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2018.03.31
他人が逮捕されると自分は助かったと思う
インターネットの初期の頃は左翼が強かったというか、反権力的な印象であった。それがだんだんネトウヨと呼ばれる連中が権勢を振るうようになったのは、左翼自体が絶滅危惧種なのだから、人口比の自然な反映とも言えるが、そのような思想背景とはまったく別の話として、ひとびとは警察を嫌っているのに、誰かが逮捕されるのを喜ぶという問題がある。そして誰かが逮捕されると「次は自分だ」ではなくて「自分は助かった」と考えている。つまり誰かを晒し者にする見せしめ方式である。他人が手酷い笞刑で血塗れの背中を腫れ上がらせていたなら、そいつがスケープゴートになったのであろうし、自分は助かったと嬉しくなってしまうのがこの世の習い。本当に自分が助かったかどうかは確定してないはずだし、全員を皆殺しにするところまで権力がエスカレートすることもなくはないが、刑事罰について言うなら、一人残らず逮捕していたら、警察はまだしも、裁判官とか刑務所のキャパシティが限界となるから、そうそう片っ端から逮捕はできない。グレーゾーンの不行跡に手を染めていても、見せしめが行われた時点で手を引けば大丈夫という具合である。津田大介の手は真っ白なのだ。だから、われわれは過去の悪事で罪が問われる畏怖に震えることなく、誰かが逮捕されると安堵して喜ぶのである。東京地検特捜部などは以前は巨悪を捕まえていたのに、官僚の接待疑惑に踏み込んでから迷走した、いや、もちろん官僚を接待するのはよくないが、微罪であるのも確かなので、それを重くしようとして冤罪まで作り出すと、罪障が深いのは検察の方というオチになった。警察であれば微罪でも逮捕して、記者クラブで喧伝した上で容疑者をカメラの放列に晒し、有耶無耶に書類送検でもしておけばいいが、検察だとガチで罪が重くないとまずいというか、見せしめの上手いやり方がないので、最後まで徹底追求して、何も出なければ藤村新一の顰みに倣ったゴットハンドで捏造するしかないのである。ともかく、東京地検特捜部の暴走は厳罰を望む世論が背景にあったであろうし、法廷ではなく、逮捕や捜査過程で人間が晒し者にされ裁かれる問題でもある。ヤフコメに集まっている有象無象は、名刹を巡礼したり、景勝地で花鳥風月を愛でているのではなく、瘴気ただよう見世物小屋にたむろしてフリークスの登場を待っている俗衆という自覚を持つべきである。他人が罰せられたり落剥の身となる様子が愉しいのは事実だが、あくまで悪趣味なのだから正義を気取るべきではない、もしくは正義君の実態は処刑愛好家であり人倫に著しく反していることを、われわれも認識しなければならない。
2018.03.27
真面目系クズ。有村悠さんとエジソン。
有村悠さんはこのところスランプに陥っているようである。以前のように庵野秀明の後継者だとか、ステータスだけ求めている状態は脱して、エロ同人とは言え、最低限は需要があるものを制作して多少の利益を得るようになったし、執筆量が増えたので画力もマシになったのだが、艦これという市場の分母も縮小しているであろうし、今ひとつテンションが上がらないのかもしれない。有村悠さんは典型的なADHDだが、たとえばエジソンもそのタイプである。エジソンは不眠不休のハードワーカーであったから、有村悠さんとは対極であるが、やはり若い頃から成功したので、騎虎の勢いで様々な発明を生み出した。小学校を三ヶ月でやめているが、19世紀の話であるから挫折ではない。教養ある母親から読書を薦められ、そのうち自然科学に興味をもつようになった。ADHDを矯正されるよりは、熱中しやすい性格がプラスに回転していたのである。エジソンは発明そのものに没頭していたから、「庵野秀明の後継者」を自称するようなワナビーではなかったし、そこも有村悠さんとの大きな違いである。この点において、有村悠さんに多少の改善が見られつつあるのは前述した通りであるが、春画で糊口を凌いでいる限界なのか、創作にすべてを捧げるという無我の境地にまでは至っていない。エジソンは普通の人間とは違う独自の視点で物事を探究し続けて、その発明家としての功績については誰もが知るところだが、数学が出来なかったので判断を誤ることもあった。イギリスの産業革命も、だいたいは学のない人が勃興させたものである。職人的な発明でやる時代もあれば、机上の数学や物理学で解けば回答に辿り着ける時代もある。数値で表現できる物理現象については、机の上で計算したことがそのまま現実になるので、それなりに原始的発明が出揃って成熟してきた分野では机上でやればいいのだろう。エジソンは独自に物事を解こうとする自閉的気質があったのであろうし、まだ誰もやってないことについては、彼のアプローチがとても有効だった。この2018年現在においては、世の中にたくさんノウハウが蓄積されているので、それを学習して適応するか、もしくは数学で解いていくことになる。エジソンが今の世の中に生きていたら、社会的適応力がなく、なおかつ数学も出来ないので、ただの独りよがりというか、真面目系クズになるしかない。あるいは、有村悠さんの場合、「東大で歴史を学んだ」というインチキも問題であろう。東大文学部西洋史学科を退学処分になっているのだから、むしろ世界史について無知だと証明されている。日本史なら詳しいという悪あがきなのか、戦史などを語っていたが、所詮はWikipediaのコピペである。歴史の勉強など「役に立たない」典型だが、有村悠さんはフォロワー一万人くらいいるし、たくさんの人から疎まれている一方で、物見高い連中の人気者でもあるので、社会に無用な歴史学であれ極めれば文人墨客を気取るくらいはできそうだが、やはりこれも、ママンの笞刑で丸暗記していた時代から成長がない。これがエジソンだったら独学で歴史を極めていたかも、いや、エジソンは挫折しなかったADHDの典型であるから、挫折体験を持つ有村悠さんと真逆なのは当然だが、やはり挫折する前に矯正するか、あるいは長所として褒めて伸ばすか、ともかく、挫折して鬱や人格障害で廃疾になってからどうこうしても手遅れなのも確かだ。
2018.03.22
謝ったら死ぬ
われわれは権利問題を巡って他人と話し合うことを喧嘩と呼んでいる。
大衆酒場で酔漢が掴み合いをしているわけでもあるまいし、権利問題の話し合いを喧嘩と呼ぶのは変ではあるが、しっくりくるのも確かである。
これは要するに、譲歩する用意があるかどうかである。
価格の話なら交渉のテーブルはあるが、バンドで誰が脱退するかとか、ただの敵対である。
自分から迂闊に譲歩してしまうと、相手がやたらと強気になって、こちらが負けてしまう。
だから最大限の要求をぶつけ合うしかなく、やはりこれは喧嘩と呼ぶしかないのである。
誰かが事務的に仲裁してくれると、譲歩案なども述べやすいが、当事者だとなかなかそういうわけにもいかない。
そもそもそういう仲裁者もなかなかいない。
弁護士が入ると、むしろ最大限の要求を強気ですることになる。
これは弁護士が双方代理を禁じられているからで、一方的な言い分を言うしかないこともある。
だから、弁護士が言っているから正しいわけではないし、むしろかなり吹っかけた暴論であるわけだ。
最大限の要求というのは、バランスを取る気がないわけで強引そのものだが、こちらだけ譲歩するわけにはいかないので、ちょっと無理な主張をすることもある。
このような組み手争いは喧嘩と呼ぶしかない。
「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがあるようだが、これは、第三者が見ていているところでは強気な主張が阿呆でしかないということだろう。
当事者だけの密室なら、謝ったら死ぬという勢いでやるのは珍しくない。
大衆酒場で酔漢が掴み合いをしているわけでもあるまいし、権利問題の話し合いを喧嘩と呼ぶのは変ではあるが、しっくりくるのも確かである。
これは要するに、譲歩する用意があるかどうかである。
価格の話なら交渉のテーブルはあるが、バンドで誰が脱退するかとか、ただの敵対である。
自分から迂闊に譲歩してしまうと、相手がやたらと強気になって、こちらが負けてしまう。
だから最大限の要求をぶつけ合うしかなく、やはりこれは喧嘩と呼ぶしかないのである。
誰かが事務的に仲裁してくれると、譲歩案なども述べやすいが、当事者だとなかなかそういうわけにもいかない。
そもそもそういう仲裁者もなかなかいない。
弁護士が入ると、むしろ最大限の要求を強気ですることになる。
これは弁護士が双方代理を禁じられているからで、一方的な言い分を言うしかないこともある。
だから、弁護士が言っているから正しいわけではないし、むしろかなり吹っかけた暴論であるわけだ。
最大限の要求というのは、バランスを取る気がないわけで強引そのものだが、こちらだけ譲歩するわけにはいかないので、ちょっと無理な主張をすることもある。
このような組み手争いは喧嘩と呼ぶしかない。
「謝ったら死ぬ病」というネットスラングがあるようだが、これは、第三者が見ていているところでは強気な主張が阿呆でしかないということだろう。
当事者だけの密室なら、謝ったら死ぬという勢いでやるのは珍しくない。
2018.03.20
正常人の恐ろしさ
この間とある大企業(有名だが一流半くらいの上場企業)の人と口論になった。後難を避けるため仔細までは述べないし、故意に曖昧な記述をして輪郭をぼかすことにするから作り話も同然である。なお、普段からの力関係はない。その大企業の迷惑行為が法令に違反しており、こちらの権利を侵害しているので、わたしが文句を言っただけである。具体的には書かないが、悪質さの程度を喩えるなら駐車禁止のところにいつも車を停めてる程度のことである。出てきたひとたちは如何にも平凡で正常という具合で、オフィスに出社して勤務している形態だから、おそらく正社員である。そして半笑いしながら「その法律は知らない」と白々しいことを言うのである。誰でも知ってるようなことだから、大企業の正社員が知らないわけはないのだが、「知らなかった」と言うのが仕事なのであろう。ともかくわたしが目を三角にして非常に強く言ってその迷惑行為をやめていただいた。それ以降は、これまで延々と続いていた迷惑行為が完全に止まった。注意をしたのはわたしが最初ではないはずなので、本来なら誰かから感謝されてもよさそうだが、まったくそれはないし、迷惑行為がなくなって晴れやかな蒼天が広がったというよりは、むしろ殺伐とした暗雲が立ち込め、その暗澹たる影に覆われた生臭い犯行現場で実況見分をしているというか、こちらが忌むべき大罪人になったような胸クソ悪さである。おそらく世の中には黙認されていることも多々あるのだが、問題の件はその枠ではない。たぶん他でもトラブルになってる。とはいえ重大な犯罪やスキャンダルでもないし、裁判で争うほどの大袈裟な問題ではないから、権利侵害や法令違反を承知で強引にやっているのであろう。ああやって普段から他人にビンボールを投げている連中も家に帰ればいいお父さんなのだろうし、「その法律は知らない」と言い張るのも精神病の妄想ではないから癲狂院とは生涯無縁である。人権団体などが出てくると大企業は平身低頭するが、やはり普段は法令違反でトラブルを起こしているのだし、この白々しさこそが正常世界だと思ったわけである。グレーゾーンあってこその世界ではあるのだろうし、清濁併せ呑むことも必要なのだろうが、やはり世間的に認められているグレーゾーンと、認められていないグレーゾーンがあり、今回の迷惑行為がどちらであるかは、ここでわたしが主観的に述べても意味はなかろうが、あの連中が引き下がっていったのは「その法律は知らない」というのが虚言だからであろう。彼らも普段はすごいしっかりしているはずで、接客などではずいぶん好人物なのだろうが、違法駐車のような行為を繰り返して注意されたら人を小馬鹿にしたような半笑いで返すわけで、これこそが正常人なのである。法人という御神体を刑務所に入れるわけにもいかず、あの腐った連中にしても御家庭では、水戸黄門を守る助さん格さんということかもしれない。悪党に使嗾されるのも使命であろう。命令される美学の実態。忠実なるすべての軍人は賞賛に値するというイデオロギー装置。
2018.03.14
ルールはルールという素直さ
なぜこの世の中で他人はなかなか説明してくれないのかと言うと、やはりわれわれは自明性に基づいて生きているからである。当たり前だから当たり前ということである。その自明性より先の究極の理由はわからない。当たり前のことを説明しようとすると、逆に疑問が増えてしまう。社会の裏表のわかる人がいろいろと察しているとしても、それは状況に適応しているだけである。「説明」と「適応」は対概念と言ってもいいのである。多数の人が自明性で納得していることについて「説明」を求めると殴られることもあるが、説明がなければ納得しないという姿勢が反抗的だからだろう。説明と納得はセットであり、説明しても相手が納得しないとなれば不愉快だから説明しないのである。たとえばなぜ複式簿記を付けてるのかわからずにやってる人もいるわけだ。深く考えてもわからないから、規則通りに記録しているわけである。つまりルールはルールという社会的自明性だが、これについて、もう少し納得のいく説明することもできる。お金には種類があるから複式簿記にするしかない、ということである。目の前に百万円あるとして、純粋な持ち金と借入金では別扱いにする必要がある。一万円の商品が売れたとして、その一万円の売上は現金とは限らないし、売掛金や受取手形だったりする。手形を不渡りにすると大変だから、相手も掛金よりは手形を優先して払うのだし、ともかく種類が違うのである。何も考えずに複式簿記を付けるのも可能だが「お金には種類がある」と説明してもらえれば、複式簿記にして分類する理由がわかる。説明されて納得するまでは梃子でも動かないというのでは困るし、だからルールはルールという素直さが必要であるし、理由がわからなくても複式簿記で付ける姿勢も大事だが、こういう素直な人は深く考えてないという側面もあるわけだ。
2018.03.08
なぜデマを恐れるのか
ひとびとは決して噂を盲信してるわけではない。噂、もしくはゴシップは娯楽であり、ただ単に楽しんでいる。「信じる」と言っても、怪談噺というか、ネッシーや雪男と大差ない。頭の悪さというのは簡単だが、それだけの問題ではあるまい。娯楽として楽しいなら信じるということもある。たとえばhydeが156センチという噂も、盲信しているわけではなく、むしろ誇張して楽しんでいたわけだ。根も葉もない噂について著名人が「釈明」させられるのも奇妙なのだが、社会はそういうものなのである。釈明してしまう、もしくは「頼むから信じないでくれ」と懇願してしまうのは、やはり自分の噂がおもちゃにされる不安なのだろう。hydeでさえこの問題をスルーできなかった。身長の高低は白日の下に晒されているが、数センチにプライドが掛かっている。おそらくだいたいの人はhydeは160センチ前後だと推定していて、だからこそ愉快犯的に156センチだと騒ぎ立てていたのだ。デマを流された被害者が釈明するという病理は、そもそもマスゴミの飛ばし記事を他社が後追いするのもそうであるからネット特有だとは言えないし、あるいは、近所とか学校とか会社などの閉じた関係でも頻繁に起こることである。噂を流すという嫌がらせは売春婦と同じくらいに歴史が古い。噂話に誰もが喜々として喉を鳴らすわけではないし、好物ではないという人もいるだろうが、見て見ぬふりをしているだけとも言えるし、怪しいものから遠ざかる防衛本能であろう。伝聞によって世界情報は作られているので、虚々実々の血腥い世俗に関与しないことはあり得ないし、好奇の目で他人を翫ぶ悪趣味よりは、見なかった聞かなかったという人の方がマシというだけである。自分のプライバシーを隠したい、他人のプライバシーを知りたいというせめぎ合いが社会であり、公益性の問題もあるから、憶測で物事を探るのが悪いとも言いきれない。人倫にもとる経歴詐称をする詐欺師がいるだけでなく、見栄を張るくらいは正常な凡人でもやる。嘘付きと嘘付きが干戈を交えている。サバ読み的な嘘なら多くの人がついてるし、なんとなく容認されてるから、つまり事実誤認は許せないという単純な話ではない。虚像として美化するのはいいが、毀損するのは許せないというのだから、嘘そのものが駄目ということはないし、むしろ逆なのである。人間は本質的に虚像である、という言い方だって可能だ。真っ当な取材行為と、他人をおもちゃにする行為を区別するのは可能であるけれども、どちらにせよ事実はタブーなのである。
2018.03.05
正面の視野とはなんぞや
周辺視野が求められる時代である。昔であれば不合理な儀式を有無を言わさずやらされてたが、今はかなり柔軟に対応することが求められている。頑固であるのはまったく長所ではなくなった。周辺視野とは要するに「視野が狭い」とか「視野が広い」という古典的な物言いと同じ文脈の問題であるが、焦点を絞り込んだところしか見えてないのはこの時代においてはかなり重篤な障害である。
さて、こう考えると正面視野というのもあるはずだが、これが意外と判然としない。たとえばパソコンの15インチのディスプレイが隅から隅まで見えている人はあまりいないであろうし、あるいは10インチのタブレットや5インチのスマホでもずいぶん見落としがある。そもそも5インチの画面に書いてある文字が瞬間的に読めるならずいぶん速読の力があるだろうし、われわれにとって「正面」とは何ぞやという課題である。
あるいはもう少し単純に目の前のボールペンを見ているとする。この時にそのボールペンのメーカーや商品名までは把握してないことは多々ある。あくまでボールペンとして見ており、そこに記されているメーカーの名前までは見てなかったりする。もちろん文房具マニアというのがいるとして、真っ先にメーカーに着目するなら別だが、そこへの興味が皆無だと見落としてしまう。ボールペンが正面にあっても、メーカー名は周辺とも言えるのだ。おそらく視野が広い人は重要でないものも素直に見ているので、なんとなくメーカー名まで見ているかもしれない。自閉だとまず頭の中に観念があり、それに照らし合わせているから見てない。つまり頭でっかちなのである。重要でないところも見ているのは知性として無駄であるように思えるし、だからこそ焦点を絞り込んでそこだけを見る自閉も生き残ってきたのだろうが、自閉的に世界を認識するのは社会性においては大きな欠陥であり、自由社会で淘汰されるのは論を俟たない。
さて、こう考えると正面視野というのもあるはずだが、これが意外と判然としない。たとえばパソコンの15インチのディスプレイが隅から隅まで見えている人はあまりいないであろうし、あるいは10インチのタブレットや5インチのスマホでもずいぶん見落としがある。そもそも5インチの画面に書いてある文字が瞬間的に読めるならずいぶん速読の力があるだろうし、われわれにとって「正面」とは何ぞやという課題である。
あるいはもう少し単純に目の前のボールペンを見ているとする。この時にそのボールペンのメーカーや商品名までは把握してないことは多々ある。あくまでボールペンとして見ており、そこに記されているメーカーの名前までは見てなかったりする。もちろん文房具マニアというのがいるとして、真っ先にメーカーに着目するなら別だが、そこへの興味が皆無だと見落としてしまう。ボールペンが正面にあっても、メーカー名は周辺とも言えるのだ。おそらく視野が広い人は重要でないものも素直に見ているので、なんとなくメーカー名まで見ているかもしれない。自閉だとまず頭の中に観念があり、それに照らし合わせているから見てない。つまり頭でっかちなのである。重要でないところも見ているのは知性として無駄であるように思えるし、だからこそ焦点を絞り込んでそこだけを見る自閉も生き残ってきたのだろうが、自閉的に世界を認識するのは社会性においては大きな欠陥であり、自由社会で淘汰されるのは論を俟たない。
2018.03.03
脳は因果律を無視できる
ヒュームが使いそうな喩えだが、たとえば玄関のドアに鍵をかけたとする。そうしたらその物理的な事実は揺るがないのである。夢の中だと鍵を掛けたのに人が入ってくるような悪夢があるが、現実でそれはない。鍵をかけたら鍵をかけたのであり、それは覆らない。鍵開けの名人みたいなのに解錠されてしまうとしても、それは因果律の狂いではない。鍵をかけたのは間違いのない事実で、しかし、それをプロの手口で解錠されてしまったというだけである。
夢と現実に共通しているのは、一応の前後関係はあることだ。前後関係そのものは人間の体験にとって不可欠である。ただ夢ではずいぶん前後関係が気まぐれである。因果律という言葉を原因と結果の厳格な結び付きと定義するなら、夢には因果律がない。
重要なのは何かと言うと、過去は設定なのである。過去そのものは消え去ってるから、過去、あるいは現在完了の設定があるだけである。現実だとこの設定が物理的に揺るがないが、夢では設定が大雑把である。いきなりサッカー選手になってもいいわけだ。
夢の中では因果律が無視されて鍵が簡単に開いていくし、われわれも疑問には思っていない。「これは夢だ」と気づくこともあるが、気づかないのが大半である。考えてみればこれは至極当然のことであり、生まれついた状況に没入するのが体験の基本である。中世に生まれついて貴族だと言われたら貴族だし、奴隷だと言われたら奴隷である。異端審問で魔女を丸焼きにしたのは夢の中の出来事ではない。
われわれは森羅万象を知らない。自分の肉体の周辺しか知らないし、最近ならインターネットもあるが、頭の中に入る情報量は有限である。われわれはこの地球上で発生している出来事の殆どを知らないのである。自分の状況だけは辛うじて知っていて、原因と結果の因果律に縛られているのだが、所詮はそれだけなのである。つまり、現実というのも所詮は森羅万象に盲目的で、個人的な設定を生きているだけなので、夢で因果律が支離滅裂でも、大雑把な前後関係があればいいらしい。現実の因果律を踏まえずに気まぐれに生きて破滅する人がいるのも、人間の体験そのものに規矩とした因果律は必要ないのだろう。因果応報を踏まえないと大変なことになるだけであり、つまり結果が破滅でもいいなら、踏まえないことは充分に可能である。
夢と現実に共通しているのは、一応の前後関係はあることだ。前後関係そのものは人間の体験にとって不可欠である。ただ夢ではずいぶん前後関係が気まぐれである。因果律という言葉を原因と結果の厳格な結び付きと定義するなら、夢には因果律がない。
重要なのは何かと言うと、過去は設定なのである。過去そのものは消え去ってるから、過去、あるいは現在完了の設定があるだけである。現実だとこの設定が物理的に揺るがないが、夢では設定が大雑把である。いきなりサッカー選手になってもいいわけだ。
夢の中では因果律が無視されて鍵が簡単に開いていくし、われわれも疑問には思っていない。「これは夢だ」と気づくこともあるが、気づかないのが大半である。考えてみればこれは至極当然のことであり、生まれついた状況に没入するのが体験の基本である。中世に生まれついて貴族だと言われたら貴族だし、奴隷だと言われたら奴隷である。異端審問で魔女を丸焼きにしたのは夢の中の出来事ではない。
われわれは森羅万象を知らない。自分の肉体の周辺しか知らないし、最近ならインターネットもあるが、頭の中に入る情報量は有限である。われわれはこの地球上で発生している出来事の殆どを知らないのである。自分の状況だけは辛うじて知っていて、原因と結果の因果律に縛られているのだが、所詮はそれだけなのである。つまり、現実というのも所詮は森羅万象に盲目的で、個人的な設定を生きているだけなので、夢で因果律が支離滅裂でも、大雑把な前後関係があればいいらしい。現実の因果律を踏まえずに気まぐれに生きて破滅する人がいるのも、人間の体験そのものに規矩とした因果律は必要ないのだろう。因果応報を踏まえないと大変なことになるだけであり、つまり結果が破滅でもいいなら、踏まえないことは充分に可能である。
2018.03.01
小林は顔を出せないのか出さないのか
すでにピークアウトしているBABYMETALが、海外ツアーの具体的な日程を発表した。
水野由結ちゃんがどうなったのかは、いつもの秘密主義に基づいて不明である。
BABYMETALの最盛期は2015年あたりであろうし、2016年の東京ドーム2daysはいずれも実数で5万人は入っているが、直前になってギリギリ完売した格好である。
つまり、応募者が何十万人もいる状態で東京ドームをやったわけではないので、潜在的な動員力を使い切ったというか、2017年はその反動が来たと言える。
ここで気になるのは、かなり狭い範囲にしか売らないという形をこれからも続けそうなことである。
そして、ひとつの疑念が生じてきたのだが、BABYMETALのプロデューサーである小林は顔を出せない個人的な事情があるのではないか、とも思うわけである。
もちろんアミューズの正社員なのだから、表向きの経歴に傷はないであろう。
とはいえ、ここまで秘密主義を極めているとなると、マーケティング戦略というよりは、世間に顔を知られると「あいつだ」と告発される過去が小林にあるような気がする。
ではどうすればいいのかというと、その懸念を払拭するために、アミューズ社はごく普通に小林の顔出しインタビュー程度はあちこちでやらせるべきであろう。
小林が何が何でもこれを拒むのであれば怪しい。
「あいつだ」と言われるのが怖くて、ニッチなジャンルに絞り込んでピークアウトしているかもしれないわけだ。
もちろん言うまでもないが、これは邪推でしかない。
表面上は経歴に傷がないから上場企業であるアミューズに入れたのであろうし、わたしは超能力者ではないので、「あいつだ」と告発される過去が小林にあるのかどうか知るわけがない。
つまり、想像というよりは、万が一という話である。
水野由結ちゃんがどうなったのかは、いつもの秘密主義に基づいて不明である。
BABYMETALの最盛期は2015年あたりであろうし、2016年の東京ドーム2daysはいずれも実数で5万人は入っているが、直前になってギリギリ完売した格好である。
つまり、応募者が何十万人もいる状態で東京ドームをやったわけではないので、潜在的な動員力を使い切ったというか、2017年はその反動が来たと言える。
ここで気になるのは、かなり狭い範囲にしか売らないという形をこれからも続けそうなことである。
そして、ひとつの疑念が生じてきたのだが、BABYMETALのプロデューサーである小林は顔を出せない個人的な事情があるのではないか、とも思うわけである。
もちろんアミューズの正社員なのだから、表向きの経歴に傷はないであろう。
とはいえ、ここまで秘密主義を極めているとなると、マーケティング戦略というよりは、世間に顔を知られると「あいつだ」と告発される過去が小林にあるような気がする。
ではどうすればいいのかというと、その懸念を払拭するために、アミューズ社はごく普通に小林の顔出しインタビュー程度はあちこちでやらせるべきであろう。
小林が何が何でもこれを拒むのであれば怪しい。
「あいつだ」と言われるのが怖くて、ニッチなジャンルに絞り込んでピークアウトしているかもしれないわけだ。
もちろん言うまでもないが、これは邪推でしかない。
表面上は経歴に傷がないから上場企業であるアミューズに入れたのであろうし、わたしは超能力者ではないので、「あいつだ」と告発される過去が小林にあるのかどうか知るわけがない。
つまり、想像というよりは、万が一という話である。