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これはわたしの漠然とした印象であり、ストップウオッチを片手に計測したわけではないのだが、ひとびとを見ると休日は意外と急ぎ足である。休日だからゆったり歩いているわけでもなく、むしろ急いでいたりする。家路を急ぐという言い方があるが、これは平日よりは休日の夜のほうが特徴的である。休みの日とは言っても翌日が平日であれば急ぐのであろう。当然ながらのんびり歩いている人もいる。また家族や恋人などのミウチ感覚で歩いている人も多い。つまり歩調が合っていないのである。だから、斜め後ろから速足の人が出てくることがよくある、もしくは自分が急いでいたらのんびりしている人とぶつかりそうになる。浮ついていて注意力散漫ということも言えるが、やはり歩く速度がバラバラというのが大きいと思われる。これが平日であれば多くの人が単独行動で儀礼的無関心を貫いているので、他者を個体認識していなくても、それぞれが一般的な顔のない他人として存在し、ごく自然に整然たるフォーメーションが出来上がってくる。羊を追い立てる牧羊犬がいなくても、なんとなくフォーメーションの意識があり、不思議なことに他人とぶつかりそうになることは少ない。儀礼的無関心は盲目ではなく、むしろ他者を注意深く見ている。平日だと自分自身の個性は捨象されているが、休日は何かしら個性があり、その中途半端に生きている感覚がフォーメーションの乱れに繋がる。人間という生き物は囚人番号の違いがあるだけで、この地球上に似たり寄ったりの存在として叢生しているはずなのだが、それを乱す個性があるらしい。だからどうしたというわけでもないが、道を歩くというのは集団的な行為であり、フォーメーションを意識しているのである。例えばごく自然に前方を歩く人間の背後に付くのが基本であるし、それによって列を作り、向こうから歩いてくる人間との正面衝突を避けている。女性は真後ろに付かれるのを嫌がることがあるので僅かに距離を開けたりとか、道が広くて余裕があればむしろ前方の人間の真後ろは歩かないようにしたりする。歩行だって身体の運転なのである。
人間世界のミステリーだが、風俗嬢の体を買うのはずいぶん安いが、水商売の女の歓心を買うのはずいぶん高い。たいていは商品の価格は「それなり」であるのだが、水商売は価格の妥当性が破綻している。水商売の箍の外れた高額さに共感できない人が大半であるはずだが、たとえば書画骨董のようなものというか、高額で取引する市場が成り立っているのも確かである。ホストクラブも同様である。女であれば、そもそも男の体はタダで買えるはずで、少なくとも風俗店の面接で落とされない容姿レベルなら、どんなイケメンに抱かれることだって可能である。それにも関わらず風俗嬢として金を稼ぎホストに貢ぐ不可思議な人種がいるわけである。このあたりを考えると、水商売においてセックスは付録なのであろう。貢ぐこと自体が快楽なのである。お金を捨てるのが快楽だというのだから、理解できない人が多数派になるのだが、この悪魔的な快楽に取り憑かれる人がそれなりにいて、都心の一等地の一角に集まっているわけである。おそらく虚栄心と関係してるのだろうし、何かしらパトロン気取りというか、貢ぐと虚栄心が満たされるという倒錯的な心理構造があるのである。嘘やインチキが大好きな性格、もしくは自分で自分を騙して生きてるとか、そんなところであろう。そして、水商売というのは接待が中心なのであろうし、貢ぐと接待してもらえるという構図が、インチキな人間にとっては快楽なのだと思われる。通常であれば先方がお金を出してくれるのを接待と呼ぶので、お金を払って接待してもらうのは変だと思うのだが、インチキな人間は疑問を持たないようであるし、この悪魔的な快楽に抗えない業病の持ち主がそれなりにいるわけだ。脱線というか、文章としての統一性を損なうのを厭わずに余白に書き足すが、ソーシャルゲームとかAKBなどを連想しても差し支えあるまい。貢ぐことの快楽のためにスッカラカンになるわけだ。握手会とか、自分でお金を払って接待してもらう構図であろうし、水商売と縁がないオタクでもいわば社長さんとして女に貢いでいるわけだ。先程パトロン気取りという言葉を用いたが、つまるところ、消費者としての等価交換原理ではなく、王侯貴族がパトロンとして散財しているのである。有村悠さんとか有村悠さんなどは艦これに百万円以上の課金をしているが、まさしく王侯貴族なのである。エリート東大生から「おまえは高卒」とか「おまえは特別な人間ではない」と言われて不登校になって退学した有村悠さんだからこそ、王侯貴族なのである。エリート東大生はたとえば年収二千万円もらえる能力があるから年収二千万円なのであるし、ごく普通の等価交換原理で生きている。だから高収入であっても、ただの消費者である。有村悠さんはこのような原理から落ちこぼれているから、艦これに百万円使ったりするのだし、無意味な散財をする貴族性がある。二千万円貰う能力があるから二千万円貰うというのではエリート労働者なのであり、決して王侯貴族ではない。要するに、いや、思いついたことを類聚的に縷々と綴っただけの殴り書きにきちんとした結語を付して文章を結ぶ必要もあるまいが、やはり金銭感覚の破綻というのは消費者としての等価交換原理からの逸脱であり、そして、それによって得られるパトロン感や王侯貴族としてのプライドはさぞかし絶大なのだろうと思われる。もちろんこの悪魔的な快楽の代償は大きいのであるし、たとえば有村悠さんとか有村悠さんの生活そのものが、刹那的な貴族性の末路を体現しているが、ド田舎の母子家庭で朝から晩までガリ勉して東京大学にギリギリ合格してエリートと一緒になるというのは、その据わりの悪さたるや論を俟たないし、やはり王侯貴族になるのもやむ無しであろう。
われわれの世の中は侮辱を畏れることで成り立っている。侮辱されないように、いろいろ気を付けたり、空威張りしたり、他人を避けたりするのである。これが家族内の関係となると罵詈雑言の応酬となることもある。

われわれには知られたくない秘密というものがあるが、ミウチではそれが曝け出されている。人間最後のタブーというべき事情が筒抜けだったりするから、悪い意味で居直った空間が生じるし、世間には知られてない恥部を抉り合うのが普通となる。

家族、もしくは、それに近いくらいのミウチ感があると、どうしても普段は怖がっている「心ない言葉」を投げつけ合い、もはや恐怖もクソもない乱闘となる。
いわゆるDVというか家庭内暴力で家族を半殺しにする人がいるのは、つまり、侮辱を恐れない関係だから、ズタズタになるところまで行くしかないのである。
他者性への恐怖がない関係で恐怖を持たせるにはかなり暴力的にならねばならない。

この背景にあるのは、良くも悪くもミウチの乱闘に警察が介入しないことである。
濃い人間関係から発生するトラブルに立ち入るのは難しく、放置するしかないというのもある。
AさんがBさんを殴ったという場合に、赤の他人ならAさんが加害者というだけだが、この二人がミウチでいろいろ過去の因縁があると、殴られたBさんがかなりのワルということもあるわけだ。
当然ながら、Bさんがワルだろうが被害者は被害者という機械的な法的対処もあるが、それはバランスが悪い、もしくはミウチのトラブルの一挙手一投足について警察が対応するのは難しいという判断もあり、民事不介入うんたらになる。
2018.02.06

女のしあわせ

女は不幸になる自由がない。女はしあわせにならなければならない。これについてはフェミニストも異議申し立てをしない、いや、あの連中の片言隻句を遺漏なく追っているわけではないから絶無かどうかは知らんが、ポリコレ的に見て、女の人生が幸福の追求にあることは否定されない。女のしあわせというノルマはまったく男女差別ではないようだ。「しあわせになって欲しい」という発言が男女差別として扱われることはあるまい。旧習に晏如としているひとびとが打ち砕かれていく自由社会においても、しあわせになりたいというのは女の本能として根源的な欲求であろうから、理想的な人生に囚われることを不自由とは思わないらしい。ジミ・ヘンドリックスやカート・コバーンみたいな馬鹿が27歳で死ぬのは構わないし、しあわせうんたらというのはないので、不幸になるのは男性の特権と言える。悲劇のヒロインという枠はあるが、ジミ・ヘンドリックスが悲劇のギタリストとして扱われることはないし、馬鹿が死んだというだけである。女性でもカルトな宗教や政治にかぶれれば血腥いアナキズムな死に方もありえなくはないが、軽佻浮薄な学生運動家として将棋倒しで薨じた樺美智子だと、やはり普通のしあわせを奪われた悲劇という枠だし、馬鹿が死んだという扱いはできない。ジミ・ヘンドリックスが27歳で死んだのが笑い話であるのと対比すると、樺美智子はずいぶん尊厳を守られているが、政府転覆ができなかった挫折としてではなく、女の子のしあわせを達成できなかったという理由で腫れ物になっている。おそらくこの問題は、撤廃を目指すべき話でもなかろうし、ひとまずそういう男女差がある、という指摘に止めておく。幸福とか不幸というのは、ただの快楽と苦痛の話ではなく、存在解釈として理想的な家庭を築くという側面があり、ここから外れることは男だけが許されている。そして女はまったくそれを望まないのである。おそらく女でも、男が破滅的な美学を貫いて死ぬ物語に共感はするはずだが、女の自分がそれをやりたいとは思わないらしい。
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2月3日にさいたまスーパーアリーナで開催されたNBCユニバーサルのフェス。

ユニバーサルはいろいろと巨額買収の経緯があり、これを調べるのはめんどうなので割愛する。
NBCユニバーサルは現在はあの世界最大のレコード会社のユニバーサルとは無関係である。
映画会社で有名なユニバーサルとは関係があるはず。
仔細は調べてないので、当てにしないでほしい。
ともかく日本ではジェネオン(パイオニアLDC)の流れを組むレーベルである。

15時30分に始まって、途中で10分かそこらの休憩があったが、21時30分くらいまでやっていたので、だいたい六時間くらいというか、観客もかなり疲れるフェスであった。
バンドの人はさぞかし大変というか、体力はもちろん、普段は弾いてない楽曲を直前リハしただけでこれだけたくさん演奏できる技量の凄さである。
こういうスタジオミュージシャン的な能力と作曲能力は一致しないが、ともかく凄いのは凄い。

このフェスはNBC(ジェネオン)の楽曲というのが大前提だったはずだが、NBC(ジェネオン)がたいしたレーベルではないから、どうも決定的な楽曲に欠けるといううらみはあり、そのあたりの楽曲の自由度の低さや、当日は晴天だったが、2月ということもあり、やや動員は芳しくなく、ステージサイドはまったく使ってなかったし、それ以外はほぼ埋まっていたが、だいたい二万人くらいは入れる会場なので、実数は一万五千人程度だったと思われる。

そのように制約された中で、最も盛り上がったのが真音ガールズであろう。
これは黒崎真音がNBC(ジェネオン)の対象楽曲に可憐Girl'sがあるのに気づいて、カバーすることを思いたち、南條愛乃さんに神戸牛を食べさせて承諾させたとされる。
今回の客層だと可憐Girl'sを知らない人はまずいないと思う。
いろいろと偏りのあるセットリストだったフェスにおいて、誰でも知っているという意味では、only my railgunとover the futureしかなかったような気がする。

ともかく、六時間に渡るフェスにおいて、だいたい二時間くらい経過したところで前触れもなく真音ガールズが登場して、おそらくフルコーラスではなかったが、かなり完璧にやりきったという印象であった。
南條愛乃さんは、なんだかんだいいながら、オリジナルを再現するためにかなり準備していたと思うし、中元すず香のポジションで絶対可憐なパフォーマンスを見せた。
「中元すず香はかわいい」と錯覚してしまったくらいなのだが、もし中元だったらわたしは嘔吐していたはずなので、つまり、中元と同じことを南條愛乃さん(33歳)がやると可愛いだけである。
やはり演者としての力量の差、もしくは中元が超絶的なドブスであるのを如実に感じたわけである。

同時に水野由結ちゃんの見識の高さも思い知らされたというか、水野由結ちゃんが可憐Girl'sにこだわっているのが今までピンと来なかったのだが、こういう盛り上がりを目にすると、実際は観客の反応までかなり計算されたキラーチューンであるし、これを黒歴史としてBABYMETALをメタルバンドにした小林(中元すず香のプロデューサー)の罪障は深い。
そもそもBABYMETAL自体が可憐Girl'sのパクリであるし、小林はコンセプトを剽窃しただけである。
なおかつ水野由結ちゃんも、他のグループから泥棒したわけである。
だから、ブレイクしてしばらくすると、経歴ロンダリングのつもりなのか、小林オリジナルのメタルバンドに路線変更したのだが、これが極めて陳腐であり、BABYMETALのピークアウトの大きな原因となった。
中元すず香がover the futureを歌わなくなったのも、これが小林プロデュースではないから、というだけの理由である。
https://twitter.com/lp_announce/status/959441338939801600
https://twitter.com/lp_announce/status/959442767221899264

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有村悠さん(38歳)はわりと最近100歳くらいの祖母が亡くなったわけである。
おそらく想像では、この祖母の年金に頼って生活していたと思われる。
もちろん真相は不明だが、残すべき資産も無かったようなので、やはり祖母がそれなりの年金を貰える立場で100歳くらいまで生きていたから、有村悠さんがおすそ分けをもらう格好だった、と思う。
有村悠さんは艦これ同人誌で小遣い程度は稼げており、これまで艦これに100万円を超える課金をするくらいの余裕はあったのだが、生活費を払わなくていいというのが大前提であった。
祖母の死によって年金が途絶えたとすると、まずは有村悠さんの母親が生活保護に突入という可能性も考えられる。
恥でギャーと叫びたくなることがあるらしい。これは要するに記憶が甦るたびに反復強迫的な自己処罰を行っていて、恥の事実を平然と認めるのを拒んでいるのである。自己処罰は見当違いの反省の仕方であるから、恥じるのが立派な人間とは限らないし、むしろ問題解決が出来ない人間とも言える。

自他の境界線は必要であるから、恥の感情も人間として持たねばならないのだろうが、自傷のような自己処罰は出来損ないの特徴でもあるので、克服したほうがよいと思われる。

恥の根底にあるのは他人の目線である。
たとえば誰もいないと思って変な独り言を言っていたら、それを聞かれてしまったとか、そういうことだ。

他人の恥を見てこちらが恥ずかしくなることもある。恥は瞬間的なものではなく、目撃によって事実が確定する世界の仕組みに根差している。目撃されてないものは実行されていないと言うと誇張になるだろうし、当然ながら反論を食らうのは間違いない。放火によって大惨事になったが放火魔を誰も目撃してない場合はどうなのか、という類の問題があるのは言うまでもない。とはいえ、やはり心理的には目撃者がいてこその事実である。目撃されてなければ事実として確定しない、という側面がある。だから、他人の恥をたまたま目撃してしまうと、その事実を確定する目撃者になってしまうし、時としてその恥が伝染してきて、バツの悪い思いで身悶えすることもある。

何にせよ、ギャーと叫ぶことで事実が覆るとは思えない。叫ぶよりは黙した方が賢明であろう。

人間は人間への蔑みが必要である。
変な独り言を聞かれてしまった自分を恥じるのではなく、人間を蔑まなければならない。
これは自己卑下とはまったく違うものであり、自分で自分を睥睨し、それこそ自分の問題を他人事のように突き放すのである。
自意識は人間の基本だが、これは弱めたほうがいいのである。
変な独り言を聞かれてしまった過去の自分という事実は否定できないが、心理的にはそういう自分との連続性を断ち切るしかない。
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