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他人が審査員というのが現実の根幹であり、われわれはその審査員たる立場を利用して他人に高い点数を付けることも出来るし、露骨に低い点数を付けて名誉毀損になることもあれば、ブスをブスと正確に言うことで「事実でも名誉毀損」となったりする。物事は好意的な評価もできるし、悪意のある評価もできるし、われわれ審査員も情実や野次馬根性で掌返しを繰り返すのである。60点くらいのものに90点を付けるのはわりと喜ばれるし、寸毫たりとも名誉毀損ではない。他人に低い評価をするのはリアルの人間関係だといわゆる暴力的なマウントであるし、それに比べたらおべんちゃらの方がいいということらしい。お世辞にもいろいろあり、言われる側も本気にしてない社交辞令もあれば、悪魔的に心を掴んだというものもある。お世辞に攻略されて大金を騙し取られることもあるだろうし、もしくはイエスマンだけ取り巻きに従えて御本人が愉快というのは腐敗に付きものである。ともかくわれわれは他者評価に関してかなり悪質な審査員であり、人間が政治的動物たる所以でもある。「事実でも名誉毀損」という論法があるからには、ブスはブスという公平な評価も人間は望んでいないのだろうし、自分を美化したい業病は人類普遍のものらしい。このところ著名人がゴシップに難癖をつける風景がよく見られるが、ナタリーの提灯記事が版図を広げ人々の心を蚕食していくのは構わないらしい。軽はずみな口吻は誰からも顰蹙を買うし、ブスにブスだと平気で言う人でも顔に火傷のある人を見たら黙り込むであろうから、何かしら思想的決断の問題でもあるし、言うと言わないとでは顔の火傷の意味合いが違ってくるというか、火傷の事実は明々白々でも、言葉を発してそこに焦点を合わせるのは、ひとびとが気付かないふりをしている火傷を抉り出すことであるし、世界認識を一変させるものである。たとえばかつて左翼のフェミニストは男性のハゲをことさらに嘲笑していたが、ハゲはハゲとしても、それをわざわざ言うことで古めかしい男性の威厳を崩壊させようとしたのであろう。暴言とはテロルであり、それを無血革命と礼賛することもできようが、言及されないことで尊厳が守られるのであれば、わざわざ口に出すのは万死に値するとも言える。物事を総花的に褒めておけば普通に生きていくのに無難ではあろうが、とはいえ、それに耐えられないのも人間であり、故意に耳目を集めるべく言葉という刃物を他人に向けることもある。見て見ぬふりをするのが良いか悪いかという判断であるから、思想的に紙一重のものであるし、そのようなタブーに触れるのは政治犯なのである。
正常人は他人の物を隠すという嫌がらせを頻繁に行うし、これが咎められることはほとんどないのである。
おそらく物を隠すのは窃盗とは別なのであろうし、視野の広い人間が視野の狭い人間に対して行う攻撃なのである。
誰かの物を隠すというのは、やはり相手の視野が狭いと実行しやすそうだし、視野の広さで優位に立つ人間が行うのだと思われる。
「見えている範囲が広い」という如何にも正常な人間がやるのだから、正常な行為と呼ぶしかないのである。
物を隠される人間はおそらく「見落とし」が多いのであろうし、だからそれへの象徴的な罰として物を隠されるのである。
正常人が異常者に対して行う行為であるから、魔女狩り的な正義はある。
卑怯というわかりづらい言葉があるが、悪事ではない狡猾さと考えると、せいぜいそう呼ぶしかない。
では、見落としが多い人間に対して、なぜその理由を告げずに物を隠すという嫌がらせをするのかということだが、理由を説明しないのも正常人の特徴だからであろう。
大人になれば「おまえは見落としが多すぎる」と面と向かって言われることもあるだろうが、学校社会でそれはない。
それに、批判したら治るわけでもない、というか、本人が治したがらないだろうから、黙って嫌がらせなのである。
だいたい視野が狭いとなぜ悪いのかわからないし、社会人が同僚から文句を言われることはあるとしても、学校のクラスメートが批難するべき話ではない。
見落としが多いとしても、やはり学校社会だと純粋なコミュニケーションのズレであるし、職場でミスをするのとは話が違うから、改善を求めることもなく、嫌がらせで対応することになるのだと思われる。
招待されるのを待っているか、自ら主導権を握るべく招待する側に回るにせよ、この世は招待制である。社交辞令で招待して本当にやってきて困惑ということもあろうし、あるいは仲間に入れないタイプの人を温情で誘ってあげることもある。だから基準は曖昧であるし、スカル・アンド・ボーンズの入会資格のようなものではないが、やはり人間関係の基本は招待制である。自分から押し掛ける厚かましさも、昔ならそこそこ受容されていたはずだが、最近は人間関係の距離感に神経質であるし、かなり疎まれるようである。招待についてはずいぶん空気を読まなければならない。そもそも人間と人間はそんなに親しくないし、たとえば医者の集まりがあるとして、いかにもハイソに見えるとしても、もし仮に医学部を不合格になっていれば、その場にいなかったわけであるから、決して無垢な感情で友誼を結んでいるわけではなく、社会的で排他的な紐帯である。付き合う相手を選ばないと、おかしな人間に主導権を握られたり、経歴詐称の片棒を担いでしまうこともある。このような招待制を差別的だという向きもあるだろうし、そもそも差別とはなんぞやという話だが、とりあえず、人間個人そのものを見て判断すれば差別ではないというのが、今のところの考えらしい。これは自由主義社会での暫定的な結論であろうし、思想潮流の問題だから、未来にどうなるかはわからない。現状だと有村悠さんはあちこちで拒まれているが、出自で差別しているのではないし、ひとりの個人として明々白々たるドクズであるから避けて当然というロジックで済んでいる。だからこそエリート東大生は有村悠さんを容赦なく攻撃できたのだ。だが、世代が変わると差別問題となることも多いので、万が一有村悠さんが結婚して子供ができて、その子どもが殴る蹴るの暴行に耐えて生き延びたなら、差別利権で東大卒になれたりするかもしれない。あるいは差別として蒸し返されるには半世紀くらい必要な気もするので、その有村悠さんの子どもがさらに子どもを持って、たまたま家庭内暴力を生き延びたなら、育ちの悪いお爺さんが東大で差別され不登校になったとして、利権を貪るかもしれない。ともかく世の中は招待制であり、有村悠さんがどこに行っても乞食扱いされて締め出されるのは当然とされているが、この生々しいドクズが世の中から消えて抽象的な記号となったら、思想的な事案として名誉東大卒になったりするかもしれないわけだ。今だとまだ「家庭環境のせいにするな」と有村悠さんに説教できるし、根っからのドクズだと筆誅を加えるのが当たり前だが、いずれ時代が変化すれば、手足がない人間に車椅子を与えなかったという類の話になるかもしれないし、東大を首席で卒業する人が「かつて有村悠さんを差別して申し訳ありませんでした」と言わされるかもしれないし、クソみたいな名誉回復が行われるかもしれないのである。だが、今のところは自由主義で自己責任の社会であるから、有村悠さんのようなドクズの罪科を糺し、いろんなひとが門扉を閉ざすとしても、まったく悪いことではない。「なんでも他人のせいにする社会」になったら有村悠さんを必ず招待して大歓迎せねばならないが、今のところは自己責任社会なので、この手の人間へのバリアフリーを確保する必要もなく、招かざる客を拒否する自由主義を最大限に行使しなければならない。
2018.04.09

耳で演奏する

わたしは音楽教育などまったく受けてないのだが、それがゆえに耳の問題が気になる。エレキギターを弾いていて、とりあえず運指が追いつかないことはあまりないが、耳が追いつかないのは普通である。もちろんTAB譜というものもあるから、それを見ながら弾けばいいのだが、しっくりこないことも多々ある。そもそもTAB譜で完全に再現出来てないこともよくあるから、そのとおりに弾けば正解というわけでもない。印象的なフレーズであれば聞き取りに問題はないし、わたしは運指は苦にしてないのでだいたいすぐに弾けるのだが、そういう明確なメロディーがあるとは限らないわけで、スケール音を鳴らしているようなアドリブ感があると耳が追いつかない。ここで再三「耳」と書いているのは当然ながら聴力ではなく、音楽を聴き取る能力のことなのだが、幼少期から訓練されていると理解が早いのであろうし、また教則本を書くのはそういう人だから、耳が追いつかないという問題は看過されている。

厳密には一秒前でも完全な過去であり、われわれはあくまで短期記憶で幅のある現在を体験している。五分の音楽を聴くとして、その音は絶え間なく過去に葬り去られているのだが、そうやって薨じた音色も脳の短期記憶で保持しているので、五分間通して聴いたということになる。短期記憶でつないで現在進行型として体験しているから音楽はあるわけだ。この手の記憶力に関してだが、やはり理解力の問題もあろうし、ソーシャルスキルに長けていても、難しい話はチンプンカンプンということもあるだろう。音楽の理解は難易度が高いので、短期記憶よりは音楽の理解力の方が重要であろう。

たとえばピアノ曲を聴くとして、ほとんどの人は主旋律を理解できる。だが、演奏者は主旋律の音だけ鳴らしているわけではなく、むしろそれ以外の音がたくさん鳴っているわけだが、これを本当の意味で聴き取るなら音楽教育が必須であろう。ピアノを弾けない人がピアノ曲を聴いて、理解できなくてもなんとなく凄いのがわかるということはあるし、感動できることも普通にあるのだが、これを自分で弾くとなると、また別の話である。

小さい頃に音楽教育を受けていないギターヒーローなんぞたくさんいるから、耳のよさという感性の問題もあるのだろう。ピアノは右手と左手でまったく違うのを弾いたりするから難度が高いが、ギターの運指はそれより単純なので、適性があれば後天的にマスターするのも難しくない。音楽理論を学べという話もあるだろうが、やはり根本的な耳のよさが肝心なのだろうと思う。
巣鴨プリズンに入った戦犯が規則正しい読書生活を送ることで、衰えるどころかむしろ自らを深めて戻ってきた事例も少なくない。刑務所だとまた違うのかもしれないが、拘置所というのは道元禅師が推奨している生活態度と似通っているようにも思える。たとえば有村悠さんなどは、東大を不登校になってから、それこそ臨済宗の型破りな禅僧のようにして、あちこちに難癖をつけていたわけである。大好きな東大から徒歩五分のところに住みながら、おうちから出られなくなったのだから、あたかも囚徒であるかのようにも見えるが、坐禅のようにきちんと坐っていたわけではない。おもちゃを買ってもらえなかった子供のように床でゴロゴロしていたのである。坐るのとゴロゴロするのは対極であり、坐るというのはそれなりに背筋を伸ばし明晰な意識を持っているのである。有村悠さんが小学校低学年の頃は授業中に多動しながら歩き回って女子をなぐったり、椅子に座るとなると教師に殴られていたようだが、やはり背筋がきちんとしてないと座ったことにはならない。座っているのに座っていないという謎掛けだが、やはりきちんと座ってこそ本当に座ったと言える。椅子の上に軟体動物が蠢いている風情では、本当に座ったとは言えない。拘置所で読書が捗るのは誘惑が少ないという理由が大きいだろうが、読書をするために拘置所に入るわけにもいかないし、これはつまり「気が散る」のを別の方法でなくさなければならない。あちこちに散乱している好奇心の対象はそれなりの重力を持っていてわれわれの煩悩を引き寄せようとするが、その誘蛾灯のような綺羅びやかさに惑わされない無我の境地があるかどうかである。道元禅師は公案を軽視していると言っても過言ではない。もちろん露骨に軽んじているわけではないし、批判しているわけでもないし、丁重に扱ってはいるが、まったく重視してないのである。臨済宗がいわゆる禅問答で極論を吹っ掛けていくものであるとすれば、道元禅師(曹洞宗)は只管打坐を説く。ただ単に坐るだけである。道元禅師は当時としては屈指の権力者であった源通親の六男とされる。母親は木曾義仲が源平合戦で敗北したときの女だったとされる。この母親は藤原基房の娘なので、おそらく慈円や九条兼実と血縁関係もあるはず。ともかく道元禅師はかなり有名所の血筋なのではあるが、幼少期に父親の源通親が死去したこともあり、出家の道を選んでいる。道元が変わり者であるというエピソードは皆無であるし、無法者が自己克服したわけではないから、育ちの問題もあるだろう。だが育ちがよくてきちんとしていて、それだけという人が大半である。道元禅師が突出した偉人である所以は、まだわたしの理解では足りないが、きちんとしてるほうが諸法実相を理解できるという賢者の直感に思える。変わり者としてあちこちに激突していくことで得られるものもあろうが、所作をきちんとすることによって人間理解が深まることもある。つまるところ、くだらない誘惑を断ち切るのにどうすればいいかということだが、背筋を伸ばしてきちんと坐るという方法があり、これは型に嵌まるというよりは、物事を見極めて俗世間を睥睨することなのである。
たとえばボケ老人が「あれが必要」と言ったとして、たいていは意味不明であるはずだ。ボケ老人には見当識がないので「あれ」として指し示す前提の世界を他人と共有してないからである。これがしっかりした人間同士であれば「あれが必要」で話が通じることが多いであろう。見当識を共有しているので、だいたいわかるわけである。物事をいちいち説明しないのも同様であり、見当識によって同じ世界を見てるから、説明は省いてもいいのである。ひとつの言葉で多数の人が同じ表象を浮かべるのでなければならない。細部まで逐一言葉にするとむしろ現象の輪郭をなぞれないこともあり、書き損じの片言隻句に引き摺られて現実が歪む。見当識とはなんぞやといえば、とりあえず地球人類が共通に持っている規格なのであろうし、宇宙人とはまったく異なるだろうから、宇宙のすべてで通用する真理ではないのだが、人間的真実としては確実にあるのである。その見当識がしっかりしている状態で「あれ」と言えばわかるし、もしくは「あれ」と言う必要さえないのだが、ボケ老人とか若年性痴呆とか発達障害者だとそれが不充分である。見当識を持つためには周囲の状況をよく見ている必要がある。ボケ老人とは対極の高い知能の持ち主が宇宙人と呼ばれることもある。そもそもなぜ四六時中他人を観察せねばならんのだという疑問もあるだろうし、そういう世渡り能力が疎んじられていた時代もあるが、第三次産業では周囲への視野の広さが必須であり、そこに重点が置かれるのは致し方あるまい。だいたい内面世界なる小宇宙は現実の残滓であり、この残飯は腐臭を放つ前に焼いて根絶やしにしなければならない。これをゴミ屋敷のように溜め込んでしまうのは、やはり地球世界の見当識が足りてないのだし、自閉圏を苗床として繁茂する厭わしい世界は結局のところ狭い視野で都合のいい現実を見た妄想なのだから、頭の中でバロンドールに輝いたりするよりは、自らの肉体周辺の状況を察するべきだろう。
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