半年後、手術が必要だと判断された。


カミングアウトする障害者の大半に恋人がいるのは、つまり、民間の恋愛市場で淘汰されてないという血統書の提示なのだろう。国家権力の優生思想による血統書はニセモノだが、民間の市場原理で恋人を獲得したなら、これは生物として正統性を得たということなのである。

強制断種のエピソードでも、ただのデータではなく実像として描かれる人はたいてい恋人がいる。「恋人と結婚できなかった」という怨みを語るわけである。恋人無しなら断種していいわけではあるまいが、ストーリーの説得力の問題である。

民間における淘汰、つまり自由恋愛ということだが、これが人権の礎なのである。 出来損ないはどっちみち淘汰されるのだが、あくまで民間の市場原理に任せるべきであり、 国家が強制的にやるのはおかしい、ということだ。それだけである。優生思想はよくないという正論を、あまり美しい結論に結びつけるべきではないであろう。 優生思想を禁じるという思想が度を過ぎると、 民間による自然淘汰も禁じるという話になり、たとえば、冨田真由さんは岩崎友宏の子種を胚胎しなければならないという極論だって導き出せる。だから恋愛する権利という言葉は使わないほうがいいし、恋愛主義とか恋愛原理とでも言った方がいいだろう。あくまで恋愛市場に任せるだけであり、生活保護と同じ文脈の権利ではない。

市場というのは一箇所に実在している場所のことではなく、概念である。とりあえず何らかの等価交換が成立していれば、この地球全体が市場である。この等価交換の等価とは究極の真理ではなく、たとえば売春婦が三万円だとして、これは買う側と売る側の懐事情からして、そのあたりに落ち着くというだけである。なんにせよ、そういう市場価値に基いてわれわれは存在しており、価値そのものの究極の根拠はないにしても、世の中の実情を反映しているのである。

さて、それでは恋人がいない障害者は無価値なのかというと、これについては、国家が合格発表や不合格発表をする筋合いの話ではあるまい。わざわざ無価値だと判定する必要がないのである。


このところのBABYMETALの迷走はRoseliaの「熱色スターマイン」に完全敗北したことと深く関係しているが、なんとそのRoseliaのベースが引退ということである。
Roseliaはボーカルの姉ちゃんがオジー・オズボーンの生まれ変わりで、ドラムのおばちゃんがジミ・ヘンドリックスの生まれ変わりだが、残りの三人は交換可能なので、ボーカルとドラムさえいれば致命的ではないが、とはいえ、ベーシストの代役がそう簡単に見つかるわけではない。
またRoseliaはババア集団という難点があったが、ベースの遠藤ゆりかは若くてスタイルも綺麗な美人なので、ビジュアル的にはかなりのマイナスである。
遠藤ゆりかくらいの美人でなおかつベースができるとなると、たぶん見つからない。
何しろドラムのおばちゃんが天才なので、ベースはスルーされ気味であったが、ドラムのおばちゃんと違って若くて美人なのだから、劣等感を抱いたとも思われない。
容姿がよすぎて高嶺の花というか、声オタから敬遠されているところもあり、実像はまったく不明だが、アイドル性の問題というか、たくさん恋愛して人生を楽しんでそうな雰囲気もよくなかったのであろう。
病気という理由なのに半年後の引退というのもイミフだが、とりあえず妊娠ではないのであろう。
こういうのは数日後に真相があっさり出てくることもあれば、いつまで経っても謎ということもあるが、どちらなのかはわからない。
水野由結ちゃんの行く末に、万古の憂いを抱いているわけだが、そもそもBABYMETALに加入希望者がいるのか、という疑問を呈しておきたい。
もはや誰からも天才と言われなくなった中元すず香というドブスのバックダンサーをやりたい人間がいるのか、という疑問である。

欅坂の平手友梨奈の脇役であれば、希望者が地平線の先まで鈴なりのごとく列をなすであろう。
だが、ドブ元の脇役となると、ほとんどいないと思われる。
もちろん地下アイドルの底辺ならBABYMETALの方がマシだろうし、底辺の底辺から希望者は出てくるかもしれないが、要するにそういう話である。アミューズに所属できるレベルでBABYMETALに入りたいという人はまずいないであろう。
たとえば吉田爽葉香が水野由結ちゃんの代役をやってくれるのなら、だいたい適役という気がするが、これは吉田爽葉香が断るだろう。
しかし(事務所が違うのであり得ないが)平手友梨奈の脇役ということなら、吉田爽葉香は断らない。

つまり、色んな意味で水野由結ちゃんの代役がいないのである。
これからどうなるのか知らんが、アミューズの社風を考えるに、吉田爽葉香に後釜を強要するのが関の山だろう。
水野はベビメタに関して契約したが吉田は契約してないという意見もあるだろうが、水野由結ちゃんの契約問題についても、ドブ元の脇役固定など含まれてないだろう。要するに後付でどうにでもなるのだし、吉田爽葉香のアミューズとの契約をドブ元的に曲解すれば脇役固定もできるだろう。

ともかく吉田爽葉香をBABYMETALの新メンバーにしていただきたい。
アミューズならそれはできるだろう。
水野由結ちゃんに関してはわれわれ人類で再生させるから、そこら辺に捨てておいて構わない。
ドブ元のような悪疫と縁が切れれば水野由結ちゃんの頭上には沙羅双樹の花が咲き乱れ、われわれ人類の教師として悟りを開き、壊死した感情のすべても甦り、死骸だって脈打ち血色を取り戻し、塵芥さえ金箔となり、その降り注ぐ煌めきは聖者の帰還を言祝ぐ観桜の宴に似つかわしいものとなるだろう。

水野由結ちゃんは人類にとってのローマ法王だが、吉田爽葉香はただのタレントだから、ドブ元のバックダンサーが丁度いい。
吉田爽葉香の未来が使い潰されてもわれわれ人類にとってのダメージはないが、水野由結ちゃんは釈迦やキリストと同等の人物であるから、一刻も早く解放してもらいたい。

ともかくメンバーチェンジするとして、誰が志願するのかという疑問があるわけだ。
誰も志願者がいないから、どうやって強要するかという話になってるだろうし、ドブ元の人望が絶無である件も含めて、いろいろと考えさせられる。露出制限してるのではなく、ドブ元が多方面からNGを食らっているだけだろう。
二十世紀まで凡人たちはずいぶん粗暴で馬鹿騒ぎしていたのだが、団塊世代の品性下劣さに比すると、最近の若者はずいぶんマナーが向上している。未だに暴れているのはDQN枠と障害者枠だけであり、これに当て嵌まらない人間を凡人と定義するなら、凡人はずいぶんおとなしくなった。コンプライアンスの意識の高まりとも相関関係はあるだろうが、かつては俗衆と揶揄されていた凡人が模範的に見えるようになってきたのである。結局のところ凡人は適応力が高いので、水に入れば魚になってみせるような具合で、世の中の水準に合わせている。社会が暴力的になれば、凡人はまたその屍山血河に適応するのだから、カメレオンみたいな性質という話であるし、決して正法眼の持ち主として持戒しているわけではあるまいが、進歩史観で世の中を見るのであれば、凡人たちは俗悪さを克服したのであり、マナー向上に後戻りはないという見解も可能である。

また凡人だからロースペックとは限らない。インターネットの発達により、能無しを極めた人格障害者をたくさん見かける昨今においては、気質としての平凡/非凡と個人の性能を切り離して考えることも可能である。性能は高いが、思考パターンが凡人そのものということもある。ほどほどに大過なく生きたなら、人生に未練を持つことすらない。人間の交換可能性は性能によって違いがあるし、ハイスペックな人ほど代役を探すのは難しいが、とはいえ、代役がいるのも確かである。たとえば医者が不慮の事故で死んだとしたら、別の人間が医学を学べばいいだけ、とも言える。もちろん優秀な人間は限られているから、大量生産するわけにはいかないし、交換可能性を強く言い立てるのも誤謬ではあるだろうが、別の誰かで補充可能なのも確かである。その交換可能性の儚さに何ら痛痒を覚えず生きていて、自分しかできない独自性の探究という煩わしいことはしないのである。

ニュートンは自らを巨人の肩に乗っているに過ぎないと評した。この真意については様々な意見があるが、ここで細かい考証をするのはわたしの手に余るし、そもそも必要がないであろう。人類という巨人がいて、 ニュートンはその肩の上に乗っただけであり、 突如としてニュートン力学が生まれたわけではないということだ。 そういう控え目な態度であるのと同時に、人類の最頂点に立って、その未踏たる望楼から誰も見たことのない風景を眺めたという自負でもある。巨人の肩に乗ってこそ真実がわかるのであり、有象無象に埋もれているなら何もわからない、と敷衍することもできる。

本質的に人類は分業であり個々人は交換可能な部品でしかないが、その巨人の肩に乗り爪痕を残したがる人がいるかと思えば、そのような渇望を持たないハイスペックな凡人が少なからずいるのも確かである。死後の名誉というのは、 他人の中に自分を残すという願望であろうが、 われわれの大半は、自分の先祖のことでさえ、何百年も遡ればまったく知らないのが普通であるし、 記憶の連鎖は容易く途切れる。 だからこそ、人類という巨人のレベルで記憶されようという未練がましい欲求が生じるのかもしれないし、われわれは自分の江戸時代の先祖がどういう人物か知らなくても、ニュートンなら知ってるので、 修辞を弄するなら、ニュートンはまだ生きているとも言える。とはいえ、ニュートンが死亡しているのも間違いのない事実だ。世の中のエリート層の少なからずは気質として凡人であり、人類史に爪痕を残したいと切望などしておらず、 アッパークラスの無名人として人生を楽しんで穏やかに死んでいければ最高と考えている。そして昨今の凡人のマナーのよさからして、もはや俗衆と蔑むわけにもいかず、模範的なお手本として蒼天まで聳え立つように屹立している。
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