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2018.02.27
エゴサーチ中毒者
ネットは決してテレビ放送のようなものではなく、いわば途轍もなく巨大な図書館のようなものであり、出版されなかった本まで並んでるというか、有象無象の書き散らしたものが、それに似つかわしい暗渠に死蔵されている。この死灰に命を与えるのがエゴサーチである。書いた人間しか読んでないようなページを、そこに記述されている著名人が御丁寧に自力で掘り出している。著名人としてその名前で生活してるならグーグル最下位のページまで見ないといけないこともあろう。そしてそれが有象無象にとっての理想郷に転じうるのである。たとえば岩崎友宏が冨田真由さんについて書いたとして、それを探り当てるのは冨田真由さん本人くらいであろう。エゴサーチでヘドロを掘り進んでいくと、グーグル的に最底辺のページに邂逅し、マンツーマン状態になる不気味さである。神田川のヘドロの奥底から小杉巡査の拳銃を探すような無為な試みの果てに、なぜか自分だけが見つけてしまう恐さである。世界中に発信しているのとは真逆の、先程の喩えを繰り返せば、岩崎友宏が痙攣しながら煩悶している御様子が、冨田真由さんだけに見えていることもあり、そしてその結果として、岩崎友宏から見つめ返されることになる。出来損ないの内臓など視界に入れるべきではないが、どれだけグーグルが最底辺に押しやっても、エゴサーチ中毒者、もしくはエゴサーチせざるを得ない人は最深層まで見てしまうのだし、警察の大捜索で見つからなかった小杉巡査の拳銃を発見してしまう気味の悪さは論を俟たないが、この業病に憑かれる方もどうかと思うし、見つからなかったことになっているものを、なぜ自力でそこまで深く潜って掘り当てるのかという単純な疑問を呈するにとどめて筆を置きたい。
2018.02.25
ゲシュタルトと認識
われわれは何らかの対象を経験する骨組みを最初から持っている。これをゲシュタルトと呼んでおこう。厳密にゲシュタルト心理学をなぞるわけではないし、むしろ用語の借用なのであるが、ともかく骨組みというか枠組みが決まっている。「顔」などはゲシュタルトの典型であろうし、目と鼻と口という並びを顔として認識して、これを人生で最も大事なものとしているのである。顔とはなんぞやと言うと、やはりゲシュタルトであると答えるしかないのである。そういうまとまりとして認識することが決まっている。ここから問題となるのは、われわれが認識する主体である一方で、認識される客体でもあることだ。自分の顔を持ち、そして他人の顔を認識するとなると、つまり、認識と肉体が密接な関係にあるわけであり、設計者がいるとしか思えないわけである。そもそも動物にだって顔はあるのだし、美人という概念がどこかで生まれて、それに似付かわしい顔が生き残ったということもできるが、やはりそれだけとは思えず、認識機能と顔が同時に設計されているように見える。これは人知を超えた問題を記述しているので、いくら述べたところで結論には到達しまいが、この世にあるゲシュタルト的なもの、たとえば音楽もそうであろうが、どこかでそれが設計されて人間に授けられている気がするのである。こうやって設計設計設計設計と繰り言を述べても神には辿り着けないのだが、やはり世界にある物事は単品ではなく、ゲシュタルトというまとまりとして意味をなしているので、ただの自然淘汰では辿り着けないように思える。騙し絵というのがあるが、その欺きを見破ればゲシュタルトの先に行けるわけではなく、むしろ組合せの枠組みこそが認識の根幹ということなのである。現実で組合せを混同することは殆どないのである。組み合わせ方は決まっているので、騙し絵のような奇妙なやり方でしか混同させることは出来ないのである。組み合わせで物事を生成するゲシュタルトそのものが世界とも言えるし、顔とか音楽それ自体は決してわれわれの発案ではないので、人間はただの被造物ということなのだ。
2018.02.22
強者と命令とマウント
優秀な人間は劣った人間に命令する権限があるのかというと、これは自動的に発生するものではなく、何かしらマウントをしなければならない。
たとえば出来杉君がのび太に命令できるのかというと、それは出来ないわけである。
ハイスペックな人間であっても、マウントしてない相手に命令は出来ない。
出来杉君は完璧超人の記号ということだろうが、そこまで極めなくていいなら、意外とこういうタイプの人間はいるものである。
ハイスペックな人間がロースペックな人間に命令するというのは、意外とないのである。
だから、ジャイアンとのび太の関係を性能差と考えると、人間観として誤りということになる。
優秀な人間に従うということであれば、真っ先に出来杉君に隷従しなければならないので、必ずしもスペックだけの話ではない。
あるいは、出来杉君がたとえば財務官僚になって他の省庁に嫌がらせをするとしても、マウントできる対象は限られている。
やはりハイスペックとロースペックという話ではなく、マウントできる関係性ということである。
マウントするからには何らかの力が必要なので、子どもなら腕力とか大人なら頭脳とか、スペックの格差という背景もあるが、財務官僚なら誰にでも命令できるというわけではない。
ではマウントとはなんぞやというと、とりあえず無理難題をふっかけて、それが通用するということであろうし、つまり無理難題あってこそだから、性能差そのままではないのである。
たとえば出来杉君がのび太に命令できるのかというと、それは出来ないわけである。
ハイスペックな人間であっても、マウントしてない相手に命令は出来ない。
出来杉君は完璧超人の記号ということだろうが、そこまで極めなくていいなら、意外とこういうタイプの人間はいるものである。
ハイスペックな人間がロースペックな人間に命令するというのは、意外とないのである。
だから、ジャイアンとのび太の関係を性能差と考えると、人間観として誤りということになる。
優秀な人間に従うということであれば、真っ先に出来杉君に隷従しなければならないので、必ずしもスペックだけの話ではない。
あるいは、出来杉君がたとえば財務官僚になって他の省庁に嫌がらせをするとしても、マウントできる対象は限られている。
やはりハイスペックとロースペックという話ではなく、マウントできる関係性ということである。
マウントするからには何らかの力が必要なので、子どもなら腕力とか大人なら頭脳とか、スペックの格差という背景もあるが、財務官僚なら誰にでも命令できるというわけではない。
ではマウントとはなんぞやというと、とりあえず無理難題をふっかけて、それが通用するということであろうし、つまり無理難題あってこそだから、性能差そのままではないのである。
2018.02.19
法律に守られて生きているので
たいていの犯罪は実行可能である。警察に捕まったり死刑になってもいいなら、犯罪の実行は簡単である。であるから、われわれは法律がなければすぐに死んでしまう。あるいは法律などなくて愚連隊を組んで防御し合うとしても、そのような野蛮状態だと愚連隊への参加が必須であるし、群れから離れることも出来ない。だから、法律に守ってもらうのが平和な人間社会の大原則である。然してその平和な社会への信用として、決して武装などせずに、無防備で丸腰の状態で街を歩いているのである。このような背景があるからこそ、自分と他人に別のルールを課するのが「矛盾」と言われるのである。おそらく矛盾というのは口癖であろうし、深く考えているわけではないだろうが、ともかく、自分だけ特別扱いというルールは無効なのである。自分には殺人罪が課せられて、相手は人を殺めても無罪というのでは困る。もちろん自分が大事で他人は大事ではないというのが本音だから、自治空間ではパワハラなども普通にあるだろうが、とりあえず社会の大原則として、双方にルールが適用されるのが重要である。この相互的な契約に似つかわしくない条項を入れようとすると矛盾だとされるのである。前述したように自分だけが可愛いのが本音なのだが、そういう暴君的なアティテュードは社会のタテマエとしては認められない。個人の本音を剥き出しにして暴君になる人間もいるのだが、赤の他人を支配することはできないし、同じ密室にいる人間に限られる。なぜ密室的な自治空間で暴君が認められているのかと言えば、やはり組織において人間が平等というのはあり得ず、ヒエラルキーは当然であるし、そこから派生して自分と他人に別のルールを適用できるからだろう。この類の暴君の行為は組織の権力を体現しているものであるから、不行跡として咎めるのは容易いことではない。
2018.02.16
休日に歩くとぶつかる
これはわたしの漠然とした印象であり、ストップウオッチを片手に計測したわけではないのだが、ひとびとを見ると休日は意外と急ぎ足である。休日だからゆったり歩いているわけでもなく、むしろ急いでいたりする。家路を急ぐという言い方があるが、これは平日よりは休日の夜のほうが特徴的である。休みの日とは言っても翌日が平日であれば急ぐのであろう。当然ながらのんびり歩いている人もいる。また家族や恋人などのミウチ感覚で歩いている人も多い。つまり歩調が合っていないのである。だから、斜め後ろから速足の人が出てくることがよくある、もしくは自分が急いでいたらのんびりしている人とぶつかりそうになる。浮ついていて注意力散漫ということも言えるが、やはり歩く速度がバラバラというのが大きいと思われる。これが平日であれば多くの人が単独行動で儀礼的無関心を貫いているので、他者を個体認識していなくても、それぞれが一般的な顔のない他人として存在し、ごく自然に整然たるフォーメーションが出来上がってくる。羊を追い立てる牧羊犬がいなくても、なんとなくフォーメーションの意識があり、不思議なことに他人とぶつかりそうになることは少ない。儀礼的無関心は盲目ではなく、むしろ他者を注意深く見ている。平日だと自分自身の個性は捨象されているが、休日は何かしら個性があり、その中途半端に生きている感覚がフォーメーションの乱れに繋がる。人間という生き物は囚人番号の違いがあるだけで、この地球上に似たり寄ったりの存在として叢生しているはずなのだが、それを乱す個性があるらしい。だからどうしたというわけでもないが、道を歩くというのは集団的な行為であり、フォーメーションを意識しているのである。例えばごく自然に前方を歩く人間の背後に付くのが基本であるし、それによって列を作り、向こうから歩いてくる人間との正面衝突を避けている。女性は真後ろに付かれるのを嫌がることがあるので僅かに距離を開けたりとか、道が広くて余裕があればむしろ前方の人間の真後ろは歩かないようにしたりする。歩行だって身体の運転なのである。
2018.02.11
水商売と売春と金銭感覚
人間世界のミステリーだが、風俗嬢の体を買うのはずいぶん安いが、水商売の女の歓心を買うのはずいぶん高い。たいていは商品の価格は「それなり」であるのだが、水商売は価格の妥当性が破綻している。水商売の箍の外れた高額さに共感できない人が大半であるはずだが、たとえば書画骨董のようなものというか、高額で取引する市場が成り立っているのも確かである。ホストクラブも同様である。女であれば、そもそも男の体はタダで買えるはずで、少なくとも風俗店の面接で落とされない容姿レベルなら、どんなイケメンに抱かれることだって可能である。それにも関わらず風俗嬢として金を稼ぎホストに貢ぐ不可思議な人種がいるわけである。このあたりを考えると、水商売においてセックスは付録なのであろう。貢ぐこと自体が快楽なのである。お金を捨てるのが快楽だというのだから、理解できない人が多数派になるのだが、この悪魔的な快楽に取り憑かれる人がそれなりにいて、都心の一等地の一角に集まっているわけである。おそらく虚栄心と関係してるのだろうし、何かしらパトロン気取りというか、貢ぐと虚栄心が満たされるという倒錯的な心理構造があるのである。嘘やインチキが大好きな性格、もしくは自分で自分を騙して生きてるとか、そんなところであろう。そして、水商売というのは接待が中心なのであろうし、貢ぐと接待してもらえるという構図が、インチキな人間にとっては快楽なのだと思われる。通常であれば先方がお金を出してくれるのを接待と呼ぶので、お金を払って接待してもらうのは変だと思うのだが、インチキな人間は疑問を持たないようであるし、この悪魔的な快楽に抗えない業病の持ち主がそれなりにいるわけだ。脱線というか、文章としての統一性を損なうのを厭わずに余白に書き足すが、ソーシャルゲームとかAKBなどを連想しても差し支えあるまい。貢ぐことの快楽のためにスッカラカンになるわけだ。握手会とか、自分でお金を払って接待してもらう構図であろうし、水商売と縁がないオタクでもいわば社長さんとして女に貢いでいるわけだ。先程パトロン気取りという言葉を用いたが、つまるところ、消費者としての等価交換原理ではなく、王侯貴族がパトロンとして散財しているのである。有村悠さんとか有村悠さんなどは艦これに百万円以上の課金をしているが、まさしく王侯貴族なのである。エリート東大生から「おまえは高卒」とか「おまえは特別な人間ではない」と言われて不登校になって退学した有村悠さんだからこそ、王侯貴族なのである。エリート東大生はたとえば年収二千万円もらえる能力があるから年収二千万円なのであるし、ごく普通の等価交換原理で生きている。だから高収入であっても、ただの消費者である。有村悠さんはこのような原理から落ちこぼれているから、艦これに百万円使ったりするのだし、無意味な散財をする貴族性がある。二千万円貰う能力があるから二千万円貰うというのではエリート労働者なのであり、決して王侯貴族ではない。要するに、いや、思いついたことを類聚的に縷々と綴っただけの殴り書きにきちんとした結語を付して文章を結ぶ必要もあるまいが、やはり金銭感覚の破綻というのは消費者としての等価交換原理からの逸脱であり、そして、それによって得られるパトロン感や王侯貴族としてのプライドはさぞかし絶大なのだろうと思われる。もちろんこの悪魔的な快楽の代償は大きいのであるし、たとえば有村悠さんとか有村悠さんの生活そのものが、刹那的な貴族性の末路を体現しているが、ド田舎の母子家庭で朝から晩までガリ勉して東京大学にギリギリ合格してエリートと一緒になるというのは、その据わりの悪さたるや論を俟たないし、やはり王侯貴族になるのもやむ無しであろう。
2018.02.09
家族に侮辱されても怖くない
われわれの世の中は侮辱を畏れることで成り立っている。侮辱されないように、いろいろ気を付けたり、空威張りしたり、他人を避けたりするのである。これが家族内の関係となると罵詈雑言の応酬となることもある。
われわれには知られたくない秘密というものがあるが、ミウチではそれが曝け出されている。人間最後のタブーというべき事情が筒抜けだったりするから、悪い意味で居直った空間が生じるし、世間には知られてない恥部を抉り合うのが普通となる。
家族、もしくは、それに近いくらいのミウチ感があると、どうしても普段は怖がっている「心ない言葉」を投げつけ合い、もはや恐怖もクソもない乱闘となる。
いわゆるDVというか家庭内暴力で家族を半殺しにする人がいるのは、つまり、侮辱を恐れない関係だから、ズタズタになるところまで行くしかないのである。
他者性への恐怖がない関係で恐怖を持たせるにはかなり暴力的にならねばならない。
この背景にあるのは、良くも悪くもミウチの乱闘に警察が介入しないことである。
濃い人間関係から発生するトラブルに立ち入るのは難しく、放置するしかないというのもある。
AさんがBさんを殴ったという場合に、赤の他人ならAさんが加害者というだけだが、この二人がミウチでいろいろ過去の因縁があると、殴られたBさんがかなりのワルということもあるわけだ。
当然ながら、Bさんがワルだろうが被害者は被害者という機械的な法的対処もあるが、それはバランスが悪い、もしくはミウチのトラブルの一挙手一投足について警察が対応するのは難しいという判断もあり、民事不介入うんたらになる。
われわれには知られたくない秘密というものがあるが、ミウチではそれが曝け出されている。人間最後のタブーというべき事情が筒抜けだったりするから、悪い意味で居直った空間が生じるし、世間には知られてない恥部を抉り合うのが普通となる。
家族、もしくは、それに近いくらいのミウチ感があると、どうしても普段は怖がっている「心ない言葉」を投げつけ合い、もはや恐怖もクソもない乱闘となる。
いわゆるDVというか家庭内暴力で家族を半殺しにする人がいるのは、つまり、侮辱を恐れない関係だから、ズタズタになるところまで行くしかないのである。
他者性への恐怖がない関係で恐怖を持たせるにはかなり暴力的にならねばならない。
この背景にあるのは、良くも悪くもミウチの乱闘に警察が介入しないことである。
濃い人間関係から発生するトラブルに立ち入るのは難しく、放置するしかないというのもある。
AさんがBさんを殴ったという場合に、赤の他人ならAさんが加害者というだけだが、この二人がミウチでいろいろ過去の因縁があると、殴られたBさんがかなりのワルということもあるわけだ。
当然ながら、Bさんがワルだろうが被害者は被害者という機械的な法的対処もあるが、それはバランスが悪い、もしくはミウチのトラブルの一挙手一投足について警察が対応するのは難しいという判断もあり、民事不介入うんたらになる。
2018.02.06
女のしあわせ
女は不幸になる自由がない。女はしあわせにならなければならない。これについてはフェミニストも異議申し立てをしない、いや、あの連中の片言隻句を遺漏なく追っているわけではないから絶無かどうかは知らんが、ポリコレ的に見て、女の人生が幸福の追求にあることは否定されない。女のしあわせというノルマはまったく男女差別ではないようだ。「しあわせになって欲しい」という発言が男女差別として扱われることはあるまい。旧習に晏如としているひとびとが打ち砕かれていく自由社会においても、しあわせになりたいというのは女の本能として根源的な欲求であろうから、理想的な人生に囚われることを不自由とは思わないらしい。ジミ・ヘンドリックスやカート・コバーンみたいな馬鹿が27歳で死ぬのは構わないし、しあわせうんたらというのはないので、不幸になるのは男性の特権と言える。悲劇のヒロインという枠はあるが、ジミ・ヘンドリックスが悲劇のギタリストとして扱われることはないし、馬鹿が死んだというだけである。女性でもカルトな宗教や政治にかぶれれば血腥いアナキズムな死に方もありえなくはないが、軽佻浮薄な学生運動家として将棋倒しで薨じた樺美智子だと、やはり普通のしあわせを奪われた悲劇という枠だし、馬鹿が死んだという扱いはできない。ジミ・ヘンドリックスが27歳で死んだのが笑い話であるのと対比すると、樺美智子はずいぶん尊厳を守られているが、政府転覆ができなかった挫折としてではなく、女の子のしあわせを達成できなかったという理由で腫れ物になっている。おそらくこの問題は、撤廃を目指すべき話でもなかろうし、ひとまずそういう男女差がある、という指摘に止めておく。幸福とか不幸というのは、ただの快楽と苦痛の話ではなく、存在解釈として理想的な家庭を築くという側面があり、ここから外れることは男だけが許されている。そして女はまったくそれを望まないのである。おそらく女でも、男が破滅的な美学を貫いて死ぬ物語に共感はするはずだが、女の自分がそれをやりたいとは思わないらしい。
2018.02.04
南條愛乃さんが中元すず香にお手本を見せる

2月3日にさいたまスーパーアリーナで開催されたNBCユニバーサルのフェス。
ユニバーサルはいろいろと巨額買収の経緯があり、これを調べるのはめんどうなので割愛する。
NBCユニバーサルは現在はあの世界最大のレコード会社のユニバーサルとは無関係である。
映画会社で有名なユニバーサルとは関係があるはず。
仔細は調べてないので、当てにしないでほしい。
ともかく日本ではジェネオン(パイオニアLDC)の流れを組むレーベルである。
15時30分に始まって、途中で10分かそこらの休憩があったが、21時30分くらいまでやっていたので、だいたい六時間くらいというか、観客もかなり疲れるフェスであった。
バンドの人はさぞかし大変というか、体力はもちろん、普段は弾いてない楽曲を直前リハしただけでこれだけたくさん演奏できる技量の凄さである。
こういうスタジオミュージシャン的な能力と作曲能力は一致しないが、ともかく凄いのは凄い。
このフェスはNBC(ジェネオン)の楽曲というのが大前提だったはずだが、NBC(ジェネオン)がたいしたレーベルではないから、どうも決定的な楽曲に欠けるといううらみはあり、そのあたりの楽曲の自由度の低さや、当日は晴天だったが、2月ということもあり、やや動員は芳しくなく、ステージサイドはまったく使ってなかったし、それ以外はほぼ埋まっていたが、だいたい二万人くらいは入れる会場なので、実数は一万五千人程度だったと思われる。
そのように制約された中で、最も盛り上がったのが真音ガールズであろう。
これは黒崎真音がNBC(ジェネオン)の対象楽曲に可憐Girl'sがあるのに気づいて、カバーすることを思いたち、南條愛乃さんに神戸牛を食べさせて承諾させたとされる。
今回の客層だと可憐Girl'sを知らない人はまずいないと思う。
いろいろと偏りのあるセットリストだったフェスにおいて、誰でも知っているという意味では、only my railgunとover the futureしかなかったような気がする。
ともかく、六時間に渡るフェスにおいて、だいたい二時間くらい経過したところで前触れもなく真音ガールズが登場して、おそらくフルコーラスではなかったが、かなり完璧にやりきったという印象であった。
南條愛乃さんは、なんだかんだいいながら、オリジナルを再現するためにかなり準備していたと思うし、中元すず香のポジションで絶対可憐なパフォーマンスを見せた。
「中元すず香はかわいい」と錯覚してしまったくらいなのだが、もし中元だったらわたしは嘔吐していたはずなので、つまり、中元と同じことを南條愛乃さん(33歳)がやると可愛いだけである。
やはり演者としての力量の差、もしくは中元が超絶的なドブスであるのを如実に感じたわけである。
同時に水野由結ちゃんの見識の高さも思い知らされたというか、水野由結ちゃんが可憐Girl'sにこだわっているのが今までピンと来なかったのだが、こういう盛り上がりを目にすると、実際は観客の反応までかなり計算されたキラーチューンであるし、これを黒歴史としてBABYMETALをメタルバンドにした小林(中元すず香のプロデューサー)の罪障は深い。
そもそもBABYMETAL自体が可憐Girl'sのパクリであるし、小林はコンセプトを剽窃しただけである。
なおかつ水野由結ちゃんも、他のグループから泥棒したわけである。
だから、ブレイクしてしばらくすると、経歴ロンダリングのつもりなのか、小林オリジナルのメタルバンドに路線変更したのだが、これが極めて陳腐であり、BABYMETALのピークアウトの大きな原因となった。
中元すず香がover the futureを歌わなくなったのも、これが小林プロデュースではないから、というだけの理由である。
2018.02.04
有村悠さん(母親)も生活が困窮か
https://twitter.com/lp_announce/status/959441338939801600
https://twitter.com/lp_announce/status/959442767221899264


有村悠さん(38歳)はわりと最近100歳くらいの祖母が亡くなったわけである。
おそらく想像では、この祖母の年金に頼って生活していたと思われる。
もちろん真相は不明だが、残すべき資産も無かったようなので、やはり祖母がそれなりの年金を貰える立場で100歳くらいまで生きていたから、有村悠さんがおすそ分けをもらう格好だった、と思う。
有村悠さんは艦これ同人誌で小遣い程度は稼げており、これまで艦これに100万円を超える課金をするくらいの余裕はあったのだが、生活費を払わなくていいというのが大前提であった。
祖母の死によって年金が途絶えたとすると、まずは有村悠さんの母親が生活保護に突入という可能性も考えられる。
https://twitter.com/lp_announce/status/959442767221899264


有村悠さん(38歳)はわりと最近100歳くらいの祖母が亡くなったわけである。
おそらく想像では、この祖母の年金に頼って生活していたと思われる。
もちろん真相は不明だが、残すべき資産も無かったようなので、やはり祖母がそれなりの年金を貰える立場で100歳くらいまで生きていたから、有村悠さんがおすそ分けをもらう格好だった、と思う。
有村悠さんは艦これ同人誌で小遣い程度は稼げており、これまで艦これに100万円を超える課金をするくらいの余裕はあったのだが、生活費を払わなくていいというのが大前提であった。
祖母の死によって年金が途絶えたとすると、まずは有村悠さんの母親が生活保護に突入という可能性も考えられる。